2024年09月15日
リスク社会論からトップダウンで作家の執筆脳を考える−中島敦の「山月記」を交えて3
世界のリスク社会は、ことばと現実との乖離の一例にもなる。世界のリスク社会は、テロと戦争、経済的グローバル化と新自由主義、国家と主権という概念で説明される。そこでは、危険の次元が三つに区別できる。エコロジカルな危機、世界的な金融危機、同時多発テロ以降の国境を越えたテロネットワークの危険性である。
そのため、リスクの考察は、決定を前提とし、文明上の決定の予見できない結果を予見可能、制御可能なものにする試みといえる。しかし、ベック(2003)の解説にもあるように、リスク社会と並んで個人化が進んだために、マクロとミクロをつなぐメゾの部分がなくなり、世界中で調節が難しくなっている。ベックは近代化を二分している。第一は通常の産業化のことであり、第二は第一の近代化を反省する近代化のことである。この第二の近代化こそがリスク社会である。
この第一の近代から第二の近代へ転換して行く反省的近代化は、彼の歴史と社会の認識の重要な接点を示している。つまり、現代社会がどこから来て現在どこにあり、これからどこへ行こうとしているのかという根源的な問題意識に基づいて、そこから現代社会の歴史的位相とは何か、その価値体系は何かという問いを立てている。第二の近代は、未来志向的な時代の診断学である。
ベックのリスク社会論は、@産業社会で制御可能であったリスクが、制御不可能なものに変わり、Aそれが国民国家の枠組み、一国社会に留まらず、世界規模で広がり、Bその結果、世界の市民がリスクを被り、C科学、技術、経済というリスクを生み出す決定者は国家であり、D世界市民からの抵抗運動が下から換気されるというものである。
花村嘉英(2005)「リスク社会論からトップダウンで作家の執筆脳を考える−中島敦の「山月記」を交えて」より
そのため、リスクの考察は、決定を前提とし、文明上の決定の予見できない結果を予見可能、制御可能なものにする試みといえる。しかし、ベック(2003)の解説にもあるように、リスク社会と並んで個人化が進んだために、マクロとミクロをつなぐメゾの部分がなくなり、世界中で調節が難しくなっている。ベックは近代化を二分している。第一は通常の産業化のことであり、第二は第一の近代化を反省する近代化のことである。この第二の近代化こそがリスク社会である。
この第一の近代から第二の近代へ転換して行く反省的近代化は、彼の歴史と社会の認識の重要な接点を示している。つまり、現代社会がどこから来て現在どこにあり、これからどこへ行こうとしているのかという根源的な問題意識に基づいて、そこから現代社会の歴史的位相とは何か、その価値体系は何かという問いを立てている。第二の近代は、未来志向的な時代の診断学である。
ベックのリスク社会論は、@産業社会で制御可能であったリスクが、制御不可能なものに変わり、Aそれが国民国家の枠組み、一国社会に留まらず、世界規模で広がり、Bその結果、世界の市民がリスクを被り、C科学、技術、経済というリスクを生み出す決定者は国家であり、D世界市民からの抵抗運動が下から換気されるというものである。
花村嘉英(2005)「リスク社会論からトップダウンで作家の執筆脳を考える−中島敦の「山月記」を交えて」より
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