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2024年09月17日
島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から5
「千曲川のスケッチ」の原案を作成しながら、文章や散文の中で、例えば、雲について画家の写生と同じようなスタディに取り組んだ。そのため、全体的に当時の現実をリアルに伝える文体になっており、読者に信頼される友人となるような本である。そのため、自然主義のメンバーであり、想像力を重視した国木田独歩の「武蔵野」(1898)に比べて、「千曲川のスケッチ」は、より近代的といわれている。
「千曲川のスケッチ」の奥書に説明がある言文一致について一言述べる。明治の新しい文学と言文一致の試みは、流れを見ると強いつながりがある。当時の文学関係者の多くがイギリス文学を目指していたころ、森鴎外は、留学先のドイツから19世紀なるものを感じ取り帰国したため、言文一致で見ると、採用するのに躊躇いがあり、歴史小説に見る転換期を待って口語体を採用した。一方、イギリス留学を経験している夏目漱石は、言文一致にあまり抵抗を感じなかった。
文学の根底に横たわる基礎工事は、島崎藤村に言わせると、徳川時代の徘徊や浄瑠璃の作者が平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を放ったこと、国語学者が万葉集や古事記などから古い言葉の世界を今一度明るくしたことが挙げられる。そのため、藤村がスケッチを作る傍ら、口語体による言文一致の研究に向かった理由は、長い年月を経て熟慮した結果といえる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
「千曲川のスケッチ」の奥書に説明がある言文一致について一言述べる。明治の新しい文学と言文一致の試みは、流れを見ると強いつながりがある。当時の文学関係者の多くがイギリス文学を目指していたころ、森鴎外は、留学先のドイツから19世紀なるものを感じ取り帰国したため、言文一致で見ると、採用するのに躊躇いがあり、歴史小説に見る転換期を待って口語体を採用した。一方、イギリス留学を経験している夏目漱石は、言文一致にあまり抵抗を感じなかった。
文学の根底に横たわる基礎工事は、島崎藤村に言わせると、徳川時代の徘徊や浄瑠璃の作者が平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を放ったこと、国語学者が万葉集や古事記などから古い言葉の世界を今一度明るくしたことが挙げられる。そのため、藤村がスケッチを作る傍ら、口語体による言文一致の研究に向かった理由は、長い年月を経て熟慮した結果といえる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
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島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から4
3 言文一致の研究−文体の確立を目指して
島崎藤村は、長野県木曽郡山口に生まれ、学問を東京の明治学院で修めた後、詩人、小説家として活躍した自然主義を代表する作家である。小説に先んじて詩集「若菜集」(1897)などを発表し、1899年(M32)4月に赴任した信州・小諸での研究成果として写生文「千曲川のスケッチ」を書いた。因みに藤村は、木曽川の畔で生まれたため、川に寄せる詩も多い。
平野(2004)によると、「千曲川のスケッチ」は、吉村樹に語りかける形式で書かれ、赴任してからの一年で小諸の自然を季節と共に観察し写生した。その間に詩から散文へ創作の対象を動かして自身の文体を確立する。無論、藤村の文体は、何度も修正を繰り返し整理されたものであり、一枚の絵を説明するように口語文で読者の五感に語りかける。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
島崎藤村は、長野県木曽郡山口に生まれ、学問を東京の明治学院で修めた後、詩人、小説家として活躍した自然主義を代表する作家である。小説に先んじて詩集「若菜集」(1897)などを発表し、1899年(M32)4月に赴任した信州・小諸での研究成果として写生文「千曲川のスケッチ」を書いた。因みに藤村は、木曽川の畔で生まれたため、川に寄せる詩も多い。
平野(2004)によると、「千曲川のスケッチ」は、吉村樹に語りかける形式で書かれ、赴任してからの一年で小諸の自然を季節と共に観察し写生した。その間に詩から散文へ創作の対象を動かして自身の文体を確立する。無論、藤村の文体は、何度も修正を繰り返し整理されたものであり、一枚の絵を説明するように口語文で読者の五感に語りかける。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から3
例えば、「おくめ」という架空の女が河を泳いで恋人のもとに通う心情を詠い、積極的で能動的に男を愛し、心身ともに恋の炎に焦がされる激しい女の情熱が形象化されている。こうした境遇が藤村の同情をかい、苦渋の時代を経験した作者が他人事ならぬと共感した理由である。男性の立場では雑念が入り混じり解決が難しかった。
流離漂白は、現実から一歩引いて静かにものを眺めることで八方塞がりの境遇からの救済を目指している。現実を棄てて風雅の道を極めた先駆者らに追従する決意が窺える。芸術家島崎藤村の誕生であり、確立であった。そして苦渋の冬を越え、春の訪れ、生の曙が熱い思いを持って待たれた。
「若菜集」の後も詩を書き続ける。叙情を好む藤村は、生の戦いや労働の讃歌を詩作する。しかし、厳格な規則がある雅語や単調な韻律で長編を歌うことに無理があるときには、緊張したアイディアの対立を描くのが難しいと感じるようになる。
しかし、叙情詩では扱いきれない広くて大きな人生のテーマを処理するために、藤村は、写生によるスタディを通して小説を書いていく。1899年(M32)、信州の私塾小諸義塾に教師として赴任する。山室(1983)によれば、生活や思想に行き詰まると旅に出て転機をはかり、都会の煩わしさを避けて生活を新鮮にし、生命を新たにしようと考えた。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
流離漂白は、現実から一歩引いて静かにものを眺めることで八方塞がりの境遇からの救済を目指している。現実を棄てて風雅の道を極めた先駆者らに追従する決意が窺える。芸術家島崎藤村の誕生であり、確立であった。そして苦渋の冬を越え、春の訪れ、生の曙が熱い思いを持って待たれた。
「若菜集」の後も詩を書き続ける。叙情を好む藤村は、生の戦いや労働の讃歌を詩作する。しかし、厳格な規則がある雅語や単調な韻律で長編を歌うことに無理があるときには、緊張したアイディアの対立を描くのが難しいと感じるようになる。
しかし、叙情詩では扱いきれない広くて大きな人生のテーマを処理するために、藤村は、写生によるスタディを通して小説を書いていく。1899年(M32)、信州の私塾小諸義塾に教師として赴任する。山室(1983)によれば、生活や思想に行き詰まると旅に出て転機をはかり、都会の煩わしさを避けて生活を新鮮にし、生命を新たにしようと考えた。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から2
2 詩から散文へ
先行詩集「若菜集」が1887年(M30)8月に出版された。仙台に移った前年9月から半年ほどの間に作られている。「若菜集」を貫く島崎藤村(1874−1943)の思いを、「藤村詩集」の中では、恋愛賛美による生の曙を待つ思いと満たされぬゆえの歎きと流離漂白としている。こうした思いをバランスよく両立させながら、熱い情熱を苦い経験とともに誇りを持って守り続けた。
七五の韻律を踏み、流麗典雅な詩にまとめ、女性に身を変えて歌ってもいる。山室(1983)は、その理由を次のように解説している。異性への関心は勿論であり、当時の女性が厳しい家長制度で管理され、自由はなく受身の生涯を送っていたため、心の扉を僅かに開くのは、恋愛の喜びのときとした。藤村文学の重要な主題として、「こひには親も捨てはてて、親にも背く」ことが挙げられる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
先行詩集「若菜集」が1887年(M30)8月に出版された。仙台に移った前年9月から半年ほどの間に作られている。「若菜集」を貫く島崎藤村(1874−1943)の思いを、「藤村詩集」の中では、恋愛賛美による生の曙を待つ思いと満たされぬゆえの歎きと流離漂白としている。こうした思いをバランスよく両立させながら、熱い情熱を苦い経験とともに誇りを持って守り続けた。
七五の韻律を踏み、流麗典雅な詩にまとめ、女性に身を変えて歌ってもいる。山室(1983)は、その理由を次のように解説している。異性への関心は勿論であり、当時の女性が厳しい家長制度で管理され、自由はなく受身の生涯を送っていたため、心の扉を僅かに開くのは、恋愛の喜びのときとした。藤村文学の重要な主題として、「こひには親も捨てはてて、親にも背く」ことが挙げられる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から1
1 先行研究
文学分析は、通常、読者による購読脳が問題になる。一方、シナジーのメタファーは、作家の執筆脳を研究するためのマクロに通じる分析方法である。基本のパターンは、まず縦が購読脳で横が執筆脳になるLのイメージを作り、次に、各場面をLに読みながらデータベースを作成し全体を組の集合体にする。そして最後に、双方の脳の活動をマージするために、脳内の信号のパスを探す、若しくは、脳のエリアの機能を探す。これがミクロとマクロの中間にあるメゾのデータとなり、狭義の意味でシナジーのメタファーが作られる。この段階では、副専攻を増やすことが重要である。
執筆脳は、作者が自身で書いているという事実及び作者がメインで伝えようと思っていることに対する定番の読み及びそれに対する共生の読みと定義する。そのため、この論文では、トーマス・マン(1875−1955)、魯迅(1881−1936)、森鴎外(1862−1922)の執筆脳に関する私の著作を先行研究にする。また、これらの著作の中では、それぞれの作家の執筆脳として文体を取り上げ、とりわけ問題解決の場面を分析の対象にしている。さらに、マクロの分析について地球規模とフォーマットのシフトを意識してナディン・ゴーディマ(1923−2014)を加えると、“The Late Bourgeois World”執筆時の脳の活動が意欲と組になることを先行研究に入れておく。
筆者の持ち場が言語学のため、購読脳の分析の際に、何かしらの言語分析を試みている。例えば、トーマス・マンには構文分析があり、魯迅にはことばの比較がある。そのため、全集の分析に拘る文学の研究者とは、分析のストーリーに違いがある。文学の研究者であれば、全集の中から一つだけシナジーのメタファーのために作品を選び、その理由を述べればよい。なお、Lのストーリーについては、人文と理系が交差するため、機械翻訳などで文体の違いを調節するトレーニングが推奨される。
メゾのデータを束ねて何やらリスクの予測が立てば、言語分析や翻訳そして検定に基づくミクロと医学も含めたリスクや観察の社会論からなるマクロとを合わせて、広義の意味でシナジーのメタファーが作られる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
文学分析は、通常、読者による購読脳が問題になる。一方、シナジーのメタファーは、作家の執筆脳を研究するためのマクロに通じる分析方法である。基本のパターンは、まず縦が購読脳で横が執筆脳になるLのイメージを作り、次に、各場面をLに読みながらデータベースを作成し全体を組の集合体にする。そして最後に、双方の脳の活動をマージするために、脳内の信号のパスを探す、若しくは、脳のエリアの機能を探す。これがミクロとマクロの中間にあるメゾのデータとなり、狭義の意味でシナジーのメタファーが作られる。この段階では、副専攻を増やすことが重要である。
執筆脳は、作者が自身で書いているという事実及び作者がメインで伝えようと思っていることに対する定番の読み及びそれに対する共生の読みと定義する。そのため、この論文では、トーマス・マン(1875−1955)、魯迅(1881−1936)、森鴎外(1862−1922)の執筆脳に関する私の著作を先行研究にする。また、これらの著作の中では、それぞれの作家の執筆脳として文体を取り上げ、とりわけ問題解決の場面を分析の対象にしている。さらに、マクロの分析について地球規模とフォーマットのシフトを意識してナディン・ゴーディマ(1923−2014)を加えると、“The Late Bourgeois World”執筆時の脳の活動が意欲と組になることを先行研究に入れておく。
筆者の持ち場が言語学のため、購読脳の分析の際に、何かしらの言語分析を試みている。例えば、トーマス・マンには構文分析があり、魯迅にはことばの比較がある。そのため、全集の分析に拘る文学の研究者とは、分析のストーリーに違いがある。文学の研究者であれば、全集の中から一つだけシナジーのメタファーのために作品を選び、その理由を述べればよい。なお、Lのストーリーについては、人文と理系が交差するため、機械翻訳などで文体の違いを調節するトレーニングが推奨される。
メゾのデータを束ねて何やらリスクの予測が立てば、言語分析や翻訳そして検定に基づくミクロと医学も含めたリスクや観察の社会論からなるマクロとを合わせて、広義の意味でシナジーのメタファーが作られる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
これまでに使用した教材
【武汉科技大学外语外事职业学院】
みんなの日本語1、2(大家的日语1、2学习辅导用书) 外語教学与研究出版社 2002
日本社团法人国际日本语普及协会 商务实战日语会话 大連理工大学出版部 2003
编写委员会编 日语会话技巧篇 外語教学与研究出版社 2003
刁鹂鹏編著 新商務日語基础教程 外语教学与研究出版社 2007
【集美大学】
山本哲也、陈岩、于敬河 汉译日精编教程 大连理工大学出版社 2002
王秀文/山鹿睛美編 实用日语写作教程 外语教学与研究出版社 2004
日语新闻视听教程 外语教学与研究出版社 2009
初级日语会话教程 北京理工大学出版社 2009
日语听力初级教程 南开大学出版社 2009
冯富荣, 杜英起编著 汉译日 多媒体教程 外语教学与研究出版社 2007
【天津外国语大学】
内田安伊子/紀子 構成・特徴・分野から学ぶ新聞の読解 スリーエーネットワーク2008
王秀文/山鹿睛美編 实用日语写作教程 外语教学与研究出版社 2004
【湖南科技学院】
日语综合教程第五册 上海外语教育出版社 2006
朱京伟 日语词汇学教程 外语教学与研究出版社 2005
【宁波大红鹰学院】
新编汉日日汉同声传译教程 外语教学与研究出版社出版 2011
大学日语写作教程 外语教学与研究出版社 2006
新编日语 上海外语教育出版社2009
编写委员会编 日语会话商务篇 2004
楊立国編 日本経済入門 大連理工大学出版社 2011
【盐城工学院】
日语视听说 上海外语教育出版社 2012
日本文学史(高等学校日语教材) 大连理工大学出版社 2012
大学日语写作教程 外语教学与研究出版社 2006
朱京伟 日语词汇学教程 外语教学与研究出版社 2005
新编日文报刊文章选读 南开大学出版社 2010
初级日语听力教程 大连理工大学出版社 2014
【大连交通大学】
奥村真希/釜淵優子著 职场日本语-邮件写作篇(しごとの日本語)上海译文出版社 2015
胡传乃编著 日语写作 北京大学出版社 2016
王霞总主编 初級日語会話教程 大連理工大学出版社 2016
王霞总主编 中級日語会話教程 大連理工大学出版社 2017
みんなの日本語1、2(大家的日语1、2学习辅导用书) 外語教学与研究出版社 2002
日本社团法人国际日本语普及协会 商务实战日语会话 大連理工大学出版部 2003
编写委员会编 日语会话技巧篇 外語教学与研究出版社 2003
刁鹂鹏編著 新商務日語基础教程 外语教学与研究出版社 2007
【集美大学】
山本哲也、陈岩、于敬河 汉译日精编教程 大连理工大学出版社 2002
王秀文/山鹿睛美編 实用日语写作教程 外语教学与研究出版社 2004
日语新闻视听教程 外语教学与研究出版社 2009
初级日语会话教程 北京理工大学出版社 2009
日语听力初级教程 南开大学出版社 2009
冯富荣, 杜英起编著 汉译日 多媒体教程 外语教学与研究出版社 2007
【天津外国语大学】
内田安伊子/紀子 構成・特徴・分野から学ぶ新聞の読解 スリーエーネットワーク2008
王秀文/山鹿睛美編 实用日语写作教程 外语教学与研究出版社 2004
【湖南科技学院】
日语综合教程第五册 上海外语教育出版社 2006
朱京伟 日语词汇学教程 外语教学与研究出版社 2005
【宁波大红鹰学院】
新编汉日日汉同声传译教程 外语教学与研究出版社出版 2011
大学日语写作教程 外语教学与研究出版社 2006
新编日语 上海外语教育出版社2009
编写委员会编 日语会话商务篇 2004
楊立国編 日本経済入門 大連理工大学出版社 2011
【盐城工学院】
日语视听说 上海外语教育出版社 2012
日本文学史(高等学校日语教材) 大连理工大学出版社 2012
大学日语写作教程 外语教学与研究出版社 2006
朱京伟 日语词汇学教程 外语教学与研究出版社 2005
新编日文报刊文章选读 南开大学出版社 2010
初级日语听力教程 大连理工大学出版社 2014
【大连交通大学】
奥村真希/釜淵優子著 职场日本语-邮件写作篇(しごとの日本語)上海译文出版社 2015
胡传乃编著 日语写作 北京大学出版社 2016
王霞总主编 初級日語会話教程 大連理工大学出版社 2016
王霞总主编 中級日語会話教程 大連理工大学出版社 2017
日本経済入門の講義13
D 内外から見た日本円の弱さ
国際的に比較しながら、日本の内外価格差と円の購買力の問題を見てみよう。内外価格差とは、国内と海外の価格の格差を表す指標で、実際には購買力平価を為替レートで÷ことにより求められる。購買力平価とは、日米間で考える、米国において1ドルで買えるものを日本で買うといくらになるかを表すものである。
例えば、為替レートが1ドル=110円であれば、新聞が日本では120円するのに、米国では80円だとすると、購買力平価より円高である。米国に比べて日本では新聞の値段が高く、日米間に内外価格差が存在している。国民生活に直接関連している消費財、サービスの内外価格差の存在は、国内における日本円の弱さを示している。
次に、中心的な債権国としての役割がある。豊富な工業化による経常収支の黒字を対外投資に振り分け、1980年代に入ると日本は米国に代わって世界最大の債権国になった。しかし、資本輸出は自国通貨円建てではなく、依然としてドル建てで行われた。そのため、資本循環の中心位置にあるのではなく、ある意味で、ただの資本供給国にすぎず、米国が中心的資本輸出国の役割を担っていた。
こうした構造は、日本円が国際通貨として使われる比率を下げた。世界貿易における円建て比率は、5%にすぎず、米国ドル、ユーロ、英国ポンドよりも低いと推定される。経済が持続的に低迷する中で、日本円は国際化の道は、さらに難しくなるようである。
7.2 国際貿易と中国人民元
これまで、ドル・円・ユーロなどの主要通貨で構成されていたIMF(国際通貨基金)が扱う仮想の通貨に、2016年10月1日から中国の人民元が正式に組み込まれた。通貨としての国際的な位置づけの高まりの象徴である。人民元の採用でIMFの仮想通貨にはさらなる多様性がもたらされ、グローバルな通貨や経済を一層反映することになるとIMF理事も述べている。
IMFの加盟国が資金を融通する際に通貨のような役割を果たすSDR(特別引き出し権)は、為替変動の影響を抑えるため、アメリカドル・日本円・イギリスのポンドとユーロの4つの通貨を混ぜるかたちで構成されていた。しかし、中国の主張に応じて、IMFは去年、中国の人民元が国際的な決済が可能な通貨としての条件をクリアすると判断し、5つ目の構成通貨への採用を決めていた。
人民元の構成比率は10.92%と、円を超えて、アメリカドル、ユーロに続く3番目の大きさで、国際的に使用でき、信用できる通貨としてのいわばお墨付きが与えられたかたちとなった。
【参考文献】
楊立国編 日本経済入門 大連理工大学出版社 2011
花村嘉英 日本経済入門の講義(宁波大红鹰学院)2015
国際的に比較しながら、日本の内外価格差と円の購買力の問題を見てみよう。内外価格差とは、国内と海外の価格の格差を表す指標で、実際には購買力平価を為替レートで÷ことにより求められる。購買力平価とは、日米間で考える、米国において1ドルで買えるものを日本で買うといくらになるかを表すものである。
例えば、為替レートが1ドル=110円であれば、新聞が日本では120円するのに、米国では80円だとすると、購買力平価より円高である。米国に比べて日本では新聞の値段が高く、日米間に内外価格差が存在している。国民生活に直接関連している消費財、サービスの内外価格差の存在は、国内における日本円の弱さを示している。
次に、中心的な債権国としての役割がある。豊富な工業化による経常収支の黒字を対外投資に振り分け、1980年代に入ると日本は米国に代わって世界最大の債権国になった。しかし、資本輸出は自国通貨円建てではなく、依然としてドル建てで行われた。そのため、資本循環の中心位置にあるのではなく、ある意味で、ただの資本供給国にすぎず、米国が中心的資本輸出国の役割を担っていた。
こうした構造は、日本円が国際通貨として使われる比率を下げた。世界貿易における円建て比率は、5%にすぎず、米国ドル、ユーロ、英国ポンドよりも低いと推定される。経済が持続的に低迷する中で、日本円は国際化の道は、さらに難しくなるようである。
7.2 国際貿易と中国人民元
これまで、ドル・円・ユーロなどの主要通貨で構成されていたIMF(国際通貨基金)が扱う仮想の通貨に、2016年10月1日から中国の人民元が正式に組み込まれた。通貨としての国際的な位置づけの高まりの象徴である。人民元の採用でIMFの仮想通貨にはさらなる多様性がもたらされ、グローバルな通貨や経済を一層反映することになるとIMF理事も述べている。
IMFの加盟国が資金を融通する際に通貨のような役割を果たすSDR(特別引き出し権)は、為替変動の影響を抑えるため、アメリカドル・日本円・イギリスのポンドとユーロの4つの通貨を混ぜるかたちで構成されていた。しかし、中国の主張に応じて、IMFは去年、中国の人民元が国際的な決済が可能な通貨としての条件をクリアすると判断し、5つ目の構成通貨への採用を決めていた。
人民元の構成比率は10.92%と、円を超えて、アメリカドル、ユーロに続く3番目の大きさで、国際的に使用でき、信用できる通貨としてのいわばお墨付きが与えられたかたちとなった。
【参考文献】
楊立国編 日本経済入門 大連理工大学出版社 2011
花村嘉英 日本経済入門の講義(宁波大红鹰学院)2015
日本経済入門の講義12
6 国際貿易
6.1 国際貿易と日本円
A 日本の貿易の構造
経済データによると、2006年の日本の輸出商品は、輸送用機器24.2%、電気機器21.4%、一般機器19.7%であり、これらだけで輸出の65.3%ものシェアを占めている。輸送用機器の中で自動車の輸出が16.3%に達している。一方、輸入商品は、機械機器28.5%、鉱物性燃料27.7%、食料品8.5%となっており、これらは輸入全体の64.7%を占めている。
天然資源に乏しい日本が鉱物性燃料を多く輸入するのは従来からよく知られたことであるが、機械機器の輸入はそれを上回っている。これは、原材料を海外から輸入してそれらを加工し、工業製品などの最終財を生産して輸入するという加工貿易中心の貿易構造が大きく変化したことを意味している。
B FTAの増加の理由
自由貿易協定(FTA)は域内での関税などの貿易障壁を軽減することにより、域内での貿易を活性化させる効果、いわゆる貿易創造効果を持っている。また、域内では貿易取引の拡大により企業間の競争を促進し、市場構造をより競わせる効果、いわゆる競争促進効果を持っているためである。
C 国際通貨体制下での日本円の歩み
1872年(M4)、新貨条例を実施し、新しい通貨を円と決めた。1円=1ドルであった。1897年(M30)の貨幣法で正式に金本位制を採用した。1円=2ドルと対ドルで円の価値は半減した。1914年、第一次世界大戦がはじまると、各国は金の輸出を禁止した。日本は、1930年に金輸出解禁を断行したが、1931年に金輸出再禁止を実施した。第二次世界大戦直前、世界情勢が不安定だからである。
第二次世界大戦後、米国は、強力な経済、政治、軍事の下で国際通貨体制、いわゆるブレトンウッズ体制を構築した。これには二つの構成要素がある、第一は、金との交換性を持つ米国ドルを国際通貨にすることであり、第二には、各国通貨を米国ドルと固定することである。日本円に対しては、1円=360ドルの時代が始まった。
しかし、戦後、物不足を背景にして物価が急騰し、円が信用を失った。1946年2月に日本政府は、金融緊急措置を断行し、5円札以上の日銀券を強制的に金融機関に預けさせ、一人100円まで新円と取り換えて、残りは封鎖した。これにより、インフレが鎮静化し、1949年に1円=360ドルという為替レートが設定された。
花村嘉英(2017)「日本経済入門の講義」より
6.1 国際貿易と日本円
A 日本の貿易の構造
経済データによると、2006年の日本の輸出商品は、輸送用機器24.2%、電気機器21.4%、一般機器19.7%であり、これらだけで輸出の65.3%ものシェアを占めている。輸送用機器の中で自動車の輸出が16.3%に達している。一方、輸入商品は、機械機器28.5%、鉱物性燃料27.7%、食料品8.5%となっており、これらは輸入全体の64.7%を占めている。
天然資源に乏しい日本が鉱物性燃料を多く輸入するのは従来からよく知られたことであるが、機械機器の輸入はそれを上回っている。これは、原材料を海外から輸入してそれらを加工し、工業製品などの最終財を生産して輸入するという加工貿易中心の貿易構造が大きく変化したことを意味している。
B FTAの増加の理由
自由貿易協定(FTA)は域内での関税などの貿易障壁を軽減することにより、域内での貿易を活性化させる効果、いわゆる貿易創造効果を持っている。また、域内では貿易取引の拡大により企業間の競争を促進し、市場構造をより競わせる効果、いわゆる競争促進効果を持っているためである。
C 国際通貨体制下での日本円の歩み
1872年(M4)、新貨条例を実施し、新しい通貨を円と決めた。1円=1ドルであった。1897年(M30)の貨幣法で正式に金本位制を採用した。1円=2ドルと対ドルで円の価値は半減した。1914年、第一次世界大戦がはじまると、各国は金の輸出を禁止した。日本は、1930年に金輸出解禁を断行したが、1931年に金輸出再禁止を実施した。第二次世界大戦直前、世界情勢が不安定だからである。
第二次世界大戦後、米国は、強力な経済、政治、軍事の下で国際通貨体制、いわゆるブレトンウッズ体制を構築した。これには二つの構成要素がある、第一は、金との交換性を持つ米国ドルを国際通貨にすることであり、第二には、各国通貨を米国ドルと固定することである。日本円に対しては、1円=360ドルの時代が始まった。
しかし、戦後、物不足を背景にして物価が急騰し、円が信用を失った。1946年2月に日本政府は、金融緊急措置を断行し、5円札以上の日銀券を強制的に金融機関に預けさせ、一人100円まで新円と取り換えて、残りは封鎖した。これにより、インフレが鎮静化し、1949年に1円=360ドルという為替レートが設定された。
花村嘉英(2017)「日本経済入門の講義」より
日本経済入門の講義11
D 基幹産業の再編成
@ 自動車産業
この数年、世界的な自動車産業の再編成が積極的に展開されてきた。1998年から1999年にかけて、独フォルクスワーゲンの英ロールスロイス買収、独ダイムラーベンツと米クライスラーとの合併、さらに、米フォードの瑞典ボルボの買収などが有名である。
こうした中、日本の自動車メーカーも外資との提携を進める。1993年3月、日産自動車と仏ルノーが資本提携をし、1999年10月三菱自動車が瑞典ボルボとの株式持合に合意した。また、同年12月、富士の提携を結び、が米GMと資本提携や技術協力を結んだ。
この数年の自動車産業の国際的な再編成の動きは、どうして強まったのであろうか。第一は、自動車産業が成熟期を迎えているからである。例えば、日本の場合、自動車の一年間の需要は、約1000万台であるのに対して、最大生産能力が1500万台見込めるため、メーカーの数が多すぎるのである。
第二は、自動車市場のグローバル化への対応である。先進国市場での新規需要増があまり期待できないのに対して、中国やインド、ブラジルなどが経済的発展期を迎え、新しい市場として登場してきた。そこで、欧米のメーカーは日本のメーカーと資本提携をすることが大きな魅力になっている。
第三は、自動車メーカーの環境戦略上に再編する必要がある。地球温暖化の原因になる二酸化炭素の排出量には、日本の場合、自動車部門が2割近くを占めている。生き残り競争に勝つためには、低公害車、無公害車の開発は急務な課題であるが、巨額の研究費や優秀な技術陣が必要であり、合併や買収に踏み切る理由にもなっている。
A 石油産業
19907年代に入ってからの石油産業の国際的な再編成が進んだ背景には、石油産業を巡る構造変化があったからである。二度の石油ショックを経験した産油国により市場支配が終わり、原油価格の低位安定が予測される中で、徹底的な経営の合理化が図られない限り、生き残れないという状況ができた。自動車道用、需要に対する過剰供給の問題が再編成の引き金となった。
特定石油製品輸入暫定法(特石法)が1986年来、ガソリンの輸入を規制してきたが、1996年に廃止になり、割安のガソリンが入り、さらに、1998年から説府式スタンド規制がなくなり、石油元売り各社は、リストラや物流提携強化などの措置をとって対応した。
1994年からは、国内石油大手の統合が進んでいく。日石三菱とコスモ石油、ジャパンエナジーと昭和シェル石油、出光興産、エッソモービルの4大グループによる新たな競争時代を迎えることになった。
B 鉄鋼業
鉄鋼業界の再編成については、世界第一位の新日本製鉄の積極的な動きが目立った。2000年夏に世界第二位の韓国の浦項総合製鉄と技術提携したのに続き、2001年2月に、世界第五位の仏ユジノールと鉄鋼事業での包括提携に踏み切った。
一方、ライバルのNKKと川崎製鉄が、2001年4月、経営統合し、2002年9月に共同持株会社JFEグループを設立して、新日鉄に対抗した。これに対し、新日鉄は、住友金属、神戸製鋼と包括提携を結び、体制を整える動きをとった。
鉄鋼業界の再編成の理由は、大幅な生産過剰にある上、鉄鋼の最大の顧客である自動車業界が生産拠点の国際的展開と国境を超えた再編を加速しているため、自動車大手のグルーバルな調達の技術と、地域双方で対応できるかどうかが各社の生き残りの条件になってきているためである。
花村嘉英(2017)「日本経済入門の講義」より
@ 自動車産業
この数年、世界的な自動車産業の再編成が積極的に展開されてきた。1998年から1999年にかけて、独フォルクスワーゲンの英ロールスロイス買収、独ダイムラーベンツと米クライスラーとの合併、さらに、米フォードの瑞典ボルボの買収などが有名である。
こうした中、日本の自動車メーカーも外資との提携を進める。1993年3月、日産自動車と仏ルノーが資本提携をし、1999年10月三菱自動車が瑞典ボルボとの株式持合に合意した。また、同年12月、富士の提携を結び、が米GMと資本提携や技術協力を結んだ。
この数年の自動車産業の国際的な再編成の動きは、どうして強まったのであろうか。第一は、自動車産業が成熟期を迎えているからである。例えば、日本の場合、自動車の一年間の需要は、約1000万台であるのに対して、最大生産能力が1500万台見込めるため、メーカーの数が多すぎるのである。
第二は、自動車市場のグローバル化への対応である。先進国市場での新規需要増があまり期待できないのに対して、中国やインド、ブラジルなどが経済的発展期を迎え、新しい市場として登場してきた。そこで、欧米のメーカーは日本のメーカーと資本提携をすることが大きな魅力になっている。
第三は、自動車メーカーの環境戦略上に再編する必要がある。地球温暖化の原因になる二酸化炭素の排出量には、日本の場合、自動車部門が2割近くを占めている。生き残り競争に勝つためには、低公害車、無公害車の開発は急務な課題であるが、巨額の研究費や優秀な技術陣が必要であり、合併や買収に踏み切る理由にもなっている。
A 石油産業
19907年代に入ってからの石油産業の国際的な再編成が進んだ背景には、石油産業を巡る構造変化があったからである。二度の石油ショックを経験した産油国により市場支配が終わり、原油価格の低位安定が予測される中で、徹底的な経営の合理化が図られない限り、生き残れないという状況ができた。自動車道用、需要に対する過剰供給の問題が再編成の引き金となった。
特定石油製品輸入暫定法(特石法)が1986年来、ガソリンの輸入を規制してきたが、1996年に廃止になり、割安のガソリンが入り、さらに、1998年から説府式スタンド規制がなくなり、石油元売り各社は、リストラや物流提携強化などの措置をとって対応した。
1994年からは、国内石油大手の統合が進んでいく。日石三菱とコスモ石油、ジャパンエナジーと昭和シェル石油、出光興産、エッソモービルの4大グループによる新たな競争時代を迎えることになった。
B 鉄鋼業
鉄鋼業界の再編成については、世界第一位の新日本製鉄の積極的な動きが目立った。2000年夏に世界第二位の韓国の浦項総合製鉄と技術提携したのに続き、2001年2月に、世界第五位の仏ユジノールと鉄鋼事業での包括提携に踏み切った。
一方、ライバルのNKKと川崎製鉄が、2001年4月、経営統合し、2002年9月に共同持株会社JFEグループを設立して、新日鉄に対抗した。これに対し、新日鉄は、住友金属、神戸製鋼と包括提携を結び、体制を整える動きをとった。
鉄鋼業界の再編成の理由は、大幅な生産過剰にある上、鉄鋼の最大の顧客である自動車業界が生産拠点の国際的展開と国境を超えた再編を加速しているため、自動車大手のグルーバルな調達の技術と、地域双方で対応できるかどうかが各社の生き残りの条件になってきているためである。
花村嘉英(2017)「日本経済入門の講義」より
日本経済入門の講義10
B 日本の農業の構造上の特徴とその背景
基本的な指標である農業生産指数や耕地面積などの推移を次の表に示す。
2000年を100とすると、1960年が80であったから、40年間で25%の増加、年率だと平均0.56%ずつ増加している。しかし、耕地面積、農業就業人口、農家戸数ともに、1960年以来一貫して減少傾向にある。2003年の善光区平均の農家の所得は、1戸当たり771万円で、勤労世帯の630万円を上回っていたが、農業所得は14%にすぎず、年金や他の仕事による所得で成り立っている。また、農業就業者の高齢化が進み、労働力不足は、農業構造をじゃ期待かさせる恐れがあり、それを回避するためには、新規就農者を増やすための制作が必要である。
1961年に制定された農業基本法は、20世紀後半の日本の農業政策の理念と試作の基本的方向を示すものといってよい。1993年に成立されたWTO農業協定が日本の農業に大きな影響を与えた。
WTO農業協定は、三つの分野から成り立っている。輸入国の市場を開放する市場アクセス、輸出削減の補助金を求める輸入競争、貿易に影響する国際政策の削減を盛り込んだ国内助成である。日本の関心事は、コメの関税化による市場アクセスである。コメについては、関税化猶予となったが、その代償として、ミニマム・アクセス(最低輸入義務)の数量を加重することになった。
C 産業空洞化の原因とその影響
1985年のプラザ合意以降、急激な円高につれ、日本企業は次々と海外(特にアジア地域)に進出し、生産拠点を世界範囲に拡大させた。海外移転の理由としては、第一に人件費の安さ、第二に現地市場の開拓が挙げられる。
特に、製造業で海外移転が進めば、その裏返しの減少として、閉鎖に追い込まれる国内工場が増えるはずである。2001年の一年だけでも69社、124工場が閉鎖に追い込まれ、2002年に入ると、高区内工場の閉鎖、休止はさらに増えた。いわゆる産業の空洞化である。
工場閉鎖・休止の主な原因は3つある。第一は、事業統合や企業の合併・買収に伴う例が急増していることである。第二は、将来性のない事業からの撤退を決め、工場の閉鎖・休止でその数は47社にのぼる。第三は、顧客企業の海外生産拡大に対応して、国内から海外に工場を移す企業もある。電気や情報の製造拠点の移転が急速に進んでいる。
国内工場で閉鎖した企業の多くがアジア地域へ生産拠点を移しており、最近では大手メーカーがアジアでの生産拠点を再編する動きが始まった。主に、拠点集中化と分散化の動きがある。例えば、トヨタ自動車は、2004年からタイでピックアップトラックの生産量を念7万代から20万台へと約3倍に増やし、アジアやヨーロッパへの輸出起点にしている。タイには、ホンダ、米GM、独BMWなどが進出しているため、部品調達も便利なことから、トヨタはタイに集中したわけである。
花村嘉英(2017)「日本経済入門の講義」より
基本的な指標である農業生産指数や耕地面積などの推移を次の表に示す。
2000年を100とすると、1960年が80であったから、40年間で25%の増加、年率だと平均0.56%ずつ増加している。しかし、耕地面積、農業就業人口、農家戸数ともに、1960年以来一貫して減少傾向にある。2003年の善光区平均の農家の所得は、1戸当たり771万円で、勤労世帯の630万円を上回っていたが、農業所得は14%にすぎず、年金や他の仕事による所得で成り立っている。また、農業就業者の高齢化が進み、労働力不足は、農業構造をじゃ期待かさせる恐れがあり、それを回避するためには、新規就農者を増やすための制作が必要である。
1961年に制定された農業基本法は、20世紀後半の日本の農業政策の理念と試作の基本的方向を示すものといってよい。1993年に成立されたWTO農業協定が日本の農業に大きな影響を与えた。
WTO農業協定は、三つの分野から成り立っている。輸入国の市場を開放する市場アクセス、輸出削減の補助金を求める輸入競争、貿易に影響する国際政策の削減を盛り込んだ国内助成である。日本の関心事は、コメの関税化による市場アクセスである。コメについては、関税化猶予となったが、その代償として、ミニマム・アクセス(最低輸入義務)の数量を加重することになった。
C 産業空洞化の原因とその影響
1985年のプラザ合意以降、急激な円高につれ、日本企業は次々と海外(特にアジア地域)に進出し、生産拠点を世界範囲に拡大させた。海外移転の理由としては、第一に人件費の安さ、第二に現地市場の開拓が挙げられる。
特に、製造業で海外移転が進めば、その裏返しの減少として、閉鎖に追い込まれる国内工場が増えるはずである。2001年の一年だけでも69社、124工場が閉鎖に追い込まれ、2002年に入ると、高区内工場の閉鎖、休止はさらに増えた。いわゆる産業の空洞化である。
工場閉鎖・休止の主な原因は3つある。第一は、事業統合や企業の合併・買収に伴う例が急増していることである。第二は、将来性のない事業からの撤退を決め、工場の閉鎖・休止でその数は47社にのぼる。第三は、顧客企業の海外生産拡大に対応して、国内から海外に工場を移す企業もある。電気や情報の製造拠点の移転が急速に進んでいる。
国内工場で閉鎖した企業の多くがアジア地域へ生産拠点を移しており、最近では大手メーカーがアジアでの生産拠点を再編する動きが始まった。主に、拠点集中化と分散化の動きがある。例えば、トヨタ自動車は、2004年からタイでピックアップトラックの生産量を念7万代から20万台へと約3倍に増やし、アジアやヨーロッパへの輸出起点にしている。タイには、ホンダ、米GM、独BMWなどが進出しているため、部品調達も便利なことから、トヨタはタイに集中したわけである。
花村嘉英(2017)「日本経済入門の講義」より