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2022年06月10日
国防費の増額競争の恐怖
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ロシアによるウクライナ侵攻で、西側の国々は国防費を上げようという流れになってきている。日本も、5月23日の日米首脳会談で、岸田総理が「防衛力を抜本的に強化し、防衛費の相当な増額を確保する」と伝えたと報道されている。
もちろん、国の安全は大事なことで、不測の事態に対しての対応能力は高いに越したことはない。しかし、防衛予算を上げるには、他の予算を減らすか、増税するか、国債を発行するかしなければならない。防衛予算を増やすなら、侵攻されるリスクは外交で押さえて、防衛費は国民の生活のために使って欲しいという声もある。悩ましいところである。
家計で例えると分かりやすい。もしもの時の保険やセキュリティーは厚くして、安心して暮らしたい。医療保険や損害保険、防犯カメラ、金庫などでガッチリ自分を守りたいし、できれば警備員だって雇いたい。しかしそのために、家具や家電、教育費とか自己啓発、娯楽交際費などを極限まで削るのは厳しい。ましてや借金してまで保険やセキュリティーを厚くするのは本末転倒。とはいえ、近々トラブルになる可能性が高いならば、借りてでも傷害保険や弁護士特約を検討するというのもアリかもしれない。こんなイメージだろうか。
もちろん、みんなが納得できる正解はないと思う。けれども、長期的には軍縮に持っていける道筋を模索することが大切だと考える。
今は、リスクが高まっているから、早急に国防力を高めなければいけないという声、とても理解できる。しかし、軍拡競争に突き進んで、軍事費以外の予算が削られる時期は短くなるように、理性ある世界の国々が協力すべきである。
ただ、歴史上は、第一次世界大戦終戦直後の、およそ100年前からすでに軍拡による国家予算圧迫の改善を図るため、軍縮が話し合われていた。しかし、戦争を防ぐには至らなかった。では、軍縮は無意味か、そこを、歴史と、現在の国際情勢を見ながら考えなければと思う。
第一次大戦後のワシントン海軍軍縮条約直前に日本の国会を通過した八八艦隊案は、当時の国家予算の1/3以上を艦船建造に使い、維持には別に費用がかかるというもので、大日本帝国の国力からしたら維持は無理だったと言われているようだ(ウィキペディアが情報源)。
実際にはこの計画は、軍縮条約によって実行できませんでしたが、それでも、比較的穏やかであった昭和元年〜5年を見ても、軍事予算は国家予算の27〜28%台。満州事変を起こした昭和6年以降はどんどん軍事費は上がりますが、軍縮条約が機能していた平時においても国家予算の1/4を超えるお金が国防に使われていた。
(昭和初期の軍事費ソース:しんぶん赤旗2008年4月26日: https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-26/2008042612_01faq_0.html )
ちなみに、今(令和2〜3年)の防衛費は、およそ5兆5千億円。コロナなどによる補正予算が上積みされる前の時点で105兆円ほど。5%強になる。米国などからは、GDP比2%が求められているとのことで、現状は1%、つまり倍増なので、国家予算の1割を超えてくる。増税や国債発行で国家予算が変わればその限りではないですが。
さて戦後。日本は憲法9条とか、第二次大戦の敗戦国の立場から、まともな軍隊を持つことが許されなかった。しかし、情勢が違っていたらどうだっただろう。大日本帝国の国体が保持されて、軍隊が解散されなかったとしたら。
20世紀後半、資本主義と共産主義の対立において、北海道や千島列島や樺太が前線となって、そこに基地建設が進み、日本国民はビクビクしながら過ごすことになったと思われる。超大国ソ連に対する西側の最前線として、国力を越えた大規模な備えが求められたし必要だっただろう。
なぜこんなに国防にお金を使わなければならないか。それは、世界最強クラスの軍事大国と戦うことを想定しなければならないから。
日本の仮想敵国、日清戦争以降は、世界に名だたる強国ロシアでした。第一次世界大戦後は、陸軍はソ連、海軍は米国を仮想敵国として軍備増強に努めます。そして戦後、冷戦時代はもちろん超大国ソ連。現在はGDP世界第2位の経済大国中国と、軍事力においては世界2位という評価もあるロシアの両国が仮想敵国です。
つまり、世界最強クラスの実力を持たないと、国は守れないということです。
武力で威嚇して外交を優位に進めようとするのは、軍事大国です。戦力に自信がない国は、武力を背景にした外交はしてきません。だから、仮想敵国は、利害が対立し得る中での軍事大国になります。
日本は、開国以降、超大国と戦うことに備えようとしなければならなかった。強国が植民地を争奪していた時代ならその国際情勢に従うしかないかもしれません。
でもこれを、現代、未来まで肯定してしまえば、国力を無視した軍拡競争を招くだけです。
世界には経済規模が大きい国も小さい国もあります。どの国も、強力な軍隊を持つ国に対抗しなければという空気になれば、経済規模が小さい国の国民の生活は破綻します。日本だって、今後世界有数の経済規模を保ち続けられる保証はありません。経済規模で後塵を拝したら軍備に生活は圧迫され、経済大国は軍事費率を抑えられて福祉に回せる。国によって国民生活の格差が広がります。
幸いなことに日本は、冷戦時代共産圏との前線の地理的位置にあったにもかかわらず、国防費はGDP比1%程度でやり過ごすことができて、他の予算はあまり圧迫されずに済みました。現在も、世界3位のGDPと優れた技術力を持っているので、GDP比1%でも、かなりの実力を保持できています。
しかし、30年経済成長が鈍っている日本に対し、成長著しい国もあります。武力で自国の安全を守らなければならない、できなければ不平等な条約を押し付けられたり領土を失ったりする帝国主義の時代に逆戻りしたら、国家予算の3割、4割と国防費に使わなくてはいけなくなることでしょう。
そうしたら、福祉は?、技術を支える研究費は?。
そう考えると、日本が経済大国となれたこと、好運です。これから軍事大国を目指さなくても済むように、国際的に軍縮の流れを作っていけるように、世界中の国々が戦争放棄の考えを持てるように、友好条約の輪が広がればと思います。
向こう数年については、防衛費の増額が検討されるのも自然かもしれません。しかし、防衛費が増額されなくても済むような外交を、国際秩序の構築を目指さなければ、世界中で飢える人が激増してしまいます。もちろん、日本でも。
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2022年05月17日
共産党の侵略に対して自衛隊も用いて守るという姿勢、叩く側の的外れさ
■お名前.com
ロシアによるウクライナ侵攻で、日本も外国から攻撃されうるのではという緊張感がにわかに高まっている。
そんな中、日本共産党の志位委員長が、先月、「万が一、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めて、あらゆる手段を行使して国民の命と日本の主権を守り抜くというのが日本共産党の立場だ」と述べられました。
これに対して、自衛隊は憲法に違反していると今まで散々主張しておいて、何を言っているんだ、という批判の声が上がっています。しかし、国難に対して、今あるもの、今存在している制度を活用して最善を尽くすというのは、きわめて自然で、当たり前の判断ではないだろうか。
将来的、長期的展望と、短期的課題は区別しないと、話も始まらない。
日本共産党は、自衛隊は違憲とは言っているが、直ちに廃止解散すべきとは言っていない。自衛隊がなくても平和に日本が存続していけると、国民の多数の合意を得た上で、自衛隊を無くしていくと言っています。
もし、日本共産党が政権をとっていたら、自衛隊がなくても、日本が平和に存続していけるような政策、外交を行うことでしょう。
どの政党、政治団体も、綱領には目指すべき理想像、長期的目標が謳われるものです。しかし現実には、多くの政党は与党になることは難しいので、その理想像とは別の方向の政治で時代が進んで行くわけです。
共産党が目指していた政策、外交とは異なる方向で時代は進んでいる。その中で、ロシアや中国との緊張という問題が、差し迫った不安となっている。ならば、今ある状態、今作られている制度で対応するしかない。
「今侵略を受けたら自衛隊を活用して我が国を守る」ということと、「長期的には自衛隊がなくても平和に存続できる状態を作り、違憲である自衛隊はなくす」という目標、どこにも矛盾はないと思います。
色々な、多様な意見が出されて、その中で、選挙によって作られた議会で多数を獲得した政党の政策が採用されていきます。例えばある町議会で、観光業重視か、農業重視かという意見対立があったとして、結果的に農業重視政策がとられたとします。用水路の整備とか、品種改良の研究に予算が使われたとします。だけど、この予算案に反対したからって、農業重視を批判したからって、その恩恵を生かした政策を言うことは自然ですよね。
なぜならば、時間は進んでいて、環境も変わっている。だから最適解も変わる。
長期的目標は変わらないにしても、現状が変われば、今取るべき行動も変わる。実に普通ではないですか。
私が選挙権を得て四半世紀になります。共産党叩き、共産党いじめ、実に目に余る。
私は期待しています。今の自衛隊の実力と、共産党が言う自衛隊をなくしてもいいという気持ちになれる政策と外交に。
2022年05月09日
今更ながら、ロシアを非難。ウクライナ侵攻に関して。
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ロシアによるウクライナ侵攻から2か月半が過ぎた。
私としても、今更ではあるが、強くロシアを非難したい。
改めて戦争というのは恐ろしいものです。大勢の人々が死亡し、けが人も多数発生。生活基盤となっている家も、インフラも破壊され、衣食住に直ちに困ることになる上、治安や衛生も極度に悪化する。
武力による侵攻などしてはいけない。
ロシアにも言い分があるのは理解している。しかし、ロシアの言い分に耳を傾けてみても、ウクライナへの軍事行動は間違っていると言わざるを得ない。
ロシアの言い分というのは、国防上の問題である。事実上の反ロシア同盟である北大西洋条約機構(以下NATO)の拡大が続き、そして旧ソ連の一部でいわゆる東側の有力な国であったウクライナも西側に接近してNATO入りを希望するようになった。
また、歴史を見ると、ナポレオンのフランスやナチスドイツに攻撃され、国土の奥深くまで信仰された過去も、ロシアやソ連にはあり、国防に対して日本人が考える以上に神経質になること、反ロシア同盟の国土が近付いてくることに恐怖を覚えてしまうことも、不可解ではない。
ただ、そこは外交交渉を続けて解決を試みるべきだった。
事実上の反ロシア同盟であるNATOが、冷戦終了から30年以上経った現在もその性格を変えることなく、東欧や旧ソ連西部へと影響力を伸ばしていることは、大いに問題があると思う。ロシアに脅威を与えている。しかし、NATOの仮想敵国が変わっていなかったとしても、NATOの内ロシアを攻撃しそうな国はなかったし、ウクライナがNATOに加盟したとしても、ウクライナの側からロシアに攻撃拗ね可能性は、まず考えられなかった。
将来的には分からないが、少なくとも5年以内に攻撃される可能性などほぼゼロであり、他の手段を考える余裕がないほどに国防上切羽詰まっていたと解することはできない。であれば、武力ではなく、外交での解決を試みるべきだった。
また、NATOが勢力を伸ばしていてロシアの脅威になっているとしても、それはお互いさまで、ロシアが他国の脅威となっている部分もある。ロシアは経済規模に対して軍事費が大きい上、その軍事力は世界でも3本の指に入ると言われている。更に、核保有国である。
反ロシア同盟をやめてほしければ、他国の脅威にならないようにすべきである。脅威にならないようにするというのは、軍縮以外にも方法はあると思うけれど、仮にロシアが軍事力を大幅に削減したとして、NATOやウクライナがロシアに対して軍事侵攻したとは思えない。
次に、ウクライナの態度についてであるけれど、確かに旧ソ連の有力国がNATO入りを希望するほどに西側に接近しようとしたことはショックだと思う。だけど、それは、ロシアがウクライナに対して敵対的姿勢をとってきたからではないですか。紛争に介入して、ウクライナ領土の一部をロシアのものにしようとしてきたりしたからではないですか。
ロシアとウクライナの国力や軍事力の差は歴然。ウクライナにとっては、逼迫した脅威です。
世界第3位とも2位とも言われる軍事力を背景に他国に脅威を与え、自分はNATOの脅威を持ち出す、これは通らない。
では外交によって活路は開けたのか。
私は充分に可能性があったと思います。
ヨーロッパの国々とは、石油やガスの貿易で良好な関係を作り、地球環境問題で更にロシアのガスが必要とされていました。この貿易の繋がりや、共に地球環境に取り組んでいく姿勢を共有して、更に関係を深められたのではないでしょうか。少なくとも、ロシアの軍事力が低下したとして、EU各国から軍事的圧力を受けることになることはないでしょう。
というか、ロシアのGDPは、NATO加盟国30か国中6番目のカナダより低い。NATOに対抗する存在であろうとすることが無謀という他ありません。
軍事費を押さえて、EU各国をはじめとする他国との友好を深めて、経済発展を目指すべきではないでしょうか。ロシアに脅威を感じている国がなくなることを目指すべきではないでしょうか。
ウクライナについても、旧ソ連内でのパワーで、ナンバーワンのロシアとナンバーツーのウクライナですから、ロシアがちゃんと話をリードすれば、ウクライナが離れていくことはなかったはずなんですけれどね、残念なところです。
危険が差し迫っていないにもかかわらず、武力を持ってNATO拡大に抵抗しようとし、直接刃を向けた相手は、NATO加盟国ではなく、経済規模や軍事力で遥かに下のウクライナ。当初の下馬評では、10日と持たずに首都は落ちるのではないかと言われた国。
多くの人命を奪い、世界に多大な経済損失を出した、プーチン政権のロシアに、強い非難の意志を表明する。
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2022年04月22日
一票の格差よりも、議席の都市部集中を抑えて
2021年10月の衆議院議員選挙、一票の格差を巡る高裁判断が2月に次々と示されました。違憲状態、合憲、半々といったところか。最大2.08倍を最高裁はどう判断するのか。それは分かりませんが、私はこの一票の格差を限りなく1倍に近付けるべきという考えに強い疑問を抱いているのです。
一票の格差問題というのは、有権者数と議員定数の比が選挙区ごとに違ってしまうと、同じ一票でも重さが違ってしまうことになり、それを問題視するものです。
例えば47都道府県からそれぞれ10人を選挙で選んで、定数470人で国会をやろうとした場合を考えます。49回衆議院議員選挙の時のデータですが、東京都にはおよそ1149万人の有権者がいます。一方、有権者数が最も少ない県は鳥取県でおよそ47万人です。24倍以上もの開きがあります。それで同じ人数の議員を選出するとしましたら、東京都の1149万票と鳥取県の47万票は同じ重さになってしまいます。もし東京都民の票の重みが鳥取県の人の24分の1しかないとなれば、不平等だと感じる人が多いと思います。
もちろん現実にはそんなことは起こっておらず、先の衆院選では、鳥取県の小選挙区の定数は2に対し、東京都は25となっていて、平均すると票の重みの差はおよそ2倍に抑えられています。県内の各選挙区の最大では、2.08倍となりました。
2倍でもおかしいとか、少なくとも2倍をわずかでも超えるような格差は論外という声は多いと思います。しかし私は、一票の格差を大きくしてでも、都市部からも過疎地からもちゃんと代表が出る方がいいと思っています。
もし1票の格差を1に近付けようとすれば、鳥取県で議員がひとり選出される時、東京都からは24〜25人選出することになります。人口比から言ったらこれが平等かもしれませんが、人口が多くない県からしてみれば、これはこれで不公平に感じないでしょうか。
南関東の1都3県、東京、千葉、埼玉、神奈川だけでおよそ30%の議席を占めることになります。これでは、関東の主張、都市部の立場ばかりが優遇されて、人口が少ない地域の声は届かなくなるのではないかと不安を覚える方もいると思います。
都市部優遇の政治になれば、益々人口は都市に集中し、人口格差は広がる一方でしょう。都市部優遇の政治になるのかですが、都市部の票が力を持っているのですから、それは強く懸念されます。農業や林業など、広い土地に比較的少ない人出で行う産業が日本から駆逐されてしまうのでは、という恐怖も感じます。
何をもって平等とするのか。完全に一票の格差をなくして有権者数がダイレクトに議員数に結び付くなら、東京都だけで中国四国9県を上回る発言力を持つことになり、私には数の暴力にすら感じられてしまいます。
何をもって平等とするのか。
第一次産業が強い地域の声も尊重されるべきだし、過疎に悩む地域の声も届くようにすべきだし、発言力のすり合わせはあるべき。
今後都市と地方との格差を広げないためにも、地域活性化のためにも、人工的に発言力が弱くなる立場の地域のそれは、意図的に強めることが急務だと感じる。
人口密集地の圧倒的票により、都会人の、都会人による、都会人のための政治にしないために。
もし、自分の一票の価値が下がるのは嫌だという方がいたら、過疎地に移住したらいいと思います。国内であれば、転居は難しくありません。
例えれば、物価とか地価が高くて嫌だとか、電車の混雑が嫌いだとかと同じだと思います。地方に行けば、同じ賃貸料でずっと広い家に住めます。山手線や東西線のようなラッシュアワーも、ありませんとは言わないけれど、程度は段違いのはずです。
それと一票の格差を一緒にすることが適切なのか、ここは抵抗ある方も多いかと思います。
しかしこの問題、日本国憲法第14条、法の下の平等を一切侵していない。
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
人種、信条、性別、社会的身分、家柄(門地)には一切関係ない。一方住んでいる場所によって最低賃金や物価、利便性などが違うのはやむを得ない、というかむしろ普通なこと。人口過密地域と過疎地域の発言力の調整も、同じようにやむを得ない、どころかその方が平等のように思えます。
一票の価値が欲しいという方は、過疎地に住めばいい。これは、同じ家賃で広い家に住みたければというのと同じです。
何をもって平等とするのか。
どれぐらい都市部の発言力を調整すべきなのか。その重み付けは大きな問題です。
個人的には、かつて参院選で採用されていた、まず1つの都道府県に1議席を割り当て、残りを人口比で割り当てるというのはよかったと思っています。比例代表を除くと定数150人弱。この選挙での最大の一票の格差は4.77倍。このレベルは、地方活性化の調整として認められるべきだと考えます。だって、都市部では1つの県から4人とか議員を出しているのに、ひとりも出せない県がある方がおかしい。
例えばですが。今はどんどん国際化が進んでいます。地球環境とか宇宙開発とか、世界で話しないといけない話題もどんどん出てくるでしょう。その代表として、日本の10倍以上の議員を中国とインドが出してくる、アメリカ合衆国も日本の3倍、これ、納得できますか。同じ議員数とはいかなくても、ある程度補正されるべきでしょう。
農村地の権利を守ることは、国益にもつながりますし、世界にとってもいいはず。
そのためにも都市部の、人口による議会ジャックは避けなければならない。
そのための一票の重み調整は、必要と考えます。
2021年08月24日
平和ボケとは何でしょうか
8月15日、日本では終戦の日でした。世界的には9月みたいですけれど。
75年、実に4分の3世紀、日本は戦争をしていません。戦争放棄の憲法があるので、戦争できません。しかし、戦力不保持を主張し続ける人に対し、平和ボケしているという批判があります。つまりは、たまたま攻撃されなかった、巻き込まれなかったから、今後も平和が続くだろう、戦争を回避できるだろうという幻想を批判する言葉です。
武装しなくては、武力なくしてはまともな外交はできない、国益は守れない、そう主張する方からの批判です。
一理あります。軍事力において勝る国が劣る国を蹂躙してきた歴史があります。武力がなければ国民や国土を守ることも、対等に外交することもままならないと感じられるのは、自然なことかもしれません。
しかし、戦争放棄、戦力不保持で平和に暮らす思考が「平和ボケ」と言われてしまうことには大いに抵抗があります。
戦争で、暮らしはどうなるでしょうか。
住宅地も田畑も焼け野原になり、鉄道も道路も破壊される。電気も水道も止まってしまう。食べるものは深刻なまでに不足し、仮に生産できたとして運ぶこともままならない。衣類、衛生用品、あらゆるものがない中、衛生状態は劣悪になり、病人は急増。伝染病も蔓延するだろう。餓死なんて日常。
想像できますでしょうか。「ボケ」なんていう否定語は好きではありませんが、どちらかと言えばこれを想像できずに、戦争放棄に異を唱える方が、私には「平和ボケ」という言葉が当てはまるように感じられてしまいます。
第二次世界大戦時、上記のような地獄絵図は、日本はもちろん、ソ連、ヨーロッパ、中国のあちこちで見られたでしょう。
あの悲惨な光景が風化していっている。わが国がどうなっていくのか、怖い。
今こそ、いや、常に過去の戦争を思い起こして、戦力に頼った末路に目を向けるべきです。
まず、強い軍隊を持とうとすることが、戦争抑止力になったかどうか。国土や国民を守ることができたのかどうか。
第二次世界大戦が起きた1939年当時、日本は世界でも5本の指に入る、強大な軍事力を有していました。その強大な軍事力を背景に外交がうまく進められたかと言えば、そんなことはありませんでした。1939年は日中戦争中でしたけれど、中国が日本の軍事力に怯えて抵抗をやめることもなかったです。1941年には、本国が日本の同盟国ドイツに占領されたオランダ領東インド(蘭印)すら、日本の石油貿易要求を拒み戦争になりました。
つまり、強大な軍事力で戦争を防ぐことはできなかったのです。
強力な武力に戦争抑止力がないとはもちろん言いません。抑止力があるかないかといえば、あるという答えになるでしょう。
しかしながら、その怖さによる抑圧を越える力、大儀とか世論とか国際圧力が働いた場合、武力は深くそして荒れた泥沼を生み出してしまう。
次に、自衛のための戦争なら致し方なしという声もあります。
しかしながら、侵略戦争、領土拡大目的と言って戦争を始める人はいません。大東亜戦争も、日本は自存自衛のためと言って戦争に突き進みました。
仮に今、尖閣や竹島や北方領土で衝突が起こった場合、どちらも自衛と主張するでしょう。それが発端で多数の国が入り乱れる世界大戦になったとしても、集団的「自衛」を主張するでしょう。
その場合でも、戦争になったら、正義も理屈も関係なくなります。軍事的に強かったグループの言い分が通り、勝者が敗者を裁き、戦勝国の主張が100年語られていくのです。
逆に、武力こそが国を守る力であった例ですが、そちらの方が圧倒的に多くいくらでもあるのは事実です。20世紀初頭は、西欧列強に支配されていない地域などほとんどなくなってしまいましたし、それ以前の歴史も武力による栄枯盛衰の繰り返しと言っていいでしょう。
しかし時代は変わり、およそ200の国が世界各地に、他国の支配下ではなく独立して存在しています。その中には、紛争地域もありますし、他国の武力に怯えている国もあります。しかしながら、衝突の心配がほとんどない地域も多いです。国によって所有する武力の強弱には大きな格差があり、まともな近代的戦争遂行など望めない国も少なくありません。100年前の、大正時代の旧日本軍さえ凌げない国防力の国もたくさんありそうです。極端ではありますが、戦車を1両も所有していない軍隊や、戦闘機を1機も保有していない軍隊も、いくつかあるみたいです。
持てる武力の強弱に限らず、主権が脅かされない世界、この大切さを思い続けていかないといけないと思います。
もし武力による威嚇が外交手段として認められてしまうならば、世界中のおよそ200の国々はそれぞれ軍拡に必死にならなければならないでしょう。そしてどうなるか。
国民の生活や教育等に使われるお金は軍事費に回り、家庭の働き手は兵隊や軍事産業の労働者として徴収され、生活は極めて貧しいものになります。そしてその後更に、外国に支配され誇りも思想も奪われるかもしれません。
国防の在り方には様々な意見があり、憲法9条に対しても賛否あります。どの考えが間違っているとは言いません。
ただ、これだけは言いたい。戦争で貧しくなる生活、無残な被災状況、こうしたことを想像し痛みを感じようとする姿勢があるところに、「平和ボケ」という表現は当たらない。
2021年07月24日
日本共産党さん、党名変更は国民の利益を追求する手段、作戦のひとつでは。
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日本共産党が、創立99年を7月15日に迎えました。その日の会見で、志位委員長が、「99年間党名を変えずに活動してきたのは共産党だけ」、「政党が党名を変えるのは、国民に顔向けできない誤りを犯したときだ」などと発言されました。
残念に思います。党名を変えた政党に対する偏見が入っていないでしょうか。また、党名を変えなかったことで党勢拡大の機会を逸することもあるのではないでしょうか。
志位委員長が「共産党」の歴史と名前に誇りを持ち、大切にされているのは理解します。しかし、国民のためになる政策を実現するために最善策を選ぶことは、党の誇りよりも大切なことではないでしょうか。
残念ながら、共産という名称に拒絶感を持っている方々は多いです。それが間違った偏見に基づいたものであったとしても、党名を大衆に受け入れられる名前にすることで勢力を拡大できるならば、誇りは二の次に、大国や大企業の横暴に対抗する最善の戦術をとるべきです。
1990年代、いわゆる55年体制が終わりました。新しい政党ができては消え、合併したり分裂したり、政策調整が不十分なまま連立内閣が組まれたり、政局が安定しない時代になりました。
共産党は党利党略ではなく自力による政策論争に集中したことや、当時最大の政治課題だった政治改革と景気対策への姿勢から、共産党は選挙のたびに躍進しました。だけど、こんなもんだっただろうか。1991年にソ連が崩壊し、共産という言葉へのマイナスイメージは一気に増大した。もちろん、社会主義とか共産主義という言葉は、経済形態を示す言葉で、資本主義とか自由主義と対をなすもの。しかし、独裁、言論弾圧、思想統制というソ連の姿が、共産主義のイメージになってしまった。経済形態を表わす言葉が、政治体制まで示す言葉として定着してしまった。
社会党は、55年体制における二大政党の一翼であったし、労働者の声を政治に届ける役割を持つ党としてしっかり認知されていた。しかし共産党は社会党よりも極左として認識され、旧ソ連の政治を理想とする政党ではないかと不信感を持つ人が多く出たことは間違いない。にもかかわらず、ソ連が崩壊した1990年代、日本共産党が党勢を拡大できたことは驚きである。日本共産党の、ソ連共産党とはとっくの昔に決別しており、その政治は共産主義の名に値しないもので、崩壊は諸手を挙げて歓迎するという立場を宣伝した成果もあるだろうが、党勢拡大はの主因は、この時期の政治不信の大きさによるものだろう。
私は、日本共産党が共産党を名乗っていなかったら、1990年代の躍進はこんなものではなかったように思える。
21世紀に入り、日本共産党には更なる躍進が期待された。
非正規雇用の増加が特に若者を直撃し、フルタイムで働く意欲がある若者の貧困、ワーキングプアが社会問題になった。企業献金も政党助成金も受け取っていない共産党は切り込む。蟹工船ブームなんていう、極端な社会現象まで起きたあの時期、共産党は野党第一党を争う勢力となり得た。
しかし、退潮することとなった。北朝鮮による拉致問題による影響が大きい。北朝鮮が共産圏の国であるから、日本共産党は北朝鮮を擁護する立ち位置だと思い込まれたのであった。
もちろんこの思い込みは無茶苦茶である。そもそも拉致問題と共産主義は関係ない。それに日本共産党は、旧ソ連や北朝鮮の体制に対し厳しい姿勢をとっていて、国内では国民が主人公と掲げて民主主義の発展に尽力している。
偽装請負とか契約期間満了後わずかな間をおいての再契約、配置換えといった手段を駆使して、直接雇用を回避しようとする使用者。正社員以外は定職と認めない社会。この両者の板挟みの中で苦しむ非正規労働者のひとりとして、私にはたしかな野党共産党が最後の希望のように見えていました。
共産党が自らの誇りを投げうってでも大衆に抵抗感を感じさせない党名に改変されていたら、共産党の主張はもっともっと多くの有権者が選択していたに違いない。
共産党は、少なくともソ連崩壊直後から、ソ連の共産主義は日本共産党の目指す共産主義とは全く違うことを全力で告知していましたし、中国や北朝鮮の行動にも、批判すべきところは強い調子で非難をしていました。旧ソ連を中心とした共産圏一味ではないことを、しっかりと示していました。
しかし、90年代、00年代、あれだけ頑張ったのに結実しなかった。それなのにまだ、「99年間党名を変えずに活動してきたのは共産党だけ」、「政党が党名を変えるのは、国民に顔向けできない誤りを犯したときだ」と言っている。
先人が築き上げてきたものに縛られるより、先人により蓄えられた潜在能力を解き放つきっかけを得るひとつの手段として、100年を機会に党名変更を考えて欲しいものです。
00年代の退潮を思い出して欲しい。共産党の躍進を止めようと思えば簡単なんです。共産という言葉を、旧ソ連や北朝鮮と結び付けて負のイメージを持たせればいい。そんなビラが各戸に配布され、SNSで拡散されれば躍進できない。共産党には組織票があるから壊滅はしないですが、躍進はできない。事実、90年代浮動票を得て躍進を続けましたが、00年代は共産党が謀略ビラと呼んだ大量のビラ配布によって、組織票しか入らない状態に追い込まれてしまいました。
残念ながら、「共産」という言葉の正しい意味を定着させるのは大変難しい。それでもやらなければならないのかもしれませんが、ここはいったん国民の幸せのために折れて欲しい、共産という言葉の名誉回復は、50年後とかの課題としてもらいたい。
日本共産党が創立99年を迎えたその2021年7月15日、日本労働組合総連合会(連合)と立憲民主党、日本労働組合総連合会と国民民主党の間で政策協定が締結されました。この2つ内容は全く同じです。その中に「左右の全体主義を排し、主権者意識の涵養を軸とした健全な民主主義の再興を力強く推進する。」という文があるのですが、国民民主党代表の玉木氏が記者会見で、「『左右の全体主義』とは共産主義、共産党のことだと認識している」と述べたと報じられている。
もちろん共産党は権力から国民の生活を守ることに尽力していて、全体主義からは対極にある。共産主義の理解そのものが間違っており、お茶の間や井戸端会議で言うのがせいぜいなレベルの発言である。玉木氏は、党代表はおろか、政治家として活動する資質を疑われて仕方がない、この一言でそう断じざるを得ない。
しかし、有力政治家がこの発言をしても炎上すらしない。これが現状。
有力野党の代表をしてこの認識なのだから、政治にそこまで関心を払うゆとりがない一般庶民の中には、共産という言葉にはじめから拒絶反応を起こす人がたいへん多いと考えるべきだろう。
後出しでは何とでも言えるが、ソ連の共産主義と日本共産党の目指す方向は相容れないという事がはっきりした1970年頃から、当時ソ連を中心とする陣営の政治体制を示す言葉としてしか捉えられることがない共産という言葉に見切りをつけ、新たな言葉を見いだしていれば、平成まで共産アレルギーを引きずることはなかっただろう。
ソ連崩壊とか、北朝鮮問題などの悪印象を避けるための党名変更ということになれば、誤りを犯したイメージをごまかすための党名変更と受け取られてしまうかもしれない。しかし、ソ連を盟主とする体制から脱して自主独立するにあたっての党名変更であれば、好意的に受け入れられたのではないか。その後でも、資本主義の枠内での改革を目指し、社会主義はその後の未来に国民の合意を経てという姿勢を押し出すようになった時とか、全選挙区での候補者擁立から野党連合政権に向けた共闘へ舵を切った時とか、前向きに党名変更する機会はあったはずです。党名変更して党勢を拡大できていれば、90年代以降今日に至る国民世論の右傾化もある程度止められていたのではないかと思います。
今からでも遅すぎるということはない。今党名変更すれば、きっと10年後には共産アレルギーは半減し20年後には過去のものとなる。
1990年頃には連合旋風という言葉があったほどに、連合と社会党を中心とする野党連携に力があった。しかし今や連合に与党を脅かす集票力は期待できない。連合系組合が力を取り戻す日は訪れないであろう。非正規雇用が一般化して組合組織の弱体化が進んでいるのだから。
自公に緊張感を与えうる存在、その残された希望こそ改名日本共産党ではないか。論戦経験と組織力を備えた、強大な可能性を秘めたたしかな野党。
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2021年07月21日
韓国元徴用工の皆様が早く救われますように
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第二次世界大戦時に、当時日本領だった韓国から徴用した労働者、いわゆる徴用工からの損害賠償訴訟が、80年以上経過した現在も続いている。まだこれから提訴されるものもあるかもしれない。
これについて、一刻も早く当事者に和解してもらえるように、日韓両政府は更なる努力をすべきだろう。これ以上長引かせるべきではない。
日本と韓国の間には、言い分に隔たりが大きい。しかし、いちばん弱い立場で放置されてしまっているのは、賃金を払われないままになっている、徴用された元労働者たちです。日本の企業からも、韓国政府からも支払われないままもう80年。当事者たちは高齢で、時間的猶予はありません。せめて生きておられるうちに和解できたなら越したことはありません。当事者ではない遺族に交渉が引き継がれたら、より和解は難しくなるでしょう。
日本政府と韓国政府が、日韓請求権協定の解釈、国際法や時効をどう捉えるか、擦り合わせられないところにこじれている原因がある。どちらが悪いとは言いません。政府間でまとまらないから、元徴用工の方の声が拾われないのです。
政府間の問題です。私は、元徴用工を雇用した企業は責任を取ることはないと思います。
諸事情をどう解釈するか、それには両者隔たりがありますが、戦時中のことを現代の司法機関が判決を下すというのは無理があります。
まず、大日本帝国という国はもうありません。国際条約でしたら、革命などで国が変わっても、後を継いだ格好となる政府にも、前身となる国が結んだ条約は適用されます。しかし国内の民事訴訟で、何十年も前に消滅した国でのことを裁けるのかという点では疑問です。
戦時中は国家総力戦の名のもとにお国への奉仕が求められ、兵隊や軍事産業へ半ば強制的に従事させられることは合法とも考えられます。だから、元徴用工の方々の主張は、国家方針の元に徴用工を使った企業ではなく、戦争責任を引き継いだ政府が当たらなければならない。半強制労働を労働力として受け入れた企業には、戦争責任も、国家総動員への責任もないのである
そして、著しい社会的混乱や災害等で、いち企業の対応能力を超えた場合は、行政が対応するのが当然。次々と施設が爆撃され消失していった中、あるいは敗戦後日本領ではなくなった国交もできない地に住む人々に、いち企業が賃金を払えるわけはなかったのです。
だから、両国政府が、当事者と話をすべきなのです。民間人と民間企業との争いではなく、国が役割を果たすべきです。
私は日本人ですので、やはり、日本政府が積極的に働きかけて、和解できることを願いたい。日本政府が、日韓請求権協定により解決済みと主張することは、韓国政府相手になら意味があるかもしれません。しかし、日本がどんな約束を韓国政府としていようと、韓国に経済協力していようとも、補償されていない元徴用工の方からしたら、全く解決になっていない。
日本が経済協力を履行したことで、あとは韓国国内の問題という立場をとろうとしているのかもしれませんが、私はやはり、弱い立場にに置かれた元徴用工の方々は救われるべきだし、韓国国内に拠点を持つ日本企業がいらぬ緊張をしなくていいように、国として当事者とは、和解金の支払いも含めた解決に向けた努力をして、韓国政府に対しては、場合によっては問題がこじれた責任を追及してもいいと思う。韓国政府が悪いと言っているわけではなく、全ての責任と負担は国が負うべきで、自国の立場や相手国の責任を主張して、相手三国に求めるところは求めていくのは通常の外交です。
補償から漏れてしまった元徴用工の方々が、救われないまま余命が尽きてしまうということが一件でも少なくなるよう、願っています。
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2021年06月21日
日本国憲法筆頭章から、75年前と4年前を想う。
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ゴールデンウィーク、残念ながら今年もコロナでそういうムードではありませんでしたが、カレンダー上では大型連休も終わりました。政治に関心がある人にとっては、この昭和の日と憲法記念日を含む連休は、考えるところも多いのではないかと思います。
それで、今回は、日本国憲法の話。
と書き始めて、なかなか筆が進まず、1か月半。はぁ…。
生活面でバタバタしていたのもありますし、重い話題はやはりサクサク書くのが難しいということを思い知りました。
さて、気を取り直しまして、日本国憲法は、11の章、103条からなります。
11の章の先頭、第一章は、「天皇」です。第一章は、言い換えれば筆頭章であり、最も注目され、最も重く受け止められる位置。最高法規の筆頭章とは、即ち我が国の法体系、つまり秩序の一丁目一番地。
それが「天皇」であることに、ずっと疑問を感じていました。天皇と言えば、「日本国民統合の象徴」。象徴を定めることがそんなに大切なのか。
日本国憲法の特徴たる「戦争の放棄」とか、骨組みらしい「国民の権利及び義務」、あるいは国権の最高機関となる「国会」の章が筆頭章であった方がよほどしっくりくる。そう思っていたし、そう主張していました。
しかし、ここ1~2年、大日本帝国、つまり明治維新から太平洋戦争までのわが国に関心を持つようになり、「天皇」こそが筆頭章であるべきであるという実感が沸きました。
今でこそ当たり前になった国民主権、国民の投票によって選ばれた議員による国会での議決こそが我が国の最高の意志。民主主義の基幹です。しかし戦前はそうではなかった。
もちろん、どちらがいいかは賛否両論あると思うし、形式と実態と相違する部分もあろう。
実態はともかく、条文の上では、戦前は選挙によって選ばれた議員による議会があって、内閣もあるが、それは天皇の輔弼、つまり助言機関にすぎない。権限は天皇に集中している。その勅は絶対であり、軍隊の最高責任者も、条約や宣戦布告の権限を持つのも天皇。議会による多少の制限はあるものの、天皇は立法権、議会解散権も持っている。
昭和天皇は、だからと言って独裁的にならずに国民を想い、周囲の声にも耳を傾けていたと言われることもある。その辺り、今となっては確かなことは分からないが、少なくとも形式上は、主権は天皇にあった。
大日本帝国憲法第三条、天皇は神聖であり、侵してはならない。
更に他の憲法条文で、絶対的な権利が、最高法規で保障されている。
それは、日本国民に広く深く浸透していた。異論が生じる余地などないほどに。
つまり、昭和20年代において、「天皇は日本の統治者ではなく、内政外交共に政治的権限は全くない、この国の象徴に変わった」ということが、最も周知されなければならない点であり、最大の変化点。理解を得るために、最も時間が必要な点でもありましょう。なるほど、だからこその筆頭章。
そして、8つの条文で、天皇ができること、できないことが具体的に示されています。天皇がなされることについても、国会の議決や内閣の承認に基づいて行うことばかりです。天皇陛下のお考えが、法律とか外交姿勢に影響することは絶対にないようになっています。
象徴天皇と並んで衝撃的な大日本帝国憲法からの変更点に、「戦争の放棄」がありますが、この第2章は条文が第9条ひとつだけ。具体的なことはあまり書かれていない。戦力の定義もないし、軍事費や武器、基地を提供することの制限も、軍事同盟や外国軍の行動に触れる条約を結ぶことの是非にも触れられていない。そこは個人的に残念に感じるところですが、比べると、「天皇」の章の力の入れ具合が実に強く感じられます。すなわちこここそが、戦後日本の、新生日本の出発点であるわけです。
ところで、平成が元号であった時代を生きたひとりとして、もうひとつ、日本国憲法筆頭章について想うことがあります。タイトルの、「75年前と4年前を想う」その4年前の方です。
2017年6月、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立し、生前退位が可能になりました。
これは、現在の天皇陛下が退位したいというご意思を示すことができるという点も画期的ながら、将来的に、天皇となりたくない人が拒否の意を示すことができる未来につながると期待しています。
大正天皇も、昭和天皇も、晩年はご健康の状態から、ご公務不能になっていました。大正10年末から大正15年末までは昭和天皇が摂政として代わって公務をされておられました。また、昭和天皇もご最期の半年は、吐血、下血、発熱で、とてもご公務できる状況ではありませんでした。
それでも天皇という、とてつもない重責を降りられないというのは、なんと、なんと非人道的であろうか。
それを想った時、天皇陛下、皇后さまは、なんと理不尽な立場に置かれているかと痛ましく感じました。
日本国憲法では、職業選択の自由とか、宗教の自由とか、言論の自由とか、数多くの自由が国民に保障されています。
しかし天皇陛下にはそれがありません。皇居ではなく例えば農村に住みたいと言っても認められませんし、神道の流れをくむ儀式から離れたいと言うこともできません。特定の政党への支持を口にすることすらできません。
ご結婚相手にも、皇后さまとしてのご公務が強いられます。
陛下が嫌な顔をせずに懸命に、象徴としての役割を引き受けて下さっているのを、外野が無理するなと余計な気を使うのは、大きなお世話かもしれません。ご無理を引き受けて頂いているからこそ、国民が希望を感じられたり勇気づけられたりしているところはあります。
例えば、大きな災害など国難の際に、現地を訪れてくださったり、励ましの言葉を頂く。平時においても、常に国民を励ましてくださっている。参政権もなく、どの団体にも属さず、経済活動もできない立場を受け入れて下さっているお方だからこそ、他の何人にも不可能な、多くの国民の心に響くお言葉となっている。
日本国と日本国民統合の象徴である天皇陛下の存在。これはとてつもなく大きい。
ただ、天皇陛下さまも、人間。やはり、人権は保障されないといけないと思うのです。
そう考えていた時に、天皇陛下のご退位が可能になる法律が施行されたこと、これはとても大きな前進だと思うのです。
日本国憲法第2条 皇位は(中略)国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
つまり、皇室典範の運用次第では、ご意思に反して天皇を継承させられたり、お辞めになることを許されなかったりということは回避できる。そしてこの皇室典範は憲法ではなく法律なので、国民が選挙で選んだ議員で構成される国会において、条文の追加や改正が可能。
私は、昭和20年代を生きた人ではありませんので、日本国憲法が公布、施工された頃の世は見ていません。
しかし、日本国憲法を見て、当時を想像する限り、天皇陛下を、権力を一切持たない象徴と定めることは、とても大きな変革だったはずです。天皇陛下をもっと神格化すべきという方も、天皇制や皇室は廃止すべきという方もいるでしょうが、結果的に、王室や皇室としては、世界の中でも圧倒的に国民や世界に受け入れられていると感じます。
結果を見れば、この象徴天皇を筆頭章とした判断は偉大であり、改革として大成功です。
国民から到底受け入れられないものであれば、1952年に日本の主権が回復しGHQが撤退した後、炎上したことでしょう。国際的孤立を避けるために変えられなかったとしても、大きな運動が記録に残ったはずです。例えば、日露戦争直後の日比谷焼き討ち事件のように。しかし、それはなかった。
平成以降、憲法改正議論はホットでしたけれど、それは戦力不保持を謳った9条が主戦場です。他には知る権利、プライバシー権、人格権といったいわゆる新しい権利を追記すべきという議論や、極端な硬性憲法であり改変が難しすぎるから憲法改正を定めた96条を改定すべき、といった動きがありますが、筆頭章は改正の対象として大きな動きにはなっていない。少なくとも、上記の議論よりは熱量が小さい。
象徴天皇は、大変革であったにもかかわらず、しっかりと浸透するに至った。見事な筆頭章と言えましょう。
今後は、年齢的なものをお考えになられたご健康な内のご退位はもちろん、ご本人のご心情やご希望を尊重された、ご公務の時以外はどこに住もうが、どんな宗教の洗礼を受けようが自由、となるべきでしょう。令和から次の元号にいく頃には、公務員並みとはいかなくても、近い権利が天皇陛下にも認められていることを私は願っています。同じ人間なのですから。
天皇陛下のパートナー、現行の男系男子が天皇となる決まりの元では、皇后さまになるのですが、天皇陛下の奥様だからといって、皇室の一員としてご職務に当たらなければいけないなんて、嫁いだ先の稼業に就くことが前提のご結婚しか許されないなんて、なんと時代錯誤な思想であろうか。
私は、天皇陛下にもご公務外には、つまりプライベートな時間においては、公務員になるべく近い水準の自由権が保障されるべきだと思いますし、ご公務の格式を保つこととの両立が難しいということであれば、皇位をご継承しない自由、ご退位の自由が保障されるべきだと思います。
皇后さまについても、奥様とは別でいいのではないでしょうか。家庭での妻と、職務においての女房役、妻が皇后陛下となることを望まないのであれば、別々でいいのではないでしょうか。
平成の末期に、明治以来続いていた生涯天皇を改める、画期的な法律ができました。
時代は変わっていきます。象徴天皇が定着する前から教育を受けていた人はどんどん少なくなり、今や、親も日本国憲法ができてから生まれたという人が半数を超えるところまで来ていると思います。
象徴天皇、ここまでは、総じてうまくいってきたと言えますが、これからは分からない。
時代に似合った権利との両立が、これからも求められると思います。親の跡取りは長男の義務である、なんていうのが「日本の象徴」だなんて、私は日本人として恥ずかしく思います。
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2021年05月03日
常任幹事の車椅子乗車拒否で鉄道会社に謝罪求めるとは、政党のやることじゃない。
前回扱った、車椅子での鉄道乗車拒否について、彼女が常任幹事を務めている政党の公式見解が出されました。
しっかりと見解が書かれていますが、問題としたいのはこの部分。
--以下引用、ただし固有名詞に関しては伏せ字に変えました。--
〇〇(鉄道会社)の労働環境や法律にのっとった対応ができなかったことに問題があるにも関わらず、△△△さん(車椅子利用者)の行動や人格を攻撃する誹謗中傷がおこり、それは一カ月近くたった今でもやみません。これは〇〇が対応の過ちを認めず、△△△さんに謝罪をしていないため、△△△さんがあたかも「加害者」のように扱われてしまったことも一因だといえるでしょう。〇〇には今回の対応への見解と伊是名さんへの正式な謝罪を求め、今後の改善につなげていただきたいと考えます。
--引用ここまで--
これは、「個人への人格攻撃は許しません!」という章での一部です。
疑問点を挙げます。
1、政党が民間会社に正式な謝罪を公式に求める案件なのか。
2、人格攻撃や誹謗中傷の原因が、鉄道会社が謝罪しないことにあるのか。
3、鉄道会社の対応が悪いと言えるのか。むしろ政治の問題の側面も劣らず強いのではないか。
まず、政党が民間会社に正式な謝罪を公式に求める案件なのかという点。
これは、車椅子利用者である常任幹事のプライベートでのこと。政党が相手会社に何かを求める根拠は何でしょうか。この常任幹事が、党を自分の代理人とする旨の委任状を鉄道会社に示した上でのことならば、正当性がありますが、それは考えにくいです。
この問題について、党にも励ましや抗議のメールや電話があったそうです。党の常任幹事ということを公にして書いているブログですから、それはあるでしょう。それに応えること、党の公式見解を出すことは自然なことです。
鉄道会社の対応が悪いとか、改善を求めていかなくてはならないというのが党の考え方ならば、それを発信することは大いに賛成です。鉄道会社は党常任幹事に対して謝罪をすべきであると考えているなら、そう言うことも結構。しかし、「正式な謝罪を求める」とは。車椅子利用者もいわゆる健常者同様に事前予約なく全ての駅での乗降が保障される世でなければならないという気持ちの強さからだったとしても、この表現は勇み足。「謝罪をすべきと考える」と、「正式な謝罪を求める」は全然違う。当事者以外の者が謝罪要求って、甚だ疑問です。
政府や省庁、地方自治体などへの謝罪要求でしたら分かります。行政機関は政治の問題ですから、政治団体であればこうすべき、こうあるべきという要求はしていくべきです。国会にも議席を持つ政党ですから、国会で追及し改善を訴えるのもありでしょう。国交省に指導を求めていくとか、今回の件を改善する法案や条例案を作ったりとか、それが政治団体の役割。しかし、民事に介入して謝罪要求、これは政治団体の役割ではない。
国民の声に後押しされてというのであればまだ分かりますが、自分のところの常任幹事の問題。党に批判が来たから、その批判を鉄道会社に向けるというのが、理解を得られるとは思わない。なぜならば、政党が批判の声に応える適切な方法は、国交省や自治体に改善を働きかけたり、政策争点として有権者に訴えていくことですから。
比較するのが適切でないかもしれないが、あえて挙げたい。
正社員から非正規への代替が進み、歪んだ法解釈で派遣を都合よく使う大手メーカーが増え、ワーキングプアが問題視されたり、派遣村、蟹工船などのワードが多く出ていた時代のこと。小泉内閣に対して、国会でメーカー名と具体的な雇用状況を挙げて、指導するように敢然と追及した万年野党がいた。党を挙げて問題周知を試み、国会やメディアで追及して、改善に全力を尽くしながらも、民間企業の謝罪など求めなかった。いや、求めていない証明は限りなくできない。どこかでしていたかもしれない。ただ、謝罪を求める求めない以前に、大手メーカーの姿勢は徹底的に間違っていると言っていた。それは問題ない、政治活動、選挙活動だから。
改善のために問題にすることは、監督省庁とか、政府のやり方。そしてそれを選挙戦でアピールして、争点として、堂々と戦った。これこそが、国会に議席が持てていて、政党要件も満たした、有力政治団体の行動。
次に、人格攻撃や誹謗中傷の原因が、鉄道会社が謝罪しないことにあるのかということについて。
侮辱罪などの犯罪行為は、鉄道会社の対応以前の問題でしょう、理由があるから他人の人格的なところを攻撃してもいいという理屈自体間違っている。もちろん、人格ではなく主張に対しての正当な批判ならオッケーですけれどもね。
だから、誹謗中傷、人格攻撃の原因を鉄道会社に振ること自体が大間違い、と言わざるを得ない。
相手鉄道会社にも言い分がある。その言い分が正しいかどうかは別として、鉄道会社側の主張や言い分を無視して、折れろ、謝れという姿勢には怒りすら感じる。
当事者同士で話せばいいのに。帰路の途中で有名コラムニストとしての実力を行使して新聞社に取材するように連絡した上、それをブログで発信した。会社名、駅名も書いたのですから、営業にも影響が出る。ハッキリ言って、宣戦布告です。それ以外のなにものとも感じられない。
自分で戦闘を起こしておいて、第三者から攻撃を受けたからと更に政党の威を行使して、謝りなさい。おかしくないですか。鉄道会社だって、駅だって、世間からの攻撃食らっているはずですよね。世論巻き込んだ戦闘を挑んだ側が原因で。でも鉄道会社側は不満を口にせず、愚直に言い分を最低限に言うだけ。東日本の一企業がですよ、全国区の政党から攻撃されるという非対称戦闘で、言いたいことも言えなくされてしまいかねない状態。ちょっとおかしい。
とにかく、人格攻撃、誹謗中傷と、鉄道会社の姿勢は別です。関係ないのに、そこまで言われて責められている。鉄道会社が非を認めないせいで、謝らないせいで、誹謗中傷が起きた、人格攻撃が行われた、とするのは屁理屈でしかなく、完全に誤りです。
さてね、最後に鉄道会社の対応が悪いと言えるのかという点ですが、むしろ政治の問題の側面も劣らず強いのではないかと思います。
障害者差別解消法の合理的配慮は努力義務。実行できているかどうかは問題ではない。もちろん、実行できるように改善していかなければならないですが、それは今後順次やっていくというものも含んでです。
現実として、今できるだけの努力はしているというのは、伝わるのではないでしょうか。バリアフリーがまだまだ行き届いていない駅はありますが、かつてよりは格段に良くなっています。今も順次改修工事が進んでいます。
階段しかない駅については事前連絡が欲しいです、対応に必要なんです。こんな対応は望ましくないですよ、たしかに。しかし、今は無理、隣の駅までしか案内できないというのが、これが精一杯だったとしても、努力していないと決めるのは乱暴に感じる。現に、利用者が隣の駅まで移動している間も必死に人を集める努力をしていたではないですか。
公式見解でも言われている、「バリアフリー化や合理的配慮の水準向上のための人員増を求めて共闘することこそが重要だと考えます」、これはそのとおりだと思います。ただ、それは鉄道会社の問題のみではなく、社会全体の問題として捉えるべきだと私は思うのです。
疑問に思う記述、もう一つ引用します。
--以下引用、駅名や路線名は伏せ字にしています。--
今回問題になった××駅も2015年3月8日に◇◇◇◇線の▽▽ー◎◎駅間の4駅が無人化されたうちのひとつでした。当時住民側からは「エレベーター設置」の要望も出されましたが、いまだ実現していません。合理化を優先する一方で、乗客の利便性は後回しにされている現状があります。
--引用ここまで--
合理化を進めることは、利便性を後退させることでしょうか。無人駅に駅員を最低限配置したところで、階段から重たい車椅子を運べるようになるわけではありません。むしろ、合理化を進め経費を削減することも、バリアフリー設備の早期導入につながるのではないでしょうか。
鉄道会社もいっぺんにやるべきことを全てできるわけではないので、公共交通機関としての配慮を実現するためには地域や政治の支援が必要です。早期にエレベーターの設備を全駅で導入したいなら、国や自治体がその費用を立て替えるなどして、進めるべきだと思います。こういう車椅子利用者とか高齢者とかへの福祉に主に使うための、消費税ではなかったでしたっけ。
エレベーターだけではない。例えば車椅子対応のタクシーをどこからでも呼べるようにするとか、ヘルパー会社と鉄道会社を結びつけたり、鉄道警察隊の任務に駅での福祉活動を加えるなどして、鉄道会社や現場の負担を減らしたりとか、アプローチの方法は考えられる。
これは車椅子での移動経験がない、こういう問題に対しては素人の私が思い付きで言ったことですが、政治的働きかけが不足しているのを棚にあげて、社会全体で対応すべき問題という認識があまりにも欠如しているように感じられます。
「バリアフリー化や合理的配慮の水準向上のための人員増」が充分にされていないのは、鉄道会社の努力不足もあるかもしれませんが、政治の責任もまた大きい。
誰しも、突然、いわゆる障碍を持つことになる可能性はある。バリアフリー、安全策、オストメイト対応トイレなど、政治主導で、全ての鉄道駅に一刻も早く展開されて欲しいと願っています。
最後に、私自身この乗車拒否のブログを見るまで、車椅子で乗降できない駅があるとは知らなかった。というか、関心がなかった。でも、考えてみれば、去る2020年に、東京パラリンピックが行われる予定だった。静岡県は、日本の象徴の1つである富士山があり、オリンピックとパラリンピックで自転車競技の会場となっている県。コロナのせいで延期になりましたが、外国人パラリンピック関係者も多く静岡県を訪れたはずでした。そこは国を挙げて、対応すべき問題だと思いましたが、私も無知を、オリンピック開催国の国民として恥ずかしいと思わなくてはいけないかもしれない。
その意味で、それに気付かせてくれたコラムニストさんの発言は、前進の引き金になるかもしれない。炎上して多くの国民に注目させたことは、近い将来、日本を世界に誇れる福祉国家になるきっかけになったかもしれない。否、していかないといけないと思う。
是々非々あるけれど、声を挙げることは大切。
言いたいことは言った。
彼女の声のあげ方云々のモヤモヤ感は、多数の人の心に残るかもしれない。
でも、とにかく今は、弱者にやさしい公共交通機関を、都市部過疎地関係なく実施する方向に、この炎上が向かうことを願うばかりでありまする。
2021年05月01日
炎上した車椅子での鉄道乗車拒否ブログの是非
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先月(2021年4月)上旬、とあるコラムニストの「JRで車いすは乗車拒否されました」が話題に登っています。
詳細は、あちこちのニュースサイトなどにありますので、内容をここで先に紹介することはしません。
ただ、読んで頂ければ書いてあることの概要は充分伝わるとは思います。
様々な点が批判の対象となっていますが、私は問題ないと感じている点も多くあります。
まず、啓発とか声を挙げていくことは大切なことです。周囲の顔色をうかがって反感を受けないようにしつつ共存することを強いられている場合が多い少数者の中で、先鋭的な主張を臆せずするその声も大切にしなければいけない。まずはその視点です。「わきまえる障害者になりたくない」、こういう方が声を挙げること、本当に大変だと思いますし、この声を受け止めて社会とか、いわゆる常識は変えていかなければならないと思います。
批判の中には、「乗車拒否」というのは言い過ぎではないかというものもありました。しかし、目的の駅までは案内できないと言われたことは事実。目的地の駅は無人駅であったり、バリアフリー設備がなかったりという事情はあろうが、それは利用者には関係ないこと。目的地の近くの、設備や人員がある駅までは案内を約束してもらえたとして、目的地までの乗車は拒否されたというのは誤りではなく事実。
結果的には、目的地に駅員を集めて対応してもらえたとのことですが、乗車駅では、対応不可と案内を断られているので、この時点での話として「乗車拒否」とのタイトルが不適切ではありません。
次に、事前に話して対応をお願いしていれば対応してもらえたのに、それすらしない車椅子ユーザーが悪いという点について。現状車椅子の対応ができる駅は限られていて、活動家であるならそれも分っているはず。連絡がいることぐらい理解し、それぐらい受け入れるべきという批判がある。
たしかに、連絡一本すれば、すぐに対応してもらえたことでしょう。しかし、障害者だから、事前に旅行計画をちゃんと立てておくことを強いられることはない。もちろん、障害によってはいわゆる健常者以上に計画に気を使わなくてはいけない部分は出てくるでしょうが、それをしなくていいような環境を求めて声を挙げるのは大切なこと。
気ままな旅がしたいと無計画に行く旅行であっても、車椅子で行けるようになった方がいいに決まっている。
そのために多数を占める歩ける人の負担が生じてもいいのか、共存のためのコストはどうするのか、という議論はあろうが、当事者が声を挙げることの大切さは尊重されなければならない。
対応できる範囲で対応してくれたことに対するお礼やら感謝の気持ちが感じられないという声もあるが、これも問題とは思わない。現地で対応してくれた方へはその場で直接御礼すべきだし、忘れてしまったとしても、電話するなどして直接伝えること。SNSなどで大衆にあらわすのが適切ではない。
というわけで、この方がブログで問題提起したことについては、大方支持、賛成している。
ただ、反対なところもある。
それは、以下の5点である。
・社名、駅名を出した。
・マニュアル外の気遣いを公開した。
・素人には危険なお願いをした。
・新聞社に連絡したことを公開した。つまりは力の誇示である
・鉄道会社の対応だけの問題にしている。
まず、社名、駅名を出したという点。
現状可能な対応を周知して問題を提起するなら、社名、駅名はいらない。記すことで、その会社、その駅への苦情とイコールになる。つまり、全体の問題を、一企業の問題へと矮小化する愚行である。
無人駅では対応が難しい、乗降者数が少ない駅まで手が回らない現状。これは非常に問題で、身体が不自由な方に不便を強いるなんてあってはいけない。ましてやこれから益々の超超高齢化社会。皆で考えていかなければいけない。それは分かる。
しかしそれが、個人が悲しかったと綴るならまだいい。けれど、彼女は巨大な影響力を誇るインフルエンサー。コラムニストとして名が知られていて、政党要件を満たす数少ない政治団体の幹事なのだ。
この書き方は、問題提起では済まず、その鉄道会社への攻撃になってしまっている。明らかに、営業妨害の域に達しているとすら感じられる。
また、駅名社名を出して批判しておいて、ほかの面、例えば車椅子対応タクシーが1か月前に予約しておかないと難しいといった点は問題視する記述がない。
現場対応、鉄道会社だけの対応には限界がある。車でとか、駅員とは別にすぐにヘルパー会社がサポートに行けるようにとか、もっと広く考えていかなければならない問題だと思う。しかし、それらには言及せずに、駅の対応だけしか書かれていない。事実を伝える目的だったとしても、感情論と聞こえて仕方がない記事を書くのは、解決から遠ざかる効果しかないと感じる。
不平不満程度も書くのは自由、しかし彼女は、影響力を持っていて、電話ひとつで記者が集まる人なのだ。
車椅子ユーザーがいわゆる健常者と同じように電車で移動できなければいけない。これはそのとおり。声をあげていかなければいけない、そこは大いに同意なんですけれど、反感買う書き方をしているなと思う。
続いて、マニュアル外の気遣いを公開した点。
彼女は、乗車駅と受け入れ駅の対応が違った点を問題視していましたが、この理由は、会社で働いた経験がある人なら、推測できるでしょう。管轄が違う駅に、マニュアル外の対応を指示できるわけがない。
受け入れ駅で、乗車駅ではできないと言われた対応を受けられたとのことですが、それは受け入れ駅の職員の独断、好意。「今回は私がいたので」と対応してもらえた、つまり「私」がフリーでしたのでということ。いつもできるとも限らない。もしかしたら、乗車駅が押し問答で時間を稼いだからできたのかもしれない。
こんな記事上げたら、いつもその特別行為が受けられると誤解されませんか。無理に無理を重ねて応えたことなのに、〇〇駅でいつならやってくれたと記事が出ているのに、なぜここでしてくれないのかと。
車いす利用者がいつでも乗降できる環境を目指すことは大事ですが、現状無理な行為であれば、黙って受け取っておくべきです。
素人には危険なお願いをした。無人駅に駅員を3~4人集めてください。駅員3人で、100Kgの電動車椅子を持って階段を下ろさせる、鬼です。実際に集められた駅員は、車椅子の持ち運び経験がしっかりある人たちではないと彼女のブログに書かれていました。であれば、4人でも危険です。
運送業とか工事現場などで重い物を日常担いでいる人たちならまだしも、鉄道の駅員、腕力は一般の人と同じです。正直、引き受けた駅長に疑問があるぐらい。落として車椅子を壊したら、あるいは下にいた人がケガをしたら、どう責任を取るつもりだったんでしょう。駅長としては、断るのが正解だった気すらします。もちろん、断るのは間違いかもしれません。このギリギリの判断に対して、写真なんか撮っていないで、せめて緊張感を持って見守るべきなのではないですか。
私がたまに働いている倉庫の掲示では、次の重量を越えるものはひとりで運ばないこと、男性25Kg、女性16Kg、となっています。平面で、ごく短距離の移動です。駅の階段を3人で持って降りるというのがいかに無茶苦茶か、呆れます。3〜4人集めてではなく、6人ぐらい集めてと言うべきでしょう。
旅行には4人連れがいたんですよね。せめて手伝ったらと思わざるを得ません。
新聞社に連絡したこと、これは書くべきではないでしょう。
声を挙げる目的で、新聞社に協力を求めるのはアリかとは思います。が、ここに書くこととは思えません。力の誇示としか、嫌味としか感じられません。私にはこんなに力があるの、私にちゃんとした対応をしなかったらどうなるか、との見せしめの香り。必要以上のケンカ腰、嫌味、言うことないではないですか。啓発したいならそれに徹すべきで、明らかに余計な追加攻撃をやらかしたと断じざるを得ません。
書くべきではないことまでガンガン記し、現場を萎縮させたり業務を妨げたりする書き方になっていると感じる。人員を割いて対応が回らない無人駅はその地域のためには支えていかなければならないのに、廃止検討ということにもなりかねない。
きっとそれはだれも望まない。
鉄道会社に投げるのではなく、社会福祉の問題として、国民全体が考えなくては何も解決しない。
彼女は先天性の難病を持っている方ですが、現在いわゆる健常者であっても、いつ事故に遭って自力で歩けなくなるか分からない。ひとりひとりがこの現状を捉えつつ、駅での限界を踏まえた上で、どうしていくべきか考えていかなければいけないと思う。
バリアフリー化が唱えられて年数は経っているけれども、現状乗降者数が少なく改装が後手に回っている駅や、駅員による介助できない無人駅が多くある問題点を指摘することは大切。改善されて行って欲しい。
次は、先日発表された、社民党の見解について書きたい。
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2021年04月08日
バイクがボール回避時に転倒、相手少年家族に多額損害賠償命令。なにこれ。
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先日走っていたわけでもない歩行者同士の接触転倒事故で、過失相殺なしの賠償判決の疑問を書きました。
そのニュースを見た時、過去にも同様な大きな違和感を感じた判決を想起しました。
2004年に、小学校の校庭から小学生が蹴ったボールが道路に出て、これを避けるためにハンドルを切ったバイクが転倒。バイクの運転手は転倒し骨折。このケガで寝たきりになり、直後に認知症の症状が出た。その後誤嚥性肺炎で亡くなっています。
小学生の親への5,000万円の請求に対して、一審で1,500万円の支払い命令となっているので、かなり小学生の原因の割合を考えたのではないかと思います。どのような考慮がなされたのか、具体的には分かりませんが、想像するに、骨折→寝たきり→認知症→誤嚥性肺炎の因果割合、小学校の校庭でボールを蹴るという行動に対して一緒にいたわけでもなかった親の監督者責任はどこまで問われるか、バイク運転者の不注意などがあったのではないかと思います。
けど、違和感というか判決に対する憤り。小学生が小学校の校庭でボールを蹴って遊ぶ、普通の行為ではないか。逆に、小学校の脇を通るならば、子どもが飛び出してくるかもしれないという危険予知を行い、いざという時は回避できるような運転をするのが当たり前の注意義務。資格を持った人がハンドルを握っているのだから、回避に失敗して転びましたで相手に責任を取らせようとするなんてお門違い。
通常の注意義務では回避できないような事例、例えば死角からいきなり飛び出したとか、少年がわざと公道に強くボールを蹴り出したなら、その立証ができなければならない。が、この場合、わざと道路に蹴りだしたなどの行為はないとされている。
フェンスの向こうは見えるのだし、子どもがボール遊びしているのが分かっていながら、その注意が不足していたから転んだ。
まとめると、一方は危険予知能力が未熟な子ども、一方は危険な乗り物を扱う教習を修了した有資格者。場所は子どもが通常遊ぶ場所の脇。
これで小学生の過失割合が30%以上なんてことはあり得ない。
子どもが飛び出して跳ねられた場合の過失割合と、子どもを避けるために転倒した場合の過失割合は変わらないと思われます。過失割合は、けがの程度や内容は考慮されず、発生原因の割合なのですから。そして、飛び出したのが子どもかボールかによっても、道路に向けてボールを蹴りだしたなどではないのだから、流れ弾であるのだから、割合は変わらないと思います。故意ではなく流れで飛び出たことは、最高裁で、蹴った方向とフェンスなどの位置からボールが常に外に出るということではなく、解放された校庭の通常の利用だったと認められるとされています。
これで考えられる割合から、更に骨折から誤嚥性肺炎へ至る因果関係を考慮した際に、悪化しないための措置に不十分な点があったなら、小学生側の賠償すべき部分からは除かれるわけで、これで1,500万円も認められてしまうとはねぇ。
それでも、バイク運転者の過失がゼロではないのだから、遺族も損害分を受け取れるべきだろう。しかしその相手は、校庭の管理者ではないのか。
休み時間、放課後、校庭で児童が球技ができるように開放するなら、隣接する道路を通行する人に危険が及ぼさないように、監督指導したり、ネットを設置するなどの措置をするのは、学校側の役割である。親の監督責任というのは筋が違う。児童は、学校が認めている範囲内で通常に校庭を使っているだけなのですから。
学校の安全責任を問い出したら裁判に時間がかかる、組織相手に裁判するのは負担が大きい、それはあるかもしれません。だからといって、普通に遊んでいた子どもの親だけに責任を負わせる、この判決は大いに疑問でした。原告と被告の間の割合だけでなく、どちらのせいでもない対象まで言及するのが、法律のプロではないのか。
事故は2004年で、バイク運転者の死亡後遺族が2007年に提訴。大阪地裁判決は2011年。
前回歩行者同士の接触事故の判決を扱ったけれど、10年を経ても変わっていなかった。過失判定が無茶苦茶、児童生徒が集まるで、個人責任のみを追及する姿勢が許される。
ただ、救いはある。バイクで転倒骨折した運転手は、ボールを蹴った小学生を、こんなんでくじけちゃいかんと元気付けていたという。損害賠償を求めるつもりはなかったであろう。遺族によって起こされたこの裁判も、最高裁が下級審での判断を破棄し、原告の請求を退けた。
歩行者同士の接触のケースは、加害者が12歳以上であり、監督責任が争点ではないので、そこは話が違う。けれど、普通に生活していたら、個人がいきなり多額の賠償を負うというのは息苦しい。
言いたいこと。
過失割合の判断は変わっていくべき。
通学路や子どもが通常遊ぶ場においては、子どもたちに温かくあるべき。
私の自宅のすぐ近くの高校の話です。登校時間はPTAが学校周辺に立ち、道幅いっぱいに広がったりしないよう注意したりしていますし、校庭はこれでもかというぐらい高くネットを張り、校門側にボールなどが出ないように、ついたてのような感じでネットがあります。校庭は防音シートにも囲まれています。
エネルギーある年頃の生徒児童が思い切り生活できる環境、そちらを求めるのが、大人の役割ではないでしょうか。
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2021年04月05日
歩行者同士の接触、過失が少なそうな方に多額賠償判決の違和感。
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https://mainichi.jp/articles/20210316/k00/00m/040/305000c
この3月16日の河慧琳さんによるニュース記事でを見て強烈な違和感を覚えた。
ライターに対してではない、報道された対象に対して、裁判結果に対して出である。
概要はこうだ。
中学生歩行者と成人歩行者が接触し、成人が転倒、腰の骨を折る大けがを負い後遺障害が残った。それで成人側が中学生に損害賠償を請求。過失相殺も認められずに、多額の賠償金支払いを命じる判決が出された。
過失相殺が認められなかった。私が引っかかった点はここである。なぜ歩行者同士の接触で過失相殺がないのか。お互いの不注意であれば、責任は半々ではないのか。
これについては、中学生が前を歩いていた4人の生徒を追い抜く際のことであり、道幅も2.2mしかなく、対向の歩行者がいないか注意する必要があったのにそれを怠ったと認定されたためである。中学生側はいきなり速度をあげたり進路を変えるような危険行為はしていないと主張したが、これが認められずに危険な追い抜きをしたとされたのか、危険な追い抜きはしていないとしても過失は過失と判断されたのか、そこは書かれていない。裁判所が言及したのかも分からない。
しかしながら、少なくとも駆け足だったり、人の間を縫ってジグザグに抜き続けるようなことをしていたとは想像しにくい。もしそうであるなら、通学路で多数の人の目があった中で、いきなり速度をあげたり進路を変えるようなことはしていないと主張はできないだろう。また仮に、急いでいて明らかに早足で追い抜きを続けていたとして、過失責任が10対0になるだろうか。
角から走って飛び出してとか、後ろからぶつかったなら、10対0だろうが、人が歩く速度で対向歩行者とぶつかったなら、相手も前方を普通に注意していれば回避行動や声掛けはできたはず。裁判所の「事故の発生に女性に寄与があったとは認められず、過失相殺をするのは相当ではない」という判断には、大きな違和感を覚える。
中学生が注意義務を怠ったのが、接触の原因の100%。そうだろうか。
ここは通学路である。時間帯によっては多くの生徒が通ることが日常であり当たり前。週刊ポスト4月9日号によれば、登校中と書かれている。登校時間帯に、狭い道を、生徒の流れと反対方向に歩く、この状況は、普段よりも注意しなければと通常は思うだろう。成人ならそれぐらいは予見して当然。周囲子どもだけの場所で、何かあったら自分のせいぐらいの意識すらあっていいものかと思うとまで言ったら、言いすぎだろうか。
さて、週刊ポストの記事では、金額について突っ込んで触れている。実は週刊ポストの記事の方を先に見たのですが、過失相殺について触れていた記事の方を先に出した方が書きやすかったのでその順番になりました。
賠償請求額は約1150万円、ただ、骨折は骨粗しょう症の影響もあるとして、790万円に減額された。ただし、事故から判決までの時間経過中も利息は発生するので948万円になっているとのことです。
ここから分かることは、事故の「発生」については10対0と認定されたとしても、事故によるダメージ、「損害」において、被害者側の事情で大きくなった分までは、加害者は負担しなくていいということでしょう。
とすると、益々疑問は大きくなります。
転ぶ時、人間は自分の身を守ろうとします。体をひねったり、手を先について、頭や胴体を守ろうとします。走っていない歩行者同士の接触で想定されるケガは、足首とか手首の捻挫、せいぜい腕を折るとかだと思います。現場が階段であったり用水路脇だったりしたら事情は変わってきますが、2つ異なる視点で書かれた記事を見て書いていないのだから、多分そんなことはないでしょう。
ではなぜ、受け身を取れなかったのか。それは両手に荷物を持っていたからです。もちろん、両手に荷物を持つことは過失でも何でもありません。しかし、そのせいで手をつけなかった、自分の体力に対して負荷が大きい荷物を持っていたせいで転倒のダメージが大きくなったなら、治療費に占める割合を考えればもっと引かれるべきではと思ってしまいます。
腕の単純骨折相当まで引いてしまうのは行き過ぎでしょうが、少なくとも半分以下にはなるべきではないでしょうか。
登校中の生徒がたくさん通る通学路において、両手に荷物を持って、生徒の流れと逆方向に歩く、細心の注意を払わなくてはいけない。その状況に、予見能力の大人と子供の差も含めて客観的に、中学生側の方が注意義務を怠った割合が大きいとはどうしても思えない。
私の感覚では、事故発生の中学生の過失割合1/3、ダメージについても、両手に荷物を持ち通常反射的にとる防御ができなかったことを加味し、骨粗しょう症も含めて、1150万円に対して1/5~1/6がせいぜいだと思うのですが、790~948万、恐ろしく感じられます。
もちろん、請求の時点で自身の過失相当を考えて引いていたならそうではないですが、週刊ポストの書き方から、それはなさそう。
ま、個人対個人ならそうなります。
ただ、もっとマクロな視点で責任を求めるなら理解できます。
道幅が狭いところに多くの生徒が通る状態を作った責任も問う、生徒が横に広がらないようにとか指導しなかった、あるいは監督員を配さなかった責任も問う、というなら分かります。
普通に歩いていた生徒個人だけをターゲットにして絞るのはあまりに短絡的。
自動車運転とかとは違うのです。遅い人がいれば普通に追い抜く、ジョギングやランニングする人もいる、犬の散歩で駆け足で通る人もいる、それが公道です。もちろん、短距離走レベルの速度で走っていたり、犬の紐で倒してしまったりなら、10対0でも分かりますが、自分から両手に荷物をもって通学路を流れの逆に歩いて、大して危険なことをしていなかった子どもに賠償請求。ちょっとね、恥を知れって思っちゃいます。
個人の戦略としてはアリかもしれません。
行政とか法人を相手にしてもハードルは高いと感じてしまうかもしれない。裁判期間が長くなりがちなのを嫌うのも理解できます。
だけど、短絡的な当事者個人に絞った、直接的な発生原因に絞った戦術。引きます。それを認めてしまった大分地裁にドン引きです。注意義務判定、過失割合判定、おかしいですよ。
記事で書いていないこともあるのでしょうけれど、虚偽がないならば、怖い。
次回は、同じように未成年者の日常的行為で成人から損害賠償請求された事件に触れます。
この時も、裁判所の判決に多いに違和感、反感を覚えました。2004年に大阪地裁が言い渡した判決。状況は違いますが、自身の過失も大きいと思うのに、過失が小さい子どもに賠償を求めた裁判です。
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2021年03月24日
マスクいつまでやるんだね。ずっと感じてた。きっと多くの人が。
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大臣のひとりが、マスクについて、いつまでやるんだねと愚痴をこぼしたというニュースが伝わってきた。
これ、本当に分かります。私もマスクは苦手です。
息苦しいし暑いし蒸れる。マスク越しに呼吸をしても、イマイチ新鮮な空気を吸っているという気がしない。人がまばらな屋外に出たり、自宅に戻ってマスクを外した時の空気がなんと心地よいことか。もわっとした空気を吸っていると、眠気が誘発されることも多く、それも困ったものです。他にも、メガネは曇るし、鼻はかゆいし、耳も痛くなる。マスク着用はいつまで求められるのか、私も言いたい。
その大臣の発言、その部分だけを抜き出して歪曲したとならないように、前後の文を探した。
「(緊急事態宣言を)これくらい長くやっていると、なんとなく……。いわゆる……。なんだろうね。どれくらいやってるかね。マスクなんて暑くなって、口の周りがかゆくなって最近えらい皮膚科がはやっているそうだけど。(マスクは)いつまでやるんだね?真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ。いつまでやるの?これ。マスクはいつまでやることになってるの?」
引用元:https://www.huffingtonpost.jp/entry/aso-taro_jp_60544a70c5b6bd95117c2c8b
安藤健二さんの『麻生太郎氏が報道陣に逆質問「マスクはいつまでやることになってるの?」』
内閣の大臣、与党中核議員。立場的には、マスクの着用を強く求めたい、徹底したいと考えるのが自然である。なぜならば、感染症がなかなか収束しなければ、あるいは拡大してしまったら、感染症対策の失敗、政策を誤ったと批判を受ける立場だし、任期満了が近付いている衆議院の次の総選挙の票にも大きく影響を及ぼすはず。
緊急事態宣言で落ち込んだ世帯収入、消費、景気、これらを回復させようとする場合にも、人が外に出ていくわけだから、マスクは益々必要になる。いつまでマスクしなければならないんだ、1年以上も不快な思いをしたしいい加減もういいでしょう、という人がどんどんと出てきてしまったら、経済の回復の足を引っ張ることは明らか。
マスクをしたくても着用が困難な方もいるから全ての人にマスクを求めるのはよくないにしても、マスク離れなんて起こしたら、政治家個人としても、政党としても苦しい立場に立たされるだろう。
にもかかわらず、この発言が出てくるとは、マスクを着け続ける不快感が、よほどの不快感がそうさせたのだろう。
不謹慎だとか政治家としての資質がとか叩くのはたやすい。しかし、多くの国民がどこかで思っていることでもあろう。不快なマスクをいつまで半ば強要されるのだろうと。マスクを切らしたら職場や学校にも行かれない、これは永遠に続くのかと。
政治家のパーティーもたまにすっぱ抜かれている。これだって、叩くのは簡単。しかし、必要だからやっているのだろう。その世界を知れば、きっと理解不可能なことではないのだろう。
しかし接待が必要である世界、人が集まるイベントが必要である世界、政治家でなくともある。
自分たちは我慢しているのにという不満が爆発している方もいるだろう。もちろん、大いに理解できる。ただ、マスク発言の大臣もマスクを外しはしなかった。パーティーやイベントの主催者も、感染症対策を何もしていないところはあるまい。ただ、それも疲れた。早くそこから脱却したい。感染症対策を気にしないで盛り上がりたい。みんな思っているはず。
お金に不自由していなさそうな現役の大臣でさえ、高級マスクとかいい薬剤で不快感から逃れることはできない。資金がありそうな与党の派閥でさえ、テレワークパーティーなんてできない。
感染症対策に気をもまなくてもよくなりたい。それは、大臣も庶民も同じ。
私は、発想の転換を試みるべきではないかとも思った。
どうすれば、マスク着用率が大きく下がっても感染の危険を少なくできるか。
優れた換気設備や抗ウイルス塗料の普及とか、あるいはVR技術で個室に居ながら大部屋にいる感覚になれる飲食店普及だとか、マスクを外せる日が一日も早く到来するよう祈っている。補助金とか、開発援助とかの政策も合わせて、官民が一致団結して欲しい。
時間はかかるだろうし、できないかもしれない。でも、副総理大臣様が、不快なマスクいつまでやるんだという旨の発言をされ、否が応でも期待してしまう。マスクを外せるようなアプローチに向かうのではないかと。
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2021年03月23日
緊急事態宣言、再々延長なく解除。人間味を感じる判断。
東京、埼玉、千葉、神奈川の1都3県に発令されていた緊急事態宣言は、3月21日をもって解除されました。
1月8日から始まったそれは、当初2月7日までの予定でした。しかし3月7日までに延長され、3月21日までに再延長され、ウンザリした気持ち、閉塞感が広がります。
それでも、いわゆる第3派のピークは過ぎたものの新規感染者数は充分に減少せず下げ止まり、宣言解除の目安となる水準には遠く届かない状態の中、再々延長濃厚かとも思われました。ところが状況はさして好転していないにもかかわらず、緊急事態宣言は再々延長されずに解除。もちろん、賛否はあると思います。
しかし、機械的な判断ならば、絶対に宣言解除にはならなかったはず。宣言解除の基準は満たしていないし、再延長を決めた3月頭に比べて感染者数は増加している。それでも、自粛疲れによる宣言の効果減退や、経済とか家計への影響を総合的に考えての判断。そこは人間味を感じました。
旅行業、イベント業、飲食業を営んでいる方々も必死です。宣言解除を見越して、投資をし企画も立てるでしょう。その準備は数日前から始めるものではない。
例えば興行イベントの場合、ひと月前、あるいはもっと前から準備に入る。準備にも当然費用が掛かるから、前売りチケットを売ろうとする。で、宣言延長でキャンセル払い戻しやらが相次いだら、あるいはイベント自体たち消えてしまったら…、考えるだけで恐怖である。
医療機関の逼迫は続いており、破たんの危機も抱えている。より感染力が強い可能性がある変異ウイルスが報告されており、国内にも入りつつある。こちらもこちらで恐怖。
経済、医療、命、それらを天秤にかけながら、どうやったって批判が来る最適解がない難しい問題。
命第一だろ、そのためには感染症拡大防止を最優先すべきだろという方。その政策をとるならば、インフルエンザ流行期には、毎年不要不急の外出自粛と時短営業を求めなくてはいけなくなる。それでも病死者数を最小にという方もいらっしゃるでしょうが、そこまで言う方は少ないと思う。家計や経済、人と人との交流もまた大切なのだから。
取り巻く状況が変わっていなくても、内なる状況は変化している。
医療機関の疲弊も進んでいる。庶民の疲弊も進んでいる。経済への失望感も続いている。
感染症増加、命の不安と、経済悪化、生活の先行き不安。天秤にかけた時に、取り巻く状況が変わっていなくても、重さは刻々と変化している。
この時期に、自粛疲れを和らげることは名判断だと思う。
変異種の脅威が増して、第4派が来た時に疲れ切っているでは、あらゆる政策の効果が鈍り詰んでしまう。
事実、時短要請の店舗に行けず、路上やレンタルスペースでコンビニなどで買ったお酒を呑んでいる集団が増えている。昼のカラオケ喫茶などで高齢者の感染も報告されている。
人とのつながりを自粛せよというのは限界だろう。リモートや仮想電脳空間に入る技術も普及は足踏みであるし。
花見シーズン、新歓シーズン、そしてGW。残念ながら感染拡大の不安は広がる。だからこそ、緊急事態宣言は解除して、マスク、消毒、三密回避をお願いしつつガス抜きをしなければならないのではないか。我々は人間なのである。
交流できない、発散できない、経済活動できない、それらもまた死に直結する。
GoTo停止のように、ギリギリまで待った上で、必要ならばまた緊急事態宣言再発動が良策と思う。
妄想を言えば、GWの国民の祝日を1か月前倒しできたら活性化するのでは。
3/27、土曜日。
3/28、日曜日。
3/29、一か月前倒しの昭和の日。
4/3、一か月前倒しの昭和の日。憲法記念日。
4/4、日曜日。一か月前倒しのみどりの日。
4/5、一か月前倒しの子どもの日。
4/6、みどりの日、日曜日の振り替え休日。
思いっきりガス抜きして来たる第4波に備えなければいけない気がします。もちろん、ワクチンその他の政策によって、抑えなければいけませんけれども。
ただ、人間は交流が絶たれれば死ぬ、経済的に追い込まれれば死ぬ、そういう生き物なのです。それを覆すだけの支援を考えるか、今精神的体力を少しでも回復させるか。
今ガス抜きしないと、耐えられるものも耐えられない、あらゆる政策の効果か鈍る。
もちろん、目先の保障や支援は必要、加えて先の希望も必要、更に、医療負担も軽減させ破綻から守らなくてはならない。とてつもなく大変だと思います。しかしながら、国民が感染防止に疲弊してしまったら、何もかも終わる。
マスク、消毒、密回避、これを最大限意識しながら、最大限のガス抜きが今こそ必要。
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↓大きめ及び小さ目。
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2021年03月22日
第二次GoToキャンペーンのメッセージを
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「Go To トラベル」、「Go To Eat」、「Go To イベント」、「Go To 商店街」からなる「Go To キャンペーン」は、いわゆる第3派の到来により中断されてしまいました。
ただ、2020年11月12日には西村新型コロナ対策担当大臣が大きな流行が来つつあるという認識を示していたのに、中断決定は1か月以上先の12月14日、実際に停止されたのはさらに先、これが、遅すぎたのではないかと批判も起こりました。始めたことに対しても批判はありました。
こういう時に決断しなければいけない立場の方々、本当に大変だろうと思います。何をやっても批判は来る。経済の消沈を和らげようとすれば、感染症対策が甘い、人命軽視と言われてしまう。感染症をとにかく徹底的に抑え込もうとすれば、生活破壊、景気破壊と言われてしまう。
しかし私は、GoToキャンペーンは必要だったと思っています。2020年春の緊急事態宣言、満員だった通勤電車すら軒並みガラガラになりました。当時感染症対策も手探り、マスクも深刻な品薄の中、飲食店も観光業も甚大な影響を受けました。
利用者が激減したならば、電車の本数は大幅に減らされても仕方ないですが、密を生まないという使命感からだと思います、電車の本数が減ることはありませんでした。鉄道会社、バス会社には、本当にありがたく思っています。当時マスクがなかなか手に入らず、手ぬぐいを顔の下半分に巻き付けて電車に乗っていた時期もありましたが、乗客同士充分に距離を保つことができたことがトラブルにならなかった大きな理由のひとつだと思っています。
大打撃を受けた交通機関、観光、飲食、興行、このままでは致命的なダメージを受けるところが多いこと、想像に難くない。だからこそ、年度内に回復できるようにして、ひどい決算にならないような政治が求められるはず。
飲食店も、各イベント会場も、感染症対策はやっていたし、GoToが大きな感染源になっていないか、政府も注意を払っていた。協力してくれたバス鉄道会社始め多くの業界をねぎらうためにも、ギリギリまでGoToを引っ張りたいという気持ちは出てくる。労うために感染拡大に目をつぶるのかと感じられるかもしれないが、そう単純な話ではない。2020年度、運輸、観光、飲食などの会社が軒並み深刻な決算となったら、雇用も大幅に減少し、住むところや食べるものを確保するのにも苦心する人々が大きく増えるのだ。
大手交通系企業の社員だけでなく、あらゆる非正規雇用者、個人経営の飲食店他、コロナの感染拡大は大変多くの人が、自身の先行きを暗く考えざるを得ない。今生活に困っている人の支援も必要だが、この先の暗がりを照らす希望も必要ではないか。
感染症が再び小康状態に入ったら次のキャンペーンを行い、打撃が大きい業種の回復をサポートし、国民の収入減も取り返せるよう景気浮揚させる。こうした先行き不安を解消するためのメッセージは必要だと思う。
実際にはなかなか小康状態にはならず、実行できるのはだいぶ先になってしまうかもしれない。それでも、先に明るいものがないと、我慢できるものも我慢できない。
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2021年03月19日
定額給付金再給付なら消費税増税、仮に言われたとして脅しにならない。
先月(2021年2月)半ば、コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言発令で、定額給付金の2度目の交付をするならば消費税を15%に増税しなければならない見通しが示されたかのような記事を見た。
政府要人の誰かが、明示的に、定額給付金の再度支給と消費税の増税はセットだと言ったのか。私は記事を見たりググったりしたが、具体的に定額給付金と消費税増税を結び付ける発言は見つけられなかった。
「10万円給付金を出すと消費税15%に引き上げるという脅迫!?大企業と富裕層と財務省のための菅首相」
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20210215-00222653/
ネットニュースでは「脅迫」なんて言葉を使っていて、インパクトが強いものだった。
この記事は週刊ポスト2月19日号(発売日2月8日)の記事を紹介した上で、藤田孝典さんが書いたもの。
しかしこの週刊ポストの記事を見ても、コロナ復興の財源として消費税を15%に引き上げる計画に着手した旨は書かれているが、2度目の定額給付金と関連付ける事柄は書かれていない。逆に、「2度目の特別定額給付金を『考えていない』と否定した」とある。
目を引くタイトルを考えるのもネットニュースを書く側の仕事かもしれないので否定はしないけれども、言っていないことで内閣批判をするという愚行をしないためにも、情報を即鵜呑みにしない癖をつけたいものです。改めて感じました。
ヤフーニュースのタイトル、ライターが決めるのだろうか、ニュースサイト側が決めるのだろうか、そこも気になりました。
それにしてもこの見出しを見た時に強く感じたこと、それは、消費税15%になったとしても、特別定額給付金は欲しい!。
生活が苦しい人がどれだけ当面の生活のお金が欲しいか。利息を払ってでも背に腹は代えられないと、時に暴利の闇金融にさえ泣き付く。収入が激減し、あるいはなくなってしまった人たちは、この緊急事態宣言中、あるいは緊急事態が明けて落ち着くまでの、その生活を何とかしたい、その一心なはずです。
今消費税増税に着手したとしても、準備に半年はかかるだろうし、常識的に感染症が収束するまでは実行はないだろう。1年先から消費税が上がるにしても、今生活費が欲しい。そう渇望している人がどれだけいるだろうか。
財源は消費税だけではないのに、なぜ逆累進性を持つと言われ貧民に手厳しい課税方法をとるのかなどの議論はあるが、議論する時間はある。それに比べて、生活苦は待ったなしなのだ!。
東日本大震災を受けて復興特別税が発生したように、今回の感染症による支出や損失に対して、新たな課税は必要になるでしょう。後に増税になると分かっていても、今の生活の不安を和らげて欲しい。
消費税率が1%毎の税収は、およそ2兆8100億円(2018年消費税一律8%下で国の税収額はおよそ17.7兆円。国6.3%地方1.7%より。)。
仮に東日本大震災の復興特別税と同じ長さの25年間、消費税を5%上げるとしたならば、国民およそ1億2557万人(総務省統計局の2021年1月1日現在概算値より)一人当たりおよそ55万9千円になる。既に10万円もらっているし、国民一律の定額給付金以外にも助成金や支援金はあるし、それら以外にも、コロナ対策で多額の費用がかかっているのは分かる。それを差し引いても、消費税5%増税を25年で70兆2500億円。総務省による、2020年の国民一人一律10万円支給時での予算計上は、事務費合わせておよそ12兆9千億円。
もしですよ。この見出しから受ける印象のように、2回目の給付金で10万円出すから消費税を15%にするというのであれば、私はもろ手を挙げて歓迎する。消費税増税4年半分の還元。民需も増えて仕事も増えて、暮らしやすくなるかもしれないと希望も持てる。そして逆累進性が言われるこの方法への補正を議論する時間もある。
このタイトルからだけでなく、記事内容のように、消費税増税がコロナ対策の損失と支出全体のためだったとしたら、70兆の内の26兆を2回の定額給付金で出すことになる。13兆から26兆、これは重大な判断となろう。
でも、少なくとも非現実的な数字ではない。
貧困層、中間層の生活が破綻することなく危機を脱することができた時のそのパワーこそ、復興の活力。そして消費が伸びなければ消費税も伸びない。
そうは言っても、消費は現実に伸びていないのよね。2006年の消費税率が1%毎の税収は、およそ2兆6250億円(2006年消費税一律5%下で国の税収額はおよそ10.5兆円。国4%地方1%より。)。ひとまわりという年月を過ぎてほとんど変わらない。
物価は、不動産とか自動車とか富裕層の資産は知らんが、食料とか交通費は確実に上がっている。金相場も上がっている。税負担も上がっている。それなのに消費する金額は増えていない。つまりは、買える物、消費の量は減っているのだ。耐えてきた中間層、貧困層が、今まさに崩壊の危機を迎えている。
消費税15%と言われようが、20%と言われようが、脅しにもならない。今年を乗り越えるなんて言ったら鬼が笑う。今月、いや、10日後の支払いに苦心しているとかいう人が増えいる。緊急事態宣言にはそれだけの影響がある。
最後に、コロナ終息後は、可処分所得がどんどん増えて、税収も伸びていく世になることを祈っている。
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2021年03月16日
マスク強制よりも自衛の更なる努力を
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コロナ下で、マスク警察なんていう言葉が出てきている。
他人に、公共の場でのマスク着用を迫る者共である。
マスクが、感染症拡大を防ぐ効果があることは理解するが、これには大いに疑問を覚える。
新型コロナが社会問題になるずっと前から思っていた。
例えばインフルエンザに感染した者はマスクをすべきかどうか。
インフルエンザに罹った者にマスクをさせるよりも、自分が罹りたくない者がマスクをすべきではないのか。そして、もっと罹りたくないならば、こまめに水を飲むとか手を洗うとかすればいいのではないか。
こまめに水を飲むと言うと、ぬるま湯を飲めば熱に弱いコロナを撃退できるというデマを思い出す方もいるでしょうが、全然違います。うがいが難しい場所でも水を飲めば細菌やウイルスを胃酸に落とすことができるということです。
病院の待合室や診察室でインフルエンザ患者がマスクをさせられるのは分かります。体力が落ちている人が多く集まっている病院なだけに、注意義務は大きく重い。
ただ、患者はただでさえ苦しい。インフルエンザになれば呼吸も苦しいし、くしゃみや鼻水も多くなりマスクはすぐに湿る。病で呼吸が苦しいところに、湿るマスクを常用しろと迫るのは酷ではないか。
病院の待合室とか、病院に行くための交通機関内ではマスクを半ば強要するにしても、家庭内とか道路上においては、苦しい病人に呼吸しやすい環境を許容して、気になるなら健康な人側がウイルスを侵入させないようにすべきだと思います。
もちろん、多少呼吸が苦しくても、周囲に移さないようにする配慮なんて当たり前ではないかという声、これはごもっとも。ただ、どれだけ苦しいか、どれぐらい我慢できるかは人によっても違うし、健康な状態であってもマスクをするのが困難な人がいるのも事実。そこも正しく認識して、もちろん感染症にかかった人はマスクをすべきに違いないのだが、強制するくらいなら、もらいたくない非罹患者の自衛をと言いたい。
マスクをしなくても、咳エチケットの実践、なるべく人と向き合わないなど、できることはあります。
今コロナで敏感になっているこの時期。
飲食店や公共交通機関、職場でマスクの着用を極めて強く求めるのは分かります。自分の経済活動が原因でクラスターが起こって欲しくないのは当たり前ですし、起こってしまったら即、社会的、経済的に大きなダメージを受ける可能性が高いことは想像に難くない。
けれど、人がすれ違う程度では伝染の可能性は極めて低いと言われていますから、他人にどこてもマスクを求めるのではなく、罹りたくなければ自分がうがい、消毒を頻繁にする、歩く時に前後の人との距離を保ち長時間近接しないようにするといった自衛を考えた方が建設的。
人それぞれ考え方、感じ方はあって、コロナはただの風邪と、何の対策も必要ないとおっしゃる方々もいる。マスクしない集団が近くに来ることもあるだろう。身を守るのは自分自身なのだ。
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2021年02月21日
漢字の読み、外来語対応へ拡大してみては。
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新型コロナウイルスり感染拡大で、これまで聞き慣れなかったカタカナの言葉を聞かない日がないぐらいになった。
クラスター、オーバーシュート、ソーシャルディスタンス、まだあるかもしれない。ただ、集団感染、爆発的患者増、社会的距離と言うこともできる。日本語らしい言葉で伝えられるのに、わざわざ聞きなれない横文字を持ち出してくることに違和感や疑問を覚えた方も多いだろう。
地震の時に「ライフライン」という言葉が使われたのも阪神淡路大震災後で、こちらも比較的最近ではあるが、こちらについては、電気水道ガス電話をひとつにまとめられるので、伝達が円滑に進む利点が充分にあった。また、光通信回線など新たなものが出現しても含めることができるし、鉄道や道路など生活に必要な物流までを含めた話をする時にもライフラインという言葉を使うことができる。
そして、「ライフ」も「ライン」も充分に浸透しているので、「ライフライン」の意味は初めて聞いても容易に推し量れる。つまり、使われるには合理的理由が充分にある。
しかし、今回のコロナ下で使われ始めた横文字には、一見合理的な理由が見付からない。もちろん、全く理由がないわけではない。表意文字の漢字を使わないことで表現を和らげているとか、日本語訳しないことで学術用語としてのニュアンスを保っていて漢字に直してしまった言葉とは違う意味を持てているといった見方もできる。だが、急ぎ人に伝え広げなければいけない事柄を扱うのになじみの薄い言葉を持ち出してくるという不自然さに対して強い理由とは私には思えない。
ところが、現実には、短期間のうちにこれらの横文字は日常生活に浸透した。一般市民の雑談においても、社会的距離よりもソーシャルディスタンス、集団感染よりもクラスターという言葉の方が自然に出てくるところが多いように思う。もちろん、どちらの言葉が多く使われるかは、それぞれの環境によって大きく異なるだろうが、これらの横文字は充分に国民に受け入れられたとは言える。
新しい言葉をどんどんと受け入れて日本語に取り入れていく力、伝統的に日本人は長けているように思う。同じ意味の言葉が存在することにも、抵抗はなく、時に併存し、時に少し意味合いが違う言葉として差別化され、細かい表現や深みがある言葉になっていく。そして言葉だけでなく、言葉と同時に、文明や文化も素早く吸収してきた。
漢字には訓読みと音読みがある。伝来した文字に日本の言葉を読みとして当てた訓読みと、伝来した文字に元々付いていた音である音読み。しかし今、音読み訓読み、あるいは日本の言葉か外国から入ってきた言葉かを意識することなく、すっかり日本の言葉として融合しています。
「やまのぼり」と言えばいいのに、なぜ「とざん」なんてパッと意味が分かりにくい言葉を使うのかとか、日本語を大切にしようなどと言う人はいません。だいたいは全く同じ意味の言葉として使いますが、時には、状況や相手、前後の文脈、微妙なニュアンス、読みやすさや聞き取りやすさとかを考えて、どちらを選択するか決めるケースもあるかもしれませんね。言葉を使うクリエイターだったら、日常茶飯事と言う方もいらっしゃるでしょう。
表意文字の漢字には音読みと訓読みがあり、表音文字はひらがなとカタカナと2セットも持つ日本語。その表現力と拡張性において、日本語は極めて優れた言語と言えると思います。
もちろん、それぞれの言語においてそれぞれ歴史があり、いいところはあるもので、言語として日本語が他の言語よりも優れていると言うつもりはありません。日本語にも不得手なところとか不便なところはあります。
しかしながら、高い表現力と拡張性を支える文字を持ち、その文字をほぼ全国民が使いこなすのを可能にできる教育システムがあるのだから、この長所は大切に、そしてこれからの時代もっと伸ばしていきたいものです。
そこで私の案なのですが、漢字を英語などの意味で読んでもOKにしませんか。
都市封鎖を「としふうさ」と読んでももちろんいいのですが、「ロックダウン」と読むことも可。世界的大流行を「パンデミック」と読んでもいい。
中国での読み方由来の音読みのように、英語由来の読み方が加わったようなものです。漢字一文字でなく熟語に読みを付けるということも、明後日(あさって)、七夕(たなばた)といった例もあるので、拒絶反応なく受け入れられる下地は、既に日本語に備わっていますよね。
更に、「先生の机上に本がある」を「ティーチャーのオンデスクにブックがある」と言ってもいいかもしれません。もちろん、国語の試験では正解にすべきではないでしょう。流行語、俗語や隠語などを持ち込んではいけないのと同じ理屈です。例えば嫉妬と書いてジェラシーと読んだら、好敵手をライバルと読んだら、誤答ですよね。その言葉を使っていい場所悪い場所まで含めて回答するのが試験ですから、文部科学省が国の言葉として充分に定着したと判断した言葉が国語で扱われる正解であるべきです。
言葉は生き物です。変異し進化する。変異しても一時のブームで淘汰されるものも多いでしょうが、積み重なってより有用な言葉へ高まっていく。その進化へのチャンス、変異を受け入れやすい、拡張性が高い言葉を私たちは使っている。
その場その場の判断において、ソーシャルディスタンスをカタカナで書くか、社会的距離とかくか、そして社会的距離の表記をシャカイテキキョリと読むかソーシャルディスタンスと読むか。どっちでもいいと適当に言ってもいいし、伝わりやすいのはどちらかとか、今の場に適したのはどちらかと考えて言う場面も出る。
例えばこんな風に、新たな言葉を受け入れるという実践をどんどんやっていければ、言葉としての能力はどんどん解放される。伝達の道具が研がれていくことになる。
可能性を実感できる実例として、マンガでの絶対に読めない振り仮名がある。
例えば戦闘漫画の魔法で、ベギラゴンというものがある。この関連ゲームや漫画を知らない人は、これだけ見ても何が起こるのか分からない。ところが、ベギラゴン、「極大閃熱呪文」と書かれて、ベギラゴンと振り仮名が振ってある。つまり、瞬時の熱で攻撃する呪文、それも高位なものと分かる。マンガなので、絵はあり、攻撃呪文であることは一目瞭然なのですが、漢字があるおかげで、台詞での説明なく受け入れられたり、閃熱呪文、火炎呪文、爆発呪文と見た目が差別化しにくいものを頭の中で区別して理解できる。
例えば外国の漫画だったとしたら。その地域ならではの語感での言葉を、日本語の漢字にして振り仮名を振ることで、その地の空気と言いますか雰囲気をある程度感じることもできて、セリフを使った開設最低限に意味も理解できる。
普段は漢字とひらがなベース、そして新たな言葉は漢字とカタカナによる振り仮名。日本語の冗長性が、ここで長所となり、圧倒的表現力と拡張力を発揮している。
これはアニメ、フィクションの話ですが、この日本語の表現力と拡張力が可能性の片鱗を見せ付けたのが、コロナ下での新ワードだと思う。学識者の間での言葉が、一瞬で国民全体に共有された。
そして、更なる進化、可能性を見た。
集団感染をクラスター、爆発的患者増をオーバーシュートと読んでは、ダメかなぁ。
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2021年02月19日
コロナ下で改めて思う。戦争のおかげで科学や技術が発展したという言い方は無い。
新型コロナの感染拡大、世界各地で非常事態宣言だとか、外出規制が行われ、感染症との戦いは戦争と形容表現されることもある。
経済活動にも影響が出て生活も変化したし、いつどこで(感染の)爆発が起こるか分からない。医療従事者への負荷の増大、収束まで耐え自粛という風潮、戦争に似た空気は確かにある。
そこで思い出されたのは、戦争によって科学や技術は発展したという言い方。今回の感染症も、科学や各種技術に大きく影響を及ぼすだろう。それによって、社会の変化も早まることだろう。
具体的には、まずテレワークやオンラインミーティングができる環境の整備。電話がない家庭がほとんどないような感覚で、仮想空間内の会議室だとかに入る環境がない人はまずいないという時代がもうすぐやってくるだろう。2021年2月現在、ビデオ会議できる性能の機器を持てない人もまだまだ多い。Windowsにしてもandroidにしても、OSアップデートのたびに重くなるので、ローコストの機器では動画のリアルタイム送受信という高負荷な作業に使える期間は短い。
テレワークが増えれば、移動時間、交通費の削減ができるため、条件さえ整えば導入したいと考えるところは多いはず。セキュリティー技術、仮想現実空間の規格などの開発が進み、通信の速度と回線の太さも更に増し増し、インタフェイスも更にユーザーフレンドリーに進歩する必要があり、それで作られたサービスが現実的な価格で普及するのは、コロナ騒動のせいで早まるだろう。その結果、拡張現実の普及も大いに早まり、ゲームやプレゼンで身近なものになるだろう。
また、ウイルスの解析、感染症対策の実効性の検証のため、超高性能なコンピューターの開発が促されるかもしれない。
もしかしたら、抗菌、抗ウイルス素材も種類が増えたりより安価になったりするだろうし、もしかしたら、光だとか音だとか空気に乗せられるものが開発されて、公共交通機関内だとか幹線道路沿いではまずウイルスはいないなんて世の中が来るかもしれない。
肺炎の治療にも新療法が生まれるかもしれない。
これらは全部想像ですが、もしこれに準ずる大きな変化があったとして、コロナウイルスのおかげで科学や技術が発展したという言い方ができるでしょうか。多分、政治家や著名人が言ったら、炎上してしまうのではないかと思います。
新型コロナの感染拡大、それによる混乱の中で、科学技術の発展速度と方向が変えられた。それは疑いようがないと思います。ところが、コロナによってとか、コロナのおかげで科学技術が発展したというのは、やっぱり違う。
非常時だからと、無理をして、特定の方向に無理をして力が集中されたから、方向が変えられた、火事場のバカ力でその方向での進展が顕著だったというだけである。
新型コロナの感染拡大がなかったら、感染拡大防止に振り分けられたエネルギーは、芸術や文化、などにも振り分けられ、別の方向に発展しただろう。死ななくて済んだ人がたくさんいる。その人たちも、科学技術はじめ社会の発展に貢献していただろう。もちろん、新型コロナがなくても、科学技術の発展が止まるわけではない。
例えば、第二次世界大戦がなかったら。例えば、日本は日中戦争で中国に抑え込まれ、ドイツとイタリアがフランスに敗れて、米英仏ソを中心とする世界の脅威とならずに終わっていたとしても、航空機産業が生まれないなんていうことはない。現在国内便、国際便共に充実した旅客機の航路網ができあがっていることに変わりはないだろう。原子力発電も、昭和の内には実用化されたに違いない。
新型コロナによる影響もそんなもんだろう。テレワークの下地となる通信網だとか危機の普及が、5年程度早まるかといったところ。医術、化学などなど他にも加速するものがあるかもしれないが、それらを足しても、感染症も悪いところばかりではなかったなどとは絶対に言えない。
当然の権利を取り戻すための戦争、例えば言論の自由がなかったり非民主主義的な環境下で、圧政に抵抗するための暴動などもあるので、戦争は全て悪とは言わない。
しかし、戦争によって科学や技術が発展した、これについては絶対に違う。強いて言えば、「戦争によって科学や技術はバランスを歪められての発展をさせられた」ということになろうかと思う。
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2021年02月17日
コロナ下、パチンコは危険なのか、そんなはずナイナイ!。
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昨年、2020年春の緊急事態宣言の頃、パチンコ店にも休業要請がかかっていました。
飲食店やライブハウスなど含めて、休業したところも多かったです。パチンコ店も多くは休業しました。
一部営業を続けていた飲食店などに対して、自粛警察と呼ばれることになる市民が攻撃を加えていました。中でも、パチンコ店への風当たりは強かったように思います。
地域によっては、自粛要請に従わない店舗を都道府県が公表するまでに至ってしまった。私はこの対応に断固反対である。この措置はむしろ感染拡大を招くと主張する。短絡的な愚かな思考にしか見えない。
まず、緊急事態宣言で客が激減している中、営業しても利益は望めない。営利目的ではなく、雇用を維持するためと、どうしてもそこを必要としている客のために、赤字覚悟でやっていることは明らかであろう。
では、パチンコホールで感染リスクは高まるか。
パチンコホールの換気能力は、店舗によって違いはあれど一般的に非常に高い。満席で大勢がタバコを吸っていても快適なレベルである。満席どころか、緊急事態宣言で通勤電車すらガラガラになった昨年春、パチンコホールも空いている。飲食店と違い会話をする人は少なく、基本客同士は背を向けて座り、ひとり黙々と台を向いている。
空いていて、向かい合っていなくて、会話もあまりなく、換気能力は最高レベル。有数の安全レベルが高い環境がそこに生まれていた。
それを攻撃したらどうなるか。営業できない店舗が増え、パチンコをせずにいられない人は空いているパチンコ屋を探して、そこに集まる。パチンコホールの極めて強力な換気能力は揺るがないが、人が集まることにより、リスクは若干でも高くなる。それに、遠方に電車で向かう人が出ることになるから、人の移動によるリスクは発生する。
従業員の生活もある。緊急事態宣言が出た当時、特別定額支給金の受取りはいつになるかメドは立っていないし、休業補償もハッキリしていない。もらえると分かっていたとしても、一般に休業補償で受け取れる金額は過去数か月の賃金実績から計算しておよそ6割プラスアルファ。ギリギリの生活をしていた人は不安で仕方がない。
だからパチンコ店が閉まったら、そこの従業員は短期の仕事を探すことになる。実際、短期、超短期の仕事の競争率は上がった。だから、遠い職場にも行かなくてはならなくなった人も多いはず。
もちろん、パチンコ店だけではないのは分かっている。パチンコ店の他、飲食店やイベント設営で働いている人、ナイトワークの方々などが、目先の収入を追わなければいけなくなった結果だ。
ただ、居酒屋とかファミレスとか、人が向き合って、マスクを外して会食する場所については、感染リスクを鑑みれば営業自粛要請も理解可能かもしれない。だけど、パチンコ店はどうしてリスクであるという判断になるのか。
パチンコとか飲食店のバイトは、自宅から近い場所で働いている方が多いだろう。それが、電車に乗って遠くまで通勤する。人の移動によるリスクが生じる。更にパチンコ店が叩かれれば、客も長距離移動して集まる。
あの圧倒的換気能力に、入退場時のアルコール消毒、検温、マスク着用のお願い、席を離すといった対策をすれば、これ以上安全な環境はないと言える場所の一つとなろう。それを潰して、電車移動する人を増やす行為は、感染拡大を招く愚策と言わざるを得ない。
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