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2014年08月26日

「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」

イェシュアの山上の垂訓の中で罪の赦しについて出てくる箇所にこの言葉がある。これは主の祈りの中にある重要な要素「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」でもあることから、イェシュアの価値観の中でも中心的な存在であろう。

弟子のひとりペテロがこのことについてイェシュアに尋ねた個所がある。ペテロが、「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」とイェシュアに尋ねたところ、イェシュアは「7度まで、などとは私は言いません。7度を70倍するまでと言います。」と言っている。

今でも「仏の顔も3度まで」と言われるぐらい、この3度までは赦すというのが昔からの世の習わしである。ペテロは、それを「7度までですか」と問うことで、実は人間が常識的に考えるような赦しよりも倍ぐらい赦せばよいのかと問うているのである。

ところが、イェシュアは7の70倍=490回まで赦しなさいと言っているわけである。まあ、490回というと結構な数だが、「では、同じ人から毎日不愉快な思いをさせられているのであれば約1年半ぐらいは赦してあげなさいという事になるのか。それ以上続くようなら許さなくてもよいのか。」などと考える方は、イェシュアの価値観を理解できていない事になる。

この問答の直後にイェシュアが語ったたとえ話(マタイ18:23〜34)では、主要な登場人物が3人いる。わかりやすく、国王と、国王に借金したA氏、A氏に借金したB氏という事にしよう。

国王:さあ、借金を耳をそろえて返してもらおう。10,000タラントだ。
A:ちょっと待ってください。まだ返せません。
国王:いや、もう待てないから全財産と妻子も売り払って返しなさい。
A:(土下座して)お願いします。後生ですからもう少しだけ待ってください。必ず全部お支払いします。
国王:(不憫に思い)いや、無理なようだからもういい。この10,000タラントの借金は帳消しにしてやる。

安堵したAは、国王の前から退いて家に帰る途中、自分が金を貸したBに出くわす。

A:(首を絞めて)お前に借した金100デナリさっさと返せ。
B:(土下座して)お願いだ。後生だからもう少しだけ待ってくれ。必ず全部返すから。
A:いや、これまで返してないんだから無理だろ。もういい、訴えてやる。(と言って借金を返せるまでBを牢屋に入れさせる)

Bの仲間はこれを見てBが不憫で、その一部始終を国王に報告すると、国王激怒。Aを呼びつけ、

国王:悪い奴だ!お前があんなにたのんだからお前の借金全部赦してやったのに、なんだこの態度は!私がお前にしたようにお前も仲間を憐れむべきだろ!
A:ひぇ〜

Aは自分の借金を全部返すまで牢屋にぶち込まれましたとさ。 (ちゃんちゃん♪)

さて問題です。
問1- Aが王様から借りた額(10,000タラント)は、現在の日本円にしていくらぐらいでしょうか。
問2- BがAから借りた額(100デナリ)は、現在の日本円にしていくらぐらいでしょうか。

簡単にさらっと聖書を読み飛ばしていると、「そうね、大体1,000万円と10万円ぐらいかな」などと思うことでしょう。
ところが、ここの理解に実はイェシュアのたとえ話の本質があるのです。

1デナリは当時の1日の日当に相当する額であることが、聖書の別の箇所からもわかっています。(マタイ20:2)
わかりやすく現在のサービス業に勤めている人の日当を¥10,000(1万円)としましょう。(え?そんなにもらってないって?いやそれはまた別の話で…)

そうすると問2の答えは・・・¥1,000,000(100万円)となります。まあ、国王から借金返せと言われた直後なら、首を絞めたくなるのも少しは理解できます。

では、Aはいくら借りてたのか。その当時の貨幣換算では、1タラントは6,000デナリに相当します。という事は、1タラントは¥60,000,000(6千万円)です。私はそれでもう土下座物ですが、Aさんはそれではとどまりません。彼の借りた額は10,000タラントなので、総負債額は…¥600,000,000,000(6千億円!)平成26年度大分県一般会計予算よりも多い。

そりゃ怒られるのも無理ないでしょ。

このたとえ話の後でイェシュアはこういいます。「あなた方もそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなた方にこのようになさるのです。」

我々が神様に対してどれだけ罪深き存在なのかを知らなければ、アブラハム・イサク・ヤコブの神であるヤハウェがどれだけ我々の事を愛しておられるかを知る由がないのはそのためであろう。しかし、そもそもの話、「罪とはなんだ?」と思われている方々のためにはまたあとで説明しようと思う。

2014年08月22日

---悔い改めよ--- イエスの価値観

日々の作業に追われなかなか思うように筆が進まない。
少しずつだが書き進めることにする。

「悔い改めよ」から始まったイエスの宣教は、その当時から画期的なものだったのだろうか。彼が初めに「悔い改め」や「アガペーの愛」というものを言い出したのだろうか。実はその辺の状況をよく知らずにいる人が多いのではないかと思う。
中学校頃から始まる授業の中で、「公民」において少し、「世界史」で少し、また高校で倫理・政経の科目を選択したものも中学校の内容に毛が生えたぐらいの、資料集に書かれている内容程度しかイエスについては知識がないのがほとんどだと思う。私もかつてはそうだった。(ま、クリスチャン家庭に育った方々なら知っているはずだが、日本人は少ないであろう。)

聖書を読み進めていく内にすぐに出会うのが、いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれている箇所である。
イエスの価値観がぎっしりと詰まった箇所であるので、まずはそこから言葉を拾い集めてみる。

「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなた方に告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)

新約聖書に出てくる箇所であることから、イエスが実際にその言葉を口から発した時には、まだ新約聖書は存在していない(新約聖書はイエスの死と復活の後に使徒らによって書かれた)ため、ここで言っている律法や預言者は全て旧約聖書(ユダヤの聖書)の律法や預言者の事であるのは明らかだ。
ここでイエスが言っているのは、私は律法を成就するために来たのであり、それを廃棄するためではないといっていることからわかるように、旧約聖書の律法はそれを正しいものであると考えていることがわかる。従って、ユダヤの教えを成就し、完成させるのがイエスであり、決して「ユダヤ教から分裂してできた」という教えではないことがわかる。

という事は、イエスの価値観はユダヤの価値観そのものであり、アブラハム・イサク・ヤコブの神であるヤハウェの教えをそのまま受け継ぎ、それを成就したと言っているのである。

したがって、本当のキリスト教の教えは、ユダヤ教の教えそのものであり、ユダヤ教の完成版こそがイエスの説いた道であるという事になる。ただ、実はこの話はかなり様々な宗教家の毛を逆なでするような内容であり、多くのユダヤ人からも多くのクリスチャンからも「何言ってんだこいつ」と思われるような内容でもある。

しかし、そう書かれているので、イエスを完全に信用することに決めた立場から言えば、「だってそう書いてあるじゃないですか」としか言いようがない。なので、そう思う方はどうぞ読んでから神様に教えを乞うてくださればよいと思います。主が明らかにしてくださるように心より祈っております。

ユダヤと書くと今のイスラエルやそれに付随するシオニスト、その前にはホロコーストなどと言うかなり血なまぐさい話になるので、「そんな神があってたまるか」という反応も多い。しかし、彼らの行いが微妙であるからと言って、またユダヤの民やイスラエル人、シオニストなどの人の行為が悪いからと言って、神様が彼らに示した道が悪いという事には決してならない。(実はそう聖書に書いてある)

話がぐだぐだになったが、イエスの価値観を探るには、新約聖書だけでなく、旧約聖書も同時に読み進めていく必要があることはこれで明らかになったのではないだろうか。
ちなみに、イエス自身もユダヤ人であり、イエス・キリストと呼ばれているのは、実はヘブライ語のギリシャ語訳であって、本来の名前はイェシュア・ハ・マシアで、これも、メシヤマシア-救世主)であるイエスイェシュア)という意味である。だから、イエスが名前で、キリストが姓などと勘違いをなさっている方々は注意していただきたい。実はこの事実は聖書を読み解く上で大変重要になってくるからである。

今後は私はイエスとは書かず、イェシュアと表記していこうと思う。そうすることで、実は旧約聖書に出てくるストーリーがどんな意味を持つのかという事が明らかになってくるからである。今後は少しずつ新約、旧約にまたがって、示されるままにイェシュアの教えを見ていこうと思う。

2014年08月16日

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
キリストであるイエスが宣教を始めたのは、この言葉からであったと聖書には記されている。

「悔い改めろ」と言われても、何を悔いて、何を改めなければならないのか。
やはり登場以来これまでに多くの人の人生に影響を及ぼした大先生の言葉については、それなりの敬意をもって、きちんと精査して理解をする努力をすべきであろう。

「悔いる」という行為は、おおよそ私の理解するところでは、自分の行った言動に間違いや悪い点があったということを認識し、それを言ったり、やらなければ良かったと残念に思うことである。二日酔いの朝などが良い例だ。

「改める」という行為は、これも私の理解では、これまでのあり方を変えるという事で、この場合は前で悔いた悪い点や行いをやめ、新しく正しい、良いものに変えるということである。

ということはイエスは何か我々が行っていることについて、それが良くないものであると気づき、正しい行いをするようにしなさいと言っていることになる。それには前提となるものが必要であろう。それは何か。

我々の行いが悪いものであると気づくことである。

何が正しくて、何が間違いであるかというものは、究極的には個人個人の価値観にゆだねられているものである。それはもう少し軽めの話題だと、「好き嫌い」と同じものである。Aさんはピーマンが大嫌いで、ニンジンが大好き、対してBさんはニンジンが大嫌いでピーマンが大好物といった場合、Bさんが「これおいしいからぜひ食べて」とAさんに青椒肉絲でも振舞おうものなら、Aさんは「絶対に嫌だ!」と食べないだろうし、それを見たBさんも、「なんだこいつ、人の好意を無にしやがって!」となるのは誰の目にも明らかだろう。

何が正しい、何が間違いというものについても同じで、個人個人の価値観に従ってそれらが決定されている以上、前述のような事態も間違いなく起こるということである。殺人は悪いことという価値観は、ほぼ大多数の人間が共有する価値観であろうが(そう信じたい)、同じ程度にたとえば盗むこと、嘘をつくこと、不倫をすることなどについても人間の大多数がそれを悪いことであると認識しているのだろうか。ましてや、聖書に書かれている、「あなたの父と母を敬え」や「軽々しく心をいらだててはならない」等については一体どうなっているのか。(う〜ん・・・これは間違いなく私の反省事項だ)ふらふら

このように、人によって価値観の物差しが変わる以上、お互いに理解をすることが困難であるばかりか、イエスの言っている「悔い改めよ」ということを理解するのですら困難であることがわかると思う。イエスの持つ価値観を知らずに、悔い改めることは大変難しいだろう。なぜなら、「何を悔いて、何を改める」べきかが理解できないのだから。

次回はそのイエスの持つ価値観について考察してみようと思う。

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