2014年08月22日
---悔い改めよ--- イエスの価値観
日々の作業に追われなかなか思うように筆が進まない。
少しずつだが書き進めることにする。
「悔い改めよ」から始まったイエスの宣教は、その当時から画期的なものだったのだろうか。彼が初めに「悔い改め」や「アガペーの愛」というものを言い出したのだろうか。実はその辺の状況をよく知らずにいる人が多いのではないかと思う。
中学校頃から始まる授業の中で、「公民」において少し、「世界史」で少し、また高校で倫理・政経の科目を選択したものも中学校の内容に毛が生えたぐらいの、資料集に書かれている内容程度しかイエスについては知識がないのがほとんどだと思う。私もかつてはそうだった。(ま、クリスチャン家庭に育った方々なら知っているはずだが、日本人は少ないであろう。)
聖書を読み進めていく内にすぐに出会うのが、いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれている箇所である。
イエスの価値観がぎっしりと詰まった箇所であるので、まずはそこから言葉を拾い集めてみる。
「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなた方に告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)
新約聖書に出てくる箇所であることから、イエスが実際にその言葉を口から発した時には、まだ新約聖書は存在していない(新約聖書はイエスの死と復活の後に使徒らによって書かれた)ため、ここで言っている律法や預言者は全て旧約聖書(ユダヤの聖書)の律法や預言者の事であるのは明らかだ。
ここでイエスが言っているのは、私は律法を成就するために来たのであり、それを廃棄するためではないといっていることからわかるように、旧約聖書の律法はそれを正しいものであると考えていることがわかる。従って、ユダヤの教えを成就し、完成させるのがイエスであり、決して「ユダヤ教から分裂してできた」という教えではないことがわかる。
という事は、イエスの価値観はユダヤの価値観そのものであり、アブラハム・イサク・ヤコブの神であるヤハウェの教えをそのまま受け継ぎ、それを成就したと言っているのである。
したがって、本当のキリスト教の教えは、ユダヤ教の教えそのものであり、ユダヤ教の完成版こそがイエスの説いた道であるという事になる。ただ、実はこの話はかなり様々な宗教家の毛を逆なでするような内容であり、多くのユダヤ人からも多くのクリスチャンからも「何言ってんだこいつ」と思われるような内容でもある。
しかし、そう書かれているので、イエスを完全に信用することに決めた立場から言えば、「だってそう書いてあるじゃないですか」としか言いようがない。なので、そう思う方はどうぞ読んでから神様に教えを乞うてくださればよいと思います。主が明らかにしてくださるように心より祈っております。
ユダヤと書くと今のイスラエルやそれに付随するシオニスト、その前にはホロコーストなどと言うかなり血なまぐさい話になるので、「そんな神があってたまるか」という反応も多い。しかし、彼らの行いが微妙であるからと言って、またユダヤの民やイスラエル人、シオニストなどの人の行為が悪いからと言って、神様が彼らに示した道が悪いという事には決してならない。(実はそう聖書に書いてある)
話がぐだぐだになったが、イエスの価値観を探るには、新約聖書だけでなく、旧約聖書も同時に読み進めていく必要があることはこれで明らかになったのではないだろうか。
ちなみに、イエス自身もユダヤ人であり、イエス・キリストと呼ばれているのは、実はヘブライ語のギリシャ語訳であって、本来の名前はイェシュア・ハ・マシアで、これも、メシヤ(マシア-救世主)である(ハ)イエス(イェシュア)という意味である。だから、イエスが名前で、キリストが姓などと勘違いをなさっている方々は注意していただきたい。実はこの事実は聖書を読み解く上で大変重要になってくるからである。
今後は私はイエスとは書かず、イェシュアと表記していこうと思う。そうすることで、実は旧約聖書に出てくるストーリーがどんな意味を持つのかという事が明らかになってくるからである。今後は少しずつ新約、旧約にまたがって、示されるままにイェシュアの教えを見ていこうと思う。
少しずつだが書き進めることにする。
「悔い改めよ」から始まったイエスの宣教は、その当時から画期的なものだったのだろうか。彼が初めに「悔い改め」や「アガペーの愛」というものを言い出したのだろうか。実はその辺の状況をよく知らずにいる人が多いのではないかと思う。
中学校頃から始まる授業の中で、「公民」において少し、「世界史」で少し、また高校で倫理・政経の科目を選択したものも中学校の内容に毛が生えたぐらいの、資料集に書かれている内容程度しかイエスについては知識がないのがほとんどだと思う。私もかつてはそうだった。(ま、クリスチャン家庭に育った方々なら知っているはずだが、日本人は少ないであろう。)
聖書を読み進めていく内にすぐに出会うのが、いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれている箇所である。
イエスの価値観がぎっしりと詰まった箇所であるので、まずはそこから言葉を拾い集めてみる。
「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなた方に告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)
新約聖書に出てくる箇所であることから、イエスが実際にその言葉を口から発した時には、まだ新約聖書は存在していない(新約聖書はイエスの死と復活の後に使徒らによって書かれた)ため、ここで言っている律法や預言者は全て旧約聖書(ユダヤの聖書)の律法や預言者の事であるのは明らかだ。
ここでイエスが言っているのは、私は律法を成就するために来たのであり、それを廃棄するためではないといっていることからわかるように、旧約聖書の律法はそれを正しいものであると考えていることがわかる。従って、ユダヤの教えを成就し、完成させるのがイエスであり、決して「ユダヤ教から分裂してできた」という教えではないことがわかる。
という事は、イエスの価値観はユダヤの価値観そのものであり、アブラハム・イサク・ヤコブの神であるヤハウェの教えをそのまま受け継ぎ、それを成就したと言っているのである。
したがって、本当のキリスト教の教えは、ユダヤ教の教えそのものであり、ユダヤ教の完成版こそがイエスの説いた道であるという事になる。ただ、実はこの話はかなり様々な宗教家の毛を逆なでするような内容であり、多くのユダヤ人からも多くのクリスチャンからも「何言ってんだこいつ」と思われるような内容でもある。
しかし、そう書かれているので、イエスを完全に信用することに決めた立場から言えば、「だってそう書いてあるじゃないですか」としか言いようがない。なので、そう思う方はどうぞ読んでから神様に教えを乞うてくださればよいと思います。主が明らかにしてくださるように心より祈っております。
ユダヤと書くと今のイスラエルやそれに付随するシオニスト、その前にはホロコーストなどと言うかなり血なまぐさい話になるので、「そんな神があってたまるか」という反応も多い。しかし、彼らの行いが微妙であるからと言って、またユダヤの民やイスラエル人、シオニストなどの人の行為が悪いからと言って、神様が彼らに示した道が悪いという事には決してならない。(実はそう聖書に書いてある)
話がぐだぐだになったが、イエスの価値観を探るには、新約聖書だけでなく、旧約聖書も同時に読み進めていく必要があることはこれで明らかになったのではないだろうか。
ちなみに、イエス自身もユダヤ人であり、イエス・キリストと呼ばれているのは、実はヘブライ語のギリシャ語訳であって、本来の名前はイェシュア・ハ・マシアで、これも、メシヤ(マシア-救世主)である(ハ)イエス(イェシュア)という意味である。だから、イエスが名前で、キリストが姓などと勘違いをなさっている方々は注意していただきたい。実はこの事実は聖書を読み解く上で大変重要になってくるからである。
今後は私はイエスとは書かず、イェシュアと表記していこうと思う。そうすることで、実は旧約聖書に出てくるストーリーがどんな意味を持つのかという事が明らかになってくるからである。今後は少しずつ新約、旧約にまたがって、示されるままにイェシュアの教えを見ていこうと思う。
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