2017年12月06日
「主の御名をみだりに唱えてはならない」とはどういう事なのだろうか。
久しく投稿をすることなく、前回の投稿からすでに1年以上経過してしまいました。まあ、その間色々とあった訳ですが、その中でもとある団体用に聖書に基づくシリーズものを連載することになったので、その中で納まりきらない重要な聖書の解釈についてここで述べてみたいと思います。
今回は、出エジプト記20章にあるモーセの「十戒」三条の、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めについて考察してみたいと思います。そもそもなぜこの話になったのかといいますと、ここで言われている「みだりに」が、「みだりに」≒「軽々しく」とそれこそ軽々しく解釈され、その結果映画などでイェシュア・ハ・マシヤ(Jesus Christ)が悪態として使われている現象につながっている背景について考察するきっかけがあったからです。
この様な誤解釈から、実は様々な歴史的な動きが生まれ、その過程で「“Jesus Christ”なんてむやみに口にしてはいけません!」というタブーが誕生したという経緯がありますが、そもそもなぜこのような現象が起こったのかというと、実はこれは翻訳と解釈の狭間で起こった誤解に起因している事であり、今回はこの件について詳しく掘り下げて分析していこうと思います。
そもそも、「十戒」第三条、「主の御名をみだりに唱えてはならない」の中の「みだりに」という訳は、聖書が日本語に翻訳される以前から、「in vain」と訳されてきています。それを見て行きますと、イングランド王ジェームズT世が英訳させた欽定訳(1611年)では、「Thou shalt not take the name of the LORD thy God in vain」、それよりも前に英訳を試みたティンデール訳(1520年頃)では、「Thou shalt not take the name of the Lorde thy God in vayne」、もっと前のウィクリフ訳(1390年頃)では、「Thou shalt not take in vain the name of thy Lord God」とあり、この時点ですでに「in vain」と訳されており、それが和訳の際に「みだりに」となっていった事が分かります。
ところが、この箇所を原典のヘブル語の聖書の語句を見てみると、この「in vain (みだりに)」に相当する語句が「シャヴ」(Shav’)となっています。ヘブル語は一つの言葉に意味が複数存在する言語なので、その意味をいくつか挙げて、大まかな意味の塊として捉えなおすと、むなしい、空虚、無駄に、価値のない、の意味であるemptiness、emptiness of speech、vain、vanity、nothingness、worthless、worthlessness (of conduct)という言意と、不真実、うそ、虚偽、まやかし、欺瞞と捉えるfalse、falsehood、lies、lying、deceit、deceitful、deception、false visionsという二種に大別できます。つまり、この箇所でこの「シャヴ」をどう受け止めることが最もヘブル語の原典に近い解釈になるのか、という事を吟味しなければなりません。
この「シャヴ」という単語は聖書の他の箇所でも使われていて、それらを参照しつつ、なおかつ現在問題にしている「十戒」における使い方を再度吟味してみると、面白い事が分かってきます。まず、全体のニュアンスとして「むなしい・空虚」という意味の「in vain」を解釈として当てるのが相応しそうな個所として、次の箇所があります。詩編127編1~2節に、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守るものの見張りはむなしい。」とあります。ここの「むなしい」にも先ほどの「シャヴ」が使われていますが、(働き・見張り)が「むなしい」と表現する場合、「無駄である」という言意が「まやかしである」と捉えるよりもずっとしっくりくるのは明らかなので、この箇所は先程の「in vain(むなしい)」が妥当な訳であるという事が分かります。
では、次の箇所はどうでしょうか。エゼキエル書13章6〜9節には、「彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなた方はむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。私が語りもしないのに、『主の御告げ』と言っている。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、私はあなた方に立ち向かう。―神である主の御告げ―私は、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らは私の民の交わりに加えられず、イスラエルの家の席にも入れられない。イスラエルの地にも入る事が出来ない。この時、あなたがたは私が神、主であることを知ろう。」この日本語版聖書では下線部の「むなしい」が、「シャヴ」に相当する箇所なのですが、これは欽定訳聖書などでも「in vain(むなしい)」と訳されています。しかし、この「シャヴ」の箇所を前後の文脈から判断すると、「むなしい・空虚」と捉えたほうが良いのか、それとも「まやかしである」と捉えたほうが良いのかを吟味した時、「in vain(むなしい)」としてよかったのかどうかについて大きな疑問が生じます。
聖書のレトリックでは、同じようなことを繰り返し述べるという手法が多くつかわれています。この箇所でも、「むなしい幻を見、まやかしの占い」という表現が何度も出てきていることからもわかると思います。そこで、そのようなレトリックがこの「むなしい幻を見、まやかしの占い」にもあてはまると解すると、ここでいう「幻」も「占い」も同じような事として捉えられるという事になります。ただ、その際にはこれらを「むなしい」ととるべきなのか、それとも「まやかし」ととるべきなのかで分かれるところですが、この場合は「まやかし」と捉えるのが妥当であると思います。なぜかといいますと、この「占い」にかかっている方の「まやかし」は原典のヘブル語では「カザヴ(Kazab)」と記され、その意味は嘘、不真実、まやかし、欺き(a lie, untruth, falsehood, deceptive thing)といった意味であり、そこから「むなしい」という言意はくみ取れないことから、「幻」の方にかかっている「シャヴ」は「カザヴ」と同義に捉えられるように解釈する、つまり「in vain(むなしい)」ではなく、「まやかしである」と捉えるべきであることが示唆されています。まあ、最もそこまで話をややこしくせずとも、「あなた方はむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。私が語りもしないのに、『主の御告げ』と言っている。」の箇所で「私が語りもしないのに」「言っている」という事からも、「まやかし」と捉えるのが適切であることは明らかなのですが。
さらに、もっと大きな視点で、先述の「十戒」の第三条の続きまで見て文脈で判断するとそれがもっと良く分かります。出エジプト記20章7節の「十戒」をきちんと見てみると、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」とあります。つまりヤハウェの神は、その御名を「みだりに」唱えると「必ず罰する」とここで宣言している事が明らかにわかります。これを踏まえて先ほどのエゼキエル書13章8〜9節を見直すと、そこにも同様に、「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、私はあなた方に立ち向かう。―神である主の御告げ―私は、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らは私の民の交わりに加えられず、イスラエルの家の席にも入れられない。イスラエルの地にも入る事が出来ない。この時、あなたがたは私が神、主であることを知ろう。」と、このような「むなしい幻を見、まやかしの占い」をしている者たちに「立ち向かい」、「手を下し」、「(主の民に加えられる、イスラエルの家の席や地に入るといった)祝福を与えない」ことで「必ず罰する」としています。したがって、「十戒」の箇所はエゼキエル書の箇所と密接にかかわっていることから、そこの解釈は同じようになされるのが筋であり、「十戒」の「むなしい」は実は「まやかしの」と訳するのが妥当であるという事になるわけです。
では、「主の御名を唱える」と罰せられるのか、というと、これも違います。この件については、また新たな話にもなるので、次回以降に掘り下げて考察してみようと思いますが、ここでの「唱える」も「むなしい」同様、少々翻訳・解釈の際に注意を要する必要のある個所なのです。これらを総合してみてみると、いったい、「主の御名を、みだりに唱えてはならない」という、破れば必罰を被る行為とはどのような行為を行う事を指して十戒により戒められているのだろうかという事にたどり着きます。その理解を進めるためには、訳文をより原典の意に沿った形に書き改めることから見えてくるのではないかと思います。「主の御名を、欺瞞の為に取り掲げてはならない」ここでは説明を省きますが、「唱える」という事もこれまでして来た様に分析すると、ここも原典のヘブル語では別の言意を持っているので、それを文脈を含めて吟味した時にしっくりと来るものに置き換えてみました。それを踏まえてよく読むと、ちょうどエゼキエル書で出てきたように、ここでは「これは主がそう仰せなのだ」とうそをつき、まやかしを働くことが必罰の戒めだとされていることが読み取れます。神様が言ってもいない事を、あたかも神様がそう告げているといって人の信仰心を食い物にするような行為が、真の天の父ヤハウェが忌み嫌い、「必ず罰する」としている行為なのです。
ちょっと古臭い喩えになるかもしれませんが、この行為は例えば、水戸黄門のご老公様の印籠を用いることのできる者が、勝手に印籠を掲げて黄門様の言っていない事について、「水戸のご老公様はこう仰せであられる」と言う事に等しい行為であるという理解でいいと思います。まあ、八兵衛が印籠を持ち出して、団子屋に行き、「水戸のご老公の命により、団子100皿を無償で差し出せ!」と言うのと同じという事になります。八兵衛がたらふく団子を食って、それこそ私腹を肥やした後、このことが黄門様にばれたら黄門様は慈悲深い笑みをたたえて、「良い良い、腹が空いておったのじゃな、かわいそうに」と言って許すはずがありません。そんなことをすれば、水戸のご老公の名前に「無銭飲食の幇助者」という泥を塗り、黄門様の権威をたいそう貶めることになるわけで、それを軽々しく許してしまうと、今後悪代官をとっちめる際に、どんなに助さん格さんが大見得を切って印籠を出したところで、悪代官から、「貴様らも権力を私物化して無銭飲食をしているくせに、正義面してんじゃねぇよ!」と言われるのが目に見えているからです。そういう訳で、「泣いて馬謖を斬る」のと同様に、このような行いをしたものは必ず断罪されることになるわけです。
そういう訳で、智慧の王ソロモンが、伝道者の書の最後で、「神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」と喝破している訳であり、また、マタイの福音書21章後半で、「何の権威をもって事を行い、だれがあなたにそんな権威を授けたのか」とイェシュアを問い詰めた祭司や律法学者、パリサイ人らに対して、イェシュアがたとえ話を用いて叱りつけ、「だから、私はあなた方に言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」と言い放ったのです。これを見ていると、自らを権威者とみなす者は当然のことながら、神様の権威を笠に着て、「主の宣告はこうだ」などと言う者には決してならないように、普段からの言動には細心の注意を払わねばならないと心底思うわけです。
今回は、出エジプト記20章にあるモーセの「十戒」三条の、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めについて考察してみたいと思います。そもそもなぜこの話になったのかといいますと、ここで言われている「みだりに」が、「みだりに」≒「軽々しく」とそれこそ軽々しく解釈され、その結果映画などでイェシュア・ハ・マシヤ(Jesus Christ)が悪態として使われている現象につながっている背景について考察するきっかけがあったからです。
この様な誤解釈から、実は様々な歴史的な動きが生まれ、その過程で「“Jesus Christ”なんてむやみに口にしてはいけません!」というタブーが誕生したという経緯がありますが、そもそもなぜこのような現象が起こったのかというと、実はこれは翻訳と解釈の狭間で起こった誤解に起因している事であり、今回はこの件について詳しく掘り下げて分析していこうと思います。
そもそも、「十戒」第三条、「主の御名をみだりに唱えてはならない」の中の「みだりに」という訳は、聖書が日本語に翻訳される以前から、「in vain」と訳されてきています。それを見て行きますと、イングランド王ジェームズT世が英訳させた欽定訳(1611年)では、「Thou shalt not take the name of the LORD thy God in vain」、それよりも前に英訳を試みたティンデール訳(1520年頃)では、「Thou shalt not take the name of the Lorde thy God in vayne」、もっと前のウィクリフ訳(1390年頃)では、「Thou shalt not take in vain the name of thy Lord God」とあり、この時点ですでに「in vain」と訳されており、それが和訳の際に「みだりに」となっていった事が分かります。
ところが、この箇所を原典のヘブル語の聖書の語句を見てみると、この「in vain (みだりに)」に相当する語句が「シャヴ」(Shav’)となっています。ヘブル語は一つの言葉に意味が複数存在する言語なので、その意味をいくつか挙げて、大まかな意味の塊として捉えなおすと、むなしい、空虚、無駄に、価値のない、の意味であるemptiness、emptiness of speech、vain、vanity、nothingness、worthless、worthlessness (of conduct)という言意と、不真実、うそ、虚偽、まやかし、欺瞞と捉えるfalse、falsehood、lies、lying、deceit、deceitful、deception、false visionsという二種に大別できます。つまり、この箇所でこの「シャヴ」をどう受け止めることが最もヘブル語の原典に近い解釈になるのか、という事を吟味しなければなりません。
この「シャヴ」という単語は聖書の他の箇所でも使われていて、それらを参照しつつ、なおかつ現在問題にしている「十戒」における使い方を再度吟味してみると、面白い事が分かってきます。まず、全体のニュアンスとして「むなしい・空虚」という意味の「in vain」を解釈として当てるのが相応しそうな個所として、次の箇所があります。詩編127編1~2節に、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守るものの見張りはむなしい。」とあります。ここの「むなしい」にも先ほどの「シャヴ」が使われていますが、(働き・見張り)が「むなしい」と表現する場合、「無駄である」という言意が「まやかしである」と捉えるよりもずっとしっくりくるのは明らかなので、この箇所は先程の「in vain(むなしい)」が妥当な訳であるという事が分かります。
では、次の箇所はどうでしょうか。エゼキエル書13章6〜9節には、「彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなた方はむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。私が語りもしないのに、『主の御告げ』と言っている。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、私はあなた方に立ち向かう。―神である主の御告げ―私は、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らは私の民の交わりに加えられず、イスラエルの家の席にも入れられない。イスラエルの地にも入る事が出来ない。この時、あなたがたは私が神、主であることを知ろう。」この日本語版聖書では下線部の「むなしい」が、「シャヴ」に相当する箇所なのですが、これは欽定訳聖書などでも「in vain(むなしい)」と訳されています。しかし、この「シャヴ」の箇所を前後の文脈から判断すると、「むなしい・空虚」と捉えたほうが良いのか、それとも「まやかしである」と捉えたほうが良いのかを吟味した時、「in vain(むなしい)」としてよかったのかどうかについて大きな疑問が生じます。
聖書のレトリックでは、同じようなことを繰り返し述べるという手法が多くつかわれています。この箇所でも、「むなしい幻を見、まやかしの占い」という表現が何度も出てきていることからもわかると思います。そこで、そのようなレトリックがこの「むなしい幻を見、まやかしの占い」にもあてはまると解すると、ここでいう「幻」も「占い」も同じような事として捉えられるという事になります。ただ、その際にはこれらを「むなしい」ととるべきなのか、それとも「まやかし」ととるべきなのかで分かれるところですが、この場合は「まやかし」と捉えるのが妥当であると思います。なぜかといいますと、この「占い」にかかっている方の「まやかし」は原典のヘブル語では「カザヴ(Kazab)」と記され、その意味は嘘、不真実、まやかし、欺き(a lie, untruth, falsehood, deceptive thing)といった意味であり、そこから「むなしい」という言意はくみ取れないことから、「幻」の方にかかっている「シャヴ」は「カザヴ」と同義に捉えられるように解釈する、つまり「in vain(むなしい)」ではなく、「まやかしである」と捉えるべきであることが示唆されています。まあ、最もそこまで話をややこしくせずとも、「あなた方はむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。私が語りもしないのに、『主の御告げ』と言っている。」の箇所で「私が語りもしないのに」「言っている」という事からも、「まやかし」と捉えるのが適切であることは明らかなのですが。
さらに、もっと大きな視点で、先述の「十戒」の第三条の続きまで見て文脈で判断するとそれがもっと良く分かります。出エジプト記20章7節の「十戒」をきちんと見てみると、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」とあります。つまりヤハウェの神は、その御名を「みだりに」唱えると「必ず罰する」とここで宣言している事が明らかにわかります。これを踏まえて先ほどのエゼキエル書13章8〜9節を見直すと、そこにも同様に、「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、私はあなた方に立ち向かう。―神である主の御告げ―私は、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らは私の民の交わりに加えられず、イスラエルの家の席にも入れられない。イスラエルの地にも入る事が出来ない。この時、あなたがたは私が神、主であることを知ろう。」と、このような「むなしい幻を見、まやかしの占い」をしている者たちに「立ち向かい」、「手を下し」、「(主の民に加えられる、イスラエルの家の席や地に入るといった)祝福を与えない」ことで「必ず罰する」としています。したがって、「十戒」の箇所はエゼキエル書の箇所と密接にかかわっていることから、そこの解釈は同じようになされるのが筋であり、「十戒」の「むなしい」は実は「まやかしの」と訳するのが妥当であるという事になるわけです。
では、「主の御名を唱える」と罰せられるのか、というと、これも違います。この件については、また新たな話にもなるので、次回以降に掘り下げて考察してみようと思いますが、ここでの「唱える」も「むなしい」同様、少々翻訳・解釈の際に注意を要する必要のある個所なのです。これらを総合してみてみると、いったい、「主の御名を、みだりに唱えてはならない」という、破れば必罰を被る行為とはどのような行為を行う事を指して十戒により戒められているのだろうかという事にたどり着きます。その理解を進めるためには、訳文をより原典の意に沿った形に書き改めることから見えてくるのではないかと思います。「主の御名を、欺瞞の為に取り掲げてはならない」ここでは説明を省きますが、「唱える」という事もこれまでして来た様に分析すると、ここも原典のヘブル語では別の言意を持っているので、それを文脈を含めて吟味した時にしっくりと来るものに置き換えてみました。それを踏まえてよく読むと、ちょうどエゼキエル書で出てきたように、ここでは「これは主がそう仰せなのだ」とうそをつき、まやかしを働くことが必罰の戒めだとされていることが読み取れます。神様が言ってもいない事を、あたかも神様がそう告げているといって人の信仰心を食い物にするような行為が、真の天の父ヤハウェが忌み嫌い、「必ず罰する」としている行為なのです。
ちょっと古臭い喩えになるかもしれませんが、この行為は例えば、水戸黄門のご老公様の印籠を用いることのできる者が、勝手に印籠を掲げて黄門様の言っていない事について、「水戸のご老公様はこう仰せであられる」と言う事に等しい行為であるという理解でいいと思います。まあ、八兵衛が印籠を持ち出して、団子屋に行き、「水戸のご老公の命により、団子100皿を無償で差し出せ!」と言うのと同じという事になります。八兵衛がたらふく団子を食って、それこそ私腹を肥やした後、このことが黄門様にばれたら黄門様は慈悲深い笑みをたたえて、「良い良い、腹が空いておったのじゃな、かわいそうに」と言って許すはずがありません。そんなことをすれば、水戸のご老公の名前に「無銭飲食の幇助者」という泥を塗り、黄門様の権威をたいそう貶めることになるわけで、それを軽々しく許してしまうと、今後悪代官をとっちめる際に、どんなに助さん格さんが大見得を切って印籠を出したところで、悪代官から、「貴様らも権力を私物化して無銭飲食をしているくせに、正義面してんじゃねぇよ!」と言われるのが目に見えているからです。そういう訳で、「泣いて馬謖を斬る」のと同様に、このような行いをしたものは必ず断罪されることになるわけです。
そういう訳で、智慧の王ソロモンが、伝道者の書の最後で、「神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」と喝破している訳であり、また、マタイの福音書21章後半で、「何の権威をもって事を行い、だれがあなたにそんな権威を授けたのか」とイェシュアを問い詰めた祭司や律法学者、パリサイ人らに対して、イェシュアがたとえ話を用いて叱りつけ、「だから、私はあなた方に言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」と言い放ったのです。これを見ていると、自らを権威者とみなす者は当然のことながら、神様の権威を笠に着て、「主の宣告はこうだ」などと言う者には決してならないように、普段からの言動には細心の注意を払わねばならないと心底思うわけです。
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