2015年07月24日
「神の国が近い」ことはどのようにしてわかるのか。
前回、「世の終わりが近づいている」と巷が騒がしいことについて述べた。その「世の終わり」とは、これまで我々が見聞きしてきた、「人の国」の終わりであり、それはイェシュアの言う、「神の国」が近づいたという事と同義である。では、その「神の国」が近づいたというのはどのようにしたらわかるのか。我々は何をすればよいのか。それらについて考察してみたいと思う。
前々回に、「国が内部で分裂したら、その国は立ち行かない」というイェシュアの言葉を引用した。これは、国であれ、家族であれ、民族であれ、会社であれ、同じである。つまり、お互いに噛み付き合うような集団は、その大小を問わず自滅するという事である。「人の国」の終わりというのは、そのように自らの手で滅んでいくのであり、そののち「神の国」が現れるという事である。では、それはどのようにしてわかるのだろうか。
人の国というのは現代の国家の在り方でもあるが、端的にいえば中世の思想家たちが一生懸命考案した民主主義による国の有り方であり、それが日本を含む現代の多くの国の形であろう。その思想家の一人、ホッブズはその著書「リヴァイアサン」で、人間をほっておくと、互いに自然権を行使し合って「万人の万人に対する闘争」という混沌とした状況になると考察し、そのような混乱した状態を回避し、皆が平和で共存できるようにするために「社会契約」を採るべきだと述べた。
この「社会契約」については、ジョン・ロックの「統治二論」やジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」でも違った角度から議論されてはいるが、これらはどちらにせよ以下の状態である事を表現している。
人間はほっておくと自分がやりたいと思う事を勝手に行い、それが互いに悪い影響を与え、巡り巡って自分が損をする。その様に自分が損をしないように、話し合いを通じて「社会契約」を結び(つまり世の中の一般的な決まり事を作り)、それが体現化された法律の下、法治国家として法の下でお互いが噛み付き合わないようにする。という事である。
これが、現代社会に多い民主主義国家の基本的な考え方であり、現在も多くの国がその概念に基づいて国家を形成している。
しかし、である。
このような「社会契約」を結ぼうと思うこと自体、自己保存をするためにではあるが一応相手の意見も取り入れようというヒューマニズムのような姿勢がその根底にはある。それは、本当に「相手を思いやる気持ち」である良心には程遠いにせよ、曲がりなりにも愛の表れではないだろうか。しかし、そのように相手の立場に思いをはせるかようなヒューマニズム的気持ちすらなくなって、人の心が荒んでくると、「力をつければ自分に害を加える恐れのある者は蹴散らせる」となり、「力があれば恐れるものはない」と傲慢になっていくのである。
そうなってしまえば、中世の思想家たちが危惧していた「万人の万人に対する闘争」状態と最早何も変わらないのではないだろうか。
ヒューマニズムは人間中心主義であり、神の支配を否定した人間中心的なものの考え方である。神に対し、「あなたは私たちを支配するべきではない。我々人間自らが世の中を制御できる」という、神を否定し、人間を肯定するものの考え方である。しかし、先に述べたように、その末路は当の考案者らが危惧していた「万人の万人に対する闘争」にしかならないという事である。
イェシュアはこう述べている。
「人に惑わされないように気をつけなさい。
私の名を名乗るものが大勢現れ、『私こそキリストだ』(注:キリスト=メシヤ=救いを与える者)と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争の事や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、慌てないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。
しかし、そのようなことは皆、生みの苦しみの初めなのです。
その時、人々は、あなた方を苦しい目に遭わせ、殺します。また、私の名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。
また、その時は、人々が大勢躓き、互いに裏切り、憎みあいます。
また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイによる福音書24章4-13節)
「その時には、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてないような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、一人として救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
その時、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とかいう者があっても、信じてはいけません。
偽キリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、私は、あなた方に前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西に閃くように、ちょうどそのように来るのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
その時、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイによる福音書24章4-13節)
最後の部分に関しては「何のSF映画だ?」というような情景が描かれているが、それが信じられなくても、その前に述べた、偽救世主が多く出てくるという事を前もって予言している方の言う事である。これまでも、また現在も様々な人間が「私の道こそ真理だ」などと教え述べて、救いを求めてさまよう人々から金品を巻き上げ、豪勢な生活を送っているのは事実であり、そのような輩が多く出て来るという事を2千年以上も前に確実に言い当てた人が言う言葉なのであれば、多少信用しても良いのではないだろうか。
イェシュアが言うには、人の子(救世主)はだれの目にも明らかに人の子(救世主)だと解るように現れる。と言っているのである。もっとも疑り深い私にも明らかに解るように来ると言っているのである。それが神の国の到来であり、その前には戦争や、戦争のうわさ、飢饉、地震、迫害、不法がはびこる、愛がなくなる、偽預言者や偽救世主が現れ、不思議なことや大きなしるしを行って見せ、人をだますという前兆が現れると言っている。
また、パウロは若いテモテにあてた手紙で、終わりの日の様子についてこう書いている。
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。
その時に人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を穢す者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制の無い者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定するような者になるからです。こういう人々を避けなさい。(テモテへの第2の手紙3章1-5節)
また、イェシュアの兄弟ユダも以下のような事をその手紙に記している。
彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人を褒めるのです。
愛する人々よ。私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)の使徒たちが、前もって語った言葉を思い起こしてください。
彼らはあなた方にこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。(ユダの手紙16-19節)
何という事だ!私の中にも思い当たる節が数多くあるではないか!さすがに黒羊だけのことはある。私は私の中に完全なものは何一つとして無いという事を目の当たりにし、それを直視し、自らを蔑み、日々悔いているのである。そのような者に対する救いがあるからこそ、私はそれに依り頼むのだ。
パウロもこのようなことをローマ人への手紙で言っている。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にあるものです。
私には、自分のしていることが判りません。私は自分がしたいと思う事をしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
もし自分のしたくない事をしているとすれば、律法は良い物であることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着いている罪なのです。私は、私の内、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが無いからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくない事をしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、体の中にある罪の律法の虜にしているのを見出すのです。
私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)のゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、いまは、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある、命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためなのです。
肉に従うものは肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従うものは御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、命と平安です。(ローマ人への手紙7章14節-8章6節)
先述のヒューマニズムとは違い、人には良心というものが存在するのはだれでも知っている。それこそが、神が私たちに与えた御霊であるのに、神を否定する人間がその名を「良心」としてしまったのだ。このことは、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」と聖書が言っている事によりはっきりしている。それは相手を思いやる気持ち、赦す気持ち、いつくしむ気持ちであり、それが愛なのであり、それこそが、「神が人間の内に住まわせた御霊」なのだ。しかし人の中には肉があり、(つまりそれを認めたくない、自分こそが自分の主だという心)があり、巷に行き交う悪霊も混ざって、様々なまやかしを行う。だから、ヨハネも彼の手紙でこう記している。
愛する者たち。霊だからと言って、皆信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)を告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イェシュアを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなた方はそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(ヨハネによる第1の手紙4章1-3節)
現在、人の世の終わりが近づいているというのは、人による支配が廃れ、もはや人が人を噛み合う「万人の万人に対する闘争」状態になりつつある事からもわかると思う。それをこれまで反キリストの霊であるヒューマニズムで"食い止めてみた"ふりをして、皆を騙し、はぐらかしてきたものの化けの皮がはがれて来つつあり、このような「人道」に基づく救いが明らかに無力であることが証明されつつある。肉によって無力化されたため、律法によっては救いのない人間を、神は心より憐れみ、救いの手を差し伸べているのである。だから私はこの救いの手を掴み、耐え忍ぶ戦いをしているのだ。いずれ愛である生ける神が必ず勝利するのであり、それまでは私のできることを淡々と為しつつ、贖いの時を静かに待っていようと思う。
前々回に、「国が内部で分裂したら、その国は立ち行かない」というイェシュアの言葉を引用した。これは、国であれ、家族であれ、民族であれ、会社であれ、同じである。つまり、お互いに噛み付き合うような集団は、その大小を問わず自滅するという事である。「人の国」の終わりというのは、そのように自らの手で滅んでいくのであり、そののち「神の国」が現れるという事である。では、それはどのようにしてわかるのだろうか。
人の国というのは現代の国家の在り方でもあるが、端的にいえば中世の思想家たちが一生懸命考案した民主主義による国の有り方であり、それが日本を含む現代の多くの国の形であろう。その思想家の一人、ホッブズはその著書「リヴァイアサン」で、人間をほっておくと、互いに自然権を行使し合って「万人の万人に対する闘争」という混沌とした状況になると考察し、そのような混乱した状態を回避し、皆が平和で共存できるようにするために「社会契約」を採るべきだと述べた。
この「社会契約」については、ジョン・ロックの「統治二論」やジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」でも違った角度から議論されてはいるが、これらはどちらにせよ以下の状態である事を表現している。
人間はほっておくと自分がやりたいと思う事を勝手に行い、それが互いに悪い影響を与え、巡り巡って自分が損をする。その様に自分が損をしないように、話し合いを通じて「社会契約」を結び(つまり世の中の一般的な決まり事を作り)、それが体現化された法律の下、法治国家として法の下でお互いが噛み付き合わないようにする。という事である。
これが、現代社会に多い民主主義国家の基本的な考え方であり、現在も多くの国がその概念に基づいて国家を形成している。
しかし、である。
このような「社会契約」を結ぼうと思うこと自体、自己保存をするためにではあるが一応相手の意見も取り入れようというヒューマニズムのような姿勢がその根底にはある。それは、本当に「相手を思いやる気持ち」である良心には程遠いにせよ、曲がりなりにも愛の表れではないだろうか。しかし、そのように相手の立場に思いをはせるかようなヒューマニズム的気持ちすらなくなって、人の心が荒んでくると、「力をつければ自分に害を加える恐れのある者は蹴散らせる」となり、「力があれば恐れるものはない」と傲慢になっていくのである。
そうなってしまえば、中世の思想家たちが危惧していた「万人の万人に対する闘争」状態と最早何も変わらないのではないだろうか。
ヒューマニズムは人間中心主義であり、神の支配を否定した人間中心的なものの考え方である。神に対し、「あなたは私たちを支配するべきではない。我々人間自らが世の中を制御できる」という、神を否定し、人間を肯定するものの考え方である。しかし、先に述べたように、その末路は当の考案者らが危惧していた「万人の万人に対する闘争」にしかならないという事である。
イェシュアはこう述べている。
「人に惑わされないように気をつけなさい。
私の名を名乗るものが大勢現れ、『私こそキリストだ』(注:キリスト=メシヤ=救いを与える者)と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争の事や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、慌てないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。
しかし、そのようなことは皆、生みの苦しみの初めなのです。
その時、人々は、あなた方を苦しい目に遭わせ、殺します。また、私の名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。
また、その時は、人々が大勢躓き、互いに裏切り、憎みあいます。
また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイによる福音書24章4-13節)
「その時には、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてないような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、一人として救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
その時、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とかいう者があっても、信じてはいけません。
偽キリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、私は、あなた方に前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西に閃くように、ちょうどそのように来るのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
その時、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイによる福音書24章4-13節)
最後の部分に関しては「何のSF映画だ?」というような情景が描かれているが、それが信じられなくても、その前に述べた、偽救世主が多く出てくるという事を前もって予言している方の言う事である。これまでも、また現在も様々な人間が「私の道こそ真理だ」などと教え述べて、救いを求めてさまよう人々から金品を巻き上げ、豪勢な生活を送っているのは事実であり、そのような輩が多く出て来るという事を2千年以上も前に確実に言い当てた人が言う言葉なのであれば、多少信用しても良いのではないだろうか。
イェシュアが言うには、人の子(救世主)はだれの目にも明らかに人の子(救世主)だと解るように現れる。と言っているのである。もっとも疑り深い私にも明らかに解るように来ると言っているのである。それが神の国の到来であり、その前には戦争や、戦争のうわさ、飢饉、地震、迫害、不法がはびこる、愛がなくなる、偽預言者や偽救世主が現れ、不思議なことや大きなしるしを行って見せ、人をだますという前兆が現れると言っている。
また、パウロは若いテモテにあてた手紙で、終わりの日の様子についてこう書いている。
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。
その時に人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を穢す者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制の無い者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定するような者になるからです。こういう人々を避けなさい。(テモテへの第2の手紙3章1-5節)
また、イェシュアの兄弟ユダも以下のような事をその手紙に記している。
彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人を褒めるのです。
愛する人々よ。私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)の使徒たちが、前もって語った言葉を思い起こしてください。
彼らはあなた方にこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。(ユダの手紙16-19節)
何という事だ!私の中にも思い当たる節が数多くあるではないか!さすがに黒羊だけのことはある。私は私の中に完全なものは何一つとして無いという事を目の当たりにし、それを直視し、自らを蔑み、日々悔いているのである。そのような者に対する救いがあるからこそ、私はそれに依り頼むのだ。
パウロもこのようなことをローマ人への手紙で言っている。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にあるものです。
私には、自分のしていることが判りません。私は自分がしたいと思う事をしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
もし自分のしたくない事をしているとすれば、律法は良い物であることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着いている罪なのです。私は、私の内、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが無いからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくない事をしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、体の中にある罪の律法の虜にしているのを見出すのです。
私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)のゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、いまは、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある、命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためなのです。
肉に従うものは肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従うものは御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、命と平安です。(ローマ人への手紙7章14節-8章6節)
先述のヒューマニズムとは違い、人には良心というものが存在するのはだれでも知っている。それこそが、神が私たちに与えた御霊であるのに、神を否定する人間がその名を「良心」としてしまったのだ。このことは、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」と聖書が言っている事によりはっきりしている。それは相手を思いやる気持ち、赦す気持ち、いつくしむ気持ちであり、それが愛なのであり、それこそが、「神が人間の内に住まわせた御霊」なのだ。しかし人の中には肉があり、(つまりそれを認めたくない、自分こそが自分の主だという心)があり、巷に行き交う悪霊も混ざって、様々なまやかしを行う。だから、ヨハネも彼の手紙でこう記している。
愛する者たち。霊だからと言って、皆信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)を告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イェシュアを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなた方はそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(ヨハネによる第1の手紙4章1-3節)
現在、人の世の終わりが近づいているというのは、人による支配が廃れ、もはや人が人を噛み合う「万人の万人に対する闘争」状態になりつつある事からもわかると思う。それをこれまで反キリストの霊であるヒューマニズムで"食い止めてみた"ふりをして、皆を騙し、はぐらかしてきたものの化けの皮がはがれて来つつあり、このような「人道」に基づく救いが明らかに無力であることが証明されつつある。肉によって無力化されたため、律法によっては救いのない人間を、神は心より憐れみ、救いの手を差し伸べているのである。だから私はこの救いの手を掴み、耐え忍ぶ戦いをしているのだ。いずれ愛である生ける神が必ず勝利するのであり、それまでは私のできることを淡々と為しつつ、贖いの時を静かに待っていようと思う。
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