2018年05月05日
「信じれば救われる」の言葉に足を掬(すく)われないために
だいぶ前に、「天国に入るためには何が必要なのだろうか。」という記事を書いたが、「救われるためにはどうすればよいのか、どの律法を守っていれば救われるのか。」という点について、「救われる」事の重みを十分に認識できるように「救われるために支払うべき対価」について考察してみようと思う。
すでにタイトルからして躓いている人や、「救われるために支払うべき対価」があることに、「そんなわけあるか!救いは無償だ!パウロだってローマ人への手紙3:24で、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」と言っているではないか!」と思われた方々もおられるとは思いますが、先ずは落ち着いて先を読み進めてください。
先ず、同じパウロが同じローマ人への手紙2:6〜13で言っていることを見てみましょう。
「神は、一人ひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠の命を与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行う全ての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行う全ての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯したものは全て、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯したものは全て、律法によって裁かれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」
先ほど、「パウロだってローマ人への手紙3:24で、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」と言っているではないか!」との反論の論拠として用いた言葉を話した同じパウロが、ここでは「行いに従って」と言っているのです。つまり、「行う」という事が救いの対価として求められていることを意味しているわけです。
パウロの言っている、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」という言葉は、その前に出てくる「律法を行うことによっては、誰一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ人への手紙3:20)に対する回答なのです。要するに、律法という正しい事を行ったから、その事を理由として救われる(天国へ行ける)、つまり義とはならない!という事なのです。
何か自己矛盾していませんか?と言われる方もおられるとは思いますが、決して自己矛盾はしておりません。この「行う」という事が何を意味するのかという事をきちんと理解できていないから、矛盾しているように見えるのです。
では、その「行い」についてもう少しよく吟味してみましょう。
2,000年以上も前、イェシュア(イエス)がまだ血と肉でできた器の中に居られ、その器を用いて私たちに奇蹟(しるし)という「行い」を通じて教えておられた頃、(要するに「人」として目で見、手で触れるような形で存在し、この世界で奇蹟を伴い教えておられていた頃)イェシュアの奇蹟的な行いを見て彼が神の元から来たと確信した一人の議員が、その社会的立場もあって人目を憚り夜にイェシュアを訪ね、教えを受けたときの記録がヨハネの福音書に記されています。
ヨハネの福音書3章1〜14節
さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イェシュア(イエス)のもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イェシュア(イエス)は答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イェシュア(イエス)は答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
イェシュア(イエス)は答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
この箇所は、実はユダヤの律法や、言い回しなどを熟知していなければ読み取れない箇所も多く、ユダヤの教えになじみの薄い方々にとっては少々上滑りしがちな箇所なのですが、ここでは非常に重要な事がイェシュアによって述べられているのです。まあ、イェシュアはこの時、パウロと同じパリサイ人という、ユダヤの律法に詳しい議員に対して話をしているのですから、解りにくいというのは当然と言えば当然なのですが。たとえて言うなら、天才外科医ブラックジャックが、通常はありえないと言われている脳移植の方法について脳外科の専門医と議論をたたかわせている内容を、医者でもない私達が傍から聞いて理解をしようとしている、といった所でしょうか・・・
ここで言われている事を深く理解するには、少なくとも以下の数点を知っておく必要があります。
・ヘブル語では、水の事をMayimマイムと言います。そう、フォークダンスで歌ったでしょう、「マイム・マイム」って。その「マイム」です。また、その水「マイム」には、仮のもの、一時的なものという意味もあります。また、当然ですが、目で見えます。
・ヘブル語では、霊の事をRuwachルーアッハ(ルアフ)と言います。この霊という言葉は、形容詞ラー(Rah)を伴って悪霊を表したり、トヴ(Towb)を伴って良い霊を表したり、コデシュ(Qodesh)を伴って聖霊を表したりします。また、その霊「ルアフ」には、風という意味もあります。また、これも当然ですが、目では見えません。(風に吹かれる物体は見えても、風そのものは見えませんよね。)
・ヘブル語では肉、肉体の事をBasarバサールと言いますが、これには同じ形の語源Basarバサールがあり、これにはもたらすもの、運んでくるもの、知らせるもの、の意味があります。
・ニコデモ議員やパウロが属していたパリサイ派は、ユダヤ人の中でも「律法を守る」事を非常に熱心に行うことで知られている一派で、彼らの考えは「律法を守り、良い行いをすることで救われ、神と共に歩み、天の国に入れる。」と信じていることで知られていました。これは、他のどの宗教でも似たようなもので、人が何らかの「戒律」(善行をする、苦行をする、自己犠牲を払う、念仏を唱える、断食をする、酒を断つ、等々・・・)を守り行えば「救われる」と考えているのと全く同じことでもあります。
さて、それらを踏まえてもう一度先述のニコデモ議員に対するイェシュアの教えを見ると、以下の事が分かります。
まず、ニコデモ議員は、「イェシュアが神の元から来た」という事を信じています。その論拠として、全知全能の神の元から来たのでなければ、イェシュアの「行った」奇蹟(しるし)は為し得ないからだとも述べています。
するとイェシュアは、ニコデモ議員に、「あなたは、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えたわけです。私みたいな粗野な人間にもわかりやすく言い換えるなら、「もういっぺん生まれ直してこい!でなけりゃ救われないよ。」と言われたわけです。
これにはさすがに、行いをもって救われると信じているパリサイ人のニコデモ議員も「えぇ〜!!」となるわけで、イェシュアの言っている意味がわからないために、「ちょっとちょっと、もういい年をした大人である私が(パリサイ人の、しかも議員なので、ここでは「これまでにこれだけ律法を一生懸命守り行い、ようやく議員という人の上に立つ指導者となった私が」とも暗に言っています)もう一度生まれ直せというのはどういう事ですか??」と、驚き(と憤慨)をもってイェシュアに問い質したわけです。
するとイェシュアは、「あなたは、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と、もう少しヒントを与えつつ説明します。続けて、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と述べ、水(または肉)として生まれた後、新たに御霊(聖霊:ルーアッハ ハ コデシュ)によって、霊として生まれなければならないと説明しているわけです。このことは詩編104:30にも、「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。」と書かれているとおりです。
ところが、この目で見えるところの現実世界の中で、本当はその裏で起こっている霊的な事柄の影でしかない現象である政治や経済や様々な政というものに目を奪われているニコデモ議員にとっては、この説明によってさらに「???」となるわけで、だから、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と答えてしまったわけです。
この様に、本来であれば神の民の指導者として見えていなければならない霊的な事柄が見えていない者が「神の民の指導者」という形で議員をしているからこそ、イェシュアはニコデモ議員に対し、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と嘆息したわけです。
イェシュアは続けて、「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」と言いますが、それは言い換えれば、「誰も霊的な国である天に上ったものは居ないが、その霊的な国である天から下って来た者は人の子(人として来た神の子イェシュア=メシヤ)であるが、その霊的な国で起こっている事柄を私が伝えたとしても、ここでその表れである奇蹟などの知ることや見ることのできる事柄について証言しているを信じられないのであれば、どうして霊的な国の話を信じる事が出来るのか。」という事になります。そしてさらに、
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」という事で、「人の子(イェシュア)はモーセが掲げた蛇のように十字架にかけられて晒されることで、人の子(イェシュア)を信じる者が救われるようになる」と述べたわけです。
さて、この「人の子」については、実はエゼキエル書の33章にも書かれているのだが、それはまたあとで詳しく触れるとして、その中で全知全能の神ヤハウェがエゼキエルに対し「こう言え」と言った個所がある。エゼキエル書33章11節「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなた方は死のうとするのか。」の箇所である。
実はこの後の箇所こそが、救われるための条件の書かれている個所の一つなのです。続けて引用します。
「人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。
わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない。 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行い、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行った彼は必ず生きる。
あなたの民の者たちは、『主の態度は公正でない』と言っている。しかし、彼らの態度こそ公正でない。正しい人でも、自分の正しい行いから遠ざかり、不正をするなら、彼はそのために死ぬ。悪者でも、自分の悪から遠ざかり、公義と正義とを行うなら、そのために彼は生きる。
それでもあなたがたは、『主の態度は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしはあなたがたをそれぞれの態度にしたがってさばく。」
としているのだ。要するに、「信じて義とされた」と言われても、そこにその「信じた」事の証となる「行い」が無ければその「信じた」事は無意味なこと(ヤコブ2章14〜26節)であり、その「行い」という事はとどのつまり、「従って歩む」ことであり、肉の中に有りながらも聖霊に「従う」という事が「行い」という結果として現れる物であるという事が分かる。ところが、この「肉」は厄介なことに、この聖霊に従おうという気はさらさらない。しかもことあるごとに聖霊の示す道に「いやだ!」と反逆する(ローマ人への手紙8章6〜8節)。だから、イェシュアはこう言うのです。
「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネの福音書12章24〜26節)
さらに、たとえ話でも、同じく種を使ってこう言います。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた、土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のあるものは聞きなさい。」(マタイの福音書13章3〜9節)これはさらにイェシュアにより次のように解説されています。
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者(注:悪霊)が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根(注:覚悟)がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐ(注:誘惑)ため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイの福音書13章19〜23節)
つまり「水によって生まれた一人の生身の人間(一時的な物である一粒の麦・種)が、この世の中において(地に落ちて)死ぬことを受け入れ(麦粒、種、要するに「個人の人間」として自らの欲望のままに歩むことを止め、新しく生まれ変わり、)根をしっかりと張り(困難や迫害にめげずにイェシュアの教えに聞き従い)いばらを切り開く(この世の心づかいと富の惑わしに屈せずにあくまでもイェシュアに従い通す)事で、成長すれば豊かな実を結ぶ。(この世界において、全知全能の神ヤハウェの愛と正義に基づく神の国を造る)」と言っているのである。そして、その初めの一粒が他でもない、イェシュアその人なのである。
だからイェシュアはこうも言うのです。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネの福音書13章34〜35節)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネの福音書14章6〜7節)
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14章15〜18節)
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネの福音書14章21節)
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなた方が聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14章23〜27節)
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネの福音書15章4〜14節)
実は、聖書には同じことが口酸っぱく何度も何度も書かれているわけです。イェシュアはハッキリとこう述べています。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカの福音書14章26〜33節)
ここから読み取れることはまさしく次の事です。救われるために支払うべき対価とは、私たちの人生そのものであり、私たちの富も、権力も、地位も、望みも、希望も、誇りも、命そのものまでも、全てを賭して「従う」事が要求されているのです。従って、それを知らせずに、軽々しく「あなたの罪は許された〜」(あなたは救われた)などとは、私は決して口が裂けても言う事は出来ません(エレミヤ書6章13〜15)。だから、本当に正しい事をしたくても、肉の惑わしに振り回されて正しい行いが出来ない自分の罪深き存在に心から嘆き(ローマ人の手紙7章18〜24節)、決死の覚悟でイェシュアに聞き従いたいと望んで探し求め(エレミヤ書29章11〜14節)、死に至るまでそれを貫き通す(エレミヤ書30章21〜22節、マルコの福音書8章34〜35節、ローマ人の手紙6章2〜13節、同8章13節)覚悟がある者に対してだけ私は伝える事が出来るのです。「悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。そうすればあるいは、あなたの罪が赦されるかもしれません。」(使徒の働き8章22節)と。そして、心の中の不義の絆を断ち切り、本当に悔い改めることのできたそのような者には全知全能の神からの確証がついた、「私はあなたの友である」ということばが与えられるのです。
そういうわけで、「苦しみから救われたい」という気持ちからイェシュアに依り頼もうとする人については、私はその動機について再考することを本当に強くお勧めします。なぜなら、この信仰による救いは「自らの苦しみから救われるため」のものではないからです。なぜなら、信仰について先ほど述べたように「全てを賭ける覚悟が要求されている」だけでなく、「あなた方は、メシヤ(キリスト)のために、メシヤ(キリスト)を信じる信仰だけでなく、メシヤ(キリスト)のための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ人への手紙1章29節)と言うように、この世で肉において生きている間は更なる苦しみや試練があることが約束されているからです。また、メシアであるイェシュアもこう言っています。「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイの福音書12章43〜45節、ルカの福音書11章23〜26節、ヨハネの福音書5章6〜15節、2ペテロ2章20〜22節)だから、中途半端に信じたり、信じた後にイェシュアと共に歩む事を止めたりすると良いことは決してありません。逆に今の状態よりもさらに悪くなります。ですので、しっかりと自らの動機を吟味し、覚悟を決めて信仰の道に踏み出すことを強くお勧めします。そして、その覚悟をもって一歩を踏み出そうとする方々には、心の底から祝福を述べ伝えるとともに、心強い確証に満ちた次の聖書の箇所を贈ります。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認められた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(ローマ人への手紙8章18〜39節)
究極の「勝ち馬に乗る」というのがまさに「悔い改めて、救われる」ということなのです。その圧倒的な勝利が確信できるからこそ、何があっても恐れるに足りないのです。だから勇気をもって、聖霊に導かれつつ堂々と、公義を行おうではありませんか!
すでにタイトルからして躓いている人や、「救われるために支払うべき対価」があることに、「そんなわけあるか!救いは無償だ!パウロだってローマ人への手紙3:24で、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」と言っているではないか!」と思われた方々もおられるとは思いますが、先ずは落ち着いて先を読み進めてください。
先ず、同じパウロが同じローマ人への手紙2:6〜13で言っていることを見てみましょう。
「神は、一人ひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠の命を与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行う全ての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行う全ての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯したものは全て、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯したものは全て、律法によって裁かれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」
先ほど、「パウロだってローマ人への手紙3:24で、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」と言っているではないか!」との反論の論拠として用いた言葉を話した同じパウロが、ここでは「行いに従って」と言っているのです。つまり、「行う」という事が救いの対価として求められていることを意味しているわけです。
パウロの言っている、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」という言葉は、その前に出てくる「律法を行うことによっては、誰一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ人への手紙3:20)に対する回答なのです。要するに、律法という正しい事を行ったから、その事を理由として救われる(天国へ行ける)、つまり義とはならない!という事なのです。
何か自己矛盾していませんか?と言われる方もおられるとは思いますが、決して自己矛盾はしておりません。この「行う」という事が何を意味するのかという事をきちんと理解できていないから、矛盾しているように見えるのです。
では、その「行い」についてもう少しよく吟味してみましょう。
2,000年以上も前、イェシュア(イエス)がまだ血と肉でできた器の中に居られ、その器を用いて私たちに奇蹟(しるし)という「行い」を通じて教えておられた頃、(要するに「人」として目で見、手で触れるような形で存在し、この世界で奇蹟を伴い教えておられていた頃)イェシュアの奇蹟的な行いを見て彼が神の元から来たと確信した一人の議員が、その社会的立場もあって人目を憚り夜にイェシュアを訪ね、教えを受けたときの記録がヨハネの福音書に記されています。
ヨハネの福音書3章1〜14節
さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イェシュア(イエス)のもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イェシュア(イエス)は答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イェシュア(イエス)は答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
イェシュア(イエス)は答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
この箇所は、実はユダヤの律法や、言い回しなどを熟知していなければ読み取れない箇所も多く、ユダヤの教えになじみの薄い方々にとっては少々上滑りしがちな箇所なのですが、ここでは非常に重要な事がイェシュアによって述べられているのです。まあ、イェシュアはこの時、パウロと同じパリサイ人という、ユダヤの律法に詳しい議員に対して話をしているのですから、解りにくいというのは当然と言えば当然なのですが。たとえて言うなら、天才外科医ブラックジャックが、通常はありえないと言われている脳移植の方法について脳外科の専門医と議論をたたかわせている内容を、医者でもない私達が傍から聞いて理解をしようとしている、といった所でしょうか・・・
ここで言われている事を深く理解するには、少なくとも以下の数点を知っておく必要があります。
・ヘブル語では、水の事をMayimマイムと言います。そう、フォークダンスで歌ったでしょう、「マイム・マイム」って。その「マイム」です。また、その水「マイム」には、仮のもの、一時的なものという意味もあります。また、当然ですが、目で見えます。
・ヘブル語では、霊の事をRuwachルーアッハ(ルアフ)と言います。この霊という言葉は、形容詞ラー(Rah)を伴って悪霊を表したり、トヴ(Towb)を伴って良い霊を表したり、コデシュ(Qodesh)を伴って聖霊を表したりします。また、その霊「ルアフ」には、風という意味もあります。また、これも当然ですが、目では見えません。(風に吹かれる物体は見えても、風そのものは見えませんよね。)
・ヘブル語では肉、肉体の事をBasarバサールと言いますが、これには同じ形の語源Basarバサールがあり、これにはもたらすもの、運んでくるもの、知らせるもの、の意味があります。
・ニコデモ議員やパウロが属していたパリサイ派は、ユダヤ人の中でも「律法を守る」事を非常に熱心に行うことで知られている一派で、彼らの考えは「律法を守り、良い行いをすることで救われ、神と共に歩み、天の国に入れる。」と信じていることで知られていました。これは、他のどの宗教でも似たようなもので、人が何らかの「戒律」(善行をする、苦行をする、自己犠牲を払う、念仏を唱える、断食をする、酒を断つ、等々・・・)を守り行えば「救われる」と考えているのと全く同じことでもあります。
さて、それらを踏まえてもう一度先述のニコデモ議員に対するイェシュアの教えを見ると、以下の事が分かります。
まず、ニコデモ議員は、「イェシュアが神の元から来た」という事を信じています。その論拠として、全知全能の神の元から来たのでなければ、イェシュアの「行った」奇蹟(しるし)は為し得ないからだとも述べています。
するとイェシュアは、ニコデモ議員に、「あなたは、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えたわけです。私みたいな粗野な人間にもわかりやすく言い換えるなら、「もういっぺん生まれ直してこい!でなけりゃ救われないよ。」と言われたわけです。
これにはさすがに、行いをもって救われると信じているパリサイ人のニコデモ議員も「えぇ〜!!」となるわけで、イェシュアの言っている意味がわからないために、「ちょっとちょっと、もういい年をした大人である私が(パリサイ人の、しかも議員なので、ここでは「これまでにこれだけ律法を一生懸命守り行い、ようやく議員という人の上に立つ指導者となった私が」とも暗に言っています)もう一度生まれ直せというのはどういう事ですか??」と、驚き(と憤慨)をもってイェシュアに問い質したわけです。
するとイェシュアは、「あなたは、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と、もう少しヒントを与えつつ説明します。続けて、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と述べ、水(または肉)として生まれた後、新たに御霊(聖霊:ルーアッハ ハ コデシュ)によって、霊として生まれなければならないと説明しているわけです。このことは詩編104:30にも、「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。」と書かれているとおりです。
ところが、この目で見えるところの現実世界の中で、本当はその裏で起こっている霊的な事柄の影でしかない現象である政治や経済や様々な政というものに目を奪われているニコデモ議員にとっては、この説明によってさらに「???」となるわけで、だから、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と答えてしまったわけです。
この様に、本来であれば神の民の指導者として見えていなければならない霊的な事柄が見えていない者が「神の民の指導者」という形で議員をしているからこそ、イェシュアはニコデモ議員に対し、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と嘆息したわけです。
イェシュアは続けて、「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」と言いますが、それは言い換えれば、「誰も霊的な国である天に上ったものは居ないが、その霊的な国である天から下って来た者は人の子(人として来た神の子イェシュア=メシヤ)であるが、その霊的な国で起こっている事柄を私が伝えたとしても、ここでその表れである奇蹟などの知ることや見ることのできる事柄について証言しているを信じられないのであれば、どうして霊的な国の話を信じる事が出来るのか。」という事になります。そしてさらに、
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」という事で、「人の子(イェシュア)はモーセが掲げた蛇のように十字架にかけられて晒されることで、人の子(イェシュア)を信じる者が救われるようになる」と述べたわけです。
さて、この「人の子」については、実はエゼキエル書の33章にも書かれているのだが、それはまたあとで詳しく触れるとして、その中で全知全能の神ヤハウェがエゼキエルに対し「こう言え」と言った個所がある。エゼキエル書33章11節「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなた方は死のうとするのか。」の箇所である。
実はこの後の箇所こそが、救われるための条件の書かれている個所の一つなのです。続けて引用します。
「人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。
わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない。 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行い、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行った彼は必ず生きる。
あなたの民の者たちは、『主の態度は公正でない』と言っている。しかし、彼らの態度こそ公正でない。正しい人でも、自分の正しい行いから遠ざかり、不正をするなら、彼はそのために死ぬ。悪者でも、自分の悪から遠ざかり、公義と正義とを行うなら、そのために彼は生きる。
それでもあなたがたは、『主の態度は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしはあなたがたをそれぞれの態度にしたがってさばく。」
としているのだ。要するに、「信じて義とされた」と言われても、そこにその「信じた」事の証となる「行い」が無ければその「信じた」事は無意味なこと(ヤコブ2章14〜26節)であり、その「行い」という事はとどのつまり、「従って歩む」ことであり、肉の中に有りながらも聖霊に「従う」という事が「行い」という結果として現れる物であるという事が分かる。ところが、この「肉」は厄介なことに、この聖霊に従おうという気はさらさらない。しかもことあるごとに聖霊の示す道に「いやだ!」と反逆する(ローマ人への手紙8章6〜8節)。だから、イェシュアはこう言うのです。
「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネの福音書12章24〜26節)
さらに、たとえ話でも、同じく種を使ってこう言います。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた、土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のあるものは聞きなさい。」(マタイの福音書13章3〜9節)これはさらにイェシュアにより次のように解説されています。
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者(注:悪霊)が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根(注:覚悟)がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐ(注:誘惑)ため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイの福音書13章19〜23節)
つまり「水によって生まれた一人の生身の人間(一時的な物である一粒の麦・種)が、この世の中において(地に落ちて)死ぬことを受け入れ(麦粒、種、要するに「個人の人間」として自らの欲望のままに歩むことを止め、新しく生まれ変わり、)根をしっかりと張り(困難や迫害にめげずにイェシュアの教えに聞き従い)いばらを切り開く(この世の心づかいと富の惑わしに屈せずにあくまでもイェシュアに従い通す)事で、成長すれば豊かな実を結ぶ。(この世界において、全知全能の神ヤハウェの愛と正義に基づく神の国を造る)」と言っているのである。そして、その初めの一粒が他でもない、イェシュアその人なのである。
だからイェシュアはこうも言うのです。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネの福音書13章34〜35節)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネの福音書14章6〜7節)
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14章15〜18節)
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネの福音書14章21節)
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなた方が聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14章23〜27節)
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネの福音書15章4〜14節)
実は、聖書には同じことが口酸っぱく何度も何度も書かれているわけです。イェシュアはハッキリとこう述べています。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカの福音書14章26〜33節)
ここから読み取れることはまさしく次の事です。救われるために支払うべき対価とは、私たちの人生そのものであり、私たちの富も、権力も、地位も、望みも、希望も、誇りも、命そのものまでも、全てを賭して「従う」事が要求されているのです。従って、それを知らせずに、軽々しく「あなたの罪は許された〜」(あなたは救われた)などとは、私は決して口が裂けても言う事は出来ません(エレミヤ書6章13〜15)。だから、本当に正しい事をしたくても、肉の惑わしに振り回されて正しい行いが出来ない自分の罪深き存在に心から嘆き(ローマ人の手紙7章18〜24節)、決死の覚悟でイェシュアに聞き従いたいと望んで探し求め(エレミヤ書29章11〜14節)、死に至るまでそれを貫き通す(エレミヤ書30章21〜22節、マルコの福音書8章34〜35節、ローマ人の手紙6章2〜13節、同8章13節)覚悟がある者に対してだけ私は伝える事が出来るのです。「悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。そうすればあるいは、あなたの罪が赦されるかもしれません。」(使徒の働き8章22節)と。そして、心の中の不義の絆を断ち切り、本当に悔い改めることのできたそのような者には全知全能の神からの確証がついた、「私はあなたの友である」ということばが与えられるのです。
そういうわけで、「苦しみから救われたい」という気持ちからイェシュアに依り頼もうとする人については、私はその動機について再考することを本当に強くお勧めします。なぜなら、この信仰による救いは「自らの苦しみから救われるため」のものではないからです。なぜなら、信仰について先ほど述べたように「全てを賭ける覚悟が要求されている」だけでなく、「あなた方は、メシヤ(キリスト)のために、メシヤ(キリスト)を信じる信仰だけでなく、メシヤ(キリスト)のための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ人への手紙1章29節)と言うように、この世で肉において生きている間は更なる苦しみや試練があることが約束されているからです。また、メシアであるイェシュアもこう言っています。「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイの福音書12章43〜45節、ルカの福音書11章23〜26節、ヨハネの福音書5章6〜15節、2ペテロ2章20〜22節)だから、中途半端に信じたり、信じた後にイェシュアと共に歩む事を止めたりすると良いことは決してありません。逆に今の状態よりもさらに悪くなります。ですので、しっかりと自らの動機を吟味し、覚悟を決めて信仰の道に踏み出すことを強くお勧めします。そして、その覚悟をもって一歩を踏み出そうとする方々には、心の底から祝福を述べ伝えるとともに、心強い確証に満ちた次の聖書の箇所を贈ります。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認められた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(ローマ人への手紙8章18〜39節)
究極の「勝ち馬に乗る」というのがまさに「悔い改めて、救われる」ということなのです。その圧倒的な勝利が確信できるからこそ、何があっても恐れるに足りないのです。だから勇気をもって、聖霊に導かれつつ堂々と、公義を行おうではありませんか!
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