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2015年01月11日

「裁いてはいけません。裁かれないためです。」---でも裁きたいんです。

さて、年が明けてしまいました。年末年始とバタバタしてどうもせわしない時こそ深呼吸して真理に向き合おうと思う。

裁くという行為は前にもふれたが、基準、つまり物差しがなければできない。裁判所では憲法をはじめ、刑法、民法などなど様々な法律を基に裁きを下している。この法律は国権の最高機関である国会によって審議され、制定される。それはつまり国民の合意によって取り決めた物差しである。裁判官は憲法と法律と自らの良心に従って審理で事実と認定された事柄が法を犯しているか否かを裁くわけである。従って、裁判官から法典を取り上げてしまえば、自らの良心に従って裁くことになるわけだが、人の価値観が違うからそれでは大変まずいことになるわけである。だから安定した裁きができるように、国民の合意によって取り決めた物差しが必要になってくるわけだ。

では人としてどうあるべきかという件に関して、そのような物差しはあるのだろうか。次の事例を見てみよう。

玄関先で掃除をしていると隣の住人が帰宅してきた。「お帰りなさい」とあいさつすると・・・

A:「こんばんは」と笑顔であいさつしかえしてきた。
B:スルーされてそのまま通り過ぎて行った。

あなたはその隣人に対してどのような印象を持っただろうか。Aの場合、気持ちよく掃除を終えて機嫌よく家に帰り、おそらくものの1時間もしないうちにそのような出来事があったことも忘れているだろう。ところがBの場合はどうなるだろうか。おそらく「なんて失礼な奴だ」と気分を害し、事あるごとに「隣のやつは俺を無視しやがった」と蒸し返しては憤慨し、下手をすると翌朝までそれを引きずっているのではないだろうか。

ほんの一瞬の出来事を裁くのに、裁判では裁判官が長い時間を使って事実認定をし、それを基に法律と照らし合わせて判決を下す。ところが、我々は我々の見たところを見たままに判断し、すぐさま裁きを下すのだ。それできちんとした裁きができるのであれば、ぜひ裁判官になってほしい。無駄に裁判を引きずることなく、速やかに正義の裁きができるのだから皆がきっと喜んでくれることであろう。しかしそれは人間業ではなく、もはや神の領域なのである。

先のB件で隣人を「無礼者」と断罪したかもしれないが、もし次の事実が明らかになった場合はあなたはどう感じるだろうか。

隣人さんはその日会社にいるときに妻から電話がかかってきて、「あなた、子供が学校から帰る途中車にはねられたの。今病院(自宅から会社とは反対側にある)にいるんだけど、あわてて出てきたので保険証と財布を置いて家に鍵もかけずに出てきちゃったから病院に来る途中家に寄って保険証と財布を取って鍵をかけてきて下さらない?」とお願いされたためかなり焦っていた。

おそらくBの件における隣人への印象は一転したに違いない。え?それは卑怯だって?そんなことわかるわけないじゃん?そう、我々はその様にすべての事実を決して把握などしていないのだ。だから我々人間は裁いてはいけないとイェシュアは言っているのである。

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