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2014年08月16日

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
キリストであるイエスが宣教を始めたのは、この言葉からであったと聖書には記されている。

「悔い改めろ」と言われても、何を悔いて、何を改めなければならないのか。
やはり登場以来これまでに多くの人の人生に影響を及ぼした大先生の言葉については、それなりの敬意をもって、きちんと精査して理解をする努力をすべきであろう。

「悔いる」という行為は、おおよそ私の理解するところでは、自分の行った言動に間違いや悪い点があったということを認識し、それを言ったり、やらなければ良かったと残念に思うことである。二日酔いの朝などが良い例だ。

「改める」という行為は、これも私の理解では、これまでのあり方を変えるという事で、この場合は前で悔いた悪い点や行いをやめ、新しく正しい、良いものに変えるということである。

ということはイエスは何か我々が行っていることについて、それが良くないものであると気づき、正しい行いをするようにしなさいと言っていることになる。それには前提となるものが必要であろう。それは何か。

我々の行いが悪いものであると気づくことである。

何が正しくて、何が間違いであるかというものは、究極的には個人個人の価値観にゆだねられているものである。それはもう少し軽めの話題だと、「好き嫌い」と同じものである。Aさんはピーマンが大嫌いで、ニンジンが大好き、対してBさんはニンジンが大嫌いでピーマンが大好物といった場合、Bさんが「これおいしいからぜひ食べて」とAさんに青椒肉絲でも振舞おうものなら、Aさんは「絶対に嫌だ!」と食べないだろうし、それを見たBさんも、「なんだこいつ、人の好意を無にしやがって!」となるのは誰の目にも明らかだろう。

何が正しい、何が間違いというものについても同じで、個人個人の価値観に従ってそれらが決定されている以上、前述のような事態も間違いなく起こるということである。殺人は悪いことという価値観は、ほぼ大多数の人間が共有する価値観であろうが(そう信じたい)、同じ程度にたとえば盗むこと、嘘をつくこと、不倫をすることなどについても人間の大多数がそれを悪いことであると認識しているのだろうか。ましてや、聖書に書かれている、「あなたの父と母を敬え」や「軽々しく心をいらだててはならない」等については一体どうなっているのか。(う〜ん・・・これは間違いなく私の反省事項だ)ふらふら

このように、人によって価値観の物差しが変わる以上、お互いに理解をすることが困難であるばかりか、イエスの言っている「悔い改めよ」ということを理解するのですら困難であることがわかると思う。イエスの持つ価値観を知らずに、悔い改めることは大変難しいだろう。なぜなら、「何を悔いて、何を改める」べきかが理解できないのだから。

次回はそのイエスの持つ価値観について考察してみようと思う。

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