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2018年04月04日

越知の交易豪族・片岡氏

越知町に気になる城跡があります。
「片岡城跡」
元亀2年(1571年)に片岡城主・片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと言われています。
片岡直光の男。官途は下総守。片岡家は長宗我部とは親類の間柄で、国侍の筆頭となっています。
一族は仁淀川の水系を利用して、阪神方面と交易して利益を上げ、繁栄したと云われています。
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これは、「詰ノ段」に落ちていた白磁片
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これも同様、「詰ノ段」に落ちていた青花片

このような、山の中に当時の高級陶磁器片が落ちているということは、片岡氏は交易豪族だったというのも
うなづける事実ですね。
僕にとっては、このような遺物を目にするとタイムマシンに乗った当時の人間が、「こんにちは」
といって現世に現れているようで、非常にロマンがあります。

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山城にはつきものの備前片もたくさん落ちていますね。

「天正の陣」において、伊予国東予の陣営の人員不足により、長宗我部家より援軍が来るが、
これには純然たる応援と監視、牽制の両意味を持っていたといいます。
金子備後守と小早川隆景はお互いに親交のあった仲であったといわれ、寝返りの心配もあったと考えられる。
従って儀礼的にも相当な人物を金子備後守の許に出す必要があった。
長宗我部元親は弟の香宗我部親泰を派遣する心積であったが、負け戦と分かっていて行く事を拒んだため、
花房新兵衛、片岡光綱に決定した。片岡光綱は兵350余りを率い金子城へ発した。
結果「北谷口の戦い」で討死したそうである。その首は従臣、竹内又左衛門、上村孫左衛門(植村城主であった人物)、安並玄蕃等に護られて土佐国に帰ったと云われています。

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これは、「詰ノ段」にある神社「神明様」

詰の北側にある壁のような切岸が写っていますが、上は小規模な櫓的な機能を持った曲輪が存在し、
逆側は連続堀切で、尾根からの侵入を寸断しています。
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これが、連続堀切

南側の詰下には、エッジのきいた鋭い二重竪堀があります。
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越知町にはこのような素晴らしい城跡があります。
僕はこのような城跡に足を運び、そこにいた人物が以前訪れた城跡とつながることに大きな喜びを感じます。
以前踏査した植村城の上村孫左衛門が、片岡城の片岡光綱の首を護りこの越知の片岡郷に連れて帰っています。また、上村孫左衛門とともに首を護ったのが安並玄蕃(元一条氏の家臣、僕の故郷は安並)…。
何か運命を感じます。
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「片岡光綱の墓(首塚)」

領民を大切にした片岡光綱、命を落としたが故郷に帰り今なお片岡郷を片岡城から守ってくれているようです。
光綱には現在の片岡郷はどのようににうつっているんでしょうか。
これからも、この城跡から片岡郷の民を守ってほしいものです。
posted by chotarogai at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 山城
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