2018年08月31日
元寇防塁
暑い8月、博多にふらっと行ってきました。
まずは生の松原に向かいます。
遠くに見えるのは「玄海島」と「能古島」ですかね。
「生(いき)の松原」はこんな感じです。
松原の中には、「史跡 元寇防塁」の碑がたっています。
(1281年)弘安の役では武士団の活躍によって博多上陸を阻まれた東路軍4万を志賀島で総攻撃、一部は長門国から上陸しようとするも、長門警護番役によって上陸できず。北条時宗の賢明な判断、すばらしい。また、志賀島で追撃され壱岐に逃げるもしつこく鎌倉武士団が江南軍を追う。結局、壱岐で江南軍と合流する計画も江南軍司令官の病気により、合流約束の期日にも江南軍はまだ、港を出ていない状態。結局平戸周辺で合流し、鷹島辺りで停泊するも、しつこい在地武士団の抵抗の中、台風上陸、壊滅寸前状態の元軍を台風一過の中、武士団が壊滅させる。我らが学んだ歴史は、鎌倉武士団の活躍についてはあまり触れられず、神風の話で終わったっけな。恐るべし、鎌倉武士団、おまけが台風ですな。
まずは生の松原に向かいます。
遠くに見えるのは「玄海島」と「能古島」ですかね。
「生(いき)の松原」はこんな感じです。
松原の中には、「史跡 元寇防塁」の碑がたっています。
(1281年)弘安の役では武士団の活躍によって博多上陸を阻まれた東路軍4万を志賀島で総攻撃、一部は長門国から上陸しようとするも、長門警護番役によって上陸できず。北条時宗の賢明な判断、すばらしい。また、志賀島で追撃され壱岐に逃げるもしつこく鎌倉武士団が江南軍を追う。結局、壱岐で江南軍と合流する計画も江南軍司令官の病気により、合流約束の期日にも江南軍はまだ、港を出ていない状態。結局平戸周辺で合流し、鷹島辺りで停泊するも、しつこい在地武士団の抵抗の中、台風上陸、壊滅寸前状態の元軍を台風一過の中、武士団が壊滅させる。我らが学んだ歴史は、鎌倉武士団の活躍についてはあまり触れられず、神風の話で終わったっけな。恐るべし、鎌倉武士団、おまけが台風ですな。
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