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2020年11月11日

たった一人の熱狂

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角川書店時代に五木寛之、尾崎豊、矢沢永吉、石原慎太郎らと本を作り、角川書店・躍進の立役者となり41歳の若さで取締役編集部長に異例の大出世。犬神家の一族などの大ヒット映画の仕掛け人でもある。その後、出版業界が不況の中独立し幻冬舎を設立。五木寛之『大河の一滴』、村上龍『13歳のハローワーク』、木藤亜也『1リットルの涙』など14作のミリオン人を連発し、業界を驚かせる。株式会社ブランジスタ取締役。エイベックス株式会社取締役(非常勤)。株式会社テレビ朝日の放送番組審議会の委員長・・・などのそうそうたる肩書を持つ伝説の編集者・見城徹。そんな彼がどんな心持で仕事に臨んでいるのかを、赤裸々に綴った一冊。



天職と出会いたいのなら、自分の内なる声に耳を澄まさなければ駄目だ。職を転々としながら、茫漠とした気持ちで天職を見つけようとしても、巡り会えるものではない。自分を痛めながら何かに入れ上げる。生き方の集積が全てを決めるのだ。


どこまで自分に厳しくなれるか。相手への想像力を発揮できるか。仕事の出来はこうした要素で決まるのであって、学歴で決まるわけではない。 僕が最も親しくしているGMOインターネットの社長・熊谷正寿もネクシィーズ社長・近藤太香巳も高校中退だが、彼らは極めて優秀だ。


人は誰もが全員、死を背負って生きている。生から死への道は一方通行だ。僕は7〜8歳の頃から、「自分はいつか必ず死ぬのだ」とはっきり自覚していた。近所のおばさんが突然亡くなったと聞いた時、僕は一日中泣いた。おばさんが死んだことが悲しかったのではない。「自分の命には限りがあるのだ」と気付き、虚しくてたまらなくなったのだ


「生まれる」というゼロの地点から「死ぬ」という終着地点までの間に、不公平や不平等など、さまざまな個人差が出てくる。だがオギャーと生まれる瞬間と、死ぬ瞬間だけは、すべての人が平等だ。
生の虚しさを紛わせる要素は、せいぜい @仕事 A恋愛 B友情 C家族 D金の五つしかないと思う。


朝から晩まで仕事について考え抜き、骨の髄まで仕事にのめり込む。そして上司や同僚ができない仕事を進んで引き受け、結果を出す。 そうすれば、自然と仕事は面白くてたまらなくなるはずだ。


圧倒的努力とは何か。人が寝ているときに寝ないで働く。人が休んでいるときに休まずに動く。どこから手をつけたらいいのか解らない膨大なものに、手をつけてやり切る。「無理だ」「不可能だ」と人があきらめる仕事を敢えて選び、その仕事をねじ伏せる。人があきらめたとしても、自分だけはあきらめない。憂鬱でなければ、仕事じゃない。毎日辛くて、毎日憂鬱な仕事をやり切った時、結果は厳然とあらわれる。この世には二種類の人間しかいない。圧倒的努力を続ける人と、途中で努力を放棄する人だ。


癒着とはどういう状態を指すか。お互いがお互いを必要として結果を出す唯一無二の関係だ。しかし、誰かと癒着するにはキラーカードを持っていなくてはいけない。「この人」と心に決めた人との信頼関係はなんとしても死守するべきだ。


安い買い物をして後で後悔するくらいならば、本当に欲しいものだけを一点買いした方がいい。「好きでたまらない。いくら金を出してもどうしても手に入れたい」と思える逸品を、身投げするような思いで買ってしまう。代金を払うために、あとは猛烈に働くのだ。



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2020年11月08日

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

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私たちは何者か?人間とはどのような存在なのか?そして特に重要なのが、私たちには魂があるのか、という疑問だ。私の生き方は、やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか? 必ず死ぬという運命に対して、私はどのような態度を取るべきなのか? たとえば、死を恐れるべきなのか? やがて死ぬという事実に絶望するべきなのか?


私は魂が存在しないことをみなさんに納得してもらおうとする。 不死は良いものではないことを納得してもらおうと試みる。 そして、死を恐れるのは、じつは死に対する適切な反応ではないことや、死は特別謎めいてはいないこと、自殺は特定の状況下では合理的にも道徳的にも正当化しうるかもしれないことも。


死んだら本人がどのような目に遭うかが問題ではないのだ。死は本人にとっては悪くない。死が悪いのは、後に残された人がつらい思いをするからだ


なぜ死は悪いのか? なぜなら、死んでしまったら、存在しなくなるからだ。そして、存在しないのは悪いとなぜ言えるのかと問えば、答えは、人生における良いことの数々が味わえなくなるから、だ。もし自分が存在しなければ、生きて存在してさえいれば得られるものが得られなくなる。死が悪いのは、人生における良いことを奪うからなのだ。 この説明は、今日では死の害悪あるいは悪さを説明する「剝奪」説として知られている。死に関して最悪なのは、生きていれば享受できていたかもしれない、人生における良いことを死が剝奪する点であると主張する説だからだ。そして、剝奪説は基本的に正しいように思える。


死は今、私にとって悪いはずがない。私は生きているからだ。そして、死は私が死んでいるときに私にとって悪いはずがない。なぜなら、その時点で私はもう存在しないのだから(そのときに、どうして物事が私にとって悪いなどということがありうるだろうか?)。


(A)ある人にとって何かが悪いことでありうるのは、その人が存在しているときだけだ。
(B)ある人が死んでしまえば、その人は存在しない。
したがって、(C)死は本人にとって悪いということはありえない。

誕生前の私は人生を過ごしていないが、やがて人生を手に入れる。だから、将来手に入るものを私はまだ持っていない。あいにく私たちには、誕生前のような状態(後で手に入れるものをまだ持っていない状態)を表す言葉がない。ある意味では喪失に似ているが、喪失とまったく同じわけではない。それを「シュモス」と呼ぶことにしよう。誕生前の期間には、人生の喪失はないが、人生のシュモスはある。

ここでの対称性は見過ごしやすい。「喪失」という良い言葉はあるのに、「シュモス」にあたる言葉はないからだ。だが、じつはそれは何の説明にもなっておらず、説明が必要なことを指し示しているだけだ。 私たちはなぜ、かつて将来手に入るものを持っていなかったことよりも、かつて持っていたものを持たなくなることのほうをもっと気にかけるのか? これは本当に不可解だ。



【感想】
誰しもがいつか必ず迎えることとなる「死」。死についてこれほど真剣に語られた本はないと思う。管理人も死についてとても興味を持っていて、いつか死ぬという意識を持っているからこそ頑張れている時もある。身近な人の死は大きな悲しみなどのインパクトを与える。誰かの死をきっかけに人生が大きく変わったという人も多いはず。この本の1つの大きなテーマが、「死」があるから「生」が輝くという事だと思う。永遠に続く人生なんて、誰も大切に生きないと思う。終わりがあるから、今を大切に生きている人が大多数。世の中には死んでもなお人々の心を感動させ、影響を与え続ける偉人がたくさんいる。「死」について思う事は、日々を精一杯生きて、それらの偉人ほどではないにせよ、誰か大切な人の心に残り、勇気づけていくような人になりたい、そのような人生にしたい、という事。


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