張 飛(ちょう ひ:字・翼徳)とは?
なお、『三国志演義』では「翼コ(よくとく)」で張翼徳としている。
封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹、敬哀皇后・張皇后がいる。
劉備の挙兵当初から付き従った古参で、その人並み外れた勇猛は、下述の通り中華に轟いていた。
『演義』を始めとした創作作品でも多くの活躍をし、現在でも中国や日本において大いに親しまれる。
三国志演義における張飛
小説『三国志演義』では、字を翼徳(よくとく)とする。「翼」と「益」が同音である事、燕人の異名があったことが混乱の原因と見られる。
身長八尺、豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう(「身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬」)[1]と表わされる容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている。
張飛は一騎打ちの名手であり、夏侯惇と一騎打ちで互角に戦った曹豹を一騎打ちで討ち取り、関羽と一騎打ちで互角に戦った紀霊を一騎打ちで討ち取り、酔っていたとはいえ曹操軍を代表する猛将である許褚に一騎打ちで勝利している。関羽は曹操に「弟の張飛の武勇は自分以上である」と語っている。
吉川英治の小説『三国志』では、黄巾賊に追われる劉備と初対面し黄巾賊から劉備を救った。
『演義』における張飛は、劉備の君子ぶりをアピールするために、粗暴な役回りを押しつけられている部分が多い。例えば、黄巾の乱の後、劉備が県尉と言う低い役職が不満で督郵を鞭打ったことがあるが、『演義』では、聖人君子である劉備像を壊さない為に、劉備に賄賂を要求した督郵を、張飛が乱暴したことにされている。
若い頃は、戦場では蛮勇を振るうものの戦の後の宴席では酒に任せて暴力を振るった為に、部下達に信頼されていない情景が描かれている。極めつきは、劉備が袁術を叩く為に軍勢を出した時、その留守役として下邳(かひ)を守っていた際に起こった事件。泥酔した隙をつかれ、呂布とその軍師の陳宮の計略にひっかかり、部下に反乱され、主君である劉備の妻子を城もろともに奪われ、曹操の下に身一つで転がり込む原因を作っている。
呂布滅亡後、曹操と不仲になり徐州に攻め入ってきた曹操部下の劉岱に対し、合戦をする前に張飛軍が兵の士気を上げるために酒盛りをするが、途中で張飛が暴れ部下に暴行し、部下が劉岱の元へ走って逃げ劉岱に張飛軍の内情を渡す。だが、これは張飛の策であった。部下の情報を信用し攻めてきた劉岱軍の裏をかいた攻撃をし、劉岱を捕らえたとある。
官渡の戦いの後には、山賊にまで成り下がり、劉備のもとに戻ろうと合流を望む関羽を裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、血の気が多く、短慮な所も見せている。
劉備が諸葛亮を迎えた時には、劉備が自分と彼を「水と魚のようなもの」(水魚の交わり)と例えた事に嫉妬を覚え、後に諸葛亮が采配を振ることになった時には、関羽とともに反発している。しかし、采配が見事に的中すると、手のひらを返したように今度は諸葛亮をベタ褒めして信頼を委ねるようになる。
益州入りの後には、張郃を相手に智謀をめぐらして勝利を得る張飛の成長した姿が描かれている。
しかし最後には、義兄弟である関羽を失った事で荒れ狂い、元の乱暴者に戻ってしまい、その結果破滅するという悲劇的な末路を描いた所で、『演義』は「張飛」という人物を締めくくっている。このとき五十五歳と記され、167年の生まれと設定されていた事がわかる。
明代に成立した笑府にも周倉同様に登場するなど、他の三国時代の人物に対し、より庶民に愛される存在として伝承されてきた。張飛が督郵を鞭打つ場面と長坂橋で曹操軍の前に仁王立ちする場面は、京劇などで特に人気が高く、大向こう受けするという。以降『演義』を下敷きにした各種創作ではこうした、コミカルさも取り入れた好漢として活躍している。
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