呂布(りょふ)と貂蝉(ちょうせん)とは?
三国志演義
「軍門に戟を射る」等、小説『三国志演義』ではそのまま使用された挿話も多い。身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、きらびやかな鎧をまとうという、豪壮な武者である。猛々しく・華やかに、また欲望に弱く、判断力に欠ける点など人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、彼の驍勇無双ぶりを最もよく表す描写としては、虎牢関の戦いにおいて張飛と互角の打ち合いをし、関羽、劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が特に有名である。
また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑とした。それが恨みを買う一因となって酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲・魏続に捕らえられてしまう。 陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われた曹操は処刑を決意する。これに激怒した呂布は「この大耳野郎が。陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されてきた張遼に「見苦しい」と罵られた。主を殺し、裏切り、自分の武勇のみで乱世を生き抜き、最期は部下に裏切られその生涯を終えた。
その他
『三国志』の「夏侯惇伝」には、建安24年(219年)に曹操によって呂布軍が郟県の摩陂で撃破されたことが記述されている。また「満寵伝」では樊城を包囲した関羽が郟に別将を派遣したという記述がある。
これらの記述から、関羽配下には同姓同名の呂布が存在していたと見ることができるが、「夏侯惇伝」の記述が衍字であるとの説もあり、ちくま学芸文庫の正史『三国志』の日本語訳でも、その説に従ってこれを訳していない。
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◆貂蝉(ちょうせん)とは、架空の人物であり、後漢の臣王允の養女とされる。楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。史実にその名は見えず、小説『三国志演義』に登場する。
概略:
『三国志演義』第八回から登場。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時十六歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てた。
王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。だが、次に王允は呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまう。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めた。その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をする。2人が密会していることに董卓はいったん怒ったが、腹臣の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしない。それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害した。これが「美女連環の計」である(「連環の計」は二つあり、赤壁の戦いにおいても、船同士を環(鎖)を連ねて動けなくするという、文字通りの計略が見られ、それと区別するため「美女連環の計」と言う)。
董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となったが子ができなかった。(第十六回)下邳の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めている。下邳陥落後の貂蝉については記述がない。
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