上杉 謙信(上杉 輝虎)とは?
内乱続きであった越後国を武力で統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、多大な戦果をあげた。武田信玄、北条氏康等の敵対勢力と同時に対抗しながら、その軍事的手腕を発揮して敵の侵略を阻止。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。
概要:
上杉重房を初代として16代の世系にあたる。 上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎(ながお かげとら)。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。主君・上杉定実から見て「正妻の甥」且つ「娘婿の弟」にあたる。
のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。周辺の武田信玄、北条氏康、越中一向一揆、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。また、女性であったとする俗説もあるが、後年の創作である。
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上杉謙信女性説(うえすぎけんしんじょせいせつ)
越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったとする説である。
上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は数多く存在し、女性説もその俗説のひとつである。
概要:
歴史小説家である八切止夫は、スペイン革命時には城砦として使用されていたトレドの修道院から、15世紀から16世紀の舟乗りや宣教師による日本についての報告書を発見した[疑問点 – ノート]。その中にあったゴンザレスという船乗りが国王に提出した、1571年から1580年にかけての佐渡金山に関する報告書に上杉景勝の叔母(tia)という言葉を見つけた。八切はこの叔母を上杉謙信と解釈し、上杉謙信の女性説を唱えた。八切は同説に基づき1968年の読売新聞夕刊に小説『上杉謙信は男か女か』の連載を開始した。この八切による女性説は日本史学者桑田忠親などによって厳しく批判されている。史料批判の甘さや当該時代背景の解釈での問題点が指摘されており、現在では八切の提言のいくつかは実証主義に基づいた女性説の根拠となりえない。
現在語られている女性説の根拠は、旧来の八切説以外にも未検証の伝説や逸話などが混在したまま整理されていない。
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主な素材:コールドキャスト
サイズ:高さ38cm 幅12cm 奥行き11cm
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