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2007年10月21日
写真家「山本皓一」は、世界120カ国を撮影
山本皓一(報道の篠山紀信といわれています)
フオトルポルタージュを中心に世界120数カ国を取材し、アマゾン、パタゴニア、シベリアなど極地の取材を得意とする。また「ドイツ統一」、「ソ連崩壊」、「湾岸戦争」、「北方領土択捉潜入取材」、「南北朝鮮半島・軍事境界線」などの国際事件をカバーする。近年は中国長江全域のフオトエッセイやチベット、ウズベキスタン、朝鮮半島、ロシア(旧ソ連)、パプアニューギニア、ミャンマーなどアジア各地域の取材が多い。また中国宜昌市撮影家協会の「悠久の長江・三峡作品展」を東京をはじめ日本各地、北京上海、宜昌などでの開催にあたって監修者として協力する。特に南北・朝鮮半島は20数年間にわたって定点観測の取材を続け、北朝鮮は8回、韓国は数え切れないほど足を運んでいる。日本の「国境の島」シリーズで北方領土・南鳥島・尖閣列島・竹島・沖ノ鳥島全島を上陸取材、作品を雑誌等で発表し続けている。
1943年 香川県高松市生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒
卒業後訪米、ニューヨーク、ロチェスター、ウイチタ、LAなどに滞在
1971-84年 小学館(週刊ポスト・グラビア)の写真班員
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2007年10月20日
岡山の偉人・緑川洋一
緑川洋一
岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)上京し日本大学専門部歯科医学校に入学。1934年(昭和9年)模型飛行機店店主と合作しコンテストに応募したボート用スチームエンジンを海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)日大歯科医学校を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
翌1937年(昭和12年)郷里の岡山市に横山歯科医院を開業する。1939年(昭和14年)より写真撮影を再開。緑川洋一の名で写真雑誌への投稿を始める。1945年(昭和20年)岡山連隊区司令部が報道班を結成し班員となる。岡山市を中心に戦災状況を撮影。しかし、終戦とともに撮影したネガを連隊区司令部の命令で全て焼却する。1946年(昭和21年)同じ岡山出身の写真家・石津良介(石津謙介の兄)と写真工房を開設。1947年(昭和22年)石津の紹介で米子の写真家・植田正治と共に東京で秋山庄太郎、林忠彦、石津らが中心となり結成された写真家集団「銀龍社」に参加。以後、植田とは生涯親交を厚くしていた。
1967年(昭和42年)歯科医院を「緑川歯科医院」と改称。1978年(昭和53年)家庭裁判所より裁可があり、戸籍登録名を「緑川洋一」に改名。1981年(昭和56年)全国組織の写真集団「風の会」を主宰。1990年(平成2年)勲四等瑞宝章を受賞。1992年(平成4年)岡山市西大寺・両備バス西大寺バスセンターの一角に「緑川洋一写真美術館」を開館、館長となる。2001年(平成13年)胃ガンのため逝去。享年86。
緑川洋一の世界
http://www.ha-isha.jp/midorikawa/index.html
2007年10月08日
高齢者とパソコン
IT時代の到来といわれて久しい。
ところがこれが高齢者となるととたんに隔世の趣となり、「パソコンは難しい」・
「パソコンは恐い」との声が挙がる。
高齢者を狙った詐欺事件は多い、「振り込め詐欺」などや災害被災地の身内を装った「成りすまし詐欺」など・・・
インターネットに関する報道でも「ネット詐欺」や「個人情報流出」といった記事を目にする。
パソコンに触れたことのない高齢者とっては、ITとは、何やら「魑魅魍魎の世界」といった印象だろう。
ところが、実際はこのパソコンの恩恵を最も受けられる可能性のあるのが高齢者。
遠隔地の友達との時間を選ばないコミニツールとして趣味を活かしたHPの開設や
サークル活動など、ネットを利用活動するシルバー世代も増えている。
足腰が弱り外出困難となっても、パソコンさえあれば外との交信が図れ、電子投票
にも参加でき、さらにはパソコンによって独居老人の健康状態をチェックするシステムまで存在する。
高齢者に必要な指導者として三世代同居なら孫が一番。
「まだまだ現役」のメンバーの増加もこのシルバー層にかかっている。
2007年09月22日
岡山城の話 @
岡山城の歴史(あらまし)
岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天主閣の土台が北に大きく突き出した不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天主閣である。
天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時ここの城主だった金光宗高を滅ぼし、その城を修復した後、沼城から移ってきた。
今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。
こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天主閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しい旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。
そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。
途中、秀吉の朝鮮半島への進攻にが、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天主閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。
県立図書館の裏側にある、お堀を渡って烏城公園入り口から右へ向いて歩いて行くと左に石段が現れる。ここを登れば鉄(くろがね)門。登りきって右に曲がると不明(あかずの)門。ここを登りきったら左に天主閣が現れる。
緒方洪庵展の登りのある、お堀を渡った烏城公園の入り口。
不明門下の石垣
不明門をくぐり石段を登ると、天守閣に一歩近づく
2007年09月11日
ぼっけえ売れるショップ!!
posted by 素浪人将軍 at 19:07| おすすめショップ紹介
かわむらくん1号・2号
吉本の芸人の素敵なショットの写真がプリントOK」!
どんどん、芸人の数を増やす予定。
1枚200円で、何枚でも注文できます。マシンはエプソンの新型を使用。
ルミネtheよしもと
2007年09月10日
お気に入りブログを紹介してます。
a href="http://community.edita.jp/campaign/h_pre/cp.php?m=46b83a4dc288b" target="_blank">
<リンク:>
FXの研究に熱心で独自の意見で頑張っておられます。
最近では、AGLOCOにどっぷり浸かっているそうですよ
多趣味の主婦です。
ほとんど、中途半端ですが、今ブログに力を入れてます。
Kaoru-LKD
音楽を愛する元バンドマン、今はソロで大きく羽ばたこうとしているそうですよ。
ブリヤ・サラヴァランさん
世界のビールを紹介するブログです。
飲んでるビールであなたがどんな人かを当てるそうですよ。
<リンク:>
詩人でパン屋さん(裸心)
富士タケルのHP
遅れてきた、シンガーソングライター
三十路真っ只中の主婦
スロ話をメインに更新しています。
輸入家具&服屋さんの店長さん。
ユー古参には、可愛い愛娘の美亜(みや)ニャンコちゃんがいます。
65歳 日記を長年つけておられます。
ブログに挑戦して脳細胞を活性化させようということです
確実に得するCMサイトをブログしてます。
興味のある方は覗いて下さい。続きを読む...
2007年09月07日
2007年09月01日
蝶の幼虫を特捜中
最近、蝶の幼虫が、庭にての発見が相次いでいます。
この幼虫というもの、非常におかしな格好です。
蝶の種類では一応似通っているが、科目が違うと全然デザイン変わってくる。
図書館の図鑑をみても、相当凄い化け物のようなのもいる。
こんなに奇妙な生き物はそういないというくらい変わった顔、形をしている。
私は元来、虫類は大抵好きになれない。
いつも敬遠してきている。
しかし今、レンズで超接近撮影をしているが、宝物を発見したごとく、うきうきしている。
前も,魚釣り(主に投げ釣り)に凝ってた頃、釣具屋で見たえさの青虫を見てこんなものをと思ったけれど、いざ海の釣り場では、指でちぎって針につけた手を洗わずに握り飯をじかに掴んで食べて事もあった。
蝶が好きで、蝶の写真が撮りたいという欲望が、幼虫の気持ち悪さを超越させたのだろうか?
しかし、こんな幼虫がキレイで、華麗で素晴らしい妖精のように変身するかと思えば、凄いとしか言いようが無い。