2007年09月22日
岡山城の話 @
岡山城の歴史(あらまし)
岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天主閣の土台が北に大きく突き出した不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天主閣である。
天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時ここの城主だった金光宗高を滅ぼし、その城を修復した後、沼城から移ってきた。
今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。
こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天主閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しい旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。
そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。
途中、秀吉の朝鮮半島への進攻にが、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天主閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。
県立図書館の裏側にある、お堀を渡って烏城公園入り口から右へ向いて歩いて行くと左に石段が現れる。ここを登れば鉄(くろがね)門。登りきって右に曲がると不明(あかずの)門。ここを登りきったら左に天主閣が現れる。
緒方洪庵展の登りのある、お堀を渡った烏城公園の入り口。
不明門下の石垣
不明門をくぐり石段を登ると、天守閣に一歩近づく
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