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2014年02月07日

サンスクリット

サンスクリット(梵: संस्कृत; saṃskṛta, Sanskrit)は古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。

現在の母語話者は少ないが死語ではなく、インドでは憲法で認知された22の公用語の1つである。宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。

日本では、一般には言語であることを明示して「サンスクリット語」と呼ばれる。また、古くは梵語(ぼんご、ブラフマンの言葉)とも呼ばれた。なお、日本における仏教関連の辞典や書物では skt などと略称される。



目次 [非表示]
1 言語としてのサンスクリット 1.1 歴史
1.2 文字・表記
1.3 発音と文法
1.4 文法
1.5 数詞

2 著名な文学・哲学・宗教文献
3 その他 3.1 梵語 - 仏教での伝播、日本での一般認識
3.2 印欧語族としてのサンスクリット
3.3 映画音楽とサンスクリット

4 関連項目
5 引用
6 外部リンク


言語としてのサンスクリット[編集]

歴史[編集]

インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)・インド・イラン(アーリア)語派に属し、狭義には紀元前5世紀から紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し、その学統によって整備された古典サンスクリット(古典梵語)のことを指す。

広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、後の時代の、仏典などが記された仏教混交サンスクリットをも含む。

そのように古典時代から広く使われて多くの文献を残しているため、サンスクリットは、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されることもある。同じインド・イラン(アーリア)語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似している。

釈迦の時代など日常の生活においてインド各地の地方口語(プラークリットと呼ばれる。パーリ語など)が一般に用いられるようになって以降も、サンスクリットは逆に公用語として普及し、宗教(例:ヒンドゥー教・仏教)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に亘って用いられた。

サンスクリットはプラークリットと共に近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、この2つの古典語はヒンドゥスターニー語などの北インドの現代語の祖語であるのみならず、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた。さらには東南アジアの多くの言語や、東アジアの言語にも影響を与えた。

ただし近代インドの諸言語では、特に北インドのインド語派の言語を中心に高級語彙の供給元の言語としてサンスクリットだけでなくインドのイスラーム化と同時に導入されたアラビア語、ペルシア語も広範囲で機能している。そのため純正なサンスクリット系語彙がインド語派に属する系統的に近いヒンドゥスターニー語などでは失われ、却って系統的に遠い南インドのドラヴィダ諸語の中に保存されているということも少なくない。





円形グランタ文字による「ヨハネによる福音書」3章16節。言語はサンスクリット。19世紀半ば。
サンスクリットを公用語としたことがわかっている王朝
グプタ朝(4世紀から5世紀)

13世紀以降のイスラム王朝支配の時代(アラビア語、ペルシア語の時代)からヒンドゥスターニー語(→ウルドゥー語、ヒンディー語)の時代、大英帝国支配による英語の時代を経てその地位は相当に低下するが、実は今でも知識階級において習得する人も多く、学問や宗教の場で現代まで生き続けている。

文字・表記[編集]

サンスクリットの表記には、時代・地域によって多様な文字が使用された。例えば日本では伝統的に悉曇文字(シッダマートリカー文字の一種、いわゆる「梵字」)が使われてきたし、南インドではグランタ文字による筆記が、その使用者は少なくなったものの現在も伝えられている。

現在でも、デーヴァナーガリーを中心とするさまざまなインド系文字で表記される他、ラテン文字による転写方式としても、 IAST方式や京都・ハーバード方式、ITRANS方式(英語版)など、複数の方式が用いられている。

以下の説明においては、基本的にデーヴァナーガリーと、京都・ハーバード方式のラテン文字表記を用いることとする。

発音と文法[編集]

母音

अ 無 a आ ा aa इ ि i ई ी ii उ ु u ऊ ू uu ऋ ृ R ॠ ॄ RR
ऌ ॢ L ॡ ॣ LL ए े e ऐ ै ai ओ ो o औ ौ au 無 ं -M 無 ः -H
表内の左側が母音字(子音が伴わない)、右側が母音記号(子音に付属、M・Hは子音もしくは母音に付属)とする。

子音



無声・無気

無声・帯気

有声・無気

有声・帯気

鼻音


軟口蓋音
क ka ख kha ग ga घ gha ङ Ga

硬口蓋音
च ca छ cha ज ja झ jha ञ Ja

反舌音
ट Ta ठ Tha ड Da ढ Dha ण Na

歯音
त ta थ tha द da ध dha न na

舌音
प pa फ pha ब ba भ bha म ma



半母音
य ya र ra ल la व va

歯擦音
श za ष Sa स sa

気音
ह ha

文法[編集]

名詞は男性、女性、中性に分かれ、単数、両数(双数、dual)、複数の区別と格に応じて曲用する。格は主格、呼格(よびかけ)、対格、具格(…によって)、為格(…の為に)、奪格(…から)、属格(…の、に属する)、処格(…で、において)の8つある。つまり、1つの名詞は24通りの曲用を考えうる。

曲用は規則的なものに限っても性・語幹の末尾によって多くの場合に分かれ、複雑である。

動詞の活用は、動詞の種類によって伝統的に10種に分けられている。注記すべきこととして、能動態と受動態の他に、反射態という、行為者自身のために行われることを表す態が存在する。これはギリシア語の中動態に相当する。また、アオリスト相も存在する。

数詞[編集]

一例として数詞を挙げる。左側は京都・ハーバード方式、右側はIAST方式。括弧内は基数およびカタカナ転写。
1.ekam (eka-, エーカム)
2.dve (dvi-, ドゥヴェー)
3.triiNi/trīṇi (tri-, トゥリーニ)
4.catvaari/catvāri (catur-, チャトゥヴァーリ)
5.paJca/pañca (pañca-, パンチャ)
6.Sat/ṣat (ṣaṣ-, シャト)
7.sapta (sapta-, サプタ)
8.aSTau/aṣṭau (aṣṭa-, アシュトー)
9.nava (nava-, ナヴァ)
10.daza/daśa (daśa-, ダシャ)

著名な文学・哲学・宗教文献[編集]
ヴェーダ関係(シュルティ、天啓文学) ヴェーダ聖典 リグ・ヴェーダ
サーマ・ヴェーダ
ヤジュル・ヴェーダ
アタルヴァ・ヴェーダ

ブラーフマナ
アーラニヤカ(森林書)
ウパニシャッド(奥義書) チャーンドーギヤ・ウパニシャッド
ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド
アイタレーヤ・ウパニシャッド
イーシャー・ウパニシャッド
カウシータキ・ウパニシャッド
ケーナ・ウパニシャッド
タイッティリーヤ・ウパニシャッド
カタ・ウパニシャッド
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド


叙事詩関係 マハーバーラタ バガヴァッド・ギーター
ナラ王物語
指輪によって思い出されたシャクンタラー
ハリ・ヴァンシャ(英語版)

ラーマーヤナ

ダルマ・シャーストラ関係 マヌ法典
ヤージュニャヴァルキヤ法典

アルタ・シャーストラ(英語版)(実利論)
カーマ・スートラ
ナーティヤ・シャーストラ(演劇論)
ヴァーストゥ・シャーストラ(建築論)
哲学関係 ヴァイシェーシカ・スートラ(英語版)
ヨーガ・スートラ
ニヤーヤ・スートラ
ミーマーンサー・スートラ
ブラフマ・スートラ
サルヴァ・ダルシャナ・サングラーハ(全哲学綱要)

カーリダーサによる戯曲
その他仏教文献(般若経、法華経など。ただし、インド仏教の衰滅に伴い散逸してしまったものも多く、チベット語訳や漢語訳にしか残っていないものが多い。)

その他[編集]

梵語 - 仏教での伝播、日本での一般認識[編集]

仏教では最初、ヴェーダ文献の聖性を否定し、より民衆に近い水準の言葉で文献が書かれたため、サンスクリットが使われることはなかったが、大体紀元の前後を境にして徐々にサンスクリットが取り入れられ、仏教の各国への伝播とともに、サンスクリットも東アジアの多くの国々へ伝えられた。

日本は中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は非常に古く、すくなくとも真言宗の開祖空海まではさかのぼれる。

実際に、仏教用語の多くはサンスクリット由来であり、例えば("僧"、"盂蘭盆"、"卒塔婆"、"南無阿弥陀仏"など無数にある)、"檀那(旦那)"など日常語化しているものもある。

また、経典のうち陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言(マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、サンスクリット音のまま直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。

卒塔婆や護符などに描かれる梵字は、サンスクリットに由来する文字である。(ただし、一般的なデーヴァナーガリーとは多少異なる悉曇(しったん、シッダーム)文字に由来している。)

日本語の五十音図の配列は、日本語のほうが子音の種類がずっと少ないという点を除けば、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列にそっくり倣って作られたものである。

印欧語族としてのサンスクリット[編集]

サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属する言語である。ギリシア語、ラテン語、ペルシャ語や、英語を含む現代ヨーロッパの多くの言語と同じ起源をもち、語彙や文法の面でさまざまな共通点をもつ。

1786年、イギリスの東洋学者ウイリアム・ジョーンズが、そうした共通性や“同源”の可能性について指摘した事から、言語の系統関係について研究する学問「比較言語学」が始まった、と言われる。

初期の印欧比較言語学は、とくにギリシア語、ラテン語、サンスクリットの三者を綿密に比較することから最初のステップを踏み出したが、それ以来、サンスクリットのもつ膨大な量の文献資料は非常に大きな役割を果たしてきた。

映画音楽とサンスクリット[編集]

母音の響きがよいという理由で映画音楽でコーラスを投入する際に使用されるケースが有る。
『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』の楽曲「運命の闘い"Duel of the Fates"」では、ウェールズ語で書かれたタリエシン作の"樹作戰"英訳版からサンスクリットに翻訳されたテキストが歌われた。作曲はジョン・ウィリアムズ。
『マトリックス・レボリューションズ』のエンド・クレジットにかかる「ナヴラス"navras"(ヒンドゥーで信じられている「9相の感情」の意味)」では、ヴェーダ収録の「シャンティマントラ(平和の祈り)」がオリジナルのサンスクリットのまま使われた。作曲はドン・デイヴィス(英語版)とベン・ワトキンス(ジュノ・リアクター)。
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ヒンドゥー教における釈迦

ヒンドゥー教における釈迦(ゴータマ・ブッダ )はときにヴィシュヌのアヴァターラ(化身)と見られる。プラーナ文献『バーガヴァタ・プラーナ』では彼は25のうち24番目のアヴァターラであり、カルキ(最後の化身)の到来が予告されている。

同様に、ヒンドゥー教の伝統の多くがブッダをダシャーヴァターラ(神の十化身)として知られる最も重要な10の化身の 最も新しい(9番目の)化身を演じさせている。仏教徒のダシャラタ・ジャータカ(ジャータカ・アッタカター461)は菩薩・偉大な叡智の至高なるダルマの王としてのブッダの前世としてラーマを描写している。ブッダの教えはヴェーダの権威を否定し、したがって仏教は一般的に正統的ヒンドゥー教の見解からナースティカ(異端、語源的には「存在しないna astiと主張する者」[1] )の派と見られた。



目次 [非表示]
1 ヒンドゥー教における釈迦観
2 ヒンドゥー教内での釈迦に主導された改革への反応
3 ヒンドゥー教聖典における釈迦
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


ヒンドゥー教における釈迦観[編集]

ヒンドゥー教内の伝統の多様性のため、ヴェーダ伝統の参照内には、釈迦の正確な位置づけへの明確な観点あるいは総意は存在しない。

影響力のあるヴァイシュナヴァ派詩人ジャヤデーヴァ・ゴースワーミーの『ギータ・ゴーヴィンダ』のダシャーヴァターラ・ストートラの部分では釈迦をヴィシュヌの十化身のうちに含め、彼に関する次のような祈りを書いている。



ケーシュヴァよ!宇宙の主よ!ブッダの姿を装った主ハリよ!全ての栄光はあなたに!慈悲深い心のブッダよ、あなたはヴェーダの犠牲の法に拠って執り行われる哀れな動物たちの屠殺を非難なさる。

− [2]

この、主に非暴力(アヒンサー)を促進したアヴァターラとしての釈迦観はクリシュナ意識国際協会(ISKCON)[3]を含む現代のヴァイシュナヴァの多くの団体のうちに一般的な信条として存続している。

サルヴパッリー・ラーダークリシュナンやヴィヴェーカーナンダのような他の顕著な現代ヒンドゥー教の提案者たちは、釈迦を世界中の全ての宗教の背後にある同じ普遍的真実の教師とみなした。



ヒンドゥー教徒のブラフマン、ゾロアスター教徒のアフラ・マズダー、仏教徒のブッダ、ユダヤ教徒のエホバ、キリスト教徒の天の父である彼が、あなたがその高貴な理念を実行するように強さを与えられますように!

− ヴィヴェーカーナンダ、[4]



もしヒンドゥー教徒がガンジスの蔵でヴェーダの祈りをするならば…もし日本人が仏像を崇拝するならば、もしヨーロッパ人がキリストの仲裁を確信するならば、もしアラブ人がモスクでコーランを読むならば……それは彼らの最深の神理解であり、彼らに対する神のこの上なく満たされた啓示である。

− ラーダークリシュナン、[5]

立松和平がインドに行ったとき、マルカスというキリスト教徒が「ヒンドゥー教の考え方」として以下のように語るのを聞いたという。



六道輪廻では八百五十万回生まれ変わらねばならないとされています。そのうち一回だけ人間になれます。この時に輪廻から解脱することができるのです。ブッダはそのことを証明するために、ビシュヌ神の生まれ変わりとして人間界にでてきたというのがヒンドゥー教の考え方です。

− [6]

ヒンドゥー教内では、例えばラーマあるいはクリシュナのようなアヴァターラが一般的に至高の神として崇拝されているが、ブッダに同様な方法でのヒンドゥー教徒からの崇拝が行われているのは、さほど見られない。

ヒンドゥー教内での釈迦に主導された改革への反応[編集]





アヴァターラを描いた絵。最下段中央の多腕の人物が釈迦である。
ガンディーを含む、現代ヒンドゥー教における革命者の多くは、釈迦の生涯と教えとその試みられた改革の多くに霊感を受けた[7]。

仏教は、1979年にアラーハーバードで行われたヴィシュヴァ・ヒンドゥー・パリシャッドの第二回世界ヒンドゥー会議で栄誉を与えられたダライ・ラマ14世ラマ・テンジン・ギャツォとともに同時代のヒンドゥトヴァ運動に好意を見出している[8]。

ヒンドゥー教聖典における釈迦[編集]

ブッダは、プラーナ文献ほぼ全てを含む、重要なヒンドゥー教聖典の中で描写されている。しかしながらそれら全てが同じ人物に言及するわけではない。それらのいくつかは別々の人々を言及し、また「ブッダ」は単に「ブッディ(知性)をもつ人」を意味する。しかし、それらの大部分は仏教の開祖に言及している。それらは二つの役割とともに彼を描写する。悪魔や他のものを惑わすために説教をし、ヴェーダに規定された動物の犠牲を非難する。

ブッダについて言及するプラーナの部分的なリストは、以下の通りである。
『ハリヴァンシャ』(1.41)
『ヴィシュヌ・プラーナ』(3.18)
『バーガヴァタ・プラーナ』(1.3.24, 2.7.37, 11.4.23)
『ガルダ・プラーナ』(1.1, 2.30.37, 3.15.26)
『アグニ・プラーナ』(16)
『ナーラダ・プラーナ』(2.72)
『リンガ・プラーナ』(2.71)
『パドマ・プラーナ』(3.252) など

プラーナ文献では、彼はヴィシュヌの十のアヴァターラのひとつで、普通はその九番目として言及される。アヴァターラとしての彼に言及した別の重要な聖典は、リシ・パラーシャラの『ブリハット・パラーシャラ・ホーラ・シャーストラ』(2:1-5/7)である。

彼はしばしばヨーギーあるいはヨーガチャーリャそしてサンニャーシーとして記述される。いくつかの場所ではブッダの父はアンジャナあるいはジナと名づけられてはいるが、仏教の伝統では、彼の父は一貫してスッドーダナと呼ばれた。彼は白色あるいは青白く赤らんだ容色が美しく、赤茶けた、あるいは赤い衣服を着た人物として描写された[9]。

ほんのいくつかの陳述がブッダの崇拝に言及する。例えば『ヴァラーハ・プラーナ』は美を欲する人は彼を崇拝すべきと述べている[10]。

プラーナのいくつかでは、彼が「悪魔を欺き迷わす」ために誕生を担ったとして記述されている。



悪魔どもを惑わすため、彼(主ブッダ)は子供の姿で進路に立った。愚かなジナ(悪魔)は彼が自分の息子になると思い込んだ。かくして主シュリー・ハリは(アヴァターラ・ブッダとして)、その非暴力の力強い言葉によって、巧みにジナと他の悪魔どもを迷わせた。

− 『ブラフマーンダ・プラーナ』 1.3.28

『バーガヴァタ・プラーナ』では、ブッダはデーヴァに力を取り戻させるために誕生を担ったと言われている。



次に、カリ・ユガのはじまりにおいて、デーヴァの敵どもを混乱させる目的のため、キーカタ人の間で、彼はブッダという名の、アルジャナの息子となる。

− 『シュリーマッド・バーガヴァタム』1:3:24

ただし上記の『バーガヴァタ・プラーナ』の一節について、クリシュナ意識国際協会設立者A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダは、釈迦(に化身したヴィシュヌ)はヴェーダにおける犠牲を否定したのではなくヴェーダの犠牲の名のもとに行われる動物の屠殺をやめさせようとした、と解釈する[11]。

多くのプラーナにおいてブッダは、ヴェーダのダルマから遠くへと、悪魔あるいは人類のいずれか一方惑わせる目的のうちに顕現された、ヴィシュヌの化身として記述される。『バヴィシュヤ・プラーナ』は以下を含む。



次いで、カリの時代を思い出された神ヴィシュヌはシャーキャムニことゴータマとして生まれた。そして十年間仏教徒のダルマを説いた。次いで、シュッドーダナは十二年統治した。そしてシャーキャシンハは十二年。カリの時代の第一段階において、ヴェーダの道は破壊され、全ての人々は仏教徒となった。ヴィシュヌとともに逃げ場を捜した彼らは、迷わされた。

− 『バヴィシュヤ・プラーナ』、[12]

ウェンディ・ドニジャーによれば、様々なプラーナのうちのそれぞれ説明に見出されるブッダ・アヴァターラは、彼らを悪魔と同一視することで仏教徒を中傷するための、正統ブラフミニズムによる企ての表れかもしれない[13]。ヘルムート・フォン・グラーゼナップはこれらの発達は、ヴァイシュナヴァ派のために仏教徒に勝利し、このような重大な異端がインドにおいて存在できた事実を説明しようという、仏教を平和裏のうちに吸収するためのヒンドゥーの欲求であるとした[14]。

ひとりの「ブッダ」が帰された時間は、相互矛盾する。いくつかは彼を紀元500年あたりに押し込み、64年の生涯の中でヴェーダの宗教に従う幾人かの人々を殺害した、そしてジナという名の父を持っていたと記述している。そしてそれはこの独特な人物像がシッダールタ・ゴータマとは別人かもしれないことを暗示する[15]。

仏陀

仏陀(ぶつだ、ブッダ、梵:बुद्ध buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。



目次 [非表示]
1 「佛」の字について
2 仏陀の範囲
3 仏陀への信仰
4 十号
5 菩薩の五十二位
6 俗称・隠語としての「仏」
7 関連項目
8 脚注


「佛」の字について[編集]

「仏」(ぶつ)の字は、通常は中国、宋・元時代頃から民間で用いられた略字として知られるが、唐の時代にはすでに多く使われており、日本の空海も最澄宛の『風信帖』(国宝)の中で使用している。これを漢字作成時の地域による使用文字の違いと見る有力な説がある。

中国において buddha を「佛」という字を新たに作成して音写したのは、おそらく中国に buddha に当たる意味の語がなかったためであろう。この「佛」の語は、中央アジアの "but" もしくは "bot" に近い発音を音写したもので、元北京大学の季羨林教授によれば、この語はトカラ語からの音写であるとするが、根拠は不明である。

4世紀以後に仏典がサンスクリットで書かれて、それが漢文訳されるようになると、buddha は「佛陀」と2字で音写されるようになる。つまり、「佛陀」が省略されて「佛」表記されたのではなく、それ以前に「佛」が buddha を意味していたことに注意すべきである。[1]

「佛」の発音については、「拂」「沸」の発音が *p‘iuet であるから、初期には「佛」も同じかそれに近かったと考えられる。この字は「人」+「弗」(音符)の形声文字であり、この「弗」は、「勿」「忽」「没」「非」などと同系の言葉であって、局面的な否定を含んでおり、「……ではありながら、そうではない・背くもの」という意味を持っている。その意味で、buddha が単に音だけで「佛」という字が当てられたのではなく、「(もとは)人間ではあるが、今は非(超と捉える説もある)人的存在」となっているものを意味したとも考えられる。なお、「仏」の右の旁(つくり)は、「私」の旁である「ム」から来ていると見られている。

仏陀の範囲[編集]

基本的には仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。

しかして時代を経ると、その仏陀思想がさらに展開され大乗経典が創作されて盛り込まれた。このため一切経(すべての経典)では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事が説かれた。例を挙げると、初期経典では「根本説一切有部毘奈耶薬事」など、大乗仏典では『阿弥陀経』や『法華経』などである。

また、
多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。
悟り(光明)を得た人物を「ブッダ」と呼ぶ場合があるが、これは仏教、ことに密教に由来するもので、ヴェーダの宗教の伝統としてあるわけではないと思われる。
一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。
近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けて「ニューエイジ」と呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在を「ブッダ」と呼ぶ伝統が一部に広まった。

仏陀への信仰[編集]

釈迦は自分の教説のなかで輪廻を超越する唯一神(主催神、絶対神)の存在を認めなかった。その一方、経典のなかでは、従来は超越的な「神」(deva, 天部)としてインド民衆に崇拝されてきた存在が仏陀の教えに帰依する守護神として描かれている。その傾向は時代を経ると加速され、ヴェーダの宗教で「神」と呼ばれる多くの神々が護法善神として仏教神話の体系に組み込まれていった。また仏滅500年前後に大乗仏教が興隆すると、人々は超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった。

なお、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。そのため当初はレリーフなどでは、法輪で仏の存在を示していた。しかし、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。とはいえ、死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。

十号[編集]

詳細は「十号」を参照

仏典では仏陀をさまざまな表現で呼んでおり、これを十号という。
1.如来(にょらい、tathāgata (sanskrit)) - 多陀阿伽度と音写されている。真如より来現した人。
2.応供(おうぐ、arhat (sanskrit)) - 阿羅訶、阿羅漢と音写されている。煩悩の尽きた者。
3.明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇa-saṃpanna(sanskrit)) - 宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
4.善逝(ぜんぜい、sugata (sanskrit)) - 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。
5.世間解(せけんげ、lokavid (sanskrit)) - 世間・出世間における因果の理を解了する者。
6.無上士(むじょうし、anuttra (sanskrit)) - 悟りの最高位である仏陀の悟りを開いた事から悟りに上が無いと言う意味。
7.調御丈夫(じょうごじょうぶ、vidyācaraṇa-saṃpanna (sanskrit)) - 御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。
8.天人師(てんにんし、śāstā-devamanuṣyāṇām (sanskrit)) - 天人の師となる者。
9.仏(ぶつ、buddha (sanskrit)) - 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。
10.世尊(せそん、Bhagavat (sanskrit)) - 人天の尊敬を受ける栄光ある者。真実なる幸福者。

菩薩の五十二位[編集]

仏陀の悟りの位については、菩薩が仏となる修行過程として52の位が存在するともされている[2]ことが理解の助けとなる。
十信(下位から1段目〜10段目の悟り)
十住(下位から11段目〜20段目の悟り)
十行(下位から21段目〜30段目の悟り)
十廻向(下位から31段目〜40段目の悟り)
十地(下位から41段目〜50段目の悟り) - 41段目の初地の悟りを開いた人は、油断しても悟りの位が退転しない事から、特に「初歓喜地」と言われる。
等覚(下位から51段目の悟り) - 仏の悟りの位に等しい事から等覚と言われる
妙覚(下位から52段目の悟り) - 仏、仏陀、正覚

俗称・隠語としての「仏」[編集]

日本では、俗に死者の遺体を指して隠語で「ホトケ」という場合がある。これは一般的には、死後に成仏するという大乗仏教の考えから、ともいわれるが、それはあくまでも一部でしかなく正解とは言いがたい。たとえば浄土教では、たしかに死後に極楽へ転生すると解釈する。しかし、この娑婆世界こそが浄土であるという解釈を持つ宗派もある。

このため、死者を仏と呼ぶようになったのは、日本の中世以降、死者をまつる器として「瓫(ほとき、ほとぎ)」が用いられて、それが死者を呼ぶようになったという説もある。ただし、古来より日本では人間そのものが神であり(人神=ひとがみ)、仏教が伝来した当初は仏も神の一種と見なされたこと(蕃神=となりぐにのかみ)から推察して、人間そのものを仏と見立てて、ひいては先祖ないし死者をブッダの意味で「ほとけ」と呼んだとも考えられている。

釈迦

釈迦(釋迦、しゃか、 梵: शाक्य [zaakya](Śākya)、シャーキャ)は、仏教の開祖である。

本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)またはサンスクリット語形 ガウタマ・シッダールタ(गौतम सिद्धार्थ [Gautama Siddhārtha])、漢訳では瞿曇 悉達多(クドン・シッダッタ)と伝えられる。



目次 [非表示]
1 呼称 1.1 呼称表

2 史実 2.1 生没年

3 生涯 3.1 誕生
3.2 出家
3.3 成道
3.4 教団
3.5 伝道の範囲
3.6 入滅

4 入滅後の評価 4.1 ヒンドゥー教、イスラーム、マニ教から
4.2 マルコ・ポーロ

5 釈迦の像
6 釈迦の生涯を伝える文献
7 釈迦を題材にした作品 7.1 小説
7.2 漫画
7.3 映画
7.4 音楽

8 脚注・出典 8.1 脚注
8.2 出典

9 参考文献
10 関連文献
11 関連項目
12 外部リンク


呼称[編集]

「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに、梵: शाक्यमुनि [zaakya-muni](Śākyamuni)、シャーキャ・ムニ)の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。

称号を加え、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来ともいう。ただし、これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。僧侶などが釈迦を指す時は、略して釈尊(しゃくそん)または釈迦尊、釈迦仏、釈迦如来と呼ぶことが多い。

称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略す。

日本語では、一般にお釈迦様(おしゃかさま)と呼ばれることが多い。

仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。うち代表的な10個(どの10個かは一定しない)を総称して仏「十号」と呼ぶ。

呼称表[編集]
釈迦牟尼世尊 釈迦尊
釈尊(しゃくそん)

釈迦牟尼仏陀 釈迦牟尼仏
釈迦仏

釈迦牟尼如来 釈迦如来(しきゃじらい)

多陀阿伽度(たたあかど)
阿羅訶(応供)(あらか)
三藐三仏陀(正遍智)(さんみゃくさんぶっだ)

史実[編集]

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学仏教学の権威であった中村元はパーリ語聖典『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[1]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲しているが、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多い。よって歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。

しかし、1868年、イギリスの考古学者A・フェラーがネパール南部のバダリア(現在のルンビニー)で遺跡を発見。そこで出土した石柱には、インド古代文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれていた。この碑文の存在で、釈迦の実在が史上初めて証明され、同時にここが仏陀生誕の地であることが判明する。

生没年[編集]

まず釈迦の没年、すなわち仏滅年代の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる二系統の伝承のいずれが正確かを確認する術がない[2]。釈迦に限らず、インドの古代史の年代確定は難しい[3]。日本の宇井伯寿や中村元は漢訳仏典の資料に基づき(北伝)、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国はパーリ語聖典に基づいて(南伝)釈迦の年代を考え、欧米の学者も多くは南伝を採用するが、両者には百年以上の差がある。

なお、『大般涅槃経』等の記述から、釈迦は80歳で入滅したことになっているので、没年を設定すれば、自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、
紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝(上座部仏教)説
紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝「衆聖点記」説
紀元前466年 - 紀元前386年 : 宇井説

等があるが、他にも様々な説がある。

生涯[編集]
概略
釈迦は紀元前7世紀-紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で菩提樹の下で降魔成道を遂げ、悟りを開いたとされる。まもなく梵天の勧め(梵天勧請)に応じて初転法輪を巡らすなどして、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月[※ 1]の満月の日[※ 2]に80歳で入滅(死去)したと言われている。

誕生[編集]





十六大国時代のインド(紀元前600年)
釈迦はインド大陸の北方(現在のインド・ネパール国境付近)にあった部族・小国シャーキャの出身である。シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、現在のインド・ネパール国境のタライ(tarai)地方のティロリコート(Tilori-kot)あるいはピプラーワー(Piprahwa)付近にあった。シャーキャは専制王を持たず、サンガと呼ばれる一種の共和制をとっており、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた小国であった。釈迦の家柄はrājaラージャ(王)とよばれる名門であった。このカピラヴァストゥの城主、シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの[要出典]執政アヌシャーキャの娘[要出典]・マーヤーを母として生まれ、ガウタマ・シッダールタと名づけられた、とされている。

ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する言葉で、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味である。ガウタマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、現在のネパール、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティー(パーリ語:マハーパジャパティー)によって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、マーヤーもマハープラジャパティーもシュッドーダナの妃だった可能性がある。


伝説では「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている。釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。[要出典]

出家[編集]

当時のインドでは、ヴェーダ経典の権威を認めない六人の思想家達(「ナースティカ」、「六師外道」)、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも16の大国および多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増す最中にあった。シャーキャもコーサラに服属することになった。

釈迦出家の動機を説明する伝説として四門出遊の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老も病も死もある(老病死)と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった、という。

私生活において一子ラーフラをもうけたことで、29歳の時、12月8日夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。そして出家して6年(一説には7年[要出典])の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去ったという。

成道[編集]

そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け悟りを開く。これを「降魔成道」という。降魔成道の日については、4月8日、2月8日、2月15日など諸説ある[8]。(日本では一般に12月8日に降魔成道したとする伝承がある。[4])釈迦の降魔成道を記念して、以後仏教では、この日に「降魔成道会(じょうどうえ)」を勤修するようになった。また、ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。

 7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論、四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この5人の比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦は喜んだ。この時初めて、釈迦は如来(tathaagata、タター(ア)ガタ)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者(タターアガタ)」「真理のままに歩む者(タターガタ)」という意味である。それは、現実のありのままの姿(実相)を観じていく事を意味している。

初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(漢:応供、梵:arhant)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、ヤシャスに対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

教団[編集]

その後、ヤシャスやプルナなどを次々と教化したが、初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。当時有名だった事火外道(じかげどう)の、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、ナディー・カッサパ (nadii kassapa)、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、千人以上の構成員を持つようになり、一気に仏教は大教団化した。

ついでラージャグリハ(raajagRha、王舎城)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

王舎城に入って、ビンビサーラ王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人はシャーリプトラ(舎利弗)であり、もう一人はマウドゥガリヤーヤナ(目連、モッガラーナ)であった。この二人は後に釈迦の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈迦の弟子で、最初に教化された五比丘の一人であるアッサジ比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、シャーリプトラは叔父の摩訶・倶絺羅(まか・くちら、長爪・梵士=婆羅門とも)を教化した。この頃にマハーカーシャパ(摩訶迦葉、マハー・カッサパ)が釈迦の弟子になった。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハ(王舎城)を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

伝道の範囲[編集]

これより後、最後の一年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

入滅[編集]

釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、ヴィルーダカとなった。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトル(ajaatazatru、阿闍世王)を頼って向かったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。

ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって死んだと記録されている。釈迦はカピラヴァストゥから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(パ:paaTaligaama)に着いた。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ(paataliputra、華子城)であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。

次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

“ 比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。[5] ”

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

“ だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように[6] ”

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

“ では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[7] ”

“ 阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである[8] ”

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[9]。

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

Nirvana buddha peshawar.jpg

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マッラ (malla) 族(マッラ国)のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。[※ 3]。これを仏滅(ぶつめつ)という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

仏陀入滅の後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、
1.クシナーラーのマッラ族
2.マガダ国のアジャタシャトゥル王
3.ベーシャーリーのリッチャビ族
4.カビラヴァストフのシャーキャ族
5.アッラカッパのプリ族
6.ラーマ村のコーリャ族
7.ヴェータデーバのバラモン
8.バーヴァーのマッラ族

である[※ 4]。

入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

入滅後の評価[編集]

ヒンドゥー教、イスラーム、マニ教から[編集]

「ヒンドゥー教における釈迦」も参照

釈迦の入滅後、仏教はインドで大いに栄えたが、大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれるとともにその活力を失っていく。身分差別を否定しないヒンドゥー教は、平等無碍を説く仏教を弾圧の対象とし、貶めるために釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされた。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象になった。ただ、逆に大乗仏教の教義をヒンドゥー教が取り込んだため、ヒンドゥー教も仏教の影響を受けていた、と捉えることもできる。

さらにインドがイスラム教徒に征服されると、仏教はイスラム教からも弾圧を受け衰退の一途をたどる。イスラム征服後のインドではカーストの固定化がさらに進む。このなかでジャイナ教徒は信者をヒンドゥー社会の一つのカーストと位置づけその存続を可能にしたが、仏教はカースト制度を否定したためその社会的基盤が消滅する結果となった。元々インド仏教はその存在を僧伽に依存しており、ムスリムによって僧伽が破壊されたことによってその宗教的基盤を失い消滅した。インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。現在はインド北東部の一部で細々と僧伽が存続する。

釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は崇拝の対象である。ネパールではヒンドゥー教徒が80.6%、仏教徒が10.7%となっている(2001年国勢調査による)。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。なお、ルンビニは1997年にユネスコの世界遺産に登録された。また、ネパールでは王制時代はヒンドゥー教を国教としていたが、2008年の共和制移行後は国教自体が廃止されたため、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。

仏教は仏滅後100年、上座部と大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後西暦100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。これを枝末分裂という(ただし大衆部が大乗仏教の元となったかどうかはさだかではなく、上座部の影響も指摘されている)。そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。とくに大乗で強調される仏性の思想は、上座部仏教には無かったことが知られている。

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ[編集]

マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[10]。あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう。」[11]とし、(版や翻訳で文章に差異はあるが)極めて高く評価している。本文中では仏教という言葉は一切登場せず、仏教は他宗教と総称して偶像崇拝教として記述されるが、四門観の場面を描写するなど、釈迦に対する評価である事に間違いない。キリスト教の教義にはいささか反するという矛盾も否定は出来ないが、キリスト教徒としては最上の評価と言ってよいであろう。

釈迦の像[編集]

入滅後400年間、釈迦の像は存在しなかった。彫像のみならず絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪や菩提樹のような象徴的事物に置き換えられた。崇拝の対象は専ら仏舎利または仏塔であった。

釈迦が入滅した当時のインドでは、バラモン教を始めとする宗教はどれも祭祀を中心に据えており、像を造って祀るという偶像崇拝の概念が存在せず、釈迦自身もそのひとりであった。初期仏教もこの社会的背景の影響下にあり、またそもそも初期仏教は、偶像を作る以前に釈迦本人に信仰対象としての概念を要求しなかった。

仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。

ラホール博物館には苦行する釈迦の像が所蔵されている。

釈迦の生涯を伝える文献[編集]

注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
修行本起経 〔大正・3・461〕
瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。
仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。
普曜経
方広大荘厳経 - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。
仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴著
Lalita vistara
Mahavastu
遊行経 『長阿含経』中
仏般泥洹経 白法祖訳
Mahaparinibbanna sutta
大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
『自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典。日本語訳:[9]

釈迦を題材にした作品[編集]

小説[編集]
ヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』

漫画[編集]
手塚治虫 『ブッダ』

映画[編集]
『亜細亜の光』 (原題: "DIE LEUCHTE ASIENS" 1925年、ドイツ)
『釈迦』 (1961年、大映 釈迦役: 本郷功次郎)
『リトル・ブッダ』(1993年、アメリカ 釈迦役: キアヌ・リーブス)

音楽[編集]
田中正徳『世尊』(合唱曲)
貴志康一「交響曲『仏陀』」
伊福部昭「交響頌偈『釋迦』」(合唱を伴う管弦楽曲)
ペア・ノアゴー「歌劇『シッドハルタ(シッダルタ)』」

仏教

仏教(ぶっきょう、サンスクリット:बौद्धदर्शनम् [Buddhadarśanam]、英語:Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教の一つ(信仰のある国の数を基準にした場合[1])で、一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。



目次 [非表示]
1 教義 1.1 世界観 1.1.1 輪廻転生・六道・仏教と神

1.2 因果論 1.2.1 縁起
1.2.2 空

1.3 苦、その原因と解決法 1.3.1 四諦
1.3.2 三法印
1.3.3 中道

1.4 仏教の存在論 1.4.1 無常、苦、無我


2 実践 2.1 戒定慧(かいじょうえ)(三学)
2.2 八正道
2.3 戒律
2.4 五戒
2.5 三宝への帰依
2.6 波羅蜜
2.7 止観・瞑想

3 歴史 3.1 時代区分
3.2 原始仏教
3.3 部派仏教
3.4 大乗仏教

4 分布 4.1 言語圏

5 宗派 5.1 部派仏教
5.2 大乗仏教
5.3 密教

6 仏像
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク


教義[編集]

世界観[編集]

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるインドの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。開祖の釈迦の思想には偶像崇拝の概念は無かった。

輪廻転生・六道・仏教と神[編集]

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。

ただしこれらの内容は、民間信仰においては様子が一変していることが多く、それが仏教を分かりづらくする原因の一つとなっている。

因果論[編集]

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本的考え方にすえている。

生命の行為・行動(体、言葉、心でなす三つの行為)にはその結果である果報が生じるとする業論があり、果報の内容如何により人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧める。また個々の生に対しては業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言う。

輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。

人の世は苦しみに満ち溢れている。そして、あらゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦しみにも原因が存在する。したがって、苦しみの原因を取り除けば人は苦しみから抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論である。

また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。

輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続, citta-santana)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。

縁起[編集]

詳細は「縁起」を参照

以下因果に基づき苦のメカニズムを整理された十二支縁起を示す。
1.無明(現象が無我であることを知らない根源的無知)
2.行(潜在的形成力)
3.識(識別作用)
4.名色(心身)
5.六入(六感覚器官)
6.触(接触)
7.受(感受作用)
8.愛(渇愛)
9.取(執着)
10.有(存在)
11.生(出生)
12.老死(老いと死)

これはなぜ「生老病死」という苦のもとで生きているのかの由来を示すと同時に、「無明」という条件を破壊することにより「生老病死」がなくなるという涅槃に至る因果を示している。

空[編集]

詳細は「空 (仏教)」を参照

あらゆるものは、それ自体として実体を持っているわけではないという考え。

苦、その原因と解決法[編集]

仏教では生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とする。そしてそれを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行の実践を奨励する(八正道)。

このように仏教では、救いは超越的存在(例えば神)の力によるものではなく、個々人の実践によるものと説く。すなわち、釈迦の実体験を最大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それを実践することを勧める。

なお、釈迦は現代の宗教が説くような「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切しておらず、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決を重視していた。即ち、苦悩は執着によって起きるということを解明し、それらは八正道を実践することによって解決に至るという極めて実践的な教えを提示することだった

四諦[編集]

詳細は「四諦」を参照

釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つ。
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)

三法印[編集]

詳細は「三法印」を参照

仏教における3つの根本思想。三法印の思想は古層仏典の法句経ですでに現れ、「諸行無常・諸法無我・一切行苦」が原型と考えられる。 大乗では「一切行苦」の代わりに涅槃寂静をこれに数えることが一般的である。これに再度「一切行苦」を加えることによって四法印とする場合もある。
1.諸行無常 - 一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある
2.諸法無我 - 一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない
3.涅槃寂静 - 苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である
4.一切行苦 - 一切の形成されたものは、苦しみである

中道[編集]

「中道」を参照

仏教の存在論[編集]

詳細は「無常」、「無我」、「五蘊」、「名色」、「業」、および「縁起」を参照

仏教そのものが存在を説明するものとなっている。変化しない実体を一切認めない、とされる。また、仏教は無我論および無常論である[2]とする人もおり、そういう人は、仏教はすべての生命について魂や神といった本体を認めないとする。そうではなくて釈迦が説いたのは「無我」ではなくて「非我」である(真実の我ではない、と説いたのだ)とする人もいる。衆生(生命・生きとし生けるもの)と生命でない物質との境は、ある存在が識(認識する働き)を持つか否かで区別される。また物質にも不変の実体を認めず、物理現象も無常、すなわち変化の連続であるとの認識に立つ。物質にも精神にも普遍の実体および本体がないことについて、「行為はあるが行為者はいない」などと説明されている。

人間存在の構成要素を五蘊(色・受・想・行・識)に分ける。これは身体と4種類の心理機能のことで、精神と物質の二つで名色とも言う。

猶、日本の仏教各宗派には魂の存在を肯定する宗派もあれば、肯定も否定もしない宗派もあれば、否定的な宗派もあるが[3]、本来、釈迦は霊魂 (aatman) を説くことはせず、逆に、諸法無我(すべてのものごとは我ならざるもの (anaatman) である)として、いかなる場合にも「我」すなわち「霊魂」を認めることはなかった[4]。

仏教では、根本教義において一切魂について説かず、「霊魂が存在するか?」という質問については一切答えず、直接的に「霊魂は存在しない」とのべず、「無我(我ならざるもの)」について説くことによって間接的に我の不在を説くだけだった。やがて後代になるといつのまにか「我ならざるもの」でもなく、「霊魂は存在しない」と積極的に主張する学派も出てきた。

無常、苦、無我[編集]

「無常」、「苦 (仏教)」、および「無我」を参照

実践[編集]

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戒定慧かいじょうえ(三学)[編集]

詳細は「三学」を参照

戒律によって心を惑わす悪行為から離れ、禅定により心をコントロールし鎮め、智慧を定めることこの世の真理を見極めることで、心に平穏をもたらすこと(涅槃)を目指す。

八正道[編集]

詳細は「八正道」を参照

釈迦の説いた悟りに至るために実践手段。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定からなる。

戒律[編集]

「戒律」を参照

五戒[編集]

「五戒」を参照

三宝への帰依[編集]

「三宝」および「帰依」を参照

波羅蜜[編集]

「波羅蜜」を参照

止観・瞑想[編集]

詳細は「止観」を参照

釈迦(ゴータマシッダールダ)は瞑想によって悟りを開いたと言われている。

歴史[編集]

時代区分[編集]

近年は異論もあるが、仏教の歴史の時代区分は、原始仏教、部派仏教、大乗仏教に三区分するのがおおかたの意見である[5]。

原始仏教[編集]

仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦が提唱し、発生した(初期仏教)。他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない。当時のインドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、とくに初期経典からそのような方向性を読み取れる。当時の世界的な時代背景は、都市国家がある程度の成熟をみて社会不安が増大し、従来のアニミズム的、または民族的な伝統宗教では解決できない問題が多くなった時期であろうと考えられており、医学、農業、経済などが急速に合理的な方向へと発達し始めた時期とも一致している。

釈迦が死亡(仏滅)して後、直ぐに出家者集団(僧伽、サンガ)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。これは「三蔵の結集(さんぞうのけちじゅう)」と呼ばれ、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。仏典はこの時には口誦によって伝承され、後に文字化される。釈迦の説いた法話を経・律・論と三つに大きく分類し、それぞれ心に印しているものを持ち寄り、仏教聖典の編纂会議を行った。これが第一回の三蔵結集である。

部派仏教[編集]

仏滅後100年頃、段々と釈迦の説いた教えの解釈に、色々の異見が生じて岐れるようになってきた。その為に釈迦の説法の地であるヴァイシャリーで、第二回の三蔵の結集を行い、釈迦の教えを再検討する作業に入った。この時、僧伽は教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂する(根本分裂)。時代とともに、この二派はさらに多くの部派に分裂する(枝末分裂しまつぶんれつ)。この時代の仏教を部派仏教と呼ぶ。

大乗仏教[編集]

「仏教のシルクロード伝播」も参照





南アジア、西アジア方面への仏教伝播。アショーカ王はヘレニズム諸国や東南アジア、中央アジアに伝道師を派遣した




東南アジア、東アジア方面への仏教伝播
部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)。

それから又しばらくして、紀元前約3世紀の半ば頃に、仏教史上名高いアショーカ王が第三回の結集をパータリプトラ城(華氏城)で行った。アショーカ王は西方のヘレニズム諸国や東方の東南アジア諸国、北方の中央アジア諸国に伝道師を派遣している。この頃に文字が使われ出し、今までの口伝を基に出来たのが文字で書かれた経典・典籍である。その文字は北インドに広まったのがサンスクリット文字、南の方に発達したのがパーリ語である。パーリ語はセイロンを中心としている。そこで仏典がサンスクリットで書かれたものとパーリ語で書かれたものと二種類出てきた。因みに近来、このサンスクリットの頃の仏典を日本語訳する作業を行った人物に、中村元がいる。

紀元前後、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)。

7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。

8世紀よりチベットは僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入した(チベット仏教)。その後チベット人僧侶の布教によって、チベット仏教はモンゴルや南シベリアにまで拡大していった。

仏教の教えは、インドにおいては上記のごとく段階を踏んで発展したが、近隣諸国においては、それらの全体をまとめて仏説として受け取ることとなった。中国および中国経由で仏教を導入した諸国においては、教相判釈により仏の極意の所在を特定の教典に求めて所依としたり、特定の行(禅、密教など)のみを実践するという方向が指向されたのに対し、チベット仏教では初期仏教から密教にいたる様々な教えを一つの体系のもとに統合するという方向が指向された。

現在の仏教は、かつて多くの仏教国が栄えたシルクロードが単なる遺跡を残すのみとなったことに象徴されるように、大部分の仏教国は滅亡し、世界三大宗教の一つでありながら仏教を主要な宗教にしている国は少ない。7世紀に唐の義浄が訪れた時点ですでに発祥国のインドでは仏教が廃れており、東南アジアの大部分はヒンドゥー教、次いでイスラム教へと移行し、東アジアでは、中国・北朝鮮・モンゴル国では共産化によって宗教が弾圧されて衰退している。ただしモンゴルでは民主化によりチベット仏教が復権しているほか、中国では沿海部を中心に復興の動きもみられる。韓国は儒教を尊重した李氏朝鮮による激しい弾圧により、寺院は山間部に残るのみとなった。大韓民国成立後はキリスト教の勢力拡大が著しく、キリスト教徒による排仏運動が社会問題になっている。ベトナムでは共産党政権により宗教の冷遇はされたものの、仏教がベトナム戦争勝利に大きな役割を果たしたこともあって組織的な弾圧を受けることなく、一定の地位を保っている。仏教が社会において主要な位置を保っているのは、仏教を国教または国教に準じた地位としているタイ・スリランカ・カンボジア・ラオス・ブータン、土着の信仰との混在・習合が顕著である日本・台湾・ベトナムなどである。しかし他の国では、近年でもアフガニスタンでタリバーンによる石窟爆破などがあり、中国(特にチベット自治区)・ミャンマー・北朝鮮では政権によって、韓国ではキリスト教徒によって、仏教に対する圧迫が続いている。

しかし発祥国のインドにおいては、アンベードガルにより、1927年から1934年にかけて仏教復興及び反カースト制度運動が起こり、20万あるいは50万人の民衆が仏教徒へと改宗した。また近年においてもアンベードカルの遺志を継ぐ日本人僧・佐々井秀嶺により運動が続けられており、毎年10月には大改宗式を行っているほか、ブッダガヤの大菩提寺の奪還運動や世界遺産への登録、仏教遺跡の発掘なども行われるなど、本格的な仏教復興の機運を見せている。

各地域の仏教については以下を参照。
紀元前5世紀頃 - インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
紀元前3世紀 - セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
紀元後1世紀 - 中国に伝わる(中国の仏教)
4世紀 - 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
538年(552年) - 日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半 - チベットに伝わる(チベット仏教)
11世紀 - ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
13世紀 - タイに伝わる(東南アジアの仏教)
13〜16世紀 - モンゴルに伝わる(チベット仏教)
17世紀 - カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
18世紀 - 南シベリアに伝わる(チベット仏教)

分布[編集]





中国、重慶市の大足石刻の華厳三聖像




インドネシアのボロブドゥール寺院遺跡群に残る仏像




日本の法隆寺。7世紀の北東アジアの仏教寺院の代表的なものである
言語圏[編集]

伝統的に仏教を信仰してきた諸国、諸民族は、経典の使用言語によって、サンスクリット語圏、パーリ語圏、漢訳圏、チベット語圏の4つに大別される。パーリ語圏のみが上座部仏教で、残る各地域は大乗仏教である。
サンスクリット語圏ネパール、インド(ベンガル仏教、新仏教等)パーリ語圏タイ、ビルマ、スリランカ、カンボジア、ラオス等。漢訳圏中国、台湾、韓国、日本、ベトナム等。チベット語圏チベット民族(チベット、ブータン、ネパール、インド等の諸国の沿ヒマラヤ地方に分布)、モンゴル民族(モンゴル国、中国内蒙古ほか、ロシア連邦のブリヤート共和国)、満州民族、テュルク系のトゥヴァ人やカルムイク人(ロシア連邦加盟国)等。
宗派[編集]

釈迦以後、インド本国では大別して「部派仏教」「大乗仏教」「密教」が時代の変遷と共に起こった。

部派仏教[編集]

詳細は「部派仏教」を参照

アビダルマ仏教とも呼ばれる。釈迦や直弟子の伝統的な教義を守る保守派仏教。仏滅後100年頃に戒律の解釈などから上座部と大衆部に分裂(根本分裂)、さらにインド各地域に分散していた出家修行者の集団らは、それぞれに釈迦の教えの内容を整理・解析するようになる。そこでまとめられたものを論蔵(アビダルマ)といい、それぞれの論蔵を持つ学派が最終的におおよそ20になったとされ、これらを総称して部派仏教という。このうち現在まで存続するのは上座部(分別説部、保守派、長老派)のみである。古くはヒンドゥー教や大乗仏教を信奉してきた東南アジアの王朝では、しだいにスリランカを起点とした上座部仏教がその地位に取って代わるようになり、現在まで広く根付いている(南伝仏教)。部派仏教は、かつて新興勢力であった大乗仏教からは自分だけの救いを求めていると見なされ小乗仏教(小さい乗り物の仏教)と蔑称されていた[6]。

上座部仏教の目的は、個人が自ら真理(法)に目覚めて「悟り」を得ることである。最終的には「あらゆるものごとは、我(アートマン)ではない(無我)」「我(アートマン)を見つけ出すことはできない」と覚り、すべての欲や執着をすてることによって、苦の束縛から解放されること(=解脱)を求めることである。一般にこの境地を涅槃と呼ぶ。上座部仏教では、釈迦を仏陀と尊崇し、その教え(法)を理解し、自分自身が四念住、止観などの実践修行によってさとりを得、煩悩をのぞき、輪廻の苦から解脱して涅槃の境地に入ることを目標とする。

大乗仏教[編集]

詳細は「大乗仏教」を参照

大乗仏教とは、他者を救済せずに自分だけで彼岸(悟りの世界)へは渡るまいとする菩薩行を中心に据えた仏教である。出家者中心のものであった部派仏教から、一般民衆の救済を求めてインド北部において発生したと考えられている。ヒマラヤを越えて中央アジア、中国へ伝わったことから北伝仏教ともいう。おおよそ初期・中期・後期に大別され[7]、中観派、唯識派、浄土教、禅宗、天台宗などとそれぞれに派生して教えを変遷させていった。

大乗仏教では、一般に数々の輪廻の中で、徳(波羅蜜)を積み、阿羅漢ではなく、仏陀となることが究極的な目標とされるが、 自身の涅槃を追求するにとどまらず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への救済に対する誓いを立てること(=誓願)を目的とする立場もあり、その目的は、ある特定のものにまとめることはできない。さらに、道元のいう「自未得度じみとくど先度佗せんどた」(『正法眼蔵』)など、自身はすでに涅槃の境地へ入る段階に達していながら仏にならず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への慈悲から輪廻の中に留まり、衆生への救済に取り組む面も強調・奨励される。

密教[編集]

詳細は「密教」を参照

後期大乗仏教とも。インド本国では4世紀より国教として定められたヒンドゥー教が徐々に勢力を拡張していく。その中で部派仏教は6世紀頃にインドからは消滅し、7世紀に入って大乗仏教も徐々にヒンドゥー教に吸収されてゆき、ヒンドゥー教の一派であるタントラ教の教義を取り入れて密教となった。すなわち密教とは仏教のヒンドゥー化である。

中期密教期に至り、密教の修行は、口に呪文(真言、マントラ)を唱え、手に印契いんげいを結び、心に大日如来を思う三密という独特のスタイルをとった。曼荼羅はその世界観を表したものである。教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えない特徴を持つ。秘密の教えであるので、密教と呼ばれた。

「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされ、また、言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだとも言う[8]。

仏像[編集]





ガンダーラ仏像
詳細は「仏像」を参照

初期仏教では、具体的に礼拝する対象はシンボル(菩提樹や仏足石、金剛座)で間接的に表現していたが、ギリシャ・ローマの彫刻の文明の影響もあり、紀元1世紀頃にガンダーラ(現在のパキスタン北部)で直接的に人間の形の仏像が製作されるようになり、前後してマトゥラー(インド)でも仏像造立が開始された。仏像造立開始の契機については諸説あるが、一般的には釈迦亡き後の追慕の念から信仰の拠りどころとして発達したと考えられている。仏像の本義は仏陀、すなわち釈迦の像であるが、現在は如来・菩薩・明王・天部など、さまざまな礼拝対象がある。
如来 - 「目覚めた者」「真理に到達した者」の意。悟りを開いた存在。釈迦如来のほか、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来など。
菩薩 - 仏果を得るため修行中の存在。すでに悟りを開いているが、衆生済度のため現世に留まる者ともいわれる。如来の脇侍として、または単独で礼拝対象となる。観音菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩など。
明王 - 密教特有の尊格。密教の主尊たる大日如来が、難化の衆生を力をもって教化するために忿怒の相をもって化身したものと説かれる。不動明王、愛染明王など。
天部 - 護法善神。その由来はさまざまだが、インドの在来の神々が仏教に取り入れられ、仏を守護する役目をもたされたものである。四天王、毘沙門天(四天王の一である多聞天に同じ)、吉祥天、大黒天、弁才天、梵天、帝釈天など。

神の一覧

神の一覧(かみのいちらん)では、各神話の神を列記する。
凡例:日本語名(英語名)一覧は日本語記事があるもの(五十音順)、英語記事しかないもの(アルファベット順)の順になっている。各単語の定義も参照すること : 神、女神、仏、神話、宗教、聖典、世界の宗教。


目次 [非表示]
1 アステカ神話の神々
2 アブラハムの宗教 2.1 ユダヤ教
2.2 キリスト教
2.3 イスラム教
2.4 その他

3 ウガリット神話の神々
4 エジプト神話の神々
5 ギリシア神話の神々
6 日本の神々
7 ゾロアスター教の神々
8 中国の神々
9 道教の神々
10 北欧神話の神々
11 ヒンドゥー教の神々
12 仏教
13 ローマ神話の神々
14 スラヴ神話の神々
15 シュメール神話の神々
16 メソポタミア神話の神々
17 ポリネシアの神話
18 マヤ神話の神々
19 インカ神話の神々
20 ケルト神話の神々
21 アジア 21.1 エヴェンキ族の神話

22 ヨーロッパ 22.1 ダキア人の神々
22.2 エトルリア人の神々
22.3 フィンランド神話の神々(キリスト教以前)
22.4 ラトビア人の神々
22.5 リトアニアの神々
22.6 サルデーニャ島の神々
22.7 古代プロイセン、バルト海地方の神々
22.8 現代の欧米の神々(台所の神々)

23 アフリカ 23.1 アカンバ族の神話
23.2 アカン族の神話
23.3 アシャンティの神話
23.4 ブションゴ族の神話
23.5 ダホメ神話
23.6 ディンカ族の神話
23.7 エフィク族の神話
23.8 イボ神話
23.9 Isoko mythology
23.10 コイコイ人の神話
23.11 ロトゥコ族の神話
23.12 ルグバラ族の神話
23.13 ピグミー族の神々
23.14 トゥンブカ族の神話
23.15 ヨルバ族の神話
23.16 ズールー族の神々
23.17 ドゴン族の神話

24 アメリカ 24.1 アベナキ族の神話
24.2 チペワ族の神話
24.3 クリーク族の神話
24.4 グアラニー族の神話
24.5 ハイダ族の神話
24.6 ホピ族の神話
24.7 ヒューロン族の神話
24.8 エスキモー・イヌイットの神話
24.9 イロコイ族の神話
24.10 クワキウトル族の神話
24.11 スー族の神話
24.12 ナバホ族の神話
24.13 ポーニー族の神々
24.14 ズニ族の神々
24.15 サリシ族の神々
24.16 セネカ族の神々

25 オセアニア 25.1 アボリジニーの神話

26 関連項目


アステカ神話の神々[編集]
イツラコリウキ - 霜の神
ウィツィロポチトリ - 太陽神・軍神・狩猟神
ウェウェコヨトル - 音楽・ダンスの神
オメテオトル(オメテクトリ、オメシワトル) - 創造神。
カンヘル-守護天使(龍人)
ケツァルコアトル - 文化神・農耕神
コアトリクエ - 地母神
シペ・トテック - 穀物神
ショロトル - 金星の神
シワコアトル - 地母神
センテオトル(シンテオトル) - トウモロコシの神
チャルチウィトリクエ - 水の神
テスカトリポカ - 創造神・悪魔
テペヨロトル - 地震・山彦・ジャガーの神
トナティウ - 太陽神
トラウィスカルパンテクートリ - 破壊神
トラソルテオトル - 大地・愛欲の女神
トラロック - 雨・稲妻の神
ミクトランシワトル - 死神
ミクトランテクートリ - 死神
チャンティコ - かまどと火山の火の女神
チコメコアトル - トウモロコシと豊穣の女神
コヨルシャウキ(Coyolxauhqui) - 星の神
エエカトル(Ehecatl) - 風の神
ウェウェテオトル(Huehueteotl) - 古き神
ウィシュトシワトル(Huixtocihuatl) - 塩の女神
イラマテクウトリ(Ilamatecuhtli) - 大地と死と銀河の女神
イツパパロトル(Itzpapalotl) - 農耕の女神、 ツイツイミトル(Tzitzimitl)の女王
イシュトリルトン(Ixtlilton) - 癒しと祝祭とゲームの神
マクイルショチトル(Macuilxochitl) - 音楽と踊りの神
マヤウェル(Mayahuel) - リュウゼツランの女神、パテカトルの妻
メツトリ(Metztli) - 月の神
ナナウトツィン(Nanauatzin) - 卑しき神
パテカトル(Patecatl) - 酒の神、薬の神
パイナル(Paynal) - ウィツィロポチトリの伝令
テクシステカトル(Tecciztecatl) - 古き月の神
テオヤオムクイ(Teoyaomqui) - 死したる戦士の神
トシ(Toci) - 大地の女神
トナカテクトリ(Tonacatecuhtli) - 食物の創造者にして分配者
シロネン(Xilonen) - 若いトウモロコシの実の女神
シウテクトリ(Xiuhtecuhtli) - 死の中の生命を司る神
ショチケツアル(Xochiquetzal) - 花、肥沃、ゲーム、ダンス、農業、職人、売春婦、および妊婦の女神
ショチピルリ(Xochipilli) - 花の神、狩猟の神、祝祭と若いトウモロコシの神
ヤカテクトリ(Yacatecuhtli) - 商人の神、旅人の守護神

アブラハムの宗教[編集]

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信じている。しかし、ユダヤ教徒とイスラム教徒は神を、厳格な唯一神教的な語として思い浮かべるのに対して、ほとんどのキリスト教徒は神は三位一体として存在すると信じている。

日本語版注:これらの宗教に現われる天使達は、他の宗教における神々に近い働きをしている。天使は神ではないが、人間ではなく、人間以上の能力を持つ神の使いである。聖人もまた特定の土地や職業を守護したり、特定の病気を治したりするとされ、他の宗教における神々に近い働きをしている。

詳細は「天使の一覧」および「聖者の一覧」を参照

ユダヤ教[編集]

モーセの十戒の1つ、出エジプト記 20章7節の命令を根拠として、ユダヤ教においては古代から神の名を発音することを避けてきた。このため、現在では正確な呼称を知っている者は少なく、祭司家系の者たちの間で口伝されるのみであると伝えられる。

詳細は「ヤハウェ」を参照

キリスト教[編集]

歴史的には、キリスト教はひとりの神を信じ、「神」として知られ、ひとりの神また神格を成す神聖な三者(三位一体)を信じると公言した。(参照 : アタナシウス信経)。

そのため、三位一体論的一神論者であるキリスト教徒がほとんどであるが、中にはそれに異議を唱える者もいる。以下の記事を参照。

アリウス派、ユニテリアン主義、例えば末日聖徒イエス・キリスト教会、エホバの証人 。これら反三位一体論のグループは、ただひとりの父なる神が神であると信じている。末日聖徒は父と子イエス・キリストと聖霊とが三つの別個の神々を成すと信じている。エホバの証人はエホバ(ヤハウェ)はイエス・キリストより上位であり、聖霊は神の活動する力であると信じている。

イスラム教[編集]

アッラーフはイスラム教のもっとも伝統的な神の名前である。イスラム教の伝統はまた99の神名(99 Names of God)も語る。ユダヤ教やキリスト教よりもある意味では詳細に神の存在の状態を定義しており、キリスト教で伝える三位一体は明確に否定し、その実態については「目なくして見、耳なくして聞き、口なくして語る」物理的な要素はない精神と力のみの存在としている。

その他[編集]

二つの小宗教はアブラハム宗教のどの区分にもまったく該当しない。ラスタファリ運動はジャーを崇拝し、バハーイー教もユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じ神を崇拝する。

ウガリット神話の神々[編集]

アブラハムの宗教と民族的にも近縁の神話体系。
アーシラト - 神々の女王
アシュタロテ - 豊穣多産の女神
アナト - 愛と戦いの女神
エール - 神を指す言葉
バアル - 嵐と慈雨の神
モト - 炎と死と乾季の神
ヤム・ナハル(en)

エジプト神話の神々[編集]

エジプト神話の神々は実在の動物と関連する姿をとることが多い。例えば、アヌビスは人の体を持つが、頭はイヌである。
アトゥム - 創造神の一柱。
アテン - 太陽の光の化身。
アヌビス - 死体を腐らせない神。死の友。
アメン - 雄羊の神。
イシス - 魔法の女神。ネフテュスの姉妹。
イムホテプ - 知恵、医術と魔法の神。
ウアジェト - コブラの女神。
オシリス - 冥府の神。
クヌム - 創造神の一柱。
ゲブ - 大地の神。
ケプリ - スカラベ、日の出の化身。
コンス - 月の神。
シュー - 大気の神。
セクメト - 戦闘の女神。ライオンの頭を持つ。
セト - 嵐の神。アヌビスの父ともいわれる。
セベク - ワニの神。
セルケト - サソリの女神。イシスの従者。
ソプデト - シリウス星の女神。
タウエレト - カバの女神。
テフヌト - 天候の女神。秩序、公正、時、天国と地獄の守護神。
トート - 月、製造、著述、幾何学、知恵、医術、音楽、天文学、魔術の神。
ネイト - 偉大なる母なる女神。
ネクベト - ハゲタカの女神。
ヌト - 天国と空の女神。
ヌン - 原始の海。
ネフテュス - アヌビスの母。
バステト - ネコの女神。
ハトホル - 愛の女神、音楽の女神、ホルスの妻。
ハピ - ナイル川の神、豊穣の神。
プタハ - 創造神の一柱。
ヘケト - 蛙の女神。
ベス - 出産や娯楽、保護の神-魔神(?)
ホルス - 隼の頭を持つ神。
ホルスの4人の息子 - イムセティ(en)、ハピ(en)、ドゥアムトエフ(en)、ケベフセヌエフ(en)。4個のカノプス壷を人格化した神。
マアト - 真理、調和、秩序の女神。
マヘス(maahes) - ライオンの頭をもつ戦闘の神。
メンヒト(Menhit) - 雌獅子の神。
モンチュ - 戦争の神。
ムト - アメンの妻。ムートとも。
ラー - 太陽神。アヌビスの父ともいわれる。

参照:エジプト観光省のエジプトの神々膨大な資料

ギリシア神話の神々[編集]
アイテール - 原初神、天空神
アスクレーピオス - 医神
アテーナー - 知恵、芸術、工芸、戦略の神
アフロディーテー (アフロディテとも言われる)- 愛と美と性を司る神、戦女神
アポローン(アポロンとも言われる) - 太陽神
アルテミス - 狩猟、純潔
アレース - 戦さを司る神
イーアペトス - ティーターン族
ウーラノス - 天空神
エーオース - 暁の神
エレボス - 暗黒の神
エロース - 恋心と性愛の神
オーケアノス - 海の神
オネイロス - 夢の神
オルペウス(オルフェウス)- 吟遊詩人
ガイア - 大地の女神 
カオス - 混沌の神
キュクロープス(サイクロプス)-単眼の巨人
クレイオス - ティーターン族
クロノス - 農耕の神
コイオス - ティーターン族 
ゼウス - 天空神
セレネー - 月の女神
タナトス - 死の神
タルタロイ(タルタロス)- 地獄・奈落の神
テーテュース - 地下水の女神の母
ディオニューソス - 豊穣とブドウ酒と酩酊の神
ディオーネー - 天空の女神
テミス - 法・掟の女神
デーメーテール - 穀物の栽培を人間に教えた神
ニュクス - 夜の女神
ハーデース - 地下・豊穣の神
パーン - 牧羊神
ヒュプノス - 眠りの神
ヒュペリーオーン - 太陽神・光明神
プロメーテウス - 人に火を与えた神
ヘカテー - 地母神
ヘカトンケイル(ヘカトンケイレス) - 三人の巨人
ヘスティアー - 炉の女神
ヘーパイストス - 炎・鍛冶の神
ヘーベー - 青春の女神
ヘーメラー - 昼の女神
ヘーラー - 結婚・母性・貞節の女神
ヘーリオス - 太陽神
ペルセポネー - 冥界の女王
ヘルメース - 青年神
ポセイドーン - 海洋の神
モイラ(クロートー、ラケシス、アトロポス) - 運命の三女神
モロス - 定業の神
レアー - 大地の女神

以下も参照。

半神、ドリュアース、エリーニュース 、カリス、ホーライ、ムーサ(ミューズ)、ニュンペー、プレイアデス、ティーターン

日本の神々[編集]

日本の先住民の語であるアイヌ語の神名に、アペフチカムイがあり、火の老婆の神とされる。

神道、民間信仰で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。

民間信仰では、九十九神(付喪神)と呼ばれ、織り目が九十九に見える葛籠織と縄の発明者葛天氏を始めとする人文の祖、すなわち生活道具を発明したご先祖様を崇拝する信仰が江戸時代まであった。

日本神話において天津神・国津神の神々のなかでもとくに三柱の御子が尊いとされ、その天照大神は主神となっている。

縄の発明者である葛天氏の氏族であり、道の祖とされる伏羲と女媧を祭った道祖神。

詳細は「日本の神の一覧」を参照

「神 (神道)」および「日本神話」も参照

ゾロアスター教の神々[編集]
アフラ・マズダー - ゾロアスター教の最高神。
アムシャ・スプンタ - アフラ・マズダーに従う7柱の善神。 スプンタ・マンユ
アシャ・ワヒシュタ
ウォフ・マナフ
フシャスラ・ワルヤ
スプンタ・アールマティ
アムルタート
ハルワタート

ヤザタ - アムシャ・スプンタに次ぐ地位の善神。 アータル
アナーヒター
ティシュトリヤ
ミスラ

フラワシ - 万物に宿るとされる精霊。
アンラ・マンユ - ゾロアスター教の最大の悪神
ズルワーン

中国の神々[編集]

四神
四凶
盤古
三皇五帝の三皇 伏羲
女媧
神農氏 

蒼頡
三清  
玉皇大帝
西王母
東王父
八仙
関帝
哪吒
媽祖
碧霞元君(天仙娘娘)
北斗星君
南斗星君

道教の神々[編集]
元始天王(盤古) - 天地創造の神
天地人三才 天皇 - 元始天王から生まれた神
地皇 - 天皇から生まれた神
人皇 - 地皇から生まれた神

伏羲
女媧
神農
黄帝 - 神農の後裔
顓頊
帝嚳
三清 元始天尊(玉清) - 道士でないと近づき難い最も神格の高い最高神
道徳天尊(太清・太上老君・老子)
霊宝天尊(上清・太上道君)

九天応元雷声普化天尊(雷帝) - 雷神の最高神
五老 西王母(九霊太妙亀山金母)
水精
黄老
赤精
東王公(東王父)

九天玄女
玉皇上帝(昊天上帝・天公) - 道教信仰者にとって事実上の最高神
斗母元君
五斗星君 北斗星君 - 北斗七星の神格化
西斗星君
中斗星君
南斗星君 - 南斗六星の神格化
東斗星君

南極老人(寿星) - 南極老人星の神格化で七福神の寿老人・福禄寿と同一神とされることもある。
四霊星君(四神) 青龍星君
朱雀星君
白虎星君
玄武星君(玄天上帝) - 太極の分身とされる

雷公(五雷元帥) - 雷帝の部下
雷母
三官大帝(三界公)  下元水官大帝 - 水界の神
中元地官大帝 - 地界の神
上元天官大帝 - 天界の神

北辰五至尊 天皇大帝(天帝) - 北極星の神格化
紫微大帝
天一大帝
北辰大帝
北斗大帝

九宮貴神 招揺
軒轅
太陰
天一
天符
太一
摂提
咸池
青龍

五岳神 東岳大帝(泰山府君) - 泰山(山東省)の神
南岳大帝 - 衡山(湖南省)の神
中岳大帝 - 嵩山(河南省)の神
西岳大帝 - 華山(陝西省)の神
北岳大帝 - 恒山(山西省)の神

救済の神 太乙救苦天尊 - 免罪の神
清水祖師 - 国難打破の神

媽祖(天上聖母) - 航海の守護神
衣食神 竈神 - かまどの神
火神

財神 関聖帝君(関帝) - 関羽を神格化した武神・財神
五路財神 趙玄壇 - 趙公明の神格化
招財
利市
招宝
納珍


冥界の神 鄷都大帝 - 地獄の最高神
十殿閻君

斗母元君 - 仏教の摩利支天を取り込んだ神
学問の神 文昌帝君 - 学問の神
蒼頡(制字先師) - 漢字を作ったとされる神

生育の神 碧霞元君
臨水夫人 - 安産の神

斉天大聖 - 孫悟空の神格化
芸能神 伶倫 - 黄帝の臣で音楽の神
田都元帥
西秦王爺 - 唐の皇帝玄宗を神格化した芸能・芸術の神

医神 保生大帝 - 病気治癒の医神
華陀 - 医師の守護神

辟邪神 石敢當
方相氏
鍾馗
門神 - 悪霊の侵入を防ぐ神
中壇元帥(哪吒)

鬼谷仙師
四海龍王
天仙娘々
張天師(張道陵)
劉猛将軍
東華帝君
至聖先師(孔子)
紫姑神 - トイレで殺害された女性の厠神
城隍神(城隍爺) - 城壁都市の支配神
土地公 - 村落・郊外の守護神
后土神 - 墓の守護神
八仙 李鉄拐
漢鍾離
呂洞賓
藍采和
韓湘子
何仙姑
張果老
曹国舅

太歳星君
河伯 - 黄河の神
顕聖二郎真君 - 治水の神
広成子
青面金剛
蒼天
歳徳神

北欧神話の神々[編集]
イズン
ヴァーリ - オーディンの息子
ヴィーザル
ウル
エーギル
エイル
オーズ
オーディン - 神々の王。
クヴァシル
シヴ
テュール
トール
ニョルズ
ノルニル ヴェルダンディ
ウルド
スクルド

ノルン
バルドル
フォルセティ
ブラギ
フリッグ
フレイ
フレイヤ
ヘイムダル
ヘーニル
ヘズ
ミーミル
ユミル
ヨルズ
ロキ フェンリル
ヘル
ヨルムンガンド

ワルキューレ

ヒンドゥー教の神々[編集]
アーディティヤ神群
アグニ
アシュヴィン双神
アルダーナリシュヴァラ
インドラ
ウシャス
ヴァーユ
ヴァイローチャナ
ヴァス神群
ヴァルナ
ヴィシュヌ - 維持の神
カーラネミ
カーリー
ガネーシャ
カーマ
ガンガー
クベーラ
サヴィトリ
サティー 
サラスヴァティー
シヴァ - 破壊の神
スカンダ
スーリヤ
ソーマ
ダーキニー(荼枳尼天)
ディヤウス
ヴィシュヴェーデーヴァ神群(The Visvedevas)
ドゥルガー
ナンディン
ハヌマーン
パールヴァティー
ハリハラ 
パルジャニヤ
プーシャン
ブラフマー(梵天) - 創造の神
プリティヴィー
ラクシュミ
ラートリー
ローカパーラ
ルドラ神群
ヤマ(閻魔)

仏教[編集]

仏教では神は扱われないが、数多くの仏(ほとけ)があり、神のように扱われる場合もある。

詳細は「仏の一覧」を参照

ローマ神話の神々[編集]
アポロ ⇒ アポロン(「ギリシア神話の神々」)参照
バックス
ケレース
キューピット ⇒ クピド
ディアーナ
フォルトゥーナ
ヤヌス
ユースティティア
ユーノー
ユーピテル
ラウェルナ
マイア
マールス
メルクリウス
ミネルウァ
ネプトゥーヌス
プルートー
プルートゥス ⇒ プルートス(「ギリシア神話の神々」)参照
プロセルピナ
サートゥルヌス
ウーラヌス(カイルス) ⇒ ウーラノス(「ギリシア神話の神々」)参照
ウェヌス
ウェスタ
ウゥルカーヌス

スラヴ神話の神々[編集]
セマルグル
スヴァローグ
スヴェントヴィト
ストリボーグ
ダジボーグ
チェルノボグ
トリグラフ
パトリムパス
ペルーン
ベロボーグ
ホルス
モコシ
ヤリーロ
ドレカヴァク(Drekavac)
ヴォロス(Veles)

シュメール神話の神々[編集]

(Sumerian Deities)
アン
エンキ
エンリル
イナンナ
ナンム(Nammu)
ナンナ(Nanna)
ニンフルサグ
ニンリル(Ninlil)
シン
ウトゥ(英語版)(Utu)

「w:Annuna」も参照

メソポタミア神話の神々[編集]
アンシャル - 天の父。
アヌ - 最高の天の神
アプスー - 神々と地下世界の海の支配者
アッシュール - アッシリアの国家神。
ダムキナ - 地球の母なる女神
エア - 知恵の神。
エンリル - 天候と嵐の神。
エヌルタ(Enurta) - 戦争の神。
ハダド(Hadad) - 天候の神。
イシュタル - 愛の女神。
キングー - ティアマトの夫。
キシャル - 地を司る女神(アンシャルの妻にして妹)
マルドゥク - バビロニアの国家神。
ムンム - 霧の神。
ナブー - god of the scribal arts
ニントゥ(Nintu) - 全ての神々の母
シャマシュ - 太陽と正義の神。
シン - 月の神。
ティアマト - 原初の女神。
ラフム - アプスーとティアマトの子。ラハムの夫。アンシャルとキシャルの父。
ラハム - アプスーとティアマトの娘。ラフムの妻。アンシャルとキシャルの母。

ポリネシアの神話[編集]

(Polynesian mythology)
アテア (Atea)
イナ (Ina)
タンガロア、タガロア、タアロア、カナロア (Tangaloa, Tangaroa, Tagaloa, Ta'aroa, Kanaloa)
カーネ・ミロハイ (Kane Milohai)
カマプアア
タネ・マフタ
トゥナ
ハウメア
マウイ
パパトゥアヌク (Papatuanuku)
ペレ
ランギヌイ (Ranginui)
ロンゴ (Rongo)

「メネフネ」および「w:Menehune」も参照

マヤ神話の神々[編集]
ア・プチ
イシュタム - 自殺の女神。
イシュ・チェル - 月の女神。
イシュバランケー - ジャガーの神。
イツァムナー - (Reptile Creator God)
カマソッソ - 蝙蝠の悪神。
キニチ・アハウ - 太陽神。
ククルカン - 羽の生えた蛇の神。
シバルバー(Xibalba) - 死の神。
チャク - 雨の神。
バカブ - 4つの方角の神。
フナブ・クー - 創造神。
フラカン - 創造神。
フンアフプー
フン・カメーとヴクブ・カメー
フン・フンアフプー
ボロン・ツァカブ(Bolon tza cab) - (Ruling God of All)
ヤム・カァシュ - トウモロコシの神。

インカ神話の神々[編集]

インカ帝国は南アメリカのペルーを中心に存在し、インカ人は現在も伝統を伝えている。(Inca mythology)
アポ(Apo) - 山の神
アポカテクイル(Apocatequil) - 稲妻の神
チャスカ(Chasca) - 夜明け、夕暮れ、金星の女神
コニラヤ - 創造神の一柱、月の神
エッケコ(Ekkeko) - 家庭と富の神
イヤーパ(Illapa) - 天候の神
インティ - 太陽神
コン(Kon) - インティとママ・キジャの息子。
ママ・アルパ(Mama Allpa) - 豊穣と収穫の女神
ママ・コチャ(Mama Cocha) - 海と魚の神
パチャママ - 竜の姿をした沃土の女神
ママ・キジャ(Mama Quilla) - 月の女神
ママ・ザラ(Mama Zara) - 穀物の女神
マンコ・カパック
パチャカマック - 創造の神
パリアカカ - 創造神の一柱、水の神
スーパイ(Supay) - 死の神
ウルカグアリー(Urcaguary) - 金属と宝石の神
ビラコチャ - 文明の創造者
ザラママ(Zaramama)
ヤナムカ・トゥタニャムカ - 創造神の一柱
ワリャリョ・カルウィンチョ(Huallallo Carhuincho) - 創造神の一柱、火の神
ワカ(Huaca) - 神的存在

ケルト神話の神々[編集]

(Celtic pre-Christian Deities)
アリアンロッド
アンガス・マク・オグ
エリウ
エポナ
オグマ
グウィディオン(Gwydion)
クー・フーリン
クレーニュ
ケリドウェン
ケルヌンノス
ゴヴニュ
スカアハ
ダグザ
ダヌ
ディアン・ケヒト
ヌアザ
ネヴァン
バンバ
フィン・マックール
ブラン
ブリギッド
ブレス
ベリサマ
ベレヌス
ボアン
マッハ
マナナン・マクリル
ミアハ
モリガン
ルー
リル
ルフタ

アジア[編集]

エヴェンキ族の神話[編集]

エヴェンキはシベリアの民族。
ジャブダル

ヨーロッパ[編集]

ダキア人の神々[編集]

(Dacian Deities)
ザルモクシス(Zamolxis)
(Gebeleizis)
ベンディス(Bendis)

エトルリア人の神々[編集]

エトルリア人はイタリア半島中部の先住民族。(Etruscan Deities)
アルパン(Alpan)
メンルヴァ(Menrva)
ネスンス(Nethuns)
ティニア(Tinia)
トゥラン
ユニ(Uni)
ヴォルトゥムナ(Voltumna)

フィンランド神話の神々(キリスト教以前)[編集]

古フィンランドの宗教に関する文書はあまり残されていない上、神々の名前や崇拝の仕方に関していえば土地土地で異なっていた。次に示すのは、最重要かつ最も広範に崇拝されている神々の概略である。
ウッコ - 最高神。天と雷の神。
ラウニ(Rauni) - ウッコの妻。豊穣の女神。
タピオ - 森と野生動物の神。
ミエリッキ - タピオの妻。
ペッコ(Pekko or Peko) - 草原と農業を司る神もしくは女神(実際の性別は不明)。
アハティ(Ahti) - 川、湖、海の神。
ロウヒ(Louhi) - 冥界の女神。
ペルケレ(Perkele) - 古代のフィン族あるいはエストニア人の神。

ラトビア人の神々[編集]

(Latvian mythology)
明星神アウセクリス(Auseklis)
デークラ(Dēkla)
天空神ディエヴス(Dievs)
カールタ(Kārta)
雷神ペールクアンス(Pērkons)
太陽神サウレ(Saule)
運命神ライマ
豊饒神ユミス
馬屋神ウースィンシュ
祖霊母ヴェリュ・マーテ
地母神マーラ

自然や祖霊を崇拝し、日本神道と似ているラトビア土着信仰「ラトビア神道」における主要な神々は約20柱いる。

リトアニアの神々[編集]
プラアムジス

サルデーニャ島の神々[編集]

(Sardinian Deities) Sardinian deities, mainly referred to in the age of (Nuragici people), are partly derived from (Phoenicia)n ones.
(Janas) - Goddesses of death
(Maymon) - God of (Hades)
(Panas) - Goddesses of reproduction (women dead in childbirth)
(Thanit) - Goddess of Earth and fertility

古代プロイセン、バルト海地方の神々[編集]
(Bangputtis)
(Melletele)
(Occupirn)
(Perkunatete)
(Perkunos)
(Pikullos)
(Potrimpos)
(Swaigstigr)

現代の欧米の神々(台所の神々)[編集]

神々の一覧への追加として、マイナーな神々が何人かいる。現在の西洋文化で話され、もっと真面目に捉えられるか、または、あまり真面目に捉えられない。一般的に台所の神々 (Kitchen Gods) と呼ばれる。
歯の妖精(The Tooth Fairy) - a childish sprite
駐車場の妖精(The Parking Fairy) - 駐車する場所を見つけることをつかさどる
交通信号機の妖精(The Traffic Light Fairy) - 光が緑色に代るのをつかさどる
ガイア(Gaia) - 母なる自然

アフリカ[編集]

アカンバ族の神話[編集]

アカンバ族は、ケニアの先住民族。(Akamba mythology)
アサ(Asa)

アカン族の神話[編集]

アカン族は、西アフリカの民族。(Akan mythology)
ブレキリフヌアデ(Brekyirihunuade)
クワク・アナンセ(Kwaku Ananse)

アシャンティの神話[編集]

アシャンティは、かつてガーナにあった王国。(Ashanti mythology)
アナンシ(Anansi)
アサセ・ヤ(Asase Ya)
(Bia)
ニャメ(Nyame)
オニャンコポン(Onyankopon)

ブションゴ族の神話[編集]

(Bushongo mythology)
ボマジ(Bomazi)
ブンバ(Bumba)

ダホメ神話[編集]

ダホメ(ダオメともいう)は、西アフリカの民族。(Dahomey mythology)
(Agé)
(Ayaba)
ダ(Da)
グバドゥ(Gbadu)
(Gleti)
(Gu)
リサ(Lisa)
ロコ(Loko)
マウ(Mawu)
サクパタ(Sakpata)
ソグボ(Sogbo)
セヴィオソ(Xevioso)
(Zinsi)
(Zinsu)

ディンカ族の神話[編集]

ディンカ族は、北アフリカの民族。(Dinka mythology)
アブク(Abuk)
(Denka)
(Juok)
ニャリッチ(Nyalitch)

エフィク族の神話[編集]

(Efik mythology)
アバッシ(Abassi)
アタイ(Atai)

イボ神話[編集]

イボは、ナイジェリアの民族。(Ibo mythology)
(Aha Njoku)
(Ala)
(Chuku)

Isoko mythology[編集]

(Isoko mythology)
(Cghene)

コイコイ人の神話[編集]

コイコイ人は、南アフリカの民族。「ホッテントット」と呼ばれた。(Khoikhoi mythology)
(Gamab)
(Heitsi-eibib)
(Tsui'goab)

ロトゥコ族の神話[編集]

(Lotuko mythology)
アジョク(Ajok)

ルグバラ族の神話[編集]

(Lugbara mythology)
アドロア(Adroa)
アドロアンジ(Adroanzi)

ピグミー族の神々[編集]

(Pygmy mythology)
アレバティ(Arebati)
 ティンギ
(Khonvoum)
トレ(Tore)

トゥンブカ族の神話[編集]

(Tumbuka mythology)
(Chiuta)

ヨルバ族の神話[編集]

ヨルバ族は、ナイジェリアの民族。(Yoruba mythology)
アジャ(Aja)
アジェ(Aje)
エグングン・オヤ(Egungun-oya)
エシュ(Eshu)
オバ(Oba)
オバタラ(Obatala)
オドゥドゥア(Odudua)
オロドゥマレ(Oloddumare)
オロクン(Olokun)
オロルン(Olorun)
オルンミラ(Orunmila)
(Oschun)
オシュンマレ(Oshunmare)
オヤ(Oya)
シャクパナ(Shakpana)
シャンゴ
ヤンサン(Yansan)
イェマジャ(Yemaja)

ズールー族の神々[編集]

ズールー族は、南アフリカの民族。(Zulu mythology)
(Mamlambo)
(Mbaba Mwana Waresa)
(uKqili)
(Umvelinqangi)
(Unkulunkulu)

ドゴン族の神話[編集]

(Dogon people)
アンマ
ノンモ
ユルグ

アメリカ[編集]

アベナキ族の神話[編集]

アベナキ族は北米、バーモント州のインディアン部族。(Abenaki))
(Azeban) - (trickster)
(Bmola) - (bird) spirit
(Gluskap) - kind protector of humanity
(Malsumis) - cruel, evil god
(Tabaldak) - the creator

チペワ族の神話[編集]

チペワ族は、アメリカのミネソタに住むインディアン部族。(Chippewa mythology)
ナナボーゾ(Nanabozho) - トリックスター。
(Sint Holo)
ウェミクス(Wemicus)

クリーク族の神話[編集]

クリーク族は、アメリカ南東部とオクラホマのインディアン部族、ムスコギー族のこと。(Creek mythology)
(Hisagita-imisi)

グアラニー族の神話[編集]

グアラニー族は、中南米のインディオ。(Guarani mythology)
(Abaangui)
(Jurupari)

ハイダ族の神話[編集]

ハイダ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟民族。(Haida mythology)
(Gyhldeptis)
(Lagua)
(Nankil'slas)
(Sin)
(Ta'axet)
(Tia)

ホピ族の神話[編集]

ホピはアメリカ・アリゾナ州に暮らすインディアンで、彼らの宗教観はニューエイジなど現代の文化に影響を与えている。(Hopi mythology)
アホリ(Aholi)
(Angwusnasomtaka)
ココペリ(Kokopelli) - 収穫の神
(Koyangwuti)
(Muyingwa)
タイオワ (Taiowa) - 原初の創造神
(Toho)
See also カチーナ(kachina)

ヒューロン族の神話[編集]

ヒューロンは、北アメリカ大陸北部の、オンタリオ湖周辺やヒューロン湖周辺などに居住するインディアン部族で、ワイアンドット族のこと。(Huron mythology)
(Iosheka)

エスキモー・イヌイットの神話[編集]

エスキモーはカナダ・アラスカの極北に暮らす狩猟民族。(Inuit mythology)
イガルク(Igaluk) - 月の神
マリナ(Malina) - 太陽の女神
ナヌーク(Nanook) - 熊の神
ネリビック(Nerrivik) - セドナの別名
ピンガ(Pinga) - 狩猟の女神
セドナ(Sedna) - 地母神であり海の女神
アイパルーヴィク(Aipaloovik) - 海の邪神、死と破壊を司る
トーンガルスク(Torngarsuk)
テュロク(Tulok) - イガルクの宿敵、敗れて星となる

イロコイ族の神話[編集]

イロコイはアメリカ合衆国とカナダの間にあるインディアン国家。合衆国憲法の元となった仕組みを持っている。(Iroquois mythology)
(Adekagagwaa)
(Gaol)
(Gendenwitha)
(Gohone)
(Hahgwehdaetgan)
(Hahgwehdiyu)
(Onatha)

クワキウトル族の神話[編集]

クワキウトル族は、カナダ西海岸部のインディアン部族。(Kwakiutl mythology)
(Kewkwaxa'we)

スー族の神話[編集]

スー族は、アメリカの大平原に住むインディアン部族。(Lakota mythology)
ワカンタンカ - 偉大なる天上の大精霊。
インヤン - 石の精霊。
マカ - 母なる大地の精霊。
スカン - 空の精霊。
ウィ - 太陽の精霊。(Wi)
ハンウィ - 月の精霊。 ウィの妻。
タテ - 風の精霊。
ウォペ - ウィとハンウィの娘。偉大なる仲介者。(Whope)
イヤ - 邪悪の精霊。
ワズィヤ - 地下に棲む「オールド・マン」
ワカンカ - 魔女。
アヌング・イテ - ワズィヤとワカンカの娘。二つの顔を持つ。
ハオカー - 雷の精霊。
イクトミ - 蜘蛛の精霊。トリックスター。

ナバホ族の神話[編集]

ナバホ族は、アメリカ南西部に住むインディアン部族。プエブロ族神話を原典に持つ。(Navaho mythology)
(Ahsonnutli)
(Bikeh Hozho)
(Estanatelhi)
(Glispa)
(Hasteoltoi)
ハストシェホガン(Hastshehogan)
トネニリ(Tonenili)
ツォハノアイ(Tsohanoai)
ヨルカイ・エスツァン(Yolkai Estasan)

ポーニー族の神々[編集]

ポーニー族は、アメリカ中西部平原のインディアン部族。(Pawnee mythology)
ティラワ - 創造神。19世紀末までは、人身御供を捧げられた。(Tirawa)
シャクラ - 太陽神。(Shakuru)
アティラ - 大地母神。
パー - 月の神。(Pah)

ズニ族の神々[編集]

ズニ族は、アメリカ南西部のインディアン部族。定住農耕民。(Zuni mythology)
アポヤン・タチュ(Apoyan Tachi)
アウィテリン・ツィタ(Awitelin Tsta)
アウォナウィロナ(Awonawilona)
ココペリ(Kokopelli)

サリシ族の神々[編集]

サリシ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟部族。(Salish mythology)
(Amotken)

セネカ族の神々[編集]

セネカ族は、インディアンのイロコイ連邦の6部族のひとつ。(Seneca mythology)
(Eagentci)
(Hagones)
(Hawenniyo)
(Kaakwha)

オセアニア[編集]

アボリジニーの神話[編集]

アボリジニーは、オーストラリアの先住民族。(Australian Aborigine mythology)
(Altjira)
バイアメ(Baiame)
バマパナ(Bamapana)
(Banaitja)
ボッビ・ボッビ(Bobbi-bobbi)
ブンジル(Bunjil)
ダラムルム(Daramulum)
ディルガ(Dilga)
ジャンガウル(Djanggawul)
エインガナ
ガレル(Galeru)
(Gnowee)
(Kidili)
クナピピ(Kunapipi)
ジュルングル(Julunggul)
マンガル・クンジェル・クンジャ(Mangar-kunjer-kunja)
(Numakulla)
(Pundjel)
ウランジ(Ulanji)
ワロ(Walo)
ワワラグ(Wawalag)
ウリウプラニリ(Wuriupranili)
ユルルングル

宗教

宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである[2][3]。






目次 [非表示]
1 宗教の広がり
2 語源
3 定義 3.1 リューバによる定義の分類

4 宗教の歴史
5 宗教の表現形式
6 宗教の大分類
7 各国の宗教概況
8 一覧
9 世界での主な宗教問題
10 日本の主な宗教問題
11 参考文献
12 脚注
13 関連項目


宗教の広がり[編集]

世界の宗教の信者数は、キリスト教約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9000万人(19.6%)、ヒンドゥー教約8億1000万人(13.4%)、仏教約3億6000万人(5.9%)、ユダヤ教約1400万人(0.2%)、その他の宗教約9億1000万人(15.0%)、無宗教約7億7000万人(12.7%)である[4]。

一般に、キリスト教、イスラム教、仏教は世界宗教とよばれ、人種や民族、文化圏の枠を超え広範な人々に広まっている[5]。また、特定の地域や民族にのみ信仰される宗教は民族宗教と呼ばれ、ユダヤ教や神道、ヒンドゥー教[6]などがこれに分類される。

これらよく知られた宗教には、実際には様々な分派が存在する。キリスト教をとっても大別してカトリック、プロテスタント、正教などに分かれ、イスラム教もスンナ派、シーア派などが存在する。また、現在においても新宗教(新興宗教)があらたにおこっている。このように世界にはさまざまな世界の宗教が存在する。




語源[編集]

日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。

原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた[7]。

磯前順一によれば[8]、Religionの語が最初に翻訳されたのは日米修好通商条約(1858年)においてであり、訳語には「宗旨」や「宗法」の語があてられた。他にもそれに続く幕末から明治初頭にかけての間にもちいられた訳語として、「宗教」、「宗門」、「宗旨法教」、「法教」、「教門」、「神道」、「聖道」などが確認できるとする。このうち、「宗旨」、「宗門」など宗教的な実践を含んだ語は「教法」、「聖道」など思想や教義の意味合いが強い語よりも一般に広くもちいられており、それは多くの日本人にとって宗教が実践と深く結びついたものであったことに対応する。「宗教」の語は実践よりも教義の意味合いが強い語だが、磯前の説ではそのような訳語が最終的に定着することになった背景には、日本の西洋化の過程で行われた外交折衝や、エリート層や知識人の価値観の西欧化などがあるとされる。

「宗教」の語は1869年にドイツ北部連邦との間に交わされた修好通商条約第4条に記されていたReligionsübungの訳語に選ばれたことから定着したとされる[9][10]。また、多くの日本人によって「宗教」という語が 現在のように"宗教一般" の意味でもちいられるようになったのは、1884年(明治17年)に出版された辞書『改定増補哲学字彙』(井上哲次郎)に掲載されてからだともされている。

定義[編集]

「宗教とは何か」という問いに対して、宗教者、哲学者、宗教学者などによって非常に多数の宗教の定義が試みられてきた[11]とされ、「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれる[12][1]とされる。代表的なものだけを取り上げただけでもかなりの数になる[13]とされ、例えば、ジェームズ・リューバ(英語版)の著書[14]の付録には48の定義およびそれに関するコメントが書かれており、日本の文部省宗務課がかつて作成した「宗教定義集」[15]でも104の定義が挙げられている[16]といい、その気になればさらに集めることも難しくはない[17]という。

リューバによる定義の分類[編集]

リューバは宗教についての多数の定義を三つのグループに分類している。すなわち、主知的(intellectualistic)な観点からの定義、主情的(affectivistic)な観点からの定義、主意的あるいは実践的(voluntaristic or practical)な観点からの定義の3つである[18]。
主知的な観点からの定義代表例で古典的な定義の例としてはマックス・ミューラーによる「無限なるものを認知する心の能力」が挙げられる。比較的近年のそれでは、クリフォード・ギアツによる「存在の一般的秩序に関する概念の体系化」がある。主情的な観点からの定義シュライエルマッハー(F.E.D.)による「ひたすらなる依存感情」。マレット(Marett, R.R.)なども他の学者などにみられる合理主義な観点を批判しつつ、宗教の原型を情緒主義(emotionalism)から論じた[19]という。主意的あるいは実践的な観点からの定義C.P.ティーレによる「人間の原初的、無意識的、生得的な無限感覚」というものがある。
『世界宗教事典』では上記のリューバの分類・分析を踏まえ、また、宗教を成立させている基本要素が超絶的ないし超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)をみとめる特定の観念であることを踏まえつつ、宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団である[20]とまとめている。

『世界宗教事典』での上記の定義のまとめに沿って、もう少し具体的な例も含めて示せば[21]、宗教とは、超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)についての信念、超越的なものと個人の関係、超越的なものに対する個人の態度(信仰など)、信仰に基づいた活動(礼拝、巡礼など)、組織・制度(教会、寺社制度など)、信者の形成する社会、施設(教会堂、モスク、寺院など)等々である。

広辞苑では、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事、との定義を掲載した[22]。




宗教の歴史[編集]

詳細は「宗教史」を参照

宗教の表現形式[編集]

宗教はさまざまな表現形式を通して時間や空間を超えて伝えられている。神話や伝説、教典の内容や教義は口伝や詠唱、詩、書物を通して伝えられる。また、通過儀礼や年中行事などの儀礼を通して伝えられる場合や、生活習慣や文化の中に織り込まれる場合もある。食事の際に生産者や自然に感謝をする場合などがこれにふくまれる。

また、絵画や彫刻などの芸術、音楽、舞踏、建築などを通して伝えられる場合もある。

宗教の大分類[編集]
一神教と多神教、汎神論
民族宗教と世界宗教
伝統宗教(既成宗教)と新宗教(新興宗教)
自然宗教と創唱宗教
アニミズム・アニマティズム・シャーマニズム・トーテミズム

各国の宗教概況[編集]

「Category:各国の宗教」も参照

一覧[編集]
世界の宗教の一覧
神々の一覧

世界での主な宗教問題[編集]
聖地をめぐる争い(エルサレムを参照)。
宗教戦争(異教徒間、異宗派間で、時として戦争や紛争を引き起こすことがある[23]。このような問題が狭い区域の宗教的多数派の住民と宗教的少数派の住民の間に発生した場合、ヘイトクライムの形をとることが多い)
共産主義を標榜する全体主義国家による宗教全般に対する弾圧、信教の自由の侵害(中国、北朝鮮など)
フランス政府の「セクト対策」[24]
一部の新興宗教団体に集団自殺を引き起こすものがあること。

日本の主な宗教問題[編集]
政教分離の原則とその解釈、適用範囲 靖国神社問題
キリスト教徒の自衛隊員の護国神社合祀、およびその遺族による取り下げ要求の拒否
自民党・民主党の支持団体に宗教団体が含まれる問題
統一教会と一部の保守政治家(自民党・民主党など)の関係
公明党と創価学会が政教一致ではないかとされる問題
岩手県警による黒石寺蘇民祭の全裸禁止問題
宮津市清め塩啓発問題

宗教と学校教育(教育基本法九条の改正をめぐる議論など)
信教の自由と人権(人権尊重と人権侵害をめぐる議論、あるいは新宗教をいかに処遇するかについての議論、エホバの証人の輸血・武道教育拒否問題に見られる子どもの人権と教義の衝突など)
一部の宗教団体、およびその構成員による触法・犯罪行為(オウム真理教、摂理など)

孔子

孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐ; ウェード式: K'ung-tzu、紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。

実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[1]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、文化大革命においては毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国共産党は新儒教主義また儒教社会主義を提唱しはじめている(儒教参照)。



目次 [非表示]
1 時代背景 1.1 周公旦と礼学
1.2 魯国の状況

2 生涯 2.1 出自
2.2 青年期
2.3 大司寇時代
2.4 亡命から晩年まで
2.5 孔子死後の魯

3 思想 3.1 封号

4 人物
5 子路の「醢」
6 子孫
7 系譜
8 伝記(学術)
9 孔子を題材にした作品
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク


時代背景[編集]

周公旦と礼学[編集]

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟である。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たっていた。

周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。

魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

魯国の状況[編集]

春秋時代に入ってからの魯国は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父・叔牙・季友は第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々魯の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。

孔子の生まれた当時は襄公(紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季武氏の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [2]。

生涯[編集]

出自[編集]

紀元前552年(一説には551年)に、魯国昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[3]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[4]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[5]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[6]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[7]。

幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。

弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[8]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[9]。

青年期[編集]

紀元前542年6月、襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。

紀元前537年に季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。

紀元前534年、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する[10]。翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生。

紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し委吏、乗田となった[11]。

紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[12]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。魯に帰国したのは翌年とも7年後ともいわれる。魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。孔子は斉の首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。

紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[13]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は紀元前502年に叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。

大司寇時代[編集]

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[14]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[15]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[16]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[17]。

紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦したうえで、三桓氏の根城を壊滅する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[18]。

亡命から晩年まで[編集]

翌年の紀元前497年に弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。衛に赴き、ついで陳に赴く。 紀元前49年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を暗殺する。 紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後斉に攻められ敗北した。前485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。


紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。

翌前483年に斉の簡公を討伐するように孔子が哀公に進軍を勧めるが実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。

孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。

紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。

孔子死後の魯[編集]

孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏に反乱を起こすも三桓氏に屈し、衛・鄒と点々と身を置き、越に国外追放され前467年にその地で没した。

孔伯魚の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。

のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

思想[編集]

『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。





湯島聖堂にある孔子像
封号[編集]

孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。

孔子の封号一覧[19]


時 代

贈った為政者

封 号

年月(西暦)

春秋時代 哀公(魯) 尼父 哀公16年4月(紀元前479年)
前漢 平帝(実質王莽の差し金) 褒成宣尼公 元始元年夏5月(1年)
北魏 孝文帝 文聖尼父 太和16年2月(492年)
北周 静帝 鄒国公 大象2年3月(580年)
隋 文帝 先師尼父 開皇元年(581年)
唐 太宗 先聖 貞観2年(628年)
宣父 貞観11年(637年)
高宗 太師 乾封元年1月(666年)
武則天(武周) 隆道公 天授元年(690年)
玄宗 文宣王 開元27年(739年)
北宋 真宗 元聖文宣王 大中祥符元年11月(1008年)
至聖文宣王 大中祥符5年12月(1012年)
元 成宗 大成至聖文宣王 大徳11年7月(1307年)
明 世宗 至聖先師孔子 嘉靖9年(1530年)
清 世祖 大成至聖文宣先師孔子 順治2年(1645年)
至聖先師 順治14年(1657年)
中華民国 国民政府 大成至聖先師 民国24年(1935年)

人物[編集]

身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。

飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉の細切)の肉を細く切った物などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[20]。[1]

子路の「醢」[編集]

弟子の子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こり、子路は騒動にまきこまれて、殺された。子路の遺体は細かく切りきざまれ、《醢》(遺体を塩漬けにして長期間晒しものにする刑罰)にされたという挿話が『礼記』『孔子家語』『東周列国志』『荘子』などに記されている。孔子は深く悲しみ、『礼記』の記述によると、最後に家にあった「醢」(肉を塩漬けにした食品)を捨てさせたとある[21]。
『礼記』檀弓上の記述では以下の通りである。


檀弓上:孔子哭子路於中庭。有人吊者,而夫子拜之。既哭,進使者而問故。使者曰:“醢之矣。”遂命覆醢。[22]
『荘子』盜跖篇の記述では以下の通りである。


子以甘辭說子路而使從之,使子路去其危冠,解其長劍,而受教於子,天下皆曰‘孔丘能止暴禁非’。其卒之也,子路欲殺衛君而事不成,身菹於衛東門之上,是子教之不至也。[23]
『孔子家語』にも同じ逸話がある。


子路與子羔仕於衞。衞有蒯聵之難。孔子在魯聞之、曰、柴也其來。由也死矣。既而衛使至。曰、子路死焉。夫子哭之於中庭。有人弔者、而夫子拜之。已哭。進使者而問故。使者曰、醢之矣。遂令左右皆覆醢。曰、吾何忍食此。[24]

子孫[編集]

孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいる。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。

孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。

孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。

山東省曲阜市には孔廟、孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)がある。(いわゆる 三孔)。第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。 中華人民共和国の外交官孔泉は、孔子の76代目の子孫といわれる。

系譜[編集]

詳細は「孔子世家嫡流系図」を参照

孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は2009年現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代(1621年 - 1627年)、第2回と第3回は清時代(1662年 - 1723年)、(1736年 - 1795年)、第4回は中華民国時代(1930年 - 1937年)、第5回は中華人民共和国時代(1998年 - 2009年)である。第5回目の大改訂については、2008年12月31日に資料収集が終了[25]。2009年9月24日に完成した[26]。今回の孔子世家譜には初めて中国国外及び女性の子孫も収録され[27]、200万人以上の収録がなされた[26]。

伝記(学術)[編集]
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、ISBN 4061589350
貝塚茂樹 『孔子』 岩波新書青版、1951年、ISBN 4004130441
白川静 『孔子伝』 中公文庫、ISBN 4122041600
和辻哲郎 『孔子』 岩波文庫、ISBN 400331445X
加地伸行 『孔子 時を越えて新しく』  集英社文庫、1991年
蜂屋邦夫 『孔子 中国の知的源流』 講談社現代新書、1997年
ハーバート・フィンガレット[28] 『孔子 聖としての世俗者』 山本和人訳、平凡社ライブラリー、1994年
H・G・クリール 『孔子 その人とその伝説』 田島道治訳、岩波書店、初版1961年、復刊1993年

孔子を題材にした作品[編集]





孔子像
小説
下村湖人 『論語物語』 講談社学術文庫、ISBN 4061584936
中島敦 『弟子』 岩波、角川、新潮の各文庫ほか
井上靖 『孔子』 新潮文庫、ISBN 4101063362
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、新装版2007年、ISBN 462568403X
酒見賢一 『陋巷に在り』 新潮文庫全13巻
李長之 『人間孔子』 守屋洋訳、徳間文庫、1989年
銭寧 『聖人・孔子の生涯』 松岡亮訳、東洋書院、2005年
丁寅生 『孔子物語』 孔健・久米旺生訳、徳間文庫、2008年
三宅昭 『小説 論語物語』 三宅参衛監修 鶴書院、2009年

映画
『孔子の教え』(監督:胡玫(フー・メイ)、主演:チョウ・ユンファ、2009年、中国)

テレビドラマ
『恕の人 -孔子伝-』[2](主演:ウィンストン・チャオ、2012年、中国)

漫画
鄭問 『東周英雄伝』 講談社漫画文庫全3巻、1995年
諸星大二郎 『孔子暗黒伝』 新版集英社文庫 コミック全1巻、1996年
猪原賽原作、李志清画 『孔子と論語』 メディアファクトリーコミック全3巻、2008年

アニメ
『孔子傳』(NHKアニメーション、1995年、監督:出崎統、原作は上記『東周英雄伝』)

コメディ
『哲学者サッカー』 - ギリシア哲学者チームと、ドイツ近代哲学者チームが、サッカーの試合をするというコメディ。孔子は主審を務めるという設定で、「論語 には自由意志が無い」と噛み付いて来たニーチェにイエローカードを渡す。

朱子

朱子(しゅし 1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は中国宋代の儒学者。

姓は朱、諱は熹(き)、字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。朱子は尊称である。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。

1130年(建炎4年)、南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、1200年(慶元)、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 父・朱松
1.2 師との出会い
1.3 政治家として
1.4 偽学の禁

2 朱子の業績 2.1 経書の整理
2.2 朱子学の概要
2.3 後世への影響
2.4 著作

3 朱子の書 3.1 劉子羽神道碑
3.2 尺牘編輯文字帖
3.3 論語集注残稿

4 有名な言葉
5 脚注
6 関連項目
7 参考文献


生涯[編集]

父・朱松[編集]

朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱瓌(しゅかい、瓌は懐のりっしんべんを王偏に変えたもの)で、婺源(ぶげん、江西省婺源県)の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。 その八世の子孫が朱熹の父・朱松(1097年 - 1143年)である。

朱松は周敦頤・程・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年(宣和5年)より任官して県尉(県の治安維持を司る)に任命されていた。1127年(建炎元年)に靖康の変が起き、北宋が滅んで南宋が成立した後の1128年(建炎2年)に南剣州尤渓県(なんけんしゅうゆうけいけん、現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。

1130年(建炎4年)、この尤渓県にて朱熹が生まれる。

その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されている。1140年(紹興10年)に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官[1]の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、1143年(紹興13年)に47歳で死去した。

師との出会い[編集]

父と同じく学問の道に入った朱熹は、9歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子翬の三者に師事するようになる。

1148年(紹興18年)、19歳の時に科挙に合格。この時の席次は合格者330人中278番だった。この頃は高宗の信頼を受けた秦檜が権勢を振るっており、秦檜は金との講和に反対する者を弾圧していた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなった。朱熹が低い席次であるのにはそうした理由があると考えられている。

1151年(紹興21年)、朱熹は左迪功郎と言う階官(官職の上下を表すもの)を与えられ、泉州同安県(現在の福建省同安県)の主簿(帳簿係)に任官された。この任官途中で父の同門であった李延平と出会い、その教えを受けている。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたのだが、李延平の禅宗批判を聞いてその考えに同調し、以後は禅宗を捨てて儒学だけを志すようになる。

1156年(紹興26年)には主簿の任期である3年を過ぎたが、後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞している。1160年(紹興30年)、朱熹は父親と同じように祠官に任命されることを希望し、それが認められると李延平の元で学問に励むようになった。李延平は朱熹に「道学」の真髄を伝授し、朱熹も李延平の教えを次々と吸収したので、やがて李延平に「自分の後継者は朱熹しかいない」と認められるまでになった。

政治家として[編集]

1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命じられるが、これを拒否して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。

1170年(乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年(淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。

1179年(淳熙6年)からは南康軍(軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を拒否し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。

1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州は現在の浙江省臨海県)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。

これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である[2]。 結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。

偽学の禁[編集]

1189年(淳熙16年)、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年(紹熙5年)の孝宗の死後、趙汝愚と韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は政治顧問に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。

その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年(慶元2年)、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年(慶元6年)、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。

朱子の業績[編集]

経書の整理[編集]

『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。

朱子学の概要[編集]

朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。

なお朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。

朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。

後世への影響[編集]


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この節は大言壮語的な記述になっています。
Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2012年12月)

朱子学は身分制度の尊重、君子権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした[3][4]。

日本にも「輸出」されて徳川幕府のイデオロギーとして尊重された。その結果、東アジアの社会秩序が「儒教的」になった原因として、朱子および朱子学が後世の批判を受けるようにもなっているが、当時の体制によりどう運用されたかを検討しないで単純にただ朱子と朱子学を批判するのは蒙昧の謗りを免れまい[要出典]。

著作[編集]

70余部、460余巻あるとされる。
著作の一部『朱自家訓』
『四書章句集注』
『参同契考異』
『童蒙須知』
『資治通鑑綱目』
『楚辞集注』

なお、弟子がまとめた『朱子語類』が存在する。

朱子の書[編集]





朱子の書
朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』[5])と記している[6][7][8][9]。

古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある[10]。

韓gが欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓gの書は常に端厳であり、これは韓gの胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる[10][11]。

朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法[12]の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる[13][6][14][8][15][10][11]。

朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる[6][7][14][8]。

劉子羽神道碑[編集]

『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は1179年(淳熙6年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省崇安県の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。

劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。

劉珙が1178年(淳熙5年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される[8][15][16][14][17]。

尺牘編輯文字帖[編集]

『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、1172年(乾道8年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている[8][18][19]。

論語集注残稿[編集]

『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で1177年(淳熙4年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm[18][8][13][20]。

有名な言葉[編集]
「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として人口に膾炙し、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩はなく、近年は日本人の作だとする説が有力になっている(項目「少年老いやすく学なりがたし」参照)。
精神一到何事か成らざらん

儒教

儒教(じゅきょう、英語:Confucianism)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。



目次 [非表示]
1 概要
2 教典 2.1 四書と宋明理學

3 礼儀 3.1 冠服制度

4 教義
5 起源
6 孔子とその時代
7 孔子以後の中国における歴史 7.1 秦代
7.2 漢代
7.3 古文学と今文学
7.4 三国時代・晋代 7.4.1 玄学

7.5 南北朝時代・南学と北学
7.6 隋代
7.7 唐代
7.8 宋代 7.8.1 道統論
7.8.2 新学
7.8.3 天論
7.8.4 南宋時代
7.8.5 朱熹
7.8.6 道学

7.9 元代
7.10 明代 7.10.1 王陽明
7.10.2 東林学派
7.10.3 朱元璋の六諭

7.11 清代 7.11.1 考証学

7.12 近代 7.12.1 孔教運動

7.13 現代 7.13.1 新文化運動

7.14 中華人民共和国時代 7.14.1 再評価と「儒教社会主義」


8 朝鮮における儒教
9 日本における儒教
10 儒学者一覧
11 儒教研究上の論争
12 その他の学説
13 孔子廟
14 文献 14.1 史書

15 脚注
16 関連項目
17 外部リンク


概要[編集]

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、[1]周礼を保存する使命を背負った、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、(支配者の)徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力による覇道を批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒教が漢代、国家の教学として認定された事によって成立した。儒教は、宋代以前の「五経」を聖典としていた時代である。宋代以降に朱子学によって国家的規模での宋明理学体系に纏め上げられていた。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。

儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生と呼ぶ[2]。

教典[編集]

儒教の経典は易・書・詩・礼・楽・春秋の六芸(六経)である。

春秋時代になり、詩・書・春秋の三経の上に、礼・楽の二経が加わり、五経になったといわれる。

詩・書・禮・樂の四教については「春秋はヘうるに禮樂を以てし、冬夏はヘうるに詩書を以てす」、『禮記・王制』における「王制に曰く、樂正、四術を崇び四ヘを立つ。先王の詩・書・禮・樂に順いて以て士を造[な]す」という記述がある。

孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった[3]。

武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正统の学問として五経博士を設置することを献策した。靈帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立て、熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。








注疏

易経 周易正義
尚書 尚書孔安伝 尚書正義
詩経 毛詩 毛詩正義
楽経
儀礼 礼記 儀礼注疏、礼記注疏
周礼 周礼注疏
春秋 春秋公羊伝 春秋公羊伝注疏
春秋左氏伝 春秋左伝注疏
春秋穀梁伝 春秋穀梁伝注疏
論語 論語注疏
孝経 孝経注疏
孟子 孟子注疏
爾雅 爾雅注疏

四書と宋明理學[編集]

宋代に朱熹が「礼記」のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大學」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。

朱熹は、「『大學』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く[4]。

礼儀[編集]

子日く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。孔子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ、禮に非ざれば聽くこと勿かれ、 禮に非ざれば言うこと勿かれ、禮に非ざれば動くこと勿かれ。周礼は五礼て、つまり吉礼、兇礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によつて国家の天神、祖霊、地神を祭り、兇礼によつて国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によつて周玉室と他国あるいは国家間を友好親箸たらしめ、軍礼によつて国家同士を脇調させ、嘉礼によつて万民を互いに和合する。[5]五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、兇礼(喪葬〕、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。


周礼

解説

名系

吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊
兇礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、虞礼
賓礼 外交(邦国に親しむ) 相见礼、燕礼、公食大夫禮、觐礼
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大傩
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 饮食之礼,婚冠之礼,宾射之礼,飨燕之礼,脤膰之礼,贺庆之礼

冠服制度[編集]

「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服す。」[6]孔子が、伝説の聖王・禹に衣服を悪しくして美を黻冕に致しついて褒め称えている部分である。[7]周の冕は衣裳です。易経に、黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。[8]乾は天、坤は地で、乾坤は天地の間、人の住む所の意がある。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色く。だから、冕服(袞衣)の衣は玄にして裳は黄。待った、『尚書』に虞皇の衣服のぬいとりにした文様を言う。 日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彜 藻 火 粉末 黼 黻の十二である。それは『輿服制』の始まりです。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇、『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたそれである。すなわち『儀礼』士冠礼・喪服など、また『周礼』天宮司裳・春宮司服など、さらに『礼記』冠儀・昏儀などの各篇に、周代の服装に関する制度である。

教義[編集]

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

儒教の考えには本来、男尊女卑の概念は存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を以って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在では看做されており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。
仁人を思い遣る事。孔子以前には、「佞る事」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。義利欲に囚われず、すべきことをすること。(語源的には宜に通じる)礼仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。智学問に励む信言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
起源[編集]

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」[9]として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした[10]。

孔子とその時代[編集]

詳細は「孔子」を参照

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3500人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子以後の中国における歴史[編集]

秦代[編集]

秦の始皇帝が六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。

漢代[編集]
前漢
漢に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝の時には経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。
後漢
前漢末から災異思想などによって、神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。 緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。新の王莽も後漢の光武帝も盛んに讖緯を利用している。一方で、桓譚や王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。

古文学と今文学[編集]

前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写されていて今文経といわれる。これに対して、古文経と呼ばれる孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが、発見されていた。前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようとして、今文経学との学派争いを引き起こしている。平帝の時には『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。後漢になると、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけていった。章帝の時に今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、六経すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一方で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けている。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代・晋代[編集]

魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。

玄学[編集]

この時代に隆盛した学問は老荘思想と『易』に基づく玄学であるが、玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代・南学と北学[編集]

南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、梁の武帝の時には五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。

南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。梁の費甝(ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉Rが出た。

隋代[編集]

北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝の時、劉焯・劉Rの二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉Rの『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代[編集]

唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

宋代[編集]
北宋
宋ははじめ唐を継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

道統論[編集]

しかし、宋の天下が安定した仁宗期になると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。

漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

新学[編集]

神宗期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

天論[編集]

この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程の天理は後の朱熹に影響を与えた。このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、世界の存在を気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋時代[編集]

宋朝は北方を金に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

朱熹[編集]

孝宗の時代には、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼経」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。朱熹の弟子には、黄榦、輔広、邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。

同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。

道学[編集]

陸九淵の学は明代、王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。

寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。

理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗の時には『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。

元代[編集]

従来、金では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。

元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。

元代、科挙で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。

明代[編集]

明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。

永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。

明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。

王陽明[編集]

明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。

この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。

理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。

東林学派[編集]

社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。

朱元璋の六諭[編集]

明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。

一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。

明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。

清代[編集]

明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。

一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。

こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。

考証学[編集]

清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。

乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。その年号から乾嘉の学と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州を中心とする呉派、安徽出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。

道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。

近代[編集]

アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曾国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。

孔教運動[編集]

一方、変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かすものであったため、清朝から危険視され『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折につながる一つの原因となる。しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突することとなり、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失うことになる。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国及びアメリカで活動している。この他に賛同した著名人として厳復がいる。

現代[編集]

新文化運動[編集]

1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。

清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、尭・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。
新儒家 熊十力
梁漱溟
牟宗三
唐君毅
杜維明


中華人民共和国時代[編集]

中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていためとされる。なお毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

再評価と「儒教社会主義」[編集]

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている[12]。

ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている[13]。

朝鮮における儒教[編集]

詳細は「朝鮮の儒教」を参照





朝鮮の儒学者
朝鮮は儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。一方で、李氏朝鮮時代に儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある。
李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

日本における儒教[編集]

「日本の儒教」を参照

儒学者一覧[編集]

「儒学者一覧」を参照

儒教研究上の論争[編集]


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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2009年11月)

儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的[14]だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。儒教は神の存在を完全に否定している事から“宗教として扱われる思想ではない”という見解が多い。一方、加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能である。

その他の学説[編集]
人性論
天人の辨
義利の辨
名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論

孔子廟[編集]

詳細は「孔子廟」および「日本の儒教#関連史蹟」を参照

中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟、孔廟、夫子廟ともいう。(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名。)中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。

日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。

文献[編集]
概説書加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書 ISBN 9784121009890
加地伸行 『沈黙の宗教−儒教』 筑摩書房〈ちくまライブラリー〉 ISBN 9784480051998/ ちくま学芸文庫(2011年4月)
串田久治 『儒教の知恵−矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 9784121016850
鈴木利定 『儒教哲学の研究』 明治書院 ISBN 9784625483028
T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 青土社 ISBN 9784791752980
狩野直禎編 『図解雑学 論語』ナツメ社、2001年、ISBN 4816330461
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、2007年、ISBN 9784625684036
土田健次郎編 『21世紀に儒教を問う』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225
永冨青地編 『儒教 その可能性』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145
伝記白川静 『孔子伝』 中公文庫 ISBN 4122041600
諸橋轍次 『如是我聞 孔子伝』(上下)、大修館書店、1990年
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 9784061589353
武内義雄 『論語之研究』 岩波書店、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊
津田左右吉 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊
宮崎市定 『論語の新しい読み方』 礪波護編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227
五経易経 今井宇三郎 『易経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院 
(上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146
本田済 『易 〈中国古典選〉』 新版:朝日選書 ISBN 9784022590107
高田眞治・後藤基巳 『易経』 岩波文庫 
(上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129

書経 加藤常賢  『書経 (上) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570254
小野沢精一 『書経 (下) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570261
池田末利 『尚書 全釈漢文大系』 集英社 

詩経 石川忠久 『詩経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。 
(上)ISBN 9784625571103、(中)ISBN 9784625571111、(下)ISBN 9784625673009
白川静 『詩経国風』 平凡社東洋文庫、ISBN 9784582805185
白川静 『詩経雅頌』 平凡社東洋文庫 全2巻、(1)ISBN 9784582806359 、(2)ISBN 9784582806366

礼記 竹内照夫 『礼記 新釈漢文大系』 明治書院 全3巻
(上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292
『礼記』(「漢文大系」冨山房、初版1913年。のち改訂版)
桂湖村 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:早稲田大学出版部、初版1914年
安井小太郎 『礼記』(「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年)
下見隆雄 『礼記』(明徳出版社〈中国古典新書〉、初版1973年)
市原亨吉など 『礼記 全釈漢文大系』(集英社 全3巻)

春秋 春秋左氏伝 鎌田正 『春秋左氏伝 新釈漢文大系』 明治書院 全4巻
(1)ISBN 9784625570308 、(2)ISBN 9784625570315 、(3)ISBN 9784625570322、(4)ISBN 9784625570339
竹内照夫 『春秋左氏伝 全釈漢文大系 4.5.6』、集英社
小倉芳彦 『春秋左氏伝』、岩波文庫全3巻 (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638

春秋公羊伝 林羅山訓点 菜根出版(復刻)
『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝 (日原利国訳) 、筑摩書房、1970年 日原利国著 『春秋公羊伝の研究』 創文社〈東洋学叢書〉、1978年


春秋穀梁伝 野間文史著 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』 研文出版〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011


四書大学 宇野哲人 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940
金谷治 『大学 中庸』 岩波文庫 2004年 ISBN 4003322215
赤塚忠 『大学・中庸 〈新釈漢文大系2〉』 明治書院 1998年 ISBN 4625570026

中庸 島田虔次 『大学・中庸 〈中国古典選〉』 朝日新聞社、1967年/ 朝日文庫上下、1978年
宇野哲人 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959
俣野太郎 『大学・中庸』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1968年 

論語 吉田賢抗 『論語 〈新釈漢文大系 1〉』 明治書院、初版1960年、ISBN 4625570018
吉川幸次郎 『論語 〈中国古典選〉』(上下)、新版:朝日選書、1996年
金谷治 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 4003320212 
宮崎市定 『現代語訳 論語』 岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
貝塚茂樹 『論語』 中公文庫/ 新版:中公クラシックス全2冊、2002年
加地伸行 『論語』 講談社学術文庫、2004年、増訂版2009年

孟子 小林勝人 『孟子』 岩波文庫 (上)ISBN 9784003320419 、(下)ISBN 9784003320426
貝塚茂樹 『孟子』 中公クラシックス版、抄訳版
内野熊一郎・加藤道理 『孟子 〈新釈漢文大系 4〉』、明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
宇野精一 『孟子 全釈漢文大系2』 集英社

関連古典周礼
儀礼  池田末利編訳、東海大学出版会 〈東海古典叢書、全5巻〉

爾雅
孝経 加地伸行 『孝経』、講談社学術文庫、初版2007年
栗原圭介 『孝経 新釈漢文大系35』 明治書院、ISBN 9784625570353

荀子 金谷治 『荀子』 岩波文庫(上下)、(上) ISBN 9784003320815 、(下) ISBN 9784003320822
藤井専英 『荀子 新釈漢文大系 5・6』 明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
金谷治・佐川修 『荀子 全釈漢文大系 7・8』 集英社

大戴礼記 栗原圭介 『大戴礼記 新釈漢文大系113』 明治書院、ISBN 9784625571138


史書[編集]
史記 孔子世家
仲尼弟子列伝
孟子荀卿列伝
儒林列伝

漢書 董仲舒伝
儒林伝

孔子家語 宇野精一訳 『孔子家語 新釈漢文大系53』 明治書院 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。  
藤原正訳 『孔子家語』 岩波文庫 ISBN 9784003320228

朱子学朱子 『論語集註』 笠間書院 ISBN 9784305001559
朱子 『近思録』 湯浅幸孫訳著、たちばな出版(選書版)  上:ISBN 9784886926036、中:ISBN 9784886926043 、下:ISBN 9784886926050
『「朱子語類」抄』 三浦國雄訳注、講談社学術文庫 ISBN 9784061598959
島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書 ISBN 9784004120285
陽明学王陽明 『伝習録』 溝口雄三訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820
朝鮮の儒教と儒学
朝鮮時代の五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」と、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」に基づいて。
日本の儒学荻生徂徠 『論語徴』 小川環樹訳註、平凡社東洋文庫 (1)ISBN 9784582805758 (2)ISBN 9784582805765
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