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2014年02月07日
アメリカ大陸
アメリカ大陸(アメリカたいりく)とは、南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をあわせた呼称。両アメリカや新大陸などとも言う。
N60-90, W150-180 N60-90, W120-150 N60-90, W90-120 N60-90, W60-90 N60-90, W30-60
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S0-30, W60-90 S0-30, W30-60
S30-60, W60-90 S30-60, W30-60
30 degrees, 1800x1800
南北に分かれた二大陸であるが、両者はパナマ地峡で接続しているため、まとめて超大陸と見做すこともできる。なお、広く「アメリカ(米州)」というときは、カリブ海やカナダ北部の島々・海域をも含める場合が多い。
「アメリカ」と言う名称は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名から付けられた。詳細はアメリカ州を参照。
北アメリカ大陸はローラシア大陸から分裂して生成した。
南アメリカ大陸はゴンドワナ大陸から分裂して生成した。
両者は約500万年前(鮮新世)にパナマ地峡で結ばれるまで隔絶していたため、生物は独自の進化をしている。そのため、両者の生物相はかなり異なる。(新北区、新熱帯区も参照)
N60-90, W150-180 N60-90, W120-150 N60-90, W90-120 N60-90, W60-90 N60-90, W30-60
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N0-30, W120-150 N0-30, W90-120 N0-30, W60-90 N0-30, W30-60
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S30-60, W60-90 S30-60, W30-60
30 degrees, 1800x1800
南北に分かれた二大陸であるが、両者はパナマ地峡で接続しているため、まとめて超大陸と見做すこともできる。なお、広く「アメリカ(米州)」というときは、カリブ海やカナダ北部の島々・海域をも含める場合が多い。
「アメリカ」と言う名称は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名から付けられた。詳細はアメリカ州を参照。
北アメリカ大陸はローラシア大陸から分裂して生成した。
南アメリカ大陸はゴンドワナ大陸から分裂して生成した。
両者は約500万年前(鮮新世)にパナマ地峡で結ばれるまで隔絶していたため、生物は独自の進化をしている。そのため、両者の生物相はかなり異なる。(新北区、新熱帯区も参照)
大西洋
大西洋(たいせいよう、羅: Oceanus Atlanticus、英: Atlantic Ocean)とは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。 なお、大西洋は、南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。これらの大陸の分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。
目次 [非表示]
1 地理 1.1 水深
1.2 海底
1.3 海水
1.4 海流
2 生物
3 歴史
4 大西洋に接する国と地域 4.1 ヨーロッパ
4.2 アフリカ
4.3 南アメリカ
4.4 カリブ海
4.5 北アメリカ、中央アメリカ
5 大西洋ニーニョ
6 関連項目
7 出典
地理[編集]
大西洋
大西洋の面積は約8660万平方km。これはユーラシア大陸とアフリカ大陸の合計面積よりわずかに広い面積だ。大西洋と太平洋との境界は、南アメリカ大陸最南端のホーン岬から南極大陸を結ぶ、西経67度16分の経線と定められている。また、インド洋との境界は、アフリカ大陸最南端のアガラス岬から南極大陸を結ぶ、東経20度の経線と定められている。そして、南極海との境界は、南緯60度の緯線と定められている。大西洋の縁海としては、メキシコ湾やカリブ海を含むアメリカ地中海、地中海、黒海、バルト海があり、縁海との合計面積は約9430万平方kmである。
水深[編集]
他の大洋と比較した場合、大西洋の特徴は、水深の浅い部分の面積が多いことである。とは言っても大西洋に水深4000mから5000mの部分の面積が最も多いということは、他の大洋と変わらない。しかし、全海洋平均では31.7%がこの区分に属するが、大西洋の場合は30.4%である。そして、水深0mから200m、いわゆる大陸棚の面積が大西洋では8.7%を占める(太平洋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)となる。このため、大西洋の平均深度は三大大洋(太平洋、大西洋、インド洋)のうち最も浅い3736mである。なお、大西洋での最大深度は8605m(プエルトリコ海溝)。
海底[編集]
大西洋と大陸の地形図
海洋底の骨格となる構造は、アイスランドから南緯58度まで大西洋のほぼ中央部を南北に約16000kmに渡って連なる大西洋中央海嶺である。なお、海嶺(海底にある山脈)の頂部の平均水深は2700mである。地質時代にプレートの運動によって南北米大陸と欧州・アフリカ大陸が分裂し、大西洋海底が拡大していった。中央海嶺はマントルからマグマが噴き出た場所である。太平洋と比較すると、海嶺(大西洋中央海嶺を除く)や海山の発達に乏しい。
海底に泥や砂あるいは生物遺骸が堆積しているのは、他の大洋と同様だが、大西洋は他の大洋と比べて、水深の浅い場所が多い。大西洋の沿岸部では河川などによって陸から運ばれた物質が溜まって、厚く堆積している。そして沖合(遠洋)には、粒子の細かい赤色粘土、軟泥(プランクトン死骸など)が堆積している。こうした大西洋の堆積物は、最大で約3300m堆積している。大西洋の堆積物は、太平洋の堆積物と比べると非常に厚い。この理由としては、太平洋に比べ大西洋が狭く、堆積物の主な供給源である陸地からどこもあまり離れていないこと、太平洋に比べて注ぎ込む大河が多い上に、河川の流域面積も広く、河川が侵食して運搬してきた大量の土砂などが流れ込むこと、などが挙げられる [1] 。
また、海底にはマンガン団塊のような自生金属鉱物も見られる。
海水[編集]
大西洋の平均水温は4℃、平均塩分濃度は35.3‰。この水温と塩分濃度は、ともに他の大洋とほぼ同じである。なお、海水の塩分濃度は均一ではなく、熱帯降雨が多い赤道の北や、極地方、川の流入がある沿岸部で低く、降雨が少なく蒸発量が大きい北緯25度付近と赤道の南で高い。また、水温は極地方での-2℃から赤道の北の29℃まで変化する。なお、大西洋の南緯50度付近には、表面付近の海水温が急に2度〜3度変化する潮境が存在し、ここは南極収束線と呼ばれる [2] 。 ちなみに、この南極収束線はインド洋や太平洋にも存在し、インド洋の場合も南緯50度付近だが、太平洋は南緯60度付近と位置が大きく異なっている [2] 。
海流[編集]
海水大循環
大西洋の表層に存在する主な海流は、北から、東グリーンランド海流(北部、寒流)、北大西洋海流(北部、暖流)、ラブラドル海流(北西部、寒流)、メキシコ湾流(西部、暖流)、カナリア海流(東部、寒流)、アンティル海流(西部、暖流)、北赤道海流(東部、暖流)、赤道を超えて、南赤道海流(西部、暖流)、ベンゲラ海流(東部、寒流)、ブラジル海流(西部、暖流)、フォークランド海流(南部、寒流)である。また、現在の地球の海には地球全体を巡る海水大循環があり、大西洋の極海で冷やされた海水は大西洋深層流として南下し、太平洋やインド洋で暖められ、アフリカ南部から北上して戻ってくる。一方、赤道を境にそれぞれ北大西洋と南大西洋の表層では海流が大きな渦として循環する。これらの海流(循環)は、地球全体の気候に影響を与えるくらいに、多くの熱を輸送している。
ところで、北大西洋の中央部にあるサルガッソ海には、目立った海流が無い。これは、南赤道海流・メキシコ湾流・北大西洋海流・カナリア海流によって構成される大循環の中心に位置し、これらの循環から取り残された位置に、このサルガッソ海が存在するからである。また、ちょうどこの場所は亜熱帯の無風帯に属するため風もほとんど吹かない。このため上記4海流から吹き寄せられた海藻類(いわゆる流れ藻)が多く、風がない上に海藻が船に絡みつくことから、航海に帆船を使用していた時代には難所として知られていた。なお、このサルガッソ海付近は、大西洋の中でも海水面が少し高くなっている場所であることでも知られている [3] 。
生物[編集]
大西洋は生物の種数が少ない。様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が大陸移動によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、アマゾン川の淡水魚の種数の方が多いとも言われる[要出典]。
大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。
歴史[編集]
大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。13世紀末には大西洋のヨーロッパ沿岸航路が活発化し、ハンザ同盟が力を持っていた北海・バルト海航路と、ヴェネツィアやジェノヴァが中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。これによって、それまでの内陸のシャンパーニュ大市に代わってフランドルのブリュージュが[4]、その後はアントウェルペンがヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。
最も古い大西洋横断の記録は、西暦1000年のレイフ・エリクソンによるものである。これに先立つ9世紀ごろから、ヴァイキングの一派であるノース人が本拠地のノルウェーから北西に勢力を伸ばし始め、874年にはアイスランドに殖民し、985年には赤毛のエイリークがグリーンランドを発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンがヴィンランド(現在のニューファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も15世紀ごろには寒冷化により全滅してしまう。
一方そのころ、南のイベリア半島においてはポルトガルのエンリケ航海王子が1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになり、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドール岬(スペイン語版)(スペイン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس بوجدور ra's Būyadūr ラス・ブジュドゥール)を突破[5]。以後も探検船は南下し続け、1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。
1492年にはスペインの後援を受けたクリストファー・コロンブスが大西洋中部を横断し、バハマ諸島の1つであるサン・サルバドル島に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、16世紀初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、フランスの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、メキシコ湾流とラブラドル海流が潮目を成すことで世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖にてタラをとるようになった。
16世紀には新大陸で取れた銀がスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となるが、やがてオランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島やアメリカ南部に運んで砂糖や綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった[6]。
19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。
大西洋に接する国と地域[編集]
ヨーロッパ[編集]
ベルギーの旗 ベルギー
デンマークの旗 デンマーク
ドイツの旗 ドイツ
スペインの旗 スペイン
フランスの旗 フランス
フェロー諸島の旗 フェロー諸島
ガーンジー島の旗 ガーンジー
マン島
アイルランドの旗 アイルランド
アイスランドの旗 アイスランド
ジャージー島の旗 ジャージー
オランダの旗 オランダ
ノルウェーの旗 ノルウェー
ポルトガルの旗 ポルトガル
スウェーデンの旗 スウェーデン
イギリスの旗 イギリス
アフリカ[編集]
モロッコの旗 モロッコ
アンゴラの旗 アンゴラ
ベナンの旗 ベナン
ブーベ島の旗 ブーベ島
コートジボワールの旗 コートジボワール
カメルーンの旗 カメルーン
コンゴ民主共和国の旗 コンゴ民主共和国
コンゴ共和国の旗 コンゴ共和国
カーボベルデの旗 カーボベルデ
西サハラの旗 西サハラ (モロッコ占領中)
スペインの旗 スペイン (カナリア諸島)
ガボンの旗 ガボン
ガーナの旗 ガーナ
ギニアの旗 ギニア
ガンビアの旗 ガンビア
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ
赤道ギニアの旗 赤道ギニア
リベリアの旗 リベリア
モーリタニアの旗 モーリタニア
ナミビアの旗 ナミビア
ナイジェリアの旗 ナイジェリア
セネガルの旗 セネガル
セントヘレナの旗 セントヘレナ
シエラレオネの旗 シエラレオネ
サントメ・プリンシペの旗 サントメ・プリンシペ
トーゴの旗 トーゴ
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
南アメリカ[編集]
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
ブラジルの旗 ブラジル
チリの旗 チリ
コロンビアの旗 コロンビア
フォークランド諸島の旗 フォークランド諸島
フランスの旗 フランス (フランス領ギアナ)
ガイアナの旗 ガイアナ
サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島の旗 サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島
スリナムの旗 スリナム
ウルグアイの旗 ウルグアイ
ベネズエラの旗 ベネズエラ
カリブ海[編集]
アルバの旗 アルバ
アンギラの旗 アンギラ
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ
バハマの旗 バハマ
Flag of Saint Barthelemy (local).svg サン・バルテルミー
バルバドスの旗 バルバドス
キューバの旗 キューバ
キュラソーの旗 キュラソー
ケイマン諸島の旗 ケイマン諸島
ドミニカ国の旗 ドミニカ国
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
フランスの旗 フランス (マルティニークおよびグアドループ)
グレナダの旗 グレナダ
ハイチの旗 ハイチ
ジャマイカの旗 ジャマイカ
セントルシアの旗 セントルシア
Flag of Saint-Martin (fictional).svg サン・マルタン
モントセラトの旗 モントセラト
オランダの旗 オランダ (BES諸島)
プエルトリコの旗 プエルトリコ
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス
シント・マールテンの旗 シント・マールテン
タークス・カイコス諸島の旗 タークス・カイコス諸島
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ
セントビンセント・グレナディーンの旗 セントビンセント・グレナディーン
イギリス領ヴァージン諸島の旗 イギリス領ヴァージン諸島
アメリカ領ヴァージン諸島の旗 アメリカ領ヴァージン諸島
北アメリカ、中央アメリカ[編集]
ベリーズの旗 ベリーズ
バミューダ諸島の旗 バミューダ諸島
カナダの旗 カナダ
コスタリカの旗 コスタリカ
グリーンランドの旗 グリーンランド
グアテマラの旗 グアテマラ
ホンジュラスの旗 ホンジュラス
メキシコの旗 メキシコ
ニカラグアの旗 ニカラグア
パナマの旗 パナマ
サンピエール・ミクロンの旗 サンピエール・ミクロン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
大西洋ニーニョ[編集]
数年に一度の頻度で発生する現象で、太平洋のエルニーニョ現象ほど水温偏差は大きくない。周辺地域の南アメリカやアフリカの気候への影響は大きく、熱帯域で洪水や干魃を発生させる要因となっているほか、エルニーニョにも影響を与えていることも示唆されている。発生のメカニズムはエルニーニョ現象と同様に、「数年に一度、弱まった貿易風の影響で、西側の暖水が東へと張り出す」タイプと「赤道の北側で海洋表層の水温が通常よりも暖められ、暖められた海水が赤道域に輸送される[7]」があると考えられている。
目次 [非表示]
1 地理 1.1 水深
1.2 海底
1.3 海水
1.4 海流
2 生物
3 歴史
4 大西洋に接する国と地域 4.1 ヨーロッパ
4.2 アフリカ
4.3 南アメリカ
4.4 カリブ海
4.5 北アメリカ、中央アメリカ
5 大西洋ニーニョ
6 関連項目
7 出典
地理[編集]
大西洋
大西洋の面積は約8660万平方km。これはユーラシア大陸とアフリカ大陸の合計面積よりわずかに広い面積だ。大西洋と太平洋との境界は、南アメリカ大陸最南端のホーン岬から南極大陸を結ぶ、西経67度16分の経線と定められている。また、インド洋との境界は、アフリカ大陸最南端のアガラス岬から南極大陸を結ぶ、東経20度の経線と定められている。そして、南極海との境界は、南緯60度の緯線と定められている。大西洋の縁海としては、メキシコ湾やカリブ海を含むアメリカ地中海、地中海、黒海、バルト海があり、縁海との合計面積は約9430万平方kmである。
水深[編集]
他の大洋と比較した場合、大西洋の特徴は、水深の浅い部分の面積が多いことである。とは言っても大西洋に水深4000mから5000mの部分の面積が最も多いということは、他の大洋と変わらない。しかし、全海洋平均では31.7%がこの区分に属するが、大西洋の場合は30.4%である。そして、水深0mから200m、いわゆる大陸棚の面積が大西洋では8.7%を占める(太平洋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)となる。このため、大西洋の平均深度は三大大洋(太平洋、大西洋、インド洋)のうち最も浅い3736mである。なお、大西洋での最大深度は8605m(プエルトリコ海溝)。
海底[編集]
大西洋と大陸の地形図
海洋底の骨格となる構造は、アイスランドから南緯58度まで大西洋のほぼ中央部を南北に約16000kmに渡って連なる大西洋中央海嶺である。なお、海嶺(海底にある山脈)の頂部の平均水深は2700mである。地質時代にプレートの運動によって南北米大陸と欧州・アフリカ大陸が分裂し、大西洋海底が拡大していった。中央海嶺はマントルからマグマが噴き出た場所である。太平洋と比較すると、海嶺(大西洋中央海嶺を除く)や海山の発達に乏しい。
海底に泥や砂あるいは生物遺骸が堆積しているのは、他の大洋と同様だが、大西洋は他の大洋と比べて、水深の浅い場所が多い。大西洋の沿岸部では河川などによって陸から運ばれた物質が溜まって、厚く堆積している。そして沖合(遠洋)には、粒子の細かい赤色粘土、軟泥(プランクトン死骸など)が堆積している。こうした大西洋の堆積物は、最大で約3300m堆積している。大西洋の堆積物は、太平洋の堆積物と比べると非常に厚い。この理由としては、太平洋に比べ大西洋が狭く、堆積物の主な供給源である陸地からどこもあまり離れていないこと、太平洋に比べて注ぎ込む大河が多い上に、河川の流域面積も広く、河川が侵食して運搬してきた大量の土砂などが流れ込むこと、などが挙げられる [1] 。
また、海底にはマンガン団塊のような自生金属鉱物も見られる。
海水[編集]
大西洋の平均水温は4℃、平均塩分濃度は35.3‰。この水温と塩分濃度は、ともに他の大洋とほぼ同じである。なお、海水の塩分濃度は均一ではなく、熱帯降雨が多い赤道の北や、極地方、川の流入がある沿岸部で低く、降雨が少なく蒸発量が大きい北緯25度付近と赤道の南で高い。また、水温は極地方での-2℃から赤道の北の29℃まで変化する。なお、大西洋の南緯50度付近には、表面付近の海水温が急に2度〜3度変化する潮境が存在し、ここは南極収束線と呼ばれる [2] 。 ちなみに、この南極収束線はインド洋や太平洋にも存在し、インド洋の場合も南緯50度付近だが、太平洋は南緯60度付近と位置が大きく異なっている [2] 。
海流[編集]
海水大循環
大西洋の表層に存在する主な海流は、北から、東グリーンランド海流(北部、寒流)、北大西洋海流(北部、暖流)、ラブラドル海流(北西部、寒流)、メキシコ湾流(西部、暖流)、カナリア海流(東部、寒流)、アンティル海流(西部、暖流)、北赤道海流(東部、暖流)、赤道を超えて、南赤道海流(西部、暖流)、ベンゲラ海流(東部、寒流)、ブラジル海流(西部、暖流)、フォークランド海流(南部、寒流)である。また、現在の地球の海には地球全体を巡る海水大循環があり、大西洋の極海で冷やされた海水は大西洋深層流として南下し、太平洋やインド洋で暖められ、アフリカ南部から北上して戻ってくる。一方、赤道を境にそれぞれ北大西洋と南大西洋の表層では海流が大きな渦として循環する。これらの海流(循環)は、地球全体の気候に影響を与えるくらいに、多くの熱を輸送している。
ところで、北大西洋の中央部にあるサルガッソ海には、目立った海流が無い。これは、南赤道海流・メキシコ湾流・北大西洋海流・カナリア海流によって構成される大循環の中心に位置し、これらの循環から取り残された位置に、このサルガッソ海が存在するからである。また、ちょうどこの場所は亜熱帯の無風帯に属するため風もほとんど吹かない。このため上記4海流から吹き寄せられた海藻類(いわゆる流れ藻)が多く、風がない上に海藻が船に絡みつくことから、航海に帆船を使用していた時代には難所として知られていた。なお、このサルガッソ海付近は、大西洋の中でも海水面が少し高くなっている場所であることでも知られている [3] 。
生物[編集]
大西洋は生物の種数が少ない。様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が大陸移動によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、アマゾン川の淡水魚の種数の方が多いとも言われる[要出典]。
大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。
歴史[編集]
大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。13世紀末には大西洋のヨーロッパ沿岸航路が活発化し、ハンザ同盟が力を持っていた北海・バルト海航路と、ヴェネツィアやジェノヴァが中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。これによって、それまでの内陸のシャンパーニュ大市に代わってフランドルのブリュージュが[4]、その後はアントウェルペンがヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。
最も古い大西洋横断の記録は、西暦1000年のレイフ・エリクソンによるものである。これに先立つ9世紀ごろから、ヴァイキングの一派であるノース人が本拠地のノルウェーから北西に勢力を伸ばし始め、874年にはアイスランドに殖民し、985年には赤毛のエイリークがグリーンランドを発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンがヴィンランド(現在のニューファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も15世紀ごろには寒冷化により全滅してしまう。
一方そのころ、南のイベリア半島においてはポルトガルのエンリケ航海王子が1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになり、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドール岬(スペイン語版)(スペイン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس بوجدور ra's Būyadūr ラス・ブジュドゥール)を突破[5]。以後も探検船は南下し続け、1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。
1492年にはスペインの後援を受けたクリストファー・コロンブスが大西洋中部を横断し、バハマ諸島の1つであるサン・サルバドル島に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、16世紀初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、フランスの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、メキシコ湾流とラブラドル海流が潮目を成すことで世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖にてタラをとるようになった。
16世紀には新大陸で取れた銀がスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となるが、やがてオランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島やアメリカ南部に運んで砂糖や綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった[6]。
19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。
大西洋に接する国と地域[編集]
ヨーロッパ[編集]
ベルギーの旗 ベルギー
デンマークの旗 デンマーク
ドイツの旗 ドイツ
スペインの旗 スペイン
フランスの旗 フランス
フェロー諸島の旗 フェロー諸島
ガーンジー島の旗 ガーンジー
マン島
アイルランドの旗 アイルランド
アイスランドの旗 アイスランド
ジャージー島の旗 ジャージー
オランダの旗 オランダ
ノルウェーの旗 ノルウェー
ポルトガルの旗 ポルトガル
スウェーデンの旗 スウェーデン
イギリスの旗 イギリス
アフリカ[編集]
モロッコの旗 モロッコ
アンゴラの旗 アンゴラ
ベナンの旗 ベナン
ブーベ島の旗 ブーベ島
コートジボワールの旗 コートジボワール
カメルーンの旗 カメルーン
コンゴ民主共和国の旗 コンゴ民主共和国
コンゴ共和国の旗 コンゴ共和国
カーボベルデの旗 カーボベルデ
西サハラの旗 西サハラ (モロッコ占領中)
スペインの旗 スペイン (カナリア諸島)
ガボンの旗 ガボン
ガーナの旗 ガーナ
ギニアの旗 ギニア
ガンビアの旗 ガンビア
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ
赤道ギニアの旗 赤道ギニア
リベリアの旗 リベリア
モーリタニアの旗 モーリタニア
ナミビアの旗 ナミビア
ナイジェリアの旗 ナイジェリア
セネガルの旗 セネガル
セントヘレナの旗 セントヘレナ
シエラレオネの旗 シエラレオネ
サントメ・プリンシペの旗 サントメ・プリンシペ
トーゴの旗 トーゴ
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
南アメリカ[編集]
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
ブラジルの旗 ブラジル
チリの旗 チリ
コロンビアの旗 コロンビア
フォークランド諸島の旗 フォークランド諸島
フランスの旗 フランス (フランス領ギアナ)
ガイアナの旗 ガイアナ
サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島の旗 サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島
スリナムの旗 スリナム
ウルグアイの旗 ウルグアイ
ベネズエラの旗 ベネズエラ
カリブ海[編集]
アルバの旗 アルバ
アンギラの旗 アンギラ
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ
バハマの旗 バハマ
Flag of Saint Barthelemy (local).svg サン・バルテルミー
バルバドスの旗 バルバドス
キューバの旗 キューバ
キュラソーの旗 キュラソー
ケイマン諸島の旗 ケイマン諸島
ドミニカ国の旗 ドミニカ国
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
フランスの旗 フランス (マルティニークおよびグアドループ)
グレナダの旗 グレナダ
ハイチの旗 ハイチ
ジャマイカの旗 ジャマイカ
セントルシアの旗 セントルシア
Flag of Saint-Martin (fictional).svg サン・マルタン
モントセラトの旗 モントセラト
オランダの旗 オランダ (BES諸島)
プエルトリコの旗 プエルトリコ
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス
シント・マールテンの旗 シント・マールテン
タークス・カイコス諸島の旗 タークス・カイコス諸島
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ
セントビンセント・グレナディーンの旗 セントビンセント・グレナディーン
イギリス領ヴァージン諸島の旗 イギリス領ヴァージン諸島
アメリカ領ヴァージン諸島の旗 アメリカ領ヴァージン諸島
北アメリカ、中央アメリカ[編集]
ベリーズの旗 ベリーズ
バミューダ諸島の旗 バミューダ諸島
カナダの旗 カナダ
コスタリカの旗 コスタリカ
グリーンランドの旗 グリーンランド
グアテマラの旗 グアテマラ
ホンジュラスの旗 ホンジュラス
メキシコの旗 メキシコ
ニカラグアの旗 ニカラグア
パナマの旗 パナマ
サンピエール・ミクロンの旗 サンピエール・ミクロン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
大西洋ニーニョ[編集]
数年に一度の頻度で発生する現象で、太平洋のエルニーニョ現象ほど水温偏差は大きくない。周辺地域の南アメリカやアフリカの気候への影響は大きく、熱帯域で洪水や干魃を発生させる要因となっているほか、エルニーニョにも影響を与えていることも示唆されている。発生のメカニズムはエルニーニョ現象と同様に、「数年に一度、弱まった貿易風の影響で、西側の暖水が東へと張り出す」タイプと「赤道の北側で海洋表層の水温が通常よりも暖められ、暖められた海水が赤道域に輸送される[7]」があると考えられている。
グレートブリテン島
グレートブリテン島(グレートブリテンとう、英:Great Britain、羅:Britannia Maior ブリタンニア・マーイヨル、和訳で「大ブリテン島」)は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は、219,850km2で、世界で9番目に大きい島である([1]参照)。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。
グレートブリテン島は、政治的に見ると、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国」からなる。
グレートブリテン島の位置
目次 [非表示]
1 名前の由来
2 分類
3 都市
4 地形
5 関連項目
名前の由来[編集]
グレートブリテン島の名前の記録は、最古のものとしては、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にあるアルビオンである。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にあるプレタニケから、現在のブリテン諸島を指す言葉としてブリトニという呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語でブリタンニア(Britannia)と呼ばれるようになった。
ブリトン人(Britons)は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域をブルターニュ(Bretagne; ブリタニアのフランス語形)と呼び、本来のブリタニアをグランド・ブルターニュ(Grande-Bretagne; 大ブリタニア)と呼んで区別した。ヨーロッパの地名は、近い方を「小」、遠い方を「大」とする慣習がある。これが英語に輸入され、英訳された形のグレートブリテンという地名が定着する。
分類[編集]
北部:スコットランド
南部:イングランド
西部:ウェールズ
都市[編集]
グラスゴー
エディンバラ
マンチェスター
バーミンガム
ロンドン
カーディフ
地形[編集]
古期造山帯に位置しているため、平坦な土地である。アイルランド島との間をアイリッシュ海、スカンディナビア半島およびユトランド半島との間を北海とよぶ。
カンブリア山脈
テムズ川
グレートブリテン島は、政治的に見ると、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国」からなる。
グレートブリテン島の位置
目次 [非表示]
1 名前の由来
2 分類
3 都市
4 地形
5 関連項目
名前の由来[編集]
グレートブリテン島の名前の記録は、最古のものとしては、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にあるアルビオンである。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にあるプレタニケから、現在のブリテン諸島を指す言葉としてブリトニという呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語でブリタンニア(Britannia)と呼ばれるようになった。
ブリトン人(Britons)は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域をブルターニュ(Bretagne; ブリタニアのフランス語形)と呼び、本来のブリタニアをグランド・ブルターニュ(Grande-Bretagne; 大ブリタニア)と呼んで区別した。ヨーロッパの地名は、近い方を「小」、遠い方を「大」とする慣習がある。これが英語に輸入され、英訳された形のグレートブリテンという地名が定着する。
分類[編集]
北部:スコットランド
南部:イングランド
西部:ウェールズ
都市[編集]
グラスゴー
エディンバラ
マンチェスター
バーミンガム
ロンドン
カーディフ
地形[編集]
古期造山帯に位置しているため、平坦な土地である。アイルランド島との間をアイリッシュ海、スカンディナビア半島およびユトランド半島との間を北海とよぶ。
カンブリア山脈
テムズ川
イングランド
イングランド(英: England)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つの「国(イギリスのカントリー)」(英: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上[1]、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。
イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。
目次 [非表示]
1 用語法
2 歴史
3 政治 3.1 行政区画
3.2 主要都市
4 地理 4.1 気候
5 経済
6 国民 6.1 宗教 6.1.1 キリスト教
6.1.2 その他の宗教
6.2 教育
7 文化 7.1 音楽 7.1.1 クラシック音楽
7.1.2 ポピュラー音楽
7.2 文学
7.3 食文化
7.4 スポーツ 7.4.1 サッカー
7.4.2 ラグビーおよびクリケット
7.4.3 ロンドンオリンピック
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
用語法[編集]
日本においては、「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば(通常は「連合王国」の意味で用いられる)「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがある。また、日本に限らず、文脈によってはウェールズを含めた意味で、または連合王国全体を指してイングランドに相当する単語が用いられることもある。しかし、いずれも正確でなく、ポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)とされる。
歴史[編集]
詳細は「イングランドの歴史」を参照
イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、ウェセックス王アルフレッドが最後にヴァイキングに打ち勝ってロンドンを奪還し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となる。一時イングランドはデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが、その後再びアングロ・サクソンの王家が復興する。しかし1066年ノルマンディー公ギヨームに征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン王朝が開かれた。ノルマン人の征服によってアングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。その後、プランタジネット王朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。そして最終的に、14〜15世紀に起こった百年戦争によってほぼ完全にフランス領土を失い、このような過程を経て現在に繫がるイングランド王国が成立し、民族としてのイングランド人が誕生した。
政治[編集]
ウェストミンスター宮殿
1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していたが、1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成した。合同法によって両国の議会は統合された。
1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。
行政区画[編集]
詳細は「イングランドの行政区画」を参照
イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権によってグレーター・ロンドン地域として復活した。
現在のイングランドは行政的に九つの「地域」[2] に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。
つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だが、保守党は反対している。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州[3]または都市州[4]であり、都市州の下級行政単位として区[5]が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州[6]以外に伝統的な州[7]も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。
主要都市[編集]
都市
州
人口
ロンドン グレーター・ロンドン 7,172,091
バーミンガム ウェスト・ミッドランズ 970,892
リヴァプール マージーサイド 469,017
リーズ ウェスト・ヨークシャー 443,247
シェフィールド サウス・ヨークシャー 439,866
ブリストル ブリストル 420,556
マンチェスター グレーター・マンチェスター 394,269
レスター レスターシャー 330,574
コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 303,475
キングストン・アポン・ハル イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー 301,416
人口は2001年国勢調査より。
地理[編集]
イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。
東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境にあたるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。
地形は変化に富み、ティーズ川とエクス川を結ぶ線で分けられる。北部と西部は全般に山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、標高 978m で最高峰のスコーフェル山はイングランドの最高峰でもある。またここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。また、平地の部分もあり、フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。
イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。
気候[編集]
イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5℃である[8]。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの -26.1℃である[9]。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、もっとも暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。-5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりがちの天気が多く、とくにペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月がもっとも多い。
経済[編集]
詳細は「:en:Economy of England」を参照
イングランド銀行
イングランドの経済はヨーロッパで2番目、世界で8番目に大きい。連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する[10]。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。
イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している[11]。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している[12]。
ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の株式市場であるロンドン証券取引所がある。
イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している[13]。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。
イングランドではポンドが法定通貨である。
国民[編集]
詳細は「イングランド人」を参照
宗教[編集]
かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。
キリスト教[編集]
カンタベリー大聖堂
キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。
16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。
イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。
近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。
その他の宗教[編集]
20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。
イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。
教育[編集]
詳細は「イギリスの教育#イングランドの教育制度」を参照
イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は 90% が公立である。
大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学をのぞいて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。
文化[編集]
詳細は「en:Culture of England」を参照
現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。
イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。
音楽[編集]
クラシック音楽[編集]
イングランドの作曲家にはウィリアム・バードやヘンリー・パーセル、エドワード・エルガーらがいる。
イングランドの演奏家にはクリフォード・カーゾン(ピアニスト)やジョン・バルビローリ(指揮者)、サイモン・ラトル(指揮者)、デニス・ブレイン(ホルン奏者)、キャスリーン・フェリアー(コントラルト歌手)らがいる。
ポピュラー音楽[編集]
1960年代にはビートルズが登場した。その後ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン等が現れた。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こる。
1970年代にはグラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのバンドが現れた。
1980年代には MTV ブームの中、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ等が登場した。
1990年代にはオアシス、ブラー、スパイス・ガールズ、プロディジー等が登場した。
文学[編集]
ウィリアム・シェイクスピア
メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』)
食文化[編集]
イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。
スポーツ[編集]
クリケット、ラグビー、ラグビーリーグ、サッカー、テニス、ゴルフ、バドミントンといった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカーとクリケットは依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツである。スヌーカーやボウルズといった競技もイングランド発祥である。
サッカー[編集]
過去サッカー発祥の地である。1863年10月26日にザ・フットボール・アソシエーション (The FA) と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する The FA は世界で唯一国名の付かない最古のサッカー協会である。
不景気やフーリガン問題で一時低迷したが、現在国内リーグのプレミアリーグは世界中から優れた選手を集め、最高峰のリーグと称される。クラブチームではマンチェスター・ユナイテッド FC、リヴァプール FC、チェルシー FC、アーセナル FC などが強豪として世界に知られている。欧州サッカー連盟の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。サッカーイングランド代表は、自国で開催された1966年の FIFA ワールドカップで優勝した。しかし、それ以来主要な国際大会(FIFA ワールドカップ、UEFA 欧州選手権)では決勝まで進めていない(1990年のワールドカップで準決勝進出、2002年と2006年ワールドカップは準々決勝に進出)。2008年の欧州選手権予選では24年ぶりに本大会に進めず終わった。
ラグビーおよびクリケット[編集]
ラグビーイングランド代表とクリケットイングランド代表は世界大会で活躍している。ラグビーでは2003年のラグビーワールドカップで優勝し、クリケットでは2005年のアッシュシリーズで優勝した。ラグビーのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。
ロンドンオリンピック[編集]
2012年夏季オリンピックは7月26日から8月12日まで首都ロンドンで開催された。ロンドンは1908年、1948年にもオリンピックを開催しており、同じ都市で3度開催されるのは史上初である。(実際には1944年に開催が予定されるも、太平洋戦争による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4回目の開催で史上最多であることには変わりはない)
イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。
目次 [非表示]
1 用語法
2 歴史
3 政治 3.1 行政区画
3.2 主要都市
4 地理 4.1 気候
5 経済
6 国民 6.1 宗教 6.1.1 キリスト教
6.1.2 その他の宗教
6.2 教育
7 文化 7.1 音楽 7.1.1 クラシック音楽
7.1.2 ポピュラー音楽
7.2 文学
7.3 食文化
7.4 スポーツ 7.4.1 サッカー
7.4.2 ラグビーおよびクリケット
7.4.3 ロンドンオリンピック
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
用語法[編集]
日本においては、「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば(通常は「連合王国」の意味で用いられる)「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがある。また、日本に限らず、文脈によってはウェールズを含めた意味で、または連合王国全体を指してイングランドに相当する単語が用いられることもある。しかし、いずれも正確でなく、ポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)とされる。
歴史[編集]
詳細は「イングランドの歴史」を参照
イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、ウェセックス王アルフレッドが最後にヴァイキングに打ち勝ってロンドンを奪還し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となる。一時イングランドはデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが、その後再びアングロ・サクソンの王家が復興する。しかし1066年ノルマンディー公ギヨームに征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン王朝が開かれた。ノルマン人の征服によってアングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。その後、プランタジネット王朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。そして最終的に、14〜15世紀に起こった百年戦争によってほぼ完全にフランス領土を失い、このような過程を経て現在に繫がるイングランド王国が成立し、民族としてのイングランド人が誕生した。
政治[編集]
ウェストミンスター宮殿
1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していたが、1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成した。合同法によって両国の議会は統合された。
1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。
行政区画[編集]
詳細は「イングランドの行政区画」を参照
イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権によってグレーター・ロンドン地域として復活した。
現在のイングランドは行政的に九つの「地域」[2] に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。
つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だが、保守党は反対している。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州[3]または都市州[4]であり、都市州の下級行政単位として区[5]が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州[6]以外に伝統的な州[7]も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。
主要都市[編集]
都市
州
人口
ロンドン グレーター・ロンドン 7,172,091
バーミンガム ウェスト・ミッドランズ 970,892
リヴァプール マージーサイド 469,017
リーズ ウェスト・ヨークシャー 443,247
シェフィールド サウス・ヨークシャー 439,866
ブリストル ブリストル 420,556
マンチェスター グレーター・マンチェスター 394,269
レスター レスターシャー 330,574
コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 303,475
キングストン・アポン・ハル イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー 301,416
人口は2001年国勢調査より。
地理[編集]
イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。
東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境にあたるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。
地形は変化に富み、ティーズ川とエクス川を結ぶ線で分けられる。北部と西部は全般に山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、標高 978m で最高峰のスコーフェル山はイングランドの最高峰でもある。またここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。また、平地の部分もあり、フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。
イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。
気候[編集]
イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5℃である[8]。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの -26.1℃である[9]。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、もっとも暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。-5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりがちの天気が多く、とくにペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月がもっとも多い。
経済[編集]
詳細は「:en:Economy of England」を参照
イングランド銀行
イングランドの経済はヨーロッパで2番目、世界で8番目に大きい。連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する[10]。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。
イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している[11]。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している[12]。
ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の株式市場であるロンドン証券取引所がある。
イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している[13]。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。
イングランドではポンドが法定通貨である。
国民[編集]
詳細は「イングランド人」を参照
宗教[編集]
かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。
キリスト教[編集]
カンタベリー大聖堂
キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。
16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。
イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。
近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。
その他の宗教[編集]
20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。
イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。
教育[編集]
詳細は「イギリスの教育#イングランドの教育制度」を参照
イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は 90% が公立である。
大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学をのぞいて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。
文化[編集]
詳細は「en:Culture of England」を参照
現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。
イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。
音楽[編集]
クラシック音楽[編集]
イングランドの作曲家にはウィリアム・バードやヘンリー・パーセル、エドワード・エルガーらがいる。
イングランドの演奏家にはクリフォード・カーゾン(ピアニスト)やジョン・バルビローリ(指揮者)、サイモン・ラトル(指揮者)、デニス・ブレイン(ホルン奏者)、キャスリーン・フェリアー(コントラルト歌手)らがいる。
ポピュラー音楽[編集]
1960年代にはビートルズが登場した。その後ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン等が現れた。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こる。
1970年代にはグラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのバンドが現れた。
1980年代には MTV ブームの中、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ等が登場した。
1990年代にはオアシス、ブラー、スパイス・ガールズ、プロディジー等が登場した。
文学[編集]
ウィリアム・シェイクスピア
メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』)
食文化[編集]
イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。
スポーツ[編集]
クリケット、ラグビー、ラグビーリーグ、サッカー、テニス、ゴルフ、バドミントンといった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカーとクリケットは依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツである。スヌーカーやボウルズといった競技もイングランド発祥である。
サッカー[編集]
過去サッカー発祥の地である。1863年10月26日にザ・フットボール・アソシエーション (The FA) と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する The FA は世界で唯一国名の付かない最古のサッカー協会である。
不景気やフーリガン問題で一時低迷したが、現在国内リーグのプレミアリーグは世界中から優れた選手を集め、最高峰のリーグと称される。クラブチームではマンチェスター・ユナイテッド FC、リヴァプール FC、チェルシー FC、アーセナル FC などが強豪として世界に知られている。欧州サッカー連盟の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。サッカーイングランド代表は、自国で開催された1966年の FIFA ワールドカップで優勝した。しかし、それ以来主要な国際大会(FIFA ワールドカップ、UEFA 欧州選手権)では決勝まで進めていない(1990年のワールドカップで準決勝進出、2002年と2006年ワールドカップは準々決勝に進出)。2008年の欧州選手権予選では24年ぶりに本大会に進めず終わった。
ラグビーおよびクリケット[編集]
ラグビーイングランド代表とクリケットイングランド代表は世界大会で活躍している。ラグビーでは2003年のラグビーワールドカップで優勝し、クリケットでは2005年のアッシュシリーズで優勝した。ラグビーのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。
ロンドンオリンピック[編集]
2012年夏季オリンピックは7月26日から8月12日まで首都ロンドンで開催された。ロンドンは1908年、1948年にもオリンピックを開催しており、同じ都市で3度開催されるのは史上初である。(実際には1944年に開催が予定されるも、太平洋戦争による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4回目の開催で史上最多であることには変わりはない)
イングランド
イングランド(英: England)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つの「国(イギリスのカントリー)」(英: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上[1]、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。
イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。
目次 [非表示]
1 用語法
2 歴史
3 政治 3.1 行政区画
3.2 主要都市
4 地理 4.1 気候
5 経済
6 国民 6.1 宗教 6.1.1 キリスト教
6.1.2 その他の宗教
6.2 教育
7 文化 7.1 音楽 7.1.1 クラシック音楽
7.1.2 ポピュラー音楽
7.2 文学
7.3 食文化
7.4 スポーツ 7.4.1 サッカー
7.4.2 ラグビーおよびクリケット
7.4.3 ロンドンオリンピック
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
用語法[編集]
日本においては、「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば(通常は「連合王国」の意味で用いられる)「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがある。また、日本に限らず、文脈によってはウェールズを含めた意味で、または連合王国全体を指してイングランドに相当する単語が用いられることもある。しかし、いずれも正確でなく、ポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)とされる。
歴史[編集]
詳細は「イングランドの歴史」を参照
イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、ウェセックス王アルフレッドが最後にヴァイキングに打ち勝ってロンドンを奪還し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となる。一時イングランドはデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが、その後再びアングロ・サクソンの王家が復興する。しかし1066年ノルマンディー公ギヨームに征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン王朝が開かれた。ノルマン人の征服によってアングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。その後、プランタジネット王朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。そして最終的に、14〜15世紀に起こった百年戦争によってほぼ完全にフランス領土を失い、このような過程を経て現在に繫がるイングランド王国が成立し、民族としてのイングランド人が誕生した。
政治[編集]
ウェストミンスター宮殿
1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していたが、1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成した。合同法によって両国の議会は統合された。
1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。
行政区画[編集]
詳細は「イングランドの行政区画」を参照
イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権によってグレーター・ロンドン地域として復活した。
現在のイングランドは行政的に九つの「地域」[2] に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。
つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だが、保守党は反対している。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州[3]または都市州[4]であり、都市州の下級行政単位として区[5]が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州[6]以外に伝統的な州[7]も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。
主要都市[編集]
都市
州
人口
ロンドン グレーター・ロンドン 7,172,091
バーミンガム ウェスト・ミッドランズ 970,892
リヴァプール マージーサイド 469,017
リーズ ウェスト・ヨークシャー 443,247
シェフィールド サウス・ヨークシャー 439,866
ブリストル ブリストル 420,556
マンチェスター グレーター・マンチェスター 394,269
レスター レスターシャー 330,574
コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 303,475
キングストン・アポン・ハル イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー 301,416
人口は2001年国勢調査より。
地理[編集]
イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。
東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境にあたるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。
地形は変化に富み、ティーズ川とエクス川を結ぶ線で分けられる。北部と西部は全般に山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、標高 978m で最高峰のスコーフェル山はイングランドの最高峰でもある。またここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。また、平地の部分もあり、フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。
イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。
気候[編集]
イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5℃である[8]。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの -26.1℃である[9]。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、もっとも暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。-5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりがちの天気が多く、とくにペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月がもっとも多い。
経済[編集]
詳細は「:en:Economy of England」を参照
イングランド銀行
イングランドの経済はヨーロッパで2番目、世界で8番目に大きい。連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する[10]。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。
イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している[11]。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している[12]。
ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の株式市場であるロンドン証券取引所がある。
イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している[13]。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。
イングランドではポンドが法定通貨である。
国民[編集]
詳細は「イングランド人」を参照
宗教[編集]
かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。
キリスト教[編集]
カンタベリー大聖堂
キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。
16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。
イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。
近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。
その他の宗教[編集]
20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。
イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。
教育[編集]
詳細は「イギリスの教育#イングランドの教育制度」を参照
イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は 90% が公立である。
大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学をのぞいて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。
文化[編集]
詳細は「en:Culture of England」を参照
現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。
イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。
音楽[編集]
クラシック音楽[編集]
イングランドの作曲家にはウィリアム・バードやヘンリー・パーセル、エドワード・エルガーらがいる。
イングランドの演奏家にはクリフォード・カーゾン(ピアニスト)やジョン・バルビローリ(指揮者)、サイモン・ラトル(指揮者)、デニス・ブレイン(ホルン奏者)、キャスリーン・フェリアー(コントラルト歌手)らがいる。
ポピュラー音楽[編集]
1960年代にはビートルズが登場した。その後ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン等が現れた。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こる。
1970年代にはグラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのバンドが現れた。
1980年代には MTV ブームの中、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ等が登場した。
1990年代にはオアシス、ブラー、スパイス・ガールズ、プロディジー等が登場した。
文学[編集]
ウィリアム・シェイクスピア
メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』)
食文化[編集]
イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。
スポーツ[編集]
クリケット、ラグビー、ラグビーリーグ、サッカー、テニス、ゴルフ、バドミントンといった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカーとクリケットは依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツである。スヌーカーやボウルズといった競技もイングランド発祥である。
サッカー[編集]
過去サッカー発祥の地である。1863年10月26日にザ・フットボール・アソシエーション (The FA) と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する The FA は世界で唯一国名の付かない最古のサッカー協会である。
不景気やフーリガン問題で一時低迷したが、現在国内リーグのプレミアリーグは世界中から優れた選手を集め、最高峰のリーグと称される。クラブチームではマンチェスター・ユナイテッド FC、リヴァプール FC、チェルシー FC、アーセナル FC などが強豪として世界に知られている。欧州サッカー連盟の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。サッカーイングランド代表は、自国で開催された1966年の FIFA ワールドカップで優勝した。しかし、それ以来主要な国際大会(FIFA ワールドカップ、UEFA 欧州選手権)では決勝まで進めていない(1990年のワールドカップで準決勝進出、2002年と2006年ワールドカップは準々決勝に進出)。2008年の欧州選手権予選では24年ぶりに本大会に進めず終わった。
ラグビーおよびクリケット[編集]
ラグビーイングランド代表とクリケットイングランド代表は世界大会で活躍している。ラグビーでは2003年のラグビーワールドカップで優勝し、クリケットでは2005年のアッシュシリーズで優勝した。ラグビーのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。
ロンドンオリンピック[編集]
2012年夏季オリンピックは7月26日から8月12日まで首都ロンドンで開催された。ロンドンは1908年、1948年にもオリンピックを開催しており、同じ都市で3度開催されるのは史上初である。(実際には1944年に開催が予定されるも、太平洋戦争による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4回目の開催で史上最多であることには変わりはない)
イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。
目次 [非表示]
1 用語法
2 歴史
3 政治 3.1 行政区画
3.2 主要都市
4 地理 4.1 気候
5 経済
6 国民 6.1 宗教 6.1.1 キリスト教
6.1.2 その他の宗教
6.2 教育
7 文化 7.1 音楽 7.1.1 クラシック音楽
7.1.2 ポピュラー音楽
7.2 文学
7.3 食文化
7.4 スポーツ 7.4.1 サッカー
7.4.2 ラグビーおよびクリケット
7.4.3 ロンドンオリンピック
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
用語法[編集]
日本においては、「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば(通常は「連合王国」の意味で用いられる)「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがある。また、日本に限らず、文脈によってはウェールズを含めた意味で、または連合王国全体を指してイングランドに相当する単語が用いられることもある。しかし、いずれも正確でなく、ポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)とされる。
歴史[編集]
詳細は「イングランドの歴史」を参照
イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、ウェセックス王アルフレッドが最後にヴァイキングに打ち勝ってロンドンを奪還し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となる。一時イングランドはデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが、その後再びアングロ・サクソンの王家が復興する。しかし1066年ノルマンディー公ギヨームに征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン王朝が開かれた。ノルマン人の征服によってアングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。その後、プランタジネット王朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。そして最終的に、14〜15世紀に起こった百年戦争によってほぼ完全にフランス領土を失い、このような過程を経て現在に繫がるイングランド王国が成立し、民族としてのイングランド人が誕生した。
政治[編集]
ウェストミンスター宮殿
1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していたが、1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成した。合同法によって両国の議会は統合された。
1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。
行政区画[編集]
詳細は「イングランドの行政区画」を参照
イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権によってグレーター・ロンドン地域として復活した。
現在のイングランドは行政的に九つの「地域」[2] に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。
つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だが、保守党は反対している。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州[3]または都市州[4]であり、都市州の下級行政単位として区[5]が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州[6]以外に伝統的な州[7]も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。
主要都市[編集]
都市
州
人口
ロンドン グレーター・ロンドン 7,172,091
バーミンガム ウェスト・ミッドランズ 970,892
リヴァプール マージーサイド 469,017
リーズ ウェスト・ヨークシャー 443,247
シェフィールド サウス・ヨークシャー 439,866
ブリストル ブリストル 420,556
マンチェスター グレーター・マンチェスター 394,269
レスター レスターシャー 330,574
コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 303,475
キングストン・アポン・ハル イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー 301,416
人口は2001年国勢調査より。
地理[編集]
イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。
東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境にあたるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。
地形は変化に富み、ティーズ川とエクス川を結ぶ線で分けられる。北部と西部は全般に山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、標高 978m で最高峰のスコーフェル山はイングランドの最高峰でもある。またここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。また、平地の部分もあり、フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。
イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。
気候[編集]
イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5℃である[8]。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの -26.1℃である[9]。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、もっとも暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。-5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりがちの天気が多く、とくにペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月がもっとも多い。
経済[編集]
詳細は「:en:Economy of England」を参照
イングランド銀行
イングランドの経済はヨーロッパで2番目、世界で8番目に大きい。連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する[10]。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。
イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している[11]。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している[12]。
ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の株式市場であるロンドン証券取引所がある。
イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している[13]。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。
イングランドではポンドが法定通貨である。
国民[編集]
詳細は「イングランド人」を参照
宗教[編集]
かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。
キリスト教[編集]
カンタベリー大聖堂
キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。
16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。
イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。
近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。
その他の宗教[編集]
20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。
イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。
教育[編集]
詳細は「イギリスの教育#イングランドの教育制度」を参照
イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は 90% が公立である。
大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学をのぞいて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。
文化[編集]
詳細は「en:Culture of England」を参照
現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。
イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。
音楽[編集]
クラシック音楽[編集]
イングランドの作曲家にはウィリアム・バードやヘンリー・パーセル、エドワード・エルガーらがいる。
イングランドの演奏家にはクリフォード・カーゾン(ピアニスト)やジョン・バルビローリ(指揮者)、サイモン・ラトル(指揮者)、デニス・ブレイン(ホルン奏者)、キャスリーン・フェリアー(コントラルト歌手)らがいる。
ポピュラー音楽[編集]
1960年代にはビートルズが登場した。その後ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン等が現れた。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こる。
1970年代にはグラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのバンドが現れた。
1980年代には MTV ブームの中、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ等が登場した。
1990年代にはオアシス、ブラー、スパイス・ガールズ、プロディジー等が登場した。
文学[編集]
ウィリアム・シェイクスピア
メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』)
食文化[編集]
イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。
スポーツ[編集]
クリケット、ラグビー、ラグビーリーグ、サッカー、テニス、ゴルフ、バドミントンといった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカーとクリケットは依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツである。スヌーカーやボウルズといった競技もイングランド発祥である。
サッカー[編集]
過去サッカー発祥の地である。1863年10月26日にザ・フットボール・アソシエーション (The FA) と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する The FA は世界で唯一国名の付かない最古のサッカー協会である。
不景気やフーリガン問題で一時低迷したが、現在国内リーグのプレミアリーグは世界中から優れた選手を集め、最高峰のリーグと称される。クラブチームではマンチェスター・ユナイテッド FC、リヴァプール FC、チェルシー FC、アーセナル FC などが強豪として世界に知られている。欧州サッカー連盟の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。サッカーイングランド代表は、自国で開催された1966年の FIFA ワールドカップで優勝した。しかし、それ以来主要な国際大会(FIFA ワールドカップ、UEFA 欧州選手権)では決勝まで進めていない(1990年のワールドカップで準決勝進出、2002年と2006年ワールドカップは準々決勝に進出)。2008年の欧州選手権予選では24年ぶりに本大会に進めず終わった。
ラグビーおよびクリケット[編集]
ラグビーイングランド代表とクリケットイングランド代表は世界大会で活躍している。ラグビーでは2003年のラグビーワールドカップで優勝し、クリケットでは2005年のアッシュシリーズで優勝した。ラグビーのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。
ロンドンオリンピック[編集]
2012年夏季オリンピックは7月26日から8月12日まで首都ロンドンで開催された。ロンドンは1908年、1948年にもオリンピックを開催しており、同じ都市で3度開催されるのは史上初である。(実際には1944年に開催が予定されるも、太平洋戦争による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4回目の開催で史上最多であることには変わりはない)
ハンプティ・ダンプティ
ハンプティ・ダンプティ(英: Humpty Dumpty)は、英語の童謡(マザーグース)のひとつであり、またその童謡に登場するキャラクターの名前である。童謡のなかではっきり明示されているわけではないが、このキャラクターは一般に擬人化された卵の姿で親しまれており、英語圏では童謡自体とともに非常にポピュラーな存在である。この童謡のもっとも早い文献での登場は18世紀後半のイングランドで出版されたもので、メロディは1870年、ジェイムズ・ウィリアム・エリオット(英語版)がその著書『わが国の童謡と童歌』において記録したものが広く用いられている。童謡の起源については諸説あり、はっきりとはわかっていない。
もともとはなぞなぞ歌であったと考えられるこの童謡とキャラクターは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』(1872年)をはじめとして、様々な文学作品や映画、演劇、音楽作品などにおいて引用や言及の対象とされてきた。アメリカ合衆国においては、俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)がパントマイム劇の題材に用いたことをきっかけに広く知られるようになった。現代においても児童向けの題材として頻繁に用いられるばかりでなく、「ハンプティ・ダンプティ」はしばしば危うい状況や、ずんぐりむっくりの人物を指す言葉としても用いられている。
目次 [非表示]
1 詞とメロディ 1.1 古形
2 起源をめぐる説
3 引用・言及 3.1 『鏡の国のアリス』
3.2 その他の創作作品
4 比喩として
5 出典
6 外部リンク
詞とメロディ[編集]
W.W.デンスロウのマザーグース物語集(1902年)の1ページ。ここではなぞなぞ歌として、「卵」という答えとともに童謡の詞が記載されている。
現代においては一般に以下の形の詞が知られている。
Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.[1]
ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
王様の馬と家来の全部がかかっても
ハンプティを元に戻せなかった
AABBの脚韻のパターンをもつ一組の四行連の詩であり、韻律は童謡においてよくつかわれるトロキーである[2][3]。詞はもともとは「卵」をその答えとするなぞなぞ歌として作られたものと考えられるが、その答えが広く知れ渡っているため、現在ではなぞなぞとして用いられることはほとんどない[4]。メロディーは一般に、作曲家であり童謡収集家だったジェイムズ・ウィリアム・エリオット(英語版)が、その著書『わが国の童謡と童歌』 (ロンドン、1870年)において記したものが使われている[5]。童謡とそのヴァリエーションを番号をつけて編纂しているラウド・フォークソング・インデックス(英語版)においては13026番に記録されている[6]。
『オックスフォード英語辞典』によれば、「ハンプティ・ダンプティ」(Humpty Dumpty)という言葉は、17世紀においてはブランデーをエールと一緒に煮た飲み物の名称として用いられていた[1]。さらに18世紀になると「ずんぐりむっくり」を意味するスラングとしての用法も現われている。ここから「ハンプティ・ダンプティ」の語は、おそらく上述のなぞなぞにおける一種のミスディレクションとしてこの童謡に採用されたものと考えられる。この想定の上に立てばこのなぞなぞは、「ハンプティ・ダンプティ」がもし「ずんぐりむっくりの人間」のことであるならば、塀から落ちたとしても大きな怪我を負うはずはないだろう、という想定を根拠として成り立っているということになる[7]。
またhumpには「こぶ」という意味があるほかにこれだけで「ずんぐりむっくり」を表すことがあり、dumpには「どしんと落ちる」という意味もあるため、Humpty Dumptyという名前の中にすでに「ずんぐりしたものがどしんと落ちる」という出来事が暗示されていると考えることもできる(後述の『鏡の国のアリス』には、ハンプティ・ダンプティが「僕の名前は僕の形をそのまま表している」と述べる場面がある)[8]。このほか、HumptyはHumphreyという名前に通じる一方、DumptyはHumphreyの愛称であるDumphyやDumpに似ているという指摘もある[8]。
「ハンプティ・ダンプティ」と同様のなぞなぞ歌は、民俗学者によって英語以外の言語においても記録されている。フランス語の "Boule Boule"(ブール・ブール)、スウェーデン語・ノルウェー語の "Lille Trille"(リル・トリル)、ドイツ語圏の "Runtzelken-Puntzelken"(ルンツェルケン・プンツェルケン)または "Humpelken-Pumpelken"(フンペルケン・プンペルケン)といったものであるが、いずれも英語圏におけるハンプティ・ダンプティほどに広く知られているものではない[1]。
古形[編集]
『マザーグースの童謡集』(1877年)より、ウォルター・クレインが描いたハンプティ・ダンプティのイラスト。この例のように人間の姿で描かれることもある。
この童謡が記録されている最古の文献は、作曲家サミュエル・アーノルド(英語版)による1797年の著書『少年少女の娯楽』である。この文献においては、童謡は以下のような形の詞になっている。
Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
Four-score Men and Four-score more,
Could not make Humpty Dumpty where he was before.[1]
ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
八十人の男にさらに八十人が加わっても
ハンプティ・ダンプティをもといたところに戻せなかった
1803年に出版された『マザー・グースのメロディ』の原稿には、より遅い時代に現われた、次のような別の最終行のヴァージョンが書き留められている。"Could not set Humpty Dumpty up again"(ハンプティ・ダンプティをまた立たせることはできなかった[1])。『ガートンおばさんの花輪(詩文集)』の1810年の版では以下のような詞になっている。
Humpty Dumpty sate〔ママ〕 on a wall,
Humpti Dumpti〔ママ〕 had a great fall;
Threescore men and threescore more,
Cannot place Humpty dumpty as he was before.[9]
ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
六十人の男にさらに六十人が加わっても
ハンプティ・ダンプティをもとのところに戻せなかった
ジェイムズ・オーチャード・ハリウェル(英語版)が1842年に出版した童謡集では以下の形のものが収録されている。
Humpty Dumpty lay in a beck.
With all his sinews around his neck;
Forty Doctors and forty wrights
Couldn't put Humpty Dumpty to rights![10]
ハンプティ・ダンプティが小川に寝た
自分のすべての筋を首の周りに集めて
すると四十人の医者と四十人の職人にも
ハンプティ・ダンプティを立たせられなかった
起源をめぐる説[編集]
ハンプティ・ダンプティはリチャード三世を指しているという説もある
前述のようにもともとなぞなぞ歌のひとつとして作られた歌と考えられるが、この童謡が特定の歴史的な事件を指し示す歌であったとする説も多く存在する。よく知られているものの一つは、キャサリン・エルウェス・トーマスが1930年に提唱したもので[11]、「ハンプティ・ダンプティ」がヨーク朝最後の王リチャード三世を指しているという説である。リチャード三世はせむし(humpback) であった言われており、彼は薔薇戦争の最後のボズワースの戦いにおいて、その軍勢にも関わらずリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)に敗れて戦死している。ただし、せむしを示す言葉である「humpback」という英語は18世紀以前には記録されておらず、また童謡とリチャード三世を結びつける直接的な史料も見つかっていない[12]。
ほかにも、ハンプティ・ダンプティは「トータイズ」(tortoise)という、イングランド内戦時に使われた攻城兵器を指しているという説もある。骨組みに装甲を施したこの兵器は、1643年のグロスターの戦いにおいてグロスター市の城壁を攻略するのに用いられたが、この作戦は失敗に終わっている。この説は1956年2月16日の『オックスフォード・マガジン』においてデイヴィッド・ドーブ(英語版)が提示したもので、この戦いについての同時代の記述に基づいて立てられており、発表当時は学会から喝采を浴びたが[13]、在野からは「発明それ自体のためになされた発明」("ingenuity for ingenuity's sake") でありでっちあげだとして批判を受けた[14][15]。この説についても、やはり童謡との直接的なつながりを示すような史料は見つかっていないが[16]、この説はリチャード・ロドニー・ベネットによる子供向けのオペラ『オール・ザ・キングスメン』(1969年初演)で採用されたため一般にも広く知られることとなった[17][18]。
コルチェスターの観光局のウェブサイトでは、1996年以降、「ハンプティ・ダンプティ」の起源が1648年のコルチェスターの戦いにあるという解説を掲載している[19]。この解説によれば、当時城壁に囲まれた街であったコルチェスターの聖マリア教会(St Mary-at-the-Wall)の壁の上には、王党派の防護兵によって巨大な大砲が一つ据えられており、この大砲が周囲から「ハンプティ・ダンプティ」という愛称で呼ばれていた。しかし議会派からの砲撃によってこの壁が崩れると「ハンプティ・ダンプティ」は壁の上から転げ落ちてしまい、その巨大さのため何人かかっても再び起こして設置しなおすことができなかったのだという(「ハンプティ・ダンプティをもとにもどせなかった」)。
2008年に出版された『イタチがとびだした ―童謡に隠された意味』において著者のアルバート・ジャック(英語版)は、このコルチェスターの説を裏付ける二つの詩を「ある古い書物」から発見したと報告した[20]。しかし彼が紹介した詩の韻律は、いずれも17世紀のものでもなければこれまでに存在が確認されているいかなる韻律とも合致せず、またその内容も「王様の馬と家来」に言及していない、古いヴァージョンの「ハンプティ・ダンプティ」には合致しないことが指摘されている[19]。
引用・言及[編集]
『鏡の国のアリス』[編集]
「鏡の国のアリス」および「鏡の国のアリスのキャラクター」も参照
『鏡の国のアリス』より、ジョン・テニエルが描いたハンプティ・ダンプティ
ハンプティ・ダンプティは、ルイス・キャロルの児童小説『鏡の国のアリス』(1872年)に登場するキャラクターの一人としてもよく知られている。この作品では、鏡の国に迷い込んでしまった少女アリスに対し、塀の上に座ったハンプティ・ダンプティは尊大な態度で言葉というものについて様々な解説を行う[21]。
「「名誉」という言葉をあなたがどういう意味で使っているのか、よくわからないわ」アリスが言いました。
するとハンプティ・ダンプティは馬鹿にしたような笑いを顔に浮かべました。「もちろんわからないだろうさ、僕が説明しないかぎりね。僕は「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」という意味で「名誉だ」と言ったんだよ!」
「でも、「名誉」という言葉に「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」なんて意味はないわ」アリスは抗議しました。
「僕が言葉を使うときはね」とハンプティ・ダンプティはあざけるように言いました「その言葉は、僕がその言葉のために選んだ意味を持つようになるんだよ。僕が選んだものとぴったり、同じ意味にね」
「問題は」とアリスは言いました「あなたがそんなふうに、言葉たちにいろんなものをたくさんつめこむことができるのかということだわ」
「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」
アリスが困ってしまって何も言えなくなると、少ししてハンプティ・ダンプティが続けました「言葉っていうのはね、それぞれに気性があるものなんだ。あいつらのいくらかは、とりわけ動詞はだが、とても高慢ちきだ。形容詞だったら君にでもどうにかなるかもしれないが、動詞は無理だね。でも僕なら大丈夫、なんでもござれさ!」[22]
以上のくだりは、イギリス貴族院が法令文書の意味を捻じ曲げたことの是非をめぐってなされたLiversidge v. Anderson [1942]の判決において裁判官ロード・アトキンによって引用された部分である[23]。その後の行政の自由裁量をめぐる議論において大きな影響力を持ったイギリスのこの判決のほか、上記の場面はアメリカ合衆国でも裁判の法廷意見においてしばしば引用されており、ウエストローのデータベースによれば2008年4月19日の時点までに、2件の最高裁における事例を含む250件の判決で同様の引用が記録されている[24]。
またA. J. Larnerは、以下の場面をもとにキャロルのハンプティ・ダンプティを相貌失認と結びつけて論じている。
「顔っていうのは、それで一人一人の見分けができるものよ、ふつう」アリスは考え深く意見しました。
「そこがまさに僕が不満を言いたいところなんだよ」ハンプティ・ダンプティは言いました「君の顔は他の人たちの顔といっしょじゃないか、こう目が二つあって(親指で空中に目の場所を示しながら)、それで真ん中に鼻だろ、口はその下だ。いつもおんなじ。たとえば片側にだけ目が二つあるとかさ、口がてっぺんにあるとか、そんなふうにしてくれたら見分けるのに少しは助けになるんだけど。」[25]
その他の創作作品[編集]
アメリカ合衆国の漫画雑誌『パンチ&ジュディコミックス』に掲載されたハンプティ・ダンプティの漫画(作者不詳、1944年)
ハンプティ・ダンプティは英語圏においては非常にポピュラーな存在であり、『鏡の国のアリス』のほかにも多くの文学作品でキャラクターとして登場したり、詩の引用が行われたりしている。例えばライマン・フランク・ボームの『散文のマザーグース』(1901年)においては、「ハンプティ・ダンプティ」のなぞなぞ歌は実際にハンプティ・ダンプティの「死」を目撃したお姫様によって作り出される[26]。ニール・ゲイマンの初期の短編作品「二十四羽の黒つぐみ事件」では、ハンプティ・ダンプティの物語はフィルム・ノワール風のハードボイルド作品に脚色されている(この作品ではまたクック・ロビンやハートの女王など、マザー・グースでおなじみのキャラクターが多数登場する)[27] 。ロバート・ランキン(英語版)の『黙示録のホローチョコレート・バニー』(2002年)においては、ハンプティ・ダンプティはお伽噺のキャラクターを狙った連続殺人事件における被害者の一人である[28]。ジャスパー・フォードは『だれがゴドーを殺したの?』(2003年)と『ビッグ・オーバーイージー』(2005年)の二作でハンプティ・ダンプティを登場させており、前者では暴動の首謀者として、後者では殺人事件の被害者としてハンプティ・ダンプティを描いている[29][30]。キャラクターが登場するものではないが、いわゆる見立て殺人の題材に使われた例としてはヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)があり、ここでは登場人物の一人が童謡になぞらえられて塀の上から突き落とされることによって殺されている[31]。
ハンプティ・ダンプティの童謡はより「真面目な」文学作品でも言及されている。例えばジェイムズ・ジョイスの最後の小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)においては、ハンプティ・ダンプティは「落ちる男」のモチーフを表現するものとして繰り返し言及される[32]。ロバート・ペン・ウォーレンの『オール・ザ・キングスメン』(1946年)は、大衆主義的な地方政治家が州知事となり、やがて汚職に手を染め堕落していく様を描いた小説で、表題は「もう元にもどらない」状況を表すものとして童謡から引用されている。ルイジアナ州の上院議員ヒューイ・ロングをモデルにして書かれており、ウォーレンはこの作品で翌年のピュリッツァー賞を受賞した。またこの小説を原作とする映画は1949年にアカデミー賞最優秀作品賞を受賞している[33]。2009年にはショーン・ペン主演でリメイク映画も制作された。同様の発想はボブ・ウッドフォード(英語版)によるウォーターゲート事件を扱った著作『オール・ザ・プレジデントメン』でも繰り返されており、この作品もロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの主演で1976年に映画化されている[34]。このほかポール・オースターの処女小説『シティ・オブ・ザ・グラス』(1985年)では、ハンプティ・ダンプティは登場人物間の議論において「人間の状況のもっとも純粋な体現者」として、『鏡の国のアリス』からの長大な引用とともに言及されている[35]。
ハンプティ・ダンプティは19世紀中、アメリカ合衆国の俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)の舞台において、パントマイム劇や音楽の題材にされ、ここからアメリカ合衆国でも広く知られることとなったが、ハンプティ・ダンプティは現代のポピュラー音楽においてもしばしばモチーフとして用いられている。たとえばハンク・トンプソンの『ハンプティ・ダンプティ・ハート』(1948年)[36]、モンキーズの『すべての王の馬』(1966年)とアレサ・フランクリンの 『オール・ザ・キングス・ホーシズ』(1972年)(ともに原題は同じ"All the King's Horses")[37]、トラヴィスの『ハンプティ・ダンプティ・ラヴ・ソング』(2001年)[38]などである。ジャズ音楽においてはオーネット・コールマンとチック・コリアが、同じ「ハンプティ・ダンプティ」の題名でそれぞれ異なる楽曲をつくっている(ただしコリアの作品はルイス・キャロルから着想を得た1978年のコンセプトアルバム『マッド・ハッター』(1978年)のうちの一曲として作られたものである)[39][40]。
比喩として[編集]
前述のように「ハンプティ・ダンプティ」は17世紀のイギリスにおいて「ずんぐりむっくり」を指す言葉として使われていたものであったが、英語圏では現在でも童謡のキャラクターのイメージから、「ずんぐりむっくり」や頭が禿げていてつるつるしている人を言い表す言葉として用いられているほか[41]、童謡の内容から「非常に危なっかしい状態」あるいは「一度壊れると容易には元に戻らないもの」を指し示すための比喩としてもしばしば用いられている[42]。
またハンプティ・ダンプティは、英語圏においては熱力学第二法則を説明する際の比喩として用いられることがある。この法則は熱量の移動の不可逆性を記述しており、エントロピーの概念と密接に関連する法則として知られているものである。この比喩に従えば、ハンプティ・ダンプティがはじめに塀の上に無事に座っている状態が「エントロピーが低い」状態、つまり乱雑さの少ない状態であり、彼が落下して自分の破片を撒き散らしてしまった状態が「エントロピーが高い」状態、すなわち乱雑さの高い状態であるということになる。そして潰れてしまったハンプティ・ダンプティを元の状態に戻すことは(完全に不可能ではないにしても)困難であり、これは孤立した系においてはエントロピーが決して低い状態に移行しないということを示している[43][44][45]。
もともとはなぞなぞ歌であったと考えられるこの童謡とキャラクターは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』(1872年)をはじめとして、様々な文学作品や映画、演劇、音楽作品などにおいて引用や言及の対象とされてきた。アメリカ合衆国においては、俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)がパントマイム劇の題材に用いたことをきっかけに広く知られるようになった。現代においても児童向けの題材として頻繁に用いられるばかりでなく、「ハンプティ・ダンプティ」はしばしば危うい状況や、ずんぐりむっくりの人物を指す言葉としても用いられている。
目次 [非表示]
1 詞とメロディ 1.1 古形
2 起源をめぐる説
3 引用・言及 3.1 『鏡の国のアリス』
3.2 その他の創作作品
4 比喩として
5 出典
6 外部リンク
詞とメロディ[編集]
W.W.デンスロウのマザーグース物語集(1902年)の1ページ。ここではなぞなぞ歌として、「卵」という答えとともに童謡の詞が記載されている。
現代においては一般に以下の形の詞が知られている。
Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.[1]
ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
王様の馬と家来の全部がかかっても
ハンプティを元に戻せなかった
AABBの脚韻のパターンをもつ一組の四行連の詩であり、韻律は童謡においてよくつかわれるトロキーである[2][3]。詞はもともとは「卵」をその答えとするなぞなぞ歌として作られたものと考えられるが、その答えが広く知れ渡っているため、現在ではなぞなぞとして用いられることはほとんどない[4]。メロディーは一般に、作曲家であり童謡収集家だったジェイムズ・ウィリアム・エリオット(英語版)が、その著書『わが国の童謡と童歌』 (ロンドン、1870年)において記したものが使われている[5]。童謡とそのヴァリエーションを番号をつけて編纂しているラウド・フォークソング・インデックス(英語版)においては13026番に記録されている[6]。
『オックスフォード英語辞典』によれば、「ハンプティ・ダンプティ」(Humpty Dumpty)という言葉は、17世紀においてはブランデーをエールと一緒に煮た飲み物の名称として用いられていた[1]。さらに18世紀になると「ずんぐりむっくり」を意味するスラングとしての用法も現われている。ここから「ハンプティ・ダンプティ」の語は、おそらく上述のなぞなぞにおける一種のミスディレクションとしてこの童謡に採用されたものと考えられる。この想定の上に立てばこのなぞなぞは、「ハンプティ・ダンプティ」がもし「ずんぐりむっくりの人間」のことであるならば、塀から落ちたとしても大きな怪我を負うはずはないだろう、という想定を根拠として成り立っているということになる[7]。
またhumpには「こぶ」という意味があるほかにこれだけで「ずんぐりむっくり」を表すことがあり、dumpには「どしんと落ちる」という意味もあるため、Humpty Dumptyという名前の中にすでに「ずんぐりしたものがどしんと落ちる」という出来事が暗示されていると考えることもできる(後述の『鏡の国のアリス』には、ハンプティ・ダンプティが「僕の名前は僕の形をそのまま表している」と述べる場面がある)[8]。このほか、HumptyはHumphreyという名前に通じる一方、DumptyはHumphreyの愛称であるDumphyやDumpに似ているという指摘もある[8]。
「ハンプティ・ダンプティ」と同様のなぞなぞ歌は、民俗学者によって英語以外の言語においても記録されている。フランス語の "Boule Boule"(ブール・ブール)、スウェーデン語・ノルウェー語の "Lille Trille"(リル・トリル)、ドイツ語圏の "Runtzelken-Puntzelken"(ルンツェルケン・プンツェルケン)または "Humpelken-Pumpelken"(フンペルケン・プンペルケン)といったものであるが、いずれも英語圏におけるハンプティ・ダンプティほどに広く知られているものではない[1]。
古形[編集]
『マザーグースの童謡集』(1877年)より、ウォルター・クレインが描いたハンプティ・ダンプティのイラスト。この例のように人間の姿で描かれることもある。
この童謡が記録されている最古の文献は、作曲家サミュエル・アーノルド(英語版)による1797年の著書『少年少女の娯楽』である。この文献においては、童謡は以下のような形の詞になっている。
Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
Four-score Men and Four-score more,
Could not make Humpty Dumpty where he was before.[1]
ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
八十人の男にさらに八十人が加わっても
ハンプティ・ダンプティをもといたところに戻せなかった
1803年に出版された『マザー・グースのメロディ』の原稿には、より遅い時代に現われた、次のような別の最終行のヴァージョンが書き留められている。"Could not set Humpty Dumpty up again"(ハンプティ・ダンプティをまた立たせることはできなかった[1])。『ガートンおばさんの花輪(詩文集)』の1810年の版では以下のような詞になっている。
Humpty Dumpty sate〔ママ〕 on a wall,
Humpti Dumpti〔ママ〕 had a great fall;
Threescore men and threescore more,
Cannot place Humpty dumpty as he was before.[9]
ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
六十人の男にさらに六十人が加わっても
ハンプティ・ダンプティをもとのところに戻せなかった
ジェイムズ・オーチャード・ハリウェル(英語版)が1842年に出版した童謡集では以下の形のものが収録されている。
Humpty Dumpty lay in a beck.
With all his sinews around his neck;
Forty Doctors and forty wrights
Couldn't put Humpty Dumpty to rights![10]
ハンプティ・ダンプティが小川に寝た
自分のすべての筋を首の周りに集めて
すると四十人の医者と四十人の職人にも
ハンプティ・ダンプティを立たせられなかった
起源をめぐる説[編集]
ハンプティ・ダンプティはリチャード三世を指しているという説もある
前述のようにもともとなぞなぞ歌のひとつとして作られた歌と考えられるが、この童謡が特定の歴史的な事件を指し示す歌であったとする説も多く存在する。よく知られているものの一つは、キャサリン・エルウェス・トーマスが1930年に提唱したもので[11]、「ハンプティ・ダンプティ」がヨーク朝最後の王リチャード三世を指しているという説である。リチャード三世はせむし(humpback) であった言われており、彼は薔薇戦争の最後のボズワースの戦いにおいて、その軍勢にも関わらずリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)に敗れて戦死している。ただし、せむしを示す言葉である「humpback」という英語は18世紀以前には記録されておらず、また童謡とリチャード三世を結びつける直接的な史料も見つかっていない[12]。
ほかにも、ハンプティ・ダンプティは「トータイズ」(tortoise)という、イングランド内戦時に使われた攻城兵器を指しているという説もある。骨組みに装甲を施したこの兵器は、1643年のグロスターの戦いにおいてグロスター市の城壁を攻略するのに用いられたが、この作戦は失敗に終わっている。この説は1956年2月16日の『オックスフォード・マガジン』においてデイヴィッド・ドーブ(英語版)が提示したもので、この戦いについての同時代の記述に基づいて立てられており、発表当時は学会から喝采を浴びたが[13]、在野からは「発明それ自体のためになされた発明」("ingenuity for ingenuity's sake") でありでっちあげだとして批判を受けた[14][15]。この説についても、やはり童謡との直接的なつながりを示すような史料は見つかっていないが[16]、この説はリチャード・ロドニー・ベネットによる子供向けのオペラ『オール・ザ・キングスメン』(1969年初演)で採用されたため一般にも広く知られることとなった[17][18]。
コルチェスターの観光局のウェブサイトでは、1996年以降、「ハンプティ・ダンプティ」の起源が1648年のコルチェスターの戦いにあるという解説を掲載している[19]。この解説によれば、当時城壁に囲まれた街であったコルチェスターの聖マリア教会(St Mary-at-the-Wall)の壁の上には、王党派の防護兵によって巨大な大砲が一つ据えられており、この大砲が周囲から「ハンプティ・ダンプティ」という愛称で呼ばれていた。しかし議会派からの砲撃によってこの壁が崩れると「ハンプティ・ダンプティ」は壁の上から転げ落ちてしまい、その巨大さのため何人かかっても再び起こして設置しなおすことができなかったのだという(「ハンプティ・ダンプティをもとにもどせなかった」)。
2008年に出版された『イタチがとびだした ―童謡に隠された意味』において著者のアルバート・ジャック(英語版)は、このコルチェスターの説を裏付ける二つの詩を「ある古い書物」から発見したと報告した[20]。しかし彼が紹介した詩の韻律は、いずれも17世紀のものでもなければこれまでに存在が確認されているいかなる韻律とも合致せず、またその内容も「王様の馬と家来」に言及していない、古いヴァージョンの「ハンプティ・ダンプティ」には合致しないことが指摘されている[19]。
引用・言及[編集]
『鏡の国のアリス』[編集]
「鏡の国のアリス」および「鏡の国のアリスのキャラクター」も参照
『鏡の国のアリス』より、ジョン・テニエルが描いたハンプティ・ダンプティ
ハンプティ・ダンプティは、ルイス・キャロルの児童小説『鏡の国のアリス』(1872年)に登場するキャラクターの一人としてもよく知られている。この作品では、鏡の国に迷い込んでしまった少女アリスに対し、塀の上に座ったハンプティ・ダンプティは尊大な態度で言葉というものについて様々な解説を行う[21]。
「「名誉」という言葉をあなたがどういう意味で使っているのか、よくわからないわ」アリスが言いました。
するとハンプティ・ダンプティは馬鹿にしたような笑いを顔に浮かべました。「もちろんわからないだろうさ、僕が説明しないかぎりね。僕は「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」という意味で「名誉だ」と言ったんだよ!」
「でも、「名誉」という言葉に「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」なんて意味はないわ」アリスは抗議しました。
「僕が言葉を使うときはね」とハンプティ・ダンプティはあざけるように言いました「その言葉は、僕がその言葉のために選んだ意味を持つようになるんだよ。僕が選んだものとぴったり、同じ意味にね」
「問題は」とアリスは言いました「あなたがそんなふうに、言葉たちにいろんなものをたくさんつめこむことができるのかということだわ」
「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」
アリスが困ってしまって何も言えなくなると、少ししてハンプティ・ダンプティが続けました「言葉っていうのはね、それぞれに気性があるものなんだ。あいつらのいくらかは、とりわけ動詞はだが、とても高慢ちきだ。形容詞だったら君にでもどうにかなるかもしれないが、動詞は無理だね。でも僕なら大丈夫、なんでもござれさ!」[22]
以上のくだりは、イギリス貴族院が法令文書の意味を捻じ曲げたことの是非をめぐってなされたLiversidge v. Anderson [1942]の判決において裁判官ロード・アトキンによって引用された部分である[23]。その後の行政の自由裁量をめぐる議論において大きな影響力を持ったイギリスのこの判決のほか、上記の場面はアメリカ合衆国でも裁判の法廷意見においてしばしば引用されており、ウエストローのデータベースによれば2008年4月19日の時点までに、2件の最高裁における事例を含む250件の判決で同様の引用が記録されている[24]。
またA. J. Larnerは、以下の場面をもとにキャロルのハンプティ・ダンプティを相貌失認と結びつけて論じている。
「顔っていうのは、それで一人一人の見分けができるものよ、ふつう」アリスは考え深く意見しました。
「そこがまさに僕が不満を言いたいところなんだよ」ハンプティ・ダンプティは言いました「君の顔は他の人たちの顔といっしょじゃないか、こう目が二つあって(親指で空中に目の場所を示しながら)、それで真ん中に鼻だろ、口はその下だ。いつもおんなじ。たとえば片側にだけ目が二つあるとかさ、口がてっぺんにあるとか、そんなふうにしてくれたら見分けるのに少しは助けになるんだけど。」[25]
その他の創作作品[編集]
アメリカ合衆国の漫画雑誌『パンチ&ジュディコミックス』に掲載されたハンプティ・ダンプティの漫画(作者不詳、1944年)
ハンプティ・ダンプティは英語圏においては非常にポピュラーな存在であり、『鏡の国のアリス』のほかにも多くの文学作品でキャラクターとして登場したり、詩の引用が行われたりしている。例えばライマン・フランク・ボームの『散文のマザーグース』(1901年)においては、「ハンプティ・ダンプティ」のなぞなぞ歌は実際にハンプティ・ダンプティの「死」を目撃したお姫様によって作り出される[26]。ニール・ゲイマンの初期の短編作品「二十四羽の黒つぐみ事件」では、ハンプティ・ダンプティの物語はフィルム・ノワール風のハードボイルド作品に脚色されている(この作品ではまたクック・ロビンやハートの女王など、マザー・グースでおなじみのキャラクターが多数登場する)[27] 。ロバート・ランキン(英語版)の『黙示録のホローチョコレート・バニー』(2002年)においては、ハンプティ・ダンプティはお伽噺のキャラクターを狙った連続殺人事件における被害者の一人である[28]。ジャスパー・フォードは『だれがゴドーを殺したの?』(2003年)と『ビッグ・オーバーイージー』(2005年)の二作でハンプティ・ダンプティを登場させており、前者では暴動の首謀者として、後者では殺人事件の被害者としてハンプティ・ダンプティを描いている[29][30]。キャラクターが登場するものではないが、いわゆる見立て殺人の題材に使われた例としてはヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)があり、ここでは登場人物の一人が童謡になぞらえられて塀の上から突き落とされることによって殺されている[31]。
ハンプティ・ダンプティの童謡はより「真面目な」文学作品でも言及されている。例えばジェイムズ・ジョイスの最後の小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)においては、ハンプティ・ダンプティは「落ちる男」のモチーフを表現するものとして繰り返し言及される[32]。ロバート・ペン・ウォーレンの『オール・ザ・キングスメン』(1946年)は、大衆主義的な地方政治家が州知事となり、やがて汚職に手を染め堕落していく様を描いた小説で、表題は「もう元にもどらない」状況を表すものとして童謡から引用されている。ルイジアナ州の上院議員ヒューイ・ロングをモデルにして書かれており、ウォーレンはこの作品で翌年のピュリッツァー賞を受賞した。またこの小説を原作とする映画は1949年にアカデミー賞最優秀作品賞を受賞している[33]。2009年にはショーン・ペン主演でリメイク映画も制作された。同様の発想はボブ・ウッドフォード(英語版)によるウォーターゲート事件を扱った著作『オール・ザ・プレジデントメン』でも繰り返されており、この作品もロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの主演で1976年に映画化されている[34]。このほかポール・オースターの処女小説『シティ・オブ・ザ・グラス』(1985年)では、ハンプティ・ダンプティは登場人物間の議論において「人間の状況のもっとも純粋な体現者」として、『鏡の国のアリス』からの長大な引用とともに言及されている[35]。
ハンプティ・ダンプティは19世紀中、アメリカ合衆国の俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)の舞台において、パントマイム劇や音楽の題材にされ、ここからアメリカ合衆国でも広く知られることとなったが、ハンプティ・ダンプティは現代のポピュラー音楽においてもしばしばモチーフとして用いられている。たとえばハンク・トンプソンの『ハンプティ・ダンプティ・ハート』(1948年)[36]、モンキーズの『すべての王の馬』(1966年)とアレサ・フランクリンの 『オール・ザ・キングス・ホーシズ』(1972年)(ともに原題は同じ"All the King's Horses")[37]、トラヴィスの『ハンプティ・ダンプティ・ラヴ・ソング』(2001年)[38]などである。ジャズ音楽においてはオーネット・コールマンとチック・コリアが、同じ「ハンプティ・ダンプティ」の題名でそれぞれ異なる楽曲をつくっている(ただしコリアの作品はルイス・キャロルから着想を得た1978年のコンセプトアルバム『マッド・ハッター』(1978年)のうちの一曲として作られたものである)[39][40]。
比喩として[編集]
前述のように「ハンプティ・ダンプティ」は17世紀のイギリスにおいて「ずんぐりむっくり」を指す言葉として使われていたものであったが、英語圏では現在でも童謡のキャラクターのイメージから、「ずんぐりむっくり」や頭が禿げていてつるつるしている人を言い表す言葉として用いられているほか[41]、童謡の内容から「非常に危なっかしい状態」あるいは「一度壊れると容易には元に戻らないもの」を指し示すための比喩としてもしばしば用いられている[42]。
またハンプティ・ダンプティは、英語圏においては熱力学第二法則を説明する際の比喩として用いられることがある。この法則は熱量の移動の不可逆性を記述しており、エントロピーの概念と密接に関連する法則として知られているものである。この比喩に従えば、ハンプティ・ダンプティがはじめに塀の上に無事に座っている状態が「エントロピーが低い」状態、つまり乱雑さの少ない状態であり、彼が落下して自分の破片を撒き散らしてしまった状態が「エントロピーが高い」状態、すなわち乱雑さの高い状態であるということになる。そして潰れてしまったハンプティ・ダンプティを元の状態に戻すことは(完全に不可能ではないにしても)困難であり、これは孤立した系においてはエントロピーが決して低い状態に移行しないということを示している[43][44][45]。
2014年02月06日
うにゃああ。。。。
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大寒
大寒(だいかん)は、二十四節気の第24。十二月中(通常旧暦12月内)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のときで1月20日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/12年(約30.44日)後で1月20日ごろである。
期間としての意味もあり、1月20日〜2月3日まで、すなわちこの日から、次の節気の立春前日までである。
西洋占星術では、大寒を宝瓶宮(みずがめ座)の始まりとする。
季節
寒さが最も厳しくなるころ。『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。実際は1月26日あたりから2月4日あたりまでが最も寒い
0
寒(小寒 - 立春前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。武道ではこのころ寒稽古が行われる。
大寒の朝の水は1年間腐らないとされており容器などにいれ納戸に保管する家庭が多い。
日付[編集]
年 日時 (UT) 日本 中国
2002年 1月20日06:02 1月20日 1月20日
2003年 1月20日11:52 1月20日 1月20日
2004年 1月20日17:42 1月21日 1月21日
2005年 1月19日23:21 1月20日 1月20日
2006年 1月20日05:15 1月20日 1月20日
2007年 1月20日11:00 1月20日 1月20日
2008年 1月20日16:43 1月21日 1月21日
2009年 1月19日22:40 1月20日 1月20日
2010年 1月20日04:27 1月20日 1月20日
2011年 1月20日10:18 1月20日 1月20日
2012年 1月20日16:10 1月21日 1月21日
2013年 1月19日21:51 1月20日 1月20日
2014年 1月20日03:51 1月20日 1月20日
2015年 1月20日09:43 1月20日 1月20日
大寒の瞬間の日時 (UT) と、日本・中国での日付は表のとおり。
年
年を4で割った余り
1 2 3 0
1801年 - 1812年 20日 21日 21日 21日
1813年 - 1844年 20日 20日 21日 21日
1845年 - 1880年 20日 20日 20日 21日
1881年 - 1900年 20日 20日 20日 20日
1901年 - 1916年 21日 21日 21日 21日
1917年 - 1948年 20日 21日 21日 21日
1949年 - 1984年 20日 20日 21日 21日
1985年 - 2016年 20日 20日 20日 21日
2017年 - 2052年 20日 20日 20日 20日
2053年 - 2088年 19日 20日 20日 20日
2089年 - 2100年 19日 19日 20日 20日
2101年 - 2120年 20日 20日 21日 21日
2121年 - 2156年 20日 20日 20日 21日
2157年 - 2192年 20日 20日 20日 20日
2193年 - 2200年 19日 20日 20日 20日
グレゴリオ暦による19世紀から22世紀までの日本の大寒は表のとおり。 今年2014年の大寒は1月20日。
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子が分かる(大寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。
1801年から2016年までは1月20日、1月21日のいずれか。2017年からしばらく1月20日が続く。2053年からは1月19日が現れる。
七十二候[編集]
大寒の期間の七十二候は以下の通り。
初候款冬華(ふきのはな さく) : 蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す(日本)
鶏始乳(にわとり はじめて にゅうす) : 鶏が卵を産み始める(中国)
次候水沢腹堅(さわみず こおりつめる) : 沢に氷が厚く張りつめる(日本)
鷙鳥試セ(しちょう れいしつす) : 鷲・鷹などが空高く速く飛び始める(中国)
獅ヘ{勵-力}末候鶏始乳(にわとり はじめて とやにつく) : 鶏が卵を産み始める(日本)
水沢腹堅(すいたく あつく かたし) : 沢に氷が厚く張りつめる(中国)
前後の節気
小寒 → 大寒 → 立春
Wikipediaより転載
現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のときで1月20日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/12年(約30.44日)後で1月20日ごろである。
期間としての意味もあり、1月20日〜2月3日まで、すなわちこの日から、次の節気の立春前日までである。
西洋占星術では、大寒を宝瓶宮(みずがめ座)の始まりとする。
季節
寒さが最も厳しくなるころ。『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。実際は1月26日あたりから2月4日あたりまでが最も寒い
0
寒(小寒 - 立春前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。武道ではこのころ寒稽古が行われる。
大寒の朝の水は1年間腐らないとされており容器などにいれ納戸に保管する家庭が多い。
日付[編集]
年 日時 (UT) 日本 中国
2002年 1月20日06:02 1月20日 1月20日
2003年 1月20日11:52 1月20日 1月20日
2004年 1月20日17:42 1月21日 1月21日
2005年 1月19日23:21 1月20日 1月20日
2006年 1月20日05:15 1月20日 1月20日
2007年 1月20日11:00 1月20日 1月20日
2008年 1月20日16:43 1月21日 1月21日
2009年 1月19日22:40 1月20日 1月20日
2010年 1月20日04:27 1月20日 1月20日
2011年 1月20日10:18 1月20日 1月20日
2012年 1月20日16:10 1月21日 1月21日
2013年 1月19日21:51 1月20日 1月20日
2014年 1月20日03:51 1月20日 1月20日
2015年 1月20日09:43 1月20日 1月20日
大寒の瞬間の日時 (UT) と、日本・中国での日付は表のとおり。
年
年を4で割った余り
1 2 3 0
1801年 - 1812年 20日 21日 21日 21日
1813年 - 1844年 20日 20日 21日 21日
1845年 - 1880年 20日 20日 20日 21日
1881年 - 1900年 20日 20日 20日 20日
1901年 - 1916年 21日 21日 21日 21日
1917年 - 1948年 20日 21日 21日 21日
1949年 - 1984年 20日 20日 21日 21日
1985年 - 2016年 20日 20日 20日 21日
2017年 - 2052年 20日 20日 20日 20日
2053年 - 2088年 19日 20日 20日 20日
2089年 - 2100年 19日 19日 20日 20日
2101年 - 2120年 20日 20日 21日 21日
2121年 - 2156年 20日 20日 20日 21日
2157年 - 2192年 20日 20日 20日 20日
2193年 - 2200年 19日 20日 20日 20日
グレゴリオ暦による19世紀から22世紀までの日本の大寒は表のとおり。 今年2014年の大寒は1月20日。
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子が分かる(大寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。
1801年から2016年までは1月20日、1月21日のいずれか。2017年からしばらく1月20日が続く。2053年からは1月19日が現れる。
七十二候[編集]
大寒の期間の七十二候は以下の通り。
初候款冬華(ふきのはな さく) : 蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す(日本)
鶏始乳(にわとり はじめて にゅうす) : 鶏が卵を産み始める(中国)
次候水沢腹堅(さわみず こおりつめる) : 沢に氷が厚く張りつめる(日本)
鷙鳥試セ(しちょう れいしつす) : 鷲・鷹などが空高く速く飛び始める(中国)
獅ヘ{勵-力}末候鶏始乳(にわとり はじめて とやにつく) : 鶏が卵を産み始める(日本)
水沢腹堅(すいたく あつく かたし) : 沢に氷が厚く張りつめる(中国)
前後の節気
小寒 → 大寒 → 立春
Wikipediaより転載
小寒
小寒(しょうかん)は、二十四節気の第23。十二月節(旧暦11月後半から12月前半)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が285度のときで1月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/24年(約15.22日)後で1月6日ごろである。
期間としての意味もあり、1月6日〜1月19日まで、すなわちこの日から次の節気の大寒前日までである。
季節
暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半。『暦便覧』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。
この日から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。暦の上では冬の寒さが一番厳しい時期となる。この日から寒中見舞いを出し始める。
日付
年 日時 (UT) 日本 中国
2002年 1月5日12:43 1月5日 1月5日
2003年 1月5日18:27 1月6日 1月6日
2004年 1月6日00:18 1月6日 1月6日
2005年 1月5日06:03 1月5日 1月5日
2006年 1月5日11:46 1月5日 1月5日
2007年 1月5日17:40 1月6日 1月6日
2008年 1月5日23:24 1月6日 1月6日
2009年 1月5日05:14 1月5日 1月5日
2010年 1月5日11:08 1月5日 1月5日
2011年 1月5日16:54 1月6日 1月6日
2012年 1月5日22:44 1月6日 1月6日
2013年 1月5日04:33 1月5日 1月5日
2014年 1月5日10:24 1月5日 1月5日
2015年 1月5日16:20 1月6日 1月6日
小寒の瞬間の日時 (UT) と、日本・中国での日付は表のとおり。
年
年を4で割った余り
1 2 3 0
1801年 - 1816年 6日 6日 6日 6日
1817年 - 1848年 5日 6日 6日 6日
1849年 - 1884年 5日 5日 6日 6日
1885年 - 1900年 5日 5日 5日 6日
1901年 - 1916年 6日 6日 6日 7日
1917年 - 1956年 6日 6日 6日 6日
1957年 - 1988年 5日 6日 6日 6日
1989年 - 2024年 5日 5日 6日 6日
2025年 - 2056年 5日 5日 5日 6日
2057年 - 2092年 5日 5日 5日 5日
2093年 - 2100年 4日 5日 5日 5日
2101年 - 2124年 5日 6日 6日 6日
2125年 - 2160年 5日 5日 6日 6日
2161年 - 2192年 5日 5日 5日 6日
2193年 - 2200年 5日 5日 5日 5日
グレゴリオ暦による19世紀から22世紀までの日本の小寒は表のとおり 。 今年2014年の小寒は1月5日。
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子が分かる(小寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。
1917年から2092年までは1月5日、1月6日のいずれか。1916年までは1月7日もあった。2093年、2097年には1月4日が現れる。
七十二候
小寒の期間の七十二候は以下の通り。
初候芹乃栄(せり すなわち さかう) : 芹がよく生育する(日本)
雁北郷(かり きたにむかう) : 雁が北に渡り始める(中国)
次候水泉動(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(日本)
鵲始巣(かささぎ はじめて すくう) : 鵲が巣を作り始める(中国)
末候雉始雊(きじ はじめて なく) : 雄の雉が鳴き始める(日本)
雊は{句隹}野鶏始雊(やけい はじめて なく) : 雄の雉が鳴き始める(中国)
前後の節気
冬至 → 小寒 → 大寒
Wikipediaより転載
現在広まっている定気法では太陽黄経が285度のときで1月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/24年(約15.22日)後で1月6日ごろである。
期間としての意味もあり、1月6日〜1月19日まで、すなわちこの日から次の節気の大寒前日までである。
季節
暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半。『暦便覧』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。
この日から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。暦の上では冬の寒さが一番厳しい時期となる。この日から寒中見舞いを出し始める。
日付
年 日時 (UT) 日本 中国
2002年 1月5日12:43 1月5日 1月5日
2003年 1月5日18:27 1月6日 1月6日
2004年 1月6日00:18 1月6日 1月6日
2005年 1月5日06:03 1月5日 1月5日
2006年 1月5日11:46 1月5日 1月5日
2007年 1月5日17:40 1月6日 1月6日
2008年 1月5日23:24 1月6日 1月6日
2009年 1月5日05:14 1月5日 1月5日
2010年 1月5日11:08 1月5日 1月5日
2011年 1月5日16:54 1月6日 1月6日
2012年 1月5日22:44 1月6日 1月6日
2013年 1月5日04:33 1月5日 1月5日
2014年 1月5日10:24 1月5日 1月5日
2015年 1月5日16:20 1月6日 1月6日
小寒の瞬間の日時 (UT) と、日本・中国での日付は表のとおり。
年
年を4で割った余り
1 2 3 0
1801年 - 1816年 6日 6日 6日 6日
1817年 - 1848年 5日 6日 6日 6日
1849年 - 1884年 5日 5日 6日 6日
1885年 - 1900年 5日 5日 5日 6日
1901年 - 1916年 6日 6日 6日 7日
1917年 - 1956年 6日 6日 6日 6日
1957年 - 1988年 5日 6日 6日 6日
1989年 - 2024年 5日 5日 6日 6日
2025年 - 2056年 5日 5日 5日 6日
2057年 - 2092年 5日 5日 5日 5日
2093年 - 2100年 4日 5日 5日 5日
2101年 - 2124年 5日 6日 6日 6日
2125年 - 2160年 5日 5日 6日 6日
2161年 - 2192年 5日 5日 5日 6日
2193年 - 2200年 5日 5日 5日 5日
グレゴリオ暦による19世紀から22世紀までの日本の小寒は表のとおり 。 今年2014年の小寒は1月5日。
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子が分かる(小寒は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。
1917年から2092年までは1月5日、1月6日のいずれか。1916年までは1月7日もあった。2093年、2097年には1月4日が現れる。
七十二候
小寒の期間の七十二候は以下の通り。
初候芹乃栄(せり すなわち さかう) : 芹がよく生育する(日本)
雁北郷(かり きたにむかう) : 雁が北に渡り始める(中国)
次候水泉動(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(日本)
鵲始巣(かささぎ はじめて すくう) : 鵲が巣を作り始める(中国)
末候雉始雊(きじ はじめて なく) : 雄の雉が鳴き始める(日本)
雊は{句隹}野鶏始雊(やけい はじめて なく) : 雄の雉が鳴き始める(中国)
前後の節気
冬至 → 小寒 → 大寒
Wikipediaより転載
冬至
冬至(とうじ)は、二十四節気の第22。一年で最も昼が短い。十一月中(旧暦11月内)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろ。恒気法は節気を冬至からの経過日数で定義するが、基点となる冬至は定気と同じ定義である。定気と恒気で一致する唯一の節気である。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは冬至日(とうじび)と呼ぶ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小寒前日までである。
西洋占星術は、冬至を磨羯宮(やぎ座)の始まりとする。
特徴
北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日。
『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。
日付
年 日時 (UT) 日本 中国
2001年 12月21日19:21 12月22日 12月22日
2002年 12月22日01:14 12月22日 12月22日
2003年 12月22日07:03 12月22日 12月22日
2004年 12月21日12:41 12月21日 12月21日
2005年 12月21日18:34 12月22日 12月22日
2006年 12月22日00:22 12月22日 12月22日
2007年 12月22日06:07 12月22日 12月22日
2008年 12月21日12:03 12月21日 12月21日
2009年 12月21日17:46 12月22日 12月22日
2010年 12月21日23:38 12月22日 12月22日
2011年 12月22日05:31 12月22日 12月22日
2012年 12月21日11:11 12月21日 12月21日
2013年 12月21日17:11 12月22日 12月22日
2014年 12月21日23:03 12月22日 12月22日
冬至の瞬間の日時 (UT) と、日本・中国での日付は表のとおり。
年
年を4で割った余り
0 1 2 3
1800年 - 1819年 22日 22日 22日 23日
1820年 - 1855年 22日 22日 22日 22日
1856年 - 1887年 21日 22日 22日 22日
1888年 - 1899年 21日 21日 22日 22日
1900年 - 1919年 22日 22日 23日 23日
1920年 - 1955年 22日 22日 22日 23日
1956年 - 1991年 22日 22日 22日 22日
1992年 - 2027年 21日 22日 22日 22日
2028年 - 2059年 21日 21日 22日 22日
2060年 - 2095年 21日 21日 21日 22日
2096年 - 2099年 21日 21日 21日 21日
2100年 - 2131年 22日 22日 22日 22日
2132年 - 2163年 21日 22日 22日 22日
2164年 - 2195年 21日 21日 22日 22日
2196年 - 2199年 21日 21日 21日 22日
グレゴリオ暦による19世紀から22世紀までの日本の冬至は表のとおり 。 今年2014年の冬至は12月22日。
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子が分かる(冬至は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。
1956年から2202年までは12月21日か12月22日だが、1955年までは12月23日もあった。
天文
秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈む。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになる。また南回帰線上の観測者から見ると、冬至の日の太陽は正午に天頂を通過する。冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で白夜となる。
なお、1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の半月後頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の半月前頃である。
また、天文学的な冬至とは別に、日本では慣習的に「一年中で最も昼が短く夜が長い日」のことを冬至と呼ぶことがある。南半球では昼と夜の長さの関係が北半球と逆転するため、南半球が日本の慣習的な意味での冬至を迎える日は、本来の夏至である。
習俗
日本には次のような風習がある。
柚子湯1838年(天保9年)の『東都歳時記』によれば流行し始めたのは江戸の銭湯からであるという]。小豆粥小豆粥には疫病にかからないという伝承がある。「ん」の付く食べ物を食べるなんきん(カボチャ)・れんこん・うどん等である。特にカボチャを食べる風習は全国に残っており、これを食べると中風にならず、あるいは長生きするなどの伝承がある。ただし、この風習は江戸時代の記録になく明治時代以降の風習とされる。
中国北方では餃子を、南方では湯圓(餡の入った団子をゆでたもの)を食べる習慣がある。 また、この日は家族団欒で過ごすという風習もある。
冬至(あるいは、冬至から翌日にかけて、冬至の直後、など)には、世界各地で冬至祭が祝われる。太陽の力が最も弱まった日を無事過ぎ去ったことを祝う日である。クリスマスも起源は冬至祭(ユール)である。
朔旦冬至
古代には、冬至を1年の始まりとしていた。その名残で、現在でも冬至は暦の基準となっている。中国や日本で採用されていた太陰太陽暦では、冬至を含む月を11月と定義しているが、19年に1度、冬至の日が11月1日となることがあり、これを朔旦冬至(さくたんとうじ)という。太陰太陽暦では、19年間に7回の閏月を入れる(19年7閏)周期を「章」と称し、古い章から新しい章への切り替えとなる年を新しい章の最初の年という意味で「章首」と呼んだ。章首の年にはまず前の章の締めくくりに当たる7番目の閏月を迎え、その後に到来するその年の冬至をもって新しい章の開始とされた。そして、その章首における冬至の日は必ず朔旦冬至となるように暦法が作られるのが原則とされていた。
朔旦冬至が正確に19年周期で訪れることは、19年7閏原則に基づく暦が正確に運用されているということである。暦の正確さは、政治が正しく行われていることの証であるとして、朔旦冬至は盛大に祝われた。中国では古くから行われ、659年に偶々遣唐使が唐の都・洛陽に滞在中で儀式への参加が許されている。日本では唐風儀式の取り入れに積極的であった桓武天皇の784年に初めて儀式が行われた。なお、11月1日は元々翌年の暦を天皇に奏進する御暦奏も行われていたことから、非常に盛大な行事となった。
ただし、破章法を採用している暦では19年7閏が守られない場合があり、その場合新しい章の最初に朔旦冬至が到来するとは限らず、逆に章の途中で偶々朔旦冬至が到来してしまう事態(臨時朔旦冬至)も生じた。日本ではこのような状況を放置することは不祥として、暦を人為的に操作して朔旦冬至を到来させたり、回避させたりすること(「改暦」)が行われた。なお、後には章の最初以外の朔旦冬至も祝われるようになった。なお、1768年の光格天皇の時に朔旦冬至の儀式が行われたのが最後であり、次の1870年の朔旦冬至の際に明治政府は古い因習として、以後こうした儀式は行わないこととした。
これまでで最後の朔旦冬至は1995年、次の朔旦冬至は2014年である。
七十二候[編集]
冬至の期間の七十二候は以下のとおり。
初候乃東生(なつかれくさ しょうず) : 夏枯草が芽を出す(日本)蚯蚓結(きゅういん むすぶ) : 蚯蚓が地中で塊となる(中国)次候麋角解(びかく げす) : 大鹿が角を落とす(日本)麋角解(さわしかの つの おる) : 大鹿が角を落とす(中国)末候雪下出麦(ゆきわりて むぎ のびる) : 雪の下で麦が芽を出す(日本)水泉動(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(中国)
前後の節気
大雪 → 冬至 → 小寒
u
現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろ。恒気法は節気を冬至からの経過日数で定義するが、基点となる冬至は定気と同じ定義である。定気と恒気で一致する唯一の節気である。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは冬至日(とうじび)と呼ぶ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小寒前日までである。
西洋占星術は、冬至を磨羯宮(やぎ座)の始まりとする。
特徴
北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日。
『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。
日付
年 日時 (UT) 日本 中国
2001年 12月21日19:21 12月22日 12月22日
2002年 12月22日01:14 12月22日 12月22日
2003年 12月22日07:03 12月22日 12月22日
2004年 12月21日12:41 12月21日 12月21日
2005年 12月21日18:34 12月22日 12月22日
2006年 12月22日00:22 12月22日 12月22日
2007年 12月22日06:07 12月22日 12月22日
2008年 12月21日12:03 12月21日 12月21日
2009年 12月21日17:46 12月22日 12月22日
2010年 12月21日23:38 12月22日 12月22日
2011年 12月22日05:31 12月22日 12月22日
2012年 12月21日11:11 12月21日 12月21日
2013年 12月21日17:11 12月22日 12月22日
2014年 12月21日23:03 12月22日 12月22日
冬至の瞬間の日時 (UT) と、日本・中国での日付は表のとおり。
年
年を4で割った余り
0 1 2 3
1800年 - 1819年 22日 22日 22日 23日
1820年 - 1855年 22日 22日 22日 22日
1856年 - 1887年 21日 22日 22日 22日
1888年 - 1899年 21日 21日 22日 22日
1900年 - 1919年 22日 22日 23日 23日
1920年 - 1955年 22日 22日 22日 23日
1956年 - 1991年 22日 22日 22日 22日
1992年 - 2027年 21日 22日 22日 22日
2028年 - 2059年 21日 21日 22日 22日
2060年 - 2095年 21日 21日 21日 22日
2096年 - 2099年 21日 21日 21日 21日
2100年 - 2131年 22日 22日 22日 22日
2132年 - 2163年 21日 22日 22日 22日
2164年 - 2195年 21日 21日 22日 22日
2196年 - 2199年 21日 21日 21日 22日
グレゴリオ暦による19世紀から22世紀までの日本の冬至は表のとおり 。 今年2014年の冬至は12月22日。
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子が分かる(冬至は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。
1956年から2202年までは12月21日か12月22日だが、1955年までは12月23日もあった。
天文
秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈む。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになる。また南回帰線上の観測者から見ると、冬至の日の太陽は正午に天頂を通過する。冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で白夜となる。
なお、1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の半月後頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の半月前頃である。
また、天文学的な冬至とは別に、日本では慣習的に「一年中で最も昼が短く夜が長い日」のことを冬至と呼ぶことがある。南半球では昼と夜の長さの関係が北半球と逆転するため、南半球が日本の慣習的な意味での冬至を迎える日は、本来の夏至である。
習俗
日本には次のような風習がある。
柚子湯1838年(天保9年)の『東都歳時記』によれば流行し始めたのは江戸の銭湯からであるという]。小豆粥小豆粥には疫病にかからないという伝承がある。「ん」の付く食べ物を食べるなんきん(カボチャ)・れんこん・うどん等である。特にカボチャを食べる風習は全国に残っており、これを食べると中風にならず、あるいは長生きするなどの伝承がある。ただし、この風習は江戸時代の記録になく明治時代以降の風習とされる。
中国北方では餃子を、南方では湯圓(餡の入った団子をゆでたもの)を食べる習慣がある。 また、この日は家族団欒で過ごすという風習もある。
冬至(あるいは、冬至から翌日にかけて、冬至の直後、など)には、世界各地で冬至祭が祝われる。太陽の力が最も弱まった日を無事過ぎ去ったことを祝う日である。クリスマスも起源は冬至祭(ユール)である。
朔旦冬至
古代には、冬至を1年の始まりとしていた。その名残で、現在でも冬至は暦の基準となっている。中国や日本で採用されていた太陰太陽暦では、冬至を含む月を11月と定義しているが、19年に1度、冬至の日が11月1日となることがあり、これを朔旦冬至(さくたんとうじ)という。太陰太陽暦では、19年間に7回の閏月を入れる(19年7閏)周期を「章」と称し、古い章から新しい章への切り替えとなる年を新しい章の最初の年という意味で「章首」と呼んだ。章首の年にはまず前の章の締めくくりに当たる7番目の閏月を迎え、その後に到来するその年の冬至をもって新しい章の開始とされた。そして、その章首における冬至の日は必ず朔旦冬至となるように暦法が作られるのが原則とされていた。
朔旦冬至が正確に19年周期で訪れることは、19年7閏原則に基づく暦が正確に運用されているということである。暦の正確さは、政治が正しく行われていることの証であるとして、朔旦冬至は盛大に祝われた。中国では古くから行われ、659年に偶々遣唐使が唐の都・洛陽に滞在中で儀式への参加が許されている。日本では唐風儀式の取り入れに積極的であった桓武天皇の784年に初めて儀式が行われた。なお、11月1日は元々翌年の暦を天皇に奏進する御暦奏も行われていたことから、非常に盛大な行事となった。
ただし、破章法を採用している暦では19年7閏が守られない場合があり、その場合新しい章の最初に朔旦冬至が到来するとは限らず、逆に章の途中で偶々朔旦冬至が到来してしまう事態(臨時朔旦冬至)も生じた。日本ではこのような状況を放置することは不祥として、暦を人為的に操作して朔旦冬至を到来させたり、回避させたりすること(「改暦」)が行われた。なお、後には章の最初以外の朔旦冬至も祝われるようになった。なお、1768年の光格天皇の時に朔旦冬至の儀式が行われたのが最後であり、次の1870年の朔旦冬至の際に明治政府は古い因習として、以後こうした儀式は行わないこととした。
これまでで最後の朔旦冬至は1995年、次の朔旦冬至は2014年である。
七十二候[編集]
冬至の期間の七十二候は以下のとおり。
初候乃東生(なつかれくさ しょうず) : 夏枯草が芽を出す(日本)蚯蚓結(きゅういん むすぶ) : 蚯蚓が地中で塊となる(中国)次候麋角解(びかく げす) : 大鹿が角を落とす(日本)麋角解(さわしかの つの おる) : 大鹿が角を落とす(中国)末候雪下出麦(ゆきわりて むぎ のびる) : 雪の下で麦が芽を出す(日本)水泉動(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(中国)
前後の節気
大雪 → 冬至 → 小寒
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