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2014年02月07日

聖人

聖人(しょうにん、せいじん)
1.儒教の聖人
2.仏教の聖人
3.キリスト教の聖人
4.イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、サンテリアなどの宗教の聖人

一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。

日本語では元来は儒教の聖人のことであり、次に仏教での聖人のことであった。生きている人にもすでにこの世を去った人にもあてはめられ、世界の多くの宗教で同じような概念があるとして、キリスト教では日本布教の際に"Sanctus"(ラテン語)・"Saint"(英語・フランス語)を「聖人」と翻訳した。そのような宗教の中で、「聖人」と呼ばれる人々は特定宗教の信徒にとり模範となり、その生涯が記録され、後世を語り継がれることが多い。

各宗教によってニュアンスにばらつきがあるが、現代の宗教で「聖人」という概念が存在するのは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、サンテリアなどが挙げられる。ただしこれらの宗教でも宗派・教派によって扱いが異なる場合があり、キリスト教プロテスタントの一部やイスラム教のワッハーブ派などでは聖人崇敬は否定されている。また、聖人に対する崇敬を行うキリスト教教派では、教会によって公式に認定(列聖)されなければ聖人と認められない。



目次 [非表示]
1 儒教
2 仏教
3 キリスト教 3.1 崇敬と歴史
3.2 祝日・記憶日
3.3 洗礼名・聖名・霊名
3.4 聖遺物・不朽体
3.5 聖人認定
3.6 教派別の崇敬のあり方の違い 3.6.1 正教会
3.6.2 カトリック教会
3.6.3 聖公会
3.6.4 プロテスタント 3.6.4.1 ルーテル教会
3.6.4.2 改革派教会等


3.7 崇敬の地域性
3.8 聖人にちなむ地名

4 イスラム教 4.1 聖人として扱われることがある人物
4.2 十二イマーム派の歴代イマーム

5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク


儒教[編集]





孔子(E.T.C. Wernerの、1922年刊行の『中国の神話と遺産』に掲載された挿絵)
中国の儒教における聖人とは、過去の偉大な統治者を指す。政治指導者としてだけではなく、道徳の体現者としても理想とされる人物である。

もっとも理想の聖人とされるのは、堯と舜、二人の聖天子である。続く「三代」と言われる時代の統治者、すなわち夏王朝の創業者である禹、殷王朝の創業者である湯王、周王朝の創業者である武王もまた聖人として位置づけられ、堯と舜をあわせて「堯舜三代」と呼ばれる。

また、周王朝の創業に力を尽くした周公旦、儒学の大成者である孔子もまた聖人として位置づけられている。孟子は聖人ではないが、それに次ぐ存在であるとして「亜聖」と呼ばれる。

宋代になると、士大夫たちは自らを孔子・孟子を継ぐ聖人となることを目指すようになり、「聖人、学んで至るべし」というスローガンのもと、道徳的な自己修養を重ねて聖人に到る学問を模索した。明代の陽明学では「満街聖人」という街中の人が本来的に聖人であるとする主張をし、王や士大夫のみならず、庶民に到るすべての人が聖人となることができる可能性を見いだした。また、日本では近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者中江藤樹は近江聖人と称えられている。

仏教[編集]

日本の仏教宗派の一部の宗祖に対する敬称として、一般的な上人ではなく、聖人(しょうにん)という敬称を付する場合がある。

一般的に「聖人」という敬称で呼ばれる仏教者。
法然(浄土宗)
親鸞(浄土真宗)
日蓮(日蓮宗)
空海(真言宗)
最澄(天台宗)

なお、浄土真宗では開祖の親鸞のみならずその師である法然に対しても「聖人」と呼称されたことがあるが、通例では親鸞に対してのみ「聖人」を用いる。

キリスト教[編集]





『聖カテリーナ』カラヴァッジョ画。1598年頃
キリスト教においては、新約聖書に出る古典ギリシア語: ο Άγιος(ホ・ハギオス「聖なる人」の意 現代ギリシャ語ではオ・アギオス)またその複数形古典ギリシア語: οι Άγιοι(ホイ・ハギオイ 現代ギリシャ語ではイ・アギイ)に由来する。新約聖書では、「ホ・ハギオス」という言葉が、かれらの教会の歴史にとっての重要さにかかわらず、生者と死者の両方にあてはめられている。使徒パウロの手紙の多くは「すべての聖なるものたちに」、あるいは「年長者とともに」と宛てられている。たとえば『エフェソの信徒への手紙』は「エフェソの聖なる人々へ」で始まっている。

聖人への崇敬は教派によって扱いが異なり、正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会などで聖人崇敬が行われている。ただし、対象は歴史的に若干の変動があり、またこれら聖人崇敬・聖人の概念を認める諸教派の中でも崇敬の方法・あり方には差異が存在する。一方、プロテスタントでは聖人に対する崇敬を行わない教派が多い。改革派教会以降のプロテスタントとバプテスト系は、聖人崇敬を否定し、クリスチャンすべてを聖徒と呼ぶ。プロテスタントの中には、キリスト教初期の慣用表現から、「聖人」という語を単にこの世を去った信徒たちを指す言葉として用いるものもある。

正教会、東方諸教会、カトリック教会など、聖書と同様に聖伝(古代からの伝承)を現代に至るまで尊重する諸教派では、聖人への崇敬は伝統によってキリスト教信仰の一部をなしてきた。このような伝統にしたがって、聖人は神のそばでとりなしを行うことで人々の祈りを聞き入れ、神と人間の媒介としての役割を担う[要出典]とみなされてきた。

崇敬と歴史[編集]





エジプトの聖マリアのイコン。17世紀にロシアで描かれたもの。中心に祈りを奉げるエジプトの聖マリアの姿が描かれ、周囲にその生涯についての伝承内容が左上から順に描かれている。
時として、「キリスト教は一神教といいながら、なぜ多神教のように聖人を崇拝するのか」という疑問が提示されることがあるが、聖人の概念を持つキリスト教では、崇敬・尊崇と崇拝は異なる意義付けをなされている。この観点からは、キリスト教徒は聖人を崇拝しているわけではなく、聖人を敬うこと(崇敬)は拝むこと(崇拝)ではない。神への信仰と聖人への敬意はまったく別のものとして捉えられる。

正教会・東方諸教会・カトリック教会では、聖人の像や生涯を描画した聖画像(イコン)を作り、崇敬の対象とする。聖像破壊運動で古代の多くの聖像は失われたが、この運動が及ばなかった地域、とりわけそれ以前にカトリック教会やギリシャ系の正教会と分かれた東方諸教会の聖堂には、古いイコンが残っていることがある。このような古いイコンを収蔵する代表的な存在としては聖カタリナ修道院が挙げられる。

聖人の伝記(聖人伝)を読み書きすることも、聖人を崇敬する上で重要な役割を果たしている。これは古代から行われ、信仰上の模範を示すことで後世の信仰のあり方に大きな影響を与えたものも少なくない。たとえばアタナシオスによる『アントニオス伝』は、修道者に大きな影響を与えた。聖人伝として著名なものにヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』がある。

聖人はつねに個人名で記念(記憶)されるとは限らない。七十門徒などはそのよい例で、七十人の内訳には幾つかの説があり、かならずしも確定していない。古代の殉教者などには、名前の伝わっていない聖人も数多い。聖書に出てくる例では、ヘロデ大王によるベツレヘムの幼児虐殺の死亡者は「聖嬰児」「幼子殉教者」として聖人であるが、彼らの個人名は伝わっていない。

祝日・記憶日[編集]





『ミラの聖ニコライ、無実の三人を死刑から救う』
(画:イリヤ・レーピン)
それぞれの教会において、一年間の中で聖人の祝日(記憶日・記念日)は特定の日付に固定されている。これをまとめたものをカトリック教会では聖人暦(聖人カレンダー)と呼ぶ。正教会においては正教会暦と呼ぶ。多くはその聖人が死亡した日が記念日となるが、異なる場合もある。特に重要な聖人の場合は、複数回の記念日がある(例:ミラのニコラオス)。古代より崇敬される聖人は、カトリック教会と東方教会で記念の日を同じくする(ただし後者のうちユリウス暦を使用する教会では、グレゴリオ暦を使用する教会と日付のずれを生じている)事が多いが、一部の聖人は違った日に記念されることがある(例:エジプトのマリア)。

聖人の祝日は、基本的にそれぞれの聖人に個々に決まっているが、幾人かの聖人は、他の聖人と共通の祝日をもっている。そのような例にペトロとパウロ(聖使徒ペトル・パウェル祭)、キュリロスとメトディオス、正教会における七十門徒などがある。多数の聖人をともに記憶する祭を正教会では「会衆祭」(かいしゅうさい)という。正教会では、十二大祭のいくつかの祭で、その翌日に関連する聖人の祭を行うが、これにも会衆祭と呼ばれるものがある。

洗礼名・聖名・霊名[編集]

聖人崇敬において重要な概念には守護聖人の考えがある。これは正教会・カトリック教会において存在する考え方で、個人のほか、特定の団体や地域に対してある聖人が特別な加護を与えているという概念である。

一般に、洗礼名(正教会では「聖名」・カトリック教会では「霊名」とも)の概念を持つ教派の場合、洗礼を受ける者は聖人にちなんで洗礼名(聖名・霊名)を受ける。この名前の起源となる聖人が、個人の守護聖人となる。

自分の洗礼名の聖人の祝日を、正教会では「聖名日」、カトリック教会では「霊名の祝日」と呼んで祝う習慣がある。一部の地域では誕生日より盛大に祝うこともある。カトリック教会などの西方教会では、洗礼名のほかに堅信のときには堅信名を付ける習慣もあり、これは洗礼名と別の聖人を選ぶこともできる。また修道士は、ある聖人の名前にちなんで自らの修道名をつける。

聖遺物・不朽体[編集]





聖ゲオルギオス大聖堂にある、不朽体が納められている大理石製の聖櫃。
「聖遺物」および「不朽体」も参照

古代のキリスト教では聖人として尊崇された者の多くが殉教者であったが、殉教者を尊び、その遺骸や遺物を集めて墓を立て、崇敬することがなされていた。殉教者の墓(マルティリウム)は聖堂・礼拝堂と並んで、信仰生活の中心となった。こうした崇敬は時に行き過ぎ、聖人の遺骸と称されるものが高額で取引されたり、ある崇敬が過度の熱狂におちいることがあった。アウグスティヌスなど、こうした風潮に警鐘を鳴らし、聖人の遺骸を崇敬の対象にすることに反対を唱えたものもいた。

聖人の遺骸は、カトリック教会では聖遺物、正教会では不朽体と呼ばれる。遺体が腐敗せずに残ることを聖人である証明の一つとみなすことは伝統的な見方である。聖人の遺骸またその一部は古代から中世においては強い崇敬の対象となり、それに関連した奇跡が多く語られている。現在でも一部の教派では聖人の遺骸に接吻するなどして崇敬を表明することもある。正教会においては、聖人の遺骸に対する崇敬の表明は、聖像(イコン)への崇敬の表明と同じ形式を取る。これはイコンと同様聖人の遺骸が、究極には神に由来する聖性が現実界に現れる窓とする考えに基いており、信者の見解によれば、ものそのものが崇拝ないし信仰の対象となっているわけではないとされる。

また伝統的に、教会の祭壇(正教会では宝座)の下には聖人の遺骸または遺物(不朽体)を納めることが必要であるとされる。これは東方教会においては必ずしも必須の要件ではないが、しかしそのようにすることが望ましいと今でも考えられている。カトリック教会においてはかつては必須の要件であったが、現代ではこの要件は撤廃されている。

聖人認定[編集]

聖人に対する崇敬を行う教派では、教会によって公式に認定(列聖)されなければ聖人と認められない。一般に、聖人として認めるための調査は本人の死後に長い時間をかけて行われ、早くても死後数十年、場合によっては死後数百年にも及ぶ厳しい審査を経てようやく認められる(例:ジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から489年後であった)[1]。しかもカトリック教会の場合、列聖の前段階として、福者と認められなければならない(列福されることが必要)。正教会の場合は、さらに急ぐのを避け、その人物に対する世間の反響が冷めるまでに十分な時間を割り当てる場合が多い。

教派別の崇敬のあり方の違い[編集]

教派によって、どの聖人を聖人として崇敬するかに違いがある。ある教派で聖人として崇敬されていても、別の教派では聖人と捉えられていないといった事例は数多い。

また、崇敬のあり方にも違いがある。以上に述べた全教派に共通する聖人の一般論とは別に、こうした教派ごとの特徴を以下の節に記す。

正教会[編集]

詳細は「:Category:正教会の聖人の称号」を参照

正教会の場合、聖人には必ず使徒、亜使徒、致命者、克肖者などの称号が付く。これはその聖人の信仰のありようを記憶するために教会が決めるもので、個人が恣意的に変更してよいものではない。ただし「主教」「大主教」等の称号には、地域差が反映されることがある。たとえば新致命者神品致命者聖アンドロニク(ロシア革命で致命)は、世界的には「ペルミの大主教」と呼ばれるが、日本においては初代京都主教という関係を重くみて「京都の主教」と称する。

正教会には、カトリック教会におけるような尊者・福者の概念は存在しない。従って列福といった手続きも存在しない。英語の"Venerable"は正教会では克肖者、カトリック教会では尊者と訳されて異なっている事にも見られるように、訳語にそれぞれの教会の聖人に対する扱いの差が反映されている。

カトリック教会[編集]





福者フラ・アンジェリコの肖像画
カトリック教会には列聖前の段階として、尊者・福者の段階がある[2]。


カトリック教会における列聖の段階


神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人


第2バチカン公会議後のカトリック教会のあり方の見直しの中で、史実での存在が疑われる伝説的な聖人は聖人暦から外された。またキリストの降誕を準備する待降節、復活を準備する四旬節からも、本来の精神を大切にするという意味で聖人の祝い日が移動された。

聖公会[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

聖公会(イギリス国教会)はローマ・カトリック教会から分離したためにプロテスタントに分類される事もあるが、信仰を理由にしてカトリック教会から分離したわけではなく、教義や精神は非常にカトリックに近いことから、聖人の崇敬を行っている。

プロテスタント[編集]

プロテスタントにとってすべてのクリスチャンは聖徒である。ただし、ルーテル教会と他のプロテスタントは異なっている。

ルーテル教会[編集]

「聖名祝日」も参照

マルティン・ルターはローマ教会(カトリック教会)の習慣を残した。ルーテル教会はプロテスタント教派のなかでも、一部では聖人の概念をもち、信仰の模範としてとくに礼拝でとりあげ、洗礼名の根拠としたり、記念日を祝ったりするところがある。

改革派教会等[編集]

ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』で聖人崇敬・崇拝を批判した。改革派教会以降のプロテスタント福音派、バプテスト系は聖人崇敬を崇拝と見なして拒否しており、ルーテル教会の習慣については、ローマ教会の残滓とみなされることがある[3]。

崇敬の地域性[編集]

聖人崇敬は現実の信仰生活のなかで行われるものであって、そこにはおのずと地方や時代の独自性が反映される。聖人のリストは世界で共通であるが、ある聖人とかかわりの深い地域では、その聖人はより重く崇敬される。そのような信仰生活の個別性は、個人や集団の守護聖人への信心に現れている。

例えばラドネジの克肖者聖セルギイの記憶日はロシア正教会やその流れを汲む諸正教会では盛んに祝われるが、他の地域では聖セルギイの記憶日は最も重要な祭日であるとは認識されない。このような事情はブルガリア正教会の著名な聖人であるリラの克肖者イオアンなどについても同様の事が言える。

聖人にちなむ地名[編集]

聖人の名をつけた地名は多い。聖人は各国語でサン(San、Saint)、セント(Saint)、サンタ(Santa)、サント(Santo)、サンクト(Sancto)等になるため、これらで始まる地名は概ね守護聖人の名が使われている。

例:サンフランシスコ(聖フランシスコ)、セントルイス(聖王ルイ)、サンクトペテルブルク、セントピーターズバーグ(聖ペトロ)、サンパウロ(聖パウロ)、サンティアゴ(聖ヤコブ)、サンタモニカ(聖モニカ)、セントヘレナ島(聖ヘレナ)、サンマリノ共和国(聖マリヌス)、アイオス・ニコラオス(奇蹟者ニコラオス)

イスラム教[編集]

宗派にもよるが、預言者ムハマンドの教友であるサハーバや十二イマーム派のイスラム教指導者である十二イマーム(特に初期のイマームはスンニ派・シーア派双方で)などが聖人として扱われている。 イスラム教の教義においてはムハマンドはただの人間であるが、同時にイスラム教をもたらした最も崇敬すべき聖人でもあり、ムハンマドの誕生日は多くのムスリムにとって重要な祭日となっている。 また、ムハマンド以前の預言者たちも聖人として扱われており、イスラム教においてはイエスキリストも聖人の一人として扱われている。 イスラム社会には聖人が住んでいたモスクが多く現存しており、聖人崇拝を行う信者によって巡礼の対象となっている。

シーア派においては歴代のイマームへの崇敬は特に重要な意味を持っており、マシュハドなどイマームの墓廟のある都市は聖廟都市と呼ばれ重要な巡礼地になっている。十二イマーム派を国教とするイランでは歴代イマームの肖像画なども多く描かれているが、基本的にはポスターであり、キリスト教のイコンほどは特別な意味は持たない。

ワッハーブ派などのイスラム原理主義派では聖人崇敬を偶像崇拝であるとして禁止しており、ワッハーブ派を国教とするサウジアラビアやその前身のワッハーブ王国では聖廟に対する破壊活動が行われている。また、原理主義を信奉するイスラム過激派も聖廟の破壊を目的としたテロをしばしば起こしている。ワッハーブ派ではムハンマドの誕生日を祝うことも禁じられている。

聖人として扱われることがある人物[編集]
アブー=バクル - 預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)
ビラール・ビン=ラバーフ - 預言者ムハンマドが所有していた黒人奴隷
マリク・イブン=アシュタル - イスラーム初期の武将

十二イマーム派の歴代イマーム[編集]
1.アリー
2.ハサン
3.フサイン - ウマイヤ朝軍とカルバラーで戦い敗死。
4.アリー・ザイヌルアービディーン
5.ムハンマド・バーキル
6.ジャアファル・サーディク
7.ムーサー・カーズィム
8.アリー・リダー
9.ムハンマド・ジャワード
10.アリー・ハーディー
11.ハサン・アスカリー
12.ムハンマド・ムンタザル(マフディー) - 隠れイマーム
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ブダペスト

ブダペストまたはブダペシュト(ハンガリー語: Budapest,英語:play /ˈbuːdəpɛst/, /ˈbuːdəpɛʃt/ or /ˈbʊdəpɛst/; ハンガリー語発音: [ˈbudɒpɛʃt] ( 聞く))はハンガリーの首都であり、同国最大の都市である[2]。

「ブダペスト」として一つの市でドナウ川の両岸を占めるようになったのは1873年11月17日に西岸のブダとオーブダ、東岸のペストが合併してからである[3][4]。

ドナウ川河畔に位置し、ハンガリーの政治、文化、商業、産業、交通の一大中心都市で[5]、東・中央ヨーロッパ (en) では最大、欧州連合の市域人口では8番目に大きな都市である。しばしばハンガリーのプライメイトシティとも表現される[6]。

ブダペストの市域面積は525km2 (202.7 sq mi)[3]で、2011年の国勢調査によるブダペストの人口は174万人[7]、ピークであった1989年の210万人より減少している[8]。これは、ブダペスト周辺部の郊外化によるものである[9]。ブダペスト都市圏(通勤圏)の人口は330万人である[10][11]。

ブダペストの歴史の始まりはローマ帝国のアクインクムとしてで、もともとはケルト人の集落であった[12][13]。アクインクムは古代ローマの低パンノニア属州の首府となっている[12]。マジャル人がブダペスト周辺にやって来たのは[14]9世紀頃である。最初の集落は1241年から1242年にかけてモンゴルの襲来 (en) により略奪された[15]。15世紀に[16]町が再建されるとブダペストはルネサンス期の人文主義者文化の中心となった[17]。続いてモハーチの戦いが起こり、オスマン帝国による150年間の支配が続き[18]、18世紀、19世紀に新しい時代に入ると町は発展し繁栄する。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ都市の合併が行われると、世界都市となる[19]。また、1848年から1918年の第一次世界大戦勃発まで列強に含まれたオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに続く第二の首都であった。1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた[20]。ブダペストはハンガリー革命 (1848年)や1919年のハンガリー評議会共和国、1944年のパンツァーファウスト作戦、1945年のブダペスト包囲戦、1956年のハンガリー動乱など数々の歴史的な舞台の場でもあった。

ブダペストはヨーロッパでも最も美しい街の一つで[2][21][22]、ドナウ川河岸を含め世界遺産が広がりブダ城やアンドラーシ通り、英雄広場は良く知られている。ブダペスト地下鉄1号線Millenniumi Földalatti Vasútはロンドン地下鉄に次いで世界で2番目に古い地下鉄である[21][23]。ブダペストの他のハイライトはセーチェーニ温泉を含めた80の温泉で[24]世界でも最大の地下熱水系統がある[25]。世界で3番目に大きなシナゴーグであるドハーニ街シナゴーグや国会議事堂などもブダペストの見所である。ブダペストの観光客数は年間270万人に上り、ロンドンにある民間調査機関ユーロモニターによればブダペストは世界で37番目に旅行者が多い観光地であるとされている[26]。



目次 [非表示]
1 呼称
2 歴史 2.1 古代から19世紀まで
2.2 20世紀から現代まで

3 地理 3.1 地勢
3.2 気候

4 経済
5 観光 5.1 世界遺産
5.2 その他の名所
5.3 温泉

6 統計 6.1 民族
6.2 宗教

7 行政区画
8 交通
9 文化 9.1 ブダペストを舞台にした作品

10 教育
11 スポーツ
12 ブダペスト出身の人物
13 国際関係 13.1 姉妹都市
13.2 協力都市

14 ギャラリー
15 脚注・脚注関連文献
16 関連項目
17 外部リンク


呼称[編集]

ブダペストの名称はドナウ川を挟んだブダとペシュト二つの町の名称を組み合わせたもので、1873年に町が合併され一つになって以来使われている。この際、古いブダを意味するオーブダも一緒に併合された。最初にブダペスト"Buda-Pest"の名が見出されたのは1831年に自由主義貴族セーチェーニ・イシュトヴァーンが出した "Világ" と言う本である[27]。ブダ "Buda"やペスト"Pest" の元の意味は不明瞭である。中世からの年代記によればブダは創建者のブレダから来ているとされ、この人物はフン族の支配者アッティラの兄である。ブダが人名から来ていることは現代の学者も支持している[28]。他の説ではブダはスラヴ語で水を意味する "вода, vodaから来ている言うものもある。これはラテン語のアクインクムでローマ時代のブダペスト名称で、ローマ人の主立った集落はこの地域にあった[29]。また、ペストの名称についてもいくつかの説があり一つの説は[30]"Pest" はパンノニア属州から来ているとするもので、その時以来あったこの地域のコントラ・アキンクムの森はプトレマイオスによりペッシオン ("Πέσσιον", iii.7.§2) と言及されていた[31]。他の説ではペストの元はスラヴ語で洞窟を意味する"пещера, peshtera"か炉を意味する "пещ, pesht"で洞窟で火を燃やしていたか、地元の石がまを言及している[32]。古いハンガリーの言葉では似たような単語でかまや洞窟を意味し、古いドイツ語ではこの地域は "Ofen"と言う名で後にドイツ語でブダ側を"Ofen" と言及している。

歴史[編集]

古代から19世紀まで[編集]





中世のブダ城
最初のブダペスト周辺の集落はケルト人により[12]1世紀に形成された。その後、ローマ人により占められるようになりローマの集落はアクインクムとして106年に[12]低パンノニア(英語版)の[12]中心都市となった。ローマ人は要塞化された駐屯地に道路や円形劇場、浴場、床暖房を備えた住居などを建設した[33]。829年の和平条約によりパンノニアはオムルタグのブルガリアの軍が神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ1世に勝利したことから版図に加えられた。ブダペストでは2つのブルガリアの軍境が生じブダとペストの2つの河岸には要塞があった[34]。アールパードに率いられたハンガリーの人々は9世紀になって今日のブダペスト周辺に定住し[14][35]、後に本格的にハンガリー王国が創建された[14]。研究ではおそらくアールパード朝の初期の居城がブダペストになった場所の近くにあり中央主権的な力であったとされる[36]。

タタール(モンゴル)による侵略が13世紀に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した[3][14]。ベーラ4世は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ[14]、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。1361年にブダはハンガリー王国の首都になった[3]ブダの文化的な役割はマーチャーシュ1世の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている[3]。マーチャーシュの図書館であるコルヴィナ文庫Bibliotheca Corviniana[3]はヨーロッパの歴史年代記、哲学、15世紀の科学など多数の蔵書があり、バチカン図書館に次ぐ規模があった[3]。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに1367年に設立され[37]、1395年に2つ目がオーブダに設立されている[37]。1473年に最初のハンガリー語で書かれた書物がブダで印刷された[38]。1500年頃のブダには約5,000人が住んでいたとされる[39]。

オスマンのブダでの収奪は1526年に起こり、1529年には包囲され1541年に完全に侵略された。オスマン帝国領ハンガリーの時代は140年以上にわたって続いた[3]。トルコにより多くの優れた浴場施設が街には造られている[14]。オスマン支配下では多くのキリスト教徒はイスラム教に改宗している。それまで多くを占めたキリスト教徒は数千まで減り、1647年には70人を数えるまで減った[39]。トルコに占領されなかった西側部分はハプスブルク君主国の王領ハンガリーであった。

失敗に終わったブダ包囲の2年後の1686年、一新された戦闘が始まりハンガリーの首都に入って行った。この時、欧州各地から集められた倍の勢力の神聖同盟の74,000の兵士や義勇兵、砲手、将校などのキリスト教勢力がブダやその後の数週間でティミショアラ付近を除いて全ての以前のハンガリーの領土であった地域をトルコから奪い返し再征服した。1699年、カルロヴィッツ条約により領土が変わり正式に認められ、1718年全てのハンガリー王国の領域はトルコ支配から除かれた。街は戦いの間破壊された[3]。ハンガリーはハプスブルク帝国に併合されている[3]。

19世紀、ハンガリー人は独立への闘争[3]と近代化が占めていた。ハプスブルクに対する反発が始まり、1848年にはハンガリー革命が起こるが約1年後に破れている。





オーストリ=ハンガリー帝国により建てられたハンガリー国立歌劇場
1867年のアウスグライヒはオーストリア=ハンガリー帝国の誕生をもたらした。





世界で2番目に地下鉄が建設されたブダペスト




1930年頃のブダ城




1919年のハンガリー評議会共和国時代
ブダペストは二重君主制の一方の首都となった。ブダペストの歴史の中で第一次世界大戦まで続く2番目に大きな街の開発に道を開いたのはこの歩み寄りによる。1873年、ブダとペストは公式に合併し古いブダであるオーブダも合併され新しい大都市ブダペストが誕生した。ペストは国の行政や政治、経済、交易、文化の中枢へと劇的に成長した。民族的にもマジャル人がドイツ人を追い越したが、これは19世紀半ばにトランシルバニアやハンガリー大平原からの大規模な流入人口による。1851年から1910年にかけマジャル人の割合は35.6%から85.9%に増加し、言語の面でもハンガリー語がドイツ語に代わり主要な言語になった。ユダヤ人人口のピークは1900年で23.6%を占め[40][41][42]、19世紀から20世紀の変わり目にはユダヤ人の大きなコミュニティが隆盛し、ブダペストはしばしば「ユダヤ人のメッカ」と呼ばれた[43]。

20世紀から現代まで[編集]

1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は戦争により解体され、ハンガリーはハンガリー王国として独立を宣言した。1920年のトリアノン条約によって最終的にハンガリーは3分の2の領土を失い、マジャル人の人口も3,300万人から1,000万人と領土と同様に失っている[44][45]。

1944年、第二次世界大戦末期にブダペストは部分的にイギリスとアメリカの空襲による爆撃を受け破壊されている。1944年12月24日から翌年の2月3日にかけブダペスト包囲戦により包囲された。ブダペストはソビエトやルーマニアの軍隊とナチスやハンガリーの軍隊の戦いにより大きな損害を被っている。全ての橋はドイツにより破壊され、38,000人の市民はこの戦いにより命を落とした。





ドナウ川河岸の第二次世界大戦のユダヤ人記念物
20-40%に当たる250,000人のブダペスト大都市圏のユダヤ人人口はナチスと矢十字党による1944年と1945年初めの時期にホロコーストに遭い命を落とした[46]。スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグはブダペストの数万人のユダヤ人の生命をどうにかして救うためスウェーデンのパスポートを交付し領事の保護下に置く行動を起こした[47]。

1949年、ハンガリーは共産主義の人民共和国として独立を宣言した。新しい共産主義政府はブダ城のような建物を前支配者のシンボルと考え、1950年代に宮殿を破壊し全てのインテリアを壊している。1956年にブダペストでは平和的なデモによりハンガリー動乱が起こった。指導者層はデモを終息させようとしたが、大規模なデモは10月23日に始まった。しかし、ソビエトの戦車がブダペストに侵攻しデモ参加者を潰しにかかっている。戦いは11月初めまで続き、3,000人以上が死亡している。1960年代から1980年代後半までのハンガリーは良く東側諸国からグヤーシュコミュニズム(英語版)(幸せなバラック)と呼ばれ都市の戦時中の被害は最終的に全て修復された。エリザベート橋の再建は1964年に完成している。1970年代初期にはブダペスト地下鉄の東西方向を結ぶ2号線の最初の区間が開業し、3号線が1982年に開業した。1987年にブダ城とドナウ川沿いの建物を含めてユネスコの世界遺産に登録された。2002年にはブダペスト地下鉄 (Millennium Underground Railway) や英雄広場、都市公園 (Városliget) を含めたアンドラーシ通りが世界遺産の登録リストに追加された。1980年代にブダペストの市域人口は210万人に達している。現在では市域人口は減少し、郊外部のペシュト県への人口集中が進んでいる。20世紀の最後の10年間の初めの1989年から1990年にかけては政治体制が大きく変わり、社会の体制も大きく変化し独裁者の記念物は公共の空間から倒された。新しい政治体制に変わってからの1990年から2010年までの20年間、ブダペストの市長として街の開発や市政を担ったのはガボール・ダムスキー(英語版)である。

地理[編集]

地勢[編集]





SPOTによるブダペストの衛星写真
市域面積は525平方キロメートルでブダペストはハンガリーの中央部に位置し、周辺部はペシュト県の市街のアグロメレーション(密集地)である。ブダペストは東西南北に25-29kmの範囲でそれぞれ広がり、ドナウ川は市街地の北側から入り込みオーブダ島とマルギット島の2つの島を回り込む。チェペル島はブダペストのドナウ川にある島では最大であるが、市域に含まれるのは北端の部分だけである。ドナウ川は2つの部分に分けられ、ブダペストには川幅が僅か230mの箇所もある。ペストは平坦な地勢の場所にあり、ブダは丘がちな地勢である[3]。ペストの地勢は僅かに東側に上りの傾斜があり市の最も東側の部分の標高はブダの良く知られた小さな丘であるゲッレールト丘 (Gellért) や城の丘と同じ程度である。ブダの丘は石灰岩や苦灰岩で主に構成され、水により二次生成物が作られる。ブダペストで有名なものにはパルヴギ窟 (Pálvölgyi) やセムルへギ窟 (Szemlőhegyi) がある。丘は三畳紀に形成され、ブダペストで一番高い地点は海抜527mのヤーノシュ山である。一番低い地点はドナウ川の地点で海抜96mである。ブダの丘陵地の森林は環境保護が成されている。

気候[編集]

ブダペストの気候は大陸性気候に属し、比較的寒い冬がやって来て地中海性気候のような乾燥した夏がやって来る。


ブダペストの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




最高気温記録 °C (°F)
18.1
(64.6) 19.7
(67.5) 25.4
(77.7) 30.2
(86.4) 34.0
(93.2) 39.5
(103.1) 40.7
(105.3) 39.4
(102.9) 35.2
(95.4) 30.8
(87.4) 22.6
(72.7) 19.3
(66.7) 40.7
(105.3)

平均最高気温 °C (°F)
1.2
(34.2) 4.5
(40.1) 10.2
(50.4) 16.3
(61.3) 21.4
(70.5) 24.4
(75.9) 26.5
(79.7) 26.0
(78.8) 22.1
(71.8) 16.1
(61) 8.1
(46.6) 3.1
(37.6) 15.0
(59)

日平均気温 °C (°F)
−1.6
(29.1) 1.1
(34) 5.6
(42.1) 11.1
(52) 15.9
(60.6) 19.0
(66.2) 20.8
(69.4) 20.2
(68.4) 16.4
(61.5) 11.0
(51.8) 4.8
(40.6) 0.4
(32.7) 10.4
(50.7)

平均最低気温 °C (°F)
−4.0
(24.8) −1.7
(28.9) 1.7
(35.1) 6.3
(43.3) 10.8
(51.4) 13.9
(57) 15.4
(59.7) 14.9
(58.8) 11.5
(52.7) 6.7
(44.1) 2.1
(35.8) −1.8
(28.8) 6.3
(43.3)

最低気温記録 °C (°F)
−25.6
(−14.1) −23.4
(−10.1) −15.1
(4.8) −4.6
(23.7) −1.6
(29.1) 3.0
(37.4) 5.9
(42.6) 5.0
(41) −3.1
(26.4) −9.5
(14.9) −16.4
(2.5) −20.8
(−5.4) −25.6
(−14.1)

降水量 mm (inch)
38.5
(1.516) 36.7
(1.445) 37.4
(1.472) 47.2
(1.858) 64.5
(2.539) 69.8
(2.748) 50.4
(1.984) 49.5
(1.949) 42.7
(1.681) 46.9
(1.846) 59.9
(2.358) 49.3
(1.941) 592.8
(23.339)

平均降水日数
7 6 6 6 8 8 7 6 5 5 7 7 78

平均月間日照時間
55 84 137 182 230 248 274 255 197 156 67 48 1,933
出典: www.met.hu[48]

経済[編集]





INGの建物




リヒター投資開発の建物
ブダペストは中央ヨーロッパの金融の中心でもあり[49]、マスターカードによるエマージング・マーケット(新興国市場)指標によると65都市中3位にランクされている他[50]、エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによるクオリティ・オブ・ライフの指標では中・東ヨーロッパでは最も住むのに適した都市とされている[51][52]。フォーブスによればヨーロッパでは7番目に住むのにはのどかな場所とされ[53]、UCityGuidesによれば世界で9番目に美しい街とされている[54]。中・東ヨーロッパでは革新的な100都市の指標で最高のランクをブダペストは付けている[55][56]。

ブダペストには 欧州連合の機関である欧州工科大学院 (EIT) が本拠地を置いている。 ブダペストは工業化により世界都市となった。1910年には人口の45.2%が工場労働者であった。1960年代にはハンガリーはヨーロッパでも最大規模の工業都市の一つで60万人の工場労働者がいた。1920年代から1970年代にかけてハンガリーの工業出荷額の半数以上をブダペストが占め、金属加工のFÉGや織物産業、自動車産業のIkarus Busなどは構造変化前のブダペストの産業の主要な部門を占めた[57]。現在、ブダペストではすべての産業の分野が見られる。ブダペストの現在の主要な部門は通信技術、コンピュータアプリケーション、電機、白熱灯などの照明器具である。製薬業もブダペストにおいては重要で Egis、Gedeon Richter Ltd.、Chinoinなどハンガリーの企業は知られている。テヴァ製薬産業もブダペストに部門を置いている。

工業は比較的郊外に立地しており、中心部はハンガリーテレコムやゼネラル・エレクトリック、ボーダフォン、Telenor、オーストリアのエルステ銀行、ハンガリーのCIB銀行、 K&H、ユニクレジット、ブダペスト銀行、INGグループ、アエゴン保険、アリアンツ、ボルボ等々、国内外の様々な大手企業が立地している。ブダペストはサービス、金融、コンサルティング、金融取引、商業、不動産など第三次産業の中心地である。取引やロジスティクスは良く発達し、観光や飲食業界も進んでおり市内には数千のレストランやバー、カフェ、パーティー施設が立地する。

観光[編集]

国会議事堂はネオ・ゴシックの建築様式で、聖イシュトヴァーンの王冠や剣、宝石、王笏など代々ハンガリー王が受け継いで来た戴冠用の品も展示されている。聖イシュトバーン大聖堂にはイシュトヴァーン1世の右手が、聖遺物として残されている。ハンガリー料理やカフェ文化はGerbeaud Café、Százéves、Biarritz、Arany Szarvas、世界的に有名な Mátyás Pinceなどが代表的である。アクインクム博物館にはローマ時代の遺構が残されており、歴史的な家具が ナジテーテーニ城博物館に残されている。ブダペストには200以上の博物館がある。

ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通りは世界遺産に登録されている。王宮の丘には3つの教会と6つの博物館、興味を惹く様々な建物、通りや広場がある。王宮はハンガリーを象徴するもので、13世紀以来戦いの舞台であった。今日では二つの印象的な博物館や国立セーチェーニ図書館がある。 シャンドール宮殿にはハンガリー大統領の執務室や官邸が含まれている。700年の歴史があるマーチャーシュ聖堂はブダペストでも貴重なものの一つで、その隣にある乗馬の彫像はハンガリーの初代国王で漁夫の砦からは市街地のパノラマを一望することができる。トゥルルの像はハンガリーの神話の守護鳥で王宮地区と12区で見ることができる。





聖イシュトヴァーンの王冠
ペスト側で最も重要な見所はアンドラーシ通りでコダーイ・コロンドとオクトゴンの間には多くのショップやフラットな建物が林立している。英雄広場と通りの間は庭園により分けられている。また、アンドラーシ通りの下には欧州大陸では初の地下鉄が通っておりほとんどの駅は開業当時の姿を保っている。ブダペストにはヨーロッパでは最大規模のシナゴーグがある[58]。ブダペスト市内にはユダヤ人地区のいくつかにそれぞれシナゴーグが置かれている。2010年にブダペストでは世界最大のパノラマ写真が撮られた[59]。

世界遺産[編集]

詳細は「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」を参照

世界遺産登録対象に含まれる主要建造物群は以下の通りである。
王宮の丘 ブダ城
マーチャーシュ聖堂
三位一体広場
漁夫の砦

ゲッレールトの丘とその周辺 ツィタデッラ
自由の像
ゲッレールト温泉
ルダッシュ温泉
ラーツ温泉

橋 マルギット橋
セーチェーニ鎖橋
エルジェーベト橋

ペシュトのドナウ河岸 国会議事堂
ハンガリー科学アカデミー
ヴィガドー(コンサートホール)
旧市街聖堂

アンドラーシ通り ハンガリー国立歌劇場
ブダペスト地下鉄1号線

英雄広場

その他の名所[編集]
ヴァーロシュリゲット セーチェーニ温泉

聖イシュトバーン大聖堂




温泉[編集]

ブダペストに温泉がある理由の一つに古代ローマが最初にこの地域を植民化しドナウ川の直ぐ西側に地域の首府となるアクインクム(現代のブダペスト北部のオーブダ)を創建したことに遡る。ローマ人たちは熱水を利用し、享受しており当時巨大な浴場を建設していた。現代でもその遺構を見ることができる。新しい浴場は1541年-1686年のオスマン帝国支配期に入浴と医療的な目的で建設され、今日でも利用されている。ブダペストは「スパの街」と言う定評を受けており、1920年代に最初の温泉による訪問客による経済的な恩恵を達成した。1934年には正式にブダペストは「スパの街」の地位を占めるようになった。今日、温泉はほとんどが年配者に良く利用され「マジックバス」と"Cinetrip" を除いて若い人たちは夏に開かれるlidosを好む。キラーイ温泉 (Király) は1565年に創建され、現代の建物はほとんどがトルコ支配期に遡り、ドーム状の屋根のプールも含まれる。ルダシュ温泉は中心部にあり、ゲッレールト丘とドナウ川の狭い場所に位置し、トルコ支配期に遡る建物が目立つ。主な特徴は八角形のプールで、光輝く直径10mのドーム状屋根を8本の柱が支えている。

ゲッレールト温泉とホテルゲッレールトは1918年に建てられかつてはトルコの温泉と中世期の病院がこの地にあった。1927年に浴場が拡張され、その中には波のプールが含まれ1934年には発泡風呂が加えられた。新古典主義の特徴が良く残され、色鮮やかなモザイクや大理石の柱、ステンドグラスの窓、彫像が含まれる。ルーカチュ温泉 (Lukács) もまたブダにあり、トルコの温泉を元とし唯一19世紀後半に復活した温泉である。スパと医療施設が設立されている。19世紀末の退廃的な雰囲気 (fin-de-siècle) が今でも残されている。1950年代以来、芸術家や知識人の中心と見なされている。

セーチェニ温泉はヨーロッパでも最大規模の複合温泉施設の一つで、ペスト側では唯一設けられた古い医療用の温泉である。内部の医療用温泉は1913年に遡り、屋外のプールは1927年に遡る。雄大な雰囲気があり、すべての場所は明るく巨大なプールはローマ風呂のようで小規模な浴場はギリシャの風呂文化を思い出させ、サウナと飛び込み用のプールは伝統的なスカンジナビアの発散する方法を借りてきている。屋外の3つのプールは冬季を含め年間を通して開いている。屋内のプールは10以上に分かれており、医療用に利用できる。

ハンガリー







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曖昧さ回避 フランツ・リストの交響詩については「ハンガリー (リスト)」をご覧ください。


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ハンガリーMagyarország

ハンガリーの国旗

ハンガリーの国章

(国旗) (国章)
国の標語:なし国歌:賛称(神よマジャル人を祝福し賜え)ハンガリーの位置

公用語
ハンガリー語(マジャル語)

首都
ブダペスト(ブダペシュト)

最大の都市
ブダペスト(ブダペシュト)
政府

大統領
アーデル・ヤーノシュ

首相
オルバーン・ヴィクトル
面積

総計
93,030km2(107位)

水面積率
0.7
人口

総計(2011年)
9,985,722人(80位)

人口密度
108人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年)
26兆7,000億[1]フォリント
GDP(MER)

合計(2005年)
1,562億[1]ドル(44位)
GDP(PPP)

合計(2003年)
1,960億[1]ドル(48位)

1人あたり
19,499[1]ドル


オーストリア・ハンガリー帝国から独立
ハンガリー王国成立
ソビエト連邦による占領
第三共和国成立
1918年10月31日
1920年3月1日
1945年5月8日
1989年10月23日

通貨
フォリント(HUF)

時間帯
UTC +1(DST:+2)

ISO 3166-1
HU / HUN

ccTLD
.hu

国際電話番号
36

ハンガリーは、中央ヨーロッパの共和制国家である。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国であり、首都はブダペスト。

国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる[2]。首都ブダペスト(ブダペシュト)にはロンドン、イスタンブルに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)
2.2 ハンガリー民主共和国時代(1918年 - 1919年)
2.3 ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年)
2.4 ハンガリー王国時代(1920年 - 1946年)
2.5 戦後から社会主義時代(1945年 - 1989年)
2.6 第三共和国(1989年 - 現在)

3 政治 3.1 主な政党
3.2 その他特筆すべき政党

4 軍事
5 地方行政区分 5.1 主要都市

6 地理
7 経済 7.1 工業
7.2 鉱業
7.3 ハンガリーの通貨単位の変遷

8 国民
9 文化 9.1 食文化
9.2 文学
9.3 哲学
9.4 音楽
9.5 科学
9.6 温泉文化
9.7 世界遺産
9.8 祝祭日
9.9 スポーツ

10 参考文献
11 脚注
12 関連項目 12.1 一覧

13 外部リンク


国名[編集]

正式名称はハンガリー語で Magyarország。公式の英語表記は Hungary。

日本語の表記はハンガリー。漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。

ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多い。実際の音では伸ばさず「マジャル」となる。

歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。

「ハンガリー」は俗説にあるような「フン族」が語源ではなく、「ウンガルン」(独: Ungarn)、「ウガリア」(希: Ουγγαρία)に見られるように元々は語頭の h がなかった。語源として一般に認められているのは、7世紀のテュルク系の Onogur という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。

2012年1月1日より新たな憲法「ハンガリー基本法」が施行され国名が変更された[3]。
1989年 - 2011年 ハンガリー共和国(Magyar Köztársaság(マジャル ケスタールシャシャーグ))
2012年 - ハンガリー(Magyarország(マジャルオルサーグ))

歴史[編集]

詳細は「ハンガリーの歴史」を参照

ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。

古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中頃属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。





12世紀のハンガリー王国
フン族はその後アキラ(日本では一般的にアッティラ)の時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アキラが40歳で死亡した後、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。

ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)[編集]

10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀頃には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。

1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争(1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加。

1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。





オーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリー(赤、1914年)
1848年の3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年にキエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下、資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。

ハンガリー民主共和国時代(1918年 - 1919年)[編集]

1918年10月31日にアスター革命(ハンガリー語版)(ハンガリー語: Őszirózsás forradalom)でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー民主共和国が成立し、社会民主党系のカーロイ・ミハーイ (en) が初代大統領及び首相を務める。

ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年)[編集]

1919年3月、ハンガリー共産党のクン・ベーラによるハンガリー革命(英語版)が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国(3月21日 - 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。

ハンガリー王国時代(1920年 - 1946年)[編集]





ハンガリー王国 (1920-1946)。黄が1920年、緑が1941年の領域。
1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。1920年6月4日に結ばれたトリアノン条約により、ハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうち、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。

1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、1938年のミュンヘン協定、ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻(英語版)[4]、1939年のスロバキア・ハンガリー戦争(英語版)、二度のウィーン裁定等で一部領土を回復した。第二次世界大戦では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて枢軸国に加わり、独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の国民統一政府(英語版)が成立、1945年5月8日の敗戦まで枢軸国として戦うことになった。一方でソビエト連邦軍の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加したハンガリー国民臨時政府(ハンガリー語版)が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。

戦後から社会主義時代(1945年 - 1989年)[編集]





首都ブダペストを制圧するソ連軍(ハンガリー動乱)
1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかしソビエト連邦の占領下におかれたハンガリーでは、共産化の影響力が次第に高まりつつあった。1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は一応終結したが、ソ連軍はそのまま駐留し続けることになった。ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年にハンガリー人民共和国が成立。ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソビエト連邦の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。しかし、ソビエト連邦に対する反発も根強く、1956年にはハンガリー動乱が起こったが、ソビエト連邦軍に鎮圧された。勤労者党はハンガリー社会主義労働者党に再編され、カーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズム(英語版)と呼ばれる比較的穏健な社会主義政策がとられた。

1980年代後半になると、ソビエト連邦のペレストロイカとともに、東欧における共産党独裁の限界が明らかとなった。社会主義労働者党内でも改革派が台頭し、ハンガリー民主化運動が開始され、1989年2月には憲法から党の指導性を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。また6月には複数政党制を導入し、社会主義労働者党もハンガリー社会党に改組された。

第三共和国(1989年 - 現在)[編集]

1989年10月23日、ハンガリー共和国憲法施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構 (NATO) に、2004年に欧州連合 (EU) に加盟した。

ハンガリー第三共和国の国旗と国章では、ファシズム体制を敷いた矢十字党の「矢印十字」の紋章と、共産党時代の「赤い星」の紋章が消去されている。又、ナチスドイツ、矢十字党、ソビエト連邦、共産党一党独裁による圧制の反動から、「鉤十字」「矢印十字」「鎌と槌」「赤い星」の使用が、1993年の改正刑法にて禁止されている[5]。2008年にはバルト三国全域で、2009年11月にはポーランド第三共和国で、「鉤十字」と「鎌と槌」の両方を禁止する法律が可決された。

2011年に新憲法「ハンガリー基本法」への改正が行われた。

政治[編集]





ブダペストの国会議事堂
ハンガリーの大統領は任期5年で議会によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な元首である。実権は議院内閣制をとる首相にあり、自ら閣僚を選んで行政を行う。

「ハンガリーの国家元首一覧」および「ハンガリーの首相一覧」も参照

立法府の国民議会 (Országgyűlés) は一院制、民選で、任期は4年、定員は386人である。国民議会は国家の最高権威機関であり、全ての法は国民議会の承認を経なければ成立しない。

純粋に司法権を行使する最高裁判所とは別に憲法裁判所が存在し、法律の合憲性を審査している。

主な政党[編集]

詳細は「ハンガリーの政党」を参照
ハンガリー社会党 (MSZP)(中道左派・社会民主主義、ハンガリー社会主義労働者党の後身)
自由民主同盟 (SZDSZ)(リベラリズム・社会自由主義)
フィデス=ハンガリー市民同盟 (FIDESZ-MPSZ)(中道右派・保守主義・キリスト教民主主義)
キリスト教民主国民党 (KDNP)
ハンガリー民主フォーラム (MDF)(中道右派・保守主義・キリスト教民主主義)

その他特筆すべき政党[編集]
インターネット民主党 (IDE)(直接民主主義)
よりよいハンガリーのための運動 (Jobbik)(急進派民族主義・欧州懐疑主義・キリスト教民主主義、MIÉP – Jobbik a Harmadik Útの後身)

軍事[編集]





ハンガリー空軍のサーブ 39 グリペン
詳細は「ハンガリー国防軍」を参照

内陸国であるため海軍は持たず、現在の国軍は、陸軍及び空軍の二軍からなる。1999年に北大西洋条約機構に加盟し、西欧諸国と集団安全保障体制をとっている。

軍の歴史は長く、第一次世界大戦時にはオーストリア=ハンガリー二重帝国として中央同盟軍の一角を占めていた。戦後の独立ハンガリーは1920年のトリアノン条約により兵力を制限されていた。その反動もあって第二次世界大戦時には枢軸国として参戦し、東部戦線にも兵力を出している。1945年にはソ連軍に占領され、冷戦時には共産圏国家として、ワルシャワ条約機構に加盟していた。

地方行政区分[編集]

詳細は「ハンガリーの地方行政区画」を参照

ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ (megye) で、20はメジェと同格の市という行政単位(正確には都市郡; megyei város)。なお首都のブダペスト市はいずれにも属さない、独立した自治体である。





ハンガリーの地理西部 ヴァシュ県の旗 ヴァシュ県(ソンバトヘイ)
ザラ県の旗 ザラ県(ザラエゲルセグ)
ショモジ県の旗 ショモジ県(カポシュヴァール)
ヴェスプレーム県の旗 ヴェスプレーム県(ヴェスプレーム)
ジェール・モション・ショプロン県の旗 ジェール・モション・ショプロン県(ジェール)

中部 コマーロム・エステルゴム県の旗 コマーロム・エステルゴム県(タタバーニャ)
フェイェール県の旗 フェイェール県(セーケシュフェヘールヴァール)
ペシュト県の旗 ペシュト県(ブダペシュト)
ノーグラード県の旗 ノーグラード県(シャルゴータールヤーン)

南部 トルナ県の旗 トルナ県(セクサールド)
バラニャ県の旗 バラニャ県(ペーチ)
バーチ・キシュクン県の旗 バーチ・キシュクン県(ケチケメート)
チョングラード県の旗 チョングラード県(セゲド)

東部 ベーケーシュ県の旗 ベーケーシュ県(ベーケーシュチャバ)
ヘヴェシュ県の旗 ヘヴェシュ県(エゲル)
ハイドゥー・ビハール県の旗 ハイドゥー・ビハール県(デブレツェン)
ヤース・ナジクン・ソルノク県の旗 ヤース・ナジクン・ソルノク県(ソルノク)
サボルチ・サトマール・ベレグ県の旗 サボルチ・サトマール・ベレグ県(ニーレジハーザ)
ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県の旗 ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県(ミシュコルツ)


旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、ハンガリー王国の歴史的地域を参照。

主要都市[編集]



都市



人口(2005年)


1
ブダペスト − 1,702,297

2
デブレツェン ハイドゥー・ビハール県 204,297

3
ミシュコルツ ボルショド・アバウーイ・ゼムプレーン県 171,096

4
セゲド チョングラード県 167,039

5
ペーチ バラニャ県 156,649

6
ジェール ジェール・モション・ショプロン県 128,808

7
ニーレジハーザ サボルチ・サトマール・ベレグ県 116,298

8
ケチケメート バーチ・キシュクン県 109,847

9
セーケシュフェヘールヴァール フェイェール県 101,755

地理[編集]





ハンガリーの地形
ハンガリーの国土はカルパティア山脈の麓に広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、東には大きな支流のティサ川も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖であるバラトン湖がある。また各地に温泉が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。ヨーロッパ有数の「温泉大国」であり、多くの観光客が温泉目当てに押し寄せる。 トランシルヴァニア地方など、ルーマニアとの国境係争地帯を持っている。

大陸性気候に属する気候は比較的穏やかで、四季もある。緯度が比較的高く、冬は冷え込むが、地中海から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で、曇りがちである。年間平均気温は10度前後。





ドナウ川



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ケレシュ山



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経済[編集]





首都ブダペスト
ハンガリーは1989年の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、1997年以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が国内総生産 (GDP) の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどであった。また2004年の欧州連合加盟は、当時のハンガリー経済にとって追い風になった。

しかしその後、インフレーションと失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題として常態化した。また巨額の財政赤字も重要な課題であり、現政権が目標とするユーロ導入への見通しは立っていない。

伝統的な産業ではアルコールが強い。特にワインは有名で、ブルゲンラント、ショプロン、ヴィッラーニなど著名な産地があるが、中でもトカイのトカイワインはワインの王と言われる。農業ではパプリカが名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。ガチョウの飼育も盛んであり、ドナウ川西岸(ドゥナーントゥール(ハンガリー語版)地方)が主産地である。ハンガリー産のフォアグラもよく輸出されている。


工業[編集]





北部の都市エステルゴムにあるスズキ工場は6千人の従業員を抱える。
第二次世界大戦前のハンガリーは肥沃な土壌と計画的な灌漑設備により、農業国として成立していた。そのため、食品工業を中心とした軽工業が盛んであった。第二次世界大戦後、社会主義下の計画経済によって重工業化が進められた。特に、車両生産、一般機械が優先され、化学工業、薬品工業がそれに次いだ。しかし、有機鉱物資源とボーキサイトを除くと、工業原材料には恵まれておらず、輸入原材料を加工し、輸出するという形を取った。1970年代には工業を中心とする貿易が国民所得の40%を占めるまで成長した。

共産主義体制から資本主義体制に転換後、1990年代初頭においては、化学工業の比重が次第に大きくなっていく傾向にあった。2003年時点では、全産業に占める工業の割合がさらに高まっており、輸出額の86.8%を工業製品が占めるに至った。さらに貿易依存度は輸出54.5%、輸入59.2%まで上がっている。品目別では機械工業が再び盛んになっており、輸出に占める比率は電気機械36.1%、機械類16.2%、自動車8.2%というものである。世界シェアに占める比率が高い工業製品は、ワイン(1.7%、49万トン)、硝酸(1.5%、31万トン)である。

鉱業[編集]

ハンガリーの鉱業は、燃料に利用できる亜炭とボーキサイトが中核となっている。有機鉱物資源では、世界シェアの1.5%を占める亜炭(1391万トン、2002年)、原油(107万トン)、天然ガス(115千兆ジュール)を採掘する。有力な炭田は南東部ベーチ近郊、首都ブダペストの西方50kmに位置するタタバーニャ近郊の2か所に広がる。油田は中央南部セゲド近郊と、スロベニア、クロアチア国境に接する位置にある。

金属鉱物資源ではボーキサイト(100万トン)が有力。バラトン湖北岸からブダペストに向かって北東に延びる山地沿いで採掘されている。ただし、採掘量は減少傾向にある(1991年には203.7万トンが採掘されていた)。この他、小規模ながらマンガンとウランの採掘も見られる。

ハンガリーの通貨単位の変遷[編集]
フォリント / フィッレール(現行)
ペンゲー
フロリン
クライツァール

国民[編集]



民族構成(ハンガリー)


マジャル人

95%
ドイツ人

1%
その他

4%

ハンガリー共和国の国民の95%以上はマジャル人(ハンガリー人)である。マジャル人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語(マジャル語)を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた民族である。マジャル人の人名は、正式に表記した際に姓が名の前に付く。 なお、この姓に関しては、婚姻の際には、自己の姓を使い続ける(夫婦別姓)、夫婦同姓、あるいは(間にneをはさんだ)結合姓のいずれでも選択可能である。





ハンガリー語話者の分布
マジャル人は旧ハンガリー王国領に広まって居住していたため、セルビアのヴォイヴォディナ、クロアチア北部、スロバキア南部、ルーマニアのトランシルヴァニアなどにもかなりのマジャル人人口が残る。また、マジャル人の中にはモルダヴィアのチャーンゴー、トランシルヴァニアのセーケイや、ハンガリー共和国領内のヤース、マチョー、クン、パローツなどの文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人がアラン人の末裔、クン人がクマン人の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。

その他の民族では、有意の人口を有するロマ(ジプシー)とドイツ人が居住する。ハンガリー科学アカデミーの推計では人口約1000万人のうち約60万人がロマとされる。また、ドイツ人は東方植民地運動の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニアのサース人(ザクセン人)やスロヴァキアのツィプス・ドイツ人のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。

その他の民族では、ルテニア人(ウクライナ人)、チェコ人、クロアチア人、ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、第二次世界大戦中の迫害などによってアメリカ合衆国やイスラエルに移住していった人が多い。

ハンガリー人が黄色人種であるという説は、アジアおよびアジア人の定義が曖昧であること、また、過去の人種の定義が現在とは多少異なることからくる誤謬であると言える。

近年の DNA 分析によるとハンガリー人はコーカソイド(白人)に分類されるが、わずかにモンゴロイド(黄色人種)特有のアセトアルデヒド脱水素酵素D型が検出されることから、モンゴロイドとの混血により遺伝子の流入があったと考えられる[6]。

言語的には、ハンガリー語が優勢で、少数民族のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%にのぼる。

宗教はカトリック (67.5%) が多数を占め、カルヴァン派もかなりの数にのぼる (20%) 。その他ルター派 (5%) やユダヤ教 (0.2%) も少数ながら存在する。


文化[編集]





フランツ・リスト
詳細は「ハンガリーの文化」を参照

食文化[編集]

詳細は「ハンガリー料理」を参照

トルテやクレープに似たパラチンタなど、食文化はオーストリアと共通するものが多いが、ハンガリーの食文化の特色は乾燥させて粉にしたパプリカの多用と種類の豊富なダンプリングにある。パプリカを用いた煮込み料理グヤーシュは世界的に有名である。ドナウ川西岸のドゥナーントゥール地方では、古くからフォアグラの生産が盛んである。

ワインの生産も盛んで、トカイワインなどが有名である。

文学[編集]

詳細は「ハンガリー文学」を参照

哲学[編集]

ハンガリー出身の哲学者として、『歴史と階級意識』でソビエト連邦のマルクス=レーニン主義に対する西欧マルクス主義の基礎を築いたルカーチ・ジェルジの名が特筆される。この他、社会学者のカール・マンハイムや、経済人類学者のカール・ポランニー(オーストリア=ハンガリー帝国時代)がいる。

音楽[編集]

詳細は「ハンガリーの音楽」を参照

ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化を持ち、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団(ロマなど)を担い手とする民族音楽は有名である。

また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、フランツ・レハール、コダーイ・ゾルターン、バルトーク・ベーラなど多数の著名なクラシック音楽の作曲家も輩出した。多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲した音楽家も多い。また指揮者のゲオルグ・ショルティやピアニストのアンドラーシュ・シフもハンガリー出身である。

科学[編集]





ルービックキューブ。Play
ハンガリーは歴史的に多数の科学者を輩出している。ナチスの迫害から逃れるため、米国に亡命した科学者はコンピュータの開発で活躍した。ハンガリーは優れた数学教育で有名であるが、未だフィールズ賞受賞者はいない。有名な数学者にはエルデーシュ・パールやフランクル・ペーテルらがいる。

ハンガリー人は様々な分野で後世に影響を与える発明をしている。ハンガリー人の発明にはルビク・エルネーによるルービックキューブやブローディ・イムレによるクリプトン電球等がある。ハンガリー出身の科学者は核兵器やコンピュータの開発に貢献した。ナイマン・ヤーノシュ(ジョン・フォン・ノイマン)はコンピュータの開発に貢献した。ケメーニィ・ヤーノシュは米国人計算機科学者のトーマス・E・カーツと共に BASIC を開発した。

温泉文化[編集]

ハンガリーでは温泉が湧き出し、温泉文化が古くから伝わっている。ブダペストにおける温泉文化は2000年近くある。ブダペストのオーブダ地区にある、古代ローマ時代のアクインクム遺跡に、ハンガリー最初の温泉浴場が建設された[7]。当時の浴場跡を今日でも見ることができる。オスマン帝国に支配されていたときに、ドナウ川河畔に発達した。

1937年国際沿療学会議ブダペスト大会で、ブダペストは国際治療温泉地に認定され、世界的に温泉に恵まれた首都と呼ばれるに至った[7]。

オスマン帝国時代の建物をそのまま残す、ルダシュ・キーライなどの浴場は、今日でも親しまれている。1913年に作られたセーチェーニー浴場は湯量毎分3700L[7]という豊かな湯量と豪奢な建物で知られている。





ヘーヴィーズ湖
温水湖であるヘーヴィーズ湖は、自然温水湖である。ハンガリーにおいて最も古くから知られており、古代ローマ時代の記録に遡り、2000年の歴史がある。4.4ヘクタール、水深38m、泉質は硫黄、ラジウム、カルシウム、マグネシウム等のミネラルを含む。泉からは大量に湧き出し、48時間で水が入れ替わる。水温は冬は23-25℃、夏は33-36℃である。


世界遺産[編集]

詳細は「ハンガリーの世界遺産」を参照

ハンガリー国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。さらにオーストリアにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。

祝祭日[編集]


日付

日本語表記

ハンガリー語表記

備考

1月1日 元日 Újév
3月15日 1848年の革命と自由戦争記念日 Nemzeti ünnep 1848年の3月革命を記念
移動祝日 イースターおよびイースター・マンデー Húsvétvasárnap, Húsvéthétfő
5月1日 メーデー Munka ünnepe
移動祝日 ペンテコステ Pünkösd 復活祭から50日後
8月20日 建国記念日(聖イシュトヴァーンの祝日) Szent István ünnepe
10月23日 1956年革命、および共和国宣言の記念日 Az 1956-os forradalom ünnepe, A 3. magyar köztársaság kikiáltásának napja 現在のハンガリーでは1956年の動乱は革命と呼ばれている
11月1日 諸聖人の日 Mindenszentek
12月25日、26日 クリスマス Karácsony

スポーツ[編集]





マジック・マジャール時代の主将プシュカーシュ・フェレンツ
詳細は「ハンガリーのスポーツ」を参照

近代オリンピックは夏季冬季共に、第1回から参加している(1920年と1984年は不参加)。フェンシング、射撃、水球、近代五種競技にて特に活躍が見られる[7]。

最も人気のあるスポーツはサッカーである[7]。ナショナルチームは1950年代に世界でも屈指の強豪国として名を馳せた(詳細はサッカーハンガリー代表・マジック・マジャールの項参照)

雪山がほとんどないため、ウインタースポーツは盛んではない。

参考文献[編集]
伊東孝之、萩原直、柴宜弘ほか著 『東欧を知る事典』 平凡社 ISBN 4-582-12630-8

脚注[編集]

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1.^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.^ 農林水産省. “ハンガリーの農林水産業概況 (HTML)”. 2008年8月9日閲覧。
3.^ 在ハンガリー日本国大使館案内. “ハンガリーの国名変更 (HTML)”. 2012年1月15日閲覧。
4.^ ナチス・ドイツ主導によるチェコスロバキア共和国(英語版)解体(チェコスロバキア併合)の課程でカルパト・ウクライナは独立しカルパトのシーチ(ウクライナ語版)軍が守っていたが、独立直後にハンガリー王国はカルパト・ウクライナへ侵攻し、併合した。
5.^ ハンガリー文化センター 2008年7月6日〜12日のニュース
6.^ 『科学朝日』 モンゴロイドの道 朝日選書 (523) より。北方モンゴロイド特有の酒が飲めない下戸遺伝子 日本人: 44%、ハンガリー人: 2%、フィン人: 0% 下戸遺伝子とは、アセトアルデヒド脱水素酵素 (ALDH) の487番目のアミノ酸を決める塩基配列がグアニンからアデニンに変化したもので、モンゴロイド特有の遺伝子であり、コーカソイド(白人)・ネグロイド(黒人)・オーストラロイド(オーストラリア原住民等)には存在しない。よってこの遺伝子を持つということは、黄色人種であるか、黄色人種との混血であることの証明となる[2]。
7.^ a b c d e 田代文雄『東欧を知る事典』692頁

オーストリア

オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン語: Republik Östareich、英: Republic of Austria)、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都はウィーン。

ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。

中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。その後も1938年にナチス・ドイツに併合され、1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復により現在につづく体制となった。

音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語同民族でありながら複雑な国家関係が続いてきたドイツとの距離が縮まり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。

本項では主に1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史、ハプスブルク君主国、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、第一共和国 (オーストリア)、連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。



目次 [非表示]
1 国名 1.1 オーストラリアとの混同
1.2 オーストリー表記

2 歴史
3 政治 3.1 国際関係
3.2 軍事
3.3 行政区分
3.4 オーストリアの地方名
3.5 主要都市

4 地理 4.1 気候

5 経済 5.1 金融

6 交通 6.1 鉄道
6.2 航空

7 国民 7.1 民族
7.2 言語
7.3 宗教

8 文化 8.1 食文化
8.2 音楽 8.2.1 クラシック音楽

8.3 世界遺産
8.4 祝祭日

9 スポーツ
10 著名な出身者
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称は Republik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。

通称 Österreich.ogg Österreich(エースターライヒ)[ヘルプ/ファイル]。Ö [øː] は正確には日本語の「エ」ではなく「オ」と「エ」の中間のような音だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習がある。er は現代の発音では音節末で 「ア」[ɐ](中舌狭めの広母音)となり、 ドイツ語では短母音だが、日本語では「アー」と表記される習慣がある。ウィーンなどの現地では、「エースタ・ライヒ:['ø:stɐraɪç]」と、南ドイツ語の特徴である滑らかな発音をするのが正しいとされる。

公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国。通称オーストリア。漢字表記では墺太利(略表記:墺)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースターライヒ、エスタ(ー)ライヒ、または舞台ドイツ語的表記によるエステ(ル)ライヒであり、専門書や各種サイトなどで使用されている。

国名の Österreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国のころにオストマルク東方辺境領が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。

ドイツ語のエスターライヒの reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。reich には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。

なお隣国のチェコ語では Rakousko / Rakúsko と呼ぶが、これは国境の地域の名前に由来している。

オーストラリアとの混同[編集]

オーストリア(Austria)はしばしばオーストラリア(Australia)と間違われるが、オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し、オーストリアとは語源的にも無関係である。しかし、綴りや発音が似ているため、多くの国でオーストリアとオーストラリアが混同されることがある。

日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている[1]。

2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥ア」、オーストラリアを「オース虎リア」と覚える様に呼びかけている。

両国名の混同は日本だけではなく英語圏の国にも広く見られ、聞き取りにくい場合は "European" (ヨーロッパのオーストリア)が付け加えられる場合がある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA (オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。

オーストリー表記[編集]

2006年10月に、駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した[2]。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。

発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。

しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した[3]。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。

その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している[4]。

大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断った上で
オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる
マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する
「オーストリーワイン」がその成功例である

などと述べるにとどまっている[5]。

日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。

歴史[編集]

詳細は「オーストリアの歴史」を参照

ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域には様々なケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた[6]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア王国(英語版)(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[6]。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[7]。





1605年の ハプスブルク皇帝の紋章。
オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表している[7]。1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦い(英語版)でフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[8] 。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[8] 。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[9]。

ザルツブルクはザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が領主となった。

14世紀から15世紀にかけてハプスブルク家はオーストリア公領周辺領域を獲得してゆく。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。

ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年、フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[10][11]。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、更にその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[10][11]。1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死した後、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[12] オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになり、特に1593年から1606年までは長い戦争(ドイツ語版、トルコ語版、英語版)(Long War)として知られる。





1683年の第二次ウィーン包囲はオスマン帝国のヨーロッパ侵略を打ち砕いた。
宗教改革運動が始まると神聖ローマ皇帝たるハプスブルク家は旧教派の盟主となって新教派と対立、1618年に三十年戦争が勃発する。ドイツを荒廃させた長期の戦争は1648年にウェストファリア条約が結ばれて終結し、これにより神聖ローマ帝国は形骸化してしまった。

レオポルト1世 (1657年–1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)[13] に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約によりオーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに領土と権威を明け渡してしまった。1731年、ザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)のザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルト・アントン・エロイテリウス(英語版)(在位:1727年 - 1744年)によるプロテスタント迫害(de:Salzburger Exulanten)が始まり、2万人と云われる人口流出が起った。多くのプロテスタントを受け入れたプロイセンが大国として台頭することになった。このザルツブルク追放を題材にして、ゲーテは『ヘルマンとドロテーア』を書いた。

カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンを巡って再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。オーストリアはプロシア、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。





ジャン・バティスト・イザベイ作「ウィーン会議」、1819年。
フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、1806年に形骸化していた神聖ローマ帝国は消滅した。この2年前の[14] 1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における四つの列強国の一つと認められた。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦がつくられる。未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争の為にドイツは統一国家を目指した[15]1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦の何れかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦いシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。だが、オーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い[15] で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[16][17]。





18世紀のウィーン。
1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[18]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、更にはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。

この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。例えばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告(Reichsgesetzblatt)は8言語で発行され、全ての民族は各自の言語の学校で学べ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対に他の民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。





1910年時点のオーストリア=ハンガリーの言語民族地図。
1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、これが列強諸国を巻き込み第一次世界大戦へ導いてしまった。

4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び事実上の降伏をした。直後に革命が起こり、皇帝カール1世は退位して共和制(ドイツオーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉した。

1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、その他の領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の1/4程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった[19]。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツオーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。

戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いて来たが、そこへ世界恐慌が起きて再び財政危機に陥ってしまう。

1933年にキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)[20][21]。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた[22]。対立が高まり内戦(2月内乱)となる[20][21][23]





進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民。
内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[24][23]、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス党のクーデターが起こり暗殺された[25][26]。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[27]。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。

オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオーストリアをオストマルク州とし[27]、1942年にアルペン・ドナウ帝国大管区と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[28] 、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は260,000人[29] 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は65,000人に上っている[30]。

ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領されオーストリア連合国委員会によって管理された[31]。1943年のモスクワ宣言の時から予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[28]、ドイツ同様に分断される恐れがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[32]。

冷戦の影響を受け数年かかった交渉の末に1955年5月15日、占領4カ国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言し、これは今日まで続いているが欧州連合への加盟に従い間接的な憲法改正は加えられている[33]。





インスブルックは1964年と1976年のオリンピックを開催している。
第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年及び1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党に党員に平等に分配されるというものである[34]。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある[35]。1945年以降、単独政権は1966年-1970年(国民党)と1970年-1983年(社会党)だけで、他の期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)の何れかになっている。

オーストリアは1995年に欧州連合に加盟した[36]。国民党と社会民主党(旧社会党)は軍事の非同盟政策について異なる意見を持っている。社会党は中立政策を支持し、一方、国民党は欧州連合安全保障体制との一体化を主張している。国民党の議員の中にはNATO加入すら否定しない意見もある。実際にオーストリアは欧州連合の共通外交・安全保障政策に加わっており、いわゆるピーターズバーグ・アジェンダ(平和維持と平和創造を含む)に参加して、NATOの「平和のためのパートナーシップ」のメンバーになっている。これらに伴い憲法が改正されている。シェンゲン協定により、2008年以降、国境管理を行っている隣国はリヒテンシュタインのみとなった。


政治[編集]





ウィーンの国民議会。
政体は連邦共和制。議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか絶対拒否権を行使できない。国家元首の連邦大統領 (Bundespräsident) は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とする連邦会議 (Bundesversammlung) で行われる。連邦会議は非常設の連邦機関で、この他に任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認がある。連邦政府の首班は連邦首相 (Bundeskanzler)。連邦政府 (Bundesregierung) は国民議会における内閣不信任案の可決か、大統領による罷免でしか交代することはない。

政党には、中道右派のオーストリア国民党 (ÖVP)・中道左派のオーストリア社会民主党(SPÖ, 旧オーストリア社会党、1945-91)・極右のオーストリア自由党 (FPÖ)・同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZÖ, 自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる緑の党がある。

2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右派(自由党→オーストリア未来同盟)との連立政権が解消され、中道左派・社会民主党と国民党の大連立に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右派の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右派は第一共和国時代のキリスト教社会党・オーストリア社会民主労働党・ドイツ民族主義派(諸政党…「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。

国際関係[編集]

オーストリア共和国は第二次世界大戦後の連合国による占領を経て、1955年に永世中立を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。

欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。

加盟した欧州連合においては軍事面についても統合がすすめられており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論がおこっている。

歴史的、地理的に中欧・東欧や西バルカンの国と関係が深く、クロアチアなどの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコの欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年に日墺修好通商航海条約を締結して以来友好な関係である。特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った [37]。

軍事[編集]

詳細は「オーストリア軍」を参照

国軍として陸軍および空軍が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6ヶ月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。

行政区分[編集]





オーストリアの地図。




ザルツブルク旧市街。
9つの州が存在する。

詳細は「オーストリアの地方行政区画」を参照


名称

人口(人)

州都/主府/本部

備考

ブルゲンラント州の旗 ブルゲンラント州
Burgenland 277,569 アイゼンシュタット
Eisenstadt
ケルンテン州の旗 ケルンテン州
Kärnten 559,404 クラーゲンフルト
Klagenfurt
ニーダーエスターライヒ州の旗 ニーダーエスターライヒ州
Niederösterreich 1,545,804 ザンクト・ペルテン
St. Pölten
オーバーエスターライヒ州の旗 オーバーエスターライヒ州
Oberösterreich 1,376,797 リンツ
Linz
ザルツブルク州の旗 ザルツブルク州
Salzburg 515,327 ザルツブルク
Salzburg
シュタイアーマルク州の旗 シュタイアーマルク州
Steiermark 1,183,303 グラーツ
Graz
チロル州の旗 チロル州
Tirol 673,504 インスブルック
Innsbruck
フォアアールベルク州の旗 フォアアールベルク州
Vorarlberg 372,791 ブレゲンツ
Bregenz
ウィーンの旗 ウィーン
Wien 1,550,123


オーストリアの地方名[編集]
アルプス山脈
ドナウ川
イン川
ライタ川
ボーデン湖
ノイジートラー湖
ザルツカンマーグート Salzkammergut
ウィーンの森 Wienerwald
ヴァッハウ渓谷 Wachau
グロスグロックナー山

主要都市[編集]





国内最大の都市であるウィーンは国際機関も集積する、欧州有数の世界都市である。


都市



人口(2006)

1 ウィーン 1,680,266
2 グラーツ シュタイアーマルク州 252,852
3 リンツ オーバーエスターライヒ州 188,968
4 ザルツブルク ザルツブルク州 150,269
5 インスブルック チロル州 117,916
6 クラーゲンフルト ケルンテン州 92,404

アイゼンシュタット
クレムス
ザンクト・ペルテン
シュタイアー
バーデン
バート・イシュル
ゼーフェルト
ハルシュタット
ハル
ブラオナオ
ブレゲンツ
マリアツェル
メルク
リエンツ

地理[編集]





オーストリアの地形。




最高峰グロースグロックナー山




オーストリアは1999年よりユーロを導入している。
国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、同山麓、カルパチア盆地 (パンノニア低地) 、ウィーン盆地、北部山地 (ボヘミア高地) に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500m以下は全土の32%に過ぎない。最高地点はグロースグロックナー山 (標高3798m) である。アルプスの水を集めドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。

気候[編集]

気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。

経済[編集]

2005年の一人当たりGDPは世界第10位に位置し、経済的に豊かな国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。失業率は他の欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとり日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKGは、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。
オーストリア企業の一覧

金融[編集]

バンク・オーストリア、エアステ銀行、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。

交通[編集]

詳細は「オーストリアの交通」を参照

鉄道[編集]

ÖBB(オーストリア国鉄)が主要幹線を網羅しており、山岳部では、登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄やSバーン、路面電車なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。

航空[編集]

ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。日本からの直行便は、オーストリア航空のウィーン・東京間のみ。しかし乗継便は便利で、インスブルック、ザルツブルクなど各都市に1時間前後で移動できる。ウィーン国際空港では、ドイツ語の案内放送の後、英語で案内放送がある。

国民[編集]

民族[編集]


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帝国時代の民族分布。
「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics)がオーストリア帝国を評したものであるが、実際にいまのオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなくオーストリア人という概念はきわめて新しい。

ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっており雑多であるが、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。

オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。元々オーストリアはプロイセン、バイエルン等と同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族である。バイエルン族はゲルマンではなくケルトだと見なす人々もいるが、プロイセン人も純ゲルマン系とは言えない以上、ゲルマン人論議とドイツ人論議は別の問題とも言える)、しかも12〜19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家がドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の帝位やドイツ連邦議長国の座を独占していた。そのため、オーストリア人こそ新興のプロイセン人などよりむしろドイツ民族の本流であるという考え方が、20世紀前半までは残っていた。国籍論議が起こったモーツァルトの書簡には「私たちドイツ人は」「ドイツ人として私は」といった文言が多く用いられている。

よく、オーストリアは南端に位置し、ハンガリーやスラブ諸国との交流が深いため、ドイツ民族としての純度は低いという論がある。しかし、これは北端にあってポーランド等と関係密接なプロイセン(本来はバルト海沿岸地域の部族名であったものを新侵略者のドイツ騎士団が奪った名である。ベルリンという地名もポーランド語起源といわれる)も同様であり、神聖ローマ帝国が形骸化していたとはいえ長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊によって、オーストリアの国土がドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツへの合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗ってさえいた。

しかし、この民族自決論を逆手に取って、オーストリアのみならずヨーロッパ中に惨禍を招いたオーストリア人ヒトラーの所業に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外したビスマルク体制の方が歴史的例外なのであってヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし実際は両国民とも悪夢のようなナチス時代の記憶から分離のほうが望ましいと考えており、ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるの意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一、欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。

「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語を話す人」というニュアンスが強い。ドイツ語は英語やフランス語と違ってほとんど他民族では母語化しなかったため、これが民族概念と不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ〜」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られる。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を“ドイツ人”と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、他民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州、ケルンテン州でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。

今日ウィーン市内では、ドイツ国歌を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、ハイドンが神聖ローマ皇帝フランツ2世を讃えるために作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半にはオーストリア帝国の国歌となっていた。作曲当時はオーストリア国家は存在せず、フランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったので、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主は1999年まで欧州議会議員を、ドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。

もっとも、現在のドイツ民族主義者たちに、かつてのように統一国家の樹立を掲げている者はほとんどいない。特にオーストリア側においてはなおのことであり、ともにEU域内に入った現在そうする意味は少ない(ただし合併ではなく現オーストリアの国名を「ドイツ・オーストリア共和国」に戻す主張は右派に根強い)。いわば民族の文化的、精神的結束を重んじるものであり、それだけにイタリアの南チロル、フランスのアルザスなど、隣国のドイツ系住民地域への影響、EU内でのドイツ語コミューンの形成を不安視する声もある。EUに囲まれた未加盟国であり、長らく独・仏・伊3民族の共存国家として平穏を保ってきた(しかもドイツ系が圧倒的に多い)スイスにおいても同様である。

ブルゲンラント州は1918年まではハンガリー王国側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代における調査によれば1〜2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にも若干の外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。

外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人と旧ユーゴスラビア諸国出身者である。

言語[編集]





オーストリアを含むドイツ語の方言区分。
ドイツ語(オーストリアドイツ語)が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部等と同じ上部ドイツ語(Oberdeutsch)系の方言である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語に近い)を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。 標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。

またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。

東オーストリアの方言では
-l Mädl(Mädchen)
nの後にlがくる場合、nがdになる:Pfandl(< Pfann(e) フライパン)、Mandl(< Mann 人、男性)

-erl Kipferl
Ein Momenterl (少々お待ちください)


となる。

南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリー・チェコ・イタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。

また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在する他、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるので注意が必要である。
Kategorie:Österreichische Sprache - オーストリアのドイツ語に関するリンク集。

宗教[編集]

宗教は、5.530.000人(66,0 %)がローマ・カトリックに属している(2009年)。 プロテスタントのうち310,097人(3,7 %)がルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に, 14.000人(0,165%)が改革派のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。 515.914人(6,2 %)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教もいる。

文化[編集]

食文化[編集]

詳細は「オーストリア料理」および「:Category:オーストリアの食文化」を参照

音楽[編集]

オーストリア人の音楽文化への態度は保守的と評されたのも、今は昔の話であり、傑出した作曲家が若手の世代からデビューすることも増えてきた。近年ではキプロスやポーランドといった国の出身の者がオーストリアへ市民権を移し、オーストリア人によって積極的に評価され優れた作品を生むものも存在する。クラシック音楽のみならず、即興音楽やテクノ、エレクトロニカなどのジャンルに於いても、未来をになう人材を輩出中である。また、国が芸術家を支援する態度も充実しており、才能があればすぐ委嘱がくるとまで言われている。インターネットラジオも、充実度が高い。

クラシック音楽[編集]





ウィーン国立歌劇場。




モーツァルトはザルツブルクに生まれ、25歳からウィーンに定住した。




フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。
オーストリアからは多くの作曲家・演奏家を輩出し、ドイツ圏全体として圧倒的に世界一のクラシック音楽大国として知られ(オペラですら本場イメージの強いイタリアの4倍の上演数を誇っている)、名門オーケストラや国立歌劇場、音楽学校を擁する首都ウィーンは「音楽の都」と呼ばれている。特にこの分野に大物作曲家をあまり輩出していない日本や英米においては強い権威を誇る。作曲家人気調査などでは上位三傑はドイツのベートーヴェン、J・S・バッハにオーストリアのモーツァルトが加わるのが常であり(ベートーヴェンもウィーンで活動していた)、十傑でもブルックナー、シューベルト、マーラーといったオーストリア出身者に、ドイツ出身のブラームス(ブラームスを含む4人とも活動の本拠をウィーンに置いていた)らが入る状況である。実際には18世紀半ばまではイタリアやフランスの方がどちらかといえば音楽先進国であり(例えば、モーツァルトのオペラの大半は、台詞がイタリア語で書かれている)、音楽大国ドイツ・オーストリアの歴史は18世紀後半にウィーン古典派の台頭とともに急速に形成されたものではある(今日音楽の父とまで呼ばれるバッハは生前は国際的には無名に近く、同時代のヘンデルはイギリスが拠点だった)が、現況として愛好されているクラシック音楽としてはやはりずば抜けた割合を占めていることは事実である。演奏家については、ナチスの迫害によってユダヤ系を中心に人材が流出してしまったことなどから急速に人材が乏しくなったが、最近は回復傾向にある。音楽家についてはオーストリアの作曲家を参照。
オペラ・オペレッタ ウィーン国立歌劇場
ウィーン・フォルクスオーパー

演奏団体 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン交響楽団
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

祝祭上演 ザルツブルク音楽祭
ザルツブルク復活祭音楽祭
ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭
ザルツブルク国際モーツァルト週間
ブレゲンツ音楽祭


世界遺産[編集]

ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。詳細は、オーストリアの世界遺産を参照。

祝祭日[編集]

祝祭日[38]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日 Neujahr
1月6日 公現祭 Heilige Drei Könige
移動祝日 復活祭の日曜日 Ostersonntag
移動祝日 復活祭の月曜日 Ostermontag
5月1日 メーデー Tag der Arbeit
移動祝日 主の昇天 Christi Himmelfahrt 復活祭から40日目の木曜日
移動祝日 聖霊降臨祭 Pfingstsonntag
移動祝日 聖霊降臨祭の月曜日 Pfingstmontag
移動祝日 聖体の祝日 Fronleichnam 聖霊降臨祭から12日目の木曜日
8月15日 聖母の被昇天 Mariä Himmelfahrt
10月26日 建国記念日 Nationalfeiertag 1955年に永世中立国宣言をしたことによる
11月1日 諸聖人の日 Allerheiligen
12月8日 無原罪の聖母の祝日 Mariä Empfängnis
12月24日 クリスマスイブ Heilig Abend (Weihnachten)
12月25日 クリスマス Christtag
12月26日 聖ステファノの祝日 Stefanitag

スポーツ[編集]

詳細は「オーストリアのスポーツ」を参照

冬季オリンピックで数多くのメダルを獲得することから分かるように、ウィンタースポーツが盛んに行われている。中でもアルペンスキーは絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマン・マイヤーは国民的スターである。2006-07年シーズンでは男女計12種目のうち実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。

また、ノルディックスキーも人気が高く、ノルウェー、フィンランド、ドイツなどとともに強国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー(ジャンプ 1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト(複合 2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン(ジャンプ 2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年ではトリノオリンピックのジャンプ競技で金メダルを獲得。

モータースポーツも盛んに行われ、国内でのF1開催は26回に上る。

伝統的にサッカーの人気が高く、イギリスを除くヨーロッパ大陸では最も古い歴史を誇るプロフェッショナル・サッカー・リーグであるオーストリア・ブンデスリーガ(1部)を筆頭にサッカーリーグは9部まである。

オーストリア最高峰リーグであるオーストリア・ブンデスリーガをステップアップとしてサッカーのブランドネーションに移籍する選手が多く、毎年のようにドイツ・ブンデスリーガやイタリア・セリエAに移籍する選手が数多く輩出されている。

2008年にはUEFA欧州選手権2008をスイスと共同で開催した。オーストリア代表チームはドイツやクロアチアを相手に善戦したもののグループリーグで敗退を喫した。

自転車ロードレースでは、ゲオルク・トーチニヒ(ドイツ語版、英語版)がツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといった世界最高峰のレースで活躍した。現在はベルンハルト・アイゼルなどが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「エースターライヒ・ルントファールト」はUCIヨーロッパツアーのHC(超級)という高いカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。

積雪の多い気候ゆえ、卓球やハンドボール、アイスホッケー、柔道などの室内スポーツの競技人口も多い。

著名な出身者[編集]

詳細は「オーストリア人の一覧」を参照

ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地の出身者が活躍した。

(参照:オーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド(ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブコビナ、イタリア(南チロル))

チェコ

チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika 英: Czech Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はプラハ。

歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきた。ヨーロッパ共産圏の消滅後、再び中欧または中東欧に分類される。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。

1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 古代〜中世
2.2 民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで
2.3 共産主義政権とその崩壊後

3 政治
4 軍事
5 地方行政区分 5.1 主要都市
5.2 都市・村の一覧

6 地理
7 経済 7.1 伝統産業
7.2 交通

8 国民
9 文化 9.1 食文化
9.2 文学
9.3 音楽
9.4 スポーツ
9.5 世界遺産
9.6 祝祭日

10 著名な出身者
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称(チェコ語)は Česká republika (チェスカー・レプブリカ、発音 [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 聞く):チェコ共和国)。通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)。

英語での公式名称は Czech Republic(チェク・リパブリック)。チェコ外務省が1993年に提唱した通称に、ラテン語風の Czechia があるが、現在一般的に使われているとは言い難く、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。

日本語ではチェコ共和国(日本国外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類等ではチェッコという表記が使用された。なお、「チェッコ」という場合は、日中戦争期のチェコスロバキア製軽機関銃を指すこともある(→ZB26軽機関銃)。

かつて一つの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族による一つの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。

チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。 プラハを中心とした “Čechy”(チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava”(モラーヴァ、ラテン名・モラヴィア)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko”(スレスコ(英語版)、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。

ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、チェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、 “Česká republika”、 “Czech republic” を用いるのが正確であり、世界的には一般的な考え方である。

現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。だが、新しい呼称のため、定着したといえるのは最近であり、公の場や正式な文章では用いられない。

歴史[編集]

詳細は「チェコの歴史」を参照

古代〜中世[編集]

古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後、ゲルマン人が定住したが、[独自研究?]6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。つづいてアバール人が支配者となった。9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。





カレル1世時代のボヘミア王冠領
西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時にボヘミア王の称号(DuchyからKingdomに昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。

13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国(英語版)は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。

15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱がおきた(フス戦争)。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。

民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで[編集]





チェコスロヴァキア共和国
18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議(英語版)を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。

第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、民族自決の理念のもとチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配し、スロバキア人と対立した。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。


共産主義政権とその崩壊後[編集]





共産党体制下のチェコスロバキア
第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた[2])。

1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、「正常化」路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。

1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。

2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。

2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。

政治[編集]





第3代大統領ミロシュ・ゼマン
国家元首は議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28-29日に実施された総選挙の結果、中道左派のチェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09、公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。

議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。

軍事[編集]

詳細は「チェコ共和国の軍事」を参照

[icon] この節の加筆が望まれています。

地方行政区分[編集]

詳細は「チェコの地域区分」を参照

チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライと呼ばれる行政区に区分されている。





チェコ共和国の歴史的な領域と現代の行政区
主要都市[編集]

チェコの都市人口順位



都市



人口 (2010)

1 プラハ 1,249,026
2 ブルノ 南モラヴィア州 371,399
3 オストラバ モラヴィア・スレスコ州 306,006
4 プルゼニ プルゼニ州 169,935
5 リベレツ リベレツ州 101,625
6 オロモウツ オロモウツ州 100,362

都市・村の一覧[編集]

チェコの有名な市・村(地方自治体)


地名

チェコ語名

ドイツ語名

備考



ビーラー・ホラ(白山)
Bílá Hora Weißenberg ビーラー・ホラの戦い(1620年、三十年戦争)

ブランディース・ナド・ラベム
Brandýs nad Labem Brandeis an der Elbe ユダヤ人街

ブルノ(ブリュン)
Brno Brünn モラヴィアの中心地

ブジェツラフ
Břeclav Lundenburg

ブジェゾヴァー
Březová Pirkenhammer 陶器ブランド

ツィーノヴェツ(ツィンヴァルト)
Cínovec Zinnwald(-Georgenfeld) チンワルド雲母の産地。

チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ブトヴァイス)
České Budějovice Budweis バドワイザー(ブジェヨヴィツキー・ブドヴァル)。司教座。近郊にホラショヴィツェ、フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ(Hluboká nad Vltavou)、トシェボニ(Třeboň)などがある

チェスキー・クルムロフ(ベーミッシュ・クルーマウ)
Český Krumlov Krumau 世界遺産。近郊にホルニー・プラナー(Horní Planá)がある

ドマジュリツェ
Domažlice Taus ドマジュリツェの戦い(1631年、フス戦争)

ドヴール・クラーロヴェー(ラベ河畔の)
Dvůr Králové nad Labem Königinhof

フリードラント
Frýdlant Fiedland ヴァレンシュタイン(ヴァルトシュタイン)家

ホドニーン
Hodonín Göding

ホラショヴィツェ
Holašovice Hollschowitz 歴史的集落が世界遺産

ホレショフ
Holešov Holleschau ユダヤ人街

フラデツ・クラーロヴェー(ケーニヒグレーツ)
Hradec Králové Königgrätz 司教座。サドワの戦い(ケーニヒグレーツの戦い)

フラニツェ
Hranice Mährisch-Weißkirchen ユダヤ人街

ヘプ(エーガー)
Cheb Eger ヴァレンシュタイン暗殺

ホドフ(ホーダウ)
Chodov Chodau 陶器ブランド

イヴァンチツェ
Ivančice Eibenschütz, Eibenschitz ユダヤ人街がある。グイード・アードラー、アルフォンス・ムハらの生地。

ヤーヒモフ(ザンクト・ヨアヒムスタール)
Jáchymov Sankt Joachimsthal トレル(ドルの語源)貨幣鋳造

ヤンコフ(ヤンカウ)
Jankov Jankau ヤンカウの戦い

イフラヴァ(イグラウ)
Jihlava Iglau 銀鉱、マーラー

カルロヴィ・ヴァリ(カールスバート)
Karlovy Vary Karlsbad 温泉町(鉱泉、鉱塩)、カールスバート決議

カルルシュテイン
Karlštejn Karlstein カルルシュテイン城

クラドノ
Kladno 工業都市

コリーン
Kolín Kolin, Köln an der Elbe コリーンの戦い(1757年、七年戦争)

クルノフ(イェーゲルンドルフ)
Krnov Jägerndorf かつて一侯国。クルノフ・シナゴーグ(Krnovská synagoga)など。

クロムニェジーシュ
Kroměříž Kremsier 世界遺産

クトナー・ホラ(クッテンベルク)
Kutná Hora Kuttenberg 銀鉱、グロシュ 銀貨鋳造

レドニツェ
Lednice Eisgrub 世界遺産

リベレツ(ライヒェンベルク)
Liberec Reichenberg

リディツェ(リジツェ,リヂツェ)
Lidice Liditz ナチス・ドイツによる虐殺

リトムニェジツェ
Litoměřice Leitmeritz

リトミシュル
Litomyšl Leitomischl スメタナ出生地。リトミシュル城が世界遺産

ロヴォシツェ(ロボジッツ)
Lovosice Lobositz, Lovositz ロボジッツの戦い(1756年、七年戦争)

マレショフ
Malešov Maleschau マレショフの戦い(1424年、フス戦争)

マリアーンスケー・ラーズニェ(マリエンバート)
Mariánské Lázně Marienbad 温泉町、映画祭

ミクロフ(ニコルスブルク)
Mikulov Nikolsburg ニコルスブルク和約、ユダヤ人街。近郊に、レドニツェ&ヴァルチツェがある。

ムニホヴォ・フラジシチェ
Mnichovo Hradiště Münchengrätz

ナーホト
Náchod Nachod ナーホトの戦い

ヴルタヴァ川(モルダウ川)
Vltava Moldau スメタナの交響詩集『わが祖国』(Ma Vlast)の第2曲で有名な川


地理[編集]





チェコ共和国の衛星写真
チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。

経済[編集]





首都プラハ
オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリー等と並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。

2004年にチェコが欧州連合に加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、一つの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。「安くて良質な労働力」を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。 打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向 [2]。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。

主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。


伝統産業[編集]





ボヘミア・ガラス
ビール製造については「チェコ・ビール」を、ガラス製造については「ボヘミア・ガラス」を参照




交通[編集]

詳細は「チェコ共和国の交通」を参照

国民[編集]





伝統的な衣装をまとった男女
詳細は「チェコ共和国の人口動態(英語版)」を参照

チェコ人が90.4%である。さらに、モラヴィア人(英語版)が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。

かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後のドイツ人追放によりそのほとんどがドイツに追放された。又戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人(チェコ語版)を参照)。

チェコではフス戦争などの複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。

キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、火葬率はイギリスと並び高い。

文化[編集]





文学者、フランツ・カフカ




作曲家、ベドルジハ・スメタナ




作曲家、アントニン・ドヴォルザーク
食文化[編集]

詳細は「チェコ料理」を参照
ビール - チェコはビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一である。2005年統計では一人当たり161. 5Lで日本の3.3倍の消費量。 ピルスナー・ウルケル
ブドヴァル(ブドヴァイゼル。英語読みはバドワイザー。ただし、バドワイザーは登録商標である)

クネドリーキ(クネーデル)
グラーシュ
ブランボラーク
スマジェニー・ジーゼック
スマジェニー・スィール
スヴィチュコヴァー
クグロフ
パーレック・フ・ロフリーク--「ロールの中のソーセージ」という意味で、パンロールにマスタード・ソーセージを入れたもの。
トゥルデルニーク−小麦粉に砂糖を混ぜて練りこみ、シナモンをかけて生地を鉄棒にらせん状に巻きつけて焼いたもの。

文学[編集]

詳細は「チェコの文学」を参照
フランツ・カフカ
アロイス・イラーセク
ボジェナ・ニェムツォヴァー
オタ・パヴェル
カレル・チャペック
ヤロスラフ・ハシェク
ヤロスラフ・サイフェルト
ミラン・クンデラ
イヴァン・ヴィスコチル
イヴァン・クリーマ
ボフミル・フラバル
ミハル・アイヴァス
アニメーション作家 イジー・トルンカ
カレル・ゼマン
ヤン・シュヴァンクマイエル


音楽[編集]

詳細は「チェコの音楽」を参照
ベドルジハ・スメタナ(ベドジフ・スメタナ)
アントニン・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォジャーク)

スポーツ[編集]

詳細は「チェコのスポーツ」を参照





長野オリンピックのアイスホッケー決勝試合
チェコでもっとも人気のあるスポーツはアイスホッケーであり国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属し、国内リーグでも首都プラハに本拠を置く2つのクラブチームは100年の歴史を誇る。ナショナルチームは長野オリンピックではドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪である。 ちなみに2004年にはこの長野五輪の活躍を描いたオペラが上演された。また同国出身で、長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーの背番号は、いろんなチームに移籍しても常に68(「プラハの春」の年)である。 フィギュアスケートでもトマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどオリンピック選手を輩出している。

また、他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも人気があり、チェコスロバキア時代はワールドカップで2度の準優勝(1934、1962年大会)を誇る。チェコ代表はFIFAランキング最高2位まで上がったヨーロッパの強豪として知られ、ヨーロッパ選手権では1996年大会で準優勝するなど実績があるが、選手層が厚くないためかワールドカップではヨーロッパ予選をなかなか突破できず、1993年のスロバキアとの分離後は2006年大会以外出場できておらず、世代交代に失敗した2000年代後半からは低落傾向にある。代表的な選手にパベル・ネドベド(引退)、ヤン・コレル(引退)、トマーシュ・ロシツキー(アーセナル)、ペトル・チェフ(チェルシー)、ミラン・バロシュ(ガラタサライ)、マレク・ヤンクロフスキ(FCバニーク・オストラヴァ)などがいる。

日本では、ヘルシンキオリンピックでの男子マラソンのエミール・ザトペック、1964年東京オリンピックでのヴィェラ・チャースラフスカー(ベラ・チャスラフスカ)の女子体操が古くから広く知られている。

テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年では、ラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍もめざましい。

自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカ(Ondrej Sosenka)はツール・ド・ポローニュで二度の総合優勝を果し、UCIアワーレコード(一時間でどれだけの距離を走れるかの世界記録)を保持している。2008年ツール・ド・スイスでは22歳のロマン・クロイツィガーが総合優勝している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。

世界遺産[編集]





世界遺産プラハ歴史地区(プラハ城)
詳細は「チェコの世界遺産」を参照

チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。

祝祭日[編集]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日 Nový rok
変動祝日 イースターマンデー Velikonoční pondělí
5月1日 メーデー Svátek práce
5月8日 勝戦記念日 Den osvobození 1945年のヨーロッパでの第二次世界大戦の終結を記念
7月5日 ツィリルとメトジェイの日 Příchod Cyrila a Metoděje na Moravu
7月6日 ヤン・フスの日 Upálení Jana Husa ヤン・フスの命日
9月28日 チェコ国体記念日 Den české státnosti
10月28日 独立記念日 Vznik Československa 1918年のチェコスロバキアの独立記念日
11月17日 自由と民主主義のための闘争の日 Den boje za svobodu a demokracii 1989年のビロード革命を記念
12月24日 クリスマス・イブ Štědrý den
12月25日 クリスマス První svátek vánoční
12月26日 ボクシング・デー Druhý svátek vánoční

著名な出身者[編集]

詳細は「チェコ人の一覧」を参照

ドレスデン

ドレスデン(Dresden、ドイツ語発音: [ˈdʁeːsdən])は、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都でありエルベ川の谷間に位置している都市である。人口は約51万人(2008年)である。



目次 [非表示]
1 地勢
2 歴史
3 文化
4 経済
5 交通
6 その他
7 姉妹都市
8 関連項目
9 ドレスデンが舞台の作品 9.1 映画

10 引用
11 外部リンク


地勢[編集]

エルベ(Elbe)川沿いの平地に開けた町である。ドイツの東の端、チェコ共和国との国境近く30キロメートルほどに位置する。陶磁器の町として有名なマイセンまで約25キロメートルと近く、エルベ川を通じて交通がなされてきた。





1900年頃のドレスデン市街遠望
歴史[編集]

ドレスデンは、1206年にドレスデネ(Dresdene)という名称で歴史に現れている。1350年には、エルベ右岸の地区が「古ドレスディン(Antiqua Dressdin)」という名称で現れ、1403年に都市権を与えられている。これが現在の新市街(ノイシュタット)で、エルベの右岸と左岸は、1549年まで別の町として扱われていた。





1750年のドレスデン市街図。星型要塞に周囲を囲まれている
ドレスデンが発展するきっかけとなったのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ2世の2人の息子、エルンストとアルブレヒトが、1485年に、兄弟で領土を分割(ライプツィヒの分割)したことに始まる。ドレスデンを中心とする領土を与えられた弟アルブレヒトは、ザクセン公を称し、ドレスデンを都として地域を支配することとなった。こうして、ドレスデンは、アルベルティン家の宮廷都市として栄えることになる。

その後、アルベルティン家は1547年のモーリッツの時に選帝侯となり、ドレスデンがザクセンの中心地として発展することになった。エルベ川に沿ったアウグスト通り沿いの外壁には、歴代君主たちを描いたおおよそ100メートルにわたるマイセン (陶磁器)による壁画「君主たちの行列」がほぼオリジナルの状態で現存している。





1900年頃のツヴィンガー宮殿




現在(2007)のツヴィンガー宮殿




ピルニッツ宮殿にある山の宮殿




君主たちの行列




ブリュールのテラス付近の夜景
ドレスデンが最も発展したのは、1711年から1728年のフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強王)の治世である。ドレスデンを代表する建築物となっているツヴィンガー宮殿(Zwinger)は、アウグスト強王が、ダニエル・ペッペルマンに命じ、1711年から1728年に、城から近い場所に自らの居城として後期バロック様式によって建立させたものである。同時に、エルベ川の10キロほど上流にあるピルニッツ宮殿も、大幅に増築されている。一方、市の中心部では、1726年に聖母教会(フラウエン教会)の建築が開始されている。こうして形成されたドレスデンの町並みは、18世紀中期の姿がベルナルド・ベッロットによる絵画として残されている。 1806年に神聖ローマ帝国が解体し、ザクセン王国が成立した後は、ドレスデンはその首都となった。

第二次世界大戦では徹底した爆撃にあい市内中心部はほぼ灰燼に帰した(ドレスデン爆撃)。ソ連占領地域にあったため、戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)領となり、ライプツィヒなどと並ぶ工業都市として発展したほか、近年では観光地としての開発も顕著で、東部ドイツ有数の大都市として賑わいを見せており、1990年の東西ドイツ統合後、歴史的建築物の再建計画が一層推進されつつある。廃墟のまま放置されていた王妃の宮殿(Taschenbergpalais)が再建されて高級ホテルに生まれ変わったほか、同じく瓦礫の堆積のままの状態で放置されていた聖母教会の再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、2005年10月に工事が完了した。瓦礫から掘り出したオリジナルの部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」と評された。新しい部材との組み合わせがモザイク模様を描き出しているこの建物は、新しい名所となっている。





修復された聖母教会
文化[編集]





クリスマスマーケット(Striezelmarkt)
音楽はザクセン侯宮廷の傾向を反映して、古くからイタリアの影響を受けてきた。シャイト・シュッツらはルター派典礼音楽にイタリア音楽の傾向を付け加えた。ミヒャエル・プレトリウスもしばらくドレスデンで活動したこともあり、17世紀ドイツにおける音楽の中心地のひとつであった。モーツァルトもまたドレスデンで作品の初演を行っている。オペラ座、通称ゼンパー・オーパーは新古典主義建築の代表作としても知られ、オペラ座のオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデン(「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」と呼ばれることも多い)は、最古のオーケストラとして知られている。ドイツ鉄道ウィーン〜ドレスデン間の夜行特別列車「ゼンパーオーパー」はこの劇場の名にちなんだものである。

ザクセン侯の美術コレクションは現在ツヴィンガー宮殿の一角を占めるドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館(Alte Meister)などで展示されている。アルテ・マイスターのコレクションの中にはラファエロの「システィーナの聖母」が含まれる。そのほかレンブラント、ルーベンス、ルーカス・クラナッハ、デューラーなどヨーロッパを代表する画家たちの膨大な数の作品が公開されている。この美術館はヨーロッパでも重要なコレクションを有する施設のひとつと言ってよいであろう。

上記の様な旧市街(アルトシュタット、Altstadt)で主に見られる文化の他に、新市街(ノイシュタット、Neustadt)の文化も興味深い。

名前だけから見ると若そうにとれる新市街は、実は旧市街よりも歴史はかなり古い。ザクセン選帝侯時代、今の新市街地区のほぼ全域を焼失させる大火災があった。そこから比較的早く復興したため、それを記念し、全く新しく生まれ変わって繁栄してほしい、という願いを込めて、選帝侯がノイシュタットと名付けられたと言われている(原典不明)。

築 100 年を超える建物が多く、世代を超えても当時の雰囲気を比較的良く保っている、数少ない街である。空襲で完全に焼け落ちたにもかかわらず、歴史的建造物を除きアルトシュタット以上によく保守された地区と言ってもよい。

街の空気がやや古典的で、狭い路地が続く町並みには、レストランやバーが無数に存在し、週末は地元人達で賑う。また、美術・芸術家などの個展や、演奏会・音楽サロンが街のあちこちで毎週のように開かれ、地元人の関心も常に高い。文化・芸術が生活と密接に関わっているドレスデンならでは、と言えよう。


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経済[編集]





グレーゼルネ・マヌファクテュア
中部のグローサーガルテン (Großer Garten) 地区にフォルクスワーゲンの自動車工場である「グレーゼルネ・マヌファクテュア」(Gläserne Manufaktur、ガラスの工場の意)が設立されている。同工場は2002年に操業開始し、フォルクスワーゲン・フェートンなどの製造を行っている。

また、近年では独インフィニオン・テクノロジーズ社から独立したキマンダ社、米AMD社の半導体製造部門が独立したGLOBALFOUNDRIES (グローバルファウンドリーズ)社 などの製造拠点が置かれ、欧州における半導体製造拠点のひとつとなっている。


交通[編集]





ドレスデンの市電




カーゴトラム




「ドレスデン・モノレール
* ドレスデン空港
ドレスデン中央駅は、ベルリン、プラハ、ニュルンベルクとの間に直通列車を持つ。 2006年の市誕生800年のお祝いに向けて、ドレスデン中央駅の周辺は整備計画が進行中である。最近、駅舎の改修工事の一部が完成をみた。これらの整備に伴い、今後数年間のうちに中央駅周辺は大きく発展することが期待される。

市内交通を担う存在として、ドレスデン交通企業体の運営による路面電車がある。東西ドイツ分断の頃にモータリゼーションの影響が遅れたため、路線廃止が行われていない為、人口50万人の都市としてはかなり長い総延長130km余りの路線を有する。車両はかつては東欧のタトラ社製の「タトラカー」が主力だったが、東西ドイツ統合後は超低床車のコンビーノ(シーメンス社製)やフレキシティ・クラシック(ボンバルディア社製)が投入され、老朽化したタトラカーを順次置き換えを進めている。利用者が多い為、列車編成も約45mと長大である。 またドレスデンでは世界的にも例を見ない電車方式の貨物列車、「カーゴトラム」 (CarGoTram) を2001年より運行している。これは前述のフォルクスワーゲンのグレーゼルネ・マヌファクテュアの設立に端を発する。乗用車の生産に伴って発生する有害物質の削減等、エコロジーに重点を置いている同工場は、敷地面積が若干狭く、資材や部品の倉庫を設置できなかった為、市西部にあるドイツ鉄道の貨物駅に隣接して倉庫を建設した。そこで部品運搬の手段が問題となり、試算した結果工場と倉庫を一日170台の大型トラックが往来する事となり、大気汚染等の環境問題、道路交通の安全性等の懸念から、既存の路面電車を活用する事となった。工場と倉庫には本線と接続した引込み線が設けられ、実に60t、トラック約3台分の荷物を積載が可能な5~7両編成の貨物列車(両端が電動車、中間が付随車のいずれも有蓋車)が40分間隔で、約18分掛けて往復している。四代目となるフォルクスワーゲン・ゴルフが発表された際、荷台にゴルフを載せて市民にお披露目するというプロモーションを行った事もある。このカーゴトラムは、自動車と鉄道という相反する物を有機的に結び付けただけでなく、環境問題への取り組みとして注目されている。
市東部のエルベ川に「青い奇跡」(Blaues Wunder(de)、正式名称はロシュヴィッツァー橋)と呼ばれる鉄骨構造の橋が架かっているが、その北岸の丘陵地に、ケーブルカーとモノレールがある。ケーブルカーは路線の長さ547m、高低差95mで、1895年に開業しており、モノレールは長さ274m、高低差が84mで、1901年の開業である。両交通機関は、1893年に完成した橋「青い奇跡」と並んで、世界遺産ドレスデン・エルベ渓谷の産業遺産とされていたが、ヴァルトシュロッセン橋の建設により、2009年に世界遺産の登録が抹消されている。


その他[編集]





ドレスデンの63%の地域が緑に囲まれている




冬のドレスデン2002年夏の洪水によりドレスデンも大きな被害を受けた。
2004年、歴史的建造物の残る文化的景観が評価され、ドレスデン・エルベ渓谷が世界遺産に登録された。ドレスデンを中心にしたエルベ川流域18kmが対象であった(面積1930ha)。しかし、交通量の増加に対応するためにエルベ川に車両用の橋を建設する案が検討されたことから、2006年に危機にさらされている世界遺産リストに登録され、その後、ユネスコの世界遺産委員会からの警告にもかかわらず建設が推進されたため、2009年の第33回世界遺産委員会で世界遺産リストからの登録抹消が決議された。
町の中心部近くにある聖母教会は正式には2006年に再建完成の予定だが、2004年には内部の見学が一部可能となった。
旧東ドイツの名門サッカークラブである1.FCディナモ・ドレスデンは、東西ドイツ再統一後に一時低迷していたが、その後持ち直しており2011年現在ブンデスリーガ2部で活躍中である。
2008年にはドレスデンで第38回チェス・オリンピアードが開催された。
2011年、グリュックスガス・シュタディオンでFIFA女子ワールドカップが開催された。

姉妹都市[編集]

ポーランドの旗 ヴロツワフ(ポーランド)
チェコの旗 オストラヴァ(チェコ)
イギリスの旗 コヴェントリー(イギリス)
アメリカ合衆国の旗 コロンバス(アメリカ合衆国オハイオ州)
オーストリアの旗 ザルツブルク(オーストリア)
ロシアの旗 サンクトペテルブルク(ロシア)
マケドニア共和国の旗 スコピエ(マケドニア共和国)
フランスの旗 ストラスブール(フランス)
ドイツの旗 ハンブルク(ドイツ)
イタリアの旗 フィレンツェ(イタリア)
コンゴ共和国の旗 ブラザヴィル(コンゴ共和国)
オランダの旗 ロッテルダム(オランダ)


関連項目[編集]
森鴎外 1884年から約4年間のドイツ留学をしていた鴎外は、1885年10月11日から翌1886年の3月初旬まで、約5ヶ月間ドレスデンに滞在していたことがある。小説『文づかひ』はドレスデンを舞台にした作品である。

ゲーテ ドレスデンが気に入ったゲーテは、幾度かこの地を訪れている。彼はエルベ川からみて旧市街地側の川に沿って続く小高い歩道を好んで散歩した。それは森鴎外が滞在するおよそ100年前のことであった。

ゼンパー・オーパー - ドレスデン歌劇場
エーリッヒ・ケストナー - ドレスデン出身の詩人・作家
ローター・シュミット - ドレスデン出身のチェスプレーヤー
ドレスデン交通企業体 - ドレスデンの公共交通会社
ドレスデン・ポルツェラン

ドレスデンが舞台の作品[編集]

映画[編集]
ドレスデン、運命の日 - 2006年のドイツ映画。第二次世界大戦末期のドレスデンを舞台にしている。

フィレンツェ

フィレンツェ(イタリア語: Firenze ( 聞く))は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。

中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。

市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。



目次 [非表示]
1 名称 1.1 語源

2 地理 2.1 位置・広がり・地勢 2.1.1 隣接コムーネ


3 歴史
4 行政 4.1 分離集落

5 社会 5.1 経済・産業

6 自然・環境 6.1 気候

7 観光
8 スポーツ
9 交通 9.1 鉄道
9.2 市内交通
9.3 空港

10 姉妹都市
11 フィレンツェの著名な人物
12 フィレンツェが登場するフィクション 12.1 小説
12.2 戯曲
12.3 映画
12.4 コンピュータゲーム
12.5 漫画

13 関連項目
14 脚注
15 外部リンク


名称[編集]

語源[編集]

古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア (Florentia) と名付けた事が語源とされている。周辺国ではフィレンツェのことを、英語でFlorence(フローレンス)、スペイン語でFlorencia(フロレンスィア)、ドイツ語でFlorenz(フロレンツ)、フランス語でFlorence(フロランス)と呼ぶことにもその名残が見られる。

地理[編集]

位置・広がり・地勢[編集]

フィレンツェはSenese Clavey Hillsの盆地に位置している。アルノ川と三つの小川が当地を流れる。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。
バーニョ・ア・リーポリ
カンピ・ビゼンツィオ
フィエーゾレ
インプルネータ
スカンディッチ
セスト・フィオレンティーノ

歴史[編集]

フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[4]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。

1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。

ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年秋にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[5]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。

1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ヴェッキオ橋をのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。

行政[編集]

分離集落[編集]

フィレンツェには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
Galluzzo, Settignano, Le Piagge, Gavinana, Isolotto, Trespiano, Legnaia, Ponte a Greve, Rovezzano, Novoli, Careggi, Peretola, Sollicciano, Rifredi, San Frediano, Oltrarno

社会[編集]

経済・産業[編集]

観光業、繊維工業、金属加工業、製薬業、ガラス・窯業、ジュエリーや刺繍などの工芸が盛んである。 観光はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、サンタ・クローチェ聖堂、サン・ロレンツォ聖堂、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、ウフィツィ美術館などの歴史的な建造物が中心である。 貴金属、靴、皮ジャケットなどの革製品、フィレンツェ紙や、手作り香水や化粧品、焼き物など、伝統的手工芸製品の小売店も多い。

自然・環境[編集]

気候[編集]

フィレンツェは温暖湿潤気候 (Cfa) と、地中海性気候 (Csa) の境界線上である。[6]当地は活発な降水によって蒸し暑い夏と、涼しく湿った冬が特徴である。いくつもも丘に囲まれて、7月から8月にかけては蒸し暑くなる。また盆地ゆえ風が少なく、夏の気温は周りの沿岸部より高い。夏の降雨は対流によるもの。一方冬の降雨降雪は別の理由によるものである。最高気温の公式記録は1983年7月26日の42.6°Cで、最低気温は1985年1月12日の-23.2°Cである。[7]



[隠す]フィレンツェの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




平均最高気温 °C (°F)
10.1
(50.2) 12.0
(53.6) 15.0
(59) 18.8
(65.8) 23.4
(74.1) 27.3
(81.1) 31.1
(88) 30.6
(87.1) 26.6
(79.9) 21.1
(70) 14.9
(58.8) 10.4
(50.7) 20.1
(68.2)

平均最低気温 °C (°F)
1.4
(34.5) 2.8
(37) 4.9
(40.8) 7.7
(45.9) 11.3
(52.3) 14.7
(58.5) 17.2
(63) 17.0
(62.6) 14.2
(57.6) 10.0
(50) 5.5
(41.9) 2.4
(36.3) 9.1
(48.4)

降水量 mm (inch)
73.1
(2.878) 69.2
(2.724) 80.1
(3.154) 77.5
(3.051) 72.6
(2.858) 54.7
(2.154) 39.6
(1.559) 76.1
(2.996) 77.5
(3.051) 87.8
(3.457) 111.2
(4.378) 91.3
(3.594) 910.7
(35.854)

平均降水日数
9.4 8.4 8.6 9.1 8.6 6.3 3.5 5.9 5.7 7.4 10.0 8.8 91.7
出典: 世界気象機関(国連)[8]

観光[編集]





サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂




橋上家屋で有名なヴェッキオ橋サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
サンタ・クローチェ聖堂
サン・ロレンツォ聖堂
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 - 世界最古の薬局

ウフィツィ美術館
バルジェロ美術館
アカデミア美術館
科学史研究所博物館
フィレンツェ考古学博物館
スペーコラ美術館
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ橋
ヴァザーリの回廊
ピッティ宮殿
ボーボリ庭園
フィレンツェ歴史地区(世界遺産)も参照のこと。

スポーツ[編集]

イタリアサッカーリーグのセリエAのACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina SpA)が本拠を置いている。かつて、中田英寿が在籍していた。6月末の聖ヨハネの日にはこのフィレンツェの守護聖人にちなんで、サンタ・クローチェ聖堂の広場で古式サッカー(Calcio Storico)が4つのチームで行われる。

交通[編集]

鉄道[編集]





フィレンツェSMN駅前のトラム
鉄道では、トレニタリアの路線がいくつもフィレンツェを一つの拠点とし、各都市とを結んでいる。街のターミナル駅は市街地に近いフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(フィレンツェSMN駅)で、ユーロスター・イタリアをはじめとする優等列車、さらにはヨーロッパの他国へ向かう国際列車が発着する。

街の外縁にはフィレンツェ・リフレディ駅やフィレンツェ・カンポ・ディ・マルテ駅といった中核駅があり、頭端式ホームを採用しているフィレンツェSMN駅での折り返しを避けるため、短絡線を経由して同駅に立ち寄らず、代わりにそれら外縁の駅をフィレンツェにおける停車駅としている列車が存在する。

市内交通[編集]

市内の交通はこれまでもっぱら路線バスが担っており、軌道系交通機関は長く存在していなかったが、フィレンツェSMN駅前から隣町のスカンディッチまで通じるトラムが2010年2月14日に開通した[9]。またフィレンツェSMN駅の周辺には都市間バスのターミナルがあり、ルッカ、プラート、アレッツォ、サン・ジミニャーノなどへ向かうバスが発着している。

空港[編集]

空港は中規模空港であるフィレンツェ・ペレトラ空港が北西の郊外にあり、ヨーロッパ各地とを結んでいる。しかし滑走路が1,700m程度しかなく大型機の発着は困難であるため、フィレンツェから西に鉄道(レオポルダ線)ないしバスで1時間程度行ったところにある、ピサのガリレオ・ガリレイ国際空港も実質的にフィレンツェの玄関として機能している。

姉妹都市[編集]

フィレンツェ市には多くの姉妹都市がある。

ドイツの旗 ドレスデン、ドイツ
スコットランドの旗 エディンバラ、スコットランド
フランスの旗 ランス、フランス
フィンランドの旗 トゥルク、フィンランド
ギリシャの旗 アテネ、ギリシャ
西サハラの旗 アイウン、サハラ・アラブ民主共和国
日本の旗 岐阜、日本
エリトリアの旗 アスマラ、エリトリア
イランの旗 エスファハーン、イラン
モロッコの旗 フェズ、モロッコ
アメリカ合衆国の旗 フィラデルフィア、アメリカ合衆国
ウクライナの旗 キエフ、ウクライナ
日本の旗 京都、日本
クウェートの旗 クウェートシティ、クウェート
中華人民共和国の旗 南京、中華人民共和国
イスラエルの旗 ナザレ、イスラエル
ラトビアの旗 リガ、ラトビア
ブラジルの旗 サルバドル、ブラジル
アルバニアの旗 ティラナ、アルバニア


フィレンツェの著名な人物[編集]
ダンテ・アリギエーリ
政争に敗れ、死刑宣告を受けてフィレンツェを追放される。その大著『神曲』の中では、フィレンツェの堕落を嘆き、悪し様に罵っている。『神曲』天国篇完成後、1321年ラヴェンナで客死して当地に埋められた。フィレンツェは遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。アメリゴ・ベスプッチ
ロレンツォ・デ・メディチ
サンドロ・ボッティチェッリ
ミケランジェロ・ブオナローティ
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジロラモ・サヴォナローラ
ニッコロ・マキャヴェッリ
バッチョ・ダーニョロ
ロベルト・カバリ:ファッションデザイナー
サルヴァトーレ・フェラガモ:イタリア南部の生まれだが、1927年にフィレンツェで開業

フィレンツェが登場するフィクション[編集]

小説[編集]
眺めのいい部屋
マリア様がみてる:「フィレンツェ煎餅」なるインチキ名物が登場
冷静と情熱のあいだ Blu・Rosso
メディチ家の暗号:マイケル・ホワイトのミステリー。
春の戴冠:辻邦生が、名画「ヴィーナスの誕生」のボッティチェッリを通し、ルネサンス期のフィレンツェを描いた大長編小説
銀色のフィレンツェーメディチ家殺人事件:塩野七生の歴史小説、マルコ・ダンドロと美貌の娼妓の冒険。ヴェネチア編、ローマ編の三部作の2作目
わが友マキアヴェッリ:塩野七生の歴史小説
地上のヴィーナス:サラ・デュナントが描く14歳の少女の物語。メディチ家が崩壊した直後のフィレンツェが舞台
真夜中の訪問客:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブのミステリー。フィレンツェの街と人々の描写が秀逸
検察官:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブ作のポリティカル・ミステリー。ジャーナリストのパオロ・ヴァゲッジとの共著
未完のモザイク:ジュリオ・レオ−ニの小説で、14世紀のフィレンツェを舞台に「神曲」の作者ダンテが殺人事件を捜査
殺しはフィレンツェ仕上げで:コーネリアス・ハーシュバーグのミステリー。1964年のエドガー賞受賞作
星の運命:ミカエラ・ロスナーの小説。少年とミケランジェロの交友を描くファンタジー歴史小説
女ごころ:サマセット・モームのサスペンス風小説。ショーン・ペン主演の映画「真夜中の銃声」の原作

戯曲[編集]
フィレンツェの悲劇 ツェムリンスキー
ジャンニ・スキッキ プッチーニ

映画[編集]
わが青春のフロレンス (1969, イタリア)
フィレンツェの風に抱かれて(1991年、東映/出演:若村麻由美、ジュリアーノ・ジェンマ、仲代達矢)
羊たちの沈黙(レクター博士が獄中でフィレンツェの絵を描いている場面)
ハンニバル(レクター博士は逃亡先のここで、ダンテ研究者のフェル博士を名乗って隠匿する)
冷静と情熱のあいだ
眺めのいい部屋(主に前半)

コンピュータゲーム[編集]
BITTERSWEET FOOLS(当地を舞台に、青年と少女の交流を描くインタラクティブ・ノベル)
月光のカルネヴァーレ
サフィズムの舷窓(ヒロインの一人の出身地。追加シナリオでは舞台にもなり、また、「メディチ家の子孫」という設定のキャラクターも登場)
シャドウハーツII
アサシン クリード II(主人公の出身地かつ舞台。ロレンツォ・デ・メディチやレオナルド・ダ・ヴィンチなど史実上の人物が多数登場)

漫画[編集]
GUNSLINGER GIRL(フィレンツェで大立ち回りを繰り広げる)
チェーザレ 破壊の創造者
岸辺露伴 グッチへ行く
白のフィオレンティーナ

アメリゴ・ヴェスプッチ

アメリカ大陸の発見(アメリカたいりくのはっけん)とは、特定の地「アメリカ大陸」に先史と有史の上で初めて実際に到達したことを指して言う歴史学等の分野の用語である。ただし、個々の文化圏によって「到達した事実」の捉え方・意味合いが異なり、したがって、(土地の)発見史というものは関連した文化圏の数だけ存在し得る。



目次 [非表示]
1 概説
2 個々の文化圏における発見 2.1 アメリカ州の先住民族
2.2 ノルマン人
2.3 ノルマン人以外のヨーロッパ人
2.4 ポリネシア人

3 上記以外の他の航海者
4 関連項目


概説[編集]

未知なる土地(ここでは大陸)の存在を概念として言い当てていても(通常の言葉ではそれも「発見」と言うが)実際に到達していなければこれを「(○○の地の)発見」とは呼ばない(cf. 発見#発見するということ)。その一方で、クリストファー・コロンブスがそうであるように、到達した地が新天地であると理解していなくとも(到達者が到達[発見]を認識していなくとも)事実として到達していれば、歴史上で「(○○の地を)発見した」と認められている。

個々の文化圏における発見[編集]

アメリカ州の先住民族[編集]

アメリカインディアン(アジア人種インディアン)、インディオを始めとするアメリカ州の先住民族は、アメリカ大陸に最初に居住した人類である可能性が高く、後期旧石器時代 (en) に属する紀元前12000年頃(cf. 紀元前10千年紀以前)、ヴュルム氷期(最終氷期。cf.)にベーリング地峡経由で陸路、アジア大陸からアメリカ大陸へ移動を果たしたと考えられている(別項「アラスカの歴史」も参照のこと)。彼らの移入によってアメリカ大陸の生物相(特に動物相)は以後、激変することになり、当地の環境全体に対して人類史上で最も大きな影響をもたらした出来事であったことは間違いない。

ノルマン人[編集]

詳細は「ノース人によるアメリカ大陸の植民地化」を参照

アイスランド系ノルマン人(ヴァイキングの一派)の航海者・レイフ・エリクソンとその船団は、10世紀の末(帰還した1000年より少し前)にアイスランドおよびグリーンランド経由で海路、アメリカ大陸に到達し、歴史時代の人類としては初めて新天地として発見した。東部海岸沿いに南下してニューファンドランド島などに進出し、ここを新天地「ヴィンランド」と呼んで定住を試みたものの、ほとんど世代を重ねることも無く入植は短期間のうちに頓挫している。

ノルマン人以外のヨーロッパ人[編集]

詳細は「ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化」を参照

ノルマン人以外のヨーロッパ人(日本語では俗に「西欧人」とも呼ばれるが、正確ではない)は、1492年、クリストファー・コロンブスによって初めてアメリカ海域に到達した。歴史時代においては後世に最も多大な影響を与えた探検事業である。1492年にコロンブスが到達したのはサン・サルバドル島であり、アメリカ大陸ではない。実際にアメリカ大陸に到達したのは1498年になってからである。

コロンブス以前にも、6世紀前期のクロンファートのブレンダン(事実であればレイフ・エリクソンよりさらに5世紀近く古い)や、1170年のウェールズ王子マドック (en) が到達していたという説もあるが、これらは伝説に色濃く装飾されて史実が判然としない。

ポリネシア人[編集]

ポリネシアではコロンブス以前から南米大陸原産のサツマイモが栽培されており、ポリネシア人が南アメリカ大陸から持ち込んだと考えられている。クック諸島では紀元1000年前後の痕跡がある。現在の学説ではポリネシアには紀元700年頃に持ち込まれたと考えられている。よって、少なくともその当時以降ポリネシア人は南アメリカ大陸と交流が有ったと思われる。

上記以外の他の航海者[編集]

中国は明代の武将にして朝貢外交および貿易の航海責任者であった鄭和は、彼が率いる船団の分隊が15世紀初頭にアフリカ大陸東岸に到達しており、アメリカ大陸にもコロンブスより70年から80年ほど早く到達していたと主張する者も存在する。

アメリゴ・ヴェスプッチ

アメリゴ・ヴェスプッチ (伊: Amerigo Vespucci、1454年3月9日 - 1512年2月22日) は、アメリカ州を探検したイタリアの探検家にして地理学者。フィレンツェ生まれ。身長約160cm(5ft3in)[1]。



目次 [非表示]
1 出身について
2 「新世界」の概念
3 引用
4 関連書籍
5 関連項目


出身について[編集]

アメリゴ・ヴェスプッチはフィレンツェ共和国の公証人ナスタジオ・ヴェスプッチとその妻エリザベッタの息子として生まれる。蜂(vespa)に由来する姓であることから蜂の図柄の入った家紋を持つヴェスプッチ家はプラートに源を持つため、プラート門に近いオニッサンティ地区に住んでいた。この地区には画家ボッティチェッリとギルランダイオの家もあり、彼らはヴェスプッチ家のために多くの仕事をこなした。オニッサンティ教会にあるギルランダイオが描いたヴェスプッチ家の集団肖像画に幼いアメリゴの姿がみられる。

父ナスタジオの弟ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチから教育を受け、ラテン語とギリシア語を習得し、プラトンを始めとする古代古典の文学や地理学に親しむようになる。当時高名な人文主義者として知られたジョルジョ・アントニオはメディチ分家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの文化人サークルに属していた。ボッティチェッリとギルランダイオもこのサークルと関係を持った。メディチ家追放後にフィレンツェの指導者となったピエロ・ソデリーニとはジョルジョ・アントニオの元で共に学んだ仲であり、アメリゴは『四回の航海』を彼に献じている。「あの過ぎ去った日々に、私たちは畏敬すべき善知識にして聖マルコ派の修道僧、ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ師のよき手本と理論のもとに文法学の初歩を聴講したものでありました。[2]」

ヴェスプッチ家はメディチ本家と分家の両方に関わっていたが、一族の中でも最も出世頭であったグイド・アントニオ・ヴェスプッチは本家のロレンツォ・イル・マニフィコに仕えていた。1478年、グイド・アントニオがフィレンツェ大使としてフランスに派遣された際、彼は当時24歳のアメリゴを秘書官として同行させた。当地に約2年滞在して任務をこなした後、ボローニャとミラノの宮廷を経由してフィレンツェに帰国した。

アメリゴは最終的には分家の当主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕えることとなる。ヴェスプッチ家のセミラミデがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに嫁いだ時、アメリゴは彼の家の執事として仕え始める。スペイン、セビリアにあるメディチ銀行の代理店に不正の疑いがかかった時、1489年に分家当主はアメリゴをその調査のため現地に派遣した。アメリゴはそこで親しくなった在スペイン歴の長いフィレンツェ人ジャンネット・ベラルディを信用のおける新支店長候補とし、1〜2ヶ月滞在の後フィレンツェへと引き揚げた。その帰途でピサに立ち寄り、金130ドゥカートで航海地図を購入している。

ベラルディ商会がセビーリャにおけるメディチ銀行代理店となったので、アメリゴは1491年に再びセビリアに赴く。ここでベラルディ商会に入り、メディチ家の事業を監督することになった。

スペインのカトリック国王フェルナンドが西インド探検航海を企画し、参加要請を受けたアメリゴ・ヴェスプッチは43歳にして初航海に出る。1497年から1498年にかけてカリブ海沿岸を探検した。1499年から1500年の第二回航海ではカリブ海から南下してブラジル北岸まで探検を行った。

この頃1500年カブラルが、ポルトガル王の命によって喜望峰を超えてインドに向かう途上で、南緯16度52分の地点でブラジルを発見した。ポルトガルはトルデシリャス条約によって、この領土を主張した。ポルトガル王は、発見された土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望んでいた。マヌエル1世はこの探検隊にブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴ・ヴェスプッチを抜擢し、セビリアから呼び寄せる。

アメリゴ・ヴェスプッチ

1501年から1502年にかけた第三回航海で南米大陸東岸に沿って南下した。あまりの寒さと暴風雨の厳しさに耐えかね引き返さざるを得なかったが南緯50度まで到達することができた。当初ヴェスプッチに指揮権は無く、ゴンサロ・コエーリョ (Gonçalo Coelho) の指揮下にあったが、最終的にヴェスプッチが責任者となった。

アメリゴはこの第三回航海の最中にヨーロッパ人初の南半球での天体観測を行ったが、その記録はポルトガルの航海に関わる機密情報とみなされてマヌエル王によって没収された。地理学書の執筆に必要なその記録の返還を求め続けたが結局戻されることはなかった。『新世界』でも「第三の日誌を当ポルトガルロ国王陛下からお返ししていただきますならば[3]」、「当国王陛下からいまだ記録をお返ししていただかないという理由を御了承いただけるものと存じます[4]」と何度か触れて、他国への機密流出のためではなく純粋に学術的目的のために返還を求めているのだと訴えている。

1503年から1504年にかけての第四回航海では南米北東部沿岸を探検した。ポルトガル王の元で二回の探検調査を終えた後、アメリゴは1505年にスペインのセビリアに帰還する。

当時のスペインではインディアス航海に関わる業務(航海技術の問題、地理情報の管理など)が日々膨れ上がっていた。これらを通商院から切り離すため、フェルナンド王はポルトガルに倣って航海士免許制、航海訓練所創設、王立地図台帳といった制度をスペインに導入することを決める。アメリゴ・ヴェスプッチとファン・デ・ラ・コサ、ビセンテ・ヤニェス・ピンソン、ファン・ディアス・デ・ソリスの四名で1507年から準備を開始、1508年にアメリゴ・ヴェスプッチが初代の航海士総監(Pilot Major)に任命される。

1512年、セビリアで死去。

「新世界」の概念[編集]

アメリゴは1503年頃に論文『新世界』を発表する。1499年から1502年にかけての南米探検で彼は南緯50度まで沿岸を下った。南米大陸がアジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の経度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることに気づいた。ちなみに当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア・アフリカ・ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は当時最先端の知識人層である人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられたが、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではない。

1507年、南ドイツの地理学者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』(Cosmographiae Introductio)を出版した。その付録の世界地図にアメリゴのラテン語名アメリクス・ウェスプキウス (Americus Vespucius) の女性形からこの新大陸にアメリカという名前が付けた。これがアメリカ大陸という名を用いた最初の例となった。

1513年のバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの探検で北米と南米の二つの大陸が陸続きで繋がっていること、南の海(太平洋。パナマ地峡の南にあたる。)が確認された。しかしその後もインディアスという呼称は慣習的に根強く残った。

引用[編集]
1.^ 当時のアメリカでは、この身長でも平均ほどの高さであった。
2.^ 長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『四回の航海』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、263頁。
3.^ 長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、336頁。
4.^ 長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、337頁。

関連書籍[編集]
Arciniegas, German (1955) Amerigo and the New World: the life & times of Amerigo Vespucci. New York: Knopf. 1955 English translation by Harriet de Onís. First edition published in Spanish in 1952 as Amerigo y el Nuevo Mundo, Mexico: Hermes.
Pohl, Frederick J. (1944) Amerigo Vespucci: Pilot Major. New York: Columbia University Press.
シュテファン・ツヴァイク著「アメリゴ 歴史的誤解の物語」(「ツヴァイク全集18 マゼラン」及び「マゼラン ツヴァイク伝記文学コレクション」関楠生・河原忠彦訳、みすず書房)
アメリゴ・ヴェスプッチ 謎の航海者の軌跡 色摩力夫 中公新書、1993
アメリゴ・ヴェスプッチの書簡集(長南実訳 増田義郎注) 大航海時代叢書 第1 (航海の記録) 岩波書店

アメリカ大陸

アメリカ大陸(アメリカたいりく)とは、南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をあわせた呼称。両アメリカや新大陸などとも言う。

N60-90, W150-180 N60-90, W120-150 N60-90, W90-120 N60-90, W60-90 N60-90, W30-60
N30-60, W150-180 N30-60, W120-150 N30-60, W90-120 N30-60, W60-90 N30-60, W30-60
N0-30, W120-150 N0-30, W90-120 N0-30, W60-90 N0-30, W30-60
S0-30, W60-90 S0-30, W30-60
S30-60, W60-90 S30-60, W30-60
30 degrees, 1800x1800

南北に分かれた二大陸であるが、両者はパナマ地峡で接続しているため、まとめて超大陸と見做すこともできる。なお、広く「アメリカ(米州)」というときは、カリブ海やカナダ北部の島々・海域をも含める場合が多い。

「アメリカ」と言う名称は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名から付けられた。詳細はアメリカ州を参照。
北アメリカ大陸はローラシア大陸から分裂して生成した。
南アメリカ大陸はゴンドワナ大陸から分裂して生成した。
両者は約500万年前(鮮新世)にパナマ地峡で結ばれるまで隔絶していたため、生物は独自の進化をしている。そのため、両者の生物相はかなり異なる。(新北区、新熱帯区も参照)
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