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2014年02月07日

フィレンツェ

フィレンツェ(イタリア語: Firenze ( 聞く))は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。

中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。

市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。



目次 [非表示]
1 名称 1.1 語源

2 地理 2.1 位置・広がり・地勢 2.1.1 隣接コムーネ


3 歴史
4 行政 4.1 分離集落

5 社会 5.1 経済・産業

6 自然・環境 6.1 気候

7 観光
8 スポーツ
9 交通 9.1 鉄道
9.2 市内交通
9.3 空港

10 姉妹都市
11 フィレンツェの著名な人物
12 フィレンツェが登場するフィクション 12.1 小説
12.2 戯曲
12.3 映画
12.4 コンピュータゲーム
12.5 漫画

13 関連項目
14 脚注
15 外部リンク


名称[編集]

語源[編集]

古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア (Florentia) と名付けた事が語源とされている。周辺国ではフィレンツェのことを、英語でFlorence(フローレンス)、スペイン語でFlorencia(フロレンスィア)、ドイツ語でFlorenz(フロレンツ)、フランス語でFlorence(フロランス)と呼ぶことにもその名残が見られる。

地理[編集]

位置・広がり・地勢[編集]

フィレンツェはSenese Clavey Hillsの盆地に位置している。アルノ川と三つの小川が当地を流れる。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。
バーニョ・ア・リーポリ
カンピ・ビゼンツィオ
フィエーゾレ
インプルネータ
スカンディッチ
セスト・フィオレンティーノ

歴史[編集]

フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[4]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。

1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。

ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年秋にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[5]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。

1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ヴェッキオ橋をのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。

行政[編集]

分離集落[編集]

フィレンツェには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
Galluzzo, Settignano, Le Piagge, Gavinana, Isolotto, Trespiano, Legnaia, Ponte a Greve, Rovezzano, Novoli, Careggi, Peretola, Sollicciano, Rifredi, San Frediano, Oltrarno

社会[編集]

経済・産業[編集]

観光業、繊維工業、金属加工業、製薬業、ガラス・窯業、ジュエリーや刺繍などの工芸が盛んである。 観光はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、サンタ・クローチェ聖堂、サン・ロレンツォ聖堂、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、ウフィツィ美術館などの歴史的な建造物が中心である。 貴金属、靴、皮ジャケットなどの革製品、フィレンツェ紙や、手作り香水や化粧品、焼き物など、伝統的手工芸製品の小売店も多い。

自然・環境[編集]

気候[編集]

フィレンツェは温暖湿潤気候 (Cfa) と、地中海性気候 (Csa) の境界線上である。[6]当地は活発な降水によって蒸し暑い夏と、涼しく湿った冬が特徴である。いくつもも丘に囲まれて、7月から8月にかけては蒸し暑くなる。また盆地ゆえ風が少なく、夏の気温は周りの沿岸部より高い。夏の降雨は対流によるもの。一方冬の降雨降雪は別の理由によるものである。最高気温の公式記録は1983年7月26日の42.6°Cで、最低気温は1985年1月12日の-23.2°Cである。[7]



[隠す]フィレンツェの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




平均最高気温 °C (°F)
10.1
(50.2) 12.0
(53.6) 15.0
(59) 18.8
(65.8) 23.4
(74.1) 27.3
(81.1) 31.1
(88) 30.6
(87.1) 26.6
(79.9) 21.1
(70) 14.9
(58.8) 10.4
(50.7) 20.1
(68.2)

平均最低気温 °C (°F)
1.4
(34.5) 2.8
(37) 4.9
(40.8) 7.7
(45.9) 11.3
(52.3) 14.7
(58.5) 17.2
(63) 17.0
(62.6) 14.2
(57.6) 10.0
(50) 5.5
(41.9) 2.4
(36.3) 9.1
(48.4)

降水量 mm (inch)
73.1
(2.878) 69.2
(2.724) 80.1
(3.154) 77.5
(3.051) 72.6
(2.858) 54.7
(2.154) 39.6
(1.559) 76.1
(2.996) 77.5
(3.051) 87.8
(3.457) 111.2
(4.378) 91.3
(3.594) 910.7
(35.854)

平均降水日数
9.4 8.4 8.6 9.1 8.6 6.3 3.5 5.9 5.7 7.4 10.0 8.8 91.7
出典: 世界気象機関(国連)[8]

観光[編集]





サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂




橋上家屋で有名なヴェッキオ橋サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
サンタ・クローチェ聖堂
サン・ロレンツォ聖堂
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 - 世界最古の薬局

ウフィツィ美術館
バルジェロ美術館
アカデミア美術館
科学史研究所博物館
フィレンツェ考古学博物館
スペーコラ美術館
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ橋
ヴァザーリの回廊
ピッティ宮殿
ボーボリ庭園
フィレンツェ歴史地区(世界遺産)も参照のこと。

スポーツ[編集]

イタリアサッカーリーグのセリエAのACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina SpA)が本拠を置いている。かつて、中田英寿が在籍していた。6月末の聖ヨハネの日にはこのフィレンツェの守護聖人にちなんで、サンタ・クローチェ聖堂の広場で古式サッカー(Calcio Storico)が4つのチームで行われる。

交通[編集]

鉄道[編集]





フィレンツェSMN駅前のトラム
鉄道では、トレニタリアの路線がいくつもフィレンツェを一つの拠点とし、各都市とを結んでいる。街のターミナル駅は市街地に近いフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(フィレンツェSMN駅)で、ユーロスター・イタリアをはじめとする優等列車、さらにはヨーロッパの他国へ向かう国際列車が発着する。

街の外縁にはフィレンツェ・リフレディ駅やフィレンツェ・カンポ・ディ・マルテ駅といった中核駅があり、頭端式ホームを採用しているフィレンツェSMN駅での折り返しを避けるため、短絡線を経由して同駅に立ち寄らず、代わりにそれら外縁の駅をフィレンツェにおける停車駅としている列車が存在する。

市内交通[編集]

市内の交通はこれまでもっぱら路線バスが担っており、軌道系交通機関は長く存在していなかったが、フィレンツェSMN駅前から隣町のスカンディッチまで通じるトラムが2010年2月14日に開通した[9]。またフィレンツェSMN駅の周辺には都市間バスのターミナルがあり、ルッカ、プラート、アレッツォ、サン・ジミニャーノなどへ向かうバスが発着している。

空港[編集]

空港は中規模空港であるフィレンツェ・ペレトラ空港が北西の郊外にあり、ヨーロッパ各地とを結んでいる。しかし滑走路が1,700m程度しかなく大型機の発着は困難であるため、フィレンツェから西に鉄道(レオポルダ線)ないしバスで1時間程度行ったところにある、ピサのガリレオ・ガリレイ国際空港も実質的にフィレンツェの玄関として機能している。

姉妹都市[編集]

フィレンツェ市には多くの姉妹都市がある。

ドイツの旗 ドレスデン、ドイツ
スコットランドの旗 エディンバラ、スコットランド
フランスの旗 ランス、フランス
フィンランドの旗 トゥルク、フィンランド
ギリシャの旗 アテネ、ギリシャ
西サハラの旗 アイウン、サハラ・アラブ民主共和国
日本の旗 岐阜、日本
エリトリアの旗 アスマラ、エリトリア
イランの旗 エスファハーン、イラン
モロッコの旗 フェズ、モロッコ
アメリカ合衆国の旗 フィラデルフィア、アメリカ合衆国
ウクライナの旗 キエフ、ウクライナ
日本の旗 京都、日本
クウェートの旗 クウェートシティ、クウェート
中華人民共和国の旗 南京、中華人民共和国
イスラエルの旗 ナザレ、イスラエル
ラトビアの旗 リガ、ラトビア
ブラジルの旗 サルバドル、ブラジル
アルバニアの旗 ティラナ、アルバニア


フィレンツェの著名な人物[編集]
ダンテ・アリギエーリ
政争に敗れ、死刑宣告を受けてフィレンツェを追放される。その大著『神曲』の中では、フィレンツェの堕落を嘆き、悪し様に罵っている。『神曲』天国篇完成後、1321年ラヴェンナで客死して当地に埋められた。フィレンツェは遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。アメリゴ・ベスプッチ
ロレンツォ・デ・メディチ
サンドロ・ボッティチェッリ
ミケランジェロ・ブオナローティ
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジロラモ・サヴォナローラ
ニッコロ・マキャヴェッリ
バッチョ・ダーニョロ
ロベルト・カバリ:ファッションデザイナー
サルヴァトーレ・フェラガモ:イタリア南部の生まれだが、1927年にフィレンツェで開業

フィレンツェが登場するフィクション[編集]

小説[編集]
眺めのいい部屋
マリア様がみてる:「フィレンツェ煎餅」なるインチキ名物が登場
冷静と情熱のあいだ Blu・Rosso
メディチ家の暗号:マイケル・ホワイトのミステリー。
春の戴冠:辻邦生が、名画「ヴィーナスの誕生」のボッティチェッリを通し、ルネサンス期のフィレンツェを描いた大長編小説
銀色のフィレンツェーメディチ家殺人事件:塩野七生の歴史小説、マルコ・ダンドロと美貌の娼妓の冒険。ヴェネチア編、ローマ編の三部作の2作目
わが友マキアヴェッリ:塩野七生の歴史小説
地上のヴィーナス:サラ・デュナントが描く14歳の少女の物語。メディチ家が崩壊した直後のフィレンツェが舞台
真夜中の訪問客:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブのミステリー。フィレンツェの街と人々の描写が秀逸
検察官:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブ作のポリティカル・ミステリー。ジャーナリストのパオロ・ヴァゲッジとの共著
未完のモザイク:ジュリオ・レオ−ニの小説で、14世紀のフィレンツェを舞台に「神曲」の作者ダンテが殺人事件を捜査
殺しはフィレンツェ仕上げで:コーネリアス・ハーシュバーグのミステリー。1964年のエドガー賞受賞作
星の運命:ミカエラ・ロスナーの小説。少年とミケランジェロの交友を描くファンタジー歴史小説
女ごころ:サマセット・モームのサスペンス風小説。ショーン・ペン主演の映画「真夜中の銃声」の原作

戯曲[編集]
フィレンツェの悲劇 ツェムリンスキー
ジャンニ・スキッキ プッチーニ

映画[編集]
わが青春のフロレンス (1969, イタリア)
フィレンツェの風に抱かれて(1991年、東映/出演:若村麻由美、ジュリアーノ・ジェンマ、仲代達矢)
羊たちの沈黙(レクター博士が獄中でフィレンツェの絵を描いている場面)
ハンニバル(レクター博士は逃亡先のここで、ダンテ研究者のフェル博士を名乗って隠匿する)
冷静と情熱のあいだ
眺めのいい部屋(主に前半)

コンピュータゲーム[編集]
BITTERSWEET FOOLS(当地を舞台に、青年と少女の交流を描くインタラクティブ・ノベル)
月光のカルネヴァーレ
サフィズムの舷窓(ヒロインの一人の出身地。追加シナリオでは舞台にもなり、また、「メディチ家の子孫」という設定のキャラクターも登場)
シャドウハーツII
アサシン クリード II(主人公の出身地かつ舞台。ロレンツォ・デ・メディチやレオナルド・ダ・ヴィンチなど史実上の人物が多数登場)

漫画[編集]
GUNSLINGER GIRL(フィレンツェで大立ち回りを繰り広げる)
チェーザレ 破壊の創造者
岸辺露伴 グッチへ行く
白のフィオレンティーナ
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