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2014年02月11日
レバント
レバント (Levant) とは東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。厳密な定義はないが、広義にはギリシャ、トルコ、シリア、キプロス、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域[1]。現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル(およびパレスチナ自治区)を含む地域を指すことが多い。歴史学では、先史時代・古代・中世にかけてのこれらの地域を指す。
レヴァントは英語の発音だが、もとはフランス語のルヴァン (Levant) で、「(太陽が)上る」を意味する動詞「lever」の現在分詞「levant」の固有名詞化である。
肥沃な三日月地帯の西半分にあたるレバントは、最初の農耕が始まった場所とされる。シリアのテル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)では最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。
かつて東部地中海沿岸のアナトリアからシリア、パレスチナ、エジプトにかけては多数の富裕な港があり、イタリアのヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ピサ、アマルフィなど海洋都市国家は競ってこれらの港と貿易を行い、その利益をめぐり互いに戦争を行うほどだった。この貿易をレヴァント貿易(東方貿易)と呼び、その港のある東部地中海沿岸をレヴァントと呼んだ。イタリアの海洋都市国家がレヴァントとの貿易で輸入したのは、これら地中海沿岸で生産されたものもあったが(農産品や織物など)、それらよりも、遠くインドや東南アジア、中国、あるいはアフリカからなどから運ばれてきた絹、スパイス、胡椒、象牙など高価で希少な、ヨーロッパではぜいたく品とされた品々が主だった。
レパントの海戦が戦われたギリシャの都市名レパント (Lepanto) としばしば間違われるが、無関係である。また、レバノン (Lebanon) とも音が似ているが、これはアラム語起源の古い地名であり、偶然の一致である。
レバントにちなんだ言葉[編集]
レバント海
レバント赤 (Levant red)
シナヨモギ(英語版) (Levant wormseed) シナ花油 (Levant wormseed oil)
レバンター(英語版) - 地中海西部に吹く東風(語源が同じ)
レバントモロッコ (Levant morocco) - 羊・山羊などの皮
レバントストラックス (Levant storax) - ストラックス(植物性樹脂)の一種
レヴァントは英語の発音だが、もとはフランス語のルヴァン (Levant) で、「(太陽が)上る」を意味する動詞「lever」の現在分詞「levant」の固有名詞化である。
肥沃な三日月地帯の西半分にあたるレバントは、最初の農耕が始まった場所とされる。シリアのテル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)では最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。
かつて東部地中海沿岸のアナトリアからシリア、パレスチナ、エジプトにかけては多数の富裕な港があり、イタリアのヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ピサ、アマルフィなど海洋都市国家は競ってこれらの港と貿易を行い、その利益をめぐり互いに戦争を行うほどだった。この貿易をレヴァント貿易(東方貿易)と呼び、その港のある東部地中海沿岸をレヴァントと呼んだ。イタリアの海洋都市国家がレヴァントとの貿易で輸入したのは、これら地中海沿岸で生産されたものもあったが(農産品や織物など)、それらよりも、遠くインドや東南アジア、中国、あるいはアフリカからなどから運ばれてきた絹、スパイス、胡椒、象牙など高価で希少な、ヨーロッパではぜいたく品とされた品々が主だった。
レパントの海戦が戦われたギリシャの都市名レパント (Lepanto) としばしば間違われるが、無関係である。また、レバノン (Lebanon) とも音が似ているが、これはアラム語起源の古い地名であり、偶然の一致である。
レバントにちなんだ言葉[編集]
レバント海
レバント赤 (Levant red)
シナヨモギ(英語版) (Levant wormseed) シナ花油 (Levant wormseed oil)
レバンター(英語版) - 地中海西部に吹く東風(語源が同じ)
レバントモロッコ (Levant morocco) - 羊・山羊などの皮
レバントストラックス (Levant storax) - ストラックス(植物性樹脂)の一種
マシュリク
マシュリク(مشرق Mashriq)は、アラビア語の「日が昇るところ」を原義とし、「東方」を意味する語。マグリブ(西方)に対して東方を指し、普通には概ねエジプト以東のアラブ諸国(東アラブ)のことであるが、その地理範囲は一定ではない。
古くはアッバース朝の都バグダードを中心にとみて、イランの東部と中央アジアを指したこともあった。イスラム世界の中心から離れたマグリブの人々にとっては、マシュリクとは東方の聖地マッカ(メッカ)や学問の中心カイロの方面を指して漠然と呼ぶのに使われた地理概念であった。今日ではシリア地方やイラクを指す言葉として用いられることが多いが、マグリブの地理概念に比べるとマシュリクのそれは曖昧であり、地域内の経済的・政治的繋がりもマグリブ諸国ほど緊密であるとはいえない。
古くはアッバース朝の都バグダードを中心にとみて、イランの東部と中央アジアを指したこともあった。イスラム世界の中心から離れたマグリブの人々にとっては、マシュリクとは東方の聖地マッカ(メッカ)や学問の中心カイロの方面を指して漠然と呼ぶのに使われた地理概念であった。今日ではシリア地方やイラクを指す言葉として用いられることが多いが、マグリブの地理概念に比べるとマシュリクのそれは曖昧であり、地域内の経済的・政治的繋がりもマグリブ諸国ほど緊密であるとはいえない。
サラート
サラート(礼拝、サラー、アラビア語: صلاة ṣalāt, 複数形 صلوات ṣalawāt, 古典アラビア語: صلوة ṣalawah)とは、カアバ神殿の方角へ向かって祈ることで、イスラム教の五行のひとつである。ペルシア語、ベンガル語、ウルドゥー語、トルコ語、南スラヴ諸語の一部では、ペルシャ語による意訳ナマーズ(نماز)に基づいた言葉で呼ばれる(ベンガル文字: নামাজ, ラテン文字: namaz, キリル文字: намаз)。
礼拝の方法には一定の決まりがある。ふだんは家庭などで個人で行ってもいいが、イスラムの祝日である金曜日の礼拝(全5回)のうち、少なくとも1回はモスクに集まってみなで行うことが奨励される。礼拝が始まる時間はムアッジンと呼ばれる人によって告げられるが、これをアザーンという。昔はモスクの尖塔(ミナレット)の上からアザーンが行われたが、現在はスピーカーが取り付けられている。
礼拝は1日5回行う。各礼拝は以下のようになっており、具体的な時間はその場所での日の出と日没の時間によって変わるため場所と季節の影響により時間が細かく変化する。現代では地域ごとの正確な礼拝時間表が数日から一日刻みで精密に作られており、インターネットでも検索することが出来るようになっている。
日の出の1時間以上前には起きて礼拝の準備をしなければならないため、正確に守ろうとするとムスリムは大変な早起きをすることになる。日本の場合では日の出が早い8月ごろの場合には礼拝の時間は4時前となり、日の出が遅い冬場の12月から1月でも5時半前後になる。
名称
時間帯
任意(ファルドゥ前
ファルドゥ(義務)
任意(ファルドゥ後)
スンナ派
シーア派
スンナ派
シーア派
ファジュル (فجر) 夜明け前 2ルクア 2ルクア 2ルクア − −
ズフル (ظهر) 日の出からアスルまで 4ルクア 2-4ルクア 4ルクア 2ルクア −
アスル (عصر) 影が自分の身長と同じ(2倍)になってから1日没まで 4ルクア 2-4ルクア 4ルクア − −
マグリブ (مغرب) 日没から日がなくなるまで − 2-4ルクア 3ルクア 2ルクア 2ルクア
イシャー (عشاء) 夜 4ルクア 4ルクア 4ルクア 2ルクア
3ルクア Witr 2ルクア,8 ルクア (4×2 ルクア) Salat al-Layl3
1イマームによって異なる
礼拝の方法には一定の決まりがある。ふだんは家庭などで個人で行ってもいいが、イスラムの祝日である金曜日の礼拝(全5回)のうち、少なくとも1回はモスクに集まってみなで行うことが奨励される。礼拝が始まる時間はムアッジンと呼ばれる人によって告げられるが、これをアザーンという。昔はモスクの尖塔(ミナレット)の上からアザーンが行われたが、現在はスピーカーが取り付けられている。
礼拝は1日5回行う。各礼拝は以下のようになっており、具体的な時間はその場所での日の出と日没の時間によって変わるため場所と季節の影響により時間が細かく変化する。現代では地域ごとの正確な礼拝時間表が数日から一日刻みで精密に作られており、インターネットでも検索することが出来るようになっている。
日の出の1時間以上前には起きて礼拝の準備をしなければならないため、正確に守ろうとするとムスリムは大変な早起きをすることになる。日本の場合では日の出が早い8月ごろの場合には礼拝の時間は4時前となり、日の出が遅い冬場の12月から1月でも5時半前後になる。
名称
時間帯
任意(ファルドゥ前
ファルドゥ(義務)
任意(ファルドゥ後)
スンナ派
シーア派
スンナ派
シーア派
ファジュル (فجر) 夜明け前 2ルクア 2ルクア 2ルクア − −
ズフル (ظهر) 日の出からアスルまで 4ルクア 2-4ルクア 4ルクア 2ルクア −
アスル (عصر) 影が自分の身長と同じ(2倍)になってから1日没まで 4ルクア 2-4ルクア 4ルクア − −
マグリブ (مغرب) 日没から日がなくなるまで − 2-4ルクア 3ルクア 2ルクア 2ルクア
イシャー (عشاء) 夜 4ルクア 4ルクア 4ルクア 2ルクア
3ルクア Witr 2ルクア,8 ルクア (4×2 ルクア) Salat al-Layl3
1イマームによって異なる
マグリブ
(Maghreb、Maghrib、مغرب)は、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。
目次 [非表示]
1 地域名としてのマグリブ
2 文化 2.1 食文化
3 著名なマグリブ出身者
4 関連項目
地域名としてのマグリブ[編集]
地域名としてのマグリブは、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわちモロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指し、場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。
イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。
1989年にマグリブ5か国は、ヨーロッパ連合にならって経済統合を促進するためにマグリブ連合を結成したが、アルジェリア情勢の不安定などから地域統合を進めることができず、連合としての活動はあまり見られない。
なお、モロッコのアラビア語による正式な国名はアル=マムラカ・アル=マグリビーヤ(al-Mamlaka al-Maghribiya, マグリビーヤはマグリブの形容詞形)といい、直訳すれば「マグリブ(日の没する地)の王国」という意味である。
文化[編集]
食文化[編集]
フェズのクスクス
タジン鍋
ミント緑茶
代表的な食べ物にクスクスとタジン鍋がある。主にクミン、ターメリック、サフラン、シナモンなどの香辛料を用い、味付けは香り高くマイルドだが、チュニジアではハリッサという唐辛子のペーストもよく使われる。イスラム教の教義に従って豚肉を食べることはまずない。イスラム教では酒を飲むことが禁止されているが、宗主国であったフランスの影響で、ロゼワインを多く産出する。ノンアルコール飲料の中では、ミントと砂糖を入れた緑茶はとても人気がある。モロッコ料理は特に美食で名高い。
著名なマグリブ出身者[編集]
アプレイウス
テルトゥリアヌス
聖モニカ
アウグスティヌス
アブド・アッラフマーン1世
イブン・バットゥータ
イブン・ハルドゥーン
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1 地域名としてのマグリブ
2 文化 2.1 食文化
3 著名なマグリブ出身者
4 関連項目
地域名としてのマグリブ[編集]
地域名としてのマグリブは、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわちモロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指し、場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。
イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。
1989年にマグリブ5か国は、ヨーロッパ連合にならって経済統合を促進するためにマグリブ連合を結成したが、アルジェリア情勢の不安定などから地域統合を進めることができず、連合としての活動はあまり見られない。
なお、モロッコのアラビア語による正式な国名はアル=マムラカ・アル=マグリビーヤ(al-Mamlaka al-Maghribiya, マグリビーヤはマグリブの形容詞形)といい、直訳すれば「マグリブ(日の没する地)の王国」という意味である。
文化[編集]
食文化[編集]
フェズのクスクス
タジン鍋
ミント緑茶
代表的な食べ物にクスクスとタジン鍋がある。主にクミン、ターメリック、サフラン、シナモンなどの香辛料を用い、味付けは香り高くマイルドだが、チュニジアではハリッサという唐辛子のペーストもよく使われる。イスラム教の教義に従って豚肉を食べることはまずない。イスラム教では酒を飲むことが禁止されているが、宗主国であったフランスの影響で、ロゼワインを多く産出する。ノンアルコール飲料の中では、ミントと砂糖を入れた緑茶はとても人気がある。モロッコ料理は特に美食で名高い。
著名なマグリブ出身者[編集]
アプレイウス
テルトゥリアヌス
聖モニカ
アウグスティヌス
アブド・アッラフマーン1世
イブン・バットゥータ
イブン・ハルドゥーン
ベルベル人
ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。
ヨーロッパの諸言語で Berber と表記され、日本語ではベルベルと呼ぶのは、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来するが、自称はアマジグ(الأمازيغ(al-Amāzīgh) アマーズィーグ)といい、その名は「高貴な出自の人」「自由人」を意味する。複数形はイマジゲン(إيمازيغن(Īmāzīghen) イーマーズィーゲン)。
目次 [非表示]
1 居住地域
2 歴史
3 著名なベルベル人
4 脚注
5 関連項目
居住地域[編集]
ベルベル人はカビール人(英語版)、シャウィーア人(英語版)、ムザブ人(英語版)、トゥアレグ人の四つをはじめ、リーフ人(英語版)、シェヌアス人(英語版)、シルハ人(英語版)などのグループに分かれる。東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリアで同5分の1、その他、リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主にフランス、オランダ、ベルギー、ドイツなどに居住している他、北米ではカナダのケベック州にも居住している。
歴史[編集]
ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキア人が北アフリカの沿岸に至ってカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人(英語版)などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。古代カルタゴ(英語版)(前650年–前146年)の末期、前219年の第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア(前202年–前46年)でも紀元前112年から共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。ラテン語が公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。
ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマン民族であるヴァンダル人が北ヨーロッパからガリア、ヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。王朝の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語はやはり下位言語であった。
ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。
ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語が公用語として通用した。ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。
7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人のイスラム教徒が北アフリカに侵攻した。エジプトを征服した彼らは、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ。ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年)(英語版))を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝のワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイル(英語版)や将軍ウクバ・イブン・ナフィ(英語版)によってベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。
イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。711年にアンダルス(イベリア半島)に派遣されて西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。時とともに三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プールに影響を与えた。
イスラム化して以降のベルベル人はむしろ熱心なムスリム(イスラム教徒)となり、11世紀、12世紀にはモロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家、ムラービト朝、ムワッヒド朝が相次いで興った。彼らもイベリア半島に侵入し、征服王朝を樹立した。これらはベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったが、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。
アンダルスに入ったベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。グラナダ王国の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語を用いていたとされる。
ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝、チュニジア地域にはハフス朝というベルベル人王朝が興隆した。マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国により1340年にはチュニスが占領された。しかしスルタンであるアブー・アルハサン・アリーにより王朝は一時的に持ち直し、1347年にはチュニスを奪回した。しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリスの死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。マリーン朝は最終的に15世紀の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。
1492年にグラナダ王国が陥落すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコとされた。モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブへと追放された(モリスコ追放)。現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。
16世紀には、東からオスマン帝国が進出した。1533年にはアルジェの海賊、バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バーバリ諸国(英語版)におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラブ語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。
アルジェのデイ(英語版)は、沿岸のキリスト教国の船をバーバリ諸国(英語版)のバルバリア海賊を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。
19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、第1次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)と第2次バーバリ戦争(1815年)、1817年8月27日、アルジェ砲撃等が行なわれた。19世紀以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。
著名なベルベル人[編集]
マシニッサ - ヌミディア王。
ユグルタ - ヌミディア王。
アプレイウス - 古代ローマの作家。完存する唯一のラテン文学小説『変容(または黄金のロバ)(ラテン語版、英語版)』の著者。
アウグスティヌス - キリスト教の教父。
モニカ - アウグスティヌスの母。
アレイオス - アリウス派の祖。
ターリク・イブン=ズィヤード - 西ゴート王国、アンダルスの征服者。
ユースフ・イブン=タシュフィーン(英語版) - ムラービト朝の建設者。
イブン=トゥーマルト - ムワッヒド朝の建設者。
イブン=バットゥータ - 14世紀の旅行家、『大旅行記』の著者。
ムーラーイ・アフマド・アル=ライスーニー(英語版) - リーフ族(英語版)の部族長。映画『風とライオン』のライズリのモデル。
アブド・エル・クリム - 植民地時代モロッコの反スペイン、反フランス闘争第三次リーフ戦争の指導者。
カテブ・ヤシーン - アルジェリアの文学者
ジネディーヌ・ジダン - ベルベル系カビール人の両親の下に生まれ、FCジロンダン・ボルドー、ユヴェントスFC、レアル・マドリードで活躍したフランス国籍のサッカー選手。
ロリーン - スウェーデンの音楽家
ヨーロッパの諸言語で Berber と表記され、日本語ではベルベルと呼ぶのは、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来するが、自称はアマジグ(الأمازيغ(al-Amāzīgh) アマーズィーグ)といい、その名は「高貴な出自の人」「自由人」を意味する。複数形はイマジゲン(إيمازيغن(Īmāzīghen) イーマーズィーゲン)。
目次 [非表示]
1 居住地域
2 歴史
3 著名なベルベル人
4 脚注
5 関連項目
居住地域[編集]
ベルベル人はカビール人(英語版)、シャウィーア人(英語版)、ムザブ人(英語版)、トゥアレグ人の四つをはじめ、リーフ人(英語版)、シェヌアス人(英語版)、シルハ人(英語版)などのグループに分かれる。東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリアで同5分の1、その他、リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主にフランス、オランダ、ベルギー、ドイツなどに居住している他、北米ではカナダのケベック州にも居住している。
歴史[編集]
ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキア人が北アフリカの沿岸に至ってカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人(英語版)などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。古代カルタゴ(英語版)(前650年–前146年)の末期、前219年の第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア(前202年–前46年)でも紀元前112年から共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。ラテン語が公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。
ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマン民族であるヴァンダル人が北ヨーロッパからガリア、ヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。王朝の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語はやはり下位言語であった。
ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。
ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語が公用語として通用した。ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。
7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人のイスラム教徒が北アフリカに侵攻した。エジプトを征服した彼らは、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ。ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年)(英語版))を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝のワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイル(英語版)や将軍ウクバ・イブン・ナフィ(英語版)によってベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。
イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。711年にアンダルス(イベリア半島)に派遣されて西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。時とともに三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プールに影響を与えた。
イスラム化して以降のベルベル人はむしろ熱心なムスリム(イスラム教徒)となり、11世紀、12世紀にはモロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家、ムラービト朝、ムワッヒド朝が相次いで興った。彼らもイベリア半島に侵入し、征服王朝を樹立した。これらはベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったが、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。
アンダルスに入ったベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。グラナダ王国の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語を用いていたとされる。
ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝、チュニジア地域にはハフス朝というベルベル人王朝が興隆した。マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国により1340年にはチュニスが占領された。しかしスルタンであるアブー・アルハサン・アリーにより王朝は一時的に持ち直し、1347年にはチュニスを奪回した。しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリスの死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。マリーン朝は最終的に15世紀の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。
1492年にグラナダ王国が陥落すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコとされた。モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブへと追放された(モリスコ追放)。現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。
16世紀には、東からオスマン帝国が進出した。1533年にはアルジェの海賊、バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バーバリ諸国(英語版)におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラブ語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。
アルジェのデイ(英語版)は、沿岸のキリスト教国の船をバーバリ諸国(英語版)のバルバリア海賊を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。
19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、第1次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)と第2次バーバリ戦争(1815年)、1817年8月27日、アルジェ砲撃等が行なわれた。19世紀以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。
著名なベルベル人[編集]
マシニッサ - ヌミディア王。
ユグルタ - ヌミディア王。
アプレイウス - 古代ローマの作家。完存する唯一のラテン文学小説『変容(または黄金のロバ)(ラテン語版、英語版)』の著者。
アウグスティヌス - キリスト教の教父。
モニカ - アウグスティヌスの母。
アレイオス - アリウス派の祖。
ターリク・イブン=ズィヤード - 西ゴート王国、アンダルスの征服者。
ユースフ・イブン=タシュフィーン(英語版) - ムラービト朝の建設者。
イブン=トゥーマルト - ムワッヒド朝の建設者。
イブン=バットゥータ - 14世紀の旅行家、『大旅行記』の著者。
ムーラーイ・アフマド・アル=ライスーニー(英語版) - リーフ族(英語版)の部族長。映画『風とライオン』のライズリのモデル。
アブド・エル・クリム - 植民地時代モロッコの反スペイン、反フランス闘争第三次リーフ戦争の指導者。
カテブ・ヤシーン - アルジェリアの文学者
ジネディーヌ・ジダン - ベルベル系カビール人の両親の下に生まれ、FCジロンダン・ボルドー、ユヴェントスFC、レアル・マドリードで活躍したフランス国籍のサッカー選手。
ロリーン - スウェーデンの音楽家
野蛮
野蛮(やばん、Barbarian)とは、文明・文化に対立する概念であり、文化の開けていない状態あるいは乱暴で礼節を知らないことを言う。未開や粗野と同義。しばしば自身を「文明」と称する人々によって相手に付けられるレッテルとして用いられる。野蛮だとされる民族は「蛮族」と呼ばれる。ここでは例として欧州人の蛮族観を説明する。
目次 [非表示]
1 古代古典時代
2 中世以後
3 高貴な野蛮人
4 関連事項
古代古典時代[編集]
古代ギリシアでは異国の民をバルバロイ(βάρβαροι,Barbaroi)と呼んだ。歴史以前では必ずしも軽蔑のニュアンスはなかったようだが、ペルシア戦争で異国の侵入と破壊を経験したあたりから、ペルシアへの敵愾心、非ギリシア人への排外の感情とともに、英語のバーバリアン(Barbarian)という語にこめられるような蔑視のニュアンスを含む用法になったようである。
ギリシア人たちは自由なギリシア人に比べ、絶対的な王による専制下のバルバロイには奴隷の品性しかないと考えた。アリストテレスによれば「ギリシア人は捕らわれても自分自身を奴隷と呼ぶことを好まず、またバルバロイだけをそう呼ぼうとする」。古典古代のギリシア人にとって、自分以外に主人を持つものを奴隷とみなし、家の中での家長=主人と奴隷の関係を律する論理と、主人=家長である自由人同士との関係を律する論理は異なるものであった。従って、家の論理を拡張したものとしての王=家長=主人につかえるオリエントの臣民たちは奴隷に準じるものとして理解されたのであった。古代ローマ人にとっても、領外のガリア人、ゲルマン民族は蛮族にすぎなかった。ゲルマン民族がローマ領内に移動し、キリスト教による平等主義で教化されたヨーロッパ世界でもこの構図は、形を変えて繰りかえされる。
中世以後[編集]
大航海時代以後、他の民族と接触する機会が増えても、ヨーロッパ人は新たな他民族についての知識をギリシア・ラテンの古典や聖書の伝統に関連させて解釈した。中世カトリックでは、人間は神と獣の中間に位置し、野蛮とは「堕罪」による動物状態への退行と考えられる。
スペインが植民地化した後のアメリカ大陸先住民(インディオ、インディアン)を奴隷として使用する是非をめぐって、ラス・カサスとセプルベダとのバリャドリッド論争で、奴隷使用を容認するセプルペダが論拠としたのはアリストテレスの「バルバロイ=奴隷」論とともに、インディオの風習に彼がみた〈自然に背く罪〉である。
中世東ローマ帝国ではギリシャ人が中心となったために、古代以来の蛮族の概念が継続された。当時のギリシャ人はローマ帝国の市民として「ローマ人」と称していたが、「ローマ人」以外の諸民族(西欧のカトリック諸国を含む)を「バルバロイ」と呼んでいた。
高貴な野蛮人[編集]
17・18世紀の、野蛮人を「自然」の代表とする文明批判の例としては、フランソワ・フェヌロンの《テレマックの冒険》やモンテーニュ『エセー』に出てくるアメリカインディアンについての記述がある。『エセー』の第1巻第31章では、理性と芸術に対して自然が称賛され、「野蛮」という概念について考察を加えている。「この国には全くいかなる種類の取引もない…役人という言葉もなければ統治者という言葉もない」という一節が、そのままシェークスピアの『テンペスト』に引用され、ルソーの『エミール』もモンテーニュの〈自然〉賛美から多くの着想を得たという。 ディドロは『ブーガンヴィル航海記補遺』で罪のない平和な未開民族に比べて、争いに明け暮れる〈野蛮〉なヨーロッパを批判し、〈野蛮〉を未開人種の属性ではなく戦闘行為にも付与した。高貴な野蛮人は、平和と寛容の象徴とされた。
19世紀以降では、植民地の進展とインディアンの反抗がヨーロッパ白人の意識に達したのか、誇り高く自由な民としての「高貴な野蛮人」(高貴なる野蛮人、ノーブル・サベージ、高潔な野蛮人、高潔なる野蛮人)があらわれる。ジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説『モヒカン族の最後』、アレクサンドル・ブロークの詩『スキタイ人』などでは、戦闘や復讐における残忍さも、自然力と無秩序のあらわれとして理解されている。ロシアでは「野蛮」というものを、伝統・規律からの自由という政治概念としてとらえていた。
レヴィ=ストロースの「野生の思考」という概念により、サルトルの哲学を〈第一級の民族誌的資料〉として、〈閉じられた社会〉における未開人の関心のあり方と並べて見せたことは、ヨーロッパ人が自らをして野蛮を査定できるという優越感を無効にした。サルトルのレヴィ=ストロースへの答えは、「腐敗した西欧社会」を叩きつぶすために「自由な精神」が「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高地」から「暴力の血路」をきりひらいて押し寄せるであろう、というものだった。
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1 古代古典時代
2 中世以後
3 高貴な野蛮人
4 関連事項
古代古典時代[編集]
古代ギリシアでは異国の民をバルバロイ(βάρβαροι,Barbaroi)と呼んだ。歴史以前では必ずしも軽蔑のニュアンスはなかったようだが、ペルシア戦争で異国の侵入と破壊を経験したあたりから、ペルシアへの敵愾心、非ギリシア人への排外の感情とともに、英語のバーバリアン(Barbarian)という語にこめられるような蔑視のニュアンスを含む用法になったようである。
ギリシア人たちは自由なギリシア人に比べ、絶対的な王による専制下のバルバロイには奴隷の品性しかないと考えた。アリストテレスによれば「ギリシア人は捕らわれても自分自身を奴隷と呼ぶことを好まず、またバルバロイだけをそう呼ぼうとする」。古典古代のギリシア人にとって、自分以外に主人を持つものを奴隷とみなし、家の中での家長=主人と奴隷の関係を律する論理と、主人=家長である自由人同士との関係を律する論理は異なるものであった。従って、家の論理を拡張したものとしての王=家長=主人につかえるオリエントの臣民たちは奴隷に準じるものとして理解されたのであった。古代ローマ人にとっても、領外のガリア人、ゲルマン民族は蛮族にすぎなかった。ゲルマン民族がローマ領内に移動し、キリスト教による平等主義で教化されたヨーロッパ世界でもこの構図は、形を変えて繰りかえされる。
中世以後[編集]
大航海時代以後、他の民族と接触する機会が増えても、ヨーロッパ人は新たな他民族についての知識をギリシア・ラテンの古典や聖書の伝統に関連させて解釈した。中世カトリックでは、人間は神と獣の中間に位置し、野蛮とは「堕罪」による動物状態への退行と考えられる。
スペインが植民地化した後のアメリカ大陸先住民(インディオ、インディアン)を奴隷として使用する是非をめぐって、ラス・カサスとセプルベダとのバリャドリッド論争で、奴隷使用を容認するセプルペダが論拠としたのはアリストテレスの「バルバロイ=奴隷」論とともに、インディオの風習に彼がみた〈自然に背く罪〉である。
中世東ローマ帝国ではギリシャ人が中心となったために、古代以来の蛮族の概念が継続された。当時のギリシャ人はローマ帝国の市民として「ローマ人」と称していたが、「ローマ人」以外の諸民族(西欧のカトリック諸国を含む)を「バルバロイ」と呼んでいた。
高貴な野蛮人[編集]
17・18世紀の、野蛮人を「自然」の代表とする文明批判の例としては、フランソワ・フェヌロンの《テレマックの冒険》やモンテーニュ『エセー』に出てくるアメリカインディアンについての記述がある。『エセー』の第1巻第31章では、理性と芸術に対して自然が称賛され、「野蛮」という概念について考察を加えている。「この国には全くいかなる種類の取引もない…役人という言葉もなければ統治者という言葉もない」という一節が、そのままシェークスピアの『テンペスト』に引用され、ルソーの『エミール』もモンテーニュの〈自然〉賛美から多くの着想を得たという。 ディドロは『ブーガンヴィル航海記補遺』で罪のない平和な未開民族に比べて、争いに明け暮れる〈野蛮〉なヨーロッパを批判し、〈野蛮〉を未開人種の属性ではなく戦闘行為にも付与した。高貴な野蛮人は、平和と寛容の象徴とされた。
19世紀以降では、植民地の進展とインディアンの反抗がヨーロッパ白人の意識に達したのか、誇り高く自由な民としての「高貴な野蛮人」(高貴なる野蛮人、ノーブル・サベージ、高潔な野蛮人、高潔なる野蛮人)があらわれる。ジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説『モヒカン族の最後』、アレクサンドル・ブロークの詩『スキタイ人』などでは、戦闘や復讐における残忍さも、自然力と無秩序のあらわれとして理解されている。ロシアでは「野蛮」というものを、伝統・規律からの自由という政治概念としてとらえていた。
レヴィ=ストロースの「野生の思考」という概念により、サルトルの哲学を〈第一級の民族誌的資料〉として、〈閉じられた社会〉における未開人の関心のあり方と並べて見せたことは、ヨーロッパ人が自らをして野蛮を査定できるという優越感を無効にした。サルトルのレヴィ=ストロースへの答えは、「腐敗した西欧社会」を叩きつぶすために「自由な精神」が「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高地」から「暴力の血路」をきりひらいて押し寄せるであろう、というものだった。
バルバロイ
バルバロス(βάρβαρος)とは、ギリシア人の他民族に対する呼称。複数形がバルバロイ(βάρβαροι)。
ギリシア人は自らを「ヘレネスの子ら(ヘレネス)」と呼んでそれ以外の民族をバルバロス(バルバロイ)とした。
バルバロス(聞きづらい言葉を話す者・訳の分からない言葉を話す者)とは、バルカン半島東部(ギリシアの北東)のトラキア地方に住むトラキア人や、ペルシャ人のことである。トラキア人は、長い間周辺の国々で奴隷としてひどい扱いを受けてきた。由来としてはギリシア人から異民族の言葉は「バルバルバル」と聞こえたからといわれている。当初は「野蛮人」という意味合いはなかったが、徐々に野蛮人を指すようになった。英語の「barbarian(野蛮人)」の語源でもある。
ギリシア人は自らを「ヘレネスの子ら(ヘレネス)」と呼んでそれ以外の民族をバルバロス(バルバロイ)とした。
バルバロス(聞きづらい言葉を話す者・訳の分からない言葉を話す者)とは、バルカン半島東部(ギリシアの北東)のトラキア地方に住むトラキア人や、ペルシャ人のことである。トラキア人は、長い間周辺の国々で奴隷としてひどい扱いを受けてきた。由来としてはギリシア人から異民族の言葉は「バルバルバル」と聞こえたからといわれている。当初は「野蛮人」という意味合いはなかったが、徐々に野蛮人を指すようになった。英語の「barbarian(野蛮人)」の語源でもある。
ヘレーン
ヘレーン(古希: Ἕλλην, Héllēn, ヘッレーン)は、ギリシア神話の人物である。デウカリオーンとピュラーの息子で[1]、古代ギリシア人の名祖とされる[1]。古代ギリシア人は自分たちをヘレーンの一族(ヘレーネス)と自称した。
長母音を省略してヘレンとも表記される。
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1 概説 1.1 系譜
1.2 子孫
2 脚注
3 参考文献
概説[編集]
系譜[編集]
プロメーテウスの子デウカリオーンは、エピメーテウスとパンドーラーの娘であるピュラーを妻とし[2]、そのあいだに最初に生まれたのがヘレーンである。しかし別の説では、ヘレーンはゼウスの息子であるともされる[2]。また更に別の説では、彼はプロメーテウスの息子ともされ[3]、デウカリオーンの兄弟とされる[4] 。それは「青銅の時代」を終焉させた大洪水の後のことで、人間の種族が地上で再び栄え、「英雄時代」が始まった頃である。
アッティカ王(アテーナイ王)アムピクテュオーンとプロートゲネイア(「最初に生まれた女」の意)はヘレーンの弟と妹とされる[2]。
ウーラノス
ガイア
オーケアノス
テーテュース
イーアペトス
アシアー
プロメーテウス
エピメーテウス
パンドーラー
デウカリオーン
ピュラー
ヘレーン
アムピクテュオーン
プロートゲネイア
アイオロス
エナレテー
子孫[編集]
ヘレーンは、ペーネイオス河とアイソーポス河のあいだにあるテッサリアーのプティーアーの王と見なされていた。彼の王位は息子アイオロスによって継承された[3]。
ヘレーンは山のニュンペーであるオルセーイスを妻とし、そのあいだにドーロス、クスートス、アイオロスの兄弟が生まれた[1]。ヘレーンは息子たちにギリシアの土地を分けて与え、彼らはそれぞれの土地を支配した。クスートスはペロポネーソスの地を得、ドーロスはペロポネーソス対岸の地(即ち、小アジア西端)を得た。一方、アイオロスは、テッサリアーとその周辺の土地を得た[5]、。
アイオロスはアイオリス人の祖とされ、またドーロスはドーリア人の祖とされる。他方、クスートスはエレクテウスの娘クレウーサより二人の息子アカイオスとイオーンを得、二人はそれぞれアカイア人とイオーニア人の祖とされた[5]。ヘレーンの子孫たち(ヘレーネス、ヘレーンたち)は古代ギリシアの諸部族の名祖とされ、ヘレーン自身はギリシア人の祖とされたが、実際は事態は逆で、古代ギリシア人の名祖としてヘレーンという人物が創作されたとも言うべきである[4] [6]。
ヘレーン
アイオロス
エナレテー
サルモーネウス
クレーテウス
シーシュポス
アタマース
テューロー
アイソーン
アミュターオーン
プリクソス
ヘレー
ペレース
ネーレウス
ペリアース
イアーソーン
ビアース
メラムプース
アドメートス
ネストール
ペーロー
アカストス
アルケースティス
タラオス
ペイシストラトス
アドラーストス
長母音を省略してヘレンとも表記される。
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1 概説 1.1 系譜
1.2 子孫
2 脚注
3 参考文献
概説[編集]
系譜[編集]
プロメーテウスの子デウカリオーンは、エピメーテウスとパンドーラーの娘であるピュラーを妻とし[2]、そのあいだに最初に生まれたのがヘレーンである。しかし別の説では、ヘレーンはゼウスの息子であるともされる[2]。また更に別の説では、彼はプロメーテウスの息子ともされ[3]、デウカリオーンの兄弟とされる[4] 。それは「青銅の時代」を終焉させた大洪水の後のことで、人間の種族が地上で再び栄え、「英雄時代」が始まった頃である。
アッティカ王(アテーナイ王)アムピクテュオーンとプロートゲネイア(「最初に生まれた女」の意)はヘレーンの弟と妹とされる[2]。
ウーラノス
ガイア
オーケアノス
テーテュース
イーアペトス
アシアー
プロメーテウス
エピメーテウス
パンドーラー
デウカリオーン
ピュラー
ヘレーン
アムピクテュオーン
プロートゲネイア
アイオロス
エナレテー
子孫[編集]
ヘレーンは、ペーネイオス河とアイソーポス河のあいだにあるテッサリアーのプティーアーの王と見なされていた。彼の王位は息子アイオロスによって継承された[3]。
ヘレーンは山のニュンペーであるオルセーイスを妻とし、そのあいだにドーロス、クスートス、アイオロスの兄弟が生まれた[1]。ヘレーンは息子たちにギリシアの土地を分けて与え、彼らはそれぞれの土地を支配した。クスートスはペロポネーソスの地を得、ドーロスはペロポネーソス対岸の地(即ち、小アジア西端)を得た。一方、アイオロスは、テッサリアーとその周辺の土地を得た[5]、。
アイオロスはアイオリス人の祖とされ、またドーロスはドーリア人の祖とされる。他方、クスートスはエレクテウスの娘クレウーサより二人の息子アカイオスとイオーンを得、二人はそれぞれアカイア人とイオーニア人の祖とされた[5]。ヘレーンの子孫たち(ヘレーネス、ヘレーンたち)は古代ギリシアの諸部族の名祖とされ、ヘレーン自身はギリシア人の祖とされたが、実際は事態は逆で、古代ギリシア人の名祖としてヘレーンという人物が創作されたとも言うべきである[4] [6]。
ヘレーン
アイオロス
エナレテー
サルモーネウス
クレーテウス
シーシュポス
アタマース
テューロー
アイソーン
アミュターオーン
プリクソス
ヘレー
ペレース
ネーレウス
ペリアース
イアーソーン
ビアース
メラムプース
アドメートス
ネストール
ペーロー
アカストス
アルケースティス
タラオス
ペイシストラトス
アドラーストス
キプロス
キプロス共和国(キプロスきょうわこく、英: Republic of Cyprus)、通称キプロス(英: Cyprus)は、トルコの南の東地中海上に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はニコシア。ヨーロッパ連合加盟国。公用語はギリシャ語。
キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、往来は容易であるものの共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断されており、島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認をしている。
キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、分断後は事実上、ギリシャ系によるほぼ単一民族国家となっている。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 オリエント諸国支配時代
2.2 ローマ属州時代
2.3 その後、現代まで
3 政治
4 軍事
5 地域区分
6 地理
7 経済 7.1 産業 7.1.1 鉱業
8 国民
9 教育
10 文化 10.1 世界遺産
11 キプロス問題 11.1 略年表
11.2 キプロス問題に関する参考文献
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
国名[編集]
正式名称は、現代ギリシャ語で Κυπριακή Δημοκρατία (ラテン文字転写: Kypriakí Demokratía; キプリアキ・ディモクラティア)、トルコ語で Kıbrıs Cumhuriyeti (クブルス・ジュムフリエティ)。通称は、現代ギリシャ語では Κύπρος (キプロス)、トルコ語では Kıbrıs (クブルス)。なお、古典ギリシャ語では「キュプロス」と発音された。
公式の英語表記は、Republic of Cyprus(リパブリク・オヴ・サイプラス)。通称は、Cyprus。
日本語の表記は、キプロス共和国。通称は、キプロス。漢字による当て字は塞浦路斯。日本の外務省は、かつて英語読みに倣い「サイプラス」とする表記を取っていた。
キプロスの語源は、古代ギリシャ語のイトスギ (kyparissos) 由来説と、同じく古代ギリシャ語の銅 (Chalkos) 由来説とがある。いずれもこの地に多かったもので、銅については、さらにこの地名(キプロス)が、ラテン語や英語で「銅」を意味する単語の語源となった。
1983年以来、北部のトルコ系住民支配地域は、「北キプロス・トルコ共和国」(Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti; クゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフリエティ。より厳密に訳せば「北キプロス・トルコ系住民共和国」)として分離独立を宣言している。キプロス共和国はギリシャ系住民の支配地域のみを統治しており、キプロス共和国支配地域は北キプロスとの対比から、南キプロスやギリシャ系住民だけなので北キプロス風に南キプロス・ギリシャ共和国とも呼ばれることもある。
なお、北キプロスおよびその後援国であるトルコ共和国は、ギリシャ系・トルコ系両住民の連合国家であるキプロス共和国は既に1974年の南北分裂時に解体したのであり、南部のギリシャ系住民のみが不法にキプロス共和国を名乗り続けていると見なす立場から、キプロス共和国を承認せず、キプロス共和国支配地域のことを「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」(Güney Kıbrıs Rum Yönetimi; ギュネイ・クブルス・ルム・ヨネティミ)と称する。
歴史[編集]
パフォスの壁画(世界遺産。アフロディテの神話は、キプロスの地で生まれた)。
キプロス属州の位置。
オリエント諸国支配時代[編集]
キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古い。有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けた。
アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、エジプト第26王朝のクネムイブラー・イアフメス2世によって征服され、エジプトがアケメネス朝(ペルシア)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下に入った。住民の多くがギリシア系であった為、再三に亘って反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアによって全て鎮圧された。
ローマ属州時代[編集]
アレクサンドロス大王によるペルシア滅亡と大王死後のディアドコイ戦争での結果、キプロスはプトレマイオス朝の保護下に置かれ、プトレマイオス朝から総督が派遣された。この時期のキプロスは当時の2大商業都市であったアテネとアレキサンドリアの間の中間貿易港として発展した。
紀元前58年、共和政ローマから派遣された小カトによってキプロスはローマ属州(キュプルス属州、Provincia Cyprus)となった。クレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結んでキプロスの支配権を再び手に収めたが、アクティウムの海戦に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰した。
紀元前22年以降は、元老院属州として位置づけられ、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能し、ハドリアヌスやルキウス・ウェルス等のローマ皇帝もキプロスを訪れた。115年からのユダヤ人の一斉蜂起によりキプロスは損害を被った。4世紀以降にローマ帝国がキリスト教化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、ローマ帝国が分裂した後も東ローマ帝国の支配下に留まった。
その後、現代まで[編集]
キプロスは1191年に十字軍の途上にこの島に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によって征服され、フランク人(西ヨーロッパ人カトリック教徒)の支配するキプロス王国が建国される。キプロス王国は1489年に相続者を欠いたことから断絶し、ヴェネツィア共和国がキプロスを植民地として手に入れた。オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 - 1573年)(英語版)では、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州(トルコ語版)(オスマン領キプロス)を置いた。
エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスに一方的に併合された。
第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による反イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年、イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。
南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。
2004年、EUに加盟。
政治[編集]
1960年の独立時に制定されたキプロス共和国の憲法は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の人口バランスに配慮して、元首で行政府の長でもある大統領をギリシャ系とし、その行政権限を分掌し拒否権を持つ副大統領をトルコ系からそれぞれ選出し(任期5年)、国会議員、官吏、軍人などの人数も比率が7対3になるように定めている。代議院は任期5年の一院制議会であるが、その議員の選出にあたってはギリシャ系(56人)とトルコ系(24人)で別々に選挙を行うことになっている。
1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっている(以下、キプロス島南部のギリシャ系キプロス共和国政府支配地域は「南キプロス」と略す)。南キプロスでは、政府における憲法上のトルコ系の定員は空席となり、副大統領は置かれず、議会の実質上の定数は56人となっている。
一方、分離独立を主張する北キプロスには公選の大統領がおり、一院制の議会(定員50人、任期5年)で選出される首相とともに行政を行う。1983年の独立後、1985年に北キプロスで最初の選挙が行われたが、この手続きを国際的に承認しているのはトルコのみである。
2008年2月24日に大統領選挙の決選投票が行われ、労働人民進歩党 (AKEL) 書記長のディミトリス・フリストフィアスが53.36%で当選し、欧州連合加盟国で異例の共産系大統領が誕生した。再統合推進派のフリストフィアスの当選で、再統合交渉が推進されると期待されている。
2011年5月22日、国会議員選挙が行われた。保守野党の民主運動党 (DISY) が第1党になった。2006年の前回比で3.75ポイント増の34.27%獲得し、総議席56のうち20議席を占めた。与党AKELも前回比1.36ポイント増で32.67%で、1議席増の19議席とした。
軍事[編集]
南キプロスではキプロス国家守備隊 (Cypriot National Guard) が組織されている。これは陸海空軍の混成組織である。徴兵制であり、国民は18歳で徴兵され、約25か月の兵役に就く。また、南キプロスにはギリシャ軍が駐留している。
北キプロスにも、北キプロス・トルコ共和国軍と呼ばれる国防組織が整備されており、南キプロス同様に陸海空軍混成である。また、徴兵制が施行されている。実質的な防衛力として、トルコ軍が駐留している。
南北キプロスを隔てる境界線(グリーンライン)には国連キプロス平和維持軍 (UNFICYP) が駐留して監視している。
正確にはキプロス国内ではないが、イギリスの海外領土として島内にイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアが存在しており、地中海・中近東方面の軍事拠点としてイギリス軍が駐留している。
地域区分[編集]
詳細は「キプロスの行政区画」を参照
キプロスの地区(επαρχία / kaza)
慣用名
ギリシャ語名
トルコ語名
ファマグスタ
(Famagusta) アモホストス
(Αμμόχωστος) マウサ
(Mağusa)
キレニア
(Kyrenia) ケリニア
(Κερύνεια) ギルネ
(Girne)
ラルナカ
(Larnaca) ラルナカ
(Λάρνακα) ラルナカ
(Larnaka)
ニコシア
(Nicosia) レフコシア
(Λευκωσία) レフコシャ
(Lefkoşa)
リマソール
(Limassol) レメソス
(Λεμεσός) レイモスン
(Leymosun)
パフォス
(Paphos) パフォス
(Πάφος) バフ
(Baf)
キプロス島は、事実上2つの国家に分断されており、南部がキプロス共和国政府(ギリシャ系住民)が支配する地域、北部が北キプロス・トルコ共和国としてトルコ系住民が分離独立を主張している地域となっている。
分断以前のキプロス島は、行政的に右記の6地区(ギリシア語: επαρχία / トルコ語: kaza)に分かれていた。ここでいう地区は「州」とも訳されるが、元来はキプロス州におかれた「郡」にあたる行政区画である。
分断後はキプロス島全6地区のうち、ファマグスタ地区、キレニア地区の全域と、ラルナカ地区およびニコシア地区の一部が北キプロス領となっており、とくに首都ニコシアは町の中心で分断されている。なお、ファマグスタは現在の北キプロスではトルコ語で戦士を意味するガーズィーの称号を冠してガーズィマウサ (Gazimağusa) と呼ばれている。
キプロスは、旧イギリス植民地であり、2つの公用語でそれぞれ異なった地名を持つことから、地名は英語名で呼ばれることが一般的であり、以下の地図もそのように記されている。しかし、南キプロスではギリシャ語の地名、北キプロスではトルコ語の地名に言い換えられることも多い。
以下の地図の斜線部分は独立以後も残されているイギリスの主権基地領域(アクロティリおよびデケリア)で、この領域にはキプロス共和国政府の主権は及ばず、イギリス主権の下に置かれているイギリスの海外領土である。また、灰色部分は南北の衝突を抑止するため国連の引いた緩衝地帯(通称グリーンライン)である。
「欧州連合加盟国の特別領域#キプロス島のうちキプロス共和国実効統治域外」も参照
地理[編集]
キプロスの地図。
キプロスは、キプロス島一島からなる島国で、長さ240km、幅100km。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島である。
南のエジプトまで380kmという地理的な面からアジア(中東または西アジア)に分類される場合もあるが[1]、ギリシャ系のキリスト教徒が多いことやトルコとも関係が深い為、ヨーロッパ(南ヨーロッパ)に分類される場合もある[2]。
地中海性気候で、夏は暑く、乾燥する。北部は海岸線に沿って石灰岩のキレニア山脈があり、首都ニコシアを中心とする中央部が平坦地となっている。南部は大部分が火成岩のトゥロードス山地で、海岸線に沿って狭隘な平地がある。北東にカルパス半島が伸びる。
島の最高峰は南部のオリンポス山で、標高は1951m。冬は雪も降り、スキーができる。
経済[編集]
首都ニコシア
1980年代から1990年代に大きな経済成長を遂げたが、観光産業に依存していたためヨーロッパでの景気の変動に弱かった。また、1990年代は東欧諸国からのマネーロンダリングで悪名をとどろかせた[3]。
2005年前後時点において、キプロスは4%前後の経済成長、3%台後半の低い失業率と良好な経済状況を維持していた[3]。しかし、2010年以降は経済的・文化的に関係の深いギリシャの金融危機により銀行が膨大な損失を被ったため、巻き添えを食らう形で金融危機に陥っている。
産業[編集]
色と面積で示したキプロスの輸出品目(2009年)
主要産業は、観光業と金融業である。
観光業については、ヨーロッパからの観光地として人気がある。2004年5月1日の欧州連合 (EU) 加盟、さらに2008年1月1日の EU 単一通貨ユーロの導入により、観光客の増加が期待される。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われている[3]。
金融業については、タックスヘイブンとして有名だった時期もあり、欧州でも金融活動が盛んな地域となっている。ロシアへの投資の際には、キプロスに作った会社を経由して行うケースなど、投資拠点として栄えている。また、会計士や弁護士などの人材も多いという[3]。
南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、GDPの70%を占める。天然資源に乏しく、食料の自給も難しいため、貿易は大幅な輸入超過である(輸出約10億ドルに対して輸入は35億ドルを越える)。地中海地域の共通問題である水の供給については海水淡水化プラントの稼動により安定したとされる。
また、キプロスの自動車道路は左側通行であり自動車も右ハンドルであるため、日本からの中古車輸入および関連産業が盛んである。
北キプロスは、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかない。国際的にはトルコにのみ独立を承認された国家であるために貿易や外国からの資本導入が難しく、また通貨もユーロではなくトルコのリラを用いるため、1990年代にトルコリラのインフレーションに深刻な悪影響を受けた結果、きわめて苦しい状況が続いている。
鉱業[編集]
キプロスの鉱業は5000年の歴史を持つ。紀元前3000年ごろ、まず自然銅がトゥロードス山麓で発見される。銅鉱床としては最も古いと考えられ、銅のラテン語名であるcuprum はキプロスに由来する。自然銅が枯渇した後は銅を含む黄銅鉱から銅を抽出する技術が生まれた。現在でも銅の採掘は続いており、2002年時点では5200トンの銅を産出する。ただし、資源が枯渇している上に内戦によって鉱山施設が分断されたことにより、鉱業はすでにキプロス経済において意味を失ってしまった。このほか、クロムや石綿などを少量産出する。地質学的には地中海が広がった時に海洋底拡大の中心部としてオフィオライトが形成され、更新世に隆起し、現在の位置に移動した。
最近、海域の石油探鉱を行ったが、まだ成功していない。トルコ・イスラエル・シリアなどが関心を示している。
国民[編集]
民族・宗教構成(キプロス)
ギリシャ人(ギリシャ正教会)
78%
テュルク系(イスラム教(スンニ派))
18%
アルメニア人他(キリスト教諸派)
4%
民族の帰属意識はおおむね信仰する宗教と一致しており、正教徒のギリシャ系が78%、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ系が18%であるとされる。その他の4%にはマロン派とアルメニア教会派のキリスト教徒がいる。キプロスの正教会はイスタンブルのコンスタンディヌーポリ総主教庁にも、アテネ大主教を首座とするギリシャ正教会にも属さず、大主教を長とするキプロス正教会のもとに自治を行っている。なお、キプロスのキリスト教については、イエス・キリストの死後、パウロが第1回の宣教旅行でキプロス島のサラミスとパフォスを訪れ、キリスト教が広まってゆく様が「新約聖書」の「使徒言行録(使徒行伝)」第13章に描かれているは有名な話である。
ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系の99.5%が南キプロスに、トルコ系の98.7%が北キプロスに住む。その他の系統の住民は、99.2%が南キプロスに居住している。なお、経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民がトルコやヨーロッパに出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したため、トルコ系キプロス人の正確な人口を割り出すことは難しい。
教育[編集]
キプロス大学(英語版)
キプロスの初等、中等教育は行き届いているといわれている。
高等教育は以前ギリシャ、トルコ、英国、米国などに依存することが多かったが、近年下記のような大学ができている:
キプロス国際大学(英語版) (Cyprus International University) 1997年創立で、北キプロス・トルコ共和国内にある。
キプロス工科大学(英語版) (Cyprus University of Technology)
ヨーロッパ大学キプロス校(英語版) (European University - Cyprus) 1961年創立で、2007年にキプロス・カレッジ (Cyprus College) から名称変更した。
中東工科大学北キプロス校 (Middle East Technical University - Northern Cyprus Campus) トルコの大学
キプロス大学(英語版) (University of Cyprus)
ニコシア大学(英語版) (University of Nicosia) 2007年にインターカレッジ (Intercollege) から名称変更し、3つのキャンパス(ニコシア、リマソール、ラルナカ)に分かれていて、学生が合計5,000人
海外からの留学生も増えている。
文化[編集]
世界遺産[編集]
詳細は「キプロスの世界遺産」を参照
キプロス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
キプロス問題[編集]
キプロスの分断地図(青色部分は国連による緩衝地帯。緑色部分はイギリス軍主権基地領域)
詳細は「キプロス紛争」を参照
キプロスは東ローマ帝国の支配下でギリシャ語を話す正教徒が大多数を占めるようになっていたが、オスマン帝国支配下で、トルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が流入し、トルコ系住民が全島人口の2割から3割程度を占めるまでになった。
イギリス統治下のキプロスではエーゲ海の島々と同じくギリシャに併合されるべきという要求(エノシス enosis)がギリシャ系住民の間で高まり、1948年にはギリシャの国王がキプロスはギリシャに併合されるべきとの声明を出し、1951年にはギリシャ系住民の97%がギリシャへの併合を希望していると報告された。一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張(タクスィム taksim)がなされており、キプロスの帰属問題がイギリス、ギリシャ、トルコの3か国の間で協議された。その結果、中間案として1959年、チューリッヒでキプロスの独立が3国間で合意された。
1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立を果たした。しかし、1963年には早くも民族紛争が勃発し、1964年3月より国際連合キプロス平和維持軍が派遣された。
さらに1974年7月15日にギリシャ軍事政権の支援を受けた併合強硬派がクーデターを起こしてマカリオス大統領を追放。トルコはこれに敏感に反応し、トルコ系住民の保護を名目に7月20日キプロスに侵攻した。これにより7月22日にクーデター政権が崩壊するが、トルコ軍はキプロス分割問題の解決をはかって8月13日に第二次派兵を敢行し、首都ニコシア以北のキプロス北部を占領した。トルコの支持を得たトルコ系住民は翌年、キプロス共和国政府から分離してキプロス連邦トルコ人共和国を発足させ、政権に復帰したマカリオスの支配するギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求した。
1970年代以来、南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索が続けられているが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされてこなかった。1997年にキプロス共和国がEU加盟候補国となったことは、国際的に孤立し経済的に苦しい北キプロスにとっては大きな危機であったが、その後の国連の仲介案を得た統合交渉も不調に終わった。
2004年5月1日のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、同年2月9日より国連のコフィー・アナン事務総長の仲介で再び南北大統領による統合交渉が行われ、3月31日の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、4月24日に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数にもかかわらず否決された。これは、国連案がトルコ系住民側およびトルコ共和国が主張してきた連邦制を前提とし、ギリシャ系難民の北部帰還を制限、またトルコ軍の駐留を期限付き(最低7年間)ながら認めるなど、ギリシャ系住民側にとって容易に受け入れがたい内容を含んでいたためである。南のキプロス共和国では2004年、2006年の総選挙でいずれも統合反対派が勝利し、以降の統合交渉は停滞した。
一方、失敗に終わったものの統合交渉に前向きな姿勢を示して国際社会での得点を稼いだトルコは、同年10月3日、長年望んでいたEU加盟交渉開始のテーブルにつくことになった。しかし依然としてトルコはキプロス共和国をキプロスの公式の政府として承認することを拒否しつづけ、トルコのEU加盟交渉における課題点となっており、2006年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因で加盟交渉が一部凍結された。2008年1月のトルコ、ギリシャの首脳会談で、ギリシャ首相コスタス・カラマンリスはトルコが国家承認を拒んでいるギリシャ系のキプロス共和国について「国交正常化がトルコの欧州連合 (EU) 加盟に必要条件だ」と指摘。「すべての条件を満たしたとき、EUはトルコを正式メンバーとして認めるべきだ」と条件付きながら、トルコのEU加盟を支持する考えを明らかにした。
2008年2月に行われた南キプロス大統領選挙で再統合推進派のディミトリス・フリストフィアスが当選、3月に北キプロスのメフメト・アリ・タラート「大統領」との間で首脳会談が実現。4月にはキプロス分断の象徴とされていたレドラ通りの封鎖開放という融和策も実行された。引き続き再統合の話合いが行なわれ、9月3日に包括的な再統合交渉を開始することが決まり[4]、同年12月までに計13回の交渉が開かれた[5]。
2009年4月21日に北キプロスで行われた議会選挙で、再統合交渉に消極的な野党国家統一党が勝利を収め、タラート大統領の与党共和国トルコ党が敗北した。これに対して、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が再統合交渉の継続を求める発言をしたため、国家統一党側もトルコの意向を無視できないとみられた[6]。
2009年6月までに、キプロス再統合交渉において、統治と権力分割、財産権、EU問題、経済問題、領域、安全保障の6分野について交渉が進められ、2010年3月31日には、統治と権力分割、EU問題及び経済問題の分野で重要な進展があった旨を、両大統領が共同声明にて発表した[5]。
2010年4月の北キプロス大統領選挙では、統合消極派のデルヴィシュ・エロール首相が当選した。任期中に交渉を進展させられなかったタラート大統領に対する有権者の不満が選挙結果に影響したものと見られ、交渉の後退が懸念されるようになった。この結果に対してトルコのエルドアン首相は、再統合交渉の年内妥結を目指したい考えを述べ、エロール首相にクギを刺した[7]。これを受け、2010年7月にエロール大統領は交渉を継続し、年内の合意を目指す事を発表した[8]。
以降定期的に交渉が実施されたが、2012年1月の会談でも統治、財産権、市民権に関して合意することができなかった[5]。2012年10月現在、キプロスのEU議長国就任、2013年2月に実施される大統領選挙などの政治日程により、両国の代表による直接交渉は中断されている[5]。
略年表[編集]
1914年 - イギリスが併合。
1955年 - イギリス、ギリシャ、トルコ三国間協議。
1959年 - チューリッヒ協定。
1960年 - 独立。
1963年 - 民族紛争勃発。
1964年 - 国連平和維持軍が派遣される。
1974年 7月15日 - ギリシャの支援を受けた併合賛成派がクーデターを起こす。
7月20日 - トルコ軍がキプロスに侵攻。
7月22日 - クーデター政権が倒壊。
7月23日 - クーデター政権を支援したギリシャ軍事政権が倒壊。
8月13日 - トルコ軍が第二次派兵を敢行し、北部を占拠。
1975年 - 北部にキプロス連邦トルコ人共和国が発足。
1977年 - 最初の統合交渉が決裂。
1983年 - 北キプロス・トルコ共和国が独立を宣言。
1997年 - 南部のキプロス共和国がEU加盟候補国となる。
2003年 4月16日 - キプロス共和国がEU加盟条約に調印。
2004年 2月9日 - 国連の仲介により南北大統領の統合住民投票案実施協議が始まる。
3月31日 - 国連案の修正による住民投票案が合意。
4月24日 - 南北同時住民投票がギリシャ系側(キプロス共和国側)の反対多数により否決。
5月1日 - キプロス共和国がEUに加盟。
10月3日 - トルコ政府がキプロス共和国を国家承認しないまま、EUはトルコとの加盟交渉を開始。
2006年 5月21日 - キプロス共和国が総選挙を実施。統合反対派が勝利。
12月11日 - トルコのキプロス共和国不承認問題のため、EUがトルコとの加盟交渉を一部凍結。
2008年 2月24日 - キプロス共和国大統領選挙で再統合推進派のフリストフィアスが当選。
3月21日 - 3月に南北大統領の首脳会談が実現。以降、同年5月23日、7月1日にも開催される。
4月1日 - レドラ通りが開放される。
7月14日 - 国連がアレクサンダー・ダウナーオーストラリア前外相を国連事務総長特別顧問に任命。交渉の仲介に乗り出す。
9月3日 - ダウナー特別顧問同席の元、南北両首脳による本格的交渉が開始される。2009年6月までに経済問題の交渉が完了。
2009年 4月21日 - 北キプロス議会選挙において、中道右派野党国家統一党が勝利。
10月2日 - ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が、トルコによるアブハジア共和国の独立承認と引き換えに、ロシアが北キプロスの独立を承認することはないと発言[9]。
2010年 4月18日 - 北キプロス大統領選挙において、再統合に消極的なデルヴィシュ・エロール首相が、統合推進派のタラート大統領を破って当選。
キプロス問題に関する参考文献[編集]
大島直政『複合民族国家キプロスの悲劇』新潮社、1986年
鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ オスマン帝国における諸民族の統合と共存』リブロポート、1993年
桜井万里子(編)『新版世界各国史17 ギリシア史』山川出版社、2005年
内藤正典「中東・西欧マンスリー - トルコのEU加盟交渉とキプロス問題」2006年11月20日 [3] (last accessed February 18, 2007)
マイノリティ・ライツ・グループ(編)『世界のマイノリティ事典』明石書店、1996年
キリスト教聖書:「新約聖書」の「使徒言行録(使徒行伝)」第13章 (上の「国民」の項で、宗教の記述を参照)
キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、往来は容易であるものの共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断されており、島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認をしている。
キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、分断後は事実上、ギリシャ系によるほぼ単一民族国家となっている。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 オリエント諸国支配時代
2.2 ローマ属州時代
2.3 その後、現代まで
3 政治
4 軍事
5 地域区分
6 地理
7 経済 7.1 産業 7.1.1 鉱業
8 国民
9 教育
10 文化 10.1 世界遺産
11 キプロス問題 11.1 略年表
11.2 キプロス問題に関する参考文献
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
国名[編集]
正式名称は、現代ギリシャ語で Κυπριακή Δημοκρατία (ラテン文字転写: Kypriakí Demokratía; キプリアキ・ディモクラティア)、トルコ語で Kıbrıs Cumhuriyeti (クブルス・ジュムフリエティ)。通称は、現代ギリシャ語では Κύπρος (キプロス)、トルコ語では Kıbrıs (クブルス)。なお、古典ギリシャ語では「キュプロス」と発音された。
公式の英語表記は、Republic of Cyprus(リパブリク・オヴ・サイプラス)。通称は、Cyprus。
日本語の表記は、キプロス共和国。通称は、キプロス。漢字による当て字は塞浦路斯。日本の外務省は、かつて英語読みに倣い「サイプラス」とする表記を取っていた。
キプロスの語源は、古代ギリシャ語のイトスギ (kyparissos) 由来説と、同じく古代ギリシャ語の銅 (Chalkos) 由来説とがある。いずれもこの地に多かったもので、銅については、さらにこの地名(キプロス)が、ラテン語や英語で「銅」を意味する単語の語源となった。
1983年以来、北部のトルコ系住民支配地域は、「北キプロス・トルコ共和国」(Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti; クゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフリエティ。より厳密に訳せば「北キプロス・トルコ系住民共和国」)として分離独立を宣言している。キプロス共和国はギリシャ系住民の支配地域のみを統治しており、キプロス共和国支配地域は北キプロスとの対比から、南キプロスやギリシャ系住民だけなので北キプロス風に南キプロス・ギリシャ共和国とも呼ばれることもある。
なお、北キプロスおよびその後援国であるトルコ共和国は、ギリシャ系・トルコ系両住民の連合国家であるキプロス共和国は既に1974年の南北分裂時に解体したのであり、南部のギリシャ系住民のみが不法にキプロス共和国を名乗り続けていると見なす立場から、キプロス共和国を承認せず、キプロス共和国支配地域のことを「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」(Güney Kıbrıs Rum Yönetimi; ギュネイ・クブルス・ルム・ヨネティミ)と称する。
歴史[編集]
パフォスの壁画(世界遺産。アフロディテの神話は、キプロスの地で生まれた)。
キプロス属州の位置。
オリエント諸国支配時代[編集]
キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古い。有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けた。
アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、エジプト第26王朝のクネムイブラー・イアフメス2世によって征服され、エジプトがアケメネス朝(ペルシア)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下に入った。住民の多くがギリシア系であった為、再三に亘って反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアによって全て鎮圧された。
ローマ属州時代[編集]
アレクサンドロス大王によるペルシア滅亡と大王死後のディアドコイ戦争での結果、キプロスはプトレマイオス朝の保護下に置かれ、プトレマイオス朝から総督が派遣された。この時期のキプロスは当時の2大商業都市であったアテネとアレキサンドリアの間の中間貿易港として発展した。
紀元前58年、共和政ローマから派遣された小カトによってキプロスはローマ属州(キュプルス属州、Provincia Cyprus)となった。クレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結んでキプロスの支配権を再び手に収めたが、アクティウムの海戦に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰した。
紀元前22年以降は、元老院属州として位置づけられ、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能し、ハドリアヌスやルキウス・ウェルス等のローマ皇帝もキプロスを訪れた。115年からのユダヤ人の一斉蜂起によりキプロスは損害を被った。4世紀以降にローマ帝国がキリスト教化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、ローマ帝国が分裂した後も東ローマ帝国の支配下に留まった。
その後、現代まで[編集]
キプロスは1191年に十字軍の途上にこの島に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によって征服され、フランク人(西ヨーロッパ人カトリック教徒)の支配するキプロス王国が建国される。キプロス王国は1489年に相続者を欠いたことから断絶し、ヴェネツィア共和国がキプロスを植民地として手に入れた。オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 - 1573年)(英語版)では、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州(トルコ語版)(オスマン領キプロス)を置いた。
エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスに一方的に併合された。
第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による反イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年、イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。
南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。
2004年、EUに加盟。
政治[編集]
1960年の独立時に制定されたキプロス共和国の憲法は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の人口バランスに配慮して、元首で行政府の長でもある大統領をギリシャ系とし、その行政権限を分掌し拒否権を持つ副大統領をトルコ系からそれぞれ選出し(任期5年)、国会議員、官吏、軍人などの人数も比率が7対3になるように定めている。代議院は任期5年の一院制議会であるが、その議員の選出にあたってはギリシャ系(56人)とトルコ系(24人)で別々に選挙を行うことになっている。
1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっている(以下、キプロス島南部のギリシャ系キプロス共和国政府支配地域は「南キプロス」と略す)。南キプロスでは、政府における憲法上のトルコ系の定員は空席となり、副大統領は置かれず、議会の実質上の定数は56人となっている。
一方、分離独立を主張する北キプロスには公選の大統領がおり、一院制の議会(定員50人、任期5年)で選出される首相とともに行政を行う。1983年の独立後、1985年に北キプロスで最初の選挙が行われたが、この手続きを国際的に承認しているのはトルコのみである。
2008年2月24日に大統領選挙の決選投票が行われ、労働人民進歩党 (AKEL) 書記長のディミトリス・フリストフィアスが53.36%で当選し、欧州連合加盟国で異例の共産系大統領が誕生した。再統合推進派のフリストフィアスの当選で、再統合交渉が推進されると期待されている。
2011年5月22日、国会議員選挙が行われた。保守野党の民主運動党 (DISY) が第1党になった。2006年の前回比で3.75ポイント増の34.27%獲得し、総議席56のうち20議席を占めた。与党AKELも前回比1.36ポイント増で32.67%で、1議席増の19議席とした。
軍事[編集]
南キプロスではキプロス国家守備隊 (Cypriot National Guard) が組織されている。これは陸海空軍の混成組織である。徴兵制であり、国民は18歳で徴兵され、約25か月の兵役に就く。また、南キプロスにはギリシャ軍が駐留している。
北キプロスにも、北キプロス・トルコ共和国軍と呼ばれる国防組織が整備されており、南キプロス同様に陸海空軍混成である。また、徴兵制が施行されている。実質的な防衛力として、トルコ軍が駐留している。
南北キプロスを隔てる境界線(グリーンライン)には国連キプロス平和維持軍 (UNFICYP) が駐留して監視している。
正確にはキプロス国内ではないが、イギリスの海外領土として島内にイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアが存在しており、地中海・中近東方面の軍事拠点としてイギリス軍が駐留している。
地域区分[編集]
詳細は「キプロスの行政区画」を参照
キプロスの地区(επαρχία / kaza)
慣用名
ギリシャ語名
トルコ語名
ファマグスタ
(Famagusta) アモホストス
(Αμμόχωστος) マウサ
(Mağusa)
キレニア
(Kyrenia) ケリニア
(Κερύνεια) ギルネ
(Girne)
ラルナカ
(Larnaca) ラルナカ
(Λάρνακα) ラルナカ
(Larnaka)
ニコシア
(Nicosia) レフコシア
(Λευκωσία) レフコシャ
(Lefkoşa)
リマソール
(Limassol) レメソス
(Λεμεσός) レイモスン
(Leymosun)
パフォス
(Paphos) パフォス
(Πάφος) バフ
(Baf)
キプロス島は、事実上2つの国家に分断されており、南部がキプロス共和国政府(ギリシャ系住民)が支配する地域、北部が北キプロス・トルコ共和国としてトルコ系住民が分離独立を主張している地域となっている。
分断以前のキプロス島は、行政的に右記の6地区(ギリシア語: επαρχία / トルコ語: kaza)に分かれていた。ここでいう地区は「州」とも訳されるが、元来はキプロス州におかれた「郡」にあたる行政区画である。
分断後はキプロス島全6地区のうち、ファマグスタ地区、キレニア地区の全域と、ラルナカ地区およびニコシア地区の一部が北キプロス領となっており、とくに首都ニコシアは町の中心で分断されている。なお、ファマグスタは現在の北キプロスではトルコ語で戦士を意味するガーズィーの称号を冠してガーズィマウサ (Gazimağusa) と呼ばれている。
キプロスは、旧イギリス植民地であり、2つの公用語でそれぞれ異なった地名を持つことから、地名は英語名で呼ばれることが一般的であり、以下の地図もそのように記されている。しかし、南キプロスではギリシャ語の地名、北キプロスではトルコ語の地名に言い換えられることも多い。
以下の地図の斜線部分は独立以後も残されているイギリスの主権基地領域(アクロティリおよびデケリア)で、この領域にはキプロス共和国政府の主権は及ばず、イギリス主権の下に置かれているイギリスの海外領土である。また、灰色部分は南北の衝突を抑止するため国連の引いた緩衝地帯(通称グリーンライン)である。
「欧州連合加盟国の特別領域#キプロス島のうちキプロス共和国実効統治域外」も参照
地理[編集]
キプロスの地図。
キプロスは、キプロス島一島からなる島国で、長さ240km、幅100km。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島である。
南のエジプトまで380kmという地理的な面からアジア(中東または西アジア)に分類される場合もあるが[1]、ギリシャ系のキリスト教徒が多いことやトルコとも関係が深い為、ヨーロッパ(南ヨーロッパ)に分類される場合もある[2]。
地中海性気候で、夏は暑く、乾燥する。北部は海岸線に沿って石灰岩のキレニア山脈があり、首都ニコシアを中心とする中央部が平坦地となっている。南部は大部分が火成岩のトゥロードス山地で、海岸線に沿って狭隘な平地がある。北東にカルパス半島が伸びる。
島の最高峰は南部のオリンポス山で、標高は1951m。冬は雪も降り、スキーができる。
経済[編集]
首都ニコシア
1980年代から1990年代に大きな経済成長を遂げたが、観光産業に依存していたためヨーロッパでの景気の変動に弱かった。また、1990年代は東欧諸国からのマネーロンダリングで悪名をとどろかせた[3]。
2005年前後時点において、キプロスは4%前後の経済成長、3%台後半の低い失業率と良好な経済状況を維持していた[3]。しかし、2010年以降は経済的・文化的に関係の深いギリシャの金融危機により銀行が膨大な損失を被ったため、巻き添えを食らう形で金融危機に陥っている。
産業[編集]
色と面積で示したキプロスの輸出品目(2009年)
主要産業は、観光業と金融業である。
観光業については、ヨーロッパからの観光地として人気がある。2004年5月1日の欧州連合 (EU) 加盟、さらに2008年1月1日の EU 単一通貨ユーロの導入により、観光客の増加が期待される。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われている[3]。
金融業については、タックスヘイブンとして有名だった時期もあり、欧州でも金融活動が盛んな地域となっている。ロシアへの投資の際には、キプロスに作った会社を経由して行うケースなど、投資拠点として栄えている。また、会計士や弁護士などの人材も多いという[3]。
南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、GDPの70%を占める。天然資源に乏しく、食料の自給も難しいため、貿易は大幅な輸入超過である(輸出約10億ドルに対して輸入は35億ドルを越える)。地中海地域の共通問題である水の供給については海水淡水化プラントの稼動により安定したとされる。
また、キプロスの自動車道路は左側通行であり自動車も右ハンドルであるため、日本からの中古車輸入および関連産業が盛んである。
北キプロスは、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかない。国際的にはトルコにのみ独立を承認された国家であるために貿易や外国からの資本導入が難しく、また通貨もユーロではなくトルコのリラを用いるため、1990年代にトルコリラのインフレーションに深刻な悪影響を受けた結果、きわめて苦しい状況が続いている。
鉱業[編集]
キプロスの鉱業は5000年の歴史を持つ。紀元前3000年ごろ、まず自然銅がトゥロードス山麓で発見される。銅鉱床としては最も古いと考えられ、銅のラテン語名であるcuprum はキプロスに由来する。自然銅が枯渇した後は銅を含む黄銅鉱から銅を抽出する技術が生まれた。現在でも銅の採掘は続いており、2002年時点では5200トンの銅を産出する。ただし、資源が枯渇している上に内戦によって鉱山施設が分断されたことにより、鉱業はすでにキプロス経済において意味を失ってしまった。このほか、クロムや石綿などを少量産出する。地質学的には地中海が広がった時に海洋底拡大の中心部としてオフィオライトが形成され、更新世に隆起し、現在の位置に移動した。
最近、海域の石油探鉱を行ったが、まだ成功していない。トルコ・イスラエル・シリアなどが関心を示している。
国民[編集]
民族・宗教構成(キプロス)
ギリシャ人(ギリシャ正教会)
78%
テュルク系(イスラム教(スンニ派))
18%
アルメニア人他(キリスト教諸派)
4%
民族の帰属意識はおおむね信仰する宗教と一致しており、正教徒のギリシャ系が78%、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ系が18%であるとされる。その他の4%にはマロン派とアルメニア教会派のキリスト教徒がいる。キプロスの正教会はイスタンブルのコンスタンディヌーポリ総主教庁にも、アテネ大主教を首座とするギリシャ正教会にも属さず、大主教を長とするキプロス正教会のもとに自治を行っている。なお、キプロスのキリスト教については、イエス・キリストの死後、パウロが第1回の宣教旅行でキプロス島のサラミスとパフォスを訪れ、キリスト教が広まってゆく様が「新約聖書」の「使徒言行録(使徒行伝)」第13章に描かれているは有名な話である。
ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系の99.5%が南キプロスに、トルコ系の98.7%が北キプロスに住む。その他の系統の住民は、99.2%が南キプロスに居住している。なお、経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民がトルコやヨーロッパに出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したため、トルコ系キプロス人の正確な人口を割り出すことは難しい。
教育[編集]
キプロス大学(英語版)
キプロスの初等、中等教育は行き届いているといわれている。
高等教育は以前ギリシャ、トルコ、英国、米国などに依存することが多かったが、近年下記のような大学ができている:
キプロス国際大学(英語版) (Cyprus International University) 1997年創立で、北キプロス・トルコ共和国内にある。
キプロス工科大学(英語版) (Cyprus University of Technology)
ヨーロッパ大学キプロス校(英語版) (European University - Cyprus) 1961年創立で、2007年にキプロス・カレッジ (Cyprus College) から名称変更した。
中東工科大学北キプロス校 (Middle East Technical University - Northern Cyprus Campus) トルコの大学
キプロス大学(英語版) (University of Cyprus)
ニコシア大学(英語版) (University of Nicosia) 2007年にインターカレッジ (Intercollege) から名称変更し、3つのキャンパス(ニコシア、リマソール、ラルナカ)に分かれていて、学生が合計5,000人
海外からの留学生も増えている。
文化[編集]
世界遺産[編集]
詳細は「キプロスの世界遺産」を参照
キプロス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
キプロス問題[編集]
キプロスの分断地図(青色部分は国連による緩衝地帯。緑色部分はイギリス軍主権基地領域)
詳細は「キプロス紛争」を参照
キプロスは東ローマ帝国の支配下でギリシャ語を話す正教徒が大多数を占めるようになっていたが、オスマン帝国支配下で、トルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が流入し、トルコ系住民が全島人口の2割から3割程度を占めるまでになった。
イギリス統治下のキプロスではエーゲ海の島々と同じくギリシャに併合されるべきという要求(エノシス enosis)がギリシャ系住民の間で高まり、1948年にはギリシャの国王がキプロスはギリシャに併合されるべきとの声明を出し、1951年にはギリシャ系住民の97%がギリシャへの併合を希望していると報告された。一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張(タクスィム taksim)がなされており、キプロスの帰属問題がイギリス、ギリシャ、トルコの3か国の間で協議された。その結果、中間案として1959年、チューリッヒでキプロスの独立が3国間で合意された。
1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立を果たした。しかし、1963年には早くも民族紛争が勃発し、1964年3月より国際連合キプロス平和維持軍が派遣された。
さらに1974年7月15日にギリシャ軍事政権の支援を受けた併合強硬派がクーデターを起こしてマカリオス大統領を追放。トルコはこれに敏感に反応し、トルコ系住民の保護を名目に7月20日キプロスに侵攻した。これにより7月22日にクーデター政権が崩壊するが、トルコ軍はキプロス分割問題の解決をはかって8月13日に第二次派兵を敢行し、首都ニコシア以北のキプロス北部を占領した。トルコの支持を得たトルコ系住民は翌年、キプロス共和国政府から分離してキプロス連邦トルコ人共和国を発足させ、政権に復帰したマカリオスの支配するギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求した。
1970年代以来、南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索が続けられているが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされてこなかった。1997年にキプロス共和国がEU加盟候補国となったことは、国際的に孤立し経済的に苦しい北キプロスにとっては大きな危機であったが、その後の国連の仲介案を得た統合交渉も不調に終わった。
2004年5月1日のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、同年2月9日より国連のコフィー・アナン事務総長の仲介で再び南北大統領による統合交渉が行われ、3月31日の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、4月24日に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数にもかかわらず否決された。これは、国連案がトルコ系住民側およびトルコ共和国が主張してきた連邦制を前提とし、ギリシャ系難民の北部帰還を制限、またトルコ軍の駐留を期限付き(最低7年間)ながら認めるなど、ギリシャ系住民側にとって容易に受け入れがたい内容を含んでいたためである。南のキプロス共和国では2004年、2006年の総選挙でいずれも統合反対派が勝利し、以降の統合交渉は停滞した。
一方、失敗に終わったものの統合交渉に前向きな姿勢を示して国際社会での得点を稼いだトルコは、同年10月3日、長年望んでいたEU加盟交渉開始のテーブルにつくことになった。しかし依然としてトルコはキプロス共和国をキプロスの公式の政府として承認することを拒否しつづけ、トルコのEU加盟交渉における課題点となっており、2006年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因で加盟交渉が一部凍結された。2008年1月のトルコ、ギリシャの首脳会談で、ギリシャ首相コスタス・カラマンリスはトルコが国家承認を拒んでいるギリシャ系のキプロス共和国について「国交正常化がトルコの欧州連合 (EU) 加盟に必要条件だ」と指摘。「すべての条件を満たしたとき、EUはトルコを正式メンバーとして認めるべきだ」と条件付きながら、トルコのEU加盟を支持する考えを明らかにした。
2008年2月に行われた南キプロス大統領選挙で再統合推進派のディミトリス・フリストフィアスが当選、3月に北キプロスのメフメト・アリ・タラート「大統領」との間で首脳会談が実現。4月にはキプロス分断の象徴とされていたレドラ通りの封鎖開放という融和策も実行された。引き続き再統合の話合いが行なわれ、9月3日に包括的な再統合交渉を開始することが決まり[4]、同年12月までに計13回の交渉が開かれた[5]。
2009年4月21日に北キプロスで行われた議会選挙で、再統合交渉に消極的な野党国家統一党が勝利を収め、タラート大統領の与党共和国トルコ党が敗北した。これに対して、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が再統合交渉の継続を求める発言をしたため、国家統一党側もトルコの意向を無視できないとみられた[6]。
2009年6月までに、キプロス再統合交渉において、統治と権力分割、財産権、EU問題、経済問題、領域、安全保障の6分野について交渉が進められ、2010年3月31日には、統治と権力分割、EU問題及び経済問題の分野で重要な進展があった旨を、両大統領が共同声明にて発表した[5]。
2010年4月の北キプロス大統領選挙では、統合消極派のデルヴィシュ・エロール首相が当選した。任期中に交渉を進展させられなかったタラート大統領に対する有権者の不満が選挙結果に影響したものと見られ、交渉の後退が懸念されるようになった。この結果に対してトルコのエルドアン首相は、再統合交渉の年内妥結を目指したい考えを述べ、エロール首相にクギを刺した[7]。これを受け、2010年7月にエロール大統領は交渉を継続し、年内の合意を目指す事を発表した[8]。
以降定期的に交渉が実施されたが、2012年1月の会談でも統治、財産権、市民権に関して合意することができなかった[5]。2012年10月現在、キプロスのEU議長国就任、2013年2月に実施される大統領選挙などの政治日程により、両国の代表による直接交渉は中断されている[5]。
略年表[編集]
1914年 - イギリスが併合。
1955年 - イギリス、ギリシャ、トルコ三国間協議。
1959年 - チューリッヒ協定。
1960年 - 独立。
1963年 - 民族紛争勃発。
1964年 - 国連平和維持軍が派遣される。
1974年 7月15日 - ギリシャの支援を受けた併合賛成派がクーデターを起こす。
7月20日 - トルコ軍がキプロスに侵攻。
7月22日 - クーデター政権が倒壊。
7月23日 - クーデター政権を支援したギリシャ軍事政権が倒壊。
8月13日 - トルコ軍が第二次派兵を敢行し、北部を占拠。
1975年 - 北部にキプロス連邦トルコ人共和国が発足。
1977年 - 最初の統合交渉が決裂。
1983年 - 北キプロス・トルコ共和国が独立を宣言。
1997年 - 南部のキプロス共和国がEU加盟候補国となる。
2003年 4月16日 - キプロス共和国がEU加盟条約に調印。
2004年 2月9日 - 国連の仲介により南北大統領の統合住民投票案実施協議が始まる。
3月31日 - 国連案の修正による住民投票案が合意。
4月24日 - 南北同時住民投票がギリシャ系側(キプロス共和国側)の反対多数により否決。
5月1日 - キプロス共和国がEUに加盟。
10月3日 - トルコ政府がキプロス共和国を国家承認しないまま、EUはトルコとの加盟交渉を開始。
2006年 5月21日 - キプロス共和国が総選挙を実施。統合反対派が勝利。
12月11日 - トルコのキプロス共和国不承認問題のため、EUがトルコとの加盟交渉を一部凍結。
2008年 2月24日 - キプロス共和国大統領選挙で再統合推進派のフリストフィアスが当選。
3月21日 - 3月に南北大統領の首脳会談が実現。以降、同年5月23日、7月1日にも開催される。
4月1日 - レドラ通りが開放される。
7月14日 - 国連がアレクサンダー・ダウナーオーストラリア前外相を国連事務総長特別顧問に任命。交渉の仲介に乗り出す。
9月3日 - ダウナー特別顧問同席の元、南北両首脳による本格的交渉が開始される。2009年6月までに経済問題の交渉が完了。
2009年 4月21日 - 北キプロス議会選挙において、中道右派野党国家統一党が勝利。
10月2日 - ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が、トルコによるアブハジア共和国の独立承認と引き換えに、ロシアが北キプロスの独立を承認することはないと発言[9]。
2010年 4月18日 - 北キプロス大統領選挙において、再統合に消極的なデルヴィシュ・エロール首相が、統合推進派のタラート大統領を破って当選。
キプロス問題に関する参考文献[編集]
大島直政『複合民族国家キプロスの悲劇』新潮社、1986年
鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ オスマン帝国における諸民族の統合と共存』リブロポート、1993年
桜井万里子(編)『新版世界各国史17 ギリシア史』山川出版社、2005年
内藤正典「中東・西欧マンスリー - トルコのEU加盟交渉とキプロス問題」2006年11月20日 [3] (last accessed February 18, 2007)
マイノリティ・ライツ・グループ(編)『世界のマイノリティ事典』明石書店、1996年
キリスト教聖書:「新約聖書」の「使徒言行録(使徒行伝)」第13章 (上の「国民」の項で、宗教の記述を参照)
ギリシャ人
ギリシャ人(ギリシャじん、ギリシャ語:Έλληνες [ˈelines])とはバルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。
目次 [非表示]
1 古代
2 中近世 2.1 東ローマ帝国時代
2.2 オスマン帝国時代
3 近現代 3.1 近代ギリシャ国家とギリシャ人
3.2 ギリシャ系キプロス人
3.3 アルバニアのギリシャ人
3.4 その他のギリシャ人
4 脚注
5 関連項目
古代[編集]
古代ギリシャ時代におけるギリシャ人は、ギリシャ語を話し、特に自由民であるものをいう。ギリシャ本土だけでなく、小アジアやヨーロッパの各地にギリシャから移住した者の手によって建設された植民市の住民も含む。彼ら自身はヘレネス(ヘレーンの一族)と称し、他者をバルバロイ(意味のわからない言葉を話す者)と呼んで区別した。
後に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の帝国建設などを経て、マケドニア地方出自者などまで含めて、広く中央アジアから地中海世界の各地にまで広がったギリシャ語を常用するものをも指すように転じた。ギリシャ人を意味する英語の Greek 、フランス語の Grec などの西欧の諸言語における呼称や日本語の「ギリシャ(人)」は、イタリア半島の南部に移住した人々を古代ローマ人がその土地の名であるグラエキア (Graecia) からグラエキ (Graeci) と呼んだことに由来する。
中近世[編集]
中世・近世におけるギリシャ人は、主に東ローマ帝国やオスマン帝国の統治下で、ギリシャ地域や小アジア、エーゲ海の島々に広く居住し、ギリシャ語を母語とし、正教会のキリスト教を信奉した人々のことである。
血統的には古代からの連続性があったと通常考えられているが、バルカン半島でスラヴ人と接触する機会の多かった北部などでは、スラヴ人の南下によって混血が進められたと考えられており、「中世以降のギリシャ人はギリシャ語・正教信仰を受け入れギリシャ化したスラヴ人に過ぎない」とみなした学者もいる。また帝国内にはスラヴ人のほかにもアルメニア人、イタリア人、クルド人なども居住しており、それらとの混血や、スラヴ人・アルメニア人等のギリシャ化などが進んだと考えるのが普通である。
しかし、諸民族の移動が激しいヨーロッパ大陸において、古代からの純粋な血統の民族などそもそも存在しないとも言える。一部の近代西欧人が古代ギリシャを理想化するあまり、古代との異質性を強調し、近・現代のギリシャ人を貶めようとする考え方があったことも想起すべきであろう。
東ローマ帝国時代[編集]
東ローマ帝国時代のギリシャ人は、他のキリスト教徒の諸民族からはもっぱら「ギリシャ人」と呼ばれた。しかし、ギリシャ人自身は、ローマ帝国市民としての自意識を持ち、ロマイオイ(ローマ人)と自称しており、「ヘレネス」は古代の異教徒、あるいは地方都市や農村の住民のことをさしていた。古代ローマ時代のことを「父祖の時代」と呼び、古代ギリシャ人の子孫であることよりも、古代ローマ帝国市民の末裔であることを誇りにしていたのである。例えば、10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、その著書『テマの起源について』の中で、7世紀の皇帝ヘラクレイオスが帝国の公用語をラテン語からギリシャ語に改めたことを「父祖の言葉を棄てた」と表現している。
しかしその一方では、東ローマ帝国の知識人階層においては、ホメロスの詩を暗誦できるのが常識とされたように、ギリシャの古典文化が尊重されていた。
特に、東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝期には、ギリシャ古典文化が大いに見直されて復興を果たす(パレオロゴス朝ルネサンス)が、この時期のギリシャ古典文化を身につけた東ローマ帝国のギリシャ人の一部は、ヴェネツィア共和国によるペロポネソス半島、キプロス島、クレタ島などの支配や1453年のコンスタンティノープルの陥落の影響で次第にイタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期の古典復興に大いに貢献したと言われる。西ヨーロッパに渡ったギリシャ人の中では、画家エル・グレコが有名である。
この時代のギリシャ人について、日本の世界史教育で「東ローマ帝国によるギリシャ人の支配」と表現されることが多いが、東ローマ帝国時代は皇帝・高級官僚・コンスタンティノープル総主教など支配階級の多くがギリシャ人によって占められていた史実に鑑みると、その表現は妥当性を欠いている。
また、「1821年のギリシャ独立によって、ギリシャ人は約2000年ぶりに独立を回復した」というような表現をされることも多いが、おそらく古代ギリシャからずっとギリシャ人が政治的に主権を持つ時代がなかったと決めつけるために生まれる、不正確な表現であるといわなくてはならない。実際は、オスマン帝国からの支配から数えれば、正確には368年ぶりの独立である。ギリシャ政府観光局のサイトでも、東ローマ時代をギリシャ人の歴史の一部として扱っている。
さらに一部の教科書には、東ローマ帝国における「皇帝教皇主義」の説明として、東ローマ皇帝とコンスタンティノープル総主教が同一人物であるかのごとき表現も散見されるが、両者ははっきりと別人であり、東ローマ帝国時代には総主教が皇帝の摂政・相談役であったり、さらには両者のあいだには何度か反目や軋轢が生じたことさえあった。
「ビザンティン・ハーモニー」も参照
オスマン帝国時代[編集]
ギリシャ人は本来の居住地においては東ローマ帝国の消滅後も、オスマン帝国の領内で人頭税を納める庇護民(ズィンミー)として正教会の信仰を維持することを認められ、コンスタンティノープル総主教を長とする正教徒の自治体(ミッレト)を形成した。ブルガリア人やセルビア人などのバルカン半島の正教徒諸民族までを含むオスマン帝国の正教徒社会の中で、帝都イスタンブルを中心に帝国の中央部に住むギリシャ人たちは優位に立ち、通訳官や地方長官として高い地位を得た者も現れた。
この時代を通じて彼らのアイデンティティの源は、正教の信仰であった。東ローマ帝国時代にはローマ人という意識と古代以来のギリシャ文化を尊重するギリシャ人を意識する伝統が両立していたが、オスマン帝国支配下では古代ギリシャ文化の知識を持つ者の多くが前述のように亡命してしまい、古代の記憶は失われてしまったのである。
近現代[編集]
近代ギリシャ国家とギリシャ人[編集]
1830年、ギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たし、約400年ぶりにギリシャ人は自分たちの国家を持った。
第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北し、その領土が西洋列強の手に分割されたことは、ギリシャ王国にとっては小アジアに広がるギリシャ人の居住地帯を自領に加える最大の好機をもたらした。1919年、ギリシャ軍は小アジアに上陸し、列強の同意を得て、スミルナ(イズミル)を中心とする小アジア西南部のエーゲ海沿岸一帯を占領下に置いた。しかし、ムスタファ・ケマルらによってアンカラに打ち立てられたトルコ革命政権の激しい抵抗を受け、激戦の末に1922年、ギリシャ軍はイズミルから撤退してアンカラ政府(後のトルコ共和国政府)と休戦した。
このとき、トルコとギリシャの間では住民交換協定が結ばれ、トルコ領から90万人以上のギリシャ人がギリシャへの移住を余儀なくされたが、実はトルコ人とギリシャ人の区別はかなり困難で、宗教だけを基準とせざるを得なかった。そのため、トルコ語を母語とする正教会信者(カラマンリ、カラマンルとも呼ばれた)もギリシャ人とされ、逆にスラヴ系やギリシャ系等のムスリムやテッサロニキ地方に住んでいたイスラム教に改宗したユダヤ人のほとんどはまとめてトルコ人として住民交換の対象となった。このため、かつては小アジアの各地に数多く住んでいたギリシャ人も、現在はイスタンブルにわずかに残るのみである。
なお、トルコの小アジア黒海沿岸部にも、トレビゾンド帝国等ギリシャ系国家が存在していた経緯から、オスマン帝国支配後もポントス人等ギリシャ系住民のコミュニティが脈々と存在していた。その後、第一次世界大戦後の混乱やトルコとのギリシャ間の住民交換協定により、黒海沿岸部に居住するギリシャ系住民の多くが、ギリシャ本国やグルジア等旧ソ連領へ出国していったとされる。現在もわずかではあるが、グルジアとの国境付近には、他の少数民族と混在する形で少数のギリシャ系住民が居住しているといわれている。
ギリシャ系キプロス人[編集]
こうしてギリシャの領土が、縮小したもののほぼギリシャ人の居住地域と一致するようになったが、例外としてオスマン帝国の崩壊以前にイギリスの植民地となっていたキプロス島が残された。
キプロスをギリシャに併合しようとする要求は、この島に数多く住むトルコ人たちとの軋轢を生む一方、ギリシャ併合を求める過激派のイギリス当局に対するテロを頻発させた。こうしてイギリス、ギリシャ、トルコによって妥協案が検討され、1960年にキプロス島はキプロス共和国としてどの国にも属さない独立国になった。
しかし、独立後もキプロスでは独立派のトルコ系キプロス人とギリシャ併合賛成派のギリシャ系キプロス人の反目が続いた。1973年にギリシャ系大統領マカリオスがギリシャ軍政政権の支援を受けて起こったギリシャ併合賛成派組織によるクーデターをきっかけとして、トルコ軍は本格的にキプロスに介入しキプロス島北部を占領、トルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国を建国させた。これにより、従来からのキプロス共和国政府は統治する領域が全島の3分の2に縮小し、統治する人々のほとんどがギリシャ系住民となったが、キプロス共和国、ギリシャと国際社会はキプロスの再統合を求め、トルコの対応を非難している。
アルバニアのギリシャ人[編集]
かつては東ローマ帝国領だった現在のアルバニアの南部にもギリシャ系住民が多く住んでおり、ギリシャ語が使用されている。
その他のギリシャ人[編集]
アメリカやオーストラリアへ移民したギリシャ人も多く、その活躍は、政治・経済の多方面にわたる広がりを見せている。特にアメリカでは、マイケル・デュカキスのようにアメリカ大統領選挙の候補者となる者もいた。
以上でみてきたように、現代においてはギリシャ系の人々はギリシャ共和国のみならずイスタンブルやキプロス、アルバニアまで含めて広がっており、ギリシャ人という語は、ギリシャ国籍を有する者という意味と、広くギリシャ系の人々を指す場合と、二重の意味を有している状況にある。
目次 [非表示]
1 古代
2 中近世 2.1 東ローマ帝国時代
2.2 オスマン帝国時代
3 近現代 3.1 近代ギリシャ国家とギリシャ人
3.2 ギリシャ系キプロス人
3.3 アルバニアのギリシャ人
3.4 その他のギリシャ人
4 脚注
5 関連項目
古代[編集]
古代ギリシャ時代におけるギリシャ人は、ギリシャ語を話し、特に自由民であるものをいう。ギリシャ本土だけでなく、小アジアやヨーロッパの各地にギリシャから移住した者の手によって建設された植民市の住民も含む。彼ら自身はヘレネス(ヘレーンの一族)と称し、他者をバルバロイ(意味のわからない言葉を話す者)と呼んで区別した。
後に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の帝国建設などを経て、マケドニア地方出自者などまで含めて、広く中央アジアから地中海世界の各地にまで広がったギリシャ語を常用するものをも指すように転じた。ギリシャ人を意味する英語の Greek 、フランス語の Grec などの西欧の諸言語における呼称や日本語の「ギリシャ(人)」は、イタリア半島の南部に移住した人々を古代ローマ人がその土地の名であるグラエキア (Graecia) からグラエキ (Graeci) と呼んだことに由来する。
中近世[編集]
中世・近世におけるギリシャ人は、主に東ローマ帝国やオスマン帝国の統治下で、ギリシャ地域や小アジア、エーゲ海の島々に広く居住し、ギリシャ語を母語とし、正教会のキリスト教を信奉した人々のことである。
血統的には古代からの連続性があったと通常考えられているが、バルカン半島でスラヴ人と接触する機会の多かった北部などでは、スラヴ人の南下によって混血が進められたと考えられており、「中世以降のギリシャ人はギリシャ語・正教信仰を受け入れギリシャ化したスラヴ人に過ぎない」とみなした学者もいる。また帝国内にはスラヴ人のほかにもアルメニア人、イタリア人、クルド人なども居住しており、それらとの混血や、スラヴ人・アルメニア人等のギリシャ化などが進んだと考えるのが普通である。
しかし、諸民族の移動が激しいヨーロッパ大陸において、古代からの純粋な血統の民族などそもそも存在しないとも言える。一部の近代西欧人が古代ギリシャを理想化するあまり、古代との異質性を強調し、近・現代のギリシャ人を貶めようとする考え方があったことも想起すべきであろう。
東ローマ帝国時代[編集]
東ローマ帝国時代のギリシャ人は、他のキリスト教徒の諸民族からはもっぱら「ギリシャ人」と呼ばれた。しかし、ギリシャ人自身は、ローマ帝国市民としての自意識を持ち、ロマイオイ(ローマ人)と自称しており、「ヘレネス」は古代の異教徒、あるいは地方都市や農村の住民のことをさしていた。古代ローマ時代のことを「父祖の時代」と呼び、古代ギリシャ人の子孫であることよりも、古代ローマ帝国市民の末裔であることを誇りにしていたのである。例えば、10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、その著書『テマの起源について』の中で、7世紀の皇帝ヘラクレイオスが帝国の公用語をラテン語からギリシャ語に改めたことを「父祖の言葉を棄てた」と表現している。
しかしその一方では、東ローマ帝国の知識人階層においては、ホメロスの詩を暗誦できるのが常識とされたように、ギリシャの古典文化が尊重されていた。
特に、東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝期には、ギリシャ古典文化が大いに見直されて復興を果たす(パレオロゴス朝ルネサンス)が、この時期のギリシャ古典文化を身につけた東ローマ帝国のギリシャ人の一部は、ヴェネツィア共和国によるペロポネソス半島、キプロス島、クレタ島などの支配や1453年のコンスタンティノープルの陥落の影響で次第にイタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期の古典復興に大いに貢献したと言われる。西ヨーロッパに渡ったギリシャ人の中では、画家エル・グレコが有名である。
この時代のギリシャ人について、日本の世界史教育で「東ローマ帝国によるギリシャ人の支配」と表現されることが多いが、東ローマ帝国時代は皇帝・高級官僚・コンスタンティノープル総主教など支配階級の多くがギリシャ人によって占められていた史実に鑑みると、その表現は妥当性を欠いている。
また、「1821年のギリシャ独立によって、ギリシャ人は約2000年ぶりに独立を回復した」というような表現をされることも多いが、おそらく古代ギリシャからずっとギリシャ人が政治的に主権を持つ時代がなかったと決めつけるために生まれる、不正確な表現であるといわなくてはならない。実際は、オスマン帝国からの支配から数えれば、正確には368年ぶりの独立である。ギリシャ政府観光局のサイトでも、東ローマ時代をギリシャ人の歴史の一部として扱っている。
さらに一部の教科書には、東ローマ帝国における「皇帝教皇主義」の説明として、東ローマ皇帝とコンスタンティノープル総主教が同一人物であるかのごとき表現も散見されるが、両者ははっきりと別人であり、東ローマ帝国時代には総主教が皇帝の摂政・相談役であったり、さらには両者のあいだには何度か反目や軋轢が生じたことさえあった。
「ビザンティン・ハーモニー」も参照
オスマン帝国時代[編集]
ギリシャ人は本来の居住地においては東ローマ帝国の消滅後も、オスマン帝国の領内で人頭税を納める庇護民(ズィンミー)として正教会の信仰を維持することを認められ、コンスタンティノープル総主教を長とする正教徒の自治体(ミッレト)を形成した。ブルガリア人やセルビア人などのバルカン半島の正教徒諸民族までを含むオスマン帝国の正教徒社会の中で、帝都イスタンブルを中心に帝国の中央部に住むギリシャ人たちは優位に立ち、通訳官や地方長官として高い地位を得た者も現れた。
この時代を通じて彼らのアイデンティティの源は、正教の信仰であった。東ローマ帝国時代にはローマ人という意識と古代以来のギリシャ文化を尊重するギリシャ人を意識する伝統が両立していたが、オスマン帝国支配下では古代ギリシャ文化の知識を持つ者の多くが前述のように亡命してしまい、古代の記憶は失われてしまったのである。
近現代[編集]
近代ギリシャ国家とギリシャ人[編集]
1830年、ギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たし、約400年ぶりにギリシャ人は自分たちの国家を持った。
第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北し、その領土が西洋列強の手に分割されたことは、ギリシャ王国にとっては小アジアに広がるギリシャ人の居住地帯を自領に加える最大の好機をもたらした。1919年、ギリシャ軍は小アジアに上陸し、列強の同意を得て、スミルナ(イズミル)を中心とする小アジア西南部のエーゲ海沿岸一帯を占領下に置いた。しかし、ムスタファ・ケマルらによってアンカラに打ち立てられたトルコ革命政権の激しい抵抗を受け、激戦の末に1922年、ギリシャ軍はイズミルから撤退してアンカラ政府(後のトルコ共和国政府)と休戦した。
このとき、トルコとギリシャの間では住民交換協定が結ばれ、トルコ領から90万人以上のギリシャ人がギリシャへの移住を余儀なくされたが、実はトルコ人とギリシャ人の区別はかなり困難で、宗教だけを基準とせざるを得なかった。そのため、トルコ語を母語とする正教会信者(カラマンリ、カラマンルとも呼ばれた)もギリシャ人とされ、逆にスラヴ系やギリシャ系等のムスリムやテッサロニキ地方に住んでいたイスラム教に改宗したユダヤ人のほとんどはまとめてトルコ人として住民交換の対象となった。このため、かつては小アジアの各地に数多く住んでいたギリシャ人も、現在はイスタンブルにわずかに残るのみである。
なお、トルコの小アジア黒海沿岸部にも、トレビゾンド帝国等ギリシャ系国家が存在していた経緯から、オスマン帝国支配後もポントス人等ギリシャ系住民のコミュニティが脈々と存在していた。その後、第一次世界大戦後の混乱やトルコとのギリシャ間の住民交換協定により、黒海沿岸部に居住するギリシャ系住民の多くが、ギリシャ本国やグルジア等旧ソ連領へ出国していったとされる。現在もわずかではあるが、グルジアとの国境付近には、他の少数民族と混在する形で少数のギリシャ系住民が居住しているといわれている。
ギリシャ系キプロス人[編集]
こうしてギリシャの領土が、縮小したもののほぼギリシャ人の居住地域と一致するようになったが、例外としてオスマン帝国の崩壊以前にイギリスの植民地となっていたキプロス島が残された。
キプロスをギリシャに併合しようとする要求は、この島に数多く住むトルコ人たちとの軋轢を生む一方、ギリシャ併合を求める過激派のイギリス当局に対するテロを頻発させた。こうしてイギリス、ギリシャ、トルコによって妥協案が検討され、1960年にキプロス島はキプロス共和国としてどの国にも属さない独立国になった。
しかし、独立後もキプロスでは独立派のトルコ系キプロス人とギリシャ併合賛成派のギリシャ系キプロス人の反目が続いた。1973年にギリシャ系大統領マカリオスがギリシャ軍政政権の支援を受けて起こったギリシャ併合賛成派組織によるクーデターをきっかけとして、トルコ軍は本格的にキプロスに介入しキプロス島北部を占領、トルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国を建国させた。これにより、従来からのキプロス共和国政府は統治する領域が全島の3分の2に縮小し、統治する人々のほとんどがギリシャ系住民となったが、キプロス共和国、ギリシャと国際社会はキプロスの再統合を求め、トルコの対応を非難している。
アルバニアのギリシャ人[編集]
かつては東ローマ帝国領だった現在のアルバニアの南部にもギリシャ系住民が多く住んでおり、ギリシャ語が使用されている。
その他のギリシャ人[編集]
アメリカやオーストラリアへ移民したギリシャ人も多く、その活躍は、政治・経済の多方面にわたる広がりを見せている。特にアメリカでは、マイケル・デュカキスのようにアメリカ大統領選挙の候補者となる者もいた。
以上でみてきたように、現代においてはギリシャ系の人々はギリシャ共和国のみならずイスタンブルやキプロス、アルバニアまで含めて広がっており、ギリシャ人という語は、ギリシャ国籍を有する者という意味と、広くギリシャ系の人々を指す場合と、二重の意味を有している状況にある。