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2014年02月11日
アルーマニア人
アルーマニア人 (アルーマニア語 arumâni, armâni または Makedonji-armânji マケド・ルーマニア人とも)はバルカン半島南部一帯に住む民族。主に北部ギリシャ、アルバニア、マケドニア、セルビア、ブルガリアなどに200万人ほどが居住しているとみられる。中世東ローマ帝国時代には「ヴラフ人」(Vlachs)と称していた。英語では、Vallachians,Wallachians, Wlachs などの表記も見られる。
彼らはルーマニア語によく似たアルーマニア語とよばれるロマンス語を用いている。比較言語学における研究から、この言語は7世紀から9世紀の間にルーマニア語から枝分かれしたと考えられている。
目次 [非表示]
1 ギリシャにおけるアルーマニア人
2 アルバニアにおけるアルーマニア人
3 マケドニアにおけるアルーマニア人
4 ルーマニアにおけるアルーマニア人
5 参照
6 外部リンク
ギリシャにおけるアルーマニア人[編集]
ギリシャではアルーマニア人は少数民族と見なされず、ギリシャ人であるとされている。彼らの起源については対立する仮説が提示されている。ルーマニア側の学説によると彼らはドナウ地方から北部ギリシャに移住したとされる。9世紀まではアルーマニア人とルーマニア人が同じ俗ラテン語方言を使用していたことは明らかである。ルーマニアとの関係が深いにも関わらず、彼ら自身はビザンツ文化を受け継ぐギリシャ人であると考えているとされる。
アルーマニア人はギリシャ独立戦争においても重要な役割を果たした。アルーマニア系のギリシャ人としては初期の首相イオアニス・コレティス、バルカン戦争中の国防大臣のエヴァンジェロス・アヴァロフ、詩人のコンスタンティノス・クリスタリスなどがあげられる。
アルーマニア人に対する同化政策は18世紀までさかのぼる。ギリシャ正教の神父コスマス・アイトロス(1714年 - 1779年)は北部および西部ギリシャに100をこえる学校をつくり、アルーマニア人にギリシャ語を教えた。
ピンドス山脈一帯の山岳地帯に住んでいたアルーマニア人にとって、母語で教育を受ける機会はほとんどなかった。ルーマニア政府は1948年までアルーマニア語教育の為に援助を送っていたが、共産党政権が誕生するとそれも途絶え、現在ではアルーマニア語による教育は行われていない。ギリシャにおけるアルーマニア人の同化は時間の問題と見られている。
欧州議会の委員会は1997年にアルーマニア人に関するレポートを発表し、ギリシャ政府に対してアルーマニア人の文化を尊重し、学校、教会およびメディアにおいてアルーマニア語の使用を促進するように求めた。しかし、アルーマニア人コミュニティには自身をギリシャ人であるとみなす派とアルーマニア人としてのアイデンティティを主張する一派が存在している。1998年にコンスタンディノス・ステファノプロス大統領がイピロス地方のメツォヴォを訪れた際にアルーマニア人に対して自身の言葉を話し教育を受けるように呼びかけたが、それから現在に至まで実質的には何の働きかけもなされていない。
アルバニアにおけるアルーマニア人[編集]
アルーマニア人羊飼の伝統衣装 20世紀初めに撮影
アルバニアにはギリシャにつぐ第二のアルーマニア人コミュニティが存在し、100,000人から200,000人のアルーマニア人が暮らしているとみられている。母語における教育は受けていないが、アルーマニア人はアルバニア憲法において少数民族として認められている。
マケドニアにおけるアルーマニア人[編集]
現在マケドニアには20,000人程度のアルーマニア人が居住していると見られているが、マケドニア政府はその数を8,467人と発表している。アルーマニア人は国会に議員を有し、母語で教育を受けるなど少数民族としての権利が与えられている。これらの活動に対してルーマニア政府から援助が送られている。
ルーマニアにおけるアルーマニア人[編集]
中世期にオスマン帝国支配下にあったアルーマニア人はMoscopoleなど彼らの故郷からルーマニアの支配するワラキア、モルドヴァへと移住した。当時のルーマニアもオスマン帝国の支配を受けていたが、ある程度の自治権を有していた。これらのルーマニアに移住したアルーマニア人たちは次第にルーマニア人に同化していったと思われる。
1860年にルーマニア政府はギリシャおよびトルコ領マケドニア、アルバニア内に100を超える学校を建設した。これはアルーマニア人に対して、ルーマニア系民族としてのアイデンティティーを与えることを目的としていた。1925年にはルーマニアのカロル2世がアルーマニア人にドナウ地方に居住地を与え、現在ではこの地の15%ほどにあたる50,000人がアルーマニア方言を話している。彼らは自身を少数民族だとは見なしていないが、文化的には他のルーマニア人とは異なっていると考えている。
彼らはルーマニア語によく似たアルーマニア語とよばれるロマンス語を用いている。比較言語学における研究から、この言語は7世紀から9世紀の間にルーマニア語から枝分かれしたと考えられている。
目次 [非表示]
1 ギリシャにおけるアルーマニア人
2 アルバニアにおけるアルーマニア人
3 マケドニアにおけるアルーマニア人
4 ルーマニアにおけるアルーマニア人
5 参照
6 外部リンク
ギリシャにおけるアルーマニア人[編集]
ギリシャではアルーマニア人は少数民族と見なされず、ギリシャ人であるとされている。彼らの起源については対立する仮説が提示されている。ルーマニア側の学説によると彼らはドナウ地方から北部ギリシャに移住したとされる。9世紀まではアルーマニア人とルーマニア人が同じ俗ラテン語方言を使用していたことは明らかである。ルーマニアとの関係が深いにも関わらず、彼ら自身はビザンツ文化を受け継ぐギリシャ人であると考えているとされる。
アルーマニア人はギリシャ独立戦争においても重要な役割を果たした。アルーマニア系のギリシャ人としては初期の首相イオアニス・コレティス、バルカン戦争中の国防大臣のエヴァンジェロス・アヴァロフ、詩人のコンスタンティノス・クリスタリスなどがあげられる。
アルーマニア人に対する同化政策は18世紀までさかのぼる。ギリシャ正教の神父コスマス・アイトロス(1714年 - 1779年)は北部および西部ギリシャに100をこえる学校をつくり、アルーマニア人にギリシャ語を教えた。
ピンドス山脈一帯の山岳地帯に住んでいたアルーマニア人にとって、母語で教育を受ける機会はほとんどなかった。ルーマニア政府は1948年までアルーマニア語教育の為に援助を送っていたが、共産党政権が誕生するとそれも途絶え、現在ではアルーマニア語による教育は行われていない。ギリシャにおけるアルーマニア人の同化は時間の問題と見られている。
欧州議会の委員会は1997年にアルーマニア人に関するレポートを発表し、ギリシャ政府に対してアルーマニア人の文化を尊重し、学校、教会およびメディアにおいてアルーマニア語の使用を促進するように求めた。しかし、アルーマニア人コミュニティには自身をギリシャ人であるとみなす派とアルーマニア人としてのアイデンティティを主張する一派が存在している。1998年にコンスタンディノス・ステファノプロス大統領がイピロス地方のメツォヴォを訪れた際にアルーマニア人に対して自身の言葉を話し教育を受けるように呼びかけたが、それから現在に至まで実質的には何の働きかけもなされていない。
アルバニアにおけるアルーマニア人[編集]
アルーマニア人羊飼の伝統衣装 20世紀初めに撮影
アルバニアにはギリシャにつぐ第二のアルーマニア人コミュニティが存在し、100,000人から200,000人のアルーマニア人が暮らしているとみられている。母語における教育は受けていないが、アルーマニア人はアルバニア憲法において少数民族として認められている。
マケドニアにおけるアルーマニア人[編集]
現在マケドニアには20,000人程度のアルーマニア人が居住していると見られているが、マケドニア政府はその数を8,467人と発表している。アルーマニア人は国会に議員を有し、母語で教育を受けるなど少数民族としての権利が与えられている。これらの活動に対してルーマニア政府から援助が送られている。
ルーマニアにおけるアルーマニア人[編集]
中世期にオスマン帝国支配下にあったアルーマニア人はMoscopoleなど彼らの故郷からルーマニアの支配するワラキア、モルドヴァへと移住した。当時のルーマニアもオスマン帝国の支配を受けていたが、ある程度の自治権を有していた。これらのルーマニアに移住したアルーマニア人たちは次第にルーマニア人に同化していったと思われる。
1860年にルーマニア政府はギリシャおよびトルコ領マケドニア、アルバニア内に100を超える学校を建設した。これはアルーマニア人に対して、ルーマニア系民族としてのアイデンティティーを与えることを目的としていた。1925年にはルーマニアのカロル2世がアルーマニア人にドナウ地方に居住地を与え、現在ではこの地の15%ほどにあたる50,000人がアルーマニア方言を話している。彼らは自身を少数民族だとは見なしていないが、文化的には他のルーマニア人とは異なっていると考えている。
ヴラフ人
ヴラフ人は、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、南東ヨーロッパにおいて、複数のラテン系の人々を指し示して使われる民族呼称である。ヴラヒ人、ワラキア人などと書かれることもある。ヴラフ人と呼ばれる人々には、現代のルーマニア人(ダコ=ルーマニア人)、アルーマニア人、モルラク人(Morlachs)、メグレノ=ルーマニア人(Megleno-Romanians)、イストロ=ルーマニア人(Istro-Romanians)などが含まれる。中でも、自民族の国としてルーマニアを持つルーマニア人を除いた人々を指すことが多い。
バルカン半島の「ヴラフ人」たち
ヴラフ人という呼称は外名であった。ヴラフと呼ばれる各民族は、それぞれ「ローマ人」に由来する自称を用いてきた(Români、Rumâni、Rumâri、Aromâni、Arumâniなど)。メグレノ=ルーマニア人は現在は自称として「Vlaşi」を用いているが、歴史的には「Rămâni」を自称としていた。イストロ=ルーマニア人もまた「Vlaşi」という呼び名を受け入れているが、「Rumâni」や「Rumâri」も使われ続けている。
ヴラフ人は、トラキア人やイリュリア人[1]、ギリシャ人[2][3][4]などの古代からのバルカンの住民が「ローマ化」されたものと考えられることもある(ダキア人を含む)が、定説とまではなっていない。
ヴラフ人の言語は、東ロマンス諸語(Eastern Romance languages)と呼ばれ、共通の古ルーマニア語(Proto-Romanian language)から分化したものである。過去数世紀にわたり、ヴラフ人たちはそれぞれ細かいグループに分かれていき、スラヴ人やギリシャ人、アルバニア人、クマン人などの周辺の民族と混交していった。
中央ヨーロッパや南東ヨーロッパのほぼ全ての国にヴラフ人は少数民族として暮らしており、ハンガリー、ウクライナ、セルビア、クロアチア、マケドニア共和国、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ギリシャ、ブルガリアなどがこれに含まれる。これ以外に、ポーランドやチェコ、スロバキア、モンテネグロでは周辺のスラヴ人に同化してヴラフ人は見られなくなった。ルーマニアとモルドバでは、(「ダコ=ルーマニア人」、あるいは単に「ルーマニア人」と呼ばれる)ヴラフ人が民族的に多数派を形成している。
目次 [非表示]
1 用語
2 ヴラフ人の住む地域
3 ヴラフ人と呼ばれる民族
4 遺伝
5 分化
6 宗教
7 歴史
8 関連項目
9 参考文献
10 外部リンク
11 脚注
用語[編集]
「ヴラフ」という用語は、ゲルマン語で「異邦人」などを意味する「Walha」という語に由来しており、古代ゲルマン人がラテン系やケルト系の人々を指してこのように呼んでいたのが始まりとなっている。ウェールズ人(Welsh)やワロニア人(Walloons)の呼称も同じ言葉に由来している。スラヴ人はかつて、ラテン人全般を指してヴラフ人と呼んでいた。ポーランド語ではイタリアを指して「Włochy」と呼び、またハンガリー語でもイタリアを指して「Olaszország」(「Olasz国」の意)と呼んでいる。古英語の詩「Widsith」では、ローマ人を「Romwalas」と呼んでいる。その後「ヴラフ」の呼称は時代が下るにつれて少しずつ変化し、現在のヴラフ人たちのみを指すようになっていった。
歴史を通じて、「ヴラフ人」の呼称はしばしば民族としてのヴラフ人ではなく、単なる侮辱語として、牧羊集団や、ムスリムからみたキリスト教徒などに対して用いられてきた。クロアチアのダルマチア地方では、「Vlaj」/「Vlah」(単数形)、「Vlaji」/「Vlasi」(複数形)の語は沿岸部の人々によって、内陸部の人々に対する軽蔑を込めて「山の蛮族」のような意味で使われる。ギリシャでは、「Βλάχος」(Vláhos)の語は、粗野・非文化的な人間に対する侮蔑語として使われるが、その正確な意味は単に「田舎者」であり、「Χωριάτης」(Choriátis、「村人」)と同義である。
ヴラフ人の住む地域[編集]
民族移動時代の大移住によって一部の集団(アルーマニア人、メグレノ=ルーマニア人)が分立したことを除いては、ヴラフ人たちはバルカン半島一円からポーランド、モラヴィア(現代のチェコの一部)、クロアチア(同地ではヴラフの一派であったモルラク人は姿を消し、カトリック教徒や正教徒の彼らはクロアチア人やセルビア人に同化していった)などに居住してきた[5]。彼らは良い牧草地を探して各地に広がり、スラヴ人からは「ヴラフ」(ワラキア人)と呼ばれるようになった。
ヴラフ人と呼ばれる民族[編集]
バルカン半島のヴラフ人分布地図
ダコ=ルーマニア人(あるいは単にルーマニア人) - ルーマニア語を話す(「ダコ=ルーマニア」の呼称は、彼らの居住地が古代のダキアにあることに由来する) ルーマニア - 1687万人
モルドバ - 280万人
ウクライナ - 40万9600人(南ベッサラビアおよび北ブコヴィナ)
セルビア - 6万5000人(ヴォイヴォディナに2万9500人、中央セルビアに3万5500人)
ハンガリー - 8000人
ブルガリア - 4500人(1000人が「Rumuni」、3500人が「Vlasi」としている)
アルーマニア人 - アルーマニア語を話す ギリシャ - 主としてピリン山脈周辺(ギリシャ政府は少数民族を認めていないため、正確な民族別統計は存在しない。)
アルバニア - 1万5000人以下(正確な統計は存在しない)
ルーマニア - 2万人
マケドニア共和国 - 1万人
ブルガリア - 3500人(「Vlasi」としている人数)
メグレノ=ルーマニア人 - メグレノ=ルーマニア語を話す(マケドニア地方、特にギリシャとマケドニア共和国に住む。約1万人)
イストロ=ルーマニア人 - イストロ=ルーマニア語を話す(1200人がクロアチアに住むが、自民族の言語を母語としているのは200人を下回る)
遺伝[編集]
ヴラフ人の遺伝子の特徴は他の南東ヨーロッパの諸民族と類似している。遺伝子分析の結果、異なるヴラフ人の集団の間には遺伝上の隔たりがあり、ヴラフ人が単一の血統集団ではないことを示唆している。逆に、これらのヴラフ人たちはそれぞれの地域に住むスラヴ人やギリシャ人の遺伝子と類似していた。
ボッシュらは、ヴラフがラテン化されたダキア人、イリュリア人、トラキア人、ギリシャ人やこれらの混合であるかを調べる調査をした。しかし、これらのバルカンの諸集団全てに高い遺伝的共通性があり、意味のある結果は得られなかった。バルカンの諸集団の言語学的、文化的な違いは、互いを遺伝子レベルで分断するほどには大きくなかった[6]。
分化[編集]
多くのヴラフ人たちは中世には牧羊を生業としており、南東ヨーロッパの山々を羊を連れて回っていた。ヴラフ人の羊飼いたちは、北は南ポーランドやモラヴィア、西はディナル・アルプス山脈、南はピンドゥス山脈(Pindus)、東にはカフカース山脈まで活動の範囲を広げていた[7]。
これらの地域の多くで、ヴラフ人たちの子孫は自民族の固有言語を失ってはいるものの、その文化的影響を引き継いでおり、衣装や民俗風習、山の民としての暮らしを維持しており、ルーマニア語やアルーマニア語に由来する地名は各地に分布している。
ヴラフ人の一部、特にルーマニアやモルドヴァでは、穀物の栽培も広く行われてきた。言語学者らによると、農業に関連するラテン語の語彙から、この地方のヴラフ人たちは古くから農耕を生業としてきたことが示されるとしている。
言語学的な違いと同様に、北方ヴラフ(ルーマニア人)と南方ヴラフ(アルーマニア人)の文化的な分化は10世紀ごろに起こっており、それ以降は独自の発展を遂げている。ルーマニアの文化はスラヴ人やハンガリー人など周辺民族の影響を受けながら今日まで発展してきた。19世紀には西ヨーロッパとのつながりが生まれ、フランスとの文化的結びつきが始まった。アルーマニア人の文化ははじめは羊飼いのものとして発展し、後にビザンティンやギリシャの文化の影響を強く受けている。
宗教[編集]
ヴラフ人の多くが正教会に属しているが、一部にはカトリック教会やプロテスタント(主としてトランシルヴァニア)に属し、更に少数のムスリム(ギリシャに在住していたおよそメグレノ=ルーマニア人で、イスラム教に改宗し、1923年のローザンヌ条約によってトルコに移った者たちの子孫が500人ほどトルコに暮らしている)もいる。イストロ=ルーマニア人は全てローマ・カトリック教徒である。
歴史[編集]
バルカンのロマンス語住民に関する東ローマ帝国の最古の記録は、プロコピオスによる5世紀の文献に見られる。この中で、彼らの住む拠点として「Skeptekasas」(7つの家)、「Burgulatu」(広い町)、Loupofantana(オオカミの井戸)、「Gemellomountes」(双子の山)の5つが記されている。ビザンティンの586年の年代記には、東バルカンでのアヴァール人に対する攻撃が述べられ、ヴラフ人に関する最古の文献上の記述とも考えられる。これによると、ラバによって荷物を運んでいる最中に荷物が滑り落ちたとき、御者は「Torna, torna, fratre!」(戻れ、戻れよ兄弟!)と叫んだと記されている。しかし、これは末期のラテン語(俗ラテン語)であったとも考えられる。
コンスタンティノポリス郊外のブラケルナエ(Blachernae)は、スキタイの大公ブラケルノス(Blachernos)から名づけられた。この名前はBlachs(ヴラフ)と関連がある可能性もある。
10世紀、マジャル人がパンノニア平原に到達した。彼らの王ベーラ3世の家臣によって記された「ゲスタ・フンガロルム」(Gesta Hungarorum)によると、平原にはスラヴ人、ブルガール人、そしてブラフ人あるいは「pastores Romanorum」(ローマ人の羊飼い)が居住していたとしている(原文: sclauij, Bulgarij et Blachij, ac pastores romanorum)。この文献は1146年に書かれたものであり、12世紀から14世紀にかけて彼らはハンガリー王国、東ローマ帝国そしてジョチ・ウルスの支配下にあった[8]。
1185年、タルノヴォ出身のペタルとアセンの兄弟はギリシャ人の支配するビザンティン帝国に対して反乱を起こして、ツァール・ペタル2世を名乗り、復興されたブルガリア帝国の君主であると宣言した。翌年、ビザンティンはブルガリアの独立を認めさせられ、第二次ブルガリア帝国が成立した。ペタルは「ブルガリア人、ギリシャ人、およびヴラフ人のツァール」を名乗った(ヴラフ人・ブルガリア人反乱も参照)が、13世紀にはその称号から「ヴラフ人」の名前は失われた。
バルカン半島の「ヴラフ人」たち
ヴラフ人という呼称は外名であった。ヴラフと呼ばれる各民族は、それぞれ「ローマ人」に由来する自称を用いてきた(Români、Rumâni、Rumâri、Aromâni、Arumâniなど)。メグレノ=ルーマニア人は現在は自称として「Vlaşi」を用いているが、歴史的には「Rămâni」を自称としていた。イストロ=ルーマニア人もまた「Vlaşi」という呼び名を受け入れているが、「Rumâni」や「Rumâri」も使われ続けている。
ヴラフ人は、トラキア人やイリュリア人[1]、ギリシャ人[2][3][4]などの古代からのバルカンの住民が「ローマ化」されたものと考えられることもある(ダキア人を含む)が、定説とまではなっていない。
ヴラフ人の言語は、東ロマンス諸語(Eastern Romance languages)と呼ばれ、共通の古ルーマニア語(Proto-Romanian language)から分化したものである。過去数世紀にわたり、ヴラフ人たちはそれぞれ細かいグループに分かれていき、スラヴ人やギリシャ人、アルバニア人、クマン人などの周辺の民族と混交していった。
中央ヨーロッパや南東ヨーロッパのほぼ全ての国にヴラフ人は少数民族として暮らしており、ハンガリー、ウクライナ、セルビア、クロアチア、マケドニア共和国、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ギリシャ、ブルガリアなどがこれに含まれる。これ以外に、ポーランドやチェコ、スロバキア、モンテネグロでは周辺のスラヴ人に同化してヴラフ人は見られなくなった。ルーマニアとモルドバでは、(「ダコ=ルーマニア人」、あるいは単に「ルーマニア人」と呼ばれる)ヴラフ人が民族的に多数派を形成している。
目次 [非表示]
1 用語
2 ヴラフ人の住む地域
3 ヴラフ人と呼ばれる民族
4 遺伝
5 分化
6 宗教
7 歴史
8 関連項目
9 参考文献
10 外部リンク
11 脚注
用語[編集]
「ヴラフ」という用語は、ゲルマン語で「異邦人」などを意味する「Walha」という語に由来しており、古代ゲルマン人がラテン系やケルト系の人々を指してこのように呼んでいたのが始まりとなっている。ウェールズ人(Welsh)やワロニア人(Walloons)の呼称も同じ言葉に由来している。スラヴ人はかつて、ラテン人全般を指してヴラフ人と呼んでいた。ポーランド語ではイタリアを指して「Włochy」と呼び、またハンガリー語でもイタリアを指して「Olaszország」(「Olasz国」の意)と呼んでいる。古英語の詩「Widsith」では、ローマ人を「Romwalas」と呼んでいる。その後「ヴラフ」の呼称は時代が下るにつれて少しずつ変化し、現在のヴラフ人たちのみを指すようになっていった。
歴史を通じて、「ヴラフ人」の呼称はしばしば民族としてのヴラフ人ではなく、単なる侮辱語として、牧羊集団や、ムスリムからみたキリスト教徒などに対して用いられてきた。クロアチアのダルマチア地方では、「Vlaj」/「Vlah」(単数形)、「Vlaji」/「Vlasi」(複数形)の語は沿岸部の人々によって、内陸部の人々に対する軽蔑を込めて「山の蛮族」のような意味で使われる。ギリシャでは、「Βλάχος」(Vláhos)の語は、粗野・非文化的な人間に対する侮蔑語として使われるが、その正確な意味は単に「田舎者」であり、「Χωριάτης」(Choriátis、「村人」)と同義である。
ヴラフ人の住む地域[編集]
民族移動時代の大移住によって一部の集団(アルーマニア人、メグレノ=ルーマニア人)が分立したことを除いては、ヴラフ人たちはバルカン半島一円からポーランド、モラヴィア(現代のチェコの一部)、クロアチア(同地ではヴラフの一派であったモルラク人は姿を消し、カトリック教徒や正教徒の彼らはクロアチア人やセルビア人に同化していった)などに居住してきた[5]。彼らは良い牧草地を探して各地に広がり、スラヴ人からは「ヴラフ」(ワラキア人)と呼ばれるようになった。
ヴラフ人と呼ばれる民族[編集]
バルカン半島のヴラフ人分布地図
ダコ=ルーマニア人(あるいは単にルーマニア人) - ルーマニア語を話す(「ダコ=ルーマニア」の呼称は、彼らの居住地が古代のダキアにあることに由来する) ルーマニア - 1687万人
モルドバ - 280万人
ウクライナ - 40万9600人(南ベッサラビアおよび北ブコヴィナ)
セルビア - 6万5000人(ヴォイヴォディナに2万9500人、中央セルビアに3万5500人)
ハンガリー - 8000人
ブルガリア - 4500人(1000人が「Rumuni」、3500人が「Vlasi」としている)
アルーマニア人 - アルーマニア語を話す ギリシャ - 主としてピリン山脈周辺(ギリシャ政府は少数民族を認めていないため、正確な民族別統計は存在しない。)
アルバニア - 1万5000人以下(正確な統計は存在しない)
ルーマニア - 2万人
マケドニア共和国 - 1万人
ブルガリア - 3500人(「Vlasi」としている人数)
メグレノ=ルーマニア人 - メグレノ=ルーマニア語を話す(マケドニア地方、特にギリシャとマケドニア共和国に住む。約1万人)
イストロ=ルーマニア人 - イストロ=ルーマニア語を話す(1200人がクロアチアに住むが、自民族の言語を母語としているのは200人を下回る)
遺伝[編集]
ヴラフ人の遺伝子の特徴は他の南東ヨーロッパの諸民族と類似している。遺伝子分析の結果、異なるヴラフ人の集団の間には遺伝上の隔たりがあり、ヴラフ人が単一の血統集団ではないことを示唆している。逆に、これらのヴラフ人たちはそれぞれの地域に住むスラヴ人やギリシャ人の遺伝子と類似していた。
ボッシュらは、ヴラフがラテン化されたダキア人、イリュリア人、トラキア人、ギリシャ人やこれらの混合であるかを調べる調査をした。しかし、これらのバルカンの諸集団全てに高い遺伝的共通性があり、意味のある結果は得られなかった。バルカンの諸集団の言語学的、文化的な違いは、互いを遺伝子レベルで分断するほどには大きくなかった[6]。
分化[編集]
多くのヴラフ人たちは中世には牧羊を生業としており、南東ヨーロッパの山々を羊を連れて回っていた。ヴラフ人の羊飼いたちは、北は南ポーランドやモラヴィア、西はディナル・アルプス山脈、南はピンドゥス山脈(Pindus)、東にはカフカース山脈まで活動の範囲を広げていた[7]。
これらの地域の多くで、ヴラフ人たちの子孫は自民族の固有言語を失ってはいるものの、その文化的影響を引き継いでおり、衣装や民俗風習、山の民としての暮らしを維持しており、ルーマニア語やアルーマニア語に由来する地名は各地に分布している。
ヴラフ人の一部、特にルーマニアやモルドヴァでは、穀物の栽培も広く行われてきた。言語学者らによると、農業に関連するラテン語の語彙から、この地方のヴラフ人たちは古くから農耕を生業としてきたことが示されるとしている。
言語学的な違いと同様に、北方ヴラフ(ルーマニア人)と南方ヴラフ(アルーマニア人)の文化的な分化は10世紀ごろに起こっており、それ以降は独自の発展を遂げている。ルーマニアの文化はスラヴ人やハンガリー人など周辺民族の影響を受けながら今日まで発展してきた。19世紀には西ヨーロッパとのつながりが生まれ、フランスとの文化的結びつきが始まった。アルーマニア人の文化ははじめは羊飼いのものとして発展し、後にビザンティンやギリシャの文化の影響を強く受けている。
宗教[編集]
ヴラフ人の多くが正教会に属しているが、一部にはカトリック教会やプロテスタント(主としてトランシルヴァニア)に属し、更に少数のムスリム(ギリシャに在住していたおよそメグレノ=ルーマニア人で、イスラム教に改宗し、1923年のローザンヌ条約によってトルコに移った者たちの子孫が500人ほどトルコに暮らしている)もいる。イストロ=ルーマニア人は全てローマ・カトリック教徒である。
歴史[編集]
バルカンのロマンス語住民に関する東ローマ帝国の最古の記録は、プロコピオスによる5世紀の文献に見られる。この中で、彼らの住む拠点として「Skeptekasas」(7つの家)、「Burgulatu」(広い町)、Loupofantana(オオカミの井戸)、「Gemellomountes」(双子の山)の5つが記されている。ビザンティンの586年の年代記には、東バルカンでのアヴァール人に対する攻撃が述べられ、ヴラフ人に関する最古の文献上の記述とも考えられる。これによると、ラバによって荷物を運んでいる最中に荷物が滑り落ちたとき、御者は「Torna, torna, fratre!」(戻れ、戻れよ兄弟!)と叫んだと記されている。しかし、これは末期のラテン語(俗ラテン語)であったとも考えられる。
コンスタンティノポリス郊外のブラケルナエ(Blachernae)は、スキタイの大公ブラケルノス(Blachernos)から名づけられた。この名前はBlachs(ヴラフ)と関連がある可能性もある。
10世紀、マジャル人がパンノニア平原に到達した。彼らの王ベーラ3世の家臣によって記された「ゲスタ・フンガロルム」(Gesta Hungarorum)によると、平原にはスラヴ人、ブルガール人、そしてブラフ人あるいは「pastores Romanorum」(ローマ人の羊飼い)が居住していたとしている(原文: sclauij, Bulgarij et Blachij, ac pastores romanorum)。この文献は1146年に書かれたものであり、12世紀から14世紀にかけて彼らはハンガリー王国、東ローマ帝国そしてジョチ・ウルスの支配下にあった[8]。
1185年、タルノヴォ出身のペタルとアセンの兄弟はギリシャ人の支配するビザンティン帝国に対して反乱を起こして、ツァール・ペタル2世を名乗り、復興されたブルガリア帝国の君主であると宣言した。翌年、ビザンティンはブルガリアの独立を認めさせられ、第二次ブルガリア帝国が成立した。ペタルは「ブルガリア人、ギリシャ人、およびヴラフ人のツァール」を名乗った(ヴラフ人・ブルガリア人反乱も参照)が、13世紀にはその称号から「ヴラフ人」の名前は失われた。
ワラキア
ワラキア(英語:Wallachia、ルーマニア語:Valahia、ハンガリー語:Havasalföld )は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史 2.1 古代
2.2 公国の誕生
2.3 1400年-1600年 2.3.1 ミルチャ1世からラドゥ大公の時代
2.3.2 ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで
2.4 17世紀
2.5 露土戦争とファナリオティス時代
2.6 ワラキアからルーマニアへ 2.6.1 19世紀初頭
2.6.2 1840年代から1850年代
3 関連項目
4 脚注
5 参照
地理[編集]
ワラキアという地名は「ヴラフ人の国」という意味でルーマニア国外では慣用的に使われている呼称である。ルーマニア語には同義のヴァラヒア(Valahia)という呼び名もあるが、ルーマニア国内では「ローマ人の国」を意味するツァラ・ロムネヤスカ(Ţara Românească)のほうがより一般的である。
ワラキアはドナウ川の北、南カルパチア山脈の南に位置する。オルト川で東西を分け、東部をムンテニア、西部をオルテニアと呼ぶ。モルダヴィアとの境は、伝統的にミルコヴ川(en:Milcov River)となってきた。ドナウ川河口の南北を領するのはドブルジャである。
首都とされた都市は時代と共に移り変わり、クムプルング(en:Câmpulung)からクルテア・デ・アルジェシュ(en:Curtea de Argeş)、トゥルゴヴィシュテ(en:Târgovişte)、そして16世紀後半からブカレストが首都となった。
歴史[編集]
古代[編集]
ローマ時代の属州ダキア。紫色部分
第二次ダキア戦争(紀元105年頃)の際、オルテニア西部が属州モエシアに含まれていたダキアの一部とともに、属州ダキアの一部となった。ローマの国境線がオルト川沿いに建設された(119年)。2世紀中に国境線は東へ伸び、ドナウ川からカルパチア山脈にあるルカル(en:Rucăr)へ拡張した。国境線は245年にオルト川まで退却し、271年にローマ人らはこの地域から撤退した(短期間のローマ支配で、ローマ文化とキリスト教が伝播した)。
ゴート族やサルマタイ人など遊牧民族がもたらしたムレシュ=チェルナエホフ文化(en:Chernyakhov culture)の存在が現在のルーマニア全土に広まっていた頃と同時に、民族移動時代にローマ化された。328年、ローマ人がチェレイとオエスクス(現在のブルガリア・プレヴェン州)の間に橋を架けた。ドナウ川北方の人々との交易があったことを暗示するものである(コンスタンティヌス1世時代に短期間ワラキアが支配されていたことは立証されている)。332年、ゴート族がドナウ川南部のローマ帝国領を攻撃し、彼らはドナウ川北岸、のちに南岸に定住した。ゴート族支配は、アッティラ率いるフン族がパンノニア平原へ到着した時に終焉を迎え、ドナウ両岸にあったゴート族の定住地は攻撃され破壊された。
東ローマ帝国の影響が5世紀から6世紀にかけてあったことは明かである。しかし6世紀半ばから7世紀にかけてスラヴ人がワラキアへ移動し始め、定住した。彼らは東ローマ領のドナウ南岸を占領した。593年、東ローマの将軍プリスクスはスラヴ人、アヴァール人、ゲピド人を打ち負かした。602年、スラヴ人は手ひどい敗退を喫した。マウリキウス帝は帝国軍にドナウ北岸へ展開するよう命じ、軍の強固な反対に直面した。
681年に成立した第一次ブルガリア帝国にワラキアは支配され、10世紀後半にマジャル人がトランシルヴァニアを征服するまで続いた。ブルガリア帝国が衰え東ローマ帝国へ従属するようになると、10世紀から11世紀にかけ勢力を拡大してきたトルコ系のペチェネグ族がワラキアを支配下においた。1091年頃に南ロシアのクマン人がペチェネグ族を敗退させ、モルダヴィアとワラキアの領土を手中に入れた。10世紀初頭、東ローマ、ブルガリア、ハンガリー、のちに西欧の記録はルーマニア人(ヴラフ)の小さな政治形態が、最初はトランシルヴァニアで、12世紀・13世紀にはトランシルヴァニア東部やカルパチア山脈南部で、クニャズ(en:Knyaz、公)やヴォイヴォド(en:Voivode、総督や知事)に率いられて乱立していたことを示している。
1241年、モンゴル人のヨーロッパ侵攻でクマン人支配は終焉を迎えた。ワラキアはモンゴルの直接支配を受けたとされるが証明されていない。ワラキアの領有については、ハンガリー王国とブルガリア人の間でおそらく議論された。しかし、モンゴル侵攻を受けたハンガリー王国の過酷なまでの弱体化は、ワラキアにおいて新しく強固な勢力が確立するのに貢献することになった。
公国の誕生[編集]
ポサダの戦い。14世紀ハンガリーの年代記クロニコン・ピクトゥムより
ワラキアのヴォイヴォドについて初めて記述がなされた断片には、カルパチア山脈の両側の土地を支配していた(ファガラシュを含む)ワラキア公リトヴォイとのつながりが登場する(1271年)。彼はハンガリー王ラースロー4世へ朝貢することを拒んだという。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(en:Bărbat、在位1285年-1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年-1319年)でハンガリー国家の弱体化は続き、アールパード王家が衰退したことでワラキア政治形態の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。
ワラキアの建国は、言い伝えによれば伝説のワラキア公ラドゥ・ネグル(en:Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、オルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世と歴史的につながる。バサラブ1世はバサラブ家初代の公として、クンプルングに宮廷をかまえた。彼はファガラシュ、アムラシュ(en:Amlaş)、セヴェリンの領土をハンガリーへ渡すことを拒み、1330年のポサダの戦いでカーロイ1世軍を打ち負かした。バサラブは東へ領土を拡張し、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した[1]。彼の後継者らはこの遙か東方の領土を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人(en:Nogais)によって奪われた[2]。
バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドル(en:Nicolae Alexandru)で、ニコラエの次はヴラディスラヴ1世(Vladislav I)が継いだ。ヴラディスラヴは、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領したあとにトランシルヴァニアを攻撃した。1368年にヴラディスラヴは自身を大王として認めさせようとしたが、同じ年に再び反乱に遭った。彼の統治時代は、最初のワラキア=オスマン帝国間の対決を目の当たりにした。対トルコ戦でヴラディスラヴはブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(en:Ivan Shishman of Bulgaria)と同盟した[3]。 ワラキア公ラドゥ1世と彼の後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領域がハンガリー王国との間で争われ続けていた[4]。
バサラブ1世以降、統一されたワラキアの統治者は『公』(ルーマニア語:DomnまたはDomnitor、英語:Prince)と呼ばれるが、一つの家系が世襲する国家ではなかったことが特色である。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(en:Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領土から賦役と十分の一税を取り立てる封建領主であった。彼らは同じボイェリの中から、自分たちを代表する人物を公に選ぶ選挙制をとっていた。そのため、公は終身制と決まっているわけではなく、2、3年で交替したり、同じ人物が2度・3度公位につくことがあった。
1400年-1600年[編集]
ミルチャ1世からラドゥ大公の時代[編集]
ワラキアの県を表した地図。1390年頃[5]
バルカン半島全体が、出現したオスマン帝国の必須部分となることで(1453年にスルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルの陥落を終結させた過程)、ワラキアはトルコとの常習的な対決で時を費やされるようになった。ミルチャ1世(ミルチャ老公、en:Mircea the Elder、在位1386-1395年、1397-1418年)時代末期にはワラキアはオスマン帝国の属国となった。
ミルチャ1世は初め数度の戦い(1394年のロヴィネの戦いを含む)でトルコを敗退させ、敵をドブルジャから駆逐して自身の支配を広げた。彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントとポーランド・ヤギェウォ朝との間の同盟に考えが定まらなかった(どちらの国ともニコポリスの戦いで同盟した)[6]。1415年、メフメト1世がトゥルヌ・マグレレとジュルジュを支配下においた後、ミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れた。この2つの港は短期間の中断があったものの、1829年まで軍直轄地としてトルコの支配下におかれた。1418年から1420年、ミハイル1世(Mihail I)がセヴェリンでトルコを負かしたが、彼がトルコの攻撃で殺されただけだった。1422年、対トルコ危機はわずかな間ワラキアから目をそらした。ダン2世(Dan II)が、ハンガリー軍人ピッポ・スパノ(en:Pipo of Ozora)の助けを得てムラト2世軍を打ち負かしたのである[7]。
1493年のニュルンベルク年代記に描かれたワラキア
ワラキア内部の危機の時期である1428年に和平が結ばれた。ダン2世はラドゥ・プラスナグラヴァ(のちのラドゥ2世)から自身を防衛しなければならなかった。ラドゥは、既定のワラキア公に対抗して、ボイェリ連合と手を結び初めて登場した人物だった(当時、ボイェリらはトルコによる抑圧に応じて公然と親トルコとなっていた)[8] 。1431年にボイェリ側は勝利を納め(ボイェリが後押しをしたアレクサンドル1世アルデアがワラキア公となった)、アルデアはおよそ5年間公位にあった。ボイェリらは後継をアルデアの異母弟ヴラド2世(Vrad II)とすることの取引を行った。ヴラド2世は、多くのボイェリらが親トルコでもやはりトルコの大宰相府と神聖ローマ帝国の間で妥協をしようとしていた [9]。しかし1444年のヴァルナの戦いでスルタン・ムラト2世軍にキリスト教国連合軍が大敗した後、ヴラド2世はトルコに従属する他なくなり、ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュと敵対するようになる。
その後の10年間は、2つの対抗する貴族ダネシュティ家(en:House of Dăneşti)と、ハンガリー王国摂政となったフニャディ・ヤーノシュの影響下にあるドラクレシュティ家(en:House of Drăculeşti)との対立が目立った。ワラキア公ヴラディスラヴ2世の中立的支配の後、ヴラド2世の次男ヴラド3世が継承した[10]。ヴラド3世時代に、ブカレストはワラキア公の居住地として初めて歴史上に名を現した。ヴラド3世は反抗的なボイェリたちに恐れを抱かせ、ボイェリとオスマン帝国との全てのつながりを断ち切った。彼はトゥルゴヴィシュテへ退却を強いられる前の1462年、夜襲(en:The Night Attack)の最中にメフメト2世軍の攻撃で打ち負かされ、以前よりさらに増やされた朝貢支払いを飲まされた[11] 。ワラキア公を僭称する実弟ラドゥ美男公やライオタ・バサラブとの対立が対トルコ戦と平行して続き、ハンガリー王マーチャーシュ1世軍のワラキア侵攻、モルダヴィア公シュテファン3世(シュテファン大公)のワラキア占領といった事態を招いた[12]。1495年にワラキア公となったラドゥ・チェル・マーレ(ラドゥ大公)はボイェリらといくつかの妥協をし、彼はモルダヴィア公ボグダン3世との衝突があったものの、国内の安定した時代を守った[13]。
ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで[編集]
15世紀後半、強力なボイェリであるクラヨヴェシュティ家の昇進が見られるようになり、オルテニアのバン(総督)として事実上の独立した支配者となった。クラヨヴェシュティ家はワラキア公ミフネア・チェル・ラウ(ミフネア悪行公、ヴラド3世の子)と対立関係にあるオスマン帝国を支援しようと活躍し、ミフネアに替えてヴラドゥツ(Vlăduţ)を公位につけた。このヴラドゥツがバンに対して敵意を示した後、バサラブ家は正式にクラヨヴェシュティ家出身のワラキア公ネアゴエ・バサラブの台頭で断絶した[14]。ネアゴエ公の治めた平和な時代(1512年-1521年)は、文化的見解から知られている(クルテア・デ・アルジェシュ聖堂の建設、ルネサンスの影響など)。また、ブラショフとシビウにおけるトランシルヴァニア・サクソン人商人の影響が強くなった様子が見られた。そしてワラキアはハンガリー王ラヨシュ2世と同盟関係にあった[15]。ネアゴエの子テオドシエがワラキア公となってから、国は再び4ヶ月間にわたるオスマン帝国の支配をうけ、ワラキアにおけるパシャルク(パシャ領)創設を企むようにみえる軍政が敷かれた[16]。この危機が、ワラキア公ラドゥ・デ・ラ・アフマツィ(Radu de la Afumaţi)を支援すべく全てのボイェリを結集させた(彼は1522年から1529年にかけ、4度ワラキア公になっている)。ラドゥはクラヨヴェシュティ家とスレイマン1世との合意の後、戦いに負けた。ラドゥ公はすぐにスレイマンの地位と宗主権を認証し、以前より高額の朝貢を支払うことを承諾した[17] 。
16世紀後半のワラキア(緑色の部分)
オスマン帝国の宗主権はそれから90年間を通じて事実上変わることなく残った。1545年にスレイマンによって位を追われたワラキア公ラドゥ・パイシエは、同年にオスマン施政に対しブライラ港を譲渡した。彼の後継ミルチャ・チョバヌル(en:Mircea Ciobanul、在位1558年-1559年)は貴族の相続財産を何も要求することなしに、彼は自分が公位にあることにつけ込み、必然的に自治権の低下を受け入れた(徴税は増え、トランシルヴァニアでの軍事干渉のため持ち出された。親トルコのハンガリー王位請求者サポヤイ・ヤーノシュを支援するためである)[18]。ボイェリの一族らの間の対立がパトラシュク・チェル・ブン(Pătraşcu cel Bun)公時代以後緊迫し、ボイェリが支配者以上に優勢であることはペトル・チェル・トゥナル(Petru cel Tânăr)公、ミフネア・トゥルチトゥル、ペトル・チェルチェル時代に明白となった[19]。ボイェリたちは、西欧の貴族のような称号を持っていなくとも、財産にものを言わせて官職を買うことは可能であったし、そのうえイスタンブルのスルタンや大宰相に献金をすれば公という最高位も買えた。また、オスマン帝国の方も、古くからあるボイェリによるワラキア公選挙制を残しつつも、帝国の推す人物が有利になるよう買収を行うことは珍しくなかった。同時代のオスマン帝国領ハンガリーやバルカン諸民族と違い、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの3公国が帝国に占領されず、パシャ領にもならなかったのは事実である。しかし、帝国は上記の3公国を属国とみなしていたのである。
オスマン帝国はますます、オスマン帝国軍の維持と供給のため、ワラキアとモルダヴィアの援助をあてにしていった。しかし、地元ワラキアの軍は強いられる負担の増加や、まして明白な傭兵軍の実力にすぐに幻滅してしまった[20]。
17世紀[編集]
1595年、ジュルジュでのミハイ勇敢公とトルコの戦闘
オスマン帝国の支援から最初に利益を得たのは、1593年にワラキア公位についたミハイ勇敢公(en:Michael the Brave)であった。彼はトランシルヴァニア公バートリ・ジグモンドとモルダヴィア公アロン・ヴォダ(Aron Vodă)と同盟を結んだ上、ドナウの南北岸でムラト3世軍を攻撃した(カルガレニの戦い)。彼はすぐに神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宗主権のもとに下り、1599年から1600年にはトランシルヴァニアにおいて、ミハイの権力下にあった地方を所有する、ポーランド・リトアニア共和国時代のポーランド王ジグムント3世に対抗し干渉した。ミハイの事実上の支配は、翌年になってモルダヴィアへ拡大した [21]。ミハイの没落につれて、ワラキアはシミオン・モヴィラ率いるポーランド=モルダヴィア連合軍に占領された。1602年まで占領は続き、同じ年にはトルコ系のノガイ人による攻撃で被害を受けた[22]。
オスマン帝国の拡大における最終局面が、ワラキアに増大する緊張をもたらした。オスマン帝国の経済的盟主権よって政治支配が伴われ、首都であったトゥルゴヴィシュテが見捨てられブカレストが選ばれた(ブカレストはオスマン帝国との国境に近く、貿易中心地として急速に成長していた)。ミハイ勇敢公治下での農奴制の確立は荘園での収入増加を示し、下級ボイェリらの重要性は薄れた(家系断絶を恐れた下級ボイェリらは1655年にセイメニの乱を起こした)[23] 。その上、土地所有者であるボイェリの前に高位官職に任命される重要性が芽生えたことから、金で官位を買うべくギリシャ人とレバント人にすりより、これら一族の流入をもたらすことになった(ファナリオティスを参照。ギリシャ人らはワラキア人と同じ正教会信徒であり、金融業を営んでいたため富裕であった)。この過程は既に17世紀初頭のラドゥ・ミフネア公時代に地元ボイェリによって不快に思われていた [24] 。ボイェリの被任命者マテイ・バサラブは、1653年のフィンタの戦い(モルダヴィア公ヴァシレ・ルプを打ち負かした)を除けば、ワラキア公として比較的長い平和な時代をもたらした(1632年-1654年)。戦いの後にルプが公位を追われ、マテイ公の息のかかったゲオルゲ・シュテファンがヤシでモルダヴィア公位についた。ゲオルゲ・シュテファン公と、マタイの後継であるコンスタンティン・シェルバンの密接な同盟関係は、トランシルヴァニアの支配者ラーコーツィー・ジョルジ2世によって維持された。しかし、トルコ支配から独立するための3公国の計画は、1658年から1659年にかけ襲ったメフメト4世軍に打ち破られた[25]。スルタンのお気に入りであったグリゴレ1世ギカとゲオルゲ・ギカの時代、そのような反抗を妨げようとする試みが表された。しかし、反抗は、ボイェリであるバレアヌ家(Băleanu)とカンタクジノ家(ギリシャ人に始まるファナリオティスの家柄)との間の血なまぐさい衝突であった。この抗争は1680年代までワラキア史を特徴づけた[26]。カンタクジノ家は、同盟を結んでいたバレアヌ家とギカ家に脅かされ、アントニエ・ヴォダやゲオルゲ・ドゥカといったカンタクジノ家が選んだワラキア公の背後に回って支援し[27]、後には同族からワラキア公を出した。1678年から10年間ワラキア公であったシェルバン・カンタクジノである。彼はブカレストに公国初の学校を創立させ、各種の活字印刷機の導入に同意した。彼はルーマニア・キリル文字で書かれたルーマニア語訳聖書(通称カンタクジノ聖書)の編纂も命じていた。この聖書はその後長きに渡ってルーマニア正教会で用いられた。
露土戦争とファナリオティス時代[編集]
1699年のバルカン半島の地図。オスマン帝国領・及び属国はピンク色の地域
ワラキアは1690年前後の大トルコ戦争の終盤、ハプスブルク帝国(オーストリア)へ侵入するための標的となっていった。当時、ワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌは秘密裡にそして失敗に終わったものの、反オスマン連合と交渉していた。ブルンコヴェアヌの統治時代(1688年-1714年)は、後期ルネサンス文化が花開いたことで知られる。そして同時にロシア皇帝ピョートル1世(大帝) のもとでロシアが台頭していた。
ブルンコヴェアヌは露土戦争(1710年 - 1711年)の最中ピョートル1世に接近した。しかしスルタン・アフメト3世にロシアとの交渉を知られてしまい公位を失い、逮捕されイスタンブルへ連行された。そして3年後の1714年8月、ブルンコヴェアヌは4人の息子達と共に斬首刑に処された[28]。ブルンコヴェアヌの政略が非難されたにもかかわらず、ワラキア公シュテファン・カンタクジノも反オスマン帝国に回りハプスブルク家の計画に加わり、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍に対しワラキアを通過できるようにした。彼も公位から追われ父・叔父と共にイスタンブルへ連行され、1716年に3人とも処刑された[29]。
シュテファン・カンタクジノの廃位に伴い、オスマン帝国は速やかに、単なる形式上のワラキア公選挙制度をやめた(既に当時、スルタンの決定を超えるような国民議会の重要性は衰えていることを示していた)。ワラキア、モルダヴィア両公国の君主はイスタンブルのファナリオティスの中から任命されていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミール公以降、ニコラエ・マヴロコルダトによって始まり、ファナリオティス支配は1715年にワラキアへも導入された[30]。ボイェリと公の間の緊張関係が、免税扱いとなってきたボイェリの大多数から徴税する画期的な事態をもたらした。その結果、公国全体の税収は増加した[31]。マヴロコルダトは貨幣経済の成長を容認し、荘園制の衰退をもたらした。御前会議(en:Divan、最高会議とも)においてボイェリ集団の力が増大したのも事実である[32]。
同時に、ワラキアはオスマン帝国対ロシア、または対ハプスブルクの戦争の連続で、戦場となっていった。マヴロコルダット自身はボイェリの反乱によって公位を追われ、墺土戦争(1716年 - 1718年)の最中にハプスブルク軍によって逮捕された。戦争後のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国はオルテニアを神聖ローマ皇帝カール6世へ与えなくてはならなかった[33]。
オルテニアは啓蒙主義支配の影響を受け、すぐに地元ボイェリらが覚醒させられた。オルテニアは1739年のベオグラード条約によってワラキアへ復帰した(1737年から1739年にかけ起こったロシア・オーストリア・トルコ戦争の結果)。ワラキア公コンスタンティン・マヴロコルダトは国境における新たな変化を取り締まり、彼は1746年に農奴制の廃止を遂行した(これには、重い負担にあえぐ農民が隣国のトランシルヴァニアへ大量移住するのを止める目的があった)[34] 。この時代、マヴロコルダトの命令で国庫と彼の私的な国庫とが一つに併合するのと平行して、合図するように、オルテニアのバンは住居をクラヨーヴァからブカレストへ移した。これが中央集権政権へと向かう流れとなった[35]。
ブカレストに到着したフリードリヒ・ヨジアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト軍。1789年
露土戦争(1768年-1774年)最中の1768年, ワラキアはロシアによる最初の占領下にあった(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国軍の士官であった反トルコの首領、プルヴ・カンタクジノの反乱によってロシアは占領するのに有利であった)[36]。1774年のキュチュク・カイナルジ条約は、オスマン帝国属国内に住む正教会信徒の保護をロシアに委ねたため、オスマン帝国による抑圧が削減され、ロシアの介入を許すことになった。この条約には義務となってきたトルコへの朝貢の減額も含まれていた[37]。同時にトルコは、南ブーフ川とドニエプル川に挟まれた地域をロシアへ割譲したため、初めてロシア領土が黒海沿岸に達した。当時、比較的国内は安定しており、開かれたワラキアはさらにロシアの干渉を受けるようになった[38]。
露土戦争(1787年-1792年)の最中、フリードリヒ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるハプスブルク軍がワラキアへ入国し、1789年にワラキア公ニコラエ・マヴロゲニを退位させた[39]。この危機に、オスマン帝国の影響が復活した。オルテニアはオスマン・パズヴァントグルの遠征により荒らされた。パズヴァントグルは強力で反逆的なパシャで、ワラキア公コンスタンティン・ハンゲルリが起こした反乱に実際に加わっていた(ハンゲルリは反逆罪の容疑で1799年に処刑された)[40]。1806年、露土戦争(1806年-1812年)は在ブカレストのワラキア公コンスタンティン・イプシランティの御前会議の決定によって部分的に扇動されていた。ナポレオン戦争と波長が重なり、フランス第一帝政によって誘発されていたのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約の効果がみてとれる(ワラキア及びモルダヴィアで構成されるドナウ公国ではロシアの政治的影響力に対して許容的な姿勢がみられた)。この戦争で、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍率いるロシア軍に占領された[41]。
1793年から1812年のワラキア公国。緑色の部分
1812年のブカレスト和平条約以後、ヨアン・カラドジャ公時代はペスト大流行(en:Caradja's plague)のため記憶されているとはいえ、文化・工業の投機事業において知られている[42]。この時代のワラキアは、ヨーロッパ諸国の多くがロシア帝国の拡大を監視するうえで関心を持つ、戦略上の要地となっていた。ブカレスト和平条約でロシアは正式にベッサラビアを併合し、モルダヴィア公国と近接するようになったためである。領事館がブカレストで開設され、スディツィ商人(オーストリア、ロシア、フランスに保護されたワラキア商人に対する名称)に対し恩恵を与え保護することを通し、遠回しに、しかしワラキア経済の主な効果を担っていた。スディツィはすぐに地元ギルドに対して成功して競い合うようになった[43]。
ワラキアからルーマニアへ[編集]
19世紀初頭[編集]
1821年、ワラキア公アレクサンドル・スツの死は、ギリシャ独立戦争の勃発と同時期であった。スツはボイェリの摂政体制を確立し、スカルラト・カリマキ(Scarlat Callimachi)がブカレストで公位につくべくやってくるのを防ごうとした。平行して起きた1821年のワラキア蜂起は、トゥドル・ウラジミレスクが首領として引き起こした。彼はギリシャ系による支配を転覆させるのを狙っていた[44]。しかし彼はフィリキ・エテリアに属するギリシャ人革命家と譲歩し、摂政らと同盟した[45]。その一方で、ロシアの支援を求めていた[46] 。
1821年3月21日、ウラジミレスクはブカレストへ入った。その後数週間で、特にウラジミレスクがオスマン軍に対抗する準備をしながらもオスマン帝国と合意を得てから、彼と同盟者の間の関係は悪化した[47]。フィリキ・エテリアの指導者アレクサンドル・イプシランチはモルダヴィアで蜂起した。その後5月、ワラキア北部でイプシランチはウラジミレスクを捕らえ、彼を処刑した。このために、ウラジミレスク側についていたパンドゥル(民兵組織)やロシア帝国の後ろ盾なしに、侵攻してきたスルタンの軍と直面することとなった。イプシランチ軍はブカレストとドラガシャニで大敗を喫した(彼はオーストリア帝国へ逃亡し、トランシルヴァニアで監禁されることになる)[48]。これらの反乱ではファナリオティスの大多数がイプシランチ率いるフィリキ・エテリアを支持したとみられたことから、スルタン・マフムト2世はトルコ支配下の公国を制定した(この公国はヨーロッパ諸国の要請で追い立てられる)[49] 。また、ファナリオティス支配の終わりが是認された。ワラキアでは、1715年以降初となるワラキア出身の公グリゴレ4世ギカが即位した。新たな体制が国家として実在するワラキアの残余で確立したにもかかわらず、ギカの支配は不意に圧倒的な露土戦争(1828年-1829年)によって断ち切られた[50]。
1837年、ワラキアでの立法議会
1829年のアドリアノープル条約で、オスマン帝国の宗主権が打倒されることなしに、ワラキアとモルダヴィアはロシア軍政下におかれ、2カ国には組織規定と初の憲法の外観が与えられた。オスマン帝国は、それまでの軍直轄地ブライラ、ジュルジュ(この2都市はすぐにドナウ川沿いの主要通商都市へと発展していく)、トゥルヌ・マグレレをワラキアへ返還した [51]。条約は、農民の状況を改善させるのと同様、相当量の経済と都市発展を知らしめる、オスマン帝国以外の国との自由貿易をワラキアとモルダヴィアに許可した[52]。条項の多くは、1826年のロシア=トルコ間のアッケルマン条約によって明記された(3年のへだたりをおいて十分に履行されることはなかった)[53]。2つの公国の監督責務はロシアの将軍パーヴェル・キセリョフに残された。この時代は主要な変化の連続で特徴づけられる。ワラキア軍の再設立(1831年)、改正税法(それでもなお特権のための免税措置が確立していた)、ブカレストや他都市における主要な都市施策である[54]。1834年、ワラキアの公位はアレクサンドル2世ギカが得た。アドリアノープル条約とは反対の流れで、彼は新しい立法議会によって選ばれていなかった。彼は1842年に宗主国(ロシアとオスマン帝国)から地位を追われ、議会が認定した公、ゲオルゲ・ビベスクに取って代わられた[55]。
1840年代から1850年代[編集]
1848年革命の活動家が、初期のルーマニア国旗を掲げる図
アレクサンドル2世ギカの専横と保守主義支配に対して反対する、自由主義の台頭と急進主義がともに流行したことは、イオン・クムピネアヌ(Ion Câmpineanu)による抗議の声を伴わって初めて世の中に伝わった(瞬く間に弾圧された)[56]。そのためにますます政府打倒の陰謀が増え、陰謀を企む秘密結社がニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitică Filipescu)といった若い士官らによって結成されていた[57]。
1843年に結成された秘密結社フラツィア(Frăţia、ルーマニア語で友愛)は、ゲオルゲ・ビベスク政権を倒す革命、1848年には組織規定(Regulamentul Organic)を無効にすることを計画し始めた(ヨーロッパ諸国で起きた1848年革命に触発されていた)。彼らの全ワラキア・クーデターは、観衆が6月9日(新暦では6月21日)のイスラズ宣言(en:Islaz Proclamation)に喝采をおくったトゥルヌ・マグレレ近郊で最初成功しただけであった。宣言には、外国による保護制廃止、完全独立、農地解放、そして国民防衛隊の創設が盛り込まれていた[58]。6月11日から12日、運動はビベスク公を退位させることに成功し、臨時政府が設立された。革命の反ロシア目的に対し共感を得たけれども、オスマン帝国は革命運動を押さえつけるロシアによって圧力をかけられた。トルコ軍は9月13日、ブカレストへ入った[59]。ロシアとトルコの軍は、1851年まで占領を続けた。退位したビベスク公の次にワラキア公となったのは、ロシア皇帝とスルタンから指名されたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命関係者の多くが国外へ亡命した。
クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854年-1856年)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられた。条約には、オスマン帝国による宗主権をヨーロッパ列強(イギリス、フランス第二帝政、サルデーニャ王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の保障付きで認めること、列強の会議、カイマカム(en:kaymakam、トルコの地方長官職)主導の内政管理などが盛り込まれていた。ドナウ公国合同のために持ち上がった運動(最初1848年に要求する声が上がった。亡命した革命家の帰還によって大義が固められた)は、フランス帝国とサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護した。しかし、それは否決されるかその他の保護国によって不審に思われていた[60]。
1857年のワラキアでのディヴァン
激しい運動の後、正式なモルドヴィア=ワラキア合同公国が最終的に受諾された。協定によってそれぞれの公国は、現地出身の公と議会と選挙制議会を持つものの、2公国共通の司法裁判所を持つことになった。ボイェリの特権はこの時に廃止された。それにもかかわらず、1858年の公選挙は合法的な曖昧さから利益を得るものであった(最終合意の原文には2公国の公位を明文化していた。しかし同時に一人の人物に味方することや、一人の人物がブカレストのワラキア議会と、ヤシのモルダヴィア議会での選挙で勝利することを妨げなかった)。自由主義政党パルティダ・ナツィオナラ(Partida Naţională)の合同主義者として立候補した軍人アレクサンドル・ヨアン・クザが、1月5日にモルダヴィアでモルダヴィア公に選出された。合同主義者たちによって同じ投票がされると予想されていたワラキアは、最高会議において反合同主義者が多数派となって以前とは形勢が逆転した[61]。
このような状況で、ブカレストに集まった群衆の一団が抗議した後、議員らの忠誠心に変化を与えた[62]。2月5日(旧暦では1月24日)、クザがワラキア公に選出された。従って彼はモルドヴィア=ワラキア合同公国の公(en:Domnitor)として承認された(1861年以後はルーマニア公となる)。これで事実上の合同を果たしたのだが、彼一代の統治期間が国際的に承認されたのみで、彼の後継者たちに対して効力はなかった。クザは7年に及ぶ在位の間、寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備(ナポレオン法典を模範とする)、教育制度整備を行った。これらの改革活動によってクザは保守・自由両派と対立を繰り返すようになった。クザが支持を失い1866年2月に退位させられた後、合同を維持することを第一に考えた臨時政府は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール公子(カロル1世)を新たな公に選んだ。同年7月1日に憲法が制定され(1866年7月1日憲法)、正式に国名がルーマニアとなった。カロルの即位以後、2公国の合同を変更できなくなった(普墺戦争と同時期であった。この時オーストリアは決定に反対の立場をとっていたが、干渉する立場になかった)。
サン・ステファノ条約、ベルリン会議を経て、ルーマニア王国が独立国家として正式に列強から承認されるのは、1881年のことである。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史 2.1 古代
2.2 公国の誕生
2.3 1400年-1600年 2.3.1 ミルチャ1世からラドゥ大公の時代
2.3.2 ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで
2.4 17世紀
2.5 露土戦争とファナリオティス時代
2.6 ワラキアからルーマニアへ 2.6.1 19世紀初頭
2.6.2 1840年代から1850年代
3 関連項目
4 脚注
5 参照
地理[編集]
ワラキアという地名は「ヴラフ人の国」という意味でルーマニア国外では慣用的に使われている呼称である。ルーマニア語には同義のヴァラヒア(Valahia)という呼び名もあるが、ルーマニア国内では「ローマ人の国」を意味するツァラ・ロムネヤスカ(Ţara Românească)のほうがより一般的である。
ワラキアはドナウ川の北、南カルパチア山脈の南に位置する。オルト川で東西を分け、東部をムンテニア、西部をオルテニアと呼ぶ。モルダヴィアとの境は、伝統的にミルコヴ川(en:Milcov River)となってきた。ドナウ川河口の南北を領するのはドブルジャである。
首都とされた都市は時代と共に移り変わり、クムプルング(en:Câmpulung)からクルテア・デ・アルジェシュ(en:Curtea de Argeş)、トゥルゴヴィシュテ(en:Târgovişte)、そして16世紀後半からブカレストが首都となった。
歴史[編集]
古代[編集]
ローマ時代の属州ダキア。紫色部分
第二次ダキア戦争(紀元105年頃)の際、オルテニア西部が属州モエシアに含まれていたダキアの一部とともに、属州ダキアの一部となった。ローマの国境線がオルト川沿いに建設された(119年)。2世紀中に国境線は東へ伸び、ドナウ川からカルパチア山脈にあるルカル(en:Rucăr)へ拡張した。国境線は245年にオルト川まで退却し、271年にローマ人らはこの地域から撤退した(短期間のローマ支配で、ローマ文化とキリスト教が伝播した)。
ゴート族やサルマタイ人など遊牧民族がもたらしたムレシュ=チェルナエホフ文化(en:Chernyakhov culture)の存在が現在のルーマニア全土に広まっていた頃と同時に、民族移動時代にローマ化された。328年、ローマ人がチェレイとオエスクス(現在のブルガリア・プレヴェン州)の間に橋を架けた。ドナウ川北方の人々との交易があったことを暗示するものである(コンスタンティヌス1世時代に短期間ワラキアが支配されていたことは立証されている)。332年、ゴート族がドナウ川南部のローマ帝国領を攻撃し、彼らはドナウ川北岸、のちに南岸に定住した。ゴート族支配は、アッティラ率いるフン族がパンノニア平原へ到着した時に終焉を迎え、ドナウ両岸にあったゴート族の定住地は攻撃され破壊された。
東ローマ帝国の影響が5世紀から6世紀にかけてあったことは明かである。しかし6世紀半ばから7世紀にかけてスラヴ人がワラキアへ移動し始め、定住した。彼らは東ローマ領のドナウ南岸を占領した。593年、東ローマの将軍プリスクスはスラヴ人、アヴァール人、ゲピド人を打ち負かした。602年、スラヴ人は手ひどい敗退を喫した。マウリキウス帝は帝国軍にドナウ北岸へ展開するよう命じ、軍の強固な反対に直面した。
681年に成立した第一次ブルガリア帝国にワラキアは支配され、10世紀後半にマジャル人がトランシルヴァニアを征服するまで続いた。ブルガリア帝国が衰え東ローマ帝国へ従属するようになると、10世紀から11世紀にかけ勢力を拡大してきたトルコ系のペチェネグ族がワラキアを支配下においた。1091年頃に南ロシアのクマン人がペチェネグ族を敗退させ、モルダヴィアとワラキアの領土を手中に入れた。10世紀初頭、東ローマ、ブルガリア、ハンガリー、のちに西欧の記録はルーマニア人(ヴラフ)の小さな政治形態が、最初はトランシルヴァニアで、12世紀・13世紀にはトランシルヴァニア東部やカルパチア山脈南部で、クニャズ(en:Knyaz、公)やヴォイヴォド(en:Voivode、総督や知事)に率いられて乱立していたことを示している。
1241年、モンゴル人のヨーロッパ侵攻でクマン人支配は終焉を迎えた。ワラキアはモンゴルの直接支配を受けたとされるが証明されていない。ワラキアの領有については、ハンガリー王国とブルガリア人の間でおそらく議論された。しかし、モンゴル侵攻を受けたハンガリー王国の過酷なまでの弱体化は、ワラキアにおいて新しく強固な勢力が確立するのに貢献することになった。
公国の誕生[編集]
ポサダの戦い。14世紀ハンガリーの年代記クロニコン・ピクトゥムより
ワラキアのヴォイヴォドについて初めて記述がなされた断片には、カルパチア山脈の両側の土地を支配していた(ファガラシュを含む)ワラキア公リトヴォイとのつながりが登場する(1271年)。彼はハンガリー王ラースロー4世へ朝貢することを拒んだという。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(en:Bărbat、在位1285年-1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年-1319年)でハンガリー国家の弱体化は続き、アールパード王家が衰退したことでワラキア政治形態の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。
ワラキアの建国は、言い伝えによれば伝説のワラキア公ラドゥ・ネグル(en:Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、オルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世と歴史的につながる。バサラブ1世はバサラブ家初代の公として、クンプルングに宮廷をかまえた。彼はファガラシュ、アムラシュ(en:Amlaş)、セヴェリンの領土をハンガリーへ渡すことを拒み、1330年のポサダの戦いでカーロイ1世軍を打ち負かした。バサラブは東へ領土を拡張し、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した[1]。彼の後継者らはこの遙か東方の領土を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人(en:Nogais)によって奪われた[2]。
バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドル(en:Nicolae Alexandru)で、ニコラエの次はヴラディスラヴ1世(Vladislav I)が継いだ。ヴラディスラヴは、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領したあとにトランシルヴァニアを攻撃した。1368年にヴラディスラヴは自身を大王として認めさせようとしたが、同じ年に再び反乱に遭った。彼の統治時代は、最初のワラキア=オスマン帝国間の対決を目の当たりにした。対トルコ戦でヴラディスラヴはブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(en:Ivan Shishman of Bulgaria)と同盟した[3]。 ワラキア公ラドゥ1世と彼の後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領域がハンガリー王国との間で争われ続けていた[4]。
バサラブ1世以降、統一されたワラキアの統治者は『公』(ルーマニア語:DomnまたはDomnitor、英語:Prince)と呼ばれるが、一つの家系が世襲する国家ではなかったことが特色である。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(en:Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領土から賦役と十分の一税を取り立てる封建領主であった。彼らは同じボイェリの中から、自分たちを代表する人物を公に選ぶ選挙制をとっていた。そのため、公は終身制と決まっているわけではなく、2、3年で交替したり、同じ人物が2度・3度公位につくことがあった。
1400年-1600年[編集]
ミルチャ1世からラドゥ大公の時代[編集]
ワラキアの県を表した地図。1390年頃[5]
バルカン半島全体が、出現したオスマン帝国の必須部分となることで(1453年にスルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルの陥落を終結させた過程)、ワラキアはトルコとの常習的な対決で時を費やされるようになった。ミルチャ1世(ミルチャ老公、en:Mircea the Elder、在位1386-1395年、1397-1418年)時代末期にはワラキアはオスマン帝国の属国となった。
ミルチャ1世は初め数度の戦い(1394年のロヴィネの戦いを含む)でトルコを敗退させ、敵をドブルジャから駆逐して自身の支配を広げた。彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントとポーランド・ヤギェウォ朝との間の同盟に考えが定まらなかった(どちらの国ともニコポリスの戦いで同盟した)[6]。1415年、メフメト1世がトゥルヌ・マグレレとジュルジュを支配下においた後、ミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れた。この2つの港は短期間の中断があったものの、1829年まで軍直轄地としてトルコの支配下におかれた。1418年から1420年、ミハイル1世(Mihail I)がセヴェリンでトルコを負かしたが、彼がトルコの攻撃で殺されただけだった。1422年、対トルコ危機はわずかな間ワラキアから目をそらした。ダン2世(Dan II)が、ハンガリー軍人ピッポ・スパノ(en:Pipo of Ozora)の助けを得てムラト2世軍を打ち負かしたのである[7]。
1493年のニュルンベルク年代記に描かれたワラキア
ワラキア内部の危機の時期である1428年に和平が結ばれた。ダン2世はラドゥ・プラスナグラヴァ(のちのラドゥ2世)から自身を防衛しなければならなかった。ラドゥは、既定のワラキア公に対抗して、ボイェリ連合と手を結び初めて登場した人物だった(当時、ボイェリらはトルコによる抑圧に応じて公然と親トルコとなっていた)[8] 。1431年にボイェリ側は勝利を納め(ボイェリが後押しをしたアレクサンドル1世アルデアがワラキア公となった)、アルデアはおよそ5年間公位にあった。ボイェリらは後継をアルデアの異母弟ヴラド2世(Vrad II)とすることの取引を行った。ヴラド2世は、多くのボイェリらが親トルコでもやはりトルコの大宰相府と神聖ローマ帝国の間で妥協をしようとしていた [9]。しかし1444年のヴァルナの戦いでスルタン・ムラト2世軍にキリスト教国連合軍が大敗した後、ヴラド2世はトルコに従属する他なくなり、ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュと敵対するようになる。
その後の10年間は、2つの対抗する貴族ダネシュティ家(en:House of Dăneşti)と、ハンガリー王国摂政となったフニャディ・ヤーノシュの影響下にあるドラクレシュティ家(en:House of Drăculeşti)との対立が目立った。ワラキア公ヴラディスラヴ2世の中立的支配の後、ヴラド2世の次男ヴラド3世が継承した[10]。ヴラド3世時代に、ブカレストはワラキア公の居住地として初めて歴史上に名を現した。ヴラド3世は反抗的なボイェリたちに恐れを抱かせ、ボイェリとオスマン帝国との全てのつながりを断ち切った。彼はトゥルゴヴィシュテへ退却を強いられる前の1462年、夜襲(en:The Night Attack)の最中にメフメト2世軍の攻撃で打ち負かされ、以前よりさらに増やされた朝貢支払いを飲まされた[11] 。ワラキア公を僭称する実弟ラドゥ美男公やライオタ・バサラブとの対立が対トルコ戦と平行して続き、ハンガリー王マーチャーシュ1世軍のワラキア侵攻、モルダヴィア公シュテファン3世(シュテファン大公)のワラキア占領といった事態を招いた[12]。1495年にワラキア公となったラドゥ・チェル・マーレ(ラドゥ大公)はボイェリらといくつかの妥協をし、彼はモルダヴィア公ボグダン3世との衝突があったものの、国内の安定した時代を守った[13]。
ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで[編集]
15世紀後半、強力なボイェリであるクラヨヴェシュティ家の昇進が見られるようになり、オルテニアのバン(総督)として事実上の独立した支配者となった。クラヨヴェシュティ家はワラキア公ミフネア・チェル・ラウ(ミフネア悪行公、ヴラド3世の子)と対立関係にあるオスマン帝国を支援しようと活躍し、ミフネアに替えてヴラドゥツ(Vlăduţ)を公位につけた。このヴラドゥツがバンに対して敵意を示した後、バサラブ家は正式にクラヨヴェシュティ家出身のワラキア公ネアゴエ・バサラブの台頭で断絶した[14]。ネアゴエ公の治めた平和な時代(1512年-1521年)は、文化的見解から知られている(クルテア・デ・アルジェシュ聖堂の建設、ルネサンスの影響など)。また、ブラショフとシビウにおけるトランシルヴァニア・サクソン人商人の影響が強くなった様子が見られた。そしてワラキアはハンガリー王ラヨシュ2世と同盟関係にあった[15]。ネアゴエの子テオドシエがワラキア公となってから、国は再び4ヶ月間にわたるオスマン帝国の支配をうけ、ワラキアにおけるパシャルク(パシャ領)創設を企むようにみえる軍政が敷かれた[16]。この危機が、ワラキア公ラドゥ・デ・ラ・アフマツィ(Radu de la Afumaţi)を支援すべく全てのボイェリを結集させた(彼は1522年から1529年にかけ、4度ワラキア公になっている)。ラドゥはクラヨヴェシュティ家とスレイマン1世との合意の後、戦いに負けた。ラドゥ公はすぐにスレイマンの地位と宗主権を認証し、以前より高額の朝貢を支払うことを承諾した[17] 。
16世紀後半のワラキア(緑色の部分)
オスマン帝国の宗主権はそれから90年間を通じて事実上変わることなく残った。1545年にスレイマンによって位を追われたワラキア公ラドゥ・パイシエは、同年にオスマン施政に対しブライラ港を譲渡した。彼の後継ミルチャ・チョバヌル(en:Mircea Ciobanul、在位1558年-1559年)は貴族の相続財産を何も要求することなしに、彼は自分が公位にあることにつけ込み、必然的に自治権の低下を受け入れた(徴税は増え、トランシルヴァニアでの軍事干渉のため持ち出された。親トルコのハンガリー王位請求者サポヤイ・ヤーノシュを支援するためである)[18]。ボイェリの一族らの間の対立がパトラシュク・チェル・ブン(Pătraşcu cel Bun)公時代以後緊迫し、ボイェリが支配者以上に優勢であることはペトル・チェル・トゥナル(Petru cel Tânăr)公、ミフネア・トゥルチトゥル、ペトル・チェルチェル時代に明白となった[19]。ボイェリたちは、西欧の貴族のような称号を持っていなくとも、財産にものを言わせて官職を買うことは可能であったし、そのうえイスタンブルのスルタンや大宰相に献金をすれば公という最高位も買えた。また、オスマン帝国の方も、古くからあるボイェリによるワラキア公選挙制を残しつつも、帝国の推す人物が有利になるよう買収を行うことは珍しくなかった。同時代のオスマン帝国領ハンガリーやバルカン諸民族と違い、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの3公国が帝国に占領されず、パシャ領にもならなかったのは事実である。しかし、帝国は上記の3公国を属国とみなしていたのである。
オスマン帝国はますます、オスマン帝国軍の維持と供給のため、ワラキアとモルダヴィアの援助をあてにしていった。しかし、地元ワラキアの軍は強いられる負担の増加や、まして明白な傭兵軍の実力にすぐに幻滅してしまった[20]。
17世紀[編集]
1595年、ジュルジュでのミハイ勇敢公とトルコの戦闘
オスマン帝国の支援から最初に利益を得たのは、1593年にワラキア公位についたミハイ勇敢公(en:Michael the Brave)であった。彼はトランシルヴァニア公バートリ・ジグモンドとモルダヴィア公アロン・ヴォダ(Aron Vodă)と同盟を結んだ上、ドナウの南北岸でムラト3世軍を攻撃した(カルガレニの戦い)。彼はすぐに神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宗主権のもとに下り、1599年から1600年にはトランシルヴァニアにおいて、ミハイの権力下にあった地方を所有する、ポーランド・リトアニア共和国時代のポーランド王ジグムント3世に対抗し干渉した。ミハイの事実上の支配は、翌年になってモルダヴィアへ拡大した [21]。ミハイの没落につれて、ワラキアはシミオン・モヴィラ率いるポーランド=モルダヴィア連合軍に占領された。1602年まで占領は続き、同じ年にはトルコ系のノガイ人による攻撃で被害を受けた[22]。
オスマン帝国の拡大における最終局面が、ワラキアに増大する緊張をもたらした。オスマン帝国の経済的盟主権よって政治支配が伴われ、首都であったトゥルゴヴィシュテが見捨てられブカレストが選ばれた(ブカレストはオスマン帝国との国境に近く、貿易中心地として急速に成長していた)。ミハイ勇敢公治下での農奴制の確立は荘園での収入増加を示し、下級ボイェリらの重要性は薄れた(家系断絶を恐れた下級ボイェリらは1655年にセイメニの乱を起こした)[23] 。その上、土地所有者であるボイェリの前に高位官職に任命される重要性が芽生えたことから、金で官位を買うべくギリシャ人とレバント人にすりより、これら一族の流入をもたらすことになった(ファナリオティスを参照。ギリシャ人らはワラキア人と同じ正教会信徒であり、金融業を営んでいたため富裕であった)。この過程は既に17世紀初頭のラドゥ・ミフネア公時代に地元ボイェリによって不快に思われていた [24] 。ボイェリの被任命者マテイ・バサラブは、1653年のフィンタの戦い(モルダヴィア公ヴァシレ・ルプを打ち負かした)を除けば、ワラキア公として比較的長い平和な時代をもたらした(1632年-1654年)。戦いの後にルプが公位を追われ、マテイ公の息のかかったゲオルゲ・シュテファンがヤシでモルダヴィア公位についた。ゲオルゲ・シュテファン公と、マタイの後継であるコンスタンティン・シェルバンの密接な同盟関係は、トランシルヴァニアの支配者ラーコーツィー・ジョルジ2世によって維持された。しかし、トルコ支配から独立するための3公国の計画は、1658年から1659年にかけ襲ったメフメト4世軍に打ち破られた[25]。スルタンのお気に入りであったグリゴレ1世ギカとゲオルゲ・ギカの時代、そのような反抗を妨げようとする試みが表された。しかし、反抗は、ボイェリであるバレアヌ家(Băleanu)とカンタクジノ家(ギリシャ人に始まるファナリオティスの家柄)との間の血なまぐさい衝突であった。この抗争は1680年代までワラキア史を特徴づけた[26]。カンタクジノ家は、同盟を結んでいたバレアヌ家とギカ家に脅かされ、アントニエ・ヴォダやゲオルゲ・ドゥカといったカンタクジノ家が選んだワラキア公の背後に回って支援し[27]、後には同族からワラキア公を出した。1678年から10年間ワラキア公であったシェルバン・カンタクジノである。彼はブカレストに公国初の学校を創立させ、各種の活字印刷機の導入に同意した。彼はルーマニア・キリル文字で書かれたルーマニア語訳聖書(通称カンタクジノ聖書)の編纂も命じていた。この聖書はその後長きに渡ってルーマニア正教会で用いられた。
露土戦争とファナリオティス時代[編集]
1699年のバルカン半島の地図。オスマン帝国領・及び属国はピンク色の地域
ワラキアは1690年前後の大トルコ戦争の終盤、ハプスブルク帝国(オーストリア)へ侵入するための標的となっていった。当時、ワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌは秘密裡にそして失敗に終わったものの、反オスマン連合と交渉していた。ブルンコヴェアヌの統治時代(1688年-1714年)は、後期ルネサンス文化が花開いたことで知られる。そして同時にロシア皇帝ピョートル1世(大帝) のもとでロシアが台頭していた。
ブルンコヴェアヌは露土戦争(1710年 - 1711年)の最中ピョートル1世に接近した。しかしスルタン・アフメト3世にロシアとの交渉を知られてしまい公位を失い、逮捕されイスタンブルへ連行された。そして3年後の1714年8月、ブルンコヴェアヌは4人の息子達と共に斬首刑に処された[28]。ブルンコヴェアヌの政略が非難されたにもかかわらず、ワラキア公シュテファン・カンタクジノも反オスマン帝国に回りハプスブルク家の計画に加わり、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍に対しワラキアを通過できるようにした。彼も公位から追われ父・叔父と共にイスタンブルへ連行され、1716年に3人とも処刑された[29]。
シュテファン・カンタクジノの廃位に伴い、オスマン帝国は速やかに、単なる形式上のワラキア公選挙制度をやめた(既に当時、スルタンの決定を超えるような国民議会の重要性は衰えていることを示していた)。ワラキア、モルダヴィア両公国の君主はイスタンブルのファナリオティスの中から任命されていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミール公以降、ニコラエ・マヴロコルダトによって始まり、ファナリオティス支配は1715年にワラキアへも導入された[30]。ボイェリと公の間の緊張関係が、免税扱いとなってきたボイェリの大多数から徴税する画期的な事態をもたらした。その結果、公国全体の税収は増加した[31]。マヴロコルダトは貨幣経済の成長を容認し、荘園制の衰退をもたらした。御前会議(en:Divan、最高会議とも)においてボイェリ集団の力が増大したのも事実である[32]。
同時に、ワラキアはオスマン帝国対ロシア、または対ハプスブルクの戦争の連続で、戦場となっていった。マヴロコルダット自身はボイェリの反乱によって公位を追われ、墺土戦争(1716年 - 1718年)の最中にハプスブルク軍によって逮捕された。戦争後のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国はオルテニアを神聖ローマ皇帝カール6世へ与えなくてはならなかった[33]。
オルテニアは啓蒙主義支配の影響を受け、すぐに地元ボイェリらが覚醒させられた。オルテニアは1739年のベオグラード条約によってワラキアへ復帰した(1737年から1739年にかけ起こったロシア・オーストリア・トルコ戦争の結果)。ワラキア公コンスタンティン・マヴロコルダトは国境における新たな変化を取り締まり、彼は1746年に農奴制の廃止を遂行した(これには、重い負担にあえぐ農民が隣国のトランシルヴァニアへ大量移住するのを止める目的があった)[34] 。この時代、マヴロコルダトの命令で国庫と彼の私的な国庫とが一つに併合するのと平行して、合図するように、オルテニアのバンは住居をクラヨーヴァからブカレストへ移した。これが中央集権政権へと向かう流れとなった[35]。
ブカレストに到着したフリードリヒ・ヨジアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト軍。1789年
露土戦争(1768年-1774年)最中の1768年, ワラキアはロシアによる最初の占領下にあった(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国軍の士官であった反トルコの首領、プルヴ・カンタクジノの反乱によってロシアは占領するのに有利であった)[36]。1774年のキュチュク・カイナルジ条約は、オスマン帝国属国内に住む正教会信徒の保護をロシアに委ねたため、オスマン帝国による抑圧が削減され、ロシアの介入を許すことになった。この条約には義務となってきたトルコへの朝貢の減額も含まれていた[37]。同時にトルコは、南ブーフ川とドニエプル川に挟まれた地域をロシアへ割譲したため、初めてロシア領土が黒海沿岸に達した。当時、比較的国内は安定しており、開かれたワラキアはさらにロシアの干渉を受けるようになった[38]。
露土戦争(1787年-1792年)の最中、フリードリヒ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるハプスブルク軍がワラキアへ入国し、1789年にワラキア公ニコラエ・マヴロゲニを退位させた[39]。この危機に、オスマン帝国の影響が復活した。オルテニアはオスマン・パズヴァントグルの遠征により荒らされた。パズヴァントグルは強力で反逆的なパシャで、ワラキア公コンスタンティン・ハンゲルリが起こした反乱に実際に加わっていた(ハンゲルリは反逆罪の容疑で1799年に処刑された)[40]。1806年、露土戦争(1806年-1812年)は在ブカレストのワラキア公コンスタンティン・イプシランティの御前会議の決定によって部分的に扇動されていた。ナポレオン戦争と波長が重なり、フランス第一帝政によって誘発されていたのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約の効果がみてとれる(ワラキア及びモルダヴィアで構成されるドナウ公国ではロシアの政治的影響力に対して許容的な姿勢がみられた)。この戦争で、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍率いるロシア軍に占領された[41]。
1793年から1812年のワラキア公国。緑色の部分
1812年のブカレスト和平条約以後、ヨアン・カラドジャ公時代はペスト大流行(en:Caradja's plague)のため記憶されているとはいえ、文化・工業の投機事業において知られている[42]。この時代のワラキアは、ヨーロッパ諸国の多くがロシア帝国の拡大を監視するうえで関心を持つ、戦略上の要地となっていた。ブカレスト和平条約でロシアは正式にベッサラビアを併合し、モルダヴィア公国と近接するようになったためである。領事館がブカレストで開設され、スディツィ商人(オーストリア、ロシア、フランスに保護されたワラキア商人に対する名称)に対し恩恵を与え保護することを通し、遠回しに、しかしワラキア経済の主な効果を担っていた。スディツィはすぐに地元ギルドに対して成功して競い合うようになった[43]。
ワラキアからルーマニアへ[編集]
19世紀初頭[編集]
1821年、ワラキア公アレクサンドル・スツの死は、ギリシャ独立戦争の勃発と同時期であった。スツはボイェリの摂政体制を確立し、スカルラト・カリマキ(Scarlat Callimachi)がブカレストで公位につくべくやってくるのを防ごうとした。平行して起きた1821年のワラキア蜂起は、トゥドル・ウラジミレスクが首領として引き起こした。彼はギリシャ系による支配を転覆させるのを狙っていた[44]。しかし彼はフィリキ・エテリアに属するギリシャ人革命家と譲歩し、摂政らと同盟した[45]。その一方で、ロシアの支援を求めていた[46] 。
1821年3月21日、ウラジミレスクはブカレストへ入った。その後数週間で、特にウラジミレスクがオスマン軍に対抗する準備をしながらもオスマン帝国と合意を得てから、彼と同盟者の間の関係は悪化した[47]。フィリキ・エテリアの指導者アレクサンドル・イプシランチはモルダヴィアで蜂起した。その後5月、ワラキア北部でイプシランチはウラジミレスクを捕らえ、彼を処刑した。このために、ウラジミレスク側についていたパンドゥル(民兵組織)やロシア帝国の後ろ盾なしに、侵攻してきたスルタンの軍と直面することとなった。イプシランチ軍はブカレストとドラガシャニで大敗を喫した(彼はオーストリア帝国へ逃亡し、トランシルヴァニアで監禁されることになる)[48]。これらの反乱ではファナリオティスの大多数がイプシランチ率いるフィリキ・エテリアを支持したとみられたことから、スルタン・マフムト2世はトルコ支配下の公国を制定した(この公国はヨーロッパ諸国の要請で追い立てられる)[49] 。また、ファナリオティス支配の終わりが是認された。ワラキアでは、1715年以降初となるワラキア出身の公グリゴレ4世ギカが即位した。新たな体制が国家として実在するワラキアの残余で確立したにもかかわらず、ギカの支配は不意に圧倒的な露土戦争(1828年-1829年)によって断ち切られた[50]。
1837年、ワラキアでの立法議会
1829年のアドリアノープル条約で、オスマン帝国の宗主権が打倒されることなしに、ワラキアとモルダヴィアはロシア軍政下におかれ、2カ国には組織規定と初の憲法の外観が与えられた。オスマン帝国は、それまでの軍直轄地ブライラ、ジュルジュ(この2都市はすぐにドナウ川沿いの主要通商都市へと発展していく)、トゥルヌ・マグレレをワラキアへ返還した [51]。条約は、農民の状況を改善させるのと同様、相当量の経済と都市発展を知らしめる、オスマン帝国以外の国との自由貿易をワラキアとモルダヴィアに許可した[52]。条項の多くは、1826年のロシア=トルコ間のアッケルマン条約によって明記された(3年のへだたりをおいて十分に履行されることはなかった)[53]。2つの公国の監督責務はロシアの将軍パーヴェル・キセリョフに残された。この時代は主要な変化の連続で特徴づけられる。ワラキア軍の再設立(1831年)、改正税法(それでもなお特権のための免税措置が確立していた)、ブカレストや他都市における主要な都市施策である[54]。1834年、ワラキアの公位はアレクサンドル2世ギカが得た。アドリアノープル条約とは反対の流れで、彼は新しい立法議会によって選ばれていなかった。彼は1842年に宗主国(ロシアとオスマン帝国)から地位を追われ、議会が認定した公、ゲオルゲ・ビベスクに取って代わられた[55]。
1840年代から1850年代[編集]
1848年革命の活動家が、初期のルーマニア国旗を掲げる図
アレクサンドル2世ギカの専横と保守主義支配に対して反対する、自由主義の台頭と急進主義がともに流行したことは、イオン・クムピネアヌ(Ion Câmpineanu)による抗議の声を伴わって初めて世の中に伝わった(瞬く間に弾圧された)[56]。そのためにますます政府打倒の陰謀が増え、陰謀を企む秘密結社がニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitică Filipescu)といった若い士官らによって結成されていた[57]。
1843年に結成された秘密結社フラツィア(Frăţia、ルーマニア語で友愛)は、ゲオルゲ・ビベスク政権を倒す革命、1848年には組織規定(Regulamentul Organic)を無効にすることを計画し始めた(ヨーロッパ諸国で起きた1848年革命に触発されていた)。彼らの全ワラキア・クーデターは、観衆が6月9日(新暦では6月21日)のイスラズ宣言(en:Islaz Proclamation)に喝采をおくったトゥルヌ・マグレレ近郊で最初成功しただけであった。宣言には、外国による保護制廃止、完全独立、農地解放、そして国民防衛隊の創設が盛り込まれていた[58]。6月11日から12日、運動はビベスク公を退位させることに成功し、臨時政府が設立された。革命の反ロシア目的に対し共感を得たけれども、オスマン帝国は革命運動を押さえつけるロシアによって圧力をかけられた。トルコ軍は9月13日、ブカレストへ入った[59]。ロシアとトルコの軍は、1851年まで占領を続けた。退位したビベスク公の次にワラキア公となったのは、ロシア皇帝とスルタンから指名されたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命関係者の多くが国外へ亡命した。
クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854年-1856年)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられた。条約には、オスマン帝国による宗主権をヨーロッパ列強(イギリス、フランス第二帝政、サルデーニャ王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の保障付きで認めること、列強の会議、カイマカム(en:kaymakam、トルコの地方長官職)主導の内政管理などが盛り込まれていた。ドナウ公国合同のために持ち上がった運動(最初1848年に要求する声が上がった。亡命した革命家の帰還によって大義が固められた)は、フランス帝国とサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護した。しかし、それは否決されるかその他の保護国によって不審に思われていた[60]。
1857年のワラキアでのディヴァン
激しい運動の後、正式なモルドヴィア=ワラキア合同公国が最終的に受諾された。協定によってそれぞれの公国は、現地出身の公と議会と選挙制議会を持つものの、2公国共通の司法裁判所を持つことになった。ボイェリの特権はこの時に廃止された。それにもかかわらず、1858年の公選挙は合法的な曖昧さから利益を得るものであった(最終合意の原文には2公国の公位を明文化していた。しかし同時に一人の人物に味方することや、一人の人物がブカレストのワラキア議会と、ヤシのモルダヴィア議会での選挙で勝利することを妨げなかった)。自由主義政党パルティダ・ナツィオナラ(Partida Naţională)の合同主義者として立候補した軍人アレクサンドル・ヨアン・クザが、1月5日にモルダヴィアでモルダヴィア公に選出された。合同主義者たちによって同じ投票がされると予想されていたワラキアは、最高会議において反合同主義者が多数派となって以前とは形勢が逆転した[61]。
このような状況で、ブカレストに集まった群衆の一団が抗議した後、議員らの忠誠心に変化を与えた[62]。2月5日(旧暦では1月24日)、クザがワラキア公に選出された。従って彼はモルドヴィア=ワラキア合同公国の公(en:Domnitor)として承認された(1861年以後はルーマニア公となる)。これで事実上の合同を果たしたのだが、彼一代の統治期間が国際的に承認されたのみで、彼の後継者たちに対して効力はなかった。クザは7年に及ぶ在位の間、寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備(ナポレオン法典を模範とする)、教育制度整備を行った。これらの改革活動によってクザは保守・自由両派と対立を繰り返すようになった。クザが支持を失い1866年2月に退位させられた後、合同を維持することを第一に考えた臨時政府は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール公子(カロル1世)を新たな公に選んだ。同年7月1日に憲法が制定され(1866年7月1日憲法)、正式に国名がルーマニアとなった。カロルの即位以後、2公国の合同を変更できなくなった(普墺戦争と同時期であった。この時オーストリアは決定に反対の立場をとっていたが、干渉する立場になかった)。
サン・ステファノ条約、ベルリン会議を経て、ルーマニア王国が独立国家として正式に列強から承認されるのは、1881年のことである。
テュルク系民族
テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurks、 トルコ語: Türk、 ロシア語: Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。
目次 [非表示]
1 呼称・表記・定義
2 歴史 2.1 狄(てき)
2.2 丁零(ていれい)
2.3 高車(こうしゃ)
2.4 突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)
2.5 突厥の滅亡後
2.6 テュルクのイスラーム化
2.7 西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化
2.8 中央アジア草原地帯、トルキスタンのテュルク化
2.9 モンゴル帝国の拡大
2.10 モンゴルの支配下
2.11 チャガタイ領のテュルク
2.12 ティムール朝
2.13 ジョチ領のテュルク
2.14 ウズベクとカザフ
2.15 3ハーン国
2.16 ロシアの征服
2.17 アナトリア半島のテュルク
2.18 テュルクの独立
3 歴史的なテュルク系民族および国家 3.1 イスラーム化後のテュルク系国家
3.2 モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家
4 現代のテュルク系諸民族 4.1 主権国家
4.2 連邦構成国・民族自治区
4.3 その他の主なテュルク系民族とその居住地
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
呼称・表記・定義[編集]
トルコ語の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代以来使われているが、この語はしばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い。
英語では、この狭義のTürk(テュルク / トルコ)と言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のTürk(テュルク / トルコ)であるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。これにならい、日本語でも狭義のTürkに「トルコ」、広義のTürkに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。
歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、ウイグル(回紇)、カルルク(葛邏禄)、バスミル(英語版)(拔悉蜜)、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[1]。
歴史[編集]
狄(てき)[編集]
春秋時代概念地図
詳細は「狄」を参照
中国史料に狄あるいは翟と記される民族が「テュルク」に関する最古の記録であると考えられている。狄は周代に中国の北方(河北地方: 山西省、河北省)に割拠する、中原的都市文化を共有しない牧民を呼んだ呼称である。殷、周の時代に、多くが戦争によって中原から北方へと追われた。狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄が居たが、周が衰えると白狄は春秋時代の衛や鄭、晋といった国々に侵入して略奪を行った。中国諸国と同盟・離反を繰り返しながら存続し、戦国時代には、白狄が中原に中山国を建てている。中山国は紀元前296年に趙の攻撃によって滅亡するが、ある者は中国人と同化し、ある者は北狄、戎狄と総称される異民族として中国の周辺で遊牧を続けた。
後世になって北狄、戎狄の語は北方遊牧民族の代名詞となり、四夷の一つとして数えられる。
丁零(ていれい)[編集]
詳細は「丁零」を参照
丁零或いは丁令と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。
高車(こうしゃ)[編集]
詳細は「高車」を参照
モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[2]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。
突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)[編集]
7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=隋、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝
詳細は「突厥」を参照
中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。そのため東ローマ帝国の史料[3]にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[4]、古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡してしまう。
詳細は「鉄勒」を参照
一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は鉄勒と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、拔悉蜜(バシュミル(英語版)、バスミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。
突厥の滅亡後[編集]
中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。
モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。その後のウイグルは甘州ウイグル王国、天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。
中央アジアではカルルク、突騎施(英語版)(テュルギシュ)、キメク、オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。
カスピ海以西ではブルガール、ハザール、ペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。
テュルクのイスラーム化[編集]
テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝、奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語、ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。
西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化[編集]
840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地、トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教、仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンやクチャもイスラーム圏となる。これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派、トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。
中央アジア草原地帯、トルキスタンのテュルク化[編集]
13世紀前半の世界。
中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝、カラキタイ、ティムール朝、シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行した。
モンゴル帝国の拡大[編集]
チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。
古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した遼(契丹)や金(女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原にはケレイト、ナイマン、メルキト、モンゴル、タタル、オングト、コンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグト、オイラト、キルギス、西のタングート(西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。
モンゴルの支配下[編集]
この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった。
チャガタイ領のテュルク[編集]
チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。やがてチャガタイ・ハン国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる。
ティムール朝[編集]
詳細は「ティムール朝」を参照
西チャガタイ・ハン国から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のターズィーク人が担っていた。こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系であるペルシア語と、テュルク系であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。
ジョチ領のテュルク[編集]
キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。15世紀になると、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シャイバーニー朝、カザフ・ハン国、シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。
ウズベクとカザフ[編集]
現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのがウズベク人とカザフ人である。これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・ハン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャーニー・ベク・ハーンとケレイ・ハーンがアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハーンのもとで再統合し、マーワラーアンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。
3ハーン国[編集]
1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マーワラーアンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はハーン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハーン国と称す。
ロシアの征服[編集]
13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位: 1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったテュルク系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた。
16世紀末になってロシア・ツァーリ国はシベリアのシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。
19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国(イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。
アナトリア半島のテュルク[編集]
1300年のアナトリアにおけるテュルク系諸勢力。
現在、最も有名なテュルク系国家であるトルコ共和国はアナトリア半島に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族であるトルコ人が住んでいる。これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語であった。
アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、トルコ革命によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立する。
テュルクの独立[編集]
ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。
1991年のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国が独立。これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある。
歴史的なテュルク系民族および国家[編集]
匈奴
フン族 テュルク的要素を持つことをうかがわせる点が多いとはいえ、歴史学上は民族的系統が必ずしも十分明らかになっているとはいえない。しかし、現在のトルコ共和国ではトルコ民族の遊牧国家と見なされている。
丁零
高車
悦般
突厥 東突厥
西突厥
鉄勒
回鶻(ウイグル) 天山ウイグル王国
甘州ウイグル王国
堅昆(契骨、黠戛斯、キルギス)
オグズ
カルルク
ブルガール人
ハザール
キプチャク(ポロヴェツ、クマン)
ペチェネグ
イスラーム化後のテュルク系国家[編集]
カラハン朝
ガズナ朝
セルジューク朝 ルーム・セルジューク朝
ホラズム・シャー朝
マムルーク朝
オスマン帝国
奴隷王朝
ハルジー朝
トゥグルク朝
サイイド朝
モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家[編集]
チャガタイ・ウルス系モグーリスタン・ハン国
西チャガタイ・ハン国
ティムール朝
ムガル帝国
ジョチ・ウルス系スーフィー朝
ブハラ・ハン国 シャイバーニー朝
ジャーン朝(アストラハン朝)
マンギト朝
ヒヴァ・ハン国 ウルゲンチのシャイバーニー朝
イナク朝
コーカンド・ハン国
シビル・ハン国
カザン・ハン国
カザフ・ハン国
アストラハン・ハン国
ノガイ・オルダ
クリミア・ハン国
フレグ・ウルス(イルハン朝)系ジャライル朝
黒羊朝(カラコユンル)
白羊朝(アクコユンル)
現代のテュルク系諸民族[編集]
主権国家[編集]
トルコ共和国 → トルコ人(5,549万人〜5,800万人/7,000万人)
アゼルバイジャン共和国 → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人〜3,300万人、イランに1,200万人〜2,010万人)
ウズベキスタン共和国 → ウズベク(2,230万人/2,830万人)
トルクメニスタン → トルクメン人(550万人/800万人)
キルギス共和国 → キルギス人(380.4万人/485.5万人)
カザフスタン共和国 → カザフ(955万人/1,600万人)
連邦構成国・民族自治区[編集]
ロシア連邦 タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)
バシコルトスタン共和国 → バシキール人(167.3万人/205.9万人)
チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)
ハカス共和国 → ハカス人(8万人)
アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)
トゥヴァ共和国 → トゥヴァ人(24.3万人/28万人)
サハ共和国 → ヤクート(44.4万人)
ウズベキスタン共和国 カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)
中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)
その他の主なテュルク系民族とその居住地[編集]
ウクライナ共和国の構成国クリミア自治共和国では、クリミア・タタール人が人口の2割を占める。
ベラルーシ、リトアニア、ポーランドには、リプカ・タタール人が居住している。14世紀末ヴィタウタス公により、他のテュルク系勢力(キプチャク、ジョチ・ウルスなど)に対抗すべく、招聘された者の子孫である。
リトアニアの西部トラカイ市には、ユダヤ教徒カライム人のコミュニティがある。リプカ・タタール人と始祖を同じくすると主張している。ユダヤ教テュルク勢力のハザールとの関係は不明。
モルドバには、テュルク系キリスト教徒のガガウズ人が居住している。
キプロスの北部では、テュルク系の住民が北キプロス・トルコ共和国を立てて独立を宣言している。
アフガニスタンには、ウズベク人など多くのテュルク系民族が住む。
イランには、北西部にアゼルバイジャンと連続する同族のアゼリー人がまとまって居住し、北東部カスピ海東南岸および南部内陸にトルクメン人が散在し、併せて人口のおよそ3割がテュルク系である。
モンゴル国には、バヤンウルギー県を中心として西部にまとまった数のカザフ人が居住する。また、北部には少数のトゥバ人が居住する。
目次 [非表示]
1 呼称・表記・定義
2 歴史 2.1 狄(てき)
2.2 丁零(ていれい)
2.3 高車(こうしゃ)
2.4 突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)
2.5 突厥の滅亡後
2.6 テュルクのイスラーム化
2.7 西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化
2.8 中央アジア草原地帯、トルキスタンのテュルク化
2.9 モンゴル帝国の拡大
2.10 モンゴルの支配下
2.11 チャガタイ領のテュルク
2.12 ティムール朝
2.13 ジョチ領のテュルク
2.14 ウズベクとカザフ
2.15 3ハーン国
2.16 ロシアの征服
2.17 アナトリア半島のテュルク
2.18 テュルクの独立
3 歴史的なテュルク系民族および国家 3.1 イスラーム化後のテュルク系国家
3.2 モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家
4 現代のテュルク系諸民族 4.1 主権国家
4.2 連邦構成国・民族自治区
4.3 その他の主なテュルク系民族とその居住地
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
呼称・表記・定義[編集]
トルコ語の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代以来使われているが、この語はしばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い。
英語では、この狭義のTürk(テュルク / トルコ)と言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のTürk(テュルク / トルコ)であるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。これにならい、日本語でも狭義のTürkに「トルコ」、広義のTürkに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。
歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、ウイグル(回紇)、カルルク(葛邏禄)、バスミル(英語版)(拔悉蜜)、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[1]。
歴史[編集]
狄(てき)[編集]
春秋時代概念地図
詳細は「狄」を参照
中国史料に狄あるいは翟と記される民族が「テュルク」に関する最古の記録であると考えられている。狄は周代に中国の北方(河北地方: 山西省、河北省)に割拠する、中原的都市文化を共有しない牧民を呼んだ呼称である。殷、周の時代に、多くが戦争によって中原から北方へと追われた。狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄が居たが、周が衰えると白狄は春秋時代の衛や鄭、晋といった国々に侵入して略奪を行った。中国諸国と同盟・離反を繰り返しながら存続し、戦国時代には、白狄が中原に中山国を建てている。中山国は紀元前296年に趙の攻撃によって滅亡するが、ある者は中国人と同化し、ある者は北狄、戎狄と総称される異民族として中国の周辺で遊牧を続けた。
後世になって北狄、戎狄の語は北方遊牧民族の代名詞となり、四夷の一つとして数えられる。
丁零(ていれい)[編集]
詳細は「丁零」を参照
丁零或いは丁令と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。
高車(こうしゃ)[編集]
詳細は「高車」を参照
モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[2]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。
突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)[編集]
7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=隋、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝
詳細は「突厥」を参照
中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。そのため東ローマ帝国の史料[3]にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[4]、古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡してしまう。
詳細は「鉄勒」を参照
一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は鉄勒と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、拔悉蜜(バシュミル(英語版)、バスミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。
突厥の滅亡後[編集]
中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。
モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。その後のウイグルは甘州ウイグル王国、天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。
中央アジアではカルルク、突騎施(英語版)(テュルギシュ)、キメク、オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。
カスピ海以西ではブルガール、ハザール、ペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。
テュルクのイスラーム化[編集]
テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝、奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語、ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。
西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化[編集]
840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地、トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教、仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンやクチャもイスラーム圏となる。これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派、トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。
中央アジア草原地帯、トルキスタンのテュルク化[編集]
13世紀前半の世界。
中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝、カラキタイ、ティムール朝、シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行した。
モンゴル帝国の拡大[編集]
チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。
古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した遼(契丹)や金(女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原にはケレイト、ナイマン、メルキト、モンゴル、タタル、オングト、コンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグト、オイラト、キルギス、西のタングート(西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。
モンゴルの支配下[編集]
この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった。
チャガタイ領のテュルク[編集]
チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。やがてチャガタイ・ハン国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる。
ティムール朝[編集]
詳細は「ティムール朝」を参照
西チャガタイ・ハン国から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のターズィーク人が担っていた。こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系であるペルシア語と、テュルク系であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。
ジョチ領のテュルク[編集]
キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。15世紀になると、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シャイバーニー朝、カザフ・ハン国、シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。
ウズベクとカザフ[編集]
現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのがウズベク人とカザフ人である。これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・ハン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャーニー・ベク・ハーンとケレイ・ハーンがアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハーンのもとで再統合し、マーワラーアンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。
3ハーン国[編集]
1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マーワラーアンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はハーン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハーン国と称す。
ロシアの征服[編集]
13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位: 1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったテュルク系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた。
16世紀末になってロシア・ツァーリ国はシベリアのシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。
19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国(イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。
アナトリア半島のテュルク[編集]
1300年のアナトリアにおけるテュルク系諸勢力。
現在、最も有名なテュルク系国家であるトルコ共和国はアナトリア半島に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族であるトルコ人が住んでいる。これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語であった。
アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、トルコ革命によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立する。
テュルクの独立[編集]
ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。
1991年のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国が独立。これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある。
歴史的なテュルク系民族および国家[編集]
匈奴
フン族 テュルク的要素を持つことをうかがわせる点が多いとはいえ、歴史学上は民族的系統が必ずしも十分明らかになっているとはいえない。しかし、現在のトルコ共和国ではトルコ民族の遊牧国家と見なされている。
丁零
高車
悦般
突厥 東突厥
西突厥
鉄勒
回鶻(ウイグル) 天山ウイグル王国
甘州ウイグル王国
堅昆(契骨、黠戛斯、キルギス)
オグズ
カルルク
ブルガール人
ハザール
キプチャク(ポロヴェツ、クマン)
ペチェネグ
イスラーム化後のテュルク系国家[編集]
カラハン朝
ガズナ朝
セルジューク朝 ルーム・セルジューク朝
ホラズム・シャー朝
マムルーク朝
オスマン帝国
奴隷王朝
ハルジー朝
トゥグルク朝
サイイド朝
モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家[編集]
チャガタイ・ウルス系モグーリスタン・ハン国
西チャガタイ・ハン国
ティムール朝
ムガル帝国
ジョチ・ウルス系スーフィー朝
ブハラ・ハン国 シャイバーニー朝
ジャーン朝(アストラハン朝)
マンギト朝
ヒヴァ・ハン国 ウルゲンチのシャイバーニー朝
イナク朝
コーカンド・ハン国
シビル・ハン国
カザン・ハン国
カザフ・ハン国
アストラハン・ハン国
ノガイ・オルダ
クリミア・ハン国
フレグ・ウルス(イルハン朝)系ジャライル朝
黒羊朝(カラコユンル)
白羊朝(アクコユンル)
現代のテュルク系諸民族[編集]
主権国家[編集]
トルコ共和国 → トルコ人(5,549万人〜5,800万人/7,000万人)
アゼルバイジャン共和国 → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人〜3,300万人、イランに1,200万人〜2,010万人)
ウズベキスタン共和国 → ウズベク(2,230万人/2,830万人)
トルクメニスタン → トルクメン人(550万人/800万人)
キルギス共和国 → キルギス人(380.4万人/485.5万人)
カザフスタン共和国 → カザフ(955万人/1,600万人)
連邦構成国・民族自治区[編集]
ロシア連邦 タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)
バシコルトスタン共和国 → バシキール人(167.3万人/205.9万人)
チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)
ハカス共和国 → ハカス人(8万人)
アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)
トゥヴァ共和国 → トゥヴァ人(24.3万人/28万人)
サハ共和国 → ヤクート(44.4万人)
ウズベキスタン共和国 カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)
中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)
その他の主なテュルク系民族とその居住地[編集]
ウクライナ共和国の構成国クリミア自治共和国では、クリミア・タタール人が人口の2割を占める。
ベラルーシ、リトアニア、ポーランドには、リプカ・タタール人が居住している。14世紀末ヴィタウタス公により、他のテュルク系勢力(キプチャク、ジョチ・ウルスなど)に対抗すべく、招聘された者の子孫である。
リトアニアの西部トラカイ市には、ユダヤ教徒カライム人のコミュニティがある。リプカ・タタール人と始祖を同じくすると主張している。ユダヤ教テュルク勢力のハザールとの関係は不明。
モルドバには、テュルク系キリスト教徒のガガウズ人が居住している。
キプロスの北部では、テュルク系の住民が北キプロス・トルコ共和国を立てて独立を宣言している。
アフガニスタンには、ウズベク人など多くのテュルク系民族が住む。
イランには、北西部にアゼルバイジャンと連続する同族のアゼリー人がまとまって居住し、北東部カスピ海東南岸および南部内陸にトルクメン人が散在し、併せて人口のおよそ3割がテュルク系である。
モンゴル国には、バヤンウルギー県を中心として西部にまとまった数のカザフ人が居住する。また、北部には少数のトゥバ人が居住する。
イリュリア人
イリュリア人(古典ギリシア語: Ἰλλυριο,ラテン語: llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。[1]イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、アドリア海からドラーヴァ川までの東西と、大モラヴァ川 (en) の東からヴィヨーセ川 (en) 河口の南までの範囲である。[2][3]
イリュリア人として、後に知られるようになった人々の歴史の始まりはおおよそ紀元前1000年頃とされている。[4]イリュリア人の起源に関しては現代の先史学者には問題が残されている。先史学者の総意では元となるインド・ヨーロッパ祖語から枝分かれしたのは鉄器時代以前と考えられている。[5]現在の説ではイリュリア人の起源はバルカン半島西部に残った太古の物質文化の残存者を基本としているとされるが、考古学的に単独でイリュリア人の民族起源の明確な答えを証明するには不十分である。[6]いつ、原イリュリア人が異なった集団になったのかも不明確である。イリュリアが古代バルカン諸語として広く表れ出したのは鉄器時代であるが、言語の詳細はいずれも知られておらず言語を理由に「イリュリア人」として分類するのは不確実で、以前はイリュリア人として分けられていた部族は現在ではその多くがウェネティとされている。[7] バルカン半島でのイリュリア人起源のモデルとして仮定されているものには、サラエヴォの考古学者であるアロイズ・ベナツ(Alojz Benać)とチョヴィチ(B. Čović)が提唱するもので、青銅器時代にアドリア海とサヴァ川の間に居住していた人々がイリュリア化された言う仮説である。この仮説はアルバニア人考古学者も南側のイリュリア人部族に関し提唱や支持をし[8]、クロアチア人歴史家アレクサンダー・スティプチェヴィッチ(Aleksandar Stipčević)はリブルニア人を除いて、土着のイリュリア人起源に関してもっとも説得力のあるものと答えている。[9]
最初のイリュリア人に関する記述は紀元前4世紀に古代ギリシャ語で書かれたペリプルスなどであった。[10]記録に残された部族かいくつかの部族が元来のイリュリア人と考えられ、共通のイリュリア人の言語であるイリュリア語で結び付いていたと仮定されている。[11]5世紀頃にイリュリア語は絶えてしまったが、その小さな断片はインド・ヨーロッパ語族系の言葉であることを十分に証明している。しかしながら、イリュリア人の名称は古代ギリシャ人たちが自分たちの北方近隣に住む人々を言及して使っていたもので、今日この人々の居住範囲や言語、文化的な均質性は不明確である。イタリアに古代住んでいたアピゲス族 (en) やダウニ族 (en) 、メッサーピ族 (en) などのいくつかの部族は地理的な「イリュリア」からイタリア半島に渡ったと考えられている。イリュリア人の部族たちは自分たちの総称として「イリュリア人」と考えておらず、それぞれ自分たちの部族名を使っていた。しかしながら、イリュリア人の名称になったのは青銅器時代に古代ギリシャ人が最初に接触した特定の部族の名称とみられるが、言語や習慣が同じような人々全てにもイリュリア人の名称が適用されたのが原因である。[12]「イリュリア人」の名称が最後に表された歴史的な記録は7世紀で、東ローマ帝国の旧州の駐屯地運営に関するものに言及されている。[13] おそらくローマ化されたヴラフ人を除いて残っていた全ての部族は中世の過程でスラヴ化されたが、現代のアルバニア語はイリュリア南部の方言から派生している可能性もある。[14][15]
関連項目[編集]
ルサチア文化 - 中欧北部の古代文化で、イリュリア人がここに由来するとの説もある。
イリュリア人として、後に知られるようになった人々の歴史の始まりはおおよそ紀元前1000年頃とされている。[4]イリュリア人の起源に関しては現代の先史学者には問題が残されている。先史学者の総意では元となるインド・ヨーロッパ祖語から枝分かれしたのは鉄器時代以前と考えられている。[5]現在の説ではイリュリア人の起源はバルカン半島西部に残った太古の物質文化の残存者を基本としているとされるが、考古学的に単独でイリュリア人の民族起源の明確な答えを証明するには不十分である。[6]いつ、原イリュリア人が異なった集団になったのかも不明確である。イリュリアが古代バルカン諸語として広く表れ出したのは鉄器時代であるが、言語の詳細はいずれも知られておらず言語を理由に「イリュリア人」として分類するのは不確実で、以前はイリュリア人として分けられていた部族は現在ではその多くがウェネティとされている。[7] バルカン半島でのイリュリア人起源のモデルとして仮定されているものには、サラエヴォの考古学者であるアロイズ・ベナツ(Alojz Benać)とチョヴィチ(B. Čović)が提唱するもので、青銅器時代にアドリア海とサヴァ川の間に居住していた人々がイリュリア化された言う仮説である。この仮説はアルバニア人考古学者も南側のイリュリア人部族に関し提唱や支持をし[8]、クロアチア人歴史家アレクサンダー・スティプチェヴィッチ(Aleksandar Stipčević)はリブルニア人を除いて、土着のイリュリア人起源に関してもっとも説得力のあるものと答えている。[9]
最初のイリュリア人に関する記述は紀元前4世紀に古代ギリシャ語で書かれたペリプルスなどであった。[10]記録に残された部族かいくつかの部族が元来のイリュリア人と考えられ、共通のイリュリア人の言語であるイリュリア語で結び付いていたと仮定されている。[11]5世紀頃にイリュリア語は絶えてしまったが、その小さな断片はインド・ヨーロッパ語族系の言葉であることを十分に証明している。しかしながら、イリュリア人の名称は古代ギリシャ人たちが自分たちの北方近隣に住む人々を言及して使っていたもので、今日この人々の居住範囲や言語、文化的な均質性は不明確である。イタリアに古代住んでいたアピゲス族 (en) やダウニ族 (en) 、メッサーピ族 (en) などのいくつかの部族は地理的な「イリュリア」からイタリア半島に渡ったと考えられている。イリュリア人の部族たちは自分たちの総称として「イリュリア人」と考えておらず、それぞれ自分たちの部族名を使っていた。しかしながら、イリュリア人の名称になったのは青銅器時代に古代ギリシャ人が最初に接触した特定の部族の名称とみられるが、言語や習慣が同じような人々全てにもイリュリア人の名称が適用されたのが原因である。[12]「イリュリア人」の名称が最後に表された歴史的な記録は7世紀で、東ローマ帝国の旧州の駐屯地運営に関するものに言及されている。[13] おそらくローマ化されたヴラフ人を除いて残っていた全ての部族は中世の過程でスラヴ化されたが、現代のアルバニア語はイリュリア南部の方言から派生している可能性もある。[14][15]
関連項目[編集]
ルサチア文化 - 中欧北部の古代文化で、イリュリア人がここに由来するとの説もある。
南スラヴ人
南スラヴ人(みなみスラヴじん)は、スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。
これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がテュルク系のブルガール人であった。
歴史[編集]
南スラヴ人の大半は今日のポーランド西部に起源を持ち、彼らは6世紀にかけて2方向でバルカン半島に移住することで西スラヴ人と分岐しはじめた。東のグループは黒海沿岸を沿って西へ進み、ワラキア地方の低地に着いたところで、まずそこで定住を始め、そこからバルカン半島の南および東方向と進んだ。西のグループは西南方向に向かって進み、カルパティア山脈を越えパンノニア平原で定住を始め、そこから西バルカンおよび東アルプス山脈方向へ進んだ。両グループのバルカン半島中央部分での交流の結果、トルラク語のような入り交じった方言が生み出された。
7世紀になり、初期のスラヴ人の入植後、3つのほかの種族がこの地域に定住してきた。これらの種族はセルビア人、クロアチア人とブルガール人で、南スラヴ諸国の形成においてそれぞれ重要な役割を果たした。セルビア人とクロアチア人は西スラヴ種族で、それぞれ白セルビア(英語版)、白クロアチア(英語版)として知られる、西ポーランドと南ポーランドからそれぞれバルカン半島に移動してきた。当時、西スラヴ方言と南スラヴ方言の違いはまたそれほど大きいものではなかったが、セルビア人とクロアチア人は南スラブ方言を導入し、彼らの種族の名前は保ち続けた。バルカン半島に定住してきたブルガール人は元々はスラヴ人ではなく、トルコ語から強い影響を受けたイラン語を話す遊牧民と信じられている。ほかの多くの非スラヴ系種族と同じように、彼らはスラヴ系と混交したが、土地や人の名前は自分達の言語で残っている。それらの連続がそれ以来スラブ人であることのアイデンティティの一つになっている。
今日ブルガリア人と呼ばれる民族の祖先ブルガール人は、7世紀に強力な第一ブルガリア帝国を築き上げ、865年に南スラヴ人として初めてキリスト教を国教として採用し、また10世紀にはキリル文字を作り上げた。長い間東ローマ帝国の強いライバルであったブルガリア帝国だったが、1018年には遂に東ローマに従属させられる。その後、1185年に反乱が起きて第二ブルガリア帝国が成立し、12世紀から13世紀にかけていくつかの小さな成功を収めた後、14世紀後期にはオスマン帝国に制圧された。
スロヴェニア人の国であるカランタニア公国(英語版)は7世紀に成立したが、8世紀にはフランク王国に併合され、その後もさまざまなゲルマン人の国々に統治された。
9世紀になりパンノニア盆地の草原地帯に東方からマジャル人とハザール人の部族連合であるハンガリー人が侵入してくると、西スラヴ人と南スラヴ人との間が政治的に分断され、以後は互いの言語的・政治的分岐がより明確となっていった。ただし14世紀になるとハンガリー王国は北方の西スラヴ人の大国ポーランド王国と友好関係を深めるようになり、ついに両者は政治同盟を結ぶまでに至るこの政治同盟は現代に復活している(ヴィシェグラード・グループ)。
クロアチアは8世紀から2つの公国から成っていたが、10世紀には一つの王国になった。12世紀初頭にはハンガリー王国と同君連合を組み独立性を失った。16世紀にハンガリー王国が独立を失うと、スロヴェニア人が住む地域はそれぞれはハプスブルク君主国、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国に統治されることになった。
西バルカンでは、いくつかのセルビア人の国が作られた―Raška、Duklja、Travunia、ZahumljeとPaganiaである。Raška(後にセルビアと知られる)は13世紀に王国となり、14世紀に帝国となったが15世紀にオスマン帝国に制圧された。Duklja(後にZeta公国、モンテネグロと知られる)は11世紀に王国となったが、これも15世紀にオスマンに制圧された。
ボスニア人は10世紀に前封建的な統一体を成し、12世紀から半独立状態を君主制になる14世紀まで享受した。15世紀にはオスマン帝国に従属させられた。
15世紀から19世紀にかけて、独立状態を保った南スラヴ人の国はドゥブロヴニク共和国及びde facto independent(事実上の独立国)モンテネグロのみであった。ドゥブロヴニク共和国は1808年にフランス帝国によって廃止され、モンテネグロの独立は1878年に正式に認められた。1817年よりオスマン帝国内で自治公国となっていたセルビアも1878年に独立が正式に認められた、同じく自治公国となっていたブルガリアは1908年にde jure independent(正当な独立国)となった。
それ以外の南スラヴ人は依然として二大帝国、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下で生活していた。だが1912年から1913年のバルカン戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦を経て、この二つの帝国は崩壊し、南スラヴ人は二つの王国にまとめられた。ブルガリア王国とセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(後にユーゴスラビア王国)である。 ユーゴスラビア王国内のブルガリア語に近い言語の話者たちは、1945年のユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴ)の成立時に民族共和国を建てる際、自らの民族呼称として地域名のマケドニアを採用した。1991年から1992年にかけて旧ユーゴ、2006年にセルビア・モンテネグロがそれぞれ解体したため、南スラブ人は現在7つの国、ブルガリア共和国、マケドニア共和国、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア共和国、スロヴェニア共和国で多数を占めている。
宗教[編集]
南スラヴ人が住む地域における宗教的、文化的な多様性は彼らの宗教観に大きな影響を及ぼしている。また、元々多神論で土着神を信じる南スラブ人は古くから伝わる儀式、 伝承を保ち、それらは多く場合彼らが後に改宗した宗教と混ざり合っている。
今日、ブルガリア人、マケドニア人、セルビア人、モンテネグロ人はおおよそ正教会のキリスト教徒で、ほとんどのスロヴェニア人、クロアチア人、ブニェヴァツ人、ショカツ人、クラショヴァ人およびバナト・ブルガリア人はローマカトリックである。ボシュニャク人、ムスリム人(10万人を越えると推測される)、ゴーラ人、トルベシュ人及びポマクがムスリムである。
これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がテュルク系のブルガール人であった。
歴史[編集]
南スラヴ人の大半は今日のポーランド西部に起源を持ち、彼らは6世紀にかけて2方向でバルカン半島に移住することで西スラヴ人と分岐しはじめた。東のグループは黒海沿岸を沿って西へ進み、ワラキア地方の低地に着いたところで、まずそこで定住を始め、そこからバルカン半島の南および東方向と進んだ。西のグループは西南方向に向かって進み、カルパティア山脈を越えパンノニア平原で定住を始め、そこから西バルカンおよび東アルプス山脈方向へ進んだ。両グループのバルカン半島中央部分での交流の結果、トルラク語のような入り交じった方言が生み出された。
7世紀になり、初期のスラヴ人の入植後、3つのほかの種族がこの地域に定住してきた。これらの種族はセルビア人、クロアチア人とブルガール人で、南スラヴ諸国の形成においてそれぞれ重要な役割を果たした。セルビア人とクロアチア人は西スラヴ種族で、それぞれ白セルビア(英語版)、白クロアチア(英語版)として知られる、西ポーランドと南ポーランドからそれぞれバルカン半島に移動してきた。当時、西スラヴ方言と南スラヴ方言の違いはまたそれほど大きいものではなかったが、セルビア人とクロアチア人は南スラブ方言を導入し、彼らの種族の名前は保ち続けた。バルカン半島に定住してきたブルガール人は元々はスラヴ人ではなく、トルコ語から強い影響を受けたイラン語を話す遊牧民と信じられている。ほかの多くの非スラヴ系種族と同じように、彼らはスラヴ系と混交したが、土地や人の名前は自分達の言語で残っている。それらの連続がそれ以来スラブ人であることのアイデンティティの一つになっている。
今日ブルガリア人と呼ばれる民族の祖先ブルガール人は、7世紀に強力な第一ブルガリア帝国を築き上げ、865年に南スラヴ人として初めてキリスト教を国教として採用し、また10世紀にはキリル文字を作り上げた。長い間東ローマ帝国の強いライバルであったブルガリア帝国だったが、1018年には遂に東ローマに従属させられる。その後、1185年に反乱が起きて第二ブルガリア帝国が成立し、12世紀から13世紀にかけていくつかの小さな成功を収めた後、14世紀後期にはオスマン帝国に制圧された。
スロヴェニア人の国であるカランタニア公国(英語版)は7世紀に成立したが、8世紀にはフランク王国に併合され、その後もさまざまなゲルマン人の国々に統治された。
9世紀になりパンノニア盆地の草原地帯に東方からマジャル人とハザール人の部族連合であるハンガリー人が侵入してくると、西スラヴ人と南スラヴ人との間が政治的に分断され、以後は互いの言語的・政治的分岐がより明確となっていった。ただし14世紀になるとハンガリー王国は北方の西スラヴ人の大国ポーランド王国と友好関係を深めるようになり、ついに両者は政治同盟を結ぶまでに至るこの政治同盟は現代に復活している(ヴィシェグラード・グループ)。
クロアチアは8世紀から2つの公国から成っていたが、10世紀には一つの王国になった。12世紀初頭にはハンガリー王国と同君連合を組み独立性を失った。16世紀にハンガリー王国が独立を失うと、スロヴェニア人が住む地域はそれぞれはハプスブルク君主国、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国に統治されることになった。
西バルカンでは、いくつかのセルビア人の国が作られた―Raška、Duklja、Travunia、ZahumljeとPaganiaである。Raška(後にセルビアと知られる)は13世紀に王国となり、14世紀に帝国となったが15世紀にオスマン帝国に制圧された。Duklja(後にZeta公国、モンテネグロと知られる)は11世紀に王国となったが、これも15世紀にオスマンに制圧された。
ボスニア人は10世紀に前封建的な統一体を成し、12世紀から半独立状態を君主制になる14世紀まで享受した。15世紀にはオスマン帝国に従属させられた。
15世紀から19世紀にかけて、独立状態を保った南スラヴ人の国はドゥブロヴニク共和国及びde facto independent(事実上の独立国)モンテネグロのみであった。ドゥブロヴニク共和国は1808年にフランス帝国によって廃止され、モンテネグロの独立は1878年に正式に認められた。1817年よりオスマン帝国内で自治公国となっていたセルビアも1878年に独立が正式に認められた、同じく自治公国となっていたブルガリアは1908年にde jure independent(正当な独立国)となった。
それ以外の南スラヴ人は依然として二大帝国、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下で生活していた。だが1912年から1913年のバルカン戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦を経て、この二つの帝国は崩壊し、南スラヴ人は二つの王国にまとめられた。ブルガリア王国とセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(後にユーゴスラビア王国)である。 ユーゴスラビア王国内のブルガリア語に近い言語の話者たちは、1945年のユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴ)の成立時に民族共和国を建てる際、自らの民族呼称として地域名のマケドニアを採用した。1991年から1992年にかけて旧ユーゴ、2006年にセルビア・モンテネグロがそれぞれ解体したため、南スラブ人は現在7つの国、ブルガリア共和国、マケドニア共和国、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア共和国、スロヴェニア共和国で多数を占めている。
宗教[編集]
南スラヴ人が住む地域における宗教的、文化的な多様性は彼らの宗教観に大きな影響を及ぼしている。また、元々多神論で土着神を信じる南スラブ人は古くから伝わる儀式、 伝承を保ち、それらは多く場合彼らが後に改宗した宗教と混ざり合っている。
今日、ブルガリア人、マケドニア人、セルビア人、モンテネグロ人はおおよそ正教会のキリスト教徒で、ほとんどのスロヴェニア人、クロアチア人、ブニェヴァツ人、ショカツ人、クラショヴァ人およびバナト・ブルガリア人はローマカトリックである。ボシュニャク人、ムスリム人(10万人を越えると推測される)、ゴーラ人、トルベシュ人及びポマクがムスリムである。
モンテネグロ人
モンテネグロ人はモンテネグロを主に構成する南スラブ人である。
目次 [非表示]
1 概要
2 由来
3 セルビアからの独立
4 関連項目
概要[編集]
モンテネグロ人がセルビア人とは別の民族であるかどうかはしばしば論争の対象になっている。モンテネグロ人は、言語・歴史、文化、宗教、起源においてセルビア人にきわめて近しい存在であるといえるが、他の南スラブ諸民族とも密接な関係を有している。
宗教的にはほとんどが正教会であり、イスラム教がそれに次ぐ。
由来[編集]
「モンテネグロの歴史」も参照
その祖先は、バルカン半島の先住民族であるイリュリア人であると考えられている。
元々南部のアルバニア人とは古代同じ民族であるとされる。 ローマ人やスラヴ人、オスマン帝国の支配下に置かれ、モンテネグロは、次第にスラヴ化して行ったとされている。
こうした事もあってか近年モンテネグロ住民は、セルビアとの連邦関係に終止符を打ち、独立へ向かう動きが強まった。
セルビアからの独立[編集]
2006年5月、モンテネグロは国民投票の結果、独立賛成派が反対派を10%上回り、独立は承認された。そして6月3日に独立宣言し、独立国家モンテネグロが成立した。
目次 [非表示]
1 概要
2 由来
3 セルビアからの独立
4 関連項目
概要[編集]
モンテネグロ人がセルビア人とは別の民族であるかどうかはしばしば論争の対象になっている。モンテネグロ人は、言語・歴史、文化、宗教、起源においてセルビア人にきわめて近しい存在であるといえるが、他の南スラブ諸民族とも密接な関係を有している。
宗教的にはほとんどが正教会であり、イスラム教がそれに次ぐ。
由来[編集]
「モンテネグロの歴史」も参照
その祖先は、バルカン半島の先住民族であるイリュリア人であると考えられている。
元々南部のアルバニア人とは古代同じ民族であるとされる。 ローマ人やスラヴ人、オスマン帝国の支配下に置かれ、モンテネグロは、次第にスラヴ化して行ったとされている。
こうした事もあってか近年モンテネグロ住民は、セルビアとの連邦関係に終止符を打ち、独立へ向かう動きが強まった。
セルビアからの独立[編集]
2006年5月、モンテネグロは国民投票の結果、独立賛成派が反対派を10%上回り、独立は承認された。そして6月3日に独立宣言し、独立国家モンテネグロが成立した。
スロベニア人
スロベニア人(-じん、スロベニア語: 複数形:Slovenci、双数形:Slovenca、単数形:Slovenec、女性複数形:Slovenke、女性双数形:Slovenki、女性単数形:Slovenke)は、南スラヴ人の1民族であり、主としてスロベニアやスロベニア語と関係が深い。
目次 [非表示]
1 人口
2 歴史 2.1 初期アルプス・スラヴ人
2.2 フランク人支配下のアルプス・スラヴ人
2.3 18世紀から第二次世界大戦まで
2.4 第二次世界大戦と終戦後
3 文献
4 民族意識
5 脚注
人口[編集]
スロベニア人の多くは独立国であるスロベニア(人口2,007,711人、2008年の推計)の域内に住んでいる。またスロベニア人は、かつてよりイタリア北東部(推計8万3千人 - 18万3千人)[17]、オーストリア南部(2万4855人)、クロアチア(1万3200人)、ハンガリー(3180人)に少数民族として暮らしている。スロベニアと国境を接するこれら4国はいずれも、スロベニア人を自国の少数民族として認めている。
2002年のスロベニアの国勢調査によると、163万1363人が自身をスロベニア人とした[18] 一方、172万3434人が母語をスロベニア語と答えた[19]。
オーストリアに住むスロベニア人の総数は2万4855人であり、うち1万7953人はオーストリア国籍のスロベニア人少数民族であり、残りの6902人は外国籍である[7]。
歴史[編集]
初期アルプス・スラヴ人[編集]
6世紀、スラヴ人がアルプス山脈からアドリア海にかけての地域に居住するようになった。彼らは2回の大移動の波にのってこの地に渡ってきており、1度目は550年ごろモラヴィアから、2度目は568年にランゴバルド人のイタリアへの退却に伴って移り住んできた。
623年から658年にかけて、エルベ川上流からカラヴァンケ山(Karavanke)にかけての一帯がサモ(Samo)王の支配の下で統一され、サモの王国と呼ばれる部族連合が形作られた。サモの死後、連合が瓦解したが、カランタニア公国(Carantania)という小さな国家が残された。これが現在のコロシュカ地方の原形である。
フランク人支配下のアルプス・スラヴ人[編集]
東から侵入したアヴァール人に圧迫され、カランタニア公国は745年にバイエルンとの連合を受け入れ、後にフランク人支配を認め、8世紀からはキリスト教の受容が始まった。最後まで独立を保っていたプリビナとその子コツェリ(Koceľ)が支配したバラトン公国(パンノニア公国)は874年に独立を失った。その後スラヴ人の居住域は、ドイツ人やマジャル人の流入によって圧迫されて縮小し、現在の位置に落ち着いたのは15世紀のことであった。
18世紀から第二次世界大戦まで[編集]
神聖ローマ帝国崩壊後のスロベニア人の居住域を管掌したのは、オーストリア帝国、フランス帝国のイリュリア州、オーストリア=ハンガリー帝国であった。
20世紀になる頃には、多くのスロベニア人が経済的理由などからアメリカ合衆国に移住した。ベスレヘムに移住した者たちはウィンディッシュ(Windish)と呼ばれるようになった。最大のスロベニア人移住者集団はオハイオ州クリーブランドやその周辺に定着した。2番目に大きい集団はシカゴ、特にロウアー・ウェスト・サイド(Lower West Side, Chicago)地域に移り住んだ。在米スロベニア人カトリック連合(英語:The American Slovenian Catholic Union、スロベニア語:Ameriško slovenska katoliška enota)は、スロベニア系アメリカ人の権利を擁護するためにクリーブランドとジョリエット(Joliet, Illinois)に設立された。その後、クラニスカ・スロベニア人カトリック連合(KSKJ)は全米各地に拠点を設け、スロベニア系アメリカ人のために生命保険やその他のサービスを提供している。自由思想家たちはシカゴの18thストリートとラシーヌ・アベニュー(Racine Ave.)の間に集まってスロベニア人民族互助会(Slovene National Benefit Society)を結成した。このほかのスロベニア人は、炭鉱や林業に従事するためにペンシルベニア州南部、オハイオ州南部、ウェストバージニア州に移った。一部のスロベニア人は鉄鉱山で働くためにピッツバーグやヤングスタウンに移住した。
第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降、スロベニア人の住む地域の大部分がスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国に参加し、ともにセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を結成し、王国は後にユーゴスラビア王国と改称された。1929年の地方行政区画の刷新に伴って新設されたドラヴァ州(Drava Banovina)において、スロベニア人は多数派を形成した。
1920年、混在地域であるケルンテン(コロシュカ)地方は、住民投票によってオーストリア領に留まることを決定した。また、スロベニア人居住地の西部は戦間期にはイタリア王国領となっていた。
スロベニア人の義勇兵はスペイン内戦や第二次エチオピア戦争にも参加している。
第二次世界大戦と終戦後[編集]
ユーゴスラビア王国は1941年4月6日、クーデターによって事実上枢軸国への参加を否定する政権が誕生すると、枢軸国によって侵略された。ユーゴスラビアの国土はドイツ、イタリア、ハンガリーなどに分割され、スロベニア人の住む地域のうちシュタイエルスカ地方はウンターシュタイアーマルク(Untersteiermark)としてドイツ国に編入された。1941年11月初頭には、ブレージツェ地域に住む4万6千人のスロベニア人が、ドイツ化あるいは強制労働のためにドイツ東部に強制移送された。
強制移送されたスロベニア人はザクセン地方にある複数の収容所に送られ、ドイツの農地や工場で1941年から1945年まで強制労働させられた。収容者は常に公的な強制収容所に収容されていたわけではなく、労務を行う場所の近辺にある空き家に寝泊りさせられることもあった。終戦が近づくにつれ、これらの収容所は連合国の軍隊によって解放され、戦争で荒れ果てたユーゴスラビアの故郷へと帰還した。
1945年、ユーゴスラビアは自力で国土を解放し、共産主義国家として再建された。スロベニアは連邦を構成する社会主義共和国となった。
ケルンテン地方の大部分はオーストリア領のままであり、4万2千人のスロベニア人が少数民族として認められ、1955年のオーストリア国家条約(Austrian State Treaty)に基づく民族的権利を享受している。しかし、同国のシュタイアーマルク州に居住しているスロベニア人(4250人)[7] は少数民族とは認められず、その権利を受けていない。1955年の国家条約で定められた諸権利はいまだ完全には履行されていない。一部の人々の間には、ナチス勢力に対するスロベニア人のパルチザンの活動を否定的に捉える考え方もあり、「ティトーのパルチザン」という語が侮蔑的に用いられることは珍しくない。ケルンテンの人々の多くは、ユーゴスラビアの勢力が第一次、第二次の世界大戦でオーストリア領に侵入したことを指摘し、スロベニアをオーストリアの領土に対する脅威とみなしている。ケルンテン州の知事であったイェルク・ハイダーは、その人気が低下し始めるとスロベニア人問題を取り上げるようになり、その権力の基盤として反スロベニア人主義を利用するようになった。また、一部のドイツ語話者らは、スロベニア人少数民族の存在を完全に否定し、この地域のスラヴ語話者はスロベニア人とは異なるヴィンディッシェ(Windische)という集団であると主張する。
ユーゴスラビアは第二次世界大戦後、イタリアから一部の領土を獲得したが、それでもなお10万人程度のスロベニア人がイタリア領内、特にトリエステ(トルスト)やゴリツィア(ゴリツァ)に残っている。
1991年、スロベニアは十日間戦争の後にユーゴスラビア連邦から独立し、スロベニア共和国となった。
文献[編集]
スロベニア人の言葉で書かれた最古の文献は、972年から1022年までに書かれたフライジンク写本(Freising manuscripts)であり、1803年にドイツのフライジンクで発見された。スロベニア語で印刷された初めての文献は、KatekizemおよびAbecedariumであり、プロテスタント宗教改革者プリモシュ・トルバル(Primož Trubar)によって1550年に書かれ、ドイツのテュービンゲンで印刷された。ユーリィ・ダルマティンは1584年に聖書をスロベニア語訳した。16世紀後半には、ヒエロニムス・メギセル(Hieronymus Megiser)によって編纂された多言語の辞書によって、スロベニア人の存在がヨーロッパの諸言語で記されるようになった。
民族意識[編集]
1980年代末のユーゴスラビアの分断化と、1990年代のスロベニアの独立によって、スロベニアの民族的アイデンティティの探索への関心が高まった。そのひとつの表れが、古代ウェネティイ族(Adriatic Veneti)に親近感を抱き、スラヴ人意識を否定する論調があった。1980年代にはこうした土着先住民と関連付ける考え方が伸張した。
1980年代末には、中世に用いられていた象徴がスロベニアの象徴として復活した。その中で最もよく知られるのが、神聖ローマ帝国のヴィンディッシェ・マルク(Windische Mark)の紋章に用いられていた帽子や、カロリング朝のカランタニア公国の紋章に由来すると思われる黒いヒョウ(Black panther)などがある。スロベニアの国旗に取り入れられていたトリグラウ山をかたどった紋章は、一般的にスロベニアの象徴とみなされている。トリグラウと絡んでスロベニアの重要な象徴となっているのは、この山の一帯を支配したと言われる伝説上のヤギ・ズラトロクである。
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1 人口
2 歴史 2.1 初期アルプス・スラヴ人
2.2 フランク人支配下のアルプス・スラヴ人
2.3 18世紀から第二次世界大戦まで
2.4 第二次世界大戦と終戦後
3 文献
4 民族意識
5 脚注
人口[編集]
スロベニア人の多くは独立国であるスロベニア(人口2,007,711人、2008年の推計)の域内に住んでいる。またスロベニア人は、かつてよりイタリア北東部(推計8万3千人 - 18万3千人)[17]、オーストリア南部(2万4855人)、クロアチア(1万3200人)、ハンガリー(3180人)に少数民族として暮らしている。スロベニアと国境を接するこれら4国はいずれも、スロベニア人を自国の少数民族として認めている。
2002年のスロベニアの国勢調査によると、163万1363人が自身をスロベニア人とした[18] 一方、172万3434人が母語をスロベニア語と答えた[19]。
オーストリアに住むスロベニア人の総数は2万4855人であり、うち1万7953人はオーストリア国籍のスロベニア人少数民族であり、残りの6902人は外国籍である[7]。
歴史[編集]
初期アルプス・スラヴ人[編集]
6世紀、スラヴ人がアルプス山脈からアドリア海にかけての地域に居住するようになった。彼らは2回の大移動の波にのってこの地に渡ってきており、1度目は550年ごろモラヴィアから、2度目は568年にランゴバルド人のイタリアへの退却に伴って移り住んできた。
623年から658年にかけて、エルベ川上流からカラヴァンケ山(Karavanke)にかけての一帯がサモ(Samo)王の支配の下で統一され、サモの王国と呼ばれる部族連合が形作られた。サモの死後、連合が瓦解したが、カランタニア公国(Carantania)という小さな国家が残された。これが現在のコロシュカ地方の原形である。
フランク人支配下のアルプス・スラヴ人[編集]
東から侵入したアヴァール人に圧迫され、カランタニア公国は745年にバイエルンとの連合を受け入れ、後にフランク人支配を認め、8世紀からはキリスト教の受容が始まった。最後まで独立を保っていたプリビナとその子コツェリ(Koceľ)が支配したバラトン公国(パンノニア公国)は874年に独立を失った。その後スラヴ人の居住域は、ドイツ人やマジャル人の流入によって圧迫されて縮小し、現在の位置に落ち着いたのは15世紀のことであった。
18世紀から第二次世界大戦まで[編集]
神聖ローマ帝国崩壊後のスロベニア人の居住域を管掌したのは、オーストリア帝国、フランス帝国のイリュリア州、オーストリア=ハンガリー帝国であった。
20世紀になる頃には、多くのスロベニア人が経済的理由などからアメリカ合衆国に移住した。ベスレヘムに移住した者たちはウィンディッシュ(Windish)と呼ばれるようになった。最大のスロベニア人移住者集団はオハイオ州クリーブランドやその周辺に定着した。2番目に大きい集団はシカゴ、特にロウアー・ウェスト・サイド(Lower West Side, Chicago)地域に移り住んだ。在米スロベニア人カトリック連合(英語:The American Slovenian Catholic Union、スロベニア語:Ameriško slovenska katoliška enota)は、スロベニア系アメリカ人の権利を擁護するためにクリーブランドとジョリエット(Joliet, Illinois)に設立された。その後、クラニスカ・スロベニア人カトリック連合(KSKJ)は全米各地に拠点を設け、スロベニア系アメリカ人のために生命保険やその他のサービスを提供している。自由思想家たちはシカゴの18thストリートとラシーヌ・アベニュー(Racine Ave.)の間に集まってスロベニア人民族互助会(Slovene National Benefit Society)を結成した。このほかのスロベニア人は、炭鉱や林業に従事するためにペンシルベニア州南部、オハイオ州南部、ウェストバージニア州に移った。一部のスロベニア人は鉄鉱山で働くためにピッツバーグやヤングスタウンに移住した。
第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降、スロベニア人の住む地域の大部分がスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国に参加し、ともにセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を結成し、王国は後にユーゴスラビア王国と改称された。1929年の地方行政区画の刷新に伴って新設されたドラヴァ州(Drava Banovina)において、スロベニア人は多数派を形成した。
1920年、混在地域であるケルンテン(コロシュカ)地方は、住民投票によってオーストリア領に留まることを決定した。また、スロベニア人居住地の西部は戦間期にはイタリア王国領となっていた。
スロベニア人の義勇兵はスペイン内戦や第二次エチオピア戦争にも参加している。
第二次世界大戦と終戦後[編集]
ユーゴスラビア王国は1941年4月6日、クーデターによって事実上枢軸国への参加を否定する政権が誕生すると、枢軸国によって侵略された。ユーゴスラビアの国土はドイツ、イタリア、ハンガリーなどに分割され、スロベニア人の住む地域のうちシュタイエルスカ地方はウンターシュタイアーマルク(Untersteiermark)としてドイツ国に編入された。1941年11月初頭には、ブレージツェ地域に住む4万6千人のスロベニア人が、ドイツ化あるいは強制労働のためにドイツ東部に強制移送された。
強制移送されたスロベニア人はザクセン地方にある複数の収容所に送られ、ドイツの農地や工場で1941年から1945年まで強制労働させられた。収容者は常に公的な強制収容所に収容されていたわけではなく、労務を行う場所の近辺にある空き家に寝泊りさせられることもあった。終戦が近づくにつれ、これらの収容所は連合国の軍隊によって解放され、戦争で荒れ果てたユーゴスラビアの故郷へと帰還した。
1945年、ユーゴスラビアは自力で国土を解放し、共産主義国家として再建された。スロベニアは連邦を構成する社会主義共和国となった。
ケルンテン地方の大部分はオーストリア領のままであり、4万2千人のスロベニア人が少数民族として認められ、1955年のオーストリア国家条約(Austrian State Treaty)に基づく民族的権利を享受している。しかし、同国のシュタイアーマルク州に居住しているスロベニア人(4250人)[7] は少数民族とは認められず、その権利を受けていない。1955年の国家条約で定められた諸権利はいまだ完全には履行されていない。一部の人々の間には、ナチス勢力に対するスロベニア人のパルチザンの活動を否定的に捉える考え方もあり、「ティトーのパルチザン」という語が侮蔑的に用いられることは珍しくない。ケルンテンの人々の多くは、ユーゴスラビアの勢力が第一次、第二次の世界大戦でオーストリア領に侵入したことを指摘し、スロベニアをオーストリアの領土に対する脅威とみなしている。ケルンテン州の知事であったイェルク・ハイダーは、その人気が低下し始めるとスロベニア人問題を取り上げるようになり、その権力の基盤として反スロベニア人主義を利用するようになった。また、一部のドイツ語話者らは、スロベニア人少数民族の存在を完全に否定し、この地域のスラヴ語話者はスロベニア人とは異なるヴィンディッシェ(Windische)という集団であると主張する。
ユーゴスラビアは第二次世界大戦後、イタリアから一部の領土を獲得したが、それでもなお10万人程度のスロベニア人がイタリア領内、特にトリエステ(トルスト)やゴリツィア(ゴリツァ)に残っている。
1991年、スロベニアは十日間戦争の後にユーゴスラビア連邦から独立し、スロベニア共和国となった。
文献[編集]
スロベニア人の言葉で書かれた最古の文献は、972年から1022年までに書かれたフライジンク写本(Freising manuscripts)であり、1803年にドイツのフライジンクで発見された。スロベニア語で印刷された初めての文献は、KatekizemおよびAbecedariumであり、プロテスタント宗教改革者プリモシュ・トルバル(Primož Trubar)によって1550年に書かれ、ドイツのテュービンゲンで印刷された。ユーリィ・ダルマティンは1584年に聖書をスロベニア語訳した。16世紀後半には、ヒエロニムス・メギセル(Hieronymus Megiser)によって編纂された多言語の辞書によって、スロベニア人の存在がヨーロッパの諸言語で記されるようになった。
民族意識[編集]
1980年代末のユーゴスラビアの分断化と、1990年代のスロベニアの独立によって、スロベニアの民族的アイデンティティの探索への関心が高まった。そのひとつの表れが、古代ウェネティイ族(Adriatic Veneti)に親近感を抱き、スラヴ人意識を否定する論調があった。1980年代にはこうした土着先住民と関連付ける考え方が伸張した。
1980年代末には、中世に用いられていた象徴がスロベニアの象徴として復活した。その中で最もよく知られるのが、神聖ローマ帝国のヴィンディッシェ・マルク(Windische Mark)の紋章に用いられていた帽子や、カロリング朝のカランタニア公国の紋章に由来すると思われる黒いヒョウ(Black panther)などがある。スロベニアの国旗に取り入れられていたトリグラウ山をかたどった紋章は、一般的にスロベニアの象徴とみなされている。トリグラウと絡んでスロベニアの重要な象徴となっているのは、この山の一帯を支配したと言われる伝説上のヤギ・ズラトロクである。
クロアチア人
クロアチア人(クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。
歴史[編集]
「クロアチアの歴史」も参照
クロアチア人は7世紀ごろセルビア人やスロベニア人とともにバルカン半島北西部に下った。東ローマ帝国の支配を経験したのち、9世紀半ばに独立国を形成する。
11世紀からハンガリー王がクロアチア王位を兼任したが、15世紀後半クロアチアはセルビア・ボスニアとともにオスマン帝国の指導下に置かれる。17世紀オスマン帝国の衰退期には、クロアチア人の在住地はヴェネツィア共和国・オスマン帝国・オーストリア帝国の3勢力に分断された。
19世紀からクロアチア人コミュニティのほとんどがオーストリア帝国(1867年からオーストリア・ハンガリー帝国)の領域に入ったが第一次世界大戦でオーストリアが敗北したためクロアチア人コミュニティはすべてセルビア(ユーゴスラビア)領となる。セルビア人主導の国家体制で市民権を制限されたクロアチア人はユーゴに対する不満を増大させていった。1939年ユーゴスラビアの一部がクロアチア自治州となるがセルビア人との溝は埋まらなかった。クロアチアはドイツと関係を強くして、1941年クロアチア人の多く在住する地域を中心にクロアチア独立国を形成する。
だがクロアチア独立国は事実上ナチスの傀儡国家であったので、ユーゴスラビア共産主義者同盟のヨシップ・ブロズ・チトーにより独立を取り消されクロアチアはユーゴスラビアに復帰する。チトーは祖国解放の功績からクロアチア人のみならずセルビア人などユーゴスラビア国内の他民族からも尊敬を集めた。
チトー没後再びクロアチアでは独立の機運が高まり1991年スロベニアと共に独立を宣言。長期にわたる戦闘の末独立を勝ち取ったが、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境付近に存在するセルビア人コミュニティが無視できず、ユーゴスラビア連邦軍との戦闘が終結したあとも小規模な戦闘が1995年まで続いた。このとき多数のセルビア人がクロアチアを追われてセルビアなどに移住したので、現在クロアチア国内におけるクロアチア人の人口比率は独立直後に比べて高くなっている。
歴史[編集]
「クロアチアの歴史」も参照
クロアチア人は7世紀ごろセルビア人やスロベニア人とともにバルカン半島北西部に下った。東ローマ帝国の支配を経験したのち、9世紀半ばに独立国を形成する。
11世紀からハンガリー王がクロアチア王位を兼任したが、15世紀後半クロアチアはセルビア・ボスニアとともにオスマン帝国の指導下に置かれる。17世紀オスマン帝国の衰退期には、クロアチア人の在住地はヴェネツィア共和国・オスマン帝国・オーストリア帝国の3勢力に分断された。
19世紀からクロアチア人コミュニティのほとんどがオーストリア帝国(1867年からオーストリア・ハンガリー帝国)の領域に入ったが第一次世界大戦でオーストリアが敗北したためクロアチア人コミュニティはすべてセルビア(ユーゴスラビア)領となる。セルビア人主導の国家体制で市民権を制限されたクロアチア人はユーゴに対する不満を増大させていった。1939年ユーゴスラビアの一部がクロアチア自治州となるがセルビア人との溝は埋まらなかった。クロアチアはドイツと関係を強くして、1941年クロアチア人の多く在住する地域を中心にクロアチア独立国を形成する。
だがクロアチア独立国は事実上ナチスの傀儡国家であったので、ユーゴスラビア共産主義者同盟のヨシップ・ブロズ・チトーにより独立を取り消されクロアチアはユーゴスラビアに復帰する。チトーは祖国解放の功績からクロアチア人のみならずセルビア人などユーゴスラビア国内の他民族からも尊敬を集めた。
チトー没後再びクロアチアでは独立の機運が高まり1991年スロベニアと共に独立を宣言。長期にわたる戦闘の末独立を勝ち取ったが、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境付近に存在するセルビア人コミュニティが無視できず、ユーゴスラビア連邦軍との戦闘が終結したあとも小規模な戦闘が1995年まで続いた。このとき多数のセルビア人がクロアチアを追われてセルビアなどに移住したので、現在クロアチア国内におけるクロアチア人の人口比率は独立直後に比べて高くなっている。
ブニェヴァツ人
ブニェヴァツ人(ブニェヴァツ語・クロアチア語・セルビア語:Bunjevci / Буњевци、ハンガリー語:bunyevácok)は、セルビア・ヴォイヴォディナのバチュカ地方、およびハンガリー南部のバーチ・キシュクン県、特にバヤ(Baja)に居住する南スラヴ人の民族集団である。16世紀から17世紀にかけてヘルツェゴヴィナ地方からダルマチア地方、そしてリカ(Lika)、バチュカへと移住したものと考えられている。これらの地域(こんにちのボスニア・ヘルツェゴヴィナおよびクロアチア)に住む、ブニェヴァツ人の起源と考えられる人々は、独自の地域的・民族的アイデンティティを保持しつつ、自らの属する民族は「クロアチア人」と考えている。セルビアに住むブニェヴァツ人らは、自らの民族認識を「ブニェヴァツ人」、「クロアチア人」あるいは「ユーゴスラビア人」としている。
ブニェヴァツ人の大部分はカトリック教徒であり、シュト方言のイ方言に属する言語を話す。この言語には特徴的な古風な表現が残っている等の特徴があり、「ブニェヴァツ語」あるいは「ブニェヴァツ方言」と呼ばれる。18世紀から19世紀ごろは、ブニェヴァツ人はバチュカ北部で一定規模の民族集団を築き上げていたが、後にその多くがハンガリー人に同化され、またその他の者でもセルビア人やクロアチア人としての民族自認を持つ者もいる。
目次 [非表示]
1 呼称
2 歴史 2.1 近代以前
2.2 ユーゴスラビア時代
2.3 ユーゴスラビア崩壊後
3 地理 3.1 セルビア
3.2 ハンガリー
4 文化
5 脚注
6 外部リンク
呼称[編集]
イストラの「ブニャ」の家
ブニェヴァツ人の語源に関しては複数の説がある。最も有力な説としては、ブニェヴァツ人の故地と考えられるヘルツェゴヴィナ中部を流れるブナ川(Buna)に由来するというものである。この説はマリヤン・ラノソヴィッチ(Marijan Lanosović)が提唱し、ヴーク・カラジッチやルドルフ・ホルヴァト(Rudolf Horvat)、イヴァン・イヴァニッチ(Ivan Ivanić)、イヴァン・アントノヴィッチ(Ivan Antonović)、イヴァーニ・イシュトゥヴァーン(István Iványi)、ミヨ・マンディッチ(Mijo Mandić)などがこの説を支持している。このほかの説として、ダルマチア地方に古くからある石造りの家「ブニャ(Bunja)」に由来するというものがある。
ブニェヴァツ人はブニェヴァツ語ではブニェヴツィ(Bunjevci、発音はセルビア・クロアチア語発音: [ˈbŭɲɛʋtsi])と呼ばれる。これはクロアチア語(Bunjevci)およびセルビア語(Буњевци)でも同様であり、またこの他の言語ではハンガリー語でブニェヴァーツォク(bunyevácok)、ドイツ語でブニェヴァッツェン(Bunjewatzen)と呼ばれる。
歴史[編集]
近代以前[編集]
13世紀から17世紀にかけてのブニェヴァツ人の移動
ブニェヴァツ人がはじめてバチュカ北部の街・スボティツァに住み着いたのは1526年であるとの説がある[1]。また別の文献によると、ブニェヴァツ人はオスマン帝国と戦う傭兵として、フランシスコ会修道士に率いられて[2]、ダルマチア(ザダル後背の内陸部・ラヴニ・コタリ Ravni Kotari)からリカ、ポドゴリェ(Podgorje (Velebit):セニ、ヤブラナツ (Jablanac)、クリヴィ・プト(Krivi Put)、クラスノ(Krasno)などを含む一帯で、この地域に住む人々は「沿海ブニェヴァツ人」とも呼ばれる)、西ヘルツェゴヴィナ(ブナ川周辺)、チトルク(Čitluk)、メジュゴリェ[3]などの地域に、1682年、1686年および1687年に現れたとされている。歴史上の文献では、ブニェヴァツ人は様々な名前で呼ばれている。
1788年にオーストリアで初めての国勢調査が行われ、この中でブニェヴァツ人は「イリュリア人」、その言語は「イリュリア語」として記録されている。この調査によると、スボティツァに17,043人の「イリュリア人」が居住しているとされている。1850年のオーストリア国勢調査ではブニェヴァツ人は「ダルマチア人」と呼ばれ、スボティツァには13,894人の「ダルマチア人」が記されている。しかし、ブニェヴァツ人は古くから自身を「ブニェヴァツ人」と呼んできた。1869年から1910年の国勢調査ではいずれもブニェヴァツ人を固有の民族として記しており、その呼び名は「bunyevácok(ブニェヴァツ人)」あるいは「dalmátok(ダルマチア人)」となっている。1880年の国勢調査では、スボティツァには26,637人のブニェヴァツ人が記録されており、1982年の国勢調査ではその数は31,824に増えている。1910年の調査では、スボティツァの人口の35.29%は「その他」とされているが、その多くは実際にはブニェヴァツ人であったと考えられる。
19世紀から20世紀初頭にかけて、数万人のブニェヴァツ人がマジャル化(magyarization)されてハンガリー人に同化しているものと推定されている。また、この時代にクロアチア人の民族自認を受容したブニェヴァツ人もおり、スボティツァの司教イヴァン・アントゥノヴィッチ(Ivan Antunović、1815年 - 1888年)などのカトリック聖職者を中心に、ブニェヴァツ人やショカツ人は「クロアチア人」と呼ばれるべきであるとの論が支持された。
1880年に政党「ブニェヴァツ党(Bunjevačka stranka)」が設立された。この時代、ブニェヴァツ人はクロアチア人の一部であるか、あるいは別の独立した民族であるかについて多様な見解があった
ユーゴスラビア時代[編集]
1945年5月14日のヴォイヴォディナ最高人民解放委員会による命令。この中でブニェヴァツ人およびショカツ人はその民族自認に関わらずクロアチア人とみなされるべきであるとしている。
1918年10月、ブニェヴァツ人はスボティツァにて民族の委員会を開催し、バナト・バチュカおよびバラニャ(Banat, Bačka and Baranja)のハンガリー王国からの離脱とセルビア王国への統合を決定した。この決定は1918年11月にノヴィ・サドで開催された、バナト・バチュカおよびバラニャのセルビア人・ブニェヴァツ人およびその他スラヴ人大人民評議会でも採択された。後にセルビア王国はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国へと統合され、バチュカに住むブニェヴァツ人の大部分がクロアチア人と同じ王国の国民となった。
1921年にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国によって行われた国勢調査では、スボティツァの人口の66.73%にあたる60,699人が「セルビア語またはクロアチア語」の話者として記録されている。1931年のユーゴスラビア王国の国勢調査では、スボティツァの人口のうち44.29%にあたる43,832人がブニェヴァツ人となっている。
第二次世界大戦後期、パルチザンの将軍ボジダル・マスラリッチ(Božidar Maslarić)は1944年11月にソンボルおよびスボティツァで開催された国家評議会にて、また将軍イヴァン・ルカヴィナ(Ivan Rukavina)は同年12月にスボティツァのタヴァンクト(Tavankut)にて、ユーゴスラビア共産党の名の下に、ブニェヴァツ人はクロアチア人であると宣言した。ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立した1944年以降、共産主義政府はブニェヴァツ人およびショカツ人をクロアチア人の一部とみなし、1948年の国勢調査では、民族自認としてブニェヴァツ人あるいはショカツ人と回答した場合クロアチア人と記録された。ブニェヴァツ人としての独自の民族性が否定されていたこの時代、彼らはクロアチア人へと同化され、独自の言語も失われるのではないかと危惧していた。1953年および1961年の国勢調査でも、ブニェヴァツ人はすべてクロアチア人として記録された。1971年の国勢調査では、ブニェヴァツ人団体の求めに従って、スボティツァ市ではブニェヴァツ人を独立した民族として記録した。この中で、スボティツァ市の人口の10.15%を占める14,892がブニェヴァツ人として記録されている。しかし、自治州および連邦の統計では、ブニェヴァツ人およびショカツ人はクロアチア人と統合されている。1981年の国勢調査でもブニェヴァツ人の要求に従い、スボティツァ市は総人口の5.7%にあたる8,895人をブニェヴァツ人として記録している。
ユーゴスラビア崩壊後[編集]
ビコヴォのカトリック大聖堂
ブニェヴァツ人の住む村、マラ・ボスナ(Mala Bosna)
1990年代のユーゴスラビアの崩壊の中で、ブニェヴァツ人は独自の民族として認められるようになった。1996年にはブニェヴァツ人はこの地域の本来的な民族のひとつとして認定された[4]。
しかし、ブニェヴァツ人の間では民族自認に関する問題が終わったわけではなかった。1991年の国勢調査では、ヴォイヴォディナ全域で21,434人(うちスボティツァでは市の人口の11.7%にあたる17,527人)が、自身をブニェヴァツ人と回答した一方、74,808人がクロアチア人と回答している。2002年の国勢調査ではヴォイヴォディナで19,766人(うちスボティツァで10.59%にあたる19,766人)がブニェヴァツ人、56,546人がクロアチア人と回答した。ただし、ヴォイヴォディナのクロアチア人がすべてブニェヴァツ人ではなく、ショカツ人やその他のクロアチア人(第二次世界大戦後にヴォイヴォディナに入植した29,111人のクロアチア人など)も含まれている。
スボティツァ市では、1991年にブニェヴァツ人は17,439人、クロアチア人は16,369人であった。古くからのブニェヴァツ人の村であるドニ・タヴァンクト(Donji Tavankut)では、989人がブニェヴァツ人、877人がクロアチア人、600人がユーゴスラビア人と回答している。1996年にスボティツァ市が独自に実施した調査によると、自身をブニェヴァツ人であり、民族的にはクロアチア人に属すると考えている者がこの村に多数いた一方、民族的にブニェヴァツ人でありクロアチア人ではないと考えている者もいた。また調査では、ブニェヴァツ人のクロアチア人性に肯定的な者と否定的な者の違いが、少数民族の権利擁護に消極的な当時のセルビア政府の姿勢への支持と不支持の違いと関連があることが示された[5]。
その後も、ブニェヴァツ人たちの間で、「ブニェヴァツ人」が独自の民族であるかクロアチア人の一部であるかについては見解はわかれている。
2005年初頭、ヴォイヴォディナ州政府が、次年度より学校で民族文化などについて述べる際に「ブニェヴァツ語(bunjevački)」という用語を使用できると決定し、ふたたびブニェヴァツ人に関する問題が注目された。この決定に対して、ブニェヴァツ人をクロアチア人と考える人々は抗議を示した。彼らは、少数民族の権利はその民族の人口によるのであり、自分たちはクロアチア人でいる方が良いと考えている。逆の立場の人々は、クロアチア人がブニェヴァツ人を同化しようとしているとして非難した[6]。2011年、ブニェヴァツ人の政治家ブラシュコ・ガブリッチ(Blaško Gabrić)とブニェヴァツ人委員会はセルビア政府に対して、ブニェヴァツ人の民族性を否定するクロアチア人に対する法的訴訟を始めるよう求め、ブニェヴァツ人の民族性否認はセルビア共和国の憲法に反すると主張した[6]。
民族衣装をまとってダンスをするブニェヴァツ人たち
ハンガリーでは、ブニェヴァツ人は独自の少数民族とは認められておらず、彼らはクロアチア人として扱われる。ブニェヴァツ人の団体が2006年4月に、ブニェヴァツ人をハンガリーに歴史的に存在してきた独自の民族として認めるよう求める署名を募り始めた。60日が経過したあと、2000を超える署名があつまりうち1700程度が選挙管理委員会によって有効と認められたため、ブダペストのハンガリー国民議会は2007年1月9日までにこの問題に対する対応を決める必要が生じた。これは、ハンガリーで1992年に少数民族法が成立して以来、初めてのことであった[7]。2006年12月18日、ハンガリー国民議会はこの要求を否決した(賛成18、反対334)。この決定は、ブニェヴァツ人の独自の民族性を否定するハンガリー科学アカデミーの調査に基づいたものであった(調査ではブニェヴァツ人はクロアチア人の一部であるとしている)。また、この要求に反対したクロアチア人の代表者らによる影響もあった[8][9]。
ヴォイヴォディナのブニェヴァツ人委員会は、ヴォイヴォディナ人民民主党の党首で2007年1月のセルビア議会選挙の民主党の候補者となっていた、自らを民族的にブニェヴァツ人と認識しているミルコ・バイッチ(Mirko Bajić)を推薦することを決定した。
地理[編集]
セルビア[編集]
スボティツァ市における地区別の民族分布図。ドニ・タヴァンクトやマラ・ボスナ、ビコヴォなどの地区でクロアチア人が比較多数、リュトヴォでブニェヴァツ人が比較多数となっている。
2002年の国勢調査によるヴォイヴォディナの南スラヴ系少数民族の分布図。自治州の北端近く、スボティツァに近いドニ・タヴァンクトなどの数カ所でブニェヴァツ系とみられる「クロアチア人」、リュトヴォでブニェヴァツ人が比較多数となっている。西端の「クロアチア人」はショカツ系とみられる。
セルビアでは、ブニェヴァツ人はヴォイヴォディナ自治州の北部、バチュカ地方に多く住んでいる。自治州憲章ではブニェヴァツ人はヴォイヴォディナの構成民族として認められている。ブニェヴァツ人が多数住む村は以下のとおりである:
リュトヴォ(Ljutovo)
ビコヴォ(Bikovo)
ゴルニ・タヴァンクト(Gornji Tavankut)
ドニ・タヴァンクト(Donji Tavankut)
ジュルジン(Đurđin)
マラ・ボスナ(Mala Bosna)
スタリ・ジェドニク(Stari Žednik)
これらの村落はいずれもスボティツァ市にある。2002年の国勢調査においてブニェヴァツ人は、自身をブニェヴァツ人と回答する者とクロアチア人と回答する者とに別れ、また一部はユーゴスラビア人と回答した。このなかでリュトヴォではブニェヴァツ人との回答がクロアチア人との回答数を上回ったが、その他の村落ではクロアチア人との回答のほうが多かった。
これ以外にもバチュカ北部から西部にかけて、多数派にはならないもののブニェヴァツ人が居住している。ブニェヴァツ人の住む村は大部分がスボティツァ市かソンボル市の範囲にある。ブニェヴァツ人の数が最も多いのはスボティツァ市街(10,870人)であり、ブニェヴァツ人の文化的・政治的中心地となっている。この他にブニェヴァツ人の多く住む街としてはソンボル(2,222人)やバイモク(Bajmok、1,266人)などがある。
ハンガリー[編集]
ハンガリーでブニェヴァツ人の多く住む街は以下のとおりである:
バヤ(Baja、263人)
ガラ(Gara、201人)
カティマール(Katymár、ブニェヴァツ語ではカチマル Kaćmar。136人)
歴史的にブニェヴァツ人が多数住んでいたが、こんにちでは70人以下となっている街は以下のとおりである(かっこ内はブニェヴァツ語での呼称):
チャーヴォイ(Csávoly、チャヴォリ Čavolj)
フェルシェーセンティヴァーン(Felsőszentiván、ゴルニ・スヴェティ・イヴァン Gornji Sveti Ivanあるいはゴルニ・センティヴァン Gornji Sentivan)
バーチャルマーシュ(Bácsalmás、アリマシュ Aljmaš)
チケーリア(Csikéria、チケリヤ Čikerija)
バーチュボコド(Bácsbokod、ビキチ Bikić)
マーテーテルケ(Mátételke、メテヴィチ Matević)
ヴァシュクート(Vaskút、バシュクト Baškutあるいはヴァシュクト Vaškut)
文化[編集]
民族衣装をまとったブニェヴァツ人の女性
バチュカにおけるブニェヴァツ人の文化的な中心地はスボティツァである。クロアチアに住む沿海ブニェヴァツ人の中心地はセニである。セニにはブニェヴァツ人の博物館がある他、サッカークラブ「ブニェヴァツ」、ブニェヴァツ通りなどといった名称にもなっている[3]。
バチュカのブニェヴァツ人は伝統的にその土地に根付いて農業を営んできた民であり、バチュカ北部に孤立して作られたサラシュ(salaš)と呼ばれる農場は、ブニェヴァツ人の重要なアイデンティティの一部となっている。ブニェヴァツ人の祭りの多くは、大地や、作物や馬の生育を祝うものであり、以下のような祭りがある:
ドゥジヤンツァ(Dužijanca) - 作物の収穫を祝うものであり、多くの観光客が訪れる。バイモク(Bajmok)やタヴァンクトなどのブニェヴァツ人の多く住む村々や、スボティツァ市街でもみられる。ドゥジヤンツァでは農作に感謝する宗教的儀礼や、通りの行進、舞踊や音楽などが行われる。
クルスノ・イメ(Krsno ime) - 家族の守護聖人を祝福する
クラリツェ(Kraljice) - ペンテコステの日に行われる儀礼
ディヴァン(Divan) - 若い男女が親のいないところで歌い、踊る。19世紀中頃には教会によって禁止されていた。
ブニェヴァチュケ・ノヴィネ(Bunjevačke novine、「ブニェヴァツ新報」)はブニェヴァツ語の新聞であり、スボティツァで発行されている。
ブニェヴァツ人の大部分はカトリック教徒であり、シュト方言のイ方言に属する言語を話す。この言語には特徴的な古風な表現が残っている等の特徴があり、「ブニェヴァツ語」あるいは「ブニェヴァツ方言」と呼ばれる。18世紀から19世紀ごろは、ブニェヴァツ人はバチュカ北部で一定規模の民族集団を築き上げていたが、後にその多くがハンガリー人に同化され、またその他の者でもセルビア人やクロアチア人としての民族自認を持つ者もいる。
目次 [非表示]
1 呼称
2 歴史 2.1 近代以前
2.2 ユーゴスラビア時代
2.3 ユーゴスラビア崩壊後
3 地理 3.1 セルビア
3.2 ハンガリー
4 文化
5 脚注
6 外部リンク
呼称[編集]
イストラの「ブニャ」の家
ブニェヴァツ人の語源に関しては複数の説がある。最も有力な説としては、ブニェヴァツ人の故地と考えられるヘルツェゴヴィナ中部を流れるブナ川(Buna)に由来するというものである。この説はマリヤン・ラノソヴィッチ(Marijan Lanosović)が提唱し、ヴーク・カラジッチやルドルフ・ホルヴァト(Rudolf Horvat)、イヴァン・イヴァニッチ(Ivan Ivanić)、イヴァン・アントノヴィッチ(Ivan Antonović)、イヴァーニ・イシュトゥヴァーン(István Iványi)、ミヨ・マンディッチ(Mijo Mandić)などがこの説を支持している。このほかの説として、ダルマチア地方に古くからある石造りの家「ブニャ(Bunja)」に由来するというものがある。
ブニェヴァツ人はブニェヴァツ語ではブニェヴツィ(Bunjevci、発音はセルビア・クロアチア語発音: [ˈbŭɲɛʋtsi])と呼ばれる。これはクロアチア語(Bunjevci)およびセルビア語(Буњевци)でも同様であり、またこの他の言語ではハンガリー語でブニェヴァーツォク(bunyevácok)、ドイツ語でブニェヴァッツェン(Bunjewatzen)と呼ばれる。
歴史[編集]
近代以前[編集]
13世紀から17世紀にかけてのブニェヴァツ人の移動
ブニェヴァツ人がはじめてバチュカ北部の街・スボティツァに住み着いたのは1526年であるとの説がある[1]。また別の文献によると、ブニェヴァツ人はオスマン帝国と戦う傭兵として、フランシスコ会修道士に率いられて[2]、ダルマチア(ザダル後背の内陸部・ラヴニ・コタリ Ravni Kotari)からリカ、ポドゴリェ(Podgorje (Velebit):セニ、ヤブラナツ (Jablanac)、クリヴィ・プト(Krivi Put)、クラスノ(Krasno)などを含む一帯で、この地域に住む人々は「沿海ブニェヴァツ人」とも呼ばれる)、西ヘルツェゴヴィナ(ブナ川周辺)、チトルク(Čitluk)、メジュゴリェ[3]などの地域に、1682年、1686年および1687年に現れたとされている。歴史上の文献では、ブニェヴァツ人は様々な名前で呼ばれている。
1788年にオーストリアで初めての国勢調査が行われ、この中でブニェヴァツ人は「イリュリア人」、その言語は「イリュリア語」として記録されている。この調査によると、スボティツァに17,043人の「イリュリア人」が居住しているとされている。1850年のオーストリア国勢調査ではブニェヴァツ人は「ダルマチア人」と呼ばれ、スボティツァには13,894人の「ダルマチア人」が記されている。しかし、ブニェヴァツ人は古くから自身を「ブニェヴァツ人」と呼んできた。1869年から1910年の国勢調査ではいずれもブニェヴァツ人を固有の民族として記しており、その呼び名は「bunyevácok(ブニェヴァツ人)」あるいは「dalmátok(ダルマチア人)」となっている。1880年の国勢調査では、スボティツァには26,637人のブニェヴァツ人が記録されており、1982年の国勢調査ではその数は31,824に増えている。1910年の調査では、スボティツァの人口の35.29%は「その他」とされているが、その多くは実際にはブニェヴァツ人であったと考えられる。
19世紀から20世紀初頭にかけて、数万人のブニェヴァツ人がマジャル化(magyarization)されてハンガリー人に同化しているものと推定されている。また、この時代にクロアチア人の民族自認を受容したブニェヴァツ人もおり、スボティツァの司教イヴァン・アントゥノヴィッチ(Ivan Antunović、1815年 - 1888年)などのカトリック聖職者を中心に、ブニェヴァツ人やショカツ人は「クロアチア人」と呼ばれるべきであるとの論が支持された。
1880年に政党「ブニェヴァツ党(Bunjevačka stranka)」が設立された。この時代、ブニェヴァツ人はクロアチア人の一部であるか、あるいは別の独立した民族であるかについて多様な見解があった
ユーゴスラビア時代[編集]
1945年5月14日のヴォイヴォディナ最高人民解放委員会による命令。この中でブニェヴァツ人およびショカツ人はその民族自認に関わらずクロアチア人とみなされるべきであるとしている。
1918年10月、ブニェヴァツ人はスボティツァにて民族の委員会を開催し、バナト・バチュカおよびバラニャ(Banat, Bačka and Baranja)のハンガリー王国からの離脱とセルビア王国への統合を決定した。この決定は1918年11月にノヴィ・サドで開催された、バナト・バチュカおよびバラニャのセルビア人・ブニェヴァツ人およびその他スラヴ人大人民評議会でも採択された。後にセルビア王国はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国へと統合され、バチュカに住むブニェヴァツ人の大部分がクロアチア人と同じ王国の国民となった。
1921年にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国によって行われた国勢調査では、スボティツァの人口の66.73%にあたる60,699人が「セルビア語またはクロアチア語」の話者として記録されている。1931年のユーゴスラビア王国の国勢調査では、スボティツァの人口のうち44.29%にあたる43,832人がブニェヴァツ人となっている。
第二次世界大戦後期、パルチザンの将軍ボジダル・マスラリッチ(Božidar Maslarić)は1944年11月にソンボルおよびスボティツァで開催された国家評議会にて、また将軍イヴァン・ルカヴィナ(Ivan Rukavina)は同年12月にスボティツァのタヴァンクト(Tavankut)にて、ユーゴスラビア共産党の名の下に、ブニェヴァツ人はクロアチア人であると宣言した。ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立した1944年以降、共産主義政府はブニェヴァツ人およびショカツ人をクロアチア人の一部とみなし、1948年の国勢調査では、民族自認としてブニェヴァツ人あるいはショカツ人と回答した場合クロアチア人と記録された。ブニェヴァツ人としての独自の民族性が否定されていたこの時代、彼らはクロアチア人へと同化され、独自の言語も失われるのではないかと危惧していた。1953年および1961年の国勢調査でも、ブニェヴァツ人はすべてクロアチア人として記録された。1971年の国勢調査では、ブニェヴァツ人団体の求めに従って、スボティツァ市ではブニェヴァツ人を独立した民族として記録した。この中で、スボティツァ市の人口の10.15%を占める14,892がブニェヴァツ人として記録されている。しかし、自治州および連邦の統計では、ブニェヴァツ人およびショカツ人はクロアチア人と統合されている。1981年の国勢調査でもブニェヴァツ人の要求に従い、スボティツァ市は総人口の5.7%にあたる8,895人をブニェヴァツ人として記録している。
ユーゴスラビア崩壊後[編集]
ビコヴォのカトリック大聖堂
ブニェヴァツ人の住む村、マラ・ボスナ(Mala Bosna)
1990年代のユーゴスラビアの崩壊の中で、ブニェヴァツ人は独自の民族として認められるようになった。1996年にはブニェヴァツ人はこの地域の本来的な民族のひとつとして認定された[4]。
しかし、ブニェヴァツ人の間では民族自認に関する問題が終わったわけではなかった。1991年の国勢調査では、ヴォイヴォディナ全域で21,434人(うちスボティツァでは市の人口の11.7%にあたる17,527人)が、自身をブニェヴァツ人と回答した一方、74,808人がクロアチア人と回答している。2002年の国勢調査ではヴォイヴォディナで19,766人(うちスボティツァで10.59%にあたる19,766人)がブニェヴァツ人、56,546人がクロアチア人と回答した。ただし、ヴォイヴォディナのクロアチア人がすべてブニェヴァツ人ではなく、ショカツ人やその他のクロアチア人(第二次世界大戦後にヴォイヴォディナに入植した29,111人のクロアチア人など)も含まれている。
スボティツァ市では、1991年にブニェヴァツ人は17,439人、クロアチア人は16,369人であった。古くからのブニェヴァツ人の村であるドニ・タヴァンクト(Donji Tavankut)では、989人がブニェヴァツ人、877人がクロアチア人、600人がユーゴスラビア人と回答している。1996年にスボティツァ市が独自に実施した調査によると、自身をブニェヴァツ人であり、民族的にはクロアチア人に属すると考えている者がこの村に多数いた一方、民族的にブニェヴァツ人でありクロアチア人ではないと考えている者もいた。また調査では、ブニェヴァツ人のクロアチア人性に肯定的な者と否定的な者の違いが、少数民族の権利擁護に消極的な当時のセルビア政府の姿勢への支持と不支持の違いと関連があることが示された[5]。
その後も、ブニェヴァツ人たちの間で、「ブニェヴァツ人」が独自の民族であるかクロアチア人の一部であるかについては見解はわかれている。
2005年初頭、ヴォイヴォディナ州政府が、次年度より学校で民族文化などについて述べる際に「ブニェヴァツ語(bunjevački)」という用語を使用できると決定し、ふたたびブニェヴァツ人に関する問題が注目された。この決定に対して、ブニェヴァツ人をクロアチア人と考える人々は抗議を示した。彼らは、少数民族の権利はその民族の人口によるのであり、自分たちはクロアチア人でいる方が良いと考えている。逆の立場の人々は、クロアチア人がブニェヴァツ人を同化しようとしているとして非難した[6]。2011年、ブニェヴァツ人の政治家ブラシュコ・ガブリッチ(Blaško Gabrić)とブニェヴァツ人委員会はセルビア政府に対して、ブニェヴァツ人の民族性を否定するクロアチア人に対する法的訴訟を始めるよう求め、ブニェヴァツ人の民族性否認はセルビア共和国の憲法に反すると主張した[6]。
民族衣装をまとってダンスをするブニェヴァツ人たち
ハンガリーでは、ブニェヴァツ人は独自の少数民族とは認められておらず、彼らはクロアチア人として扱われる。ブニェヴァツ人の団体が2006年4月に、ブニェヴァツ人をハンガリーに歴史的に存在してきた独自の民族として認めるよう求める署名を募り始めた。60日が経過したあと、2000を超える署名があつまりうち1700程度が選挙管理委員会によって有効と認められたため、ブダペストのハンガリー国民議会は2007年1月9日までにこの問題に対する対応を決める必要が生じた。これは、ハンガリーで1992年に少数民族法が成立して以来、初めてのことであった[7]。2006年12月18日、ハンガリー国民議会はこの要求を否決した(賛成18、反対334)。この決定は、ブニェヴァツ人の独自の民族性を否定するハンガリー科学アカデミーの調査に基づいたものであった(調査ではブニェヴァツ人はクロアチア人の一部であるとしている)。また、この要求に反対したクロアチア人の代表者らによる影響もあった[8][9]。
ヴォイヴォディナのブニェヴァツ人委員会は、ヴォイヴォディナ人民民主党の党首で2007年1月のセルビア議会選挙の民主党の候補者となっていた、自らを民族的にブニェヴァツ人と認識しているミルコ・バイッチ(Mirko Bajić)を推薦することを決定した。
地理[編集]
セルビア[編集]
スボティツァ市における地区別の民族分布図。ドニ・タヴァンクトやマラ・ボスナ、ビコヴォなどの地区でクロアチア人が比較多数、リュトヴォでブニェヴァツ人が比較多数となっている。
2002年の国勢調査によるヴォイヴォディナの南スラヴ系少数民族の分布図。自治州の北端近く、スボティツァに近いドニ・タヴァンクトなどの数カ所でブニェヴァツ系とみられる「クロアチア人」、リュトヴォでブニェヴァツ人が比較多数となっている。西端の「クロアチア人」はショカツ系とみられる。
セルビアでは、ブニェヴァツ人はヴォイヴォディナ自治州の北部、バチュカ地方に多く住んでいる。自治州憲章ではブニェヴァツ人はヴォイヴォディナの構成民族として認められている。ブニェヴァツ人が多数住む村は以下のとおりである:
リュトヴォ(Ljutovo)
ビコヴォ(Bikovo)
ゴルニ・タヴァンクト(Gornji Tavankut)
ドニ・タヴァンクト(Donji Tavankut)
ジュルジン(Đurđin)
マラ・ボスナ(Mala Bosna)
スタリ・ジェドニク(Stari Žednik)
これらの村落はいずれもスボティツァ市にある。2002年の国勢調査においてブニェヴァツ人は、自身をブニェヴァツ人と回答する者とクロアチア人と回答する者とに別れ、また一部はユーゴスラビア人と回答した。このなかでリュトヴォではブニェヴァツ人との回答がクロアチア人との回答数を上回ったが、その他の村落ではクロアチア人との回答のほうが多かった。
これ以外にもバチュカ北部から西部にかけて、多数派にはならないもののブニェヴァツ人が居住している。ブニェヴァツ人の住む村は大部分がスボティツァ市かソンボル市の範囲にある。ブニェヴァツ人の数が最も多いのはスボティツァ市街(10,870人)であり、ブニェヴァツ人の文化的・政治的中心地となっている。この他にブニェヴァツ人の多く住む街としてはソンボル(2,222人)やバイモク(Bajmok、1,266人)などがある。
ハンガリー[編集]
ハンガリーでブニェヴァツ人の多く住む街は以下のとおりである:
バヤ(Baja、263人)
ガラ(Gara、201人)
カティマール(Katymár、ブニェヴァツ語ではカチマル Kaćmar。136人)
歴史的にブニェヴァツ人が多数住んでいたが、こんにちでは70人以下となっている街は以下のとおりである(かっこ内はブニェヴァツ語での呼称):
チャーヴォイ(Csávoly、チャヴォリ Čavolj)
フェルシェーセンティヴァーン(Felsőszentiván、ゴルニ・スヴェティ・イヴァン Gornji Sveti Ivanあるいはゴルニ・センティヴァン Gornji Sentivan)
バーチャルマーシュ(Bácsalmás、アリマシュ Aljmaš)
チケーリア(Csikéria、チケリヤ Čikerija)
バーチュボコド(Bácsbokod、ビキチ Bikić)
マーテーテルケ(Mátételke、メテヴィチ Matević)
ヴァシュクート(Vaskút、バシュクト Baškutあるいはヴァシュクト Vaškut)
文化[編集]
民族衣装をまとったブニェヴァツ人の女性
バチュカにおけるブニェヴァツ人の文化的な中心地はスボティツァである。クロアチアに住む沿海ブニェヴァツ人の中心地はセニである。セニにはブニェヴァツ人の博物館がある他、サッカークラブ「ブニェヴァツ」、ブニェヴァツ通りなどといった名称にもなっている[3]。
バチュカのブニェヴァツ人は伝統的にその土地に根付いて農業を営んできた民であり、バチュカ北部に孤立して作られたサラシュ(salaš)と呼ばれる農場は、ブニェヴァツ人の重要なアイデンティティの一部となっている。ブニェヴァツ人の祭りの多くは、大地や、作物や馬の生育を祝うものであり、以下のような祭りがある:
ドゥジヤンツァ(Dužijanca) - 作物の収穫を祝うものであり、多くの観光客が訪れる。バイモク(Bajmok)やタヴァンクトなどのブニェヴァツ人の多く住む村々や、スボティツァ市街でもみられる。ドゥジヤンツァでは農作に感謝する宗教的儀礼や、通りの行進、舞踊や音楽などが行われる。
クルスノ・イメ(Krsno ime) - 家族の守護聖人を祝福する
クラリツェ(Kraljice) - ペンテコステの日に行われる儀礼
ディヴァン(Divan) - 若い男女が親のいないところで歌い、踊る。19世紀中頃には教会によって禁止されていた。
ブニェヴァチュケ・ノヴィネ(Bunjevačke novine、「ブニェヴァツ新報」)はブニェヴァツ語の新聞であり、スボティツァで発行されている。