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2014年02月11日

ルワンダ

ルワンダ共和国(ルワンダきょうわこく)、通称ルワンダは、中部アフリカに位置する共和制国家。内陸国であり、西にコンゴ民主共和国、北にウガンダ、東にタンザニア、南にブルンジと国境を接する。首都はキガリ。イギリス連邦加盟国。

アフリカで最も人口密度が高い国である[2]。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 ドイツ植民地時代
2.2 ベルギー植民地時代
2.3 独立
2.4 ルワンダ・クーデター
2.5 ルワンダ紛争
2.6 ルワンダ虐殺
2.7 大湖地域の難民危機
2.8 コンゴ戦争
2.9 カガメ政権
2.10 3月23日運動の反乱

3 政治
4 国際関係
5 地理
6 地方行政区分 6.1 現在の地方行政区画
6.2 2005年以前の地方行政区分

7 経済 7.1 鉱業
7.2 アフリカの奇跡

8 国民 8.1 民族
8.2 言語
8.3 宗教
8.4 教育
8.5 保健

9 文化 9.1 祝祭日

10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク


国名[編集]

正式名称はルワンダ語で Republika y'u Rwanda、英語で The Republic of Rwanda、フランス語で République du Rwanda。

歴史[編集]

詳細は「ルワンダの歴史(英語版)」を参照

ドイツ植民地時代[編集]

第一次世界大戦終結までドイツ領東アフリカ。

ベルギー植民地時代[編集]

1918年以後はルアンダ=ウルンディ (Ruanda-Urundi) としてベルギーの委任統治下に置かれ、少数派のツチが中間支配層に据えられた。

1959年、ルワンダ王国のムワミ(国王)であるムタラ・ルダヒグワ(ムタラ3世)の死を契機にツチとベルギー当局の関係が悪化し、万聖節の騒乱(英語版)を経て多数派のフツの抵抗も激しさを増した。1961年、ベルギー当局はクーデター(軍政)を行い王政に関する国民投票を実施してキゲリ5世を廃し共和制樹立を承認した。ルアンダ=ウルンディ初代大統領にフツのドミニク・ムボニュムトゥワが就任。

独立[編集]

1962年に独立。ルアンダ=ウルンディ第2代大統領だったフツのグレゴワール・カイバンダがそのまま共和国の初代大統領に就任。

ルワンダ・クーデター[編集]

1973年にルワンダ・クーデター(英語版)が起こり、フツのジュベナール・ハビャリマナが第2代大統領に就任すると反ツチ色が一層強められ、ツチは難民として近隣諸国に逃れた。

1987年、隣国ウガンダに逃れていたツチ系難民が主体となりルワンダ愛国戦線 (RPF) が結成された。

ルワンダ紛争[編集]

詳細は「ルワンダ紛争」を参照

1990年以降、ルワンダ帰還を目指したRPFとルワンダ政府の間で内戦に陥った(ルワンダ紛争)。1993年8月4日、戦況の膠着からルワンダ政府とRPFの間でアルーシャ協定(英語版)が調印され、同協定の遵守を支援するため国連平和維持部隊が展開した。

ルワンダ虐殺[編集]





多数の避難民が殺害されたントラマ教会
詳細は「ルワンダ虐殺」を参照

急進的なフツ至上主義の台頭による政情悪化が収まらず、1994年4月にジュベナール・ハビャリマナが暗殺された事件(ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件)を発端に、政府と暴徒化したフツによるツチと穏健派フツに対するジェノサイドが勃発した(ルワンダ虐殺)。この結果、約100日間のうちに、当時のルワンダの総人口約730万人中、およそ80万人から100万人が殺害されたとみられている。虐殺はこの勃発を受けて侵攻を再開したRPFがルワンダ全土を掌握したことで漸く終息し、フツのパストゥール・ビジムング(英語版)を大統領、RPFのポール・カガメを副大統領とする新政権が樹立された。

大湖地域の難民危機[編集]

このとき約210万人とも言われる大量の難民が周辺国に流出した。ジャーナリストのフィリップ・ゴーレイヴィッチ(英語版)によれば、難民の中身はRPFによる報復を恐れたフツの一般人と、旧フツ政権指導層および軍や民兵の組織的な大量疎開だった様に描写している[3]。このうちの後者について、ジェラール・プルニエなどは「難民キャンプをルワンダ奪還に向けた軍事拠点にしようとする旧フツ政権指導部による計画的な疎開であり、その意味では戦争の継続だった」としている[4]。以後、ルワンダ情勢は安定に向かったが難民の本国帰還は進まず、寧ろ周辺諸国の政治・軍事情勢を不安定化させて国際問題となった(大湖地域の難民危機(英語版))。

ツチ主導のルワンダ新政府の要請を受けて、1994年に国連安全保障理事会は、ルワンダ領域内及び隣接諸国においてジェノサイドや非人道行為を行った者を訴追・処罰するためのルワンダ国際戦犯法廷を設置、現在も審理が続いている。

コンゴ戦争[編集]

大湖地域の難民危機は、特に隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)でモブツ政権の崩壊へと波及した第一次コンゴ戦争(1996年 - 1997年)のほか、周辺8か国が介入する事態となった第二次コンゴ戦争(1998年 - 2003年)の遠因となり、これは現在も完全な終息は見ていない[いつ?]。

カガメ政権[編集]

2000年、ビジムング大統領の辞任に伴い、ツチのポール・カガメが第5代大統領に就任した。

内戦時代に海外へ脱出したツチ族(ディアスポラ)のうちの200万人近くが戦後帰国し、海外で習得した様々なスキルで国の復興に尽力しており、21世紀に入り顕著に近代化が進み、「アフリカの奇跡」と呼ばれている[5]。毎年成長率が7%前後と急成長を遂げ、2010年頃からはIT立国を目指し、ITの普及・整備に力を注いでいる。

3月23日運動の反乱[編集]

2012年11月20日、ウガンダと共にツチ系武装組織3月23日運動 (M23) を支援し、コンゴ民主共和国で紛争(3月23日運動の反乱(英語版))が勃発した。

政治[編集]





議事堂
詳細は「ルワンダの政治」を参照

ルワンダは共和制をとる立憲国家である。現行憲法は2003年5月26日に承認され、同年6月4日に施行されたものである。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は7年。3選禁止。首相は大統領により任命される。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。

「ルワンダの大統領一覧」および「ルワンダの首相一覧」も参照

現行憲法下の議会は二院制で、上院と下院で構成される。上院は定数26議席で、うち12議席は地方議会が選出、8議席は大統領が任命、4議席は政府の諮問機関である政治組織フォーラムが選出、2議席は高等教育機関の代表で構成される。下院は定数80議席で、53議席は国民の直接選挙で選出され、24議席は地方が選任する女性議員枠、3議席は青年組織や障害者組織が選出する。議員の任期は上院が8年、下院が5年となっている。ルワンダ虐殺で男性の数が減り、さらに憲法で女性議員数が全体の30%を超えるように決められているので、女性議員が世界で最も多い。2008年には女性議員が世界ではじめて全体の過半数を占めた[6]。

主要政党には現大統領ポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線 (RPF) がある。紛争後、開発独裁で国を成長させている。

野党勢力は脆弱だが、比較的有力なものに中道民主党 (PDC)、イスラム民主党 (PDI) がある。

最高司法機関は最高裁判所(同上:Cour suprême)である。

国際関係[編集]

詳細は「ルワンダの国際関係」を参照

フランス政府はハビャリマナ暗殺に関わったとしてカガメ政権関係者を訴追し、カガメ側もフランスが虐殺を支援したと非難して国交断絶していたが、2009年11月29日に3年ぶりに国交回復した[7]。その後ルワンダ政府は英語圏への接触を図り、2009年11月29日に英連邦への加盟が認められ、54番目の加盟国となった。旧イギリス植民地以外で加盟が認められたのは1995年のモザンビーク以来のことである。ルワンダ内戦はアングロ・サクソンとフランス語圏との代理戦争とも言われる。

地理[編集]





ナイル川源流の一つであるカゲラ川
詳細は「ルワンダの地理」および「アフリカ大湖沼」を参照

面積は2万6000平方km。この国はアフリカ大陸の中央にあり、赤道から緯度で数度だけ南に位置する。西にコンゴ民主共和国、北にウガンダ、東にタンザニア、南にブルンジと接する。首都以外は草地で、丘陵に小農場が分布する。北西の火山群から南東へごつごつした山地が連なる。西部にコンゴとナイルの水域を分ける平均海抜2,740mmの分水嶺が南北に走る。その西斜面をキブ湖とルジジ川渓谷に下るとアフリカ大地溝帯の一部となる。東斜面はなだらかに中央高地から平原、沼沢地、湖へと標高が低下する。このためルワンダは「千の丘の国」と呼ばれる。

2006年にイギリスの探検隊がニュングウェ森林にナイル川の源流を発見したと発表した。

地方行政区分[編集]





現在の行政区分
詳細は「ルワンダの地方行政区画」を参照

現在の地方行政区画[編集]

2006年1月1日からルワンダの地方行政区分は新しいものになり、5つの州に再編した。
1.北部州 (Province du Nord)
2.南部州 (Province du Sud)
3.東部州 (Province de l'Est)
4.西部州 (Province de l'Ouest)
5.キガリ州(Kigali)

2005年以前の地方行政区分[編集]





2005年以前の行政区分
2005年以前は11の県と、首都のキガリで構成されていた。
1.ブタレ県 (Butare)
2.ビュンバ県 (Byumba)
3.チャンググ県 (Cyangugu)
4.ギコンゴロ県(Gikongoro)
5.ギセニ県 (Gisenyi)
6.ギタラマ県 (Gitarama)
7.キブンゴ県 (Kibungo)
8.キブエ県 (Kibuye)
9.キガリ郊外県(Kigali Rural)
10.キガリ (Kigali Ville)
11.ルヘンゲリ県 (Ruhengeri)
12.ウムタラ県 (Umutara)

経済[編集]





首都キガリ中心街
詳細は「ルワンダの経済」を参照

通貨はルワンダ・フラン。一人当たりの国民総生産は1995年に180ドル。これは周辺国と大差ない。労働人口の約9割が農業に従事しており、小国ながら世界生産シェア10位以内に記録される産物も2つある。また湖での漁業従事者もみられる。国土及び可耕地に対して人口が極めて多く、人口過剰が問題となっている。国土は緩やかな丘陵が中心で、丘陵の最上部まで段々畑が広がっている。そのため、土壌流出が問題となっている。

鉱業[編集]

ルワンダの中心的産業は農業であるが、輸出において最も重要な資源は商品作物であるコーヒーではなく、鉱物資源である。

ルワンダはアフリカ大地溝帯に位置するため、海嶺型の鉱物資源を産出する。生産量が最も多いのはスズ(170トン、2002年時点)である。経済的に重要なのはタングステン(150トン)で、世界第8位の産出国であり、タングステンだけで同国の輸出額の約3割を担っている。このほか金(10kg)と天然ガス(13兆ジュール)を採掘している。

アフリカの奇跡[編集]

世界中にディアスポラしたルワンダ人が農業、観光産業、不動産に投資し、目覚しく成長しており、この現象を指して「アフリカの奇跡」と呼ばれている。

国民[編集]





農村部の子供たち
詳細は「ルワンダの国民」を参照

民族[編集]

国民の84%がフツ、15%がツチ、1%がトゥワである[2]。

言語[編集]

公用語はルワンダ語、フランス語、英語である。ルワンダ語がほぼ100%の国民に理解されるサブサハラアフリカでは稀有な単一言語的な国である。伝統的にフランス語圏であるが、英語圏であるウガンダに逃れていたカガメ大統領をはじめとする現政権のルワンダ愛国戦線が主に英語話者であり、フランス語が話せなかったことと、現政権と関係の深いアメリカ合衆国とイギリスの後押しもあり、2008年に公用語にそれまではルワンダと全く関連の無かった英語が追加され、2009年にはイギリス連邦に加盟した。同年、教授言語はベルギーによる植民地支配以来続いていたフランス語から英語へと変わり、政府要人にも英語を学ぶように要求しているなど、実質的にフランス語圏から英語圏への脱却を図っている。既に政府等の公的機関のウェブサイトも英語版のみでありフランス語版は存在しないなどフランス語の排除が進む。また、国民の100%が理解するルワンダ語でさえ学校教育ではほとんど使われていない。

その他にもスワヒリ語が商業で使用されている[2]。

国民の大半はフランス語を話せることはできても英語をほとんど話せない状況であったのにもかかわらず、新政権の判断で、短期間でフランス語圏から英語圏へと変わった世界でもまれな国であり、これは英語圏と仏語圏による代理戦争の代償とも言われる。

宗教[編集]





ルワマガナ(英語版)のカトリック教会
2001年の統計によれば、ローマ・カトリックが56.5%、プロテスタントが26%、アドベンチスト教会が11.1%、ムスリムが4.6%、土着信仰が0.1%、無宗教が1.7%である[2]。

教育[編集]

詳細は「ルワンダの教育」を参照

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は70.4%(男性:76.3%、女性:64.7%)である[2]。2005年にはGDPの3.8%が教育に支出された[2]。

主な高等教育機関としてルワンダ国立大学(1963)の名が挙げられる。

2007年時点では国際人権A規約の「中・高等教育の無償化」の条項を留保しているのは、ルワンダとマダガスカル、日本の3か国のみであったが、2008年12月にルワンダは留保を撤回した[8]。

IT立国を目指す政策により、電気のない地域にもインターネットなどができるバスを導入したり、簡易パソコンを使った初等教育を行っている。またITを教える高等専門教育機関も日本の援助で設立され、公用語のフランス語ではなく英語によって授業が進められている。

保健[編集]

「ルワンダにおけるHIV/AIDS」も参照

ルワンダにおける2007年のHIV感染者は推計で約150,000人であり[2]、感染率は2.8%である[2]。ルワンダ人の平均寿命は56.77歳(男性:55.43歳、女性:58.14歳)である[2]。

文化[編集]

祝祭日[編集]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日
1月28日 民主制の日
2月1日 国家英雄の日
3月または4月 聖金曜日
3月または4月 イースターマンデー
4月7日 大量虐殺追悼記念日
5月1日 メーデー
7月1日 独立記念日
7月4日 自由の日
8月15日 聖母被昇天祭
10月1日 愛国記念日
11月1日 諸聖人の日
12月25日 クリスマス
12月26日 ボクシング・デー
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ナイル川

ナイル川(アラビア語: النيل‎ (an-nīl)、英語: the Nile、フランス語: le Nil)は、アフリカ大陸東北部を流れ地中海に注ぐ世界最長級の河川である。長さは6,650km、流域面積は2,870,000km2にのぼる。



目次 [非表示]
1 概要
2 水文
3 地史
4 歴史 4.1 ナイル川源流の探索
4.2 植民地化

5 開発
6 河川交通
7 支流
8 脚注
9 関連項目


概要[編集]





ナイル川




ナイル川上流部




ハルツーム郊外での白ナイル川と青ナイル川の合流




ナイル川流域図
一般にはヴィクトリア湖が源流だと思われているが、ヴィクトリア湖には多数の流入河川が存在し、一方でヴィクトリア湖からの流出河川はナイル川しか存在しないため、ヴィクトリア湖をナイル川水系に含み、そこに流れ込む河川の長さもナイル川の長さに加算するのが普通である。ヴィクトリア湖に流れ込む河川のうちで最大最長のものは、ルワンダに源を持ち、ルワンダとブルンジやタンザニアの国境をなし、さらにタンザニアとウガンダの国境をなした後タンザニアのブコバ市北方でヴィクトリア湖に流れ込むカゲラ川である。そのカゲラ川の支流のうちでもっとも長いものは、ブルンジ南部のブルリ県を水源とするルヴィロンザ川(Ruvyironza)であり、これがナイル川の最上流であるとされる。

ヴィクトリア湖(標高1134m)は赤道直下のサバナ気候であり、降水量も多い。ヴィクトリア湖から下流はヴィクトリアナイルとも呼ばれる。ヴィクトリア湖からのナイル川の流出口は湖北部のジンジャであり、流出口には記念碑が建てられているほか、オーエン・フォールズ・ダムが建設され、発電をおこなっている。ヴィクトリア湖から約500km下流に行くとキオガ湖を経て、120mの高さのあるマーチソン・フォールズをとおり、アルバート湖(標高619m)に着く[1]。アルバート湖には、ほかにもウガンダ南西部のジョージ湖からカジンガ水路、エドワード湖を通って流れてきたセムリキ川が注いでいる。アルバート湖からはアルバートナイルとも呼ばれる。南スーダンに入り、急流を一つ越えると首都ジュバである。ジュバからは勾配が非常に緩やかとなり、少し北のモンガラ市周辺からはスッドの影響を受けるようになる。支流のバハル・エル=ガザル川(Bahr el Ghazal)とノ湖で合流し、そこからは白ナイル川とよばれる。このあたりはスッドと呼ばれる大湿原となっており、ここで蒸発して流量が激減する。帆船時代はここは複雑な流路と生い茂る水草によって南北の交通を阻む障壁となってきたが、蒸気船の登場以後は航路が設定されるようになった。さらに、スッドの出口であるマラカル市の南でソバト川を合わせる。マラカルからハルツームまでの800kmの標高差は12mにすぎず、非常に緩やかな流れとなる[2]。

白ナイル川はスーダンのハルツームで、エチオピアのタナ湖から流れてくる青ナイル川と合流する。ハルツームを過ぎて80kmほどで、ナイル川には再び急流が出現する。これは北から数えて6番目の急流のため、第6急流と呼ばれる。ここからエジプトのアスワンまでの間にある6つの急流は、エジプトとスーダンの間の舟運を拒み、交通の障害となってきた。しかし、この急流の区間は古くからエジプトの影響を受け、ヌビアと呼ばれて独自の古代王国を築いていた。第6急流の北、200kmほどのところには古代のクシュ王国の都であったメロエ(Meroë)がある。さらにその北、ハルツームから約300km下流のアトバラで支流のアトバラ川と合流する。これ以北は完全な砂漠気候であり、ナイル河谷を除いてほとんど人は住まなくなる。また、これ以北ではナイルに注ぎ込む常時水流のある支流は存在せず、わずかに降水時に水の流れるワジが点在するのみとなる。第4急流付近には、メロエ以前にクシュの首都であったナパタ(ゲベル・バルカル)がある。この付近に2009年メロウェダム(Merowe Dam)が完成し、大規模な発電を開始した。エジプトに入ると、アスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖がある。ナセル湖の長さは550kmに及び、その南端はスーダン最北の町ワジハルファを越えさらに南まで延びている。アスワン以北は古くからの「エジプト」であり、幅5kmほどのナイル河谷に人が集住するようになる。アスワンからカイロまでは上エジプトと呼ばれる。この区間ではナイル川はほぼ一本の河川であるが、北西へと流れる支流があり、カイロ南西にファイユーム・オアシスを作ってカルーン湖に注ぎ込む。それからさらに北へ流れ、カイロから北は三角州が発達している。ナイル川三角州は下エジプトとも呼ばれる。三角州はアレクサンドリアからポートサイドまで約240kmの幅を持ち、東のロゼッタ支流と西のダミエッタ支流という二つの主流と多くの分流に別れ、地中海に注いでいる。

水文[編集]





最上流のルスモ滝付近で合流するルブブ川とカゲラ川




タナ湖より流れ出す青ナイル川


世界主要河川の比較



アマゾン川

ナイル川

ミシシッピ川

長江

ヴォルガ川

コンゴ川

長さ(km) 7,025 6,671 3,779 6,300 3,700 4,700
流域面積
(100万km2) 7,0 2,9 3,2 1,8 1,3 3,7
平均流量
(1000m3/s.) 209 2-3 18 32 8 41

上流のアルバート湖付近のアルバート・ナイル川の流量は約1,048立方メートル/秒であり、一年を通じて大きな変化は無い。南スーダンのサッド湿地においては蒸発散により、流量が大きく減少し約510立方メートル/秒となる。サッド湿地を下り、ソバト川と合流する。ソバト川はエチオピア高原に源流を持つため流量の変化が大きく、増水期の3月には約680立方メートル/秒であり、渇水期の8月には約99立方メートル/秒となる。増水期には浮遊物が多く、これがナイル川に流れ込み、白ナイルの語源となっている。ソバト川の影響により、合流点付近の白ナイル川の流量も約609立方メートル/秒から約1,218立方メートル/秒の範囲で変化している。

その後、ハルツームで青ナイル川を、アトバラでアトバラ川と合流する。アトバラより下流では、砂漠気候の中を流れ、大規模な河川の合流は無い。この地方のナイル川は、乾燥地帯を流下するために蒸発散による影響を大きく受ける。1月から6月にかけての乾季の間、青ナイル川の流量は約113立方メートル/秒であり、ナイル川の流量のうち、白ナイル川からのものが7割から9割をしめる。アトバラ川は雨季以外ほとんど流量は無い。

アトバラ川も青ナイル川もエチオピア高原に源流を持つため、高原の雨季には両河川の流量は大きく増大する。特に青ナイル川の流量増大は非常に大きなもので、8月の青ナイル川流量は約5,600立方メートル/秒以上となり、ナイル川の流量のうち8割から9割をしめる。また、特に青ナイルは標高1800mのタナ湖から短い距離の間に急激に高度を下げるため、河床を侵食し大量の堆積物を下流にもたらす。この土は肥沃であり、洪水時に堆積するエジプトにおいて長い間富をもたらしてきた。アスワン・ハイ・ダム建設以前のエジプト・アスワンにおける流量比は渇水期と増水期で15倍に達した。1971年のダム建設後は、ダム下流のエジプトにおいて一年間の流量変化はほとんどなく、年間通じて同じ水量が流れている。

地史[編集]

ナイル川は、エチオピア高原が隆起してきた白亜紀以降に形成されたと考えられている。中新世以降、その状況は5つの時期に分類される。中新世の頃のものは古ナイル(Eonile)と呼ばれ、侵食系であった。その頃は地中海海盆は干上がっており、この盆地に向けて峡谷が形成されたものと思われている。古ナイルによって形成された峡谷は埋積され、現在ではそれらの領域の一部にガス田が見られる。現在のナイル川となったのは更新世末期のことである。[3]12500年前には最終氷期の終わった影響によってヴィクトリア湖の水位が急激に上昇し、それまで閉鎖湖だったものが北のナイル川水系へとあふれ出した[4]。このときに、ヴィクトリア湖は現在のナイル川水系に接続された。

歴史[編集]





ナイル川を指すヒエログリフ。発音はIteruである




メロエのピラミッド上空写真




紀元前6世紀ごろアナクシマンドロスの世界地図の再現




紀元前450年ごろ、ヘロドトスの世界地図の再現




1500年ごろのピーリー・レイースの地図におけるナイル川
ナイル川流域、特に下流のエジプトは、世界で最も古い文明の興った土地として知られている。エジプト語では大きな川という意味のIteruと呼ばれた。紀元前3800年ごろにはすでに古代エジプト文明が成立しており、紀元前3150年ごろには統一国家を形成してエジプト古王国となり、以後も肥沃なナイル川流域を基盤として独自の文明を築いた。その南にひろがるヌビアにおいても、エジプト文明の影響を受ける形で王国が形成され、紀元前2200年頃にはクシュ王国が建国された。クシュはエジプト新王国のトトメス1世によって滅ぼされるものの、紀元前900年ごろ、ナイル第4急流のそばにあるナパタ(ゲベル・バルカル)において再興し、紀元前747年には逆に第3中間期のエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を建設した。50年後にアッシリアのアッシュールバニパルに敗れ第25王朝はエジプト支配を失うが、ナパタの王朝はそのまま存続し、紀元前6世紀頃に南のメロエへ遷都したのちも長く栄えた。メロエは鉄鉱石と樹木が豊富であり、さかんに製鉄が行われた。

やがて下流のエジプトはペルシア帝国に支配され、アレクサンドロス帝国に支配された後、ギリシア系のプトレマイオス朝のもとで独立を回復したが、紀元前30年、クレオパトラ7世の時代にアクティウムの海戦によってローマ帝国に支配され独立を失い、皇帝直轄地アエギュプトゥスとなった。しかしヌビアの独立はこの時代も保たれた。メロエの王国が滅ぼされたのは350年ごろ、エチオピア北部を本拠とするアクスム王国によってとされているが、異説もある。メロエ滅亡後、ヌビアは北のノバティア、ドンゴラを首都とする中部のマクリア、ハルツーム周辺を本拠とする南のアロディアの3王国に分かれた。このころ、395年にはローマ帝国は東西に分裂し、エジプトは東ローマ帝国領となった。4世紀から5世紀にかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教が受け入れられるが、639年のイスラム帝国の侵攻によってエジプトは征服され、以後イスラム化した。ヌビアではキリスト教王国がその後も長く命脈を保ったものの、北のイスラム勢力からの圧力によって徐々に弱体化し、最後まで残ったアロディアも14世紀ごろには滅亡して、イスラム教徒によるフンジ王国などが立てられた。19世紀に入るとエジプトでオスマン帝国から半独立の王朝を作り上げたムハンマド・アリーがヌビアへと侵攻し、フンジ王国を滅ぼし、さらにその南に居住するヌエル人やディンカ人、シルック人を征服して、現在のスーダンの版図にいたる中流域をエジプトの支配下に組み入れた。イスマーイール・パシャの時代にはさらに南下し、1869年にはスーダン南端のゴンドコロ(現在のジュバ)まで進出して赤道州を設置し、1874年にはチャールズ・ゴードンを初代総督に任命してウガンダ方面への進出を図った。

いっぽう、上流域においては難所や急流によって中下流域とは断絶され、ほとんど関係のない歴史を歩んだ。15世紀ごろにはヴィクトリア湖畔に領域国家が出現し、19世紀にはいるとモンバサなどのインド洋沿岸のスワヒリ文化圏からのキャラバン・ルートが上流域に到達して、ブニョロ王国やブガンダ王国などがインド洋のアラブ人交易圏と遠距離交易を行いながら繁栄した。

ナイル川源流の探索[編集]

ナイル川源流を探ることは古代より行われていた。しかし、サッド湿地などの航路の難所を越えることができず、源流は不明のままであった。古代の地理学者もナイルの源については知らず、さまざまな推測によって地図を描くよりほかはなかった。紀元前5世紀のヘロドトスはナイル川は西アフリカから東進した後北上してエジプトに流れ込むと考えていた。1世紀にはギリシアのディオゲネスという船乗りがインド洋交易の帰途に東アフリカの海岸から内陸部に入り込み、25日間ナイルの源流を求めて奥地へ旅をしたとされる。彼の報告に基づき、2世紀の地理学者クラウディオス・プトレマイオスは、「月の山」とそのふもとの2つの湖がナイル川の水源であると考えた。アラブ人もナイルの源流については知らず、1355年に出版されたイブン・バットゥータの著書『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』でもニジェール川をナイルと記し、ニジェール川はナイル川の支流であると考えていた記載がある[5]。16世紀ごろからエチオピアとヨーロッパとの交流が始まるにしたがって青ナイル周辺の地理は判明し始め、1615年にはポルトガルのイエズス会の修道士であるペドロ・パエスがタナ湖を発見している。1770年にはスコットランド人の探検家ジェームズ・ブルースが探検を行い、彼によって青ナイル川の源流がタナ湖であることがヨーロッパ人にも知られるようになったが、白ナイル川については不明のままであった。

19世紀初頭には北のエジプトの総督がスーダン進出と同時にナイル川の源流探査を行い、1842年にはゴンドコロまで達したものの、その南までは進めなかった。19世紀中盤に入るとヨーロッパ人のアフリカ探検が盛んになり、ナイル源流の探索もその主要なテーマの一つとなった。1858年にイギリス人の探検家ジョン・ハニング・スピークがヴィクトリア湖を発見した。彼は、リチャード・フランシス・バートンとともにナイル川の水源を探す探検を行い、まず二人でタンガニーカ湖を発見した。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、1858年8月3日、ムワンザでヴィクトリア湖を「発見」した。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、スピークの探検では、湖がナイル川の水源である事は確認できななかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した[6]。この論争に決着をつけるべくスピークは1860年9月よりジェームズ・オーガスタス・グラントとともにザンジバルを出発して再び探検を行い、1862年7月28日、ヴィクトリア湖北岸のジンジャから大きな川が北へと流れ出していることを確認した[7]。スピークはこの流出地点にある滝をリポン滝と名づけ、これで謎は解明されたと考えて帰路に着いたが、しかし、この探検でも謎は残ったままで、論争はさらに続いた。1864年9月には両者の討論会が予定されていたが、その前日にスピークは銃の暴発事故で死亡してしまう。この死には不明な部分が多く、さらに論争の一方の当事者が死去してしまったことからナイル源流論争はさらに混乱した。その上、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻が1864年3月14日にアルバート湖を発見し、1866年にその結果を発表したため、混乱は頂点に達した。

この論争を受けて、デイヴィッド・リヴィングストンがこの地域を探検したが、彼はベーカーよりもさらに南、ルアラバ川とその源流のザンビアにあるバングウェウル湖がナイルの源流であると考え、探査を行った。この探検の途中でリヴィングストンはヨーロッパとの連絡が一時途絶え、アメリカの新聞が派遣したヘンリー・モートン・スタンリーとウジジの村で邂逅するなど困難を重ねたが、源流の確定には至らず客死した。その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーは1875年、リポン滝を確認した後で湖を周遊し、これによってヴィクトリア湖がナイル川の源流であると確定された[8]。その後も、ヴィクトリア湖に流れ込む川の探検が続けられており、カゲラ川やその支流のルヴィロンザ川やなどが源流とされるようになってきている。真の源流の探索は21世紀に入っても続けられており、2006年にもブラジルとニュージーランドの探検家が新しい源流を発見している。

植民地化[編集]

ナイル川の源流がほぼ確定されると、イギリスをはじめとするヨーロッパ列強がこの地域に食指を伸ばし始めた。とくに最下流のエジプトに強力な利害を持つイギリスが熱心であった。もしナイル上流がほかの列強によって支配された場合、ナイルの水に頼っているエジプトが甚大な被害をこうむる可能性があったからである。こうした中、エジプトの圧政に耐えかねた人々の中からモスリムのシャイフであるムハンマド・アフマドが立ち上がり、1881年にマフディー戦争を起こす。1882年にエジプトを保護国化したイギリスはチャールズ・ゴードンを派遣したが1885年にハルツームが陥落し、ゴードンも殺害されて、マフディー国家はほぼ現在のスーダンの領域まで領土を拡大させ、イギリスは一時スーダンからの撤退を余儀なくされた。しかし、その南方にあるエジプト最南端の赤道州には総督エミン・パシャが残留しており、孤立しながら何とか独立を保っていた。このエミン・パシャの扱いが、のちにイギリスとドイツの間の争点となることとなった。エミン・パシャは本名をシュニッツァーというドイツ人であり、彼を救出すると称してイギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣したのである。この救出作戦はヘンリー・モートン・スタンリー率いるイギリス隊に軍配が上がり、1889年にエミン・パシャは「救出」されて赤道州政府は滅亡した。これに対して出遅れたドイツ隊はブガンダ王国と友好条約を締結するなどしてこの地域に進出を図ったが、結局1890年8月10日、ヘルゴランド=ザンジバル条約により南緯1度の線に両国の境界線が引かれ、ナイル上流域はすべてイギリスの勢力範囲となった。これに基づいて、ナイル最上流にあたるヴィクトリア湖周辺にもイギリスの触手が伸びた。ブガンダ王国やブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といった国々と条約を締結し、1894年にはウガンダ保護領が成立した[9]。

このころ、アフリカ最南端のケープ植民地首相に就任したセシル・ローズはカイロからケープタウンまでの鉄道(ケープ・カイロ鉄道)と電信を敷設する政策を提唱し、アフリカをイギリス植民地で南北に縦断させるアフリカ縦断政策が3C政策の一環としてイギリス政府によって採られるようになった。これに伴い、再びナイル川流域にイギリスの目が向けられるようになった。1898年にイギリスは再びスーダンに侵攻し、同年のオムドゥルマンの戦いによってホレイショ・キッチナーの指揮の元マフディー国家をほぼ滅亡させた。しかしこのころ、フランスはアフリカ大陸最西端のダカールからサヘル地帯を次々と植民地化し、フランス植民地によるアフリカ横断(アフリカ横断政策)を狙っていた。この二つの政策は、オムドゥルマンの戦いから一週間後に、スーダン中央部(現在の南スーダン北部)のナイル沿いの都市、ファショダ(コドク)にて衝突する。フランス領赤道アフリカ首府のブラザヴィルから出発したジャン・バティスト・マルシャン将軍の軍が2年間かけてファショダに到達し、マフディー国家消滅の混乱をついてファショダを占領したのである。これはファショダ事件と呼ばれる。キッチナーの軍はファショダに急行して両軍はにらみあったが、フランスが譲歩して撤退し、ナイル川流域のイギリスの覇権はこれで確立された。この年、イギリスとエジプトの共同統治領英埃領スーダンが成立し、こうして、マフディー国家の滅亡とともにナイル川の流域のほとんどはイギリスによって一体的に統治されることとなった。

その後、1922年にエジプトが、1956年にスーダンが、1962年にウガンダがイギリスから独立し、この地域はすべて植民地支配から脱却した。しかし、上流域のウガンダやスーダンにおいては内乱や紛争が絶えず、とくにスーダンにおいては北部のアラブ人イスラム教徒と南部の黒人系キリスト教徒との紛争が激化して、1955年から1972年の第一次スーダン内戦、1983年から2005年にかけての第二次スーダン内戦が起きた。これにより、この地域の開発は遅れ、多くの死者が出た。結局、2005年の和平合意に基づいて2011年に2011年南部スーダン独立住民投票が行われ、圧倒的多数の支持を受けて同年南スーダン共和国が独立した。

開発[編集]





ローダ島のナイロメーター
ナイル川の肥沃な流域は世界四大文明のひとつであるエジプト文明を育んだ。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記している。ナイル川は7月中旬、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。この洪水は上流より肥沃な土壌をエジプトをはじめとするナイル河畔にもたらしていた。しかも、水位の上下はあれど氾濫が起きないことはなく、鉄砲水のような急激な水位上昇もなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。砂漠気候でほとんど雨の降らないエジプトにおいて、この氾濫は文明の屋台骨とも言えるものであった。この氾濫の時期を知るために世界最古の暦のひとつであるシリウス暦が作られ、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するために測量と幾何学が発達した。古代エジプト崩壊後も歴代の統治者はナイルを重視し続けた。ナイルの水位を知るための水位計(ナイロメーター)が各地に設置され、716年に建設されたカイロのローダ島のもの[10]をはじめ、アスワンのエレファンティネ島などに現在でも数基が残存している[11]。





アスワン・ハイ・ダム
この古来よりの農法が変化するのは19世紀に入ってからである。産業革命によって綿布の生産力が飛躍的に向上し、原料としての綿花栽培がさかんになると、それまでの浅い水路を掘って洪水時の水をためていたベイスン灌漑方式に変わり、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の深い水路が掘られ、通年耕作が可能となった[12]。夏運河からは水車などで水がくみ上げられ農地へと供給された。これによってエジプトにおいて洪水は農耕に必要なものではなくなり、逆に洪水を起こさないようコントロールする必要に迫られることとなった。そこで1901年には水害を防ぐためアスワン・ダムが建設されたが、治水能力は大幅に向上したものの完全に洪水を止めるところまでは行っていなかった。そこで1952年にエジプト革命によって政権を握ったガマール・アブドゥル=ナーセル政権はアスワン・ハイ・ダム計画を推進し、1970年に完成させた。アスワン・ハイ・ダムが建設されることで、ナイルの洪水を完全に防ぐことができるようになり、これまで洪水期には使用できなかった広大な農地を使用することが可能となった。さらに、ナセル湖からワーディー・ゲディード県などへの送水によって2250km3の農地開発を目的としたトシュカ・プロジェクトが1998年に着工され、2003年に完成する[13]など、大規模な開発が進められた。アスワン両ダムの発電量は当時のエジプトの半分近くにも及んだ。湖の出現によってこの地域では漁業も盛んとなった。一方でアスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、アブ・シンベル神殿やヌビア遺跡などの貴重な古代エジプトの文化遺産がダム湖に沈む為、遺跡の高台への移動を余儀なくさせられている。また、ナイル川が運んで来る肥沃な土壌が農地に届かなくなったため、肥料の大量投入によって地力を維持せざるを得ない状況となっている。現在、ナイル川下流地域では灌漑による塩害の発生や土砂の流出などに悩まされており、エジプト政府はこの対策をせまられている。





アスワン付近
また、その南にあるスーダンにおいても、1920年代からはじめられたゲジラ計画や1966年のロセイレス・ダムなどの建設によって、水利用と開発が進んだ[14]。とくにゲジラ計画は、青ナイル川のセンナールダムから大規模な幹線水路を引き、肥沃なハルツーム南のジャジーラ州をかんがいするもので、のちに白ナイル水系にも1937年にジェベルアリダムを建設して水を引き、最終的には灌漑水路の総延長は4300km、灌漑エリアは8,800 km2にもおよぶ大規模なものであり、この完成によってスーダンははやくも1930年代には世界有数の綿花生産国になる[15]と同時に、小麦などの生産も向上して「アフリカのパン籠」と呼ばれるまでになった。その後もナイル川の開発は進められ、1970年代後半にはスッドにてナイル川の水量を増すためのジョングレイ運河の建設が進められたが、環境への影響と政情不安によって計画は放棄された。2009年にはハルツームの北にメロウェダムが建設された。

ナイル川の水は周辺諸国にとって貴重なものであり、激しい争奪戦の的となってきた。とくにエジプトは国土全域でほとんど降雨がなく、外国からの流入地表水への依存率は97%(1996年)にも達する[16]。エジプトに流入する河川はナイル川しか存在しないため、この依存率はそのままナイル川への依存率であり、ナイルの水なしではエジプトが存立し得ないことが示されている。このことから、1929年にはエジプトとイギリス(スーダンをエジプトと共同統治していた)の間で水利協定が結ばれた。この協定において、両国間の水配分が決定され、エジプトは自らの水の利用に影響する上流での河川開発事業において拒否権を保持することが定められた。さらに1959年にはスーダンとエジプトの間に新たな水利協定が結ばれ、ナイルの年間水量840億m3のうち蒸発分100億m3を除いた555億m3がエジプト利用分、185億m3がスーダン利用分と決定された[17]。この配分や既得権はエジプトにとって非常に有利なものであるため、特に上流域諸国において不満が高まっていた。そこで1999年2月にナイル川流域イニシアチブ(Nile Basin Initiative、NBI)が流域9カ国によって結成され、ナイル川の総合開発や水資源の配分について総合的に話し合う場となった。しかし上流域の不満は大きく、2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定が提案された。これは他国に影響を与えない範囲で自国内の水資源を自由に使えるようにするもので、上流域諸国の広い支持を得たものの、下流に当たるエジプトとスーダンは水の割当量減につながるとしてこれを拒否。一方上流域にあたるエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアはこれに署名を行い、両陣営間の対立が表面化した[18]。

河川交通[編集]





カイロ市内




ナイル川
ナイル川、特に白ナイル川は全般的に勾配は緩やかであるが、何ヶ所か急流や滝が存在するため、河川全域を通じての通航はできない。しかしその部分を除けば航行は可能であり、河口からアスワンの第一急流までの間は古来より交通路として非常に重要な地位を占めてきた。古代エジプト文明の時代より、エジプト人はナイル河畔に居住していた。特に第一急流までの間は河川交通によって密接に結ばれており、河口からここまでが「エジプト」として認識される部分であった。エジプト文明が強力になるにつれて、その影響力は徐々に次の急流にまで伸びていった。エジプト中王国期のエジプト第12王朝時代には第二急流のすぐ下流にまで南限が達した[19]。急流部分には町が作られ、交通の結節点となった。こうしてナイル川を河川交通路として利用することにより、エジプト文明の影響力は最盛期には現在のエチオピアなど上流部にまで及んでいた。冬季においては季節風を利用し、帆掛舟により、川を遡行することができた。現在でも、ファルーカと呼ばれる帆船が、交通手段として利用されており、観光船の運航も行われている。

アスワンの南の第一急流には現在アスワンハイダムが建設され、できたナセル湖にはアスワンとスーダン最北の街ワジハルファの間に定期船が就航している。ナセル湖にはアブ・シンベル神殿などの観光遊覧船も就航し、多くの観光客を集めている。

スーダンにおいても、ナイル川の河川交通は重要である。白ナイル州の南部にあるコスティ市から南スーダンの首都ジュバにいたる1436kmの水路は、道路交通の発達していないこの地域においては生命線となっている[20]。この間には、ナイル川の河川交通の難所として知られていた南スーダンのスッド湿地がある。この区間には多目的利用のジョン・グレイ運河建設計画があったが、生態系への影響や、スッドを通り抜ける風が湿度を失うことによってスーダン北部の砂漠化がより進行することへの懸念、流域の政情不安などから、計画は1985年以来凍結されたままとなっている。

ウガンダにおいては過去に蒸気船航路が開設されたことがあるものの、現在では定期航路は開設されていない。

支流[編集]

括弧内は最長流路上の河川。下流より記載。
アトバラ川
青ナイル川
(白ナイル川) ソバト川
バハル・エル=ガザル
セムリキ川 カジンガ水路

(カゲラ川) (ルルブ川) (ルヴィロンザ川)



ユーフラテス川

ユーフラテス川(Euphrates)は、トルコ北東部の山地を源流としてシリアを通過し、イラクでチグリス川と合流してシャットゥルアラブ川となり、最終的にペルシア湾に注ぐ国際河川である(河口付近はイランとイラクの国境になっているが、国境線の位置をめぐって紛争になっている)。全長2780キロメートル。ただし「ユーフラテス川水系本流の全長」ということであれば、シャットゥルアラブ川と併せた2980kmということになる。

日本語名のユーフラテスはギリシア語の Ευφράτης Euphrátēs に由来するラテン語名の Euphrates にちなみ、アラビア語ではフラート الفراتal-Furāt 、トルコ語ではフラト Fırat という。

流域人口500万人。沿岸地域では農業・遊牧が多く営まれている。イラク国内では非常にゆるやかに流れ、いかだのような原始的な船でもかなり上流まで航行できる。

数千年前、この川と隣のチグリス川の水は、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を形成し、中東最初の文明を構築することに貢献した。下流域は古代メソポタミア文明の発祥地として知られ、古代ローマとパルティア及びサーサーン朝の境界線(リメス)としての役割も果たした川である。 これらの2つの川は、イラク国内では隣同士を流れており、遠く離れることがない。

この川はイラク国内では湿原をつくっていたが、1990年代に、当時の大統領サダム・フセインに非協力的な民族(マーシュ・アラブ(英語版))を排斥するために、湿原を干拓してしまった。排水装置は2003年のイラク戦争で破壊されたが、湿原帯が復活するかどうかは不明である。

伝説[編集]

『旧約聖書』にも פְּרָת Pĕrāṯ の名が出ており、その源はエデンの園であるとされる。

古代ローマの詩人マルクス・マニリウスは、愛の女神ウェヌスが怪物テュポンから逃れるためこの川に身を投じ、魚に変身したと伝えている。この伝説には飛び込んだ川をナイル川やエリダヌス川(古典ギリシア語: Ἠριδανός - ラテン語: Eridanus)とする異伝もあるが、いずれにせようお座と結び付けて考えられている。

チグリス川

チグリス川(またはティグリス川)は、トルコを源流とし、イラクをほぼ南北に縦断してペルシア湾に流れる川。河口近くでユーフラテス川と合流し、シャットゥルアラブ川と名前を変える。全長約1900キロメートル。多くの支流を持つ。

日本語名のチグリス(ティグリス)は英語など西欧諸言語による綴り「Tigris」にちなみ、アラビア語ではディジュラ(虎の意)、トルコ語ではディジュレという。シュメール時代にはイディグナと呼ばれていた。

この川と、隣をほぼ平行に流れるユーフラテス川をはさんだ地帯は古くからメソポタミア文明が栄えたことで知られる。

古代メソポタミア文明時代から、この川を利用して灌漑が行われている。

サダム・フセインの故郷として有名になったティクリートもこの川沿いにあり、都市の名称も川の名前にちなんでいる。

アッシリア

アッシリア(Assyria)は、メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域、またはそこに興った王国。首都は、初期はアッシュールで、後にニネヴェに遷都した。南側にバビロニアと隣接する。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。アッシリアの偉業は、ペルシア帝国に受け継がれてその属州となった。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 名称
1.2 地理
1.3 民族
1.4 国家体制

2 初期アッシリア時代
3 古アッシリア時代 3.1 社会・経済
3.2 文化

4 中アッシリア時代 4.1 社会・経済
4.2 文化

5 新アッシリア時代 5.1 社会・経済
5.2 文化
5.3 軍事

6 アッシリア帝国滅亡後のアッシリア人
7 アッシリアの君主
8 旧約聖書とアッシリア
9 関連項目
10 外部リンク


概要[編集]

アッシリアの歴史は、主に言語の変化、即ちアッカド語北方方言であるアッシリア語の時代変化に基づいて4つに時期区分される。

初期アッシリア時代は、基本的に文字史料の無い時代である。主に土器の様式の変化によって更に細かく区分されるが、政治史の復元はほぼ不可能と言って良い。末期になると僅かに、シュメール語やアッカド語による文字史料が現れる。後世のアッシリア社会の原型は、この頃既に形成されていたと考えられる。

古アッシリア時代は、アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代で、主に紀元前1950年頃から紀元前15世紀頃までを指す。アッシリア商人や、シャムシ・アダド1世の台頭によって多くの文書史料が残り、アッシリアの政治史が初めて具体的に復元されうる時代である。便宜上アッシュール・ナディン・アヘ2世までが古アッシリア時代とされるが、イシュメ・ダガン1世以降のアッシリア史は史料の欠落によってほとんどわかっておらず、政治史的には別時代である。

中アッシリア時代は、アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代で、紀元前14世紀初頭あたりから、紀元前10世紀の末頃までの時代を指す。アッシリアの君主達が、旧来の「アッシュールの副王」ではなく、「偉大な王、アッシリアの王」を称するなど、大国としてのアッシリアが台頭した時代である。

新アッシリア時代は、アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であった紀元前10世紀の末頃から、アッシリアの滅亡までの時代を指す。この時代アッシリアは、全オリエントを覆う世界帝国を打ち立てた。有名なアッシュールバニパル王の図書館が作られたのもこの時代である。なお、「アッシリア帝国」と「新アッシリア時代」は混同するべきではない。

名称[編集]

「アッシリア」はアッシュルの地を意味するギリシア語表記に由来するヨーロッパにおける呼称で、本来のアッカド語北方方言であるアッシリア語による名称はアッシュル(Asshur)。アッシュルの名はチグリス川上流にあった国土とその中核となった首邑の名であり、かつそれらを神格化した神の名でもあった。アッシリアの名称はアッシュルの意味する意味空間のうち、アッシュルの地、及びそこに成立した古代国家、さらにはその国家がオリエント一帯を征服して成立した大帝国を指す。

地理[編集]

アッシュルの地はバビロニアの北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯であり、クルディスタンやアルメニアの山岳地帯を北の背に、メソポタミアの低地をはるか南方に望む場所に位置している。この土地はバビロニアのようなメソポタミア低地域と異なり、年間降水量が200mm以上あり、農業に灌漑を必要としない。いわゆるドライファーミング(天水農業)地帯である。そのため、バビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁であり、年毎の降水量に左右されて収量が不安定な側面は否めないものの、塩分に弱い小麦を豊富に産した。また、いわゆる肥沃な三日月地帯の中央部でもあるため、メソポタミアとアナトリア半島、シリア、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあった。

民族[編集]

アッシリア人はセム語族に属するアッカド語の北方方言、アッシリア語を用いた集団であるが、非セム語を用いた集団もアッシリア人の形成にかかわっていたと考えられる。また、その民族形成の背景となった上記の地理条件もあって、アッシリア商人は特に古アッシリア時代の200年間はオリエント各地で活躍し、アナトリア半島のカネシュ(現キュルテペ(英語版))など現地の都市に隣接してカールム(港の意)と呼ばれる商業拠点集落を数多く形成していた。

アッシリア、すなわちアッシュル国家は本来はアッシュル市を中心とする狭い範囲を版図とした。歴史の初期にはウル第三王朝の覇権下にあり、またその長い歴史の中で何度も周囲に覇権を拡大してはまた、その覇権を失って新たに台頭した大国、例えばバビロン第一王朝やミタンニなどの覇権下に屈した。しかし諸民族と国々の興亡の激しいオリエント世界で例外的な一貫性をもってよくその中央集権的な国家体制を維持し、紀元前千年紀前半、いわゆる新アッシリア王国と呼ばれた時代にオリエント全域を征圧・支配する大帝国を打ち立てた。しかし、この大帝国が衰退、解体するとともに滅亡し、その1400年間に及ぶ長い歴史に終止符を打った。しかし、この大帝国を統治する制度的な技術はこの後オリエントの広域に覇権を打ち立てた新バビロニア王国や、アケメネス朝ペルシアに受け継がれた。

国家体制[編集]

アッシリアの制度上の君主は神格化された国土、あるいは主邑であるアッシュル神で、人間の君主はアッシュルの副王を名乗った。伝統的なアッシリアの国家体制の中核機関はアールムと呼ばれた市民会であり、国家運営の重要事項をここで審議、決定し、この決定は母国から遠く離れたアナトリア半島などの商業拠点の植民市にも伝えられた。アールムの議長を務めたと考えられる公職にリンムがあり、毎年アッシュル市の有力者の中からリンムが選ばれ、年代の記録はその年のリンム職の人物の名前をもって行った。この紀年法は、その年のコンスル職の人名をもってした古代ローマの制度に似ている。アッシリアの歴史の初期にはアッシリア王(アッシュルの副王)の権力はアールムとリンムによって制限されたものであった。アールムとリンムが職務についた施設が「市の館」で、行政上の署名捺印に用いられる市の館の円筒印章はアッシュル神の印章をも兼ねており、アールムとリンムが伝統的に所持した権威がここにもうかがえる。やがて王権の拡大とともに王がリンムを兼ねることも行われるようになってアッシリア王は強大な権力を振るうようになり、アールムとリンムの権限も形骸化したが、この制度自体はローマ帝国の時代にもコンスルと元老院の制度を維持し続けた古代ローマと同様に、大帝国に発展した新アッシリア王国期を経てアッシリア滅亡まで維持された。




初期アッシリア時代[編集]

「シュメール」も参照

紀元前2000年紀に入る前の初期アッシリアの歴史は、文献史料が殆ど残されておらず、専ら考古学的成果によってその流れを把握するに留まる。

後世アッシリアと呼ばれる地方に人が居住し始めたのは極めて古い。紀元前6000年紀頃のハッスーナ文化(英語版)期には、アッシリア地方の最も早い時期の集落、テル・アルパチア(英語版)、ハッスーナ(英語版)等が形成され始めた。

紀元前5000年紀半ば以降になると南部メソポタミアで発生したウバイド文化が北部メソポタミアにおいてもその全域に広がり、ニネヴェなどに大規模集落が形成されている。これは南部メソポタミアでの灌漑農業の拡大とそれによる人口増加、経済の発展に伴い、各種資源の需要が高まり、金属資源や木材や家畜類などの交易規模が増大した結果、概要にあるようなアッシリアの地理条件のために交易中継地として人々の移動が激しくなった影響で、南部メソポタミアの文化が北部メソポタミア全域にまで拡大したものと考えられる。その後のウルク期を経て、南部メソポタミアとは一線を画す独自の地方文化が形成されて行く事となる。

紀元前3000年紀半ば頃(初期王朝時代(英語版))、後に神格化される都市、アッシュルへの最初の居住が始まった。同じ時期までにカルフ(ニムルド)やアルベラ(エルビル)など、アッシリアの中心的役割を果たす都市の基礎も形成されている。

アッカド帝国の時代には既に都市国家として独自の政治体制が確立されていたと考えられる。アッカド帝国やウル第三王朝の時代にはその覇権下に置かれ、建築事業などの一部が文字記録として残されるようになる。アッカド・ウル第三王朝の時代と前後して、都市アッシュルの神格化が進み、政治的一体性を持った地方としてのアッシリアと、アッシリア社会の原型が形成された。そして、紀元前2000年頃、ウル第三王朝の滅亡と前後してアッシリアが歴史に登場する古アッシリア王国時代へと入っていく事となる。

古アッシリア時代[編集]





シャムシ・アダド1世時代の各勢力範囲
詳細は「イシン・ラルサ時代」を参照

紀元前2000年紀に入ると、アッシリア史が具体的に姿を現し始める。この時代のアッシュールは、まだ都市国家の一つに過ぎなかったが、アッシリア商人は交易活動を広く行い交易先の各地の都市に隣接して商業植民市カールム(港湾区)を作ったことで知られる。またその他にも、ワバラトゥムと呼ばれる居留区を作り、北メソポタミア一帯をその商圏とした。

国家制度の点では、アッシュル市が極めて重要な意味を持った。この頃には既にアッシュルの神格化は完全に進んでおり、この都市名を記述する時には神を意味する限定詞ディンギルが付された他、地名を意味する限定詞キが付された場合や、限定詞無しの場合でも、同じようにアッシュル神を指した。そして、アッシュル市ではアールムと呼ばれる市民会の決定が重要視され、その決定は遠くアナトリア半島などの商業拠点にも伝えられていたが、そのアールムの議長を務める役職として、リンム職がエリシュム1世によって初めて設けられ、アッシリア政治制度の根幹が完成された。

この時代のアッシリア王は、その称号としてアッシュルの副王を名乗っており、神格化された国土アッシュルと人間との関係を祭礼によって仲介することで市の繁栄を保障する役割を負った。また王は同時に商人達の統率者であり、監督官(ワクルム、新アッシリア時代にはウクル)と言う称号を用いて司法権を行使し商業上のトラブルを治めた。

政治史的には、紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人、シャムシ・アダド1世の存在が極めて重要である。彼はアッシリアにシュバト・エンリル市を築き、そこを拠点にオリエント最大の王国を築きあげたほか、バビロニア風の王権概念を持ち込んで自らを「世界の王」と称した。またアッシリア王名表が初めて編纂され、その王統譜が整理された。だが、彼の後継者達はその巨大な王国を維持することが出来ず、王の称号もアッシュルの副王に戻り、世界の王を称する者は古アッシリア時代を通じて現れなかった。紀元前1750年頃以降の時代は、文献史料も見つかっておらず、中アッシリア時代に入るまでの歴史は殆ど明らかになっていない。アナトリア諸都市に設けられたカールムなどの商業拠点もヒッタイトの台頭によって破壊されたと考えられており、この時代の終わりとともに戦火によって廃絶している。

社会・経済[編集]

アッシリア商人達にとって取り分け重要だったのはロバを用いたバビロニアとアナトリアの間の中継貿易であり、その拠点として作られたカールムの一つカネシュ(現キュルテペ)からは、当時のアッシリア商人達が残した商業文書が多数発見されている。アッシリア商人は、バビロニア産のヒツジの毛織物や、ザグロス・バクトリアの錫をアナトリアで売買して利潤を得た。ことに青銅器の急激な普及によって、その製造に必要な錫の需要が高まっていたことは、アッシリア商人が躍進した原因の一つである。アッシリア商人の活躍したアナトリアでは銅鉱石は産するが、錫の鉱床を欠いていたのである。そしてこの交易ネットワークは高度に整備されており、商人の分業も進んでいた。アッシリア商人達は、各都市に常駐する情報収集者を通して、為替相場(金、銀、錫などの交換レート)情報に気を配り、個人投資家から委託される形での資本運用さえ行っていた。ナルックム(袋の意)と呼ばれる長期の資本運用契約に関する文書史料が残存している。またこういったアッシリア商人達は、諸外国や、別の商人との間で商業契約を多数結んで自らの利益を確保しようとした。

文化[編集]

商業活動の拡大はアッシリアに多くの富を齎したと考えられる。この時代、アッシュール市の城壁は数度にわたって造営が繰り返され、頻繁な建築活動が行われていたと考えられる。王碑文などの文献史料も飛躍的に増大し、商業活動のために文字は急速に普及した。特にアナトリアのカールムであるカネシュ(現キュルテペ)からは膨大な数の商業契約文書や備忘録のようなものが発見され、当時の商人の生活を生々しく知ることができる。

中アッシリア時代[編集]
中アッシリア時代
← #古アッシリア時代
← イシン・ラルサ時代 前1365年 - 前934年 #新アッシリア時代 →
中アッシリア時代の位置
アマルナ期(英語版) (紀元前14世紀)の古代オリエント
古代エジプト (緑), ヒッタイト (黄), カッシートのバビロン (紫), アッシリア (灰), ミタンニ (赤), アカイア/ミケーネ文明の範囲は (橙色)。 (明色は直接統治、暗色は影響範囲を示す)

公用語
アッカド語

首都
アッシュール
アッシリア王(英語版)

前1365年 - 前1330年
アッシュール・ウバリト1世 (初代)

前967年 - 前934年
ティグラト・ピレセル2世 (最後)
変遷

ミタンニからの独立
前1365年

アッシュール・ダン2世の治世
前934年


シャムシ・アダド1世の王国が崩壊して以来、小規模勢力に過ぎなかったアッシリアが、有力国として台頭するのがこの時代である。中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。アッシリア史における転機となったのがアッシュール・ウバリト1世の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書アマルナ文書からも確認できる。当時オリエント世界はヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国が君臨していたが、ミタンニを打倒したことによってその遺領を獲得し、バビロニア、ヒッタイトとも戦って勝利を収め、アッシリアはオリエント世界に確固たる地位を築いた。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代には、はじめてアッシリア王がバビロニアを征服し、これを支配下に納めることに成功している。だが、彼の死後は前1200年のカタストロフが起こり、政治混乱によって勢力が減衰した。ティグラト・ピレセル1世の時代には一時回復したものの、中アッシリア時代の後半にはアラム人の侵入によって国内が混乱しアッシリアは混乱期に入ったため、残存史料も少なく、政治史の復元が困難になる。

国家体制においては、アッシュール・ウバリト1世以来領土の拡大を続けるにつれて、アッシュルの地(マート・アッシュル:māt Ashur)と呼ばれる神格化された領域も、都市アッシュルから外部へと拡大し、それに対応して伝統的なアッシュルの副王と言う称号と合わせてアッシュルの地の王と言う王号も新たに使用されるようになった。こうしたアッシリアの「本国」を形成する諸州はアッシュル神に対する奉納を行っていた。アッシリア地方とも言うべきまとまった領域の姿が明らかになったともいえる。この外側にアッシリアによって征服された属国が広がっており、アッシリア国家はこの本国と属国によって形成されていた。

社会・経済[編集]

この時代のアッシリアの経済的基盤は、主に穀物類の栽培や牧畜などの農業生産にあったといわれる。急速に拡大する領土にあって、経済も変化したと考えられるが詳細はよくわかっていない。

中アッシリア法典と呼ばれる法律文書が作成されたのもこの時代である、これは発見されている中ではアッシリア最古の成文法である。女性に関する規定が多いことで知られ、女性保護の要素があると言われる場合も多いが、少なくとも現代的な人権思想をそこに投影するのは危険である。この法典の中では、男性が女性に対する際に取るべき作法や取ってはならない行動が規定されているほか、女性の衣服についての制限、(ヴェールで頭を隠すなど)が規定されている。女性の衣服制限についてはその女性が属する階級によって細かくわかれており、既婚、未婚の女性や上流階級の女性はヴェールを着用しなくてはならなかったが、逆に女奴隷や娼婦はヴェールの着用を禁止されていた。これは根本的には男性の保護下にある女性とそうでない女性の判別を目的としたといわれ、婚姻に際しては新郎が新婦にヴェールをかぶせるという儀式が行われた。

文化[編集]

中アッシリア時代から始まったバビロニアへの政治介入と征服は、バビロニア文化をアッシリアに齎した。王号の中には「エンリルの代官」や「世界の王」などバビロニア風の称号も加えられたほか、バビロニアから戦利品として齎された芸術品や書記達は、アッシリア文化に著しい影響を与えた。代表的なものが『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』に代表される叙事詩編纂であり、バビロニア文学の影響を著しく受けた物である。

またアッシュール神をシュメールの神、エンリル神と習合させるなどの動きがあった。エンリル神の神話がアッシュール神のものとして再編成され、最高神として位置づけることが試みられた。このほか、本国を構成する州がアッシュール神に対する共通の宗教儀礼を執り行うことによって結びつきを強めるなど、宗教面の整備が進んだ。

新アッシリア時代[編集]
新アッシリア帝国
← #中アッシリア時代 前934年 - 前609年 新バビロニア王国 →
メディア王国 →
リディア王国 →
サイス朝 →
アッシリアの位置
アッシリアの版図の変遷

公用語
アッカド語、アラム語

首都
アッシュール、カルフ、ドゥル・シャルキン、ニネヴェ
君主

前934年 - 前912年
アッシュール・ダン2世

前722年 - 前705年
サルゴン2世

前668年 - 前627年
アッシュールバニパル

前612年 - 前609年
アッシュール・ウバリト2世(最後)
変遷

不明
xxxx年xx月xx日

滅亡
前609年


詳細は「新アッシリア帝国(英語版)」を参照





アッシリア帝国の版図
アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表、リンム表(概要を参照)、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。アッシュール・ダン2世・アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた(シリア・エフライム戦争(英語版)、バビロニア遠征(フランス語版))。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。

アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。

後世にはこうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、アッシリアの支配を特徴付けるものと言われてきたが、アッシリアの帝国統治は単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた対応をとったことが同時代記録の分析から明らかになっている。こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのような広域統治を行った帝国に継承され、その統治技術の基礎となったと考えられている。

またその国家は、本国たるアッシュルの地と周辺の征服地域は強く区別された。本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、神格化された国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。ティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。

この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラム(フンバンタラ朝(ロシア語版))の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。紀元前722年にシャルマネセル5世がイスラエル王国へ侵攻し占領したが、直後に死去。サルゴン2世は即位直後にバビロニアに離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争(英語版)やバビロニア再征服が続く中で死去し、センナケリブが後を継いだ。エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がった。この時代のシリアにおけるアッシリアの行動はヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。アッシュールバニパルがエラムを滅亡(スサの戦い(英語版)、en:Fall of Elam)させたものの、アッシュールバニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニアが独立してその勢いはさらに増した。紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した。

亡命政権がハランに誕生し、アッシュール・ウバリト2世が即位、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、アケメネス朝ペルシアはアッシリアの行政機構の多くを取り入れた。

社会・経済[編集]

史料豊富な新アッシリア時代ではあるが、この時代の経済に関する情報は王や高級官僚などに関係したものに偏っており、民間経済の実態は不明点が多い。帝国の主な収入源となったのは各州からの税収、属国からの貢納、そして遠征の際の略奪で得た戦利品であった。税は主に農産物と藁が徴収されたほか、一定期間の労役義務(軍務の場合もある)が課せられ、最も基本的な税源となった。都市間の流通に対しては帝国内の各都市で関税をかけたが、その規模はよくわかっていない。戦争による戦利品獲得は、特に奴隷の供給と言う面で重要であり、歴代のアッシリア王が行った大規模建築の数々は奴隷労働力の存在を抜きにしては語り得ないものである。

相次ぐ強制移住は古代オリエント社会に甚大な影響を及ぼしたが、その例の一つがアラム人に関する影響である。アラム人はシリア地方を中心に幾つかの国家を作っていたが、アッシリアは彼らを征服した後、帝国各地に強制移住させた。自然移動と相まってアラム人はオリエント全域に居住することになり、アラム語が国際商業言語となる下地となった。

文化[編集]





人頭有翼牡牛像
アッシリアの拡大と集積する富によって多くの文化が花開いた。新アッシリア時代に特徴的な彫刻として、宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像があり、各地で発見されている。また宮殿を飾った浮き彫り彫刻は、主にアッシリア王の狩猟シーンや戦争の場面が描かれており、当時の様子を知ることのできる一級の史料でもある。アッシュールバニパルのライオン狩り彫刻は、その写実性や野生動物の筋肉の表現の秀逸さなどから、アッシリア芸術の最高傑作の一つといわれる。

そして、アッシュールバニパル王が古代メソポタミア各地の文書史料を集めさせて作らせたアッシュールバニパルの図書館史料は、古代オリエント史を調べる上であまりにも貴重な史料を現代の学者に提供することになった。この図書館からは当時の学問や行政、更に私生活に関する文書が25000点以上発見されており、アッシリアの知識の集大成とも言うべき存在である。

軍事[編集]





ニネヴェから出土した馬銜(Pergamon Museumベルリン)
時代による変化はあるが、アッシリア帝国の時代、アッシリア軍は中央軍と地方軍からなっていた。地方軍の指揮権は各州の長官にあり、兵の補充や補給も各州の権限で行われた。この地方軍には被征服国の軍も編入されたが、当然反乱の温床ともなり、それに対応するために一つ一つの州は非常に細分化されていた。中央軍は王の直属とされ、「王の結び目」と呼ばれたが、そのトップにいたのは宦官の長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。中央軍の編成は10人を最小単位とし50人隊、100人隊という編成を取る古代のセム系民族に一般的な部隊割りを採用している。王は儀式として閲兵式を取り行ったことも知られており、閲兵のための砦も建設され、平時の武器の貯蔵庫としての役割も果たした。

兵科は歩兵(槍兵、弓兵、盾兵)、戦車(チャリオット)、騎兵などで編成された。この他に現代でいうところの工兵に相当する部隊も存在し、渡河や城攻めで大きな役割を果たした。特にアッシリア軍は弓兵を多く用いたという。盾兵は敵の弓矢から味方の兵士を守るために大型の盾を装備した部隊であり、弓兵とセットで運用された。戦車部隊は中アッシリア時代に恐らくミタンニのそれを参考にして採用されたと考えられ、アッシリア帝国期でも重要な兵科であった。特に「足の戦車」と呼ばれた王直属の戦車部隊は親衛隊とも言うべき役割を担う部隊であった。鉄の武器を使用し、東方高原から輸入した軍馬を用いた騎兵はこの時代に新たに導入された兵科である。当時はまだ鞍、鐙などの馬具が発明されておらず、後の時代の騎兵に比べて運用は困難だったと予想されるが、重要な兵科としてすぐに広まった。アッシリアの浮き彫りの中には馬上から弓矢を射る弓騎兵や、槍を構えて突撃する騎兵の姿を写したものがあり、当時の戦争の様子を知ることができる。

兵員数は最も多い時で200000人と当時の記録にはあるが、誇張であるとの説も根強い。しかし考古学者の予想する兵員数は数の開きが多く、最も少ない見積もりでは50000人程度とする説もある。正確なところは不明であるがしかし、シリア地方の諸国家の軍が時に数十人から数百人規模で記録されていることを考えれば、少なく見積もっても当時としては圧倒的な兵員数を誇ったことは間違いない。

アッシリア帝国滅亡後のアッシリア人[編集]

ニネヴェなど、アッシリアの主要な都市の幾つかはアッシリア帝国滅亡時に破壊された。ヘロドトスの時代にはそこに住む者はいなかったという。だが、アッシリア人自体はある日突然絶滅するわけも無く、その後も生き続けたし、アッシュール神に対する祭祀も継続されたと考えられる。アッシリア人自身が支配者として君臨することはその後二度となかったが、アッシュールやシャルマヌ、ニヌルタなど、アッシリア人が好んで名前に使った神の名を持つ人名がその後も役人などの名前として記録されているのである。アケメネス朝からアルサケス朝時代にかけて、アッシリア人の多くはアッカド語(アッシリア語)ではなくアラム語を使用するようになったと考えられる。その後もアッシリア人と思われる人名がサーサーン朝時代にまで登場する。

だがこの生き残ったアッシリア人と、アッシリア人の末裔と主張するいわゆる現代アッシリア人の関係は必ずしも明白ではない。現代アッシリア人に限らず、中近東のキリスト教徒共同体は起源譚として古代オリエントの民族を持ち出す事が多い。少なくとも「民族」と言うものがある古代のある集団から真っ直ぐ繋がるというほど単純なものではないと思われる。

古代オリエント世界の古典文学の多くが後代に受け継がれず土に埋もれていく中、アッシリア人の歴史の多くも人々から忘れ去られたが、旧約聖書やギリシア人達の記録によって僅かに後世に伝えられた。楔形文字の解読によって再びアッシリア人が歴史に大きく取り上げられるようになるのは19世紀以降のことである。

アッシリアの君主[編集]

詳細は「アッシリアの君主一覧」を参照

旧約聖書とアッシリア[編集]

旧約聖書はアッシリアについて著述された文献のうち後代まで継続して受け継がれた数少ない文献の一つである。旧約聖書の中でアッシリアは外敵として描かれる。取り分け列王記の中の記述では、アッシリアがイスラエルに攻め込んだ様、そしてイスラエル王国やユダ王国がそれにどのように対応したかが、宗教的修飾を伴うものの詳しく叙述されている。

概略はプル王(ティグラト・ピレセル3世)がイスラエルに侵攻して以来、イスラエルとユダの王が時に貢物を贈って災禍を免れたことや、アッシリア統治下でイスラエル人達が各地に強制移住させられたこと、そして元の土地には入れ替わりにバビロニアなど各地の人間が入植させられたことが記述されている。

また、イザヤ書の中では主がアッシリアに罰を下すであろうこと、そしてアッシリアを恐れてはならないことが主張される他、ナホム書とゼファニヤ書では将来のアッシリアの滅亡が預言される。これらからは当時の被征服者達の対アッシリア感情の一端を垣間見ることができる。さらに、ヨナ書では被征服者から怨嗟のまなざしを投げかけられるアッシリアの都ニネヴェですら、ヤハウェ神の愛が及ぶことを説くことで、イスラエル人部族連合体の神から全世界を統べる唯一神への、ヤハウェ神概念の拡張が表現されている。

旧約聖書のアッシリア観は近現代の研究者達にも多大な影響を与えた。現在、アッシリア学の進歩に伴って旧約聖書的理解はもはや一般的ではないが、旧約聖書が極めて重要な史料であることに関しては疑いを入れる余地はない。またアッシリア王の名前は旧約聖書のヘブライ語表記に基づいたものが広く普及している。(例えばセンナケリブはアッシリア人自身の用いたアッカド語ではシン・アヘ・エリバ、となる。)

チュニジア

チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية‎)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。

アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史
3 政治 3.1 元首・行政
3.2 立法
3.3 政党
3.4 司法

4 軍事
5 国際関係
6 地方行政区分
7 地理
8 経済 8.1 農業
8.2 鉱業
8.3 工業
8.4 貿易

9 国民 9.1 民族
9.2 言語
9.3 宗教
9.4 教育

10 文化 10.1 食文化
10.2 文学
10.3 哲学
10.4 映画
10.5 世界遺産
10.6 祝祭日
10.7 スポーツ

11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya al-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ヂュムフーリーヤ・アル・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。

日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。

アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス (Thunes) で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus 地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。

歴史[編集]

詳細は「チュニジアの歴史」を参照


古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(フランス語版)(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)(英語版))、アフリカをイスラム世界に編入した。

ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、Fihridイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった後、1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(英語版)(1574年 - 1705年)として併合された。

オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強侵略によるオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブルのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝(英語版)チュニス君侯国(英語版)(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。





1861年に制定された憲法により、イスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となったサドク・ベイ(位:1859年〜1882年)。
フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間に亘り統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(en)が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。

1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約(英語版)、1883年のマルサ協定(fr)でフランスの保護領フランス領チュニジア(英語版)(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。





初代大統領ハビーブ・ブルギーバ。
1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「チュニジア(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党(英語版)」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にベイのムハンマド8世アル・アミーン(英語版)を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。

1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。

現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。

2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる(「ジャスミン革命」は、2011年1月現在、正式な名称ではない。詳細は該当ページを参照)。

2011年10月23日、中東・北アフリカ地域で広がっている政変(「アラブの春」とも称されている。)後の最初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。

11月19日制憲議会選挙で第1党になった「アンナハダ」と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国会議当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 [2]

2013年2月野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド(英語版)内相に組閣要請した。

2013年7月ラライエドは繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明[3]。

2014年1月26日制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。

政治[編集]





チュニジア議会
詳細は「チュニジアの政治」を参照

チュニジアの政体は共和制、大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。

元首・行政[編集]

「チュニジアの大統領」および「チュニジアの首相」も参照

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相・閣僚・各県の知事の任免権、軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。

立法[編集]

立法府は両院制で、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)で構成される。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。

政党[編集]

「チュニジアの政党」も参照

チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。

過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。

司法[編集]

司法権は最高裁判所が担っている。

軍事[編集]

詳細は「チュニジア軍」を参照

チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。

国際関係[編集]

詳細は「チュニジアの国際関係」を参照

独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスに対して強硬な姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親欧米政策が続いている。1969年、「イスラーム諸国会議機構」に加盟しているが存在感をあまり発揮していない。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。

1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後リビアはチュニジアに対して強硬政策で臨み、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。

パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転したが、オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。

地方行政区分[編集]

詳細は「チュニジアの行政区画」を参照





チュニジアの県。
チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラブ語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。
1.アリアナ県 Ariana
2.ベジャ県 Béja
3.ベンナラス県 Ben Arous
4.ビゼルト県 Bizerte
5.ガベズ県 Gabès
6.ガフサ県 Gafsa
7.ジェンドゥーバ県 Jendouba
8.ケルアン県 Kairouan
9.カスリーヌ県 Kasserine
10.ケビリ県 Kebili
11.ケフ県 Kef
12.マーディア県 Mahdia
13.マヌーバ県 Manouba
14.メドニン県 Medenine
15.モナスティル県 Monastir
16.ナブール県 Nabeul
17.スファックス県 Sfax
18.シディブジッド県 Sidi Bou Said
19.シリアナ県 Siliana
20.スース県 Sousse
21.タタウイヌ県 Tataouine
22.トズール県 Tozeur
23.チュニス県 Tunis
24.ザグアン県 Zaghouan




地理[編集]

詳細は「チュニジアの地理」を参照





チュニジアの地図。




チュニジア北部の平原。




メジェルダ川。




チュニジア南部のサハラ砂漠。
国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である[4]。 東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。 北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾、ハマメット湾、ガベス湾の並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。[5]。 その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。[6]。 ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠(エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている岩石砂漠が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている[6]。

ケッペンの気候区分によると、北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり、地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部のビゼルトでは1,000mmを越える。

主要都市
チュニス(Tunis):首都
スファックス(Sfax)
カルタゴ(Carthage)
スース(Sousse)
シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)
ケルアン(Kairouan)
ハマメット(Hammamet)
ナブール(Nabeul)
タバルカ(Tabarka)

経済[編集]

詳細は「チュニジアの経済」を参照





首都チュニス
今ではチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出至高の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%のGDP成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。[7] チュニジアには様々な経済があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。[8] 農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。

チュニジアは2009年には、世界経済フォーラムによってアフリカにおいてもっとも競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。[9] チュニジアはエアバス[10]やヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した [11]。

観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。[12]

変わらずヨーロッパ連合がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合のもっとも確固とした貿易パートナーの1つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、ヨーロッパ連合とヨーロッパ連合連合協定(英語版)を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。 チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った最初の地中海の国になった。[13]

チュニス・スポーツ・シティ(英語版)はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。[14] チュニス・ファイナンシャル・ハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。[15] チュニス・テレコム・シティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。[16]

チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、一人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業だ。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行 (ADB) の本部が置かれている[17]。

フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。

農業[編集]





南部の典型的な風景。国土の南部はサハラ砂漠に連なるが、農地の比率は国土の3割を超える。
アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している[18]。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている[19]。

北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く[20]。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、大麦(44万トン)は主に南部で生産されている。生産量ではトマト(92万トン)も目立つ。

鉱業[編集]

チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。

工業[編集]

チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位のリン酸(63万トン、3.7%)、同第6位の硫酸(486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸肥料(97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。

貿易[編集]





28色で分けられたカテゴリにおけるチュニジアの輸出品目の図説。
輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。

国民[編集]





1900年代初頭、若いベルベル人女性
イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年にブルギーバ首相の国家フェミニズムの下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている[21]。1956年の独立時から1907年までの人口増加が約2.3倍である[22]。

民族[編集]

住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。

言語[編集]





フランス語とアラビア語で表記されたチュニジアの交通標識。
アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われる。学生たちはフランス語とアラビア語の両方の授業を受けるため、大多数の人がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。

宗教[編集]

イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した[21]。

チュニジアには56万人の信者を擁するキリスト教徒のコミュニティがあり、大まかにいってカトリックとプロテスタントに分かれる(24万人がカトリックで32万人がプロテスタント)。

チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。

教育[編集]





サディーキ校
詳細は「チュニジアの教育」を参照

6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である[23]。

主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737)、チュニス大学(1960)、カルタゴ大学(1988)、エル・マナール大学(2000)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875)も挙げられる。

文化[編集]





チュニジアの民族音楽団。




生誕地のチュニスに建立されたイブン・ハルドゥーンの銅像。
食文化[編集]

詳細は「チュニジア料理」を参照

代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがあり、オレンジ、ゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー、菓子に入れる。

文学[編集]

詳細は「アラビア語文学」および「チュニジア文学」を参照

大多数のチュニジア人の母語はアラビア語だが、正則アラビア語の宗教的な特性により、近現代のチュニジア文学はフランス語で書かれることも多い[24]。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。

哲学[編集]

中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれる[25]チュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。

映画[編集]

「アフリカ映画」も参照

チュニジアは映画製作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては「チュニジアの少年」(1990)のフェリッド・ブーゲディールや、「ある歌い女の思い出」(1994)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。

1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。

世界遺産[編集]

詳細は「チュニジアの世界遺産」を参照

チュニジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件存在する。





チュニス旧市街 - (1979年、文化遺産)






カルタゴ遺跡 - (1979年、文化遺産)






エル・ジェムの円形闘技場 - (1979年、文化遺産)






ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡 - (1985年、文化遺産)






スース旧市街 - (1988年、文化遺産)






ケルアン - (1988年、文化遺産)






ドゥッガ/トゥッガ - (1997年、文化遺産)






イシュケル国立公園 - (1980年、自然遺産)


祝祭日[編集]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日
移動祝日 犠牲祭 イスラム暦による
移動祝日 イスラム暦新年 イスラム暦による
3月20日 独立記念日
3月21日 青年の日
4月9日 革命犠牲者弔日
移動祝日 モハメット誕生日 イスラム暦による
5月1日 メーデー
7月25日 共和国記念日
8月13日 女性の日
10月15日 フランス軍撤退記念日
移動祝日 ラマダーン明け イスラム暦による
11月7日 大統領就任記念日

スポーツ[編集]





Stade Olympique de Radès(英語版)
詳細は「チュニジアのスポーツ」を参照

国技はサッカーであり、2010年現在サッカーチュニジア代表は初出場となった1978年のアルゼンチン大会以降、1998年のフランス大会、2002年日韓共同大会、2006年のドイツ大会まで3期連続でFIFAワールドカップに出場した。主なプロクラブとしてはエスペランス・チュニス、クラブ・アフリカーン、エトワール・サヘル、CSスファクシアンなどの名が挙げられる。

バレーボールも盛んであり、バレーボールチュニジア男子代表はアフリカ諸国の強豪に挙げられる。

陸上競技ではモハメド・ガムーディがメキシコシティオリンピック男子5000mで金メダルなどメダル4個、競泳でウサマ・メルーリが北京オリンピック男子1500m自由形で金メダルを獲得している。

チュニス湖

チュニス湖(アラビア語: البحيرة El Buhayra‎, フランス語: Lac de Tunis)は、チュニジアの首都・チュニスとチュニス湾(地中海)の間に位置する自然のラグーンである。湖は、37平方キロメートルという広大な面積を持つが、深さは非常に浅い。湖は以前、チュニスの自然港だった。

歴史[編集]

肥沃な土地をコントロールできるため、チュニス - カルタゴの接続は、ローマ帝国にとって非常に重要だった。このため、ローマは、湖にダムを建造した。今日では、ダムには高速道路、チュニスとその港であるラ・グレット、カルタゴ、シディ・ブ・サイド、ラ・マルサを結ぶ鉄道が通っている。北湖には、過去にスペインの拠点であり、1993年以来自然保護区となっているシクリ島がある。

19世紀の、湖の河床上昇により、フランスの植民地軍は、湖を横断する長さ10 km、幅450 m、深さ6 mの運河を建設した。

開発[編集]

最近、チュニジア政府とUAEのサマ・ドバイ(ドバイ知事、ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームが率いる)が湖の南岸を開発してチュニジア、地中海の観光地・居住地とし、新しく販売した。投資額は約180億USDで、チュニジアの歴史上最多と考えられている。プロジェクトは、10〜15年先には行われる。

カルタゴ

カルタゴ(ラテン語: Carthāgō または Karthāgō[1] カルターゴー、アラビア語: قرطاج‎ Qarṭāj、英語: Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖 (Lake of Tunis) 東岸にあった古代都市国家。現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。

「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 カルタゴ建国伝説
1.2 カルタゴ創成期
1.3 シチリア戦争 1.3.1 第一次シチリア戦争
1.3.2 第二次シチリア戦争
1.3.3 第三次シチリア戦争

1.4 エピロス王ピュロス
1.5 メッシーナの危機
1.6 ポエニ戦争
1.7 ローマによる征服後
1.8 ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回

2 政治機構
3 宗教 3.1 風習

4 世界遺産 4.1 登録基準

5 カルタゴを起源とする都市
6 関連項目
7 脚注
8 参考文献


歴史[編集]

カルタゴ建国伝説[編集]

古代ローマの詩人ウェルギリウスの「アエネイス」によると、テュロスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン (Pygmalion of Tyre) から逃れてカルタゴを建設したとされる。古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争(紀元前12世紀頃)前、紀元前820年頃や紀元前814年頃に夫々建国されたという記述があるがいずれも裏付は無い。ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814年」が一般的にカルタゴ建国年と見做されている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前8世紀後半のものが最も古い。

カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト (Melqart) が町の守護神であったこと等に過ぎない。カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。

カルタゴ創成期[編集]

地中海に面するカルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は、主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。

商人や探検家たちは、広大な通商路を開拓し、そこを通って富や人が行き来した。紀元前6世紀前半、海洋探検家のハンノは北アフリカ沿岸のシエラレオネにまで辿りついたと推測されている。その後、シエラレオネは、マルカスという指導者のもと、アフリカ内陸と沿岸一帯に領土を拡大した。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市やリビアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。

シチリア戦争[編集]

詳細は「シチリア戦争(英語版)」を参照

第一次シチリア戦争[編集]

カルタゴは海賊や他国が恐れる強力な海軍力を有していた。カルタゴの進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシアとの対立を増大させた。

カルタゴの玄関口にあたるシチリア島が、戦争の舞台となった。ギリシアやフェニキアは、以前よりこの大きな島の重要性を認識しており、海岸線に沿って多くの植民都市や交易拠点を造っていた。

紀元前540年頃にはシチリア西半分の領有権を巡り、エトルリア人と組んで、ギリシア及びサルデーニャ人とアレリア沖(コルシカ)で海戦を行い勝利を収めたことが碑文に残されている。また、それ以外にもギリシアやシチリアとは長らく係争が絶えなかったとされる。

紀元前480年、カルタゴが大規模な軍事行動を開始した。事の発端は、ギリシアに支援されたシラクサの僭主ゲロン(英語版)が、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対して、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。ハミルカル・マーゴ(英語版)将軍のもと、三十万人の軍隊が集められたと言われているが、この数字は大軍を示しているだけで実数ではないと考えられる。

しかし、シチリア島に向かう途中、悪天候に見舞われ、多数の人員を失った。その後、現在のパレルモにあたるパノルムスに上陸したが、ハミルカルは、第1次ヒメラの戦い(英語版)[2]でゲロンに大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘の最中に戦死したか、名誉の自決を遂げたと伝えられている。

カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し、国内では貴族政が打倒され共和政に移行した。

第二次シチリア戦争[編集]

共和政による効果的な政策の結果、紀元前410年までには、カルタゴは回復を遂げていた。再び現在のチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。また、サハラ砂漠を横断したマーゴ・バルカの旅行や、アフリカ大陸沿岸を巡る航海者ハンノの旅行を後援している。

しかし、同じ年、金や銀の主要産地であったイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離し、その供給が断たれた。

ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴ(英語版)は、シチリア島の再領有に向けて準備を始めた。版図を拡大するための遠征は、モロッコからセネガル、大西洋にまで及んでいた。

紀元前409年、ハンニバルはシチリア島への遠征を行い(第2次ヒメラの戦い(英語版))、現在のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラといった小都市の占領に成功して帰還した。

しかし、敵対するシラクサはまだ健在であったため(第1次アクラガス攻囲戦(英語版))、紀元前405年、ハンニバルはシチリア島全域の支配を目指して、二回目の遠征を開始した(ジェーラの戦い(英語版))。 遠征は、頑強な抵抗と不運に見舞われた。アクラガス包囲戦の最中、カルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなってしまった。 彼の後任として軍を指揮したヒメルコ(英語版)は、ギリシア軍の包囲を打ち破り、ジェーラを占領した。さらに、シラクサの新たな王ディオニシウス(英語版)の軍もカマリーナ(英語版)で破ったが(カマリーナ占領(英語版))、ヒメルコもまた疫病にかかり、講和を結ばざるを得なくなった。

紀元前398年、力をつけたディオニシウスは、平和協定を破りカルタゴの要塞モーチャを攻撃した(モーチャ攻囲戦(英語版))。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモーチャを救出し、逆にメッシーナを占領した(メッシーナの戦い(英語版))。紀元前397年には、シラクサ包囲戦(英語版)にまで至るが、翌年、再び疫病に見舞われ、ヒメルコの軍は崩壊した。

シチリア島はカルタゴにとっての生命線であり、カルタゴは固執しつづけた。以後60年以上にわたり、この島でカルタゴとギリシアの小競り合いが続くこととなる。

紀元前340年、カルタゴの領土は島の南西の隅に追いやられ、依然として不穏な情勢にあった。

第三次シチリア戦争[編集]

紀元前315年、シラクサ王アガソクレス(英語版)は、現在のメッシーナにあたるメッセネを包囲した。紀元前311年には、カルタゴ最後の要塞を攻撃し(第3次ヒメラの戦い(英語版))、アクラガスを包囲した(第2次アクラガス攻囲戦)。

探検家ハンノの長男ハミルカルは、カルタゴ軍を率いて事態を打開し、好転させた。紀元前310年にはシチリア島のほとんどを占領し、シラクサを包囲した。 死に物狂いになったアガソクレスは、アフリカ本土にあるカルタゴを攻撃させるため、秘密裏に14,000人の兵士を送った。この作戦は成功し、ハミルカルの軍は本土に呼び戻された。

紀元前307年、追撃してきたアガソクレスは敗れたが、シチリア島に戻り、停戦した。





カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)
エピロス王ピュロス[編集]

紀元前280年から紀元前275年にかけて、ギリシア・エピロス(ラテン語ではエピルス。現在のギリシャ共和国のアドリア海側)の王ピュロスは、西地中海におけるギリシアの影響力を維持し、拡大するために2つの大きな戦争を起こした。

一つは、「マグナ・グラエキア」と呼ばれた南イタリアにあるギリシアの植民都市に対するローマの攻撃に対抗するためのものであり、もう一つはシチリア島西部にあるカルタゴの領土を征服しようとするものであった。

しかし、ピュロスは、イタリア半島とシチリア島の両方で敗北した。カルタゴにとっては以前の状況に戻ったに過ぎなかったが、ローマはタレントゥム(現在のターラント)を占領し、イタリア全域を支配するようになった。

その結果、西地中海における政治勢力に変化が現れ始めた。シチリア島におけるギリシアの拠点は、明らかに減少する一方、ローマの強大化、領土拡大の野望は、カルタゴとの直接対決を導くこととなった。

メッシーナの危機[編集]

紀元前288年、シラクサ王アガソクレスが死去すると、彼の雇っていた傭兵たちはメッシーナの町を乗っ取った。彼らはマメルティニ (Mamertini、マルスの子らの意) と名乗り、恐怖政治を敷いた。

この集団は、カルタゴとシラクサにとって脅威となりつつあった。紀元前265年、シラクサ王ヒエロン2世は、カルタゴと共同してマメルティニを攻撃した。

その大軍に直面したマメルティニたちの意見は2つに分かれた。一方は、カルタゴへの降服を主張し、もう一方は、ローマの救援を仰ぐというものであった。結局彼らは、カルタゴとローマの両方に使者を派遣した。

ローマの元老院が取るべき道を議論している間に、カルタゴとシラクサの軍はメッシーナに到着した。完全に包囲されたマメルティニは、カルタゴ軍に降服した。メッシーナにはカルタゴの守備隊が置かれ、港にはカルタゴの艦隊が停泊した。

イタリア半島に程近いメッシーナにカルタゴの軍隊が駐屯したことは、ローマにとって明らかな脅威であった。そのため、消極的ではあったが、メッシーナをマメルティニの手に戻すためにローマはカルタゴと開戦し、軍隊を派遣した。

ポエニ戦争[編集]

詳細は「ポエニ戦争」を参照





カルタゴ人が作成したローマ製三段櫂船のモザイク(チュニス、バルドー博物館)
ローマ軍が、メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西ヨーロッパにおけるローマの覇権を確定し、もって西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。
第一次ポエニ戦争 (紀元前264年 - 紀元前241年)
第二次ポエニ戦争 (紀元前218年 - 紀元前202年)
第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)

ポエニ戦争では、第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバル・バルカがイタリア半島に侵攻し卓越した指揮能力を発揮し、ローマ陥落の一歩手前まで陥らせるなどの事態もあったものの、最終的にはローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争のカルタゴの戦い(英語版)によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人であるスキピオ・アエミリアヌスの指示のもと、度重なるカルタゴの侵略への報復として、市民は徹底して虐殺され都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際にスキピオはカルタゴの運命を自国ローマの未来を重ねたといわれている。

再三災いをもたらしたカルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという。

ローマによる征服後[編集]





古代ローマ時代のカルタゴのヴィラ
地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって新たな植民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・センプロニウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。

2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。

現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。

クラウディウス帝は全8巻からなる「カルタゴ史」を書いたが、現在は散逸している。

238年、ローマ帝国の皇帝マクシミヌス・トラクスに対してアフリカ属州総督ゴルディアヌスが反乱をおこしたが、カルタゴの戦い(英語版)で鎮圧された。

近郊のタガステ(ティムガッド)出身のアウグスティヌスは青年期をカルタゴで過ごし弁論術を学んだ。

ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回[編集]

5世紀、ヴァンダル族の王ガイセリックがカルタゴを占領してこの地方にヴァンダル王国を建国。カルタゴはその首都となった。カルタゴの西ローマ帝国艦隊を拿捕したヴァンダル王国は、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島などを征服。地中海における一大勢力となった。更にガイセリックは442年にはイタリアへ上陸しローマへ侵攻。ガイセリックはローマ教皇レオ1世の申し出を受け、ローマの破壊こそしなかったが、カルタゴより襲来したヴァンダル族によってローマは占領され、略奪を受けた。468年にはバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。

東ローマ帝国によるカルタゴ奪回の試みは何度か失敗したのち、ようやく6世紀になって征服に成功した。ローマ帝国の復興を企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年に西ローマ帝国の皇女の血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウスを将軍とする軍隊を派遣した(アド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国の軍隊はあっけなく敗北し、553年10月15日日曜日(9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。

こうしてカルタゴは再び東ローマ帝国の領土となったが、ムーア人の反乱が多発したため皇帝マウリキウスの時代に、カルタゴに総督府が置かれ、イタリア半島のラヴェンナ総督府と並んで、帝国の西方における重要拠点として組み込まれた。

610年、カルタゴ総督ヘラクレイオスの息子ヘラクレイオス(父子同名)は、時の皇帝フォカスを打倒し、自ら皇帝の座に就いている。

しかし、東ローマ帝国は、アラブ人の侵入を防ぐことができなかった。647年、ウマイヤ朝勢力がカルタゴを攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した。698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後の拠点もウマイヤ朝が占領した(カルタゴの戦い(英語版))。そして、イスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゴの荒廃は急速に進行し、ウマイヤ朝によってカルタゴの衛星都市であったチェニェスの跡にチュニスが築かれると、カルタゴは完全に放棄された。

政治機構[編集]

カルタゴの政体についての判明事項は極めて乏しい。最も有力な手掛かりは紀元前4世紀の哲学者アリストテレスの著作『政治学』の中の記述であり、それによると以下の3つの特徴を持つ。
1.クレタ、スパルタとカルタゴの政体は非常に似ていること
2.「王政」「貴族政」「民主政」の長所を併せ持っていること
3.実質的に「貴族政」「寡頭政」であること

個別の役職について、国家の代表は一般的にスフェス(sufet、通例複数形でsufets、司法権と行政権を持った長官)と呼ばれ、ローマのコンスル同様に1年任期であった。(語義はセム語の「ショフェト」(判事、裁判官の意)であり、ローマの史家はスフェスをレゲス(reges、王)と呼んだ)。

スフェスには軍事に関する権限はなかったが、司法と行政の権限を付与された1人か2人のスフェスが富豪や影響力をもった一族から選出された。また、軍事上の特別職として「将軍」がありハンニバルもこれに選ばれた。 また、貴族たちから選出された代議員によってローマの元老院に相当する機関である最高会議(元老院)を構成していた。最高会議は広範囲に渡る権限を有していたが、スフェスの選任が最高会議によるのか、市民総会(民会)によるかは論が分かれる。市民たちは立法権にも影響力を持っていたようであるが、このような民主主義的な要素はカルタゴを弱体化させたため、都市の統治では寡頭政治が堅持されることとなった。

宗教[編集]





トペテ
カルタゴでは、フェニキアから伝わったバアル崇拝やアスタルト崇拝と旧来の土着信仰に由来するタニト崇拝とが融合し、独自の宗教形態を作り出していた。これにエジプトの神々やギリシャのデメテル崇拝が加わり、ますます多様化していった。この宗教形態はローマ支配下にカルタゴが置かれた後も引き継がれ、ローマの神々と共に信仰の対象とされた。ウマイヤ朝によってイスラム教が伝えられると急速に廃れていった。

風習[編集]

プルタルコスは、フェニキア人が子供を犠牲にして捧げ物にしていたことを記録に残している。赤ん坊が死産した場合、最も若い子供が両親によって生贄に供されていた、ということである。テルトゥリアヌス、オロシウス、ディオドロス・シクロスなどもこの風習を記録に残しているが、ティトゥス・リウィウスやポリュビオスは触れていない。

トペテ(en、トフェトとも)と呼ばれる子供のための共同墓地は、紀元前400年から紀元前200年の間に建造されたと推定されている。この墓地からは20,000個の骨壷が出土し、骨壷には新生児の黒焦げになった骨が入っており、中には胎児や2歳ぐらいの幼児のものもあった。そして火葬された子供達の名は、墓碑にも骨壷にも刻まれることは無かった。

現代の考古学上の発掘から、プルタルコスの記述には、疑問が持たれている。カルタゴでは火葬は新生児や死産児に限らず、成人に対しても行われていた。また、羊や山羊の骨も発掘されており、この動物の犠牲の記録も発見されている。逆に子供の犠牲の記録が発見されていないことから、子供を犠牲にして捧げ物にする風習が無かったことが明らかになった。だが、現在でもプルタルコスの記述が正しかったとする説も少なくないため、結論はまだ出ていない。

世界遺産[編集]





カルタゴの遺跡
登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準[1]からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

カルタゴを起源とする都市[編集]
カルタヘナ

フェニキア

フェニキア(英語: Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。

フェニキアという名前は、フェニキア人の居住地がギリシャ語で Φοινίκη (Phoiníkē; ポイニケー)と呼ばれたことに由来しており、フェニキアがミュレックス(en)と呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから、「紫色」(または「緋色」)という意味のギリシア語を語源とする説も存在するが、そのもともとの語源は不明である[1]。



目次 [非表示]
1 歴史
2 言語
3 交易
4 主なフェニキア人 4.1 カルタゴ人

5 脚注
6 参考文献
7 関連項目


歴史[編集]





黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他。
フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。

フェニキア人の建設した主な主要都市には、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュブロス、アラドゥスなどがあり、海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。

しかし紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。アッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。しかし、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によってティルスが征服されると、マケドニア系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となった。

一方、紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。

言語[編集]

フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、言語的に見ればカナン人の系統にある民族である。先祖はセム系のアモリ人の一派が小アジアから北シリアに移住したことに始まるといわれている[2]。

彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となった。

カルタゴの人々(en:Punics、ベルベル人)の話していたフェニキア語はポエニ語(英語版)と呼ばれてローマ時代にも存続したが、やがてベルベル語や、イスラム教とともにやってきたアラビア語に飲み込まれ、消滅していった。

交易[編集]





フェニキア人の交易路
フェニキア人は優れた商人であり、その繁栄は海上交易に支えられていた。紀元前8世紀には、ティルスは地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に至る交易ネットワークのハブとなっていた。貝紫とレバノンスギがフェニキア本土の特産品であり、この地域の都市国家の成立と繁栄を支えた。また、タルテッソス(イベリア半島)の銀をオリエントに持ちこむ航路はフェニキア人が独占していた。

紀元前12世紀から何世紀もの間、フェニキア人は地中海世界の海上の主役だった。

主なフェニキア人[編集]
神話上の人物(ギリシア神話)、または伝説の人物アゲーノール - フェニキア王。海神ポセイドンとリビュエ(リビア)の子とされる。エウローペー、カドモス、ポイニクス、キリクスの父。
ポイニクス - フェニキア王。アゲーノールの息子。
カドモス - アゲーノールの息子。
エウローペー - アゲーノールの娘。
イゼベル - シドン王エトバアルの娘。イスラエル王アハブの妻。
実在の人物ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラ - ケルススが主張したイエスの実父と比定される。

カルタゴ人[編集]
大ハンノ(紀元前3世紀) - 政治家
ハミルカル・バルカ(? - 紀元前229年/228年)-第一次ポエニ戦争で活躍した将軍。
ハンニバル・バルカ(紀元前247年 - 紀元前183年)-第二次ポエニ戦争で活躍した将軍。ハミルカルの子。
マゴ・バルカ(? - 紀元前203年頃) - ハンニバルの末弟。
ハンニバル・マゴ - ハンニバルの息子。
セプティミウス・セウェルス(146年 - 211年) - ローマ皇帝。ベルベル人とも言われる。
プブリウス・セプティミウス・アントニウス・ゲタ
カラカラ - ローマ皇帝。
テルトゥリアヌス(160年頃 - 222年以降) - キリスト教神学者。
フルメンティウス (en) (300年頃 - 380年頃) - アクスム王国へのキリスト教伝道者。聖人。
モニカ - アウグスティヌスの母、聖人。
アウグスティヌス(354年 - 430年) - 教父と呼ばれるカルタゴ(地域)出身者。
マルティアヌス・カペッラ (en) (5世紀) - ラテン語著作家。

カナン

カナン、あるいはカナアン(ヘブライ語: כנען‎ Kənā‘an クナーアン、英語:Canaan)とは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。現代のカナンに関する知識の多くは、1928年に再発見された都市ウガリットの発掘調査によってもたらされた。



目次 [非表示]
1 歴史
2 言語
3 聖書のカナン人
4 脚注
5 関連項目


歴史[編集]

カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として明瞭に見いだされる[1]。

紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む[2]。

カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった[3]。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる[4]。この文脈における「カナン人」という用語は、まさに「フェニキア人」に符合する。

カナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。ヘブライ語はカナン人から学んだものである(イスラエル王国を参照)。

カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、赤あるいは紫の染料の同義語として "Kinahnu" の用語が使われ、どうやら有名なカナン人の輸出商品を指すらしい。これもまた、「ツロの紫」で知られるフェニキア人と関連付けることが可能である。染料は大抵の場合、その出身地にちなんだ名を付けられた(シャンパンのように)。同様に、旧約聖書に時折例示されるように、「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。

言語[編集]

言語学上、カナン諸語(英語版)はヘブライ語.フェニキア語を含み、アラム語やウガリト語と共にアフロ・アジア語族セム語派北西セム語に含まれる。アルファベット(原シナイ文字)をセム語派で初めて用い、その文字体系は他のセム語派へと伝播した。学習し易いアルファベットが普及した結果、古代オリエントの国際公用語がアッカド語(Akkadian cuneiform)からアラム語(アラム文字)に代わり、やがてアラビア語に取って代わられた。

聖書のカナン人[編集]

カナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指すようである。「創世記」10章15-18節では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。
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