新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2014年02月11日
ギガントピテクス
ギガントピテクス(学名:Gigantopithecus)は、ヒト上科の絶滅した属の一つである、大型類人猿。 身長約3m、体重約300- 540kg[3][4]に達すると推測される本種は、現在知られる限り、史上最大のヒト上科動物であり、かつ、史上最大の霊長類である。
約100万年前(新生代第四紀更新世前期後半カラブリアン)前後に出現したと見られ、中国、インド、ベトナムなどに分布していたが[5] 、30万年前(更新世後期前半イオニアン、中期旧石器時代の初頭)あたりを境にしてそれ以降確認されない[3][6]。本種の生存期間はホモ・エレクトゥス類が栄えていた時期と重なり、両者の生息域はかなり重複していたようである。
目次 [非表示]
1 呼称
2 生物的特徴 2.1 分類 2.1.1 系統分類
2.1.2 下位分類
2.2 形態
2.3 生態
2.4 分布
3 関連事項 3.1 未確認動物
3.2 創作作品
4 脚注・出典
5 関連項目
6 外部リンク
呼称[編集]
属名は古典ギリシア語: γίγας (gigas、語幹: gigant-)「巨人」 + πίθηκος (pithēkos)「猿」による造語。 中国語では「巨猿」(jùyuán)と呼ぶ。
生物的特徴[編集]
分類[編集]
系統分類[編集]
本種は、1960年代には中国の研究者によって「アウストラロピテクスに相当する人類の祖先であろう」との説が唱えられたが、否定され、現在は「人類の進化系統とは別系統の絶滅類人猿」であったと考えられている。
長らく、中新世の始原的類人猿であるドリオピテクス (Dryopithecus) に近縁の大型類人猿と考えられてきたが、2000年前後からは、ヒト科にチンパンジー亜科を認めない見地からゴリラやチンパンジーと同じくヒト科 ヒト亜科に分類されることが多く、いずれにしても、進化系統上オランウータンよりヒト属に近縁で、ゴリラほど近縁ではない位置にある絶滅種と捉えられている。[7]
下位分類[編集]
ギガントピテクス属の下位分類としては、2010年代初頭の時点で 3種が知られている。表記内容は左から順に、学名、和名もしくは仮名転写例、特記事項。
†Gigantopithecus bilaspurensis Simons et Ettel, 1970 ギガントピテクス・ビラスプレンシス
†Gigantopithecus blacki von Koenigswald, 1935 ギガントピテクス・ブラッキー(ブラクキ、ブラックアイとも称) :模式種。
†Gigantopithecus giganteus ギガントピテクス・ギガンテウス
形態[編集]
古人類学者フリーデマン・シュレンク(de)が手にする、ギガントピテクス・ブラッキーの大臼歯の化石
これまでに発見されたギガントピテクスの化石は3個の下顎骨と歯のみであり、情報量はきわめて乏しい。そのため、全体像の再現は憶測・推定によるところが大きい。少なくとも身長を推定し得る四肢骨が発見されていない以上、正確な数値を導き出すことは叶わない。
しかし、発掘された大臼歯は1in(25.4mm)四方もあり、下顎骨もホモ・サピエンスの2倍以上という巨大なものであった。そのことは確かである。そしてこの数値に基づいて、本種は身長約3m、体重約300- 500kg、最大で約540kgにもなったと推測され[3]、これまでに確認されたヒト上科の中で最も大型であったと考えられている。もっとも、本種は顎と歯がただ大きいだけで、実際の体格はゴリラ程度であったと考える研究者もいる。
生態[編集]
四足歩行(現生の大型類人猿と同様、ナックルウォーキングによる四足歩行)をし、竹や果実などを食べる植物食動物であったと見られており、生態はオランウータンに近かったようである。しかし、最近は「雑食性であった」とする説も示されており、これも無視はできない。なぜ絶滅したかについては詳しく分かっていないが、気候変動による生息環境の変化や、生態的に競合する動物の出現による淘汰圧(とうたあつ)が主な原因であろうと推定されている。後者については、竹を食物とすることによるジャイアントパンダとの直接的競合、もしくは、ホモ・エレクトゥス類とのより広い意味での生態的競合が、該当する可能性を持っている。
分布[編集]
中国の柳州にある柳城洞窟やベトナムでは、模式種であるギガントピテクス・ブラッキー (G. blacki) の歯の化石が数多く産出する。これは同種の狩猟採集範囲が東南アジア地域に限られていたことを示唆する。また、同属異種ギガントピテクス・ギガンテウス (G. giganteus) の化石はインド北部や中国で発見されている。中国ではこの種の歯の化石が大新や広西チワン族自治区、武鳴、南寧の石灰岩土壌で見つかっている[4][3]。
関連事項[編集]
未確認動物[編集]
未確認動物学者の中には、イエティ、野人、ビッグフットなどと呼ばれるUMA(未確認動物)の正体はギガントピテクス属であると考える者もいる。
創作作品[編集]
『キング・コング』(2005年版)
この映画に登場するキングコングは、ギガントピテクスから進化した大型類人猿という設定になっている。『恐竜惑星』
1993年にNHK教育テレビで放送されたSFアニメ。ギガントピテクスが、青銅器時代の人類並みに進化した巨大な人類という設定で登場する。
約100万年前(新生代第四紀更新世前期後半カラブリアン)前後に出現したと見られ、中国、インド、ベトナムなどに分布していたが[5] 、30万年前(更新世後期前半イオニアン、中期旧石器時代の初頭)あたりを境にしてそれ以降確認されない[3][6]。本種の生存期間はホモ・エレクトゥス類が栄えていた時期と重なり、両者の生息域はかなり重複していたようである。
目次 [非表示]
1 呼称
2 生物的特徴 2.1 分類 2.1.1 系統分類
2.1.2 下位分類
2.2 形態
2.3 生態
2.4 分布
3 関連事項 3.1 未確認動物
3.2 創作作品
4 脚注・出典
5 関連項目
6 外部リンク
呼称[編集]
属名は古典ギリシア語: γίγας (gigas、語幹: gigant-)「巨人」 + πίθηκος (pithēkos)「猿」による造語。 中国語では「巨猿」(jùyuán)と呼ぶ。
生物的特徴[編集]
分類[編集]
系統分類[編集]
本種は、1960年代には中国の研究者によって「アウストラロピテクスに相当する人類の祖先であろう」との説が唱えられたが、否定され、現在は「人類の進化系統とは別系統の絶滅類人猿」であったと考えられている。
長らく、中新世の始原的類人猿であるドリオピテクス (Dryopithecus) に近縁の大型類人猿と考えられてきたが、2000年前後からは、ヒト科にチンパンジー亜科を認めない見地からゴリラやチンパンジーと同じくヒト科 ヒト亜科に分類されることが多く、いずれにしても、進化系統上オランウータンよりヒト属に近縁で、ゴリラほど近縁ではない位置にある絶滅種と捉えられている。[7]
下位分類[編集]
ギガントピテクス属の下位分類としては、2010年代初頭の時点で 3種が知られている。表記内容は左から順に、学名、和名もしくは仮名転写例、特記事項。
†Gigantopithecus bilaspurensis Simons et Ettel, 1970 ギガントピテクス・ビラスプレンシス
†Gigantopithecus blacki von Koenigswald, 1935 ギガントピテクス・ブラッキー(ブラクキ、ブラックアイとも称) :模式種。
†Gigantopithecus giganteus ギガントピテクス・ギガンテウス
形態[編集]
古人類学者フリーデマン・シュレンク(de)が手にする、ギガントピテクス・ブラッキーの大臼歯の化石
これまでに発見されたギガントピテクスの化石は3個の下顎骨と歯のみであり、情報量はきわめて乏しい。そのため、全体像の再現は憶測・推定によるところが大きい。少なくとも身長を推定し得る四肢骨が発見されていない以上、正確な数値を導き出すことは叶わない。
しかし、発掘された大臼歯は1in(25.4mm)四方もあり、下顎骨もホモ・サピエンスの2倍以上という巨大なものであった。そのことは確かである。そしてこの数値に基づいて、本種は身長約3m、体重約300- 500kg、最大で約540kgにもなったと推測され[3]、これまでに確認されたヒト上科の中で最も大型であったと考えられている。もっとも、本種は顎と歯がただ大きいだけで、実際の体格はゴリラ程度であったと考える研究者もいる。
生態[編集]
四足歩行(現生の大型類人猿と同様、ナックルウォーキングによる四足歩行)をし、竹や果実などを食べる植物食動物であったと見られており、生態はオランウータンに近かったようである。しかし、最近は「雑食性であった」とする説も示されており、これも無視はできない。なぜ絶滅したかについては詳しく分かっていないが、気候変動による生息環境の変化や、生態的に競合する動物の出現による淘汰圧(とうたあつ)が主な原因であろうと推定されている。後者については、竹を食物とすることによるジャイアントパンダとの直接的競合、もしくは、ホモ・エレクトゥス類とのより広い意味での生態的競合が、該当する可能性を持っている。
分布[編集]
中国の柳州にある柳城洞窟やベトナムでは、模式種であるギガントピテクス・ブラッキー (G. blacki) の歯の化石が数多く産出する。これは同種の狩猟採集範囲が東南アジア地域に限られていたことを示唆する。また、同属異種ギガントピテクス・ギガンテウス (G. giganteus) の化石はインド北部や中国で発見されている。中国ではこの種の歯の化石が大新や広西チワン族自治区、武鳴、南寧の石灰岩土壌で見つかっている[4][3]。
関連事項[編集]
未確認動物[編集]
未確認動物学者の中には、イエティ、野人、ビッグフットなどと呼ばれるUMA(未確認動物)の正体はギガントピテクス属であると考える者もいる。
創作作品[編集]
『キング・コング』(2005年版)
この映画に登場するキングコングは、ギガントピテクスから進化した大型類人猿という設定になっている。『恐竜惑星』
1993年にNHK教育テレビで放送されたSFアニメ。ギガントピテクスが、青銅器時代の人類並みに進化した巨大な人類という設定で登場する。
ケニアントロプス・プラティオプス
ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)は、鮮新世の350万年前から320万年前ごろに生きた化石人類の一種である。ケニアのトゥルカナ湖で調査を行っていたミーヴ・リーキー率いるチームの一人、Justus Erusによって1999年に発見された。化石は大きくて扁平な顔を持ち、つま先の特徴から直立二足歩行していたと推測された。歯は典型的な人類と類人猿の中間の形であった。学名のKenyanthropus platyopsは、「ケニアの扁平な顔の人」の意を表し、この属は現在この一種しか見つかっていない。
アルディピテクス属
アルディピテクス属(学名:genus Ardipithecus)は、約580万- 約440万年前(新生代中新世末期[メッシニアン中期] - 鮮新世初期[ザンクリアン初期])のエチオピアに生息していた原始的な人類(猿人)の一種。 長らく最古の人類とされてきたアウストラロピテクス属より、いっそう古い時代の化石人類である。 哺乳綱- 霊長目- ヒト科- ヒト亜科に分類される、ヒト族- ヒト亜族(en)中の1属であり、アルディピテクス・ラミドゥスとアルディピテクス・カダッバの2種からなる。
エチオピアのアファール盆地にある約440万年前の地層から1992年に発見された猿人(ラミドゥス猿人)の化石を機に、1995年5月に新しい属として記載された。
目次 [非表示]
1 語義
2 種分類 2.1 アルディピテクス・ラミドゥス
2.2 アルディピテクス・カダッバ
3 その他
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
語義[編集]
属名(ラテン語) Ardipithecus は、アファール語[1]の「ardi (=ground、floor、大地、地面)」と古代ギリシア語「πίθηκος (pithekos =ape、〈高等〉無尾猿、類人猿)」のラテン語形による合成語で、「地上の無尾猿」との原義を持つ。
種小名 ramidus は、アファール語の「ramid (=root、根)」をラテン語化したもので、原義は「根のもの」である。 この名からは、人類進化の系統樹上の「根の部分にあたる者」との命名意図が読み取れる。
もう一つの種小名 kadabba は、アファール語で「basal family ancestor、一族中の祖先」を意味している。 まさにその名が示すとおり、彼らは模式種である前者より古い。
種分類[編集]
アルディピテクス・ラミドゥス[編集]
「アルディ (アルディピテクス)」も参照
ラミドゥス猿人ともいう。約440万年前(鮮新世初期[ザンクリアン中期])のエチオピアに生息していた。
1992年12月、東京大学の諏訪元が、エチオピアのアファール盆地の一角、アワッシュ川中流域(英語版)に属する約440万年前の地層から、ラミドゥス猿人の上顎部臼歯の化石を発見した。 東京大学、カリフォルニア大学およびエチオピアのリフトバレー研究所からなる国際チームは、翌年末までに歯列、顎骨片、腕の骨、後頭部などの化石17点を発見した。この化石は、それまで知られていた猿人よりも明らかに原始的な構造を示しており、学術雑誌『ネイチャー』誌上にて1994年、Australopithecus ramidus (アウストラロピテクス・ラミドゥス)として発表された。翌年には新しい属名 Ardipithecus が設けられ、本種は二名法によって Ardipithecus ramidus (アルディピテクス・ラミドゥス)と改名されている。
公表されたのと同じ1994年には全身骨格が残る標本、通称「アルディ」が発見され、ラミドゥスに関するさまざまな事実が明らかになった。
日本語による呼称としては、学名(ラテン語)の仮名転写(上記のもの)のほかに、二名法の後半に、分かりやすくするため「猿人」を足して表現した「ラミドゥス猿人」がある。なお、学名部分の語尾"us"のみ、部分的に英語発音に由来させ「アス」 と読み、「アルディピテクス・ラミダス」「ラミダス猿人」と称する場合もある。
以降の猿人とは異なる形質としては、足の指が手の指の様に物を掴める構造になっているのが主たる特徴である。一方で手の構造はチンパンジーやゴリラの様に歩行時に地面に指の背を付けて使用していた形跡が認められず、直立二足歩行を行うことができていた[2]。歯の構造から見て、硬いサバンナ系の植物などを口にするようには適応しておらず犬歯は小さく退化している。生息環境はジャングルとサバンナのような地形が入り混じっていたと推測されている[2]。
アルディピテクス・カダッバ[編集]
カダバ猿人ともいう。約580万- 約520万年前(中新世末期[メッシニアン中期]- 鮮新世初期[ザンクリアン初期])のエチオピアに生息。
1997年12月16日、エチオピアのアワッシュ川中流域で、当時大学院生だったエチオピア人のヨハネス・ハイレ=セラシエ(英語版)が発見した。当初はラミドゥス猿人の1亜種と考えられ、2001年7月に『ネイチャー』で公表されたときには、Ardipithecus ramidus kadabba (アルディピテクス・ラミドゥス・カダッバ)の名が付けられていたが、犬歯の形状に明確な差異が認められ、ラミドゥス猿人以前を生きていた同属異種として Ardipithecus kadabba (アルディピテクス・カダッバ)の名が与えられた[3]。
日本語による呼称としては、学名の仮名転写である「アルディピテクス・カダッバ」「アルディピテクス・カダバ」のほかに「カダッバ猿人」「カダバ猿人」がある。
その他[編集]
2009年、米クリーブランド自然史博物館などのチームは、エチオピアの約340万年前の地層から化石(右足の骨8個)発見し、分析。2012年、形の特徴がラミドゥス猿人に近い、新種の初期人類である可能性が高いと発表した[4][5]。
脚注[編集]
[ヘルプ]
1.^ アファール語(en)は、エチオピアと周辺の乾燥地帯に暮らすアファール族(en)の言語。アフロ・アジア語族- クシ語派(en)の東クシ諸語に属す。
2.^ a b 河合 (2010) pp.15-16
3.^ 河合 (2010) pp.33-34
4.^ 新種の初期人類を発見 米チーム、エチオピアで - 日本経済新聞(ワシントン共同) 2012年3月29日
5.^ 340万年前に樹上生活の人類…化石発見 - BIGLOBEニュース(読売新聞2012年3月29日、夕刊)
参考文献[編集]
アリス・ロバーツ編著 (2012) 『人類の進化大図鑑』馬場悠男日本語版監修、河出書房新社
河合信和 (2010) 『ヒトの進化 七〇〇万年史』 筑摩書房〈ちくま新書〉
関連項目[編集]
ウィキスピーシーズにアルディピテクス属に関する情報があります。
ヒト亜科
古人類学
絶滅した動物一覧
人類の進化
エチオピアのアファール盆地にある約440万年前の地層から1992年に発見された猿人(ラミドゥス猿人)の化石を機に、1995年5月に新しい属として記載された。
目次 [非表示]
1 語義
2 種分類 2.1 アルディピテクス・ラミドゥス
2.2 アルディピテクス・カダッバ
3 その他
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
語義[編集]
属名(ラテン語) Ardipithecus は、アファール語[1]の「ardi (=ground、floor、大地、地面)」と古代ギリシア語「πίθηκος (pithekos =ape、〈高等〉無尾猿、類人猿)」のラテン語形による合成語で、「地上の無尾猿」との原義を持つ。
種小名 ramidus は、アファール語の「ramid (=root、根)」をラテン語化したもので、原義は「根のもの」である。 この名からは、人類進化の系統樹上の「根の部分にあたる者」との命名意図が読み取れる。
もう一つの種小名 kadabba は、アファール語で「basal family ancestor、一族中の祖先」を意味している。 まさにその名が示すとおり、彼らは模式種である前者より古い。
種分類[編集]
アルディピテクス・ラミドゥス[編集]
「アルディ (アルディピテクス)」も参照
ラミドゥス猿人ともいう。約440万年前(鮮新世初期[ザンクリアン中期])のエチオピアに生息していた。
1992年12月、東京大学の諏訪元が、エチオピアのアファール盆地の一角、アワッシュ川中流域(英語版)に属する約440万年前の地層から、ラミドゥス猿人の上顎部臼歯の化石を発見した。 東京大学、カリフォルニア大学およびエチオピアのリフトバレー研究所からなる国際チームは、翌年末までに歯列、顎骨片、腕の骨、後頭部などの化石17点を発見した。この化石は、それまで知られていた猿人よりも明らかに原始的な構造を示しており、学術雑誌『ネイチャー』誌上にて1994年、Australopithecus ramidus (アウストラロピテクス・ラミドゥス)として発表された。翌年には新しい属名 Ardipithecus が設けられ、本種は二名法によって Ardipithecus ramidus (アルディピテクス・ラミドゥス)と改名されている。
公表されたのと同じ1994年には全身骨格が残る標本、通称「アルディ」が発見され、ラミドゥスに関するさまざまな事実が明らかになった。
日本語による呼称としては、学名(ラテン語)の仮名転写(上記のもの)のほかに、二名法の後半に、分かりやすくするため「猿人」を足して表現した「ラミドゥス猿人」がある。なお、学名部分の語尾"us"のみ、部分的に英語発音に由来させ「アス」 と読み、「アルディピテクス・ラミダス」「ラミダス猿人」と称する場合もある。
以降の猿人とは異なる形質としては、足の指が手の指の様に物を掴める構造になっているのが主たる特徴である。一方で手の構造はチンパンジーやゴリラの様に歩行時に地面に指の背を付けて使用していた形跡が認められず、直立二足歩行を行うことができていた[2]。歯の構造から見て、硬いサバンナ系の植物などを口にするようには適応しておらず犬歯は小さく退化している。生息環境はジャングルとサバンナのような地形が入り混じっていたと推測されている[2]。
アルディピテクス・カダッバ[編集]
カダバ猿人ともいう。約580万- 約520万年前(中新世末期[メッシニアン中期]- 鮮新世初期[ザンクリアン初期])のエチオピアに生息。
1997年12月16日、エチオピアのアワッシュ川中流域で、当時大学院生だったエチオピア人のヨハネス・ハイレ=セラシエ(英語版)が発見した。当初はラミドゥス猿人の1亜種と考えられ、2001年7月に『ネイチャー』で公表されたときには、Ardipithecus ramidus kadabba (アルディピテクス・ラミドゥス・カダッバ)の名が付けられていたが、犬歯の形状に明確な差異が認められ、ラミドゥス猿人以前を生きていた同属異種として Ardipithecus kadabba (アルディピテクス・カダッバ)の名が与えられた[3]。
日本語による呼称としては、学名の仮名転写である「アルディピテクス・カダッバ」「アルディピテクス・カダバ」のほかに「カダッバ猿人」「カダバ猿人」がある。
その他[編集]
2009年、米クリーブランド自然史博物館などのチームは、エチオピアの約340万年前の地層から化石(右足の骨8個)発見し、分析。2012年、形の特徴がラミドゥス猿人に近い、新種の初期人類である可能性が高いと発表した[4][5]。
脚注[編集]
[ヘルプ]
1.^ アファール語(en)は、エチオピアと周辺の乾燥地帯に暮らすアファール族(en)の言語。アフロ・アジア語族- クシ語派(en)の東クシ諸語に属す。
2.^ a b 河合 (2010) pp.15-16
3.^ 河合 (2010) pp.33-34
4.^ 新種の初期人類を発見 米チーム、エチオピアで - 日本経済新聞(ワシントン共同) 2012年3月29日
5.^ 340万年前に樹上生活の人類…化石発見 - BIGLOBEニュース(読売新聞2012年3月29日、夕刊)
参考文献[編集]
アリス・ロバーツ編著 (2012) 『人類の進化大図鑑』馬場悠男日本語版監修、河出書房新社
河合信和 (2010) 『ヒトの進化 七〇〇万年史』 筑摩書房〈ちくま新書〉
関連項目[編集]
ウィキスピーシーズにアルディピテクス属に関する情報があります。
ヒト亜科
古人類学
絶滅した動物一覧
人類の進化
ホミニゼーション
ミニゼーション(Hominization)とは、人類の進化を論じるさいの用語で、日本語では「ヒト化」ないし「人類化」と訳されることが多い[1]。いわゆる「サルからヒトへ」の進化の過程、または、原始人類から現生人類までの人類進化の過程などを指す[1]。
目次 [非表示]
1 概要
2 最古のヒト
3 脚注 3.1 注釈
3.2 出典
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
概要[編集]
この用語は、ヒトの個体発生すなわち受精卵が発展して個々の人に育っていく過程には用いられず、もっぱら人類の系統発生的過程や猿人から新人までの人類進化の過程などを意味するのに用いられている[1]。江原昭善は、ホミニゼーションの表現でヒトの由来や起源・系統の解明だけではなく、その要因論や成因論まで含むとしている[1]。
ホミニゼーションとは人類進化の全課程を意味しているが、上述の通り、正確には2つの意味を有している[1]。ひとつはヒト科(ホミニーデ)成立に関する諸問題であり、他のひとつはヒト科内での進化に関する諸問題であるとかつては説明されてきた[1]。ホミニゼーションの名はこれに由来するが、ただし今日では、資料の増加により幾度も分類学上の見直しがなされ、人類の系統的発生とした場合、重要になるのは「ヒト亜族」という単位である。また、ホミニゼーションの用語は、狭義には前者を指しており、後者(猿人から新人までの過程)に関しては「サピエンティゼーション(サピエンス化)」の用語をあてた方がよいという指摘がある[1]。
狭義のホミニゼーションに関しては、近年の分子遺伝学の成果によって、ヒトとチンパンジー(ヒト科チンパンジー属)のゲノムの98%以上が相同であり、両者間にはほとんど差がないことが判明している[2][注釈 1]。
最古のヒト[編集]
サヘラントロプス(頭部復元)
化石人骨にもとづく最古の確かな人類祖先は、1990年頃まで、300万年前から400万年前の猿人として知られるアウストラロピテクス・アファレンシスであり、当時、DNAの比較からチンパンジーと人類の分岐が400万年前から500万年前ぐらいとされていた[3][注釈 2]。
1992年、エチオピアのアファール盆地にある約440万年前の地層からラミダス猿人が発見されると、その原始的な諸要素から、形態的にはかなり共通祖先に近いだろうとの予測がたち、1995年、新しい属(アルディピテクス属)に分類された[3]。また、チンパンジーとの分岐年代が500万年前であってもおかしくないとされた[3]。
2000年以降になると、ラミダス以上に犬歯が類人猿的な人類の祖先が発見された[3]。オロリン、カダバ(アルディピテクス属)、サヘラントロプス(トゥーマイ猿人)である。いずれも断片的な資料ながら、年代は少なくとも600万年前、場合によっては700万年前までさかのぼると考えられる[3][注釈 3]。
2001年、アフリカ大陸中央部のチャドで発見されたサヘラントロプスは、頭骨のみの出土ながら、600万年前ないし700万年前のものとされ、現在のところ、最古の人類の化石と見なされている[3][4]。周囲の状況から、水辺の森で生活していたと推定され、人類誕生の地を草原とする従来説は見直しをせまられている。
脚注[編集]
[ヘルプ]
注釈[編集]
1.^ 残りの2パーセント足らずの遺伝子情報の中に、ヒトを特徴づける特別な遺伝子があり、その有無がヒトをチンパンジーとは異なる独自の生物にしているのかについて、ジャレド・ダイアモンドは「おそらくそうだ」としているのに対し、福岡伸一は「おそらくそうではない」とみている。J.ダイアモンド(1993)p.3および福岡伸一「ヒトはチンパンジーよりも」
2.^ アウストラロピテクス・アファレンシスは、全身の約4割の骨が出土したことで知られ、女性である可能性が高いその個体は「ルーシー(Lucy)」と称されている。
3.^ ヒトとチンパンジーの分岐年代は800万年前を超えることも可能性としてはありうる。『600万年前の人類祖先は、DNAのデータと矛盾しないの?』
出典[編集]
1.^ a b c d e f g 田辺・富田(1977)pp.127-130
2.^ J.ダイアモンド(1993)pp.1-4
3.^ a b c d e f 東京大学博物館「人類進化Q&A」『600万年前の人類祖先は、DNAのデータと矛盾しないの?』
4.^ 東京大学博物館「人類進化Q&A」『ラミダスと、カダバ、オロリン、サヘラントロプスとの関係は?』
参考文献[編集]
江原昭善「Hominizationのもつ意味」(シンポジウム「ホミニゼーション」序文)、京都大学霊長類研究所年報第2巻、1972年。
田辺義一・富田守 「ホミニゼーション」『人類学総説』 垣内出版、1977年6月。
ジャレド・ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?』 新曜社、1993年10月。
関連項目[編集]
ヒト
人類の進化
古人類学
進化医学
進化人類学
進化心理学
社会文化的進化
人類の知能の進化
化石人類
目次 [非表示]
1 概要
2 最古のヒト
3 脚注 3.1 注釈
3.2 出典
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
概要[編集]
この用語は、ヒトの個体発生すなわち受精卵が発展して個々の人に育っていく過程には用いられず、もっぱら人類の系統発生的過程や猿人から新人までの人類進化の過程などを意味するのに用いられている[1]。江原昭善は、ホミニゼーションの表現でヒトの由来や起源・系統の解明だけではなく、その要因論や成因論まで含むとしている[1]。
ホミニゼーションとは人類進化の全課程を意味しているが、上述の通り、正確には2つの意味を有している[1]。ひとつはヒト科(ホミニーデ)成立に関する諸問題であり、他のひとつはヒト科内での進化に関する諸問題であるとかつては説明されてきた[1]。ホミニゼーションの名はこれに由来するが、ただし今日では、資料の増加により幾度も分類学上の見直しがなされ、人類の系統的発生とした場合、重要になるのは「ヒト亜族」という単位である。また、ホミニゼーションの用語は、狭義には前者を指しており、後者(猿人から新人までの過程)に関しては「サピエンティゼーション(サピエンス化)」の用語をあてた方がよいという指摘がある[1]。
狭義のホミニゼーションに関しては、近年の分子遺伝学の成果によって、ヒトとチンパンジー(ヒト科チンパンジー属)のゲノムの98%以上が相同であり、両者間にはほとんど差がないことが判明している[2][注釈 1]。
最古のヒト[編集]
サヘラントロプス(頭部復元)
化石人骨にもとづく最古の確かな人類祖先は、1990年頃まで、300万年前から400万年前の猿人として知られるアウストラロピテクス・アファレンシスであり、当時、DNAの比較からチンパンジーと人類の分岐が400万年前から500万年前ぐらいとされていた[3][注釈 2]。
1992年、エチオピアのアファール盆地にある約440万年前の地層からラミダス猿人が発見されると、その原始的な諸要素から、形態的にはかなり共通祖先に近いだろうとの予測がたち、1995年、新しい属(アルディピテクス属)に分類された[3]。また、チンパンジーとの分岐年代が500万年前であってもおかしくないとされた[3]。
2000年以降になると、ラミダス以上に犬歯が類人猿的な人類の祖先が発見された[3]。オロリン、カダバ(アルディピテクス属)、サヘラントロプス(トゥーマイ猿人)である。いずれも断片的な資料ながら、年代は少なくとも600万年前、場合によっては700万年前までさかのぼると考えられる[3][注釈 3]。
2001年、アフリカ大陸中央部のチャドで発見されたサヘラントロプスは、頭骨のみの出土ながら、600万年前ないし700万年前のものとされ、現在のところ、最古の人類の化石と見なされている[3][4]。周囲の状況から、水辺の森で生活していたと推定され、人類誕生の地を草原とする従来説は見直しをせまられている。
脚注[編集]
[ヘルプ]
注釈[編集]
1.^ 残りの2パーセント足らずの遺伝子情報の中に、ヒトを特徴づける特別な遺伝子があり、その有無がヒトをチンパンジーとは異なる独自の生物にしているのかについて、ジャレド・ダイアモンドは「おそらくそうだ」としているのに対し、福岡伸一は「おそらくそうではない」とみている。J.ダイアモンド(1993)p.3および福岡伸一「ヒトはチンパンジーよりも」
2.^ アウストラロピテクス・アファレンシスは、全身の約4割の骨が出土したことで知られ、女性である可能性が高いその個体は「ルーシー(Lucy)」と称されている。
3.^ ヒトとチンパンジーの分岐年代は800万年前を超えることも可能性としてはありうる。『600万年前の人類祖先は、DNAのデータと矛盾しないの?』
出典[編集]
1.^ a b c d e f g 田辺・富田(1977)pp.127-130
2.^ J.ダイアモンド(1993)pp.1-4
3.^ a b c d e f 東京大学博物館「人類進化Q&A」『600万年前の人類祖先は、DNAのデータと矛盾しないの?』
4.^ 東京大学博物館「人類進化Q&A」『ラミダスと、カダバ、オロリン、サヘラントロプスとの関係は?』
参考文献[編集]
江原昭善「Hominizationのもつ意味」(シンポジウム「ホミニゼーション」序文)、京都大学霊長類研究所年報第2巻、1972年。
田辺義一・富田守 「ホミニゼーション」『人類学総説』 垣内出版、1977年6月。
ジャレド・ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?』 新曜社、1993年10月。
関連項目[編集]
ヒト
人類の進化
古人類学
進化医学
進化人類学
進化心理学
社会文化的進化
人類の知能の進化
化石人類
オロリン
オロリン (Orrorin) は、ケニアに生息していた化石人類の属である。1種オロリン・トゥゲネンシス
O. tugenensis のみが属す。学名は、ケニアのトゥゲンヒルズ (Tugen Hills) で化石を発見した研究者らによってつけられた。
ヒト亜科に属し、ヒトの系統がチンパンジーと分岐して以降の祖先の可能性がある属・種としては、サヘラントロプスに次ぎ2番目に古い。
目次 [非表示]
1 年代
2 特徴
3 系統仮説
4 関連項目
年代[編集]
放射年代測定によって、化石が発見された地層の火山性凝灰岩は610万から580万年前の中新世のものであることが分かった。これは、二足歩行をしていた証拠の残る最も古い化石のひとつである。
特徴[編集]
現在までに、この種の化石は少なくとも5体発掘されている。その中には直立していたことを示唆する大腿骨の化石や、木には登れたが腕渡りはできなかったことを示唆する薄い右手の上腕骨の化石、現代の人類とほぼ同じものを食べていたことを示唆する歯の化石も含まれている。オロリン・トゥゲネンシスの化石が大腿骨の臀部側に外閉鎖筋溝を持っていたという事実は、この種が二足歩行をしていたことを示している。臼歯が大きく犬歯が小さかったということは、この種が果物や野菜を好んで食べ、肉類も時々食べていたことを示している。オロリン・トゥゲネンシスはチンパンジー程度の大きさであった。
系統仮説[編集]
マーティン・ピックフォード (Martin Pickford) のチームが2000年に再びオロリン・トゥゲネンシスの化石を発見した。ピックフォードはオロリン属はヒト亜科であると主張し、これに基づいてヒト科と他のアフリカの類人猿が分化したのは少なくとも700万年前であるとした。この値は、分子時計による計算の結果とはかなり異なる。
もしオロリン属が現代の人類の直接の祖先であると証明されれば、アウストラロピテクス・アファレンシスなどのアウストラロピテクス属はヒト科の樹形図の傍流であるということになる。オロリン属はアウストラロピテクス属よりも150万年も古いが、より現代の人類に近いのである。
化石の発見された場所から考えると、人類の進化の従来の仮説とは異なり、オロリン属は森林に住んでいたとみられる。
関連項目[編集]
ホミニゼーション
O. tugenensis のみが属す。学名は、ケニアのトゥゲンヒルズ (Tugen Hills) で化石を発見した研究者らによってつけられた。
ヒト亜科に属し、ヒトの系統がチンパンジーと分岐して以降の祖先の可能性がある属・種としては、サヘラントロプスに次ぎ2番目に古い。
目次 [非表示]
1 年代
2 特徴
3 系統仮説
4 関連項目
年代[編集]
放射年代測定によって、化石が発見された地層の火山性凝灰岩は610万から580万年前の中新世のものであることが分かった。これは、二足歩行をしていた証拠の残る最も古い化石のひとつである。
特徴[編集]
現在までに、この種の化石は少なくとも5体発掘されている。その中には直立していたことを示唆する大腿骨の化石や、木には登れたが腕渡りはできなかったことを示唆する薄い右手の上腕骨の化石、現代の人類とほぼ同じものを食べていたことを示唆する歯の化石も含まれている。オロリン・トゥゲネンシスの化石が大腿骨の臀部側に外閉鎖筋溝を持っていたという事実は、この種が二足歩行をしていたことを示している。臼歯が大きく犬歯が小さかったということは、この種が果物や野菜を好んで食べ、肉類も時々食べていたことを示している。オロリン・トゥゲネンシスはチンパンジー程度の大きさであった。
系統仮説[編集]
マーティン・ピックフォード (Martin Pickford) のチームが2000年に再びオロリン・トゥゲネンシスの化石を発見した。ピックフォードはオロリン属はヒト亜科であると主張し、これに基づいてヒト科と他のアフリカの類人猿が分化したのは少なくとも700万年前であるとした。この値は、分子時計による計算の結果とはかなり異なる。
もしオロリン属が現代の人類の直接の祖先であると証明されれば、アウストラロピテクス・アファレンシスなどのアウストラロピテクス属はヒト科の樹形図の傍流であるということになる。オロリン属はアウストラロピテクス属よりも150万年も古いが、より現代の人類に近いのである。
化石の発見された場所から考えると、人類の進化の従来の仮説とは異なり、オロリン属は森林に住んでいたとみられる。
関連項目[編集]
ホミニゼーション
サヘラントロプス
サヘラントロプス (Sahelanthropus) は、600万年 - 700万年前のアフリカ中部に生息していた霊長類の1属である。サヘラントロプス・チャデンシス (Sahelanthropus tchadensis) 1種のみが属す。発見された化石 TM 266-01-060-1 には、チャドの現地語で「生命の希望」という意味のトゥーマイ (Toumaï) の愛称がある。
最古の人類(チンパンジーと分岐したのちのヒトの系統、分類学的にはヒト亜族)とする説がある。
目次 [非表示]
1 系統・分類的位置
2 生息年代
3 生息地域
4 特徴
5 関連項目
6 脚注
系統・分類的位置[編集]
時代的には、ヒトがチンパンジーと分岐したころ、あるいはその直前に当たる。そのため、この分岐の前か後かが論争されている。
サヘラントロプスは、頭骨の大後頭孔が下方にある。この孔は脊髄が通る孔で、これが下方にあるということは、脊髄が下に伸びていた、つまり、直立していた可能性が高い。だとすると、直立はヒトの派生形質であるため、チンパンジーと分岐したのちのヒトの祖先(もしくはその近縁)であるということになる。また、ヒトを他の霊長類から特徴づける数多くの特徴のうち、直立は最も初期に進化した形質の1つということになる。
しかし、サヘラントロプスの脚の化石や足跡化石は見つかっておらず、直立というのは仮説にとどまる。もし直立が否定されるなら、サヘラントロプスの系統的位置を確実にする証拠はなくなり、ヒトとチンパンジーの共通祖先(ヒト族の祖)、あるいは、ゴリラも含めた共通祖先(ヒト亜科の祖)の可能性もある。
サヘラントロプスに続く時代の化石人類(あるいは化石類人猿)であるオロリンやアルディピテクス(ラミダスとカダバ)との関係は、化石記録が断片的なためにはっきりしない。サヘラントロプスは頭骨しか見つかっておらず、オロリンやアルディピテクスは頭骨がないか不完全だからである。もし完全な化石が見つかったとしたら、別属とするほどの差はないかもしれない[1]。
生息年代[編集]
中新世
生息地域[編集]
アフリカ中央部・チャド
特徴[編集]
身長は約150センチ[要出典]。
脳の容積は約350cc(チンパンジーと同じぐらい)
犬歯はやや小型。
大後頭孔が頭骨の下方にある。このことから、直立していた可能性が高い。
強い眉弓(目の上の出っ張り)がある。
最古の人類(チンパンジーと分岐したのちのヒトの系統、分類学的にはヒト亜族)とする説がある。
目次 [非表示]
1 系統・分類的位置
2 生息年代
3 生息地域
4 特徴
5 関連項目
6 脚注
系統・分類的位置[編集]
時代的には、ヒトがチンパンジーと分岐したころ、あるいはその直前に当たる。そのため、この分岐の前か後かが論争されている。
サヘラントロプスは、頭骨の大後頭孔が下方にある。この孔は脊髄が通る孔で、これが下方にあるということは、脊髄が下に伸びていた、つまり、直立していた可能性が高い。だとすると、直立はヒトの派生形質であるため、チンパンジーと分岐したのちのヒトの祖先(もしくはその近縁)であるということになる。また、ヒトを他の霊長類から特徴づける数多くの特徴のうち、直立は最も初期に進化した形質の1つということになる。
しかし、サヘラントロプスの脚の化石や足跡化石は見つかっておらず、直立というのは仮説にとどまる。もし直立が否定されるなら、サヘラントロプスの系統的位置を確実にする証拠はなくなり、ヒトとチンパンジーの共通祖先(ヒト族の祖)、あるいは、ゴリラも含めた共通祖先(ヒト亜科の祖)の可能性もある。
サヘラントロプスに続く時代の化石人類(あるいは化石類人猿)であるオロリンやアルディピテクス(ラミダスとカダバ)との関係は、化石記録が断片的なためにはっきりしない。サヘラントロプスは頭骨しか見つかっておらず、オロリンやアルディピテクスは頭骨がないか不完全だからである。もし完全な化石が見つかったとしたら、別属とするほどの差はないかもしれない[1]。
生息年代[編集]
中新世
生息地域[編集]
アフリカ中央部・チャド
特徴[編集]
身長は約150センチ[要出典]。
脳の容積は約350cc(チンパンジーと同じぐらい)
犬歯はやや小型。
大後頭孔が頭骨の下方にある。このことから、直立していた可能性が高い。
強い眉弓(目の上の出っ張り)がある。
アウストラロピテクス・アファレンシス
アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)は約390万 - 約290万年前に存在した化石人類の一種である。同時期に存在したアウストラロピテクス・アフリカヌスと同様のスリムな体形をしている。研究の結果、アウストラロピテクス・アファレンシスはアウストラロピテクス属とヒト属の共通の祖先であり、現代のヒトに直接繋がっていると考えられている。
アウストラロピテクス・アファレンシスの化石はアフリカ東部のみから見つかっている。タイプ標本の化石こそタンザニアのラエトリで見つかっているが、有名なルーシーを含むその他の大部分はエチオピア北東のハダール村で発見されている。他にもエチオピアのOmo、Maka、Fejej、BelohdelieやケニアのKoobi Foraでも発見例がある。
目次 [非表示]
1 身体的な特徴 1.1 頭部の特徴と脳のサイズ
1.2 直立二足歩行
1.3 社会性
1.4 系統に関する疑問点
2 主な化石 2.1 タイプ化石
2.2 AL 129-1
2.3 ルーシー
2.4 サイト333
2.5 セラム
2.6 その他
3 関連した研究
4 関連項目
身体的な特徴[編集]
頭部の特徴と脳のサイズ[編集]
現代の、また絶滅した類人猿と比べて、アウストラロピテクス・アファレンシスの犬歯や奥歯は小さかったが、それでも現代のヒトよりは大きかった。脳のサイズも380-430mlと比較的小さく、顎が前に突き出た原始的な顔をしていた。
脳が小さく、原始的な顔をしていた人類が直立二足歩行をしていたという事実は、当時の学会にとって意外なことだった。これは当時、脳のサイズの増大が人類への移行の初期の大きなステップだったと信じられていたためである。1970年代にアウストラロピテクス・アファレンシスが発見されるまでは、直立二足歩行は脳のサイズの増大の結果だと広く考えられていた。当時既に発見されていたホモ・ルドルフエンシスなどが約800mlという大きな脳を持っていたためである。
直立二足歩行[編集]
ラエトリの猿人足跡化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。
アウストラロピテクス・アファレンシスの運動行動については現在でも議論がある。アウストラロピテクス・アファレンシスは平地でほぼ完全な直立二足歩行をしていたと考える学者もいれば、一部樹上生活を送っていたと考えている学者もいる。手・足・肩の関節の形態からは、後者の説が支持されている。また指や爪先の骨の湾曲具合からは、木を掴み、登るのに適していたことが分かっている。さらに手首を固定する機構があったことから、手をついて四足歩行することもあったと推測される。肩の関節も、現代のヒトと比べて頭の側に偏っている。
しかし、アウストラロピテクス・アファレンシスが直立二足歩行をしていたことを強く示唆する証拠もいくつもある。骨格全体を見ると骨盤の形は類人猿のものよりもヒトのものに近く、腸骨は太くて短く、仙骨は幅広くて股関節と大腿直筋に直結している。さらに、大腿骨の角度も尻から膝の方に向いている。このことによって、体の中心線に沿って足を下ろすことが可能となり、直立二足歩行を行っていたことが強く示唆される。現存する動物の中ではヒトの他に、オランウータンとクモザルだけがこの特徴を持っている。また足の爪先は大きく、後肢で枝を掴むのは困難であったという指摘もある。踵の関節の形状も、ヒトと非常に近い。
骨格の慣性モーメントと運動学を計算に入れたコンピュータシミュレーションを行った結果、アウストラロピテクス・アファレンシスはヒトと同じように直立二足歩行できたが、チンパンジーと同じようには歩けなかったという結論が得られた。直立歩行は膝と腰を折り曲げて歩くより効率的で、エネルギー効率は2倍も良いのである。これらのことからアウストラロピテクス・アファレンシスは短い距離は直立二足歩行をしていたと考えられ、またラエトリでの足跡の化石から、その速度はおよそ1.0m/sであったと見られている。これは現代人が市街で歩く速度とほぼ同じである。
一般に、直立二足歩行はチンパンジーやゴリラのような腰を曲げて手を突いて歩く歩き方から進化したと考えられているが、チンパンジーとヒトが分化したと考えられている約500万 - 約800万年前に生きたオロリン・トゥゲネンシスも二足歩行をしていたことを示す証拠がある。また現代の類人猿やその祖先の化石を見ると、木に登るために直立する骨格を進化させてきたことが分かる。これらのことから、直立歩行自体は、樹上生活する必要性から進化してきたと考えられる。スマトラ島のオランウータンによる研究の結果、これらは大きな安定した枝の上を歩く時や細い枝の下を渡る時は四足を用い、直径4cm以下の細い枝の上を歩く時には腕でバランスを取りながら二足を用いて歩行することが明らかとなった。このような行動によって、樹冠の果物を取ったり、他の木の枝に移ったりすることが可能となった。約1100万 - 約1200万年前に気候が大きく変わったことにより、アフリカ東部から中央部の森林の様子が大きく変わり、樹上生活を諦め地上に降りてきたヒトの祖先と、樹上生活により適応しようとしたゴリラやチンパンジーの祖先が分かれた。
社会性[編集]
既に絶滅した種の化石から、その社会的行動について推測するのは困難である。しかし、現代の霊長類やサルの社会構造から性的二形などある程度のことを予想するのは可能である。アウストラロピテクス・アファレンシスのオスとメスの形態にはどれほどの差があったかということについてはまだ論争があるが、オスはメスに比べて大きかったようである。もし類人猿の性的二形や社会構造が当てはまるのであれば、アウストラロピテクス・アファレンシスも一匹のオスと何匹かのメスからなる小さな家族単位で生活していたと推測できる。
アウストラロピテクス・アファレンシスが石器を使ったという証拠はなく、現在見つかっている最も古い石器は、約250万年前のものである。
系統に関する疑問点[編集]
1977年、ルーシーの発見で知られるドナルド・ヨハンソンとティム・ホワイトは彼らの発見した化石の詳細な形態学的解析を行った。彼らは化石をチンパンジー、ゴリラ、ヒト、他の化石人類と比較し、顎と歯の形状から、アウストラロピテクス・アファレンシスはヒトと類人猿の中間的な存在だと結論づけた。そしてこの種をヒト属には入れず、アウストラロピテクス属に入れることを提案した。彼らは、この種がアウストラロピテクス・アフリカヌスやアウストラロピテクス・ロブストゥスの祖先であるとともに、ホモ・サピエンスを含むヒト属の祖先でもあると確信し、またこの説は広く受け入れられた。しかし2006年にYoel Rak、Avishag Ginzburg、Eli Geffenらは、2002年に見つかった下顎の骨の形状がゴリラと良く似ていることを発見した。その他の研究の成果も勘案し、彼らはアウストラロピテクス・アファレンシスはパラントロプス属に分類されるべきであり、現代のヒトの直接の祖先ではないと結論づけた。彼らは、ホワイトらが1999年に発見したアルディピテクス・ラミドゥスこそが現代のヒトの祖先と呼ぶにふさわしいと主張している。
主な化石[編集]
タイプ化石[編集]
アウストラロピテクス・アファレンシスのタイプ化石は、タンザニアのラエトリで発見された大人の下顎の化石で、LH 4という名前がついている。
AL 129-1[編集]
初めての膝関節の化石で、1973年11月にドナルド・ジョハンソン、ティム・ホワイトらのチームによりエチオピアのアワッシュ川中流域、アファール渓谷で発見された。
ルーシー[編集]
詳細は「ルーシー (アウストラロピテクス)」を参照
初めての全身骨格で、1974年11月24日にトム・グレイ、ドナルド・ジョハンソン、ティム・ホワイトらのチームにより、エチオピアのアワッシュ川下流域、アファール渓谷で発見された。
サイト333[編集]
200以上の欠片からなる、初めて発見されたアウストラロピテクス・アファレンシスの家族の化石で、1975年にルーシーが発見された隣の丘で、ドナルド・ジョハンソンの生徒のマイケル・ブッシュが発見した。歯や顎など、発見された欠片の数から、その場所は現在、サイト333として知られている。13個体あり、その全てが成人である。13個体は同時に死んだと見られ、ヨハンソンは鉄砲水により死んだと考えている。
セラム[編集]
詳細は「セラム」を参照
2006年9月20日、サイエンティフィック・アメリカン誌が、ルーシーの発見場所から4km離れたディキカという場所で2000年に発見されていたと発表した。3歳の女児で頭蓋と胴体、肋骨のほとんどが発見された。樹上生活と直立二足歩行の両方に適応していたと見られ、ルーシーの特徴と一致する点が多々あった。「セラム」はアムハラ語で「平和」を意味し、発見場所から「ディキカ・ベビー」とも呼ばれる。
その他[編集]
AL 200-1
AL 129-1
AL 444
関連した研究[編集]
近年、ケニアントロプス・プラティオプスのような全く新しい種が発見された。これはルーシーと沢山の共通点を持つが、別の属だと考えられている。
ホワイトらにより1990年代にアルディピテクス・ラミドゥスが発見された。これはアウストラロピテクス・アファレンシスと同時期に生存していて、完全な直立二足歩行をしていたと推定される。 しかし小さな顎と足の骨との化石しか見つかっていないため、脳の容積の推定には至っていない。
アウストラロピテクス・アファレンシスの化石はアフリカ東部のみから見つかっている。タイプ標本の化石こそタンザニアのラエトリで見つかっているが、有名なルーシーを含むその他の大部分はエチオピア北東のハダール村で発見されている。他にもエチオピアのOmo、Maka、Fejej、BelohdelieやケニアのKoobi Foraでも発見例がある。
目次 [非表示]
1 身体的な特徴 1.1 頭部の特徴と脳のサイズ
1.2 直立二足歩行
1.3 社会性
1.4 系統に関する疑問点
2 主な化石 2.1 タイプ化石
2.2 AL 129-1
2.3 ルーシー
2.4 サイト333
2.5 セラム
2.6 その他
3 関連した研究
4 関連項目
身体的な特徴[編集]
頭部の特徴と脳のサイズ[編集]
現代の、また絶滅した類人猿と比べて、アウストラロピテクス・アファレンシスの犬歯や奥歯は小さかったが、それでも現代のヒトよりは大きかった。脳のサイズも380-430mlと比較的小さく、顎が前に突き出た原始的な顔をしていた。
脳が小さく、原始的な顔をしていた人類が直立二足歩行をしていたという事実は、当時の学会にとって意外なことだった。これは当時、脳のサイズの増大が人類への移行の初期の大きなステップだったと信じられていたためである。1970年代にアウストラロピテクス・アファレンシスが発見されるまでは、直立二足歩行は脳のサイズの増大の結果だと広く考えられていた。当時既に発見されていたホモ・ルドルフエンシスなどが約800mlという大きな脳を持っていたためである。
直立二足歩行[編集]
ラエトリの猿人足跡化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。
アウストラロピテクス・アファレンシスの運動行動については現在でも議論がある。アウストラロピテクス・アファレンシスは平地でほぼ完全な直立二足歩行をしていたと考える学者もいれば、一部樹上生活を送っていたと考えている学者もいる。手・足・肩の関節の形態からは、後者の説が支持されている。また指や爪先の骨の湾曲具合からは、木を掴み、登るのに適していたことが分かっている。さらに手首を固定する機構があったことから、手をついて四足歩行することもあったと推測される。肩の関節も、現代のヒトと比べて頭の側に偏っている。
しかし、アウストラロピテクス・アファレンシスが直立二足歩行をしていたことを強く示唆する証拠もいくつもある。骨格全体を見ると骨盤の形は類人猿のものよりもヒトのものに近く、腸骨は太くて短く、仙骨は幅広くて股関節と大腿直筋に直結している。さらに、大腿骨の角度も尻から膝の方に向いている。このことによって、体の中心線に沿って足を下ろすことが可能となり、直立二足歩行を行っていたことが強く示唆される。現存する動物の中ではヒトの他に、オランウータンとクモザルだけがこの特徴を持っている。また足の爪先は大きく、後肢で枝を掴むのは困難であったという指摘もある。踵の関節の形状も、ヒトと非常に近い。
骨格の慣性モーメントと運動学を計算に入れたコンピュータシミュレーションを行った結果、アウストラロピテクス・アファレンシスはヒトと同じように直立二足歩行できたが、チンパンジーと同じようには歩けなかったという結論が得られた。直立歩行は膝と腰を折り曲げて歩くより効率的で、エネルギー効率は2倍も良いのである。これらのことからアウストラロピテクス・アファレンシスは短い距離は直立二足歩行をしていたと考えられ、またラエトリでの足跡の化石から、その速度はおよそ1.0m/sであったと見られている。これは現代人が市街で歩く速度とほぼ同じである。
一般に、直立二足歩行はチンパンジーやゴリラのような腰を曲げて手を突いて歩く歩き方から進化したと考えられているが、チンパンジーとヒトが分化したと考えられている約500万 - 約800万年前に生きたオロリン・トゥゲネンシスも二足歩行をしていたことを示す証拠がある。また現代の類人猿やその祖先の化石を見ると、木に登るために直立する骨格を進化させてきたことが分かる。これらのことから、直立歩行自体は、樹上生活する必要性から進化してきたと考えられる。スマトラ島のオランウータンによる研究の結果、これらは大きな安定した枝の上を歩く時や細い枝の下を渡る時は四足を用い、直径4cm以下の細い枝の上を歩く時には腕でバランスを取りながら二足を用いて歩行することが明らかとなった。このような行動によって、樹冠の果物を取ったり、他の木の枝に移ったりすることが可能となった。約1100万 - 約1200万年前に気候が大きく変わったことにより、アフリカ東部から中央部の森林の様子が大きく変わり、樹上生活を諦め地上に降りてきたヒトの祖先と、樹上生活により適応しようとしたゴリラやチンパンジーの祖先が分かれた。
社会性[編集]
既に絶滅した種の化石から、その社会的行動について推測するのは困難である。しかし、現代の霊長類やサルの社会構造から性的二形などある程度のことを予想するのは可能である。アウストラロピテクス・アファレンシスのオスとメスの形態にはどれほどの差があったかということについてはまだ論争があるが、オスはメスに比べて大きかったようである。もし類人猿の性的二形や社会構造が当てはまるのであれば、アウストラロピテクス・アファレンシスも一匹のオスと何匹かのメスからなる小さな家族単位で生活していたと推測できる。
アウストラロピテクス・アファレンシスが石器を使ったという証拠はなく、現在見つかっている最も古い石器は、約250万年前のものである。
系統に関する疑問点[編集]
1977年、ルーシーの発見で知られるドナルド・ヨハンソンとティム・ホワイトは彼らの発見した化石の詳細な形態学的解析を行った。彼らは化石をチンパンジー、ゴリラ、ヒト、他の化石人類と比較し、顎と歯の形状から、アウストラロピテクス・アファレンシスはヒトと類人猿の中間的な存在だと結論づけた。そしてこの種をヒト属には入れず、アウストラロピテクス属に入れることを提案した。彼らは、この種がアウストラロピテクス・アフリカヌスやアウストラロピテクス・ロブストゥスの祖先であるとともに、ホモ・サピエンスを含むヒト属の祖先でもあると確信し、またこの説は広く受け入れられた。しかし2006年にYoel Rak、Avishag Ginzburg、Eli Geffenらは、2002年に見つかった下顎の骨の形状がゴリラと良く似ていることを発見した。その他の研究の成果も勘案し、彼らはアウストラロピテクス・アファレンシスはパラントロプス属に分類されるべきであり、現代のヒトの直接の祖先ではないと結論づけた。彼らは、ホワイトらが1999年に発見したアルディピテクス・ラミドゥスこそが現代のヒトの祖先と呼ぶにふさわしいと主張している。
主な化石[編集]
タイプ化石[編集]
アウストラロピテクス・アファレンシスのタイプ化石は、タンザニアのラエトリで発見された大人の下顎の化石で、LH 4という名前がついている。
AL 129-1[編集]
初めての膝関節の化石で、1973年11月にドナルド・ジョハンソン、ティム・ホワイトらのチームによりエチオピアのアワッシュ川中流域、アファール渓谷で発見された。
ルーシー[編集]
詳細は「ルーシー (アウストラロピテクス)」を参照
初めての全身骨格で、1974年11月24日にトム・グレイ、ドナルド・ジョハンソン、ティム・ホワイトらのチームにより、エチオピアのアワッシュ川下流域、アファール渓谷で発見された。
サイト333[編集]
200以上の欠片からなる、初めて発見されたアウストラロピテクス・アファレンシスの家族の化石で、1975年にルーシーが発見された隣の丘で、ドナルド・ジョハンソンの生徒のマイケル・ブッシュが発見した。歯や顎など、発見された欠片の数から、その場所は現在、サイト333として知られている。13個体あり、その全てが成人である。13個体は同時に死んだと見られ、ヨハンソンは鉄砲水により死んだと考えている。
セラム[編集]
詳細は「セラム」を参照
2006年9月20日、サイエンティフィック・アメリカン誌が、ルーシーの発見場所から4km離れたディキカという場所で2000年に発見されていたと発表した。3歳の女児で頭蓋と胴体、肋骨のほとんどが発見された。樹上生活と直立二足歩行の両方に適応していたと見られ、ルーシーの特徴と一致する点が多々あった。「セラム」はアムハラ語で「平和」を意味し、発見場所から「ディキカ・ベビー」とも呼ばれる。
その他[編集]
AL 200-1
AL 129-1
AL 444
関連した研究[編集]
近年、ケニアントロプス・プラティオプスのような全く新しい種が発見された。これはルーシーと沢山の共通点を持つが、別の属だと考えられている。
ホワイトらにより1990年代にアルディピテクス・ラミドゥスが発見された。これはアウストラロピテクス・アファレンシスと同時期に生存していて、完全な直立二足歩行をしていたと推定される。 しかし小さな顎と足の骨との化石しか見つかっていないため、脳の容積の推定には至っていない。
パラントロプス
パラントロプス (Paranthropus) は、東アフリカと南アフリカに生息していた化石人類の属である。パラントロプスとは、「人のそばに」という意味。
同時代の初期ホモ属や、やや古い後期アウストラロピテクスとは頑丈型として区別されるグループで、発達した顎と側頭筋を持ち、堅い食物を摂取する方向に進化したと思われる。
目次 [非表示]
1 年代
2 特徴
3 分類
4 種
5 脚注
年代[編集]
200〜120万年前にかけて生息した。
かなり長期間、初期のホモ属と同時期に生息していたが、100万年ほど前に絶滅したと考えられている。
特徴[編集]
体長は1.3から1.4mで、華奢型アウストラロピテクスよりひと回り大きい。脳もいくらか大きめである。
形態的には、アウストラロピテクスよりヒト的な特徴は減少しており、堅い食物を咀嚼するため、高く厚い下顎と太い側頭筋、それを通すために張り出した頬骨弓および大型の臼歯など頑丈な咀嚼器を有している。硬い植物性の食物、根などを常食としていたと考えられる。
分類[編集]
かつてP.ボイセイとP.ロブストスのみが発見されていたころ、パラントロプスはアウストラロピテクスの系統の中で徐々に頑丈化した一つの分枝にすぎず、アウストラロピテクス属に含めるべきだとする説が現れた。
しかし、パラントロプス最古かつ非常に頑丈なP.エチオピクスが発見されると、パラントロプスは始めから頑丈型として登場したということが明らかになり、従来の系統仮説は疑問視され(ただし祖先がA・アファレンシスなど初期アウストラロピテクスである可能性は高い)、パラントロプスを独立した属とする説がふたたび主流となった。
種[編集]
パラントロプス・ボイセイ Paranthropus boisei
パラントロプス・ロブストス Paranthropus robstus
パラントロプス・エチオピクス Paranthropus aethiopicus
同時代の初期ホモ属や、やや古い後期アウストラロピテクスとは頑丈型として区別されるグループで、発達した顎と側頭筋を持ち、堅い食物を摂取する方向に進化したと思われる。
目次 [非表示]
1 年代
2 特徴
3 分類
4 種
5 脚注
年代[編集]
200〜120万年前にかけて生息した。
かなり長期間、初期のホモ属と同時期に生息していたが、100万年ほど前に絶滅したと考えられている。
特徴[編集]
体長は1.3から1.4mで、華奢型アウストラロピテクスよりひと回り大きい。脳もいくらか大きめである。
形態的には、アウストラロピテクスよりヒト的な特徴は減少しており、堅い食物を咀嚼するため、高く厚い下顎と太い側頭筋、それを通すために張り出した頬骨弓および大型の臼歯など頑丈な咀嚼器を有している。硬い植物性の食物、根などを常食としていたと考えられる。
分類[編集]
かつてP.ボイセイとP.ロブストスのみが発見されていたころ、パラントロプスはアウストラロピテクスの系統の中で徐々に頑丈化した一つの分枝にすぎず、アウストラロピテクス属に含めるべきだとする説が現れた。
しかし、パラントロプス最古かつ非常に頑丈なP.エチオピクスが発見されると、パラントロプスは始めから頑丈型として登場したということが明らかになり、従来の系統仮説は疑問視され(ただし祖先がA・アファレンシスなど初期アウストラロピテクスである可能性は高い)、パラントロプスを独立した属とする説がふたたび主流となった。
種[編集]
パラントロプス・ボイセイ Paranthropus boisei
パラントロプス・ロブストス Paranthropus robstus
パラントロプス・エチオピクス Paranthropus aethiopicus
アウストラロピテクス
アウストラロピテクス (Australopithecus) は、哺乳類霊長目(サル目)ヒト科の絶滅した属であり、化石人類の一群である。
アフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 約200万年前に生存していた、いわゆる華奢型の猿人である。頑丈型の猿人(200 - 120万年前)は、以前はアウストラロピテクスに含めていたが、最近ではパラントロプスに分類することが多い。
目次 [非表示]
1 特徴
2 研究史 2.1 アフリカヌスの発見
2.2 その後
3 進化上の位置付け
4 種
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
特徴[編集]
身長は120センチメートル台 - 140センチメートル台くらいで、脳容積は現生人類の約35%の500ミリリットル程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立して、歩く能力を持つと考えられている。姿形は直立したチンパンジーというイメージである。
石器はほとんど作っていないと考えられているが、最後期の種(アウストラロピテクス・ガルヒ)では原始的な石器(自然石等を無加工)を使っていたと考えられている。かつては猿人と呼ばれた。
アフリカ大陸の東部、南部のサバンナ、疎林や灌木のある草原の環境に適し、食料は植物質を中心に、小動物の狩猟、肉食獣の食べ残しをあさり(スカベンジング)動物質を補充していた[1]。
研究史[編集]
アフリカヌスの発見[編集]
1924年11月、南アフリカに住んでいた解剖学者、レイモンド・ダート(Raymond Dart)が、スタークフォンテインの洞窟で人間とも猿ともつかない動物の頭蓋骨を発見し、前かがみ気味に直立二足歩行していた人類の祖先のものであると考えて、「南の(Australo-)猿(pithecus)」という意味の「アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)」を1925年に学術雑誌『ネイチャー』に発表した。人間とサルの中間のような生物が人類の祖先と主張されたことが創造論者に大きな衝撃を与え、発見者のダートのもとには「お前は地獄の業火で焼かれる」「お前はそのおぞましい化物を自分の子として生む」といった脅迫が数多く寄せられた。
その後[編集]
アフリカの初期アウストラロピテクスの化石の発見場所の地図
1974年11月24日、エチオピアのアワッシュ川下流域で、アファレンシスの有名な個体「ルーシー」が発見される。「ルーシー」という名前はビートルズの楽曲『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』に因んで付けられた。
2000年12月、エチオピアの北東部で、約330万年前と思われるアファレンシスの約3歳の女児のほぼ完全な頭骨を含む全身化石が発見され、2006年9月に発表された。愛称は「ルーシーの赤ちゃん」。
進化上の位置付け[編集]
以前は最も古い人類の祖先とされていたがアルディピテクス属の発見により、その次に続く属となった。約440万 - 約390万年前にA・アナメンシスが、約390万 - 約300万年前にアファレンシスが現れ、約330万 - 約240万年前にA・アフリカヌスに進化した。この属からパラントロプスと、ホモ(ヒト属)最初の種ホモ・ハビリスが進化したと考えられている。
アウストラロピテクスの復元像
種[編集]
ほぼ古いものから新しいものへ。
アウストラロピテクス・アナメンシス Australopithecus anamensis
アウストラロピテクス・バーレルガザリ Australopithecus bahrelghazali
アウストラロピテクス・アファレンシス Australopithecus afarensis
アウストラロピテクス・アフリカヌス Australopithecus africanus 模式種
アウストラロピテクス・ガルヒ Australopithecus garhi
アウストラロピテクス・セディバ Australopithecus sediba
また、以下の種をアウストラロピテクスに含める説がある。
パラントロプス属全種 パラントロプス・エチオピクス Paranthropus aethiopicus
パラントロプス・ロブストス Paranthropus robustus
パラントロプス・ボイセイ Paranthropus boisei
原始的なホモ属 ホモ・ハビリス Homo habilis
アフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 約200万年前に生存していた、いわゆる華奢型の猿人である。頑丈型の猿人(200 - 120万年前)は、以前はアウストラロピテクスに含めていたが、最近ではパラントロプスに分類することが多い。
目次 [非表示]
1 特徴
2 研究史 2.1 アフリカヌスの発見
2.2 その後
3 進化上の位置付け
4 種
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
特徴[編集]
身長は120センチメートル台 - 140センチメートル台くらいで、脳容積は現生人類の約35%の500ミリリットル程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立して、歩く能力を持つと考えられている。姿形は直立したチンパンジーというイメージである。
石器はほとんど作っていないと考えられているが、最後期の種(アウストラロピテクス・ガルヒ)では原始的な石器(自然石等を無加工)を使っていたと考えられている。かつては猿人と呼ばれた。
アフリカ大陸の東部、南部のサバンナ、疎林や灌木のある草原の環境に適し、食料は植物質を中心に、小動物の狩猟、肉食獣の食べ残しをあさり(スカベンジング)動物質を補充していた[1]。
研究史[編集]
アフリカヌスの発見[編集]
1924年11月、南アフリカに住んでいた解剖学者、レイモンド・ダート(Raymond Dart)が、スタークフォンテインの洞窟で人間とも猿ともつかない動物の頭蓋骨を発見し、前かがみ気味に直立二足歩行していた人類の祖先のものであると考えて、「南の(Australo-)猿(pithecus)」という意味の「アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)」を1925年に学術雑誌『ネイチャー』に発表した。人間とサルの中間のような生物が人類の祖先と主張されたことが創造論者に大きな衝撃を与え、発見者のダートのもとには「お前は地獄の業火で焼かれる」「お前はそのおぞましい化物を自分の子として生む」といった脅迫が数多く寄せられた。
その後[編集]
アフリカの初期アウストラロピテクスの化石の発見場所の地図
1974年11月24日、エチオピアのアワッシュ川下流域で、アファレンシスの有名な個体「ルーシー」が発見される。「ルーシー」という名前はビートルズの楽曲『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』に因んで付けられた。
2000年12月、エチオピアの北東部で、約330万年前と思われるアファレンシスの約3歳の女児のほぼ完全な頭骨を含む全身化石が発見され、2006年9月に発表された。愛称は「ルーシーの赤ちゃん」。
進化上の位置付け[編集]
以前は最も古い人類の祖先とされていたがアルディピテクス属の発見により、その次に続く属となった。約440万 - 約390万年前にA・アナメンシスが、約390万 - 約300万年前にアファレンシスが現れ、約330万 - 約240万年前にA・アフリカヌスに進化した。この属からパラントロプスと、ホモ(ヒト属)最初の種ホモ・ハビリスが進化したと考えられている。
アウストラロピテクスの復元像
種[編集]
ほぼ古いものから新しいものへ。
アウストラロピテクス・アナメンシス Australopithecus anamensis
アウストラロピテクス・バーレルガザリ Australopithecus bahrelghazali
アウストラロピテクス・アファレンシス Australopithecus afarensis
アウストラロピテクス・アフリカヌス Australopithecus africanus 模式種
アウストラロピテクス・ガルヒ Australopithecus garhi
アウストラロピテクス・セディバ Australopithecus sediba
また、以下の種をアウストラロピテクスに含める説がある。
パラントロプス属全種 パラントロプス・エチオピクス Paranthropus aethiopicus
パラントロプス・ロブストス Paranthropus robustus
パラントロプス・ボイセイ Paranthropus boisei
原始的なホモ属 ホモ・ハビリス Homo habilis
人類の進化
人類の進化(じんるいのしんか、英語:human evolution)、あるいは人類の起源とは他の生物種と異なる独立種としてのホモ・サピエンス(ヒト)が誕生するまでの生物学的進化の過程である。この記事では、霊長類(サル目)の出現から、ホモ・サピエンスまでの進化系統について扱う。
目次 [非表示]
1 概要
2 古人類学の歴史
3 ヒト属以前
4 ヒト属 4.1 原人 4.1.1 ホモ・ハビリス
4.1.2 ホモ・ルドルフエンシスとホモ・ゲオルギクス
4.1.3 ホモ・エルガスターとホモ・エレクトゥス
4.1.4 ホモ・セプラネンシスとホモ・アンテセッサー
4.1.5 ホモ・フローレシエンシス
4.1.6 ホモ・ハイデルベルゲンシス
4.2 旧人 4.2.1 ホモ・ヘルメイ
4.2.2 ホモ・ローデシエンシス
4.2.3 ホモ・ネアンデルターレンシス
4.3 新人 4.3.1 ホモ・サピエンス・イダルトゥ
4.3.2 ホモ・サピエンス
5 心と行動の進化 5.1 道具の使用
5.2 石器
5.3 火の利用
5.4 現代人と「偉大な飛躍」論争
6 人類進化のモデル 6.1 多地域進化説
6.2 出アフリカ説
6.3 二つのモデルの比較
7 特筆すべき人類進化の研究者
8 種リスト
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要[編集]
人類の祖先にどのような進化的変化が起きたかは、幅広い科学的探求の主題である。この研究は多くの分野、特に形質人類学、言語学、遺伝学、考古学などと関連している。
なお、「人類」という用語は人類の進化の文脈ではヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属生物に対して用いられるが、他の属(アウストラロピテクス属など)を含むヒト亜族生物を指す場合もある。本記事では、人類という用語をチンパンジー亜族と分岐し直立二足歩行していたヒト亜族生物に用い、脳の発達したヒト属生物については学名で表記し、特にヒト属生物のうちホモ・サピエンス・サピエンスについては現生人類と表記する。
ヒト属(ホモ属)はおよそ200万年前にアフリカでアウストラロピテクス属から別属として分化し、ホモ・サピエンスは40万から25万年前に現れた。またこれらの他にも、すでに絶滅したヒト属の種が幾つか確認されている[1]。その中にはアジアに生息したホモ・エレクトゥスや、ヨーロッパに生息したホモ・ネアンデルターレンシスが含まれる。
ホモ・サピエンスの進化と拡散については、アフリカ単一起源説と多地域進化説とが対立している(#人類進化のモデル)。アフリカ単一起源説では、アフリカで「最も近いアフリカの共通祖先(RAO)」であるホモ・サピエンスが進化し、世界中に拡散してホモ・エレクトゥスとホモ・ネアンデルターレンシスに置き換わったとしている。多地域進化説を支持している科学者は世界中に分散した単一のヒト属、おそらくホモ・エレクトゥスが各地でそれぞれホモ・サピエンスに進化したと考えている。
化石の証拠はこの分野における激しい議論を解決するのに十分ではない[2]。人類はホモ・ハビリスの頃から石器を使い始め、次第に洗練させてきた。およそ5万年前、現生人類の技術と文化はより速く変わり始めた。
古人類学の歴史[編集]
古人類学は化石、道具のような遺物、居住の痕跡などにもとづく古代の人類研究である。現代的な科学としての古人類学は1856年のネアンデルタール人の発見から始まったが、初期の研究は1830年以来始まっていた[3]。1859年までに現生人類と大型類人猿の形態的な類似性は議論されていたが、同年11月にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を著すまで「生物の進化」という概念は一般には正当化されなかった。ダーウィンの進化に関する最初の本は人類の進化についてはほとんど何も述べなかった。
人類の起源と歴史に光が投げかけられるであろう
これがダーウィンが人類について述べた全てだった。それでも進化論の暗示は当時の読者にとって明らかだった[4]。
トマス・ハクスリーとリチャード・オーウェンの論争は人類の進化に集中した。ハクスリーは1863年の著書『自然の中の人類の位置』で、類人猿と現生人類の多くの類似性と相違点について説得力を持って論じた。ダーウィンが『人間の由来と性選択(1871)』でその問題について論じる頃までにはその問題は広く知られ議論の的であった。チャールズ・ライエルとアルフレッド・ウォレスのようなダーウィンの支持者の多くも、現生人類の象徴的な精神性と道徳的な感性が自然選択によって形作られたと言う考えを好まなかった。
カール・リンネの頃から類人猿と現生人類は非常に似ているように見えるために、科学者たちは類人猿は人類の最も近い親類かもしれないと考えていた。19世紀にはゴリラ、チンパンジー、オランウータンのいずれが現生人類にもっとも近縁か論争があった。ダーウィンはチンパンジーかゴリラと考え、人類の祖先の化石が見つかるとしたらアフリカだろうと予測した。エルンスト・ヘッケルはオランウータンを人類にもっとも近縁と見なし、東南アジアから人類の祖先の化石が発見されるだろうと予測した。アフリカからは多くの化石が発掘され、現在、実質的に全ての生物学者は人類がアフリカ類人猿と単に類似しているだけではなくて、人類は実際にアフリカ類人猿の一種であると同意している[要出典]。一方ヘッケルの東南アジアの予測を信じたウジェーヌ・デュボワは東南アジアのインドネシアジャワ島トリニールでジャワ原人の化石を発見し、後にこれがヒト属のホモ・エレクトゥスの亜種であるホモ・エレクトス・エレクトスに分類されている。
タウング化石
人類の祖先と思われる化石がアフリカで発見されたのはハクスリーやダーウィンの時代からしばらく後の1920年代であった[5]。1925年にレイモンド・ダートはアウストラロピテクス・アフリカヌスを記載した。模式標本は洞穴の中から発掘されたアウストラロピテクスの幼児で、タウングチャイルドと呼ばれた。この南アフリカのタウング洞穴ではコンクリートの原料が採掘されていた。この子どもの化石は非常に保存状態の良い頭骨を保持しており、頭蓋腔を推定できた。脳は小さかったが(410cm3)、その形は洗練されており、チンパンジーやゴリラのものよりも現代人に似ていた。また化石は短い犬歯を持っており、大後頭孔の位置は直立二足歩行の証拠であった。これらの特徴全てはタウングチャイルドが二足歩行の人類の祖先で、類人猿から人類にかわりつつある証拠であるとダートに確信させた。しかしダートの主張は彼の発見に類似したより多くの化石が見つかるまで軽視され、真剣に検討されるまでに20年かかった。当時の主流な見解は二足歩行の前に脳の巨大化が起きたというものであり、現代人と同じような知性の発達が二足歩行の必要条件であると考えられていた。
アウストラロピテクスは現在、現生人類が属するヒト属の直接の祖先であると考えられている[6]。アウストラロピテクスとホモ・サピエンスは共にヒト亜族の一種である。しかし近年のデータは現生人類の直接の祖先としてアウストラロピテクス・アフリカヌスの位置に疑問を投げかける。彼らは行き止まりの「いとこ」だったかも知れない[7]。アウストラロピテクスは当初、華奢なタイプと頑強なタイプに分類された。その後、頑強なアウストラロピテクスはパラントロプス属として分類し直されたが、一部の研究者はまだアウストラロピテクスの亜属だと考えている[8]。1930年に頑強なタイプが最初に記載されたとき、パラントロプス属が用いられた。1960年代に頑強な変種はアウストラロピテクスに加えられたが、近年では最初の分類どおり異なる属とする傾向がある[9]。
ヒト属以前[編集]
真主齧上目
Euarchontoglires
真主獣大目 Euarchonta
サル目(霊長類) Primates
†プレシアダピス目 Plesiadapiformes
ヒヨケザル目 Dermoptera
ツパイ目 Scandentia
グリレス大目 Glires
ネズミ目 Rodentia
ウサギ目 Lagomorpha
PrimatesTreeJa.svg
もっとも初期のほ乳類と考えられているエオマイア化石のレプリカ。
Notharctus tenebrosus
ガラゴ属のブッシュベイビー
人間の錐体細胞 (S, M, L) と桿体細胞 (R) が含む視物質の吸収スペクトル
ヒトを除くサル目の分布
霊長類の進化の歴史は約8500万年前まで遡ることができ、かつては有胎盤類の中でもっとも古い分類群であると考えられていた(現在は他の哺乳類も既にこの頃には分岐が進んでいたことが確認され始めている)。霊長類は、同じく古い分類群で樹上生の祖先をもっただろうコウモリ類と共通祖先を持つと広く考えられていたが、現在、化石や遺伝子からの研究からは真主齧上目として、齧歯目、ウサギ目と共通祖先をもったグループと見なされ始めている。恐らくその共通祖先は白亜紀後期に生きていただろうと考えられている。霊長類の最古の化石は、白亜紀末期の北アメリカ西部から発見されており、プレシアダピス類(偽霊長類)と呼ばれる。このように、霊長類の進化は約6500万年前、白亜紀末期頃に始まったと考えられている[10]。もっとも初期の霊長類と考えられている動物は北アメリカで誕生し、6550万年前から始まる暁新世と始新世の温暖な時代にユーラシアとアフリカに広まった。
霊長類(=サル目)は次のような特徴を持つ。5本の指をもち、親指が他の4本と多少とも対向しているため、物をつかむことができる。前肢と後肢の指の爪は、ヒトを含めた狭鼻下目のすべての種ではすべての指の爪が平爪である。曲鼻猿亜目と広鼻下目の一部では平爪のほかに鉤爪をそなえる種もある。両目が顔の正面に位置しており、遠近感をとらえる立体視の能力に優れている。これらの特徴は、樹上生活において、正確に枝から枝に飛び移るために不可欠な能力である。多くの樹上性の哺乳類では、鉤爪を引っかけて木登りをするが、サル類の平爪はこれをあきらめ、代わりに指で捕まるか引っかかるかする方向を選んだものである。また、それが指先の器用さにつながることとなる。
新生代に入り暁新世になるとアダピス類とオモミス類が繁栄した。いずれもまだ原始的な種類で、アダピス類は後の曲鼻猿類に、オモミス類が直鼻猿類に進化したと考えられる。アダピス類とオモミス類はヨーロッパと北アメリカに分布したが、北アメリカの霊長類は寒冷化による森林の減少で絶滅し、旧世界を舞台に霊長類の進化は進んだ。曲鼻猿類の一部は海によって他の大陸から隔絶されていたマダガスカル島にアフリカから進出し(恐らくは流木等に掴まっての漂着)、キツネザル類に進化していった。
霊長類でL-グロノラクトンオキシダーゼ(ビタミンC合成酵素)の活性が失われたのは約6300万年前であり、直鼻猿亜目(酵素活性なし)と曲鼻猿亜目(酵素活性あり)の分岐が起こったのとほぼ同時である。ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目にはメガネザル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、キツネザルなどが含まれる[11]。なお、ビタミンC合成能力を失った動物は、ビタミンCを摂取しないとコラーゲンを合成できなくなり壊血病を発症して生存を維持できなくなる。直鼻猿亜目が遺伝子変異によりビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、直鼻猿亜目が樹上生活で果物等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためである。
直鼻猿亜目は、その後、メガネザル下目と真猿下目に分岐する。この分岐の際に真猿下目のX染色体に位置する錐体視物質に関連した色覚の多型が顕著になり、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスに限定した3色型色覚の再獲得につながり、さらに狭鼻下目のオスを含めた種全体の3色型色覚の再獲得へとつながる[12]。
真猿下目の狭鼻下目(旧世界サル)と広鼻下目(新世界サル)とが分岐したのは3000-4000万年前と言われている[13][14]。脊椎動物の色覚は、網膜の中にどのタイプの錐体細胞を持つかによって決まる。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞(4色型色覚)を持つものが多い。よってこれらの生物は長波長域から短波長域である近紫外線までを認識できるものと考えられている。一方ほとんどの哺乳類は錐体細胞を2タイプ(2色型色覚)しか持たない。哺乳類の祖先である爬虫類は4タイプ全ての錐体細胞を持っていたが、2億2500万年前には、最初の哺乳類と言われるアデロバシレウスが生息し始め、初期の哺乳類は主に夜行性であったため、色覚は生存に必須ではなかった。結果、4タイプのうち2タイプの錐体細胞を失い、青を中心に感知するS錐体と赤を中心に感知するL錐体の2錐体のみを保有するに至った。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態である。この色覚が哺乳類の子孫に遺伝的に受け継がれることとなった。ヒトを含む旧世界の霊長類(狭鼻下目)の祖先は、約3000万年前、X染色体にL錐体から変異した緑を中心に感知する新たなタイプの錐体(M錐体)視物質の遺伝子が出現し、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスのみが3色型色覚を有するようになり、さらにヘテロ接合体のメスにおいて相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こして同一のX染色体上に2タイプの錐体視物質の遺伝子が保持されることとなりX染色体を1本しか持たないオスも3色型色覚を有するようになった。これによって、第3の錐体細胞が「再生」された。3色型色覚はビタミンCを多く含む色鮮やかな果実等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる[15][13]。
なお、時代を下ってヒトの色覚を鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目のマカクザルに色盲がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、ヒトの祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる[15]。色盲の出現頻度は狭鼻下目のカニクイザルで0.4%、チンパンジーで1.7%である[13]。広鼻下目のヨザルは1色型色覚でありホエザルは狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得している[12]が、これらを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである[13]。ヒトは上記のような初期哺乳類と霊長目狭鼻下目の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、L錐体のみを保持したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性劣性遺伝をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると色盲が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に赤緑色盲が発現する[16]。なお、日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる(詳細は色覚異常を要参照)。
3000万年前、漸新世初期に現在の気候が始まると最初の南極の氷が形成され、アフリカと南アジア以外の霊長類は絶滅へ向かった。当時の霊長類の一つが曲鼻猿亜目キツネザル科に近いノタルクタスである。
生き残った熱帯の集団は(それらはカイロの南西ファイユーム低地の後期始新世と初期漸新世の化石層でよく見られる)現生の全霊長類を、すなわち曲鼻猿亜目に属するマダガスカルのキツネザル、東南アジアのロリス、アフリカのガラゴ、そして直鼻猿亜目に属する広鼻猿類(新世界ザル)と狭鼻猿類に属する旧世界ザル、大型類人猿、人類を生み出した。
新世界である南米の広鼻猿類(広鼻下目)は3000万年前から化石記録に現れるが、北アフリカの化石種で彼らの祖先に近縁なものは特定されていない。もしかすると西アフリカで異なる形態で生きていたのかも知れない。西アフリカからはまだ解明されていない手段で南アメリカまで霊長類、げっ歯類、ボア、シクリッドが渡っている。洪水などで流されて大西洋経由で漂着したなどの可能性が考えられるも、決定的な説を見いだせていない。
霊長類の狭鼻下目であるヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、2800万年から2400万年前頃であると推定されている[17][18]。ヒト上科(テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒト)の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定される[19]。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が直鼻猿亜目で合成能が失われたビタミンCの抗酸化物質としての部分的な代用となるためである[20]。しかし、ヒトを含むヒト上科では、尿酸オキシダーゼ活性の消失により難溶性物質である尿酸をより無害なアラントインに分解できなくなり、尿酸が体内に蓄積すると結晶化して関節に析出すると痛風発作を誘発することとなる[21]。
ヒト上科からヒト亜族までの分類を以下に示す。
ヒト上科(ホミノイド) テナガザル科
ヒト科 Hominidae オランウータン亜科
ヒト亜科 Homininae ギガントピテクス Gigantopithecus (更新世、中国/絶滅)
ゴリラ族 Gorilla ゴリラ Gorilla gorilla
ヒト族Hominini チンパンジー亜族 Panina チンパンジー(ナミチンパンジー)Pan troglodytes
ボノボ(ピグミーチンパンジー) Pan paniscus
ヒト亜族Hominina (詳細は後述)
既知のもっとも初期の狭鼻猿類は北ケニヤ地溝帯のEragaleitから見つかっているカモヤピテクスで、2400万年前頃生きていたと見られている。その祖先は恐らく、エジプトピテクスかプロピリオピテクスかパラピテクスの近縁種と見られ、それらは3500万年前のファイユームの地層から見つかっている。その間の1100万年を繋ぐ化石は見つかっていない。
中新世初期、2200万年前、東アフリカの樹上棲に適応した初期の多種の狭鼻猿類は、それ以降の多様化のきっかけとなった。2000万年前の化石は初期の旧世界ザルに属するビクトリアピテクスと思われる断片も含む。そのほかの形態は現生類人猿に近縁だという明白な証拠はないが、類人猿に分類されている。現在認められているこのグループの属にはプロコンスル、ラングワピテクス、デンドロピテクス、リムノピテクス、ナコラピテクス、エクアトリウス、ニャンザピテクス、アフロピテクス、ヘリオピテクス、ケニヤピテクスがおり、全て東アフリカから1300万年以前に見つかっている。
分子的な証拠はヒト科とテナガザル科が2000万年から1600万年前[22]に分岐し、ヒト亜科とオランウータン亜科が1300万年前[15]に分岐したことを示している。テナガザルの祖先を明らかにする化石史料は見つかっていない。彼らは東南アジアの未知のヒト科の集団から分かれたかも知れない。初期のオランウータンは1000万年前のインドのラマピテクス、あるいはトルコのグリフォピテクスかもしれない。
1980年代にドイツで見つかった化石はおよそ1650万年前のもので、東アフリカから発見された類似した化石よりも150万年古いと考えられた[23]。それは最初に大型類人猿の系統が現れたのがアフリカでなくユーラシアであったかも知れないと示唆する。1700万年前にこの二つの大陸が地中海の拡大によって切り離される直前に、ヒト科の初期の祖先がアフリカからユーラシアへ渡ったのかも知れない。これらの霊長類がユーラシアで繁栄し、アフリカ類人猿と人類を産むことになる系統(ドリオピテクス)がヨーロッパまたは西アジアからアフリカに南下した[23]。
遥かに離れた発掘地から中期中新世の旧世界ザルではない骨格が見つかっている。ナミビアの洞窟からオタビピテクス、フランス、スペイン、オーストリアからピエロラピテクス (Pierolapithecus)とドリオピテクス (Dryopithecus)などである。それらは中新世初期から中期のアフリカと地中海沿岸が比較的暖かく穏やかな気候で、霊長類の多様化を促した証拠である。
中新世のヒト上科の証拠でもっとも新しいものはイタリアのオレオピテクスで、900万年前の石炭層から見つかっている。
ゴリラ、チンパンジー、ヒトを結び付ける最後の祖先はケニヤで見つかったナカリピテクス、あるいはギリシャで見つかったオウラノピテクスの可能性が示唆されている。分子的な証拠は656万年前±26万年[15]にヒト族とゴリラ族が分岐し、そのあと487万年前±23万年[15]にヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐したことを示している。ヒトのDNAはチンパンジーのDNAと98.4%同一である[24]。ゴリラとチンパンジーの系統の化石は非常に限定的である[25]。保存に厳しい環境(熱帯雨林土は酸性で、骨を分解しやすい)とサンプルの偏りがこの問題の原因である。彼ら以外のヒト科は赤道の外縁あたりで、アンテロープ、ハイエナ、ウマ、ゾウたちと共に、より乾燥した環境に適応した可能性がある。彼らの化石は比較的有名である。チンパンジー亜族と分岐し直立二足歩行をしていたヒト亜族のうち、もっとも初期のものはサヘラントロプス・チャデンシス(700万年前)である。これは前述のヒト亜族とチンパンジー亜族が約500万年前に分岐したとする説と矛盾するため、DNAの変異にかかる時間に基づき推定すると800-700万年前に分岐した可能性が高いとの論文が発表されている[26]。 ヒト亜族には次のような族種が含まれる。
サヘラントロプス属 Sahelanthropus :トゥーマイ猿人。約700万年前。 サヘラントロプス・チャデンシス S. tchadensis
オロリン属 Orrorin :約610万- 約580万年前。 オロリン・トゥゲネンシス O. tugenensis
アルディピテクス属 Ardipithecus :ラミドゥス猿人とカダッバ猿人。約580万- 約440万年前。
アウストラロピテクス属 Australopithecus :旧称「華奢型アウストラロピテクス」。約540万- 約150万年前。 アウストラロピテクス・アファレンシス A. afarensis :アファール猿人。
アウストラロピテクス・アフリカヌス A. africanus :アフリカヌス猿人。
アウストラロピテクス・アナメンシス A. anamensis :アナム猿人。
アウストラロピテクス・バーレルガザリ A. bahrelghazali
アウストラロピテクス・ガルヒ A. garhi :ガルヒ猿人。
ケニアントロプス属 Kenyanthropus 約300万 - 270万年前。 ケニアントロプス・プラティオプス K. platyops
パラントロプス属 Paranthropus :旧称「頑丈型アウストラロピテクス」。約270万- 約120万年。 パラントロプス・エチオピクス Paranthropus aethiopicus :エチオピクス猿人。
パラントロプス・ロブストス P. robustus :ロブストゥス猿人。
パラントロプス・ボイセイ P. boisei :ボイセイ猿人。
ヒト属(ホモ属) Homo :約250万年前- 現世。
アウストラロピテクスの復元像
パラントロプスの復元像
アウストラロピテクスは、アフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 約200万年前に生存していた、いわゆる華奢型の猿人である。身長は120cm台 - 140cm台くらいで、脳容積は現生人類の約35%の500cc程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立して歩く能力を持つと考えられている。アウストラロピテクス・アフリカヌスの頭蓋骨には人類と同じ直立二足歩行の姿勢であったことを示す位置に脊柱とつながる穴(大後頭孔)があったことからである。姿形は直立したチンパンジーというイメージである。以前は最も古い人類の祖先とされていたがアルディピテクス属の発見により、その次に続く属となった。約440万 - 約390万年前にA・アナメンシスが、約390万 - 約300万年前にアファレンシスが現れ、約330万 - 約240万年前にアウストラロピテクス・アフリカヌスに進化した。この属からパラントロプスと、ホモ(ヒト属)最初の種ホモ・ハビリスに進化したと考えられている。
パラントロプスの体長は1.3から1.4mで、華奢型アウストラロピテクスよりひと回り大きい。脳もいくらか大きめである。 形態的には、アウストラロピテクスよりヒト的な特徴は減少しており、堅い食物を咀嚼するため、高く厚い下顎と太い側頭筋、それを通すために張り出した頬骨弓および大型の臼歯など頑丈な咀嚼器を有している。硬い植物性の食物、根などを常食としていたと考えられる。
ヒト属[編集]
ヒト属は、直立二足歩行していたヒト亜族のうち脳が発達した種を意味する。属名 Homo はラテン語で「人」「男」を意味(英 man に相当)する語であり、カール・リンネが動植物を最初に分類したときに選んだものである。ちなみに、英語の「ヒューマン」はその形容詞形 humanus に由来している。
現代の分類学ではホモ・サピエンスはヒト属で唯一現存している種である。ホモ・サピエンスの起源の研究に伴い他にもヒト属の種がいたが、全て絶滅していることが判明している。これらの絶滅種の中にヒトの直接の祖先がいたのかもしれないが、そのほとんどがホモ・サピエンスの「いとこ」であって、彼らのどれを種としどれを亜種とすべきなのかは統一された見解がない。これは化石人類の分類に用いられる種の概念が解剖学的特徴に基づいた形態的種であるためで、二つの種の中間的な特徴を持ち分類が困難な化石も多く発見されている。(種 (分類学)も参照のこと)。
サハラ砂漠の拡張が初期のヒト属の進化の原因となったとも言われているが、ヒト属の進化の要因についていくつかの説がある。一つの説はサバンナ説で、レイモンド・ダートによって提示された。樹上性だった(かもしれない)人類の祖先が狩猟のため、あるいは樹林の減少によってサバンナへ進出したというものである。もう一つは水生類人猿説と呼ばれており、こちらには多くの研究者が異論を唱えている。これは食糧を集めるために水中を歩き、泳ぎ、潜ることが人類の祖先と他の類人猿の祖先に異なる選択圧を与えたと主張している。フランスの古人類学者イヴ・コパンは東アフリカの大地溝帯がチンパンジーとヒトの祖先の集団を二つにわけ、それぞれが地理的種分化によって別種となったと仮説(イーストサイドストーリーと呼ばれる)を提唱したが、大地溝帯の西側からも祖先種と見られる化石が発見されたことで、現在のところあまり支持されていない。
考古学と古生物学の証拠に基づいて、さまざまなヒト属の食性を推論することが可能で、食性がヒト属の身体と行動に与えた進化的影響は研究の中途にある[27][28][29][30][31]。
ヒト属集団の地理的分布の概観。ただしヒト属の分散と類縁関係については様々な見解があり統一されていない。
ヒト属には次のような種が含まれる。
ホモ・ハビリス H. habilis
ホモ・ルドルフエンシス H. rudolfensis
ホモ・エルガステル H. ergaster
ホモ・エレクトス H. erectus ホモ・エレクトス・エレクトス(ジャワ原人) H. e. erectus
ホモ・エレクトス・ペキネンシス(北京原人)H. e. pekinensis
ホモ・マウリタニクス(ホモ・エレクトス・マウリタニクス)H. mauritanicus
ホモ・エレクトス・ユァンモウエンシス (元謀原人) H. e. yuanmouensis
ホモ・アンテセッサー H. antecessor
ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルグ人)H. heidelbergensis
ホモ・ローデシエンシス H. rhodesiensis
ホモ・ケプラネンシス H. cepranensis
ホモ・ゲオルギクス(ドマニシ原人)H. georgicus
ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)H. neanderthalensis
ホモ・フローレシエンシス(フローレス人)H. floresiensis
ホモ・サピエンス(ヒト)H. sapiens ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)H. s. idaltu
ホモ・サピエンス・サピエンス(現代人、現生人類)H. s. sapiens
原人[編集]
ホモ・ハビリス[編集]
ホモ・ハビリスの復元像
ホモ・ハビリスはおよそ240万から140万年前に生きていた。ヒト属の最初の種であるハビリスは鮮新世後期か更新世初期に南アフリカと東アフリカで出現した。おそらく250万から200万年前にアウストラロピテクスの一つから種分化したと考えられている。ハビリスはアウストラロピテクスよりも小さな臼歯と大きな脳を持っており、石と、おそらく動物の骨から道具を製造した。彼らは初めて知られたヒト科の一種で、発見者ルイス・リーキーによって彼らの石器に結び付けて「器用な人」とあだ名を付けられた。一部の科学者は頭蓋後部の形態からホモ・サピエンスのような二足歩行よりも樹上に適応していたと考え、ヒト属からアウストラロピテクス属へ移すよう提案している[32]。ただし、現在ではアウストラロピテクス属自体がヒト属との差異はそれほど大きくないとされ、ヒト属の一種として統合する場合もある[要出典]。
ホモ・ゲオルギクスの模型
ホモ・ルドルフエンシスとホモ・ゲオルギクス[編集]
これらは190万から160万年前の化石に名付けられた種である。ホモ・ハビリスとの類縁関係は明白ではない。
ホモ・ルドルフエンシスはケニヤから発見された一つの不完全な頭骨である。研究者はハビリスの一種であると主張したが、まだ確かめることができない[33]。
ホモ・ゲオルギクスはグルジアから発見された。ホモ・ハビリスとホモ・エレクトゥスの中間か[34]、あるいはホモ・エレクトゥスの亜種であるかも知れない[35]。
ホモ・エレクトスの模型
ホモ・エレクトゥス
ホモ・エルガスターとホモ・エレクトゥス[編集]
ホモ・エレクトゥスの最初の化石は1891年にインドネシアのジャワ島でオランダ人軍医ウジェーヌ・デュボワによって発見された。彼は当初、その化石が人類と類人猿の中間であると考え、ピテカントロプス・エレクトゥスの名を与えた[36]。ホモ・エレクトゥスはおよそ180万から7万年前まで生きていた。150-100万年前、更新世初期に脳がより大きくなり精巧な道具を作ったホモ・ハビリスの子孫がアフリカ、アジア、ヨーロッパの各地に分散した。これらの特徴は古人類学者にとって彼らをホモ・ハビリスとは異なる種に分類するのに十分な理由となる。しばしば初期の段階、180万から125万年前までは別の種ホモ・エルガスター、あるいはエレクトゥスの亜種ホモ・エレクトゥス・エルガスターと扱われることがある。
エレクトゥスは間違いなく直立二足歩行していた事が明らかな最初の人類の祖先で、それはしっかりはまる膝蓋骨と大後頭孔(脊椎が入る頭骨の孔)の位置の変化によって可能になった[37] 。加えて彼らは肉を調理するために火を使った可能性がある。ホモ・エレクトゥスの有名な例は北京原人である。多くの古人類学者はホモ・エルガスターという呼称をこのグループの非アジア種に用いていて、エレクトゥスと言う呼称はアジア地域で見つかりエルガスターとわずかに異なる骨格、歯の特徴を満たしている化石だけに用いているが、本項ではその用法に従っていない。
ホモ・アンテセッサー(女性)の模型
ホモ・セプラネンシスとホモ・アンテセッサー[編集]
これらはホモ・エレクトゥスとホモ・ハイデルベルゲンシスの間をつなぐかも知れないと主張されている[要出典]。
ホモ・アンテセッサーは120-50万年前に生きていた。スペインとイングランドから化石が発見されている[38] [39]。
ホモ・セプラネンシスはイタリアから一つの頭骨片として発見されている。およそ80万年前のものと推測されている[40]。
ホモ・フローレシエンシスの復元模型。国立科学博物館の展示。
ホモ・フローレシエンシス[編集]
ホモ・フローレシエンシスはおよそ10万から1.2万年前に生きていた。彼らはその小ささ(おそらく島嶼化による)から「ホビット」とあだ名を付けられている[41]。ホモ・フローレシエンシスはその大きさと年齢から、実際に最近まで生きていた現生人類と共通しない特徴を持つホモ属の興味深い例と考えられている。すなわち、いつの時点かで現代人と祖先を共有するが、現代人の系統とは分かれて独自の進化の過程をたどった。主要な発見は、30歳程度の女性と思われる骨格である。2003年に発見され、1.8万年前のものと見積もられた。ホモ・フローレシエンシスの生きている女性は身長1メートル、脳容量は380cm3でチンパンジー並みに小さく、現代人女性の1400cm3の三分の一程度であると推測されている。
しかしホモ・フローレシエンシスが本当に別の種であるかは未だ議論が続いている[42]。一部の科学者は小人症を患ったホモ・サピエンスであると考えている[43]。この仮説はフローレス島に住む現代人が小柄であるために、ある程度説得力がある。小柄さと小人症によって本当にホビットのような人が生まれた可能性はある。別種説への他の主要な反論は、現生人類と関連した道具類とともに発見されたという点である[43]。
ホモ・ハイデルベルゲンシスの復元像
ホモ・ハイデルベルゲンシス[編集]
ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)は80万から30万年前に生きていた。ホモ・サピエンス・ハイデルベルゲンシス、またはホモ・サピエンス・パレオハンガリクスという呼称が提案されている[44]。
旧人[編集]
ホモ・ヘルメイ[編集]
ホモ・ヘルメイはホモ・ハイデルベルゲンシスから進化した人類。ホモ・ハイデルベルゲンシスに含むという説もあるが、進化段階が原人であるホモ・ハイデルベルゲンシスから旧人に進化したホモ・サピエンスまたは原サピエンスへの移行型人類として別種に扱うこともある。
ホモ・ローデシエンシスの頭蓋骨のレプリカ
ホモ・ローデシエンシスの復元想像図
ホモ・ローデシエンシス[編集]
ホモ・ローデシエンシスは30万から12.5万年前に生きていた。アルカイック・ホモ・サピエンスやホモ・サピエンス・ローデシエンシスのような呼称も提案されたが、多くの研究者はローデシア人がホモ・ハイデルベルゲンシスの仲間に含まれると考えている。原人よりは進化し、現生人類よりは原始的であるため旧人段階にあるという見解もある。一時期はホモ・ネアンデルターレンシスに含められることもあったが、現在ではそれとは別種の旧人であるとされる。
2006年2月におそらくホモ・エレクトゥスとホモ・サピエンスの中間か、その近くの行き止まりにいた種のものと思われる頭骨の上部がエチオピアのGawisから発見された。このGawis頭骨は50万から25万年前のものと推測されている。大まかな概要だけは知られているが、発掘チームは査読付き論文として発表していない。頭骨の特徴は彼らが中間種であるか、ボド・マンの女性のものであるかを示している[45]。
ネアンデルタール人の模型
ホモ・ネアンデルターレンシス[編集]
ネアンデルタール人は25万から3万年程前まで生きていた。ネアンデルタール人が独立した種ホモ・ネアンデルターレンシスか、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスとしてホモ・サピエンスの中に含まれるべきかは議論が継続中であり結論は出ていない[46]。ミトコンドリアDNAの配列の証拠は大規模な遺伝子流動がネアンデルタール人と人類の間で起こらなかったことを示す。従って、それに基づけば二つの種は66万年ほど前に祖先を共有した異なる種である[47][48]。
1997年にペンシルベニア州立大学人類学の准教授マーク・ストーンキングはこう述べた:「これらの(ネアンデルタール人の骨から抽出されたミトコンドリアDNAに基づく)結果はネアンデルタール人がミトコンドリアDNAを現代人に与えなかったことを示している。......ネアンデルタール人は我々の祖先ではない」。ネアンデルタール人のDNAの配列研究もこの結果を支持した[49]。多地域進化説の支持者は最近の非アフリカ人の核DNAが100万年前まで遡る可能性を示す事を研究した[50]が、現在この研究の信頼性は疑われている[51]。
しかし2010年に、ホモ・サピエンス現生人類とネアンデルタール人との間に混血の痕跡があるとする研究結果がサイエンス誌に発表された(ネアンデルタール人の項を参照のこと)。
テキサス大学アーリントン校の人類学者ナオミ・クレッグホーンは、約4万年前の、現在のイタリアやコーカサス山脈に相当する地域で火山が相次いで噴火したことを絶滅の理由として説明している[52]。このような環境的要因を指摘する説は以前にも発表されていたが、約4万年前の噴火はその種の災害とは規模が違っており、例えば、複数の火山がほぼ同時期に噴火していたという。中でもカンパニアン・イグニンブライト噴火はヨーロッパでは過去20万年間で最も大規模だった。「当時のヨーロッパには現生人類の小集団も住んでいたので、噴火の影響を同様に受けたと考えられる。だが、ネアンデルタール人のほとんどがヨーロッパに居住していたのに対し、現生人類はアフリカやアジアにより大きな人口を抱えていたため絶滅を避けられたようだ。 」と同氏はいう[53]。
ネアンデルタール人は約3万年前に滅亡したと考えられていたが、2005年にイベリア半島南端のジブラルタルの沿岸の洞窟から、ネアンデルタール人が使っていた特徴のある石器類や、洞窟内で火を利用していた痕跡が見つかった。この遺跡は、放射性炭素による年代分析で2万8000-2万4000年前のものと推定された[54]。ネアンデルタール人は、最後はヨーロッパの南端まで移動してから絶滅したこととなる。
新人[編集]
ホモ・サピエンス・イダルトゥ[編集]
ホモ・サピエンス・イダルトゥはエチオピアから発見されており、16万年前頃生きていたと考えられる。それは亜種として扱われてはいるが(ただしホモ・サピエンスの亜種分類法については学説上統一した合意はない)、解剖学的には現代人であり、知られているなかでもっとも古い新人段階の現代人である。彼らの直接の子孫がネグロイドであり、モンゴロイド・コーカソイドはネアンデルターレンシスとの混血種であるらしいという最近の研究結果がある。これによると、イダルトゥは系統的にネグロイドに属することになる。 さらに古いサピエンスの直接の祖先としては約26万年前のフロリスバッド人や金牛山人の人骨が発見されているが、これらは進化段階としては旧人とみられる。ただしイスラエルで40万年前の最古のホモ・サピエンスである可能性がある人骨が発見されている。ネアンデルタール人との共通祖先との分岐年代が40万年以上前であることから、分岐直後の時期にはホモ・サピエンスが存在していたという解釈も可能であり、その場合上記人骨化石はイダルトゥよりさらに古いホモ・サピエンスの発見ということになる。
ホモ・サピエンス[編集]
現生人類のホモ・サピエンス(サピエンスは賢い、知的を意味する)は25万年前に現れ現在に至っている。 現代人と上記イダルトゥには亜種レベルの相違があるとみなして、亜種「ホモ・サピエンス・サピエンス」として扱うこともあるが、ホモ・サピエンスの亜種については統一した合意はないため、本項目は「ホモ・サピエンス」とする。 47万年〜66万年前に上記ネアンデルタール人との共通祖先から古代型サピエンスが分岐した。ここでは旧人時代の古代型サピエンスについても記述する。40万年前から25万年前の中期更新世の第二間氷期までの間に、旧人段階であった彼らが頭骨の拡張と石器技術が発達したようで、この事がホモ・エレクトゥスからホモ・サピエンスへ移行の証拠と見られている。
移行を示す直接の証拠は、ホモ・エレクトゥスがアフリカから他の地域へ移住した間にアフリカで種分化が起きたことで(アフリカのどこで起きたかについてはわかっていない)エレクトゥスからホモ・サピエンスが分かれたことを示唆している。その後アフリカとアジア、ヨーロッパでエレクトゥスがホモ・サピエンスに入れ替わった。このホモ・サピエンスの移動と誕生のシナリオは単一起源説(アフリカ単一起源説)と呼ばれていて、現在古人類学において多地域進化説と単一説で激しい議論がされている。また、人類の遺伝的多様性が他の種に比べると非常に小さいことを確認されているが、これは比較的最近に各地に分散したか、トバ山噴火の影響の可能性がある。
7万年前から7万5千年前に、インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山が大噴火を起こして気候の寒冷化を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えた。トバ・カタストロフ理論によれば、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下したという。劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされる。その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期へと突入する。この時期まで生存していたホモ属の傍系の種(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトゥスなど)は絶滅した。トバ事変の後まで生き残ったホモ属はネアンデルタール人と現世人類のみである。現世人類も、トバ事変の気候変動によって総人口が1万人までに激減したという。かろうじて生き残った現世人類も人口減少によってボトルネック効果が生じ、その遺伝的多様性は失われた。現在、人類の総人口は70億人にも達するが、遺伝学的に見て、現世人類の個体数のわりに遺伝的特徴が均質であるのはトバ事変のボトルネック効果による影響であるという。遺伝子の解析によれば、現世人類は極めて少ない人口(1000組-1万組ほどの夫婦)から進化したことが想定されている。遺伝子変化の平均速度から推定された人口の極小時期はトバ事変の時期と一致する。
この学説は6万年前に生きていた“Y染色体アダム”や14万年前に生きていた“ミトコンドリア・イヴ”を想定した学説とは矛盾しない。また、現世人類の各系統が200万年〜6万年の時期に分岐したことを示している現世人類の遺伝子の解析の結果もトバ・カタストロフ理論とは矛盾しない。なぜならば、トバ・カタスロトフ理論は総人口が数組の夫婦まで減少したという学説ではなく、そこまで凄まじいボトル・ネック現象を想定している訳ではないからである。現世人類の遺伝的多様性はトバ事変によって、現世人類の人口が一度減少したことを示唆する[55]。
また、衣服の起源をトバ事変に関連づける向きもある。ヒトに寄生するヒトジラミは2つの亜種、主に毛髪に寄宿するアタマジラミ(Pediculus humanus capitis)と主に衣服に寄宿するコロモジラミ(Pediculus humanus corporis)に分けられる。近年の遺伝子の研究からこの2亜種が分化したのはおよそ7万年前であることが分かっている[56]。つまり、およそ7万年前にヒトが衣服を着るようになり、新しい寄宿環境に応じてコロモジラミが分化したと解釈される。そこで研究者らは、時期的に一致することから、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くために、ヒトが衣服を着るようになったのではないかと推定している[57]。
ヨーロッパ人と日本人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定されている[15]。
「ジェノグラフィック・プロジェクト」も参照
印象的な遺伝的特徴(例えば皮膚の色)は主に、小集団が新たな環境へ移住した結果として起きた。これらの適応形質はホモ・サピエンスのゲノムの非常にわずかな部分によって引き起こされるが、皮膚の色の他に鼻の形態や高高度地域で効率的に呼吸する能力などを様々な形質を含む。
ヒト科の脳容積
種類 分類 脳容積(ml)
オランウータン ヒト科 411[58]
ゴリラ ヒト亜科 約500[59]
チンパンジー ヒト族 394[58]
アウストラロピテクス・アフリカヌス ヒト亜族 441[58]
ホモ・ハビリス ヒト属 640[58]
ホモ・エルガスター ヒト属 700-1100[59]
ホモ・エレクトス ヒト属 1040[58]
ホモ・ハイデルベルゲンシス ヒト属 1100-1400[59]
ホモ・ネアンデルターレンシス ヒト属 1450[58]
ホモ・サピエンス・サピエンス ヒト属 1350[58]
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較写真
心と行動の進化[編集]
人類の心と行動を進化させた要因については異なるいくつかの説がある。かつては脳の巨大化が二足歩行といった「知的な」行動の原因となったと考えられていた。しかし進化は目的論的には働かないと言う認識が深まりこの説は放棄された。何故ならヒトの祖先であるアウストラロピテクスはチンパンジー並みの440mlという非常に原始的な形態を示す脳を持つと同時に、完全に直立した下肢を持ち、大頭骨孔も頭の真下に位置し、二足歩行をしていた。脳の発達が人類進化の原点であるという20世紀初頭の考えは、アウストラロピテクスの発見により完全に否定されたのである[60][要高次出典]。
知能の発達に関する説の一つはレイモンド・ダートの狩猟仮説である。動物を追い、効率よく狩りをするために予測や想像と言った知性の発達が必要である。肉食による摂取エネルギーの増加は脳の増大を許容したかもしれない。狩猟仮説は戦争や暴力も狩猟活動の名残ではないかと予測する。しかし多くの生物で攻撃行動は捕食行動とは異なる部位の脳を活性化させる。また種内と種間の攻撃性は区別する必要がある。
一方ドナ・ハートとロバート・サスマンは『ヒトは食べられて進化した』でヒトは長い間、捕食者ではなくてむしろ被食者であり、捕食を回避することが知能発達の選択圧になったと主張している。人類学者パスカル・ボイヤーは暗闇に対する恐怖、幽霊の錯覚のような認知的錯誤の一部が捕食者回避によって発達したのではないかと考えている。
米国・ユタ大学のデニス・ブランブル(Dennis Bramble)とハーバード大学のダニエル・リーバーマン(Daniel Lieberman)は2004年、初期人類は、動物遺体から屍肉を集め、石を使って骨を割り、栄養価の高い骨髄を得ることを生息手段とする、一種の腐肉食動物であったとの仮説を提唱した[61]。 人類は競合者に先駆けて動物遺体を手に入れるため、発汗による高い体温調整能力を始めとし、弾性のあるアキレス腱や頑丈な脚関節といった「速いピッチでの長距離移動の能力」を進化させ、広い地域を精力的に探し回る者として特化したとするものである。 このような適応の傾向と栄養価の高い食物が大きな脳の発達を可能にしたのではないかと説いた。
心理学者ニコラス・ハンフリーは複雑化する社会活動が重要な選択圧だと考えて社会脳仮説を提唱した。協力行動や騙し、騙しの発見などを行うには相手の心を読み、複雑な人間関係を理解する必要がある。心の理論の発達はこの一部であったかもしれない。霊長類学者ロビン・ダンバーは霊長類の大脳新皮質の大きさと様々な生活上の変数(食性、配偶システムなど)を比較し、群れの大きさとのみ相関があると指摘した。群れの巨大化は個人関係の複雑さに繋がる。社会脳仮説の支持者はダンバーの発見を証拠の一つと考えている。
認知考古学者スティーブン・ミズンは心のモジュール説を受け入れ、異なる神経構造を基盤に持ついくつかのモジュール化された心的機能(例えば言語能力、心の理論、直観的な物理の理解など)が個別に発達し、一般的知能が異なるモジュールの相互作用で完成したのではないかと考えている。
道具の使用[編集]
道具の使用は知性の存在の象徴と解釈され、また道具の使用は人類の進化の特定の面(特に脳の継続的な増大)を刺激したかも知れないと推測されている。研究者は何百万年も続くこの負担の大きな器官の増大をまだ説明できていない。現代人の脳は20ワット(一日400キロカロリー)を消費し、人体の全消費量の20%にも達する。さらなる道具の使用は狩りと、植物よりエネルギーが豊富な肉の消費を可能にした。研究者は初期のヒト科が道具の作成と使用能力の増大を促すような選択圧のもとに置かれたと主張している[62]。
初期の人類が道具を使い始めた正確な時期を特定するのは難しい。というのも原始的な道具(例えば鋭利な石)は人工物なのか自然にあるものか判別できないからである。アウストラロピテクスが400万年前に骨を道具として用いていた可能性を示す証拠があるが、これは議論の的である。
石器[編集]
詳細は「石器」を参照
石器は260万年前に初めてその証拠が現れる。東アフリカのホモ・ハビリスはいわゆる礫器、単純に打ち付けて割った丸い小石を用いていた[63]。これは旧石器時代の始まりを意味する。旧石器時代は最後の氷河時代末(およそ1万年前)に終わる。旧石器時代は前期(35-30万年前頃まで)、中期(5-3万年前頃まで)、後期に分けられる。70万から30万年前の時代はアシュール文化としても知られている。ホモ・エルガスター(またはホモ・エレクトゥス)は火打ち石と珪岩から大きな石斧を使っていた。最初(初期アシュール時代)には全く粗雑な作りだが、のちには破片の縁で微妙に打ち付けることでより「加工された」道具を作った。
35万年前にはより洗練されたルヴァロア技法による石器作りが行われた。ルヴァロア技法による石器の作成は完成予定の石器の形を正確に思い描かなくてはならず、抽象思考の証拠と考えられている。打ち付ける技術が洗練されると、こて、スライサー、針なども作られるようになった。5万年前にはネアンデルタール人と移住してきたクロマニヨン人によってより洗練され、特化された火打ち石やナイフ、刃物、毛皮などを剥くスキマーなどが作られた。この時期には骨からも道具が作られた。
火の利用[編集]
詳細は「初期のヒト属による火の利用」を参照
ヒトは火を調理に使い、暖を取り、獣から身を守るのに使い、それにより個体数を増やしていった。火を使った調理は、ヒトがタンパク質や炭水化物を摂取するのを容易にした。火により寒い夜間にも行動ができるようになり、あるいは寒冷地にも住めるようになり、ヒトを襲う獣から身を守れるようになった[64]。
ヒト属による単発的な火の使用の開始は、170万年から20万年前までの広い範囲で説が唱えられている[65]。最初期は、火を起こすことができず、野火などを利用していたものと見られる[66]が、日常的に広範囲にわたって使われるようになったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つかっている[67]。
周口店の北京原人遺跡。北京原人はホモ・エレクトスの一種であり、火を使っていたと考えられている。
ヒトの生活は、火とその明るさで大きな影響を受けた。夜間の活動も可能となり[68]、獣や虫除けにもなった[64][65]。また、当初は火を起こすのが難しかったため、火は集団生活で共用されるべきものとなり、それにより集団生活の必要性が増した[69]。
火の使用は栄養価の向上にも繋がった。タンパク質は加熱することで、栄養を摂取しやすくなる[64][70][71]。黒化した獣の骨から分かるように、肉も火の使用の初期から加熱調理されており、動物性タンパク質からの栄養摂取をより容易にした[72][73]。加熱調理された肉の消化に必要なエネルギーは生肉の時よりも少なく、加熱調理はコラーゲンのゼラチン化を助け、炭水化物の結合を緩めて吸収しやすくする[73]。また、病原となる寄生虫や細菌も減少する。
また、多くの植物には灰汁が含まれ、マメ科の植物や根菜にはトリプシンやシアングリコーゲンなどの有毒成分が含まれる場合がある[69]。また、アマ、キャッサバのような植物に有害な配糖体が含まれる場合もある[74]。そのため、火を使用する前には植物の大部分が食用にならなかった。食用にされたのは種や花、果肉など単糖や炭水化物を含む部分のみだった[74]。ハーバード大学のリチャード・ランガム(英語版)は、植物食の加熱調理でデンプンの糖化が進み、ヒトの摂取カロリーが上がったことで、脳の拡大が誘発された可能性があると主張している[75][76][77]。
実際、ホモ・エレクトスの歯や歯の付着物から、加熱調理無しには食べるのが難しい硬い肉や根菜などが見つかっている[78][79]。
現代人と「偉大な飛躍」論争[編集]
5万から4万年前まで、石器の使用は徐々に進歩したと思われる。おのおのの段階(ハビリス、エルガスター、ネアンデルタール)は前の段階よりも高いレベルで始まり、後退したことはなかった。しかし一つの段階の中の技術の進歩は遅かった。言い換えると、これらの種は文化的に保守的だった。しかし、5万年前以降、現生人類の文化は明らかに大きな速度で変わり始めた。『人間はどこまでチンパンジーか?』の著者ジャレド・ダイアモンドや他の人類学者はこれを「大躍進」と描写する。
現代の人間は丁寧に死者を埋葬し、隠れ家で衣類を作り、高度な狩猟技術をあみだし(穴を罠として使う、崖に動物を追い詰めるなど)、洞窟壁画を描き出した[80]。この文化の変化のスピードアップは、現生人類、つまりホモ・サピエンスの誕生とその習性に関係しているようにみえる。集団の文化が進むと、異なる集団は既存の技術に新しい知識を取り入れる。釣り針、ボタンと骨製の針のような5万年以前は存在しなかった人工物は異なる人類の集団間の差異を示唆する。一般的にネアンデルターレンシスの集団は同時代の他のネアンデルターレンシス集団と同じような技術を用いていた。
理論的には現代の人間行動は次の4つの能力を含む:
抽象思考(具体的な例に依存しない概念)
計画(さらなるゴールを目指すためのステップを考える)
発想力(新たな解決法を見つける)
記号的な行動(儀式や偶像)
人類学者は現代的行動の具体例に以下を含める:
道具の専門化
宝石の使用や洞窟壁画のようなイメージの使用
居住空間の整備
副葬品を伴う埋葬のような儀式
専門的な狩猟技術
厳しい環境への進出
貿易ネットワークの構築
など。
しかしこれらの急激な出現が生物学的な革命的変化、「人間の意識のビッグバン」を意味するのか、より段階的な変化であったかの議論は続いている。コネチカット大学のサリー・マクブレアティとジョージ・ワシントン大学のアリソン・ブルックスは5万年以前の現代的行動の遺物を示し、革命説がアフリカの一部しかサンプルとしていないと主張して革命的進化はなかったと指摘した[81]。
人類進化のモデル[編集]
今日、全ての人類はホモ・サピエンス・サピエンスに分類される。しかしこれはヒト属の最初の種ではない。ヒト属の最初の種、ハビリスは少なくとも200万年前に東アフリカで進化した。そして彼らは比較的短い時間でアフリカ各地に生息するようになった。ホモ・エレクトゥスは180万年以上前に進化し150万年にはユーラシア大陸各地に広がった。実質的に全ての形質人類学者はホモ・サピエンスがホモ・エレクトゥスの子孫であることに同意する。人類学者はホモ・サピエンスが大陸各地で相互に関係しながら同時進行的にホモ・サピエンスになったのか(多地域進化説と呼ばれる)、東アフリカで現れた一派がユーラシア大陸各地のエレクトゥスと置き換わったのか(出アフリカ説、またはアフリカ単一起源説)で議論を行った。議論は未だ続いているが、大部分の人類学者は出アフリカ説を支持している。
多地域進化説[編集]
多地域進化説の支持者(主にミルフォード・ウォルポフと彼の同僚)は、ある程度の遺伝子流動があればヨーロッパとアジアの異なる地域で並行的に現生人類の進化が可能であったろうと主張した[82]。古代ヨーロッパと中国のホモ・サピエンスの形態的な類似性と、それぞれの地域の古代と現代のホモ・サピエンスの類似性は地域的な進化を支持しているとウォルポフは主張する[83]。彼らはさらにこの説が表現型多型のクラインパターンと一致しているとも主張する。
出アフリカ説[編集]
ミトコンドリアDNAのハプログループの分布から推定した人類伝播のルートおよび年代
ミトコンドリアのハプロタイプL0からL3がアフリカにのみ存在する一方その他の地域はMかNどちらかしか存在しない
現生人類のミトコンドリアDNAハプログループの分岐と移動
母系(ミトコンドリアDNA)に基づく現生人類の移動
父系(Y染色体ハプログループ)に基づく現生人類の移動
南方出アフリカ説
詳細は「アフリカ単一起源説」を参照
クリス・ストリンガーとピーター・アンドリューズによって発展した出アフリカ説によれば、分子系統解析の進展(いわゆるミトコンドリア・イブやY染色体アダムなど)によって、現代のホモ・サピエンスは14 - 20万年前に共通の祖先を持つことがわかり、ホモ・サピエンスは7万から5万年前にアフリカから外へ移住し始め、結局ヨーロッパとアジアで既存のヒト属と置き換わった[84][85]。出アフリカ説はミトコンドリアDNAを用いた最近の研究によっても支持された。133種類のミトコンドリアDNAを用いた系統樹の分析の結果、彼らは人類が(のちにミトコンドリア・イブと呼ばれる)アフリカ女性の子孫であると結論した[86] 。ただしミトコンドリア・イブは全人類の「ミトコンドリアDNAの」祖先であり、人類がただ一人の女性あるいは夫婦のみに由来するという意味でも、この女性が最初のホモ・サピエンスという意味でもない。
出アフリカの回数が一度であったか、複数回であったかには議論がある。複数回出アフリカ説には南方出アフリカ説も含まれる[87]。それは近年、遺伝学的、言語学的、考古学的な証拠の支持を得ている。この理論によれば、ホモ・サピエンスは沿岸を伝っておよそ7万年前にアフリカ東部の突端であるいわゆるアフリカの角からアラビア半島に渡った。
「ジェノグラフィック・プロジェクト」も参照
このグループは東南アジアとオセアニアから発見されている初期の人類の遺跡(それは中東のレバント遺跡よりも非常に古い)をうまく説明する。第二波はシナイ半島を経てアジアにたどり着き、結果的にユーラシア大陸の人口の大半の祖先となった。この第二のグループはより高度な道具技術を持っており、最初のグループよりも沿岸の食物源に依存していなかった。最初のグループが残した考古学的な証拠は完新世の海面上昇によってほとんど失われたと考えられている[87]。
しかしながら、ユーラシアと東南アジアとオセアニアの住民はみな共通したミトコンドリアDNAの系統に属している。これは複数回出アフリカ説に対する重要な反証である。他の研究は一度だけの出アフリカがアフリカ以外の全人類の起源となった可能性を示唆する[88]。
ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、ヨーロッパ人と日本人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された[15]。
二つのモデルの比較[編集]
二つのモデルは非常に異なる。リチャード・リーキーは次のようにこの違いをまとめている。
多地域進化モデルは集団の置換が起きず、移住もわずかで、旧世界各地でホモ・サピエンスの進化的傾向があったと述べている。一方、出アフリカモデルでは一カ所でのホモ・サピエンスが進化し、そして旧世界全域への広範な人口移動と既存の前現代的な集団との置換が起きると述べる[2]。
多地域モデルは化石記録が現在見えるような地域ごとの解剖学的特徴を示さなければならないと提案する。そして人種的な違いは根深く、200万年遡ると主張する。アフリカ単一モデルでは化石記録は時間に従った連続性を示すとは主張しない。そうではなくて、以前の地域ごとの化石記録の特徴は現代アフリカ人的な特徴を持つ化石史料によって置き換えられる。人種的な違いは浅く、比較的短い期間で人種的差異は進化したと主張する[2]。
特筆すべき人類進化の研究者[編集]
ロバート・ブルーム - スコットランドの医者、古生物学者。南アフリカで「プレス夫人」の発見を導いた。
モンドボー公ジェームズ・バーネット - イギリスの裁判官で、今日では比較歴史言語学の創始者としてもっともよく知られている。
レイモンド・ダート - オーストラリアの解剖学者、古人類学者。南アフリカのタウングでアウストラロピテクスを発見した。
チャールズ・ダーウィン - 進化的変化を通して種が誕生することの重要な証拠を提示したイギリスの博物学者。
アリスター・ハーディ - イギリスの海洋生物学者。水棲人類仮説を提唱した初期の一人。
ヘンリー・マクヘンリー - 人類の進化、特に二足歩行の起源を専門とするアメリカの人類学者、古人類学者。
ルイス・リーキー - アフリカの考古学者、古人類学者。アフリカにおける人類の進化的発達を立証するのに重要な役割を果たした。
メアリ・リーキー - イギリスの考古学者、人類学者。アフリカで発掘を行い、ラエトリ遺跡などを発見した。
w:Svante Pääbo - スウェーデンの進化遺伝学者。ネアンデルタール人のDNAの分析などを行っている。
ジェフリー・シュワルツ - アメリカの形質人類学と生物人類学教授。
クリス・ストリンガー - 人類学者。アフリカ単一起源説の主要な支持者。
アラン・テンプルトン - 遺伝学者、統計学者。多地域進化説の支持者。
フィリップ・トバイアス - 南アフリカの古人類学者で人類の進化研究の世界的権威の一人。
エリク・トリンカウス - アメリカの古人類学者。専門はネアンデルタール人とホモ・サピエンスの進化。
ミルフォード・ウォルポフ - アメリカの古人類学者。多地域進化説の主要な支持者。
ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァ - イタリア人の言語・生物学者。ヒトの拡散を生物学的側面だけではなく、文明・文化的側面からもアプローチし、その整合性を指摘した。
スペンサー・ウェルズ博士 - アメリカの分子生物学者・人類遺伝学者。全世界のあらゆる地域、あらゆる民族の遺伝子データを集め、人類の進化と拡散の過程を明らかにしていくことを目標としたジェノグラフィック・プロジェクトの総指揮者。
種リスト[編集]
ヒト属に属する種はヒト属#分類を参照のこと。
目次 [非表示]
1 概要
2 古人類学の歴史
3 ヒト属以前
4 ヒト属 4.1 原人 4.1.1 ホモ・ハビリス
4.1.2 ホモ・ルドルフエンシスとホモ・ゲオルギクス
4.1.3 ホモ・エルガスターとホモ・エレクトゥス
4.1.4 ホモ・セプラネンシスとホモ・アンテセッサー
4.1.5 ホモ・フローレシエンシス
4.1.6 ホモ・ハイデルベルゲンシス
4.2 旧人 4.2.1 ホモ・ヘルメイ
4.2.2 ホモ・ローデシエンシス
4.2.3 ホモ・ネアンデルターレンシス
4.3 新人 4.3.1 ホモ・サピエンス・イダルトゥ
4.3.2 ホモ・サピエンス
5 心と行動の進化 5.1 道具の使用
5.2 石器
5.3 火の利用
5.4 現代人と「偉大な飛躍」論争
6 人類進化のモデル 6.1 多地域進化説
6.2 出アフリカ説
6.3 二つのモデルの比較
7 特筆すべき人類進化の研究者
8 種リスト
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要[編集]
人類の祖先にどのような進化的変化が起きたかは、幅広い科学的探求の主題である。この研究は多くの分野、特に形質人類学、言語学、遺伝学、考古学などと関連している。
なお、「人類」という用語は人類の進化の文脈ではヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属生物に対して用いられるが、他の属(アウストラロピテクス属など)を含むヒト亜族生物を指す場合もある。本記事では、人類という用語をチンパンジー亜族と分岐し直立二足歩行していたヒト亜族生物に用い、脳の発達したヒト属生物については学名で表記し、特にヒト属生物のうちホモ・サピエンス・サピエンスについては現生人類と表記する。
ヒト属(ホモ属)はおよそ200万年前にアフリカでアウストラロピテクス属から別属として分化し、ホモ・サピエンスは40万から25万年前に現れた。またこれらの他にも、すでに絶滅したヒト属の種が幾つか確認されている[1]。その中にはアジアに生息したホモ・エレクトゥスや、ヨーロッパに生息したホモ・ネアンデルターレンシスが含まれる。
ホモ・サピエンスの進化と拡散については、アフリカ単一起源説と多地域進化説とが対立している(#人類進化のモデル)。アフリカ単一起源説では、アフリカで「最も近いアフリカの共通祖先(RAO)」であるホモ・サピエンスが進化し、世界中に拡散してホモ・エレクトゥスとホモ・ネアンデルターレンシスに置き換わったとしている。多地域進化説を支持している科学者は世界中に分散した単一のヒト属、おそらくホモ・エレクトゥスが各地でそれぞれホモ・サピエンスに進化したと考えている。
化石の証拠はこの分野における激しい議論を解決するのに十分ではない[2]。人類はホモ・ハビリスの頃から石器を使い始め、次第に洗練させてきた。およそ5万年前、現生人類の技術と文化はより速く変わり始めた。
古人類学の歴史[編集]
古人類学は化石、道具のような遺物、居住の痕跡などにもとづく古代の人類研究である。現代的な科学としての古人類学は1856年のネアンデルタール人の発見から始まったが、初期の研究は1830年以来始まっていた[3]。1859年までに現生人類と大型類人猿の形態的な類似性は議論されていたが、同年11月にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を著すまで「生物の進化」という概念は一般には正当化されなかった。ダーウィンの進化に関する最初の本は人類の進化についてはほとんど何も述べなかった。
人類の起源と歴史に光が投げかけられるであろう
これがダーウィンが人類について述べた全てだった。それでも進化論の暗示は当時の読者にとって明らかだった[4]。
トマス・ハクスリーとリチャード・オーウェンの論争は人類の進化に集中した。ハクスリーは1863年の著書『自然の中の人類の位置』で、類人猿と現生人類の多くの類似性と相違点について説得力を持って論じた。ダーウィンが『人間の由来と性選択(1871)』でその問題について論じる頃までにはその問題は広く知られ議論の的であった。チャールズ・ライエルとアルフレッド・ウォレスのようなダーウィンの支持者の多くも、現生人類の象徴的な精神性と道徳的な感性が自然選択によって形作られたと言う考えを好まなかった。
カール・リンネの頃から類人猿と現生人類は非常に似ているように見えるために、科学者たちは類人猿は人類の最も近い親類かもしれないと考えていた。19世紀にはゴリラ、チンパンジー、オランウータンのいずれが現生人類にもっとも近縁か論争があった。ダーウィンはチンパンジーかゴリラと考え、人類の祖先の化石が見つかるとしたらアフリカだろうと予測した。エルンスト・ヘッケルはオランウータンを人類にもっとも近縁と見なし、東南アジアから人類の祖先の化石が発見されるだろうと予測した。アフリカからは多くの化石が発掘され、現在、実質的に全ての生物学者は人類がアフリカ類人猿と単に類似しているだけではなくて、人類は実際にアフリカ類人猿の一種であると同意している[要出典]。一方ヘッケルの東南アジアの予測を信じたウジェーヌ・デュボワは東南アジアのインドネシアジャワ島トリニールでジャワ原人の化石を発見し、後にこれがヒト属のホモ・エレクトゥスの亜種であるホモ・エレクトス・エレクトスに分類されている。
タウング化石
人類の祖先と思われる化石がアフリカで発見されたのはハクスリーやダーウィンの時代からしばらく後の1920年代であった[5]。1925年にレイモンド・ダートはアウストラロピテクス・アフリカヌスを記載した。模式標本は洞穴の中から発掘されたアウストラロピテクスの幼児で、タウングチャイルドと呼ばれた。この南アフリカのタウング洞穴ではコンクリートの原料が採掘されていた。この子どもの化石は非常に保存状態の良い頭骨を保持しており、頭蓋腔を推定できた。脳は小さかったが(410cm3)、その形は洗練されており、チンパンジーやゴリラのものよりも現代人に似ていた。また化石は短い犬歯を持っており、大後頭孔の位置は直立二足歩行の証拠であった。これらの特徴全てはタウングチャイルドが二足歩行の人類の祖先で、類人猿から人類にかわりつつある証拠であるとダートに確信させた。しかしダートの主張は彼の発見に類似したより多くの化石が見つかるまで軽視され、真剣に検討されるまでに20年かかった。当時の主流な見解は二足歩行の前に脳の巨大化が起きたというものであり、現代人と同じような知性の発達が二足歩行の必要条件であると考えられていた。
アウストラロピテクスは現在、現生人類が属するヒト属の直接の祖先であると考えられている[6]。アウストラロピテクスとホモ・サピエンスは共にヒト亜族の一種である。しかし近年のデータは現生人類の直接の祖先としてアウストラロピテクス・アフリカヌスの位置に疑問を投げかける。彼らは行き止まりの「いとこ」だったかも知れない[7]。アウストラロピテクスは当初、華奢なタイプと頑強なタイプに分類された。その後、頑強なアウストラロピテクスはパラントロプス属として分類し直されたが、一部の研究者はまだアウストラロピテクスの亜属だと考えている[8]。1930年に頑強なタイプが最初に記載されたとき、パラントロプス属が用いられた。1960年代に頑強な変種はアウストラロピテクスに加えられたが、近年では最初の分類どおり異なる属とする傾向がある[9]。
ヒト属以前[編集]
真主齧上目
Euarchontoglires
真主獣大目 Euarchonta
サル目(霊長類) Primates
†プレシアダピス目 Plesiadapiformes
ヒヨケザル目 Dermoptera
ツパイ目 Scandentia
グリレス大目 Glires
ネズミ目 Rodentia
ウサギ目 Lagomorpha
PrimatesTreeJa.svg
もっとも初期のほ乳類と考えられているエオマイア化石のレプリカ。
Notharctus tenebrosus
ガラゴ属のブッシュベイビー
人間の錐体細胞 (S, M, L) と桿体細胞 (R) が含む視物質の吸収スペクトル
ヒトを除くサル目の分布
霊長類の進化の歴史は約8500万年前まで遡ることができ、かつては有胎盤類の中でもっとも古い分類群であると考えられていた(現在は他の哺乳類も既にこの頃には分岐が進んでいたことが確認され始めている)。霊長類は、同じく古い分類群で樹上生の祖先をもっただろうコウモリ類と共通祖先を持つと広く考えられていたが、現在、化石や遺伝子からの研究からは真主齧上目として、齧歯目、ウサギ目と共通祖先をもったグループと見なされ始めている。恐らくその共通祖先は白亜紀後期に生きていただろうと考えられている。霊長類の最古の化石は、白亜紀末期の北アメリカ西部から発見されており、プレシアダピス類(偽霊長類)と呼ばれる。このように、霊長類の進化は約6500万年前、白亜紀末期頃に始まったと考えられている[10]。もっとも初期の霊長類と考えられている動物は北アメリカで誕生し、6550万年前から始まる暁新世と始新世の温暖な時代にユーラシアとアフリカに広まった。
霊長類(=サル目)は次のような特徴を持つ。5本の指をもち、親指が他の4本と多少とも対向しているため、物をつかむことができる。前肢と後肢の指の爪は、ヒトを含めた狭鼻下目のすべての種ではすべての指の爪が平爪である。曲鼻猿亜目と広鼻下目の一部では平爪のほかに鉤爪をそなえる種もある。両目が顔の正面に位置しており、遠近感をとらえる立体視の能力に優れている。これらの特徴は、樹上生活において、正確に枝から枝に飛び移るために不可欠な能力である。多くの樹上性の哺乳類では、鉤爪を引っかけて木登りをするが、サル類の平爪はこれをあきらめ、代わりに指で捕まるか引っかかるかする方向を選んだものである。また、それが指先の器用さにつながることとなる。
新生代に入り暁新世になるとアダピス類とオモミス類が繁栄した。いずれもまだ原始的な種類で、アダピス類は後の曲鼻猿類に、オモミス類が直鼻猿類に進化したと考えられる。アダピス類とオモミス類はヨーロッパと北アメリカに分布したが、北アメリカの霊長類は寒冷化による森林の減少で絶滅し、旧世界を舞台に霊長類の進化は進んだ。曲鼻猿類の一部は海によって他の大陸から隔絶されていたマダガスカル島にアフリカから進出し(恐らくは流木等に掴まっての漂着)、キツネザル類に進化していった。
霊長類でL-グロノラクトンオキシダーゼ(ビタミンC合成酵素)の活性が失われたのは約6300万年前であり、直鼻猿亜目(酵素活性なし)と曲鼻猿亜目(酵素活性あり)の分岐が起こったのとほぼ同時である。ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目にはメガネザル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、キツネザルなどが含まれる[11]。なお、ビタミンC合成能力を失った動物は、ビタミンCを摂取しないとコラーゲンを合成できなくなり壊血病を発症して生存を維持できなくなる。直鼻猿亜目が遺伝子変異によりビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、直鼻猿亜目が樹上生活で果物等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためである。
直鼻猿亜目は、その後、メガネザル下目と真猿下目に分岐する。この分岐の際に真猿下目のX染色体に位置する錐体視物質に関連した色覚の多型が顕著になり、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスに限定した3色型色覚の再獲得につながり、さらに狭鼻下目のオスを含めた種全体の3色型色覚の再獲得へとつながる[12]。
真猿下目の狭鼻下目(旧世界サル)と広鼻下目(新世界サル)とが分岐したのは3000-4000万年前と言われている[13][14]。脊椎動物の色覚は、網膜の中にどのタイプの錐体細胞を持つかによって決まる。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞(4色型色覚)を持つものが多い。よってこれらの生物は長波長域から短波長域である近紫外線までを認識できるものと考えられている。一方ほとんどの哺乳類は錐体細胞を2タイプ(2色型色覚)しか持たない。哺乳類の祖先である爬虫類は4タイプ全ての錐体細胞を持っていたが、2億2500万年前には、最初の哺乳類と言われるアデロバシレウスが生息し始め、初期の哺乳類は主に夜行性であったため、色覚は生存に必須ではなかった。結果、4タイプのうち2タイプの錐体細胞を失い、青を中心に感知するS錐体と赤を中心に感知するL錐体の2錐体のみを保有するに至った。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態である。この色覚が哺乳類の子孫に遺伝的に受け継がれることとなった。ヒトを含む旧世界の霊長類(狭鼻下目)の祖先は、約3000万年前、X染色体にL錐体から変異した緑を中心に感知する新たなタイプの錐体(M錐体)視物質の遺伝子が出現し、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスのみが3色型色覚を有するようになり、さらにヘテロ接合体のメスにおいて相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こして同一のX染色体上に2タイプの錐体視物質の遺伝子が保持されることとなりX染色体を1本しか持たないオスも3色型色覚を有するようになった。これによって、第3の錐体細胞が「再生」された。3色型色覚はビタミンCを多く含む色鮮やかな果実等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる[15][13]。
なお、時代を下ってヒトの色覚を鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目のマカクザルに色盲がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、ヒトの祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる[15]。色盲の出現頻度は狭鼻下目のカニクイザルで0.4%、チンパンジーで1.7%である[13]。広鼻下目のヨザルは1色型色覚でありホエザルは狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得している[12]が、これらを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである[13]。ヒトは上記のような初期哺乳類と霊長目狭鼻下目の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、L錐体のみを保持したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性劣性遺伝をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると色盲が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に赤緑色盲が発現する[16]。なお、日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる(詳細は色覚異常を要参照)。
3000万年前、漸新世初期に現在の気候が始まると最初の南極の氷が形成され、アフリカと南アジア以外の霊長類は絶滅へ向かった。当時の霊長類の一つが曲鼻猿亜目キツネザル科に近いノタルクタスである。
生き残った熱帯の集団は(それらはカイロの南西ファイユーム低地の後期始新世と初期漸新世の化石層でよく見られる)現生の全霊長類を、すなわち曲鼻猿亜目に属するマダガスカルのキツネザル、東南アジアのロリス、アフリカのガラゴ、そして直鼻猿亜目に属する広鼻猿類(新世界ザル)と狭鼻猿類に属する旧世界ザル、大型類人猿、人類を生み出した。
新世界である南米の広鼻猿類(広鼻下目)は3000万年前から化石記録に現れるが、北アフリカの化石種で彼らの祖先に近縁なものは特定されていない。もしかすると西アフリカで異なる形態で生きていたのかも知れない。西アフリカからはまだ解明されていない手段で南アメリカまで霊長類、げっ歯類、ボア、シクリッドが渡っている。洪水などで流されて大西洋経由で漂着したなどの可能性が考えられるも、決定的な説を見いだせていない。
霊長類の狭鼻下目であるヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、2800万年から2400万年前頃であると推定されている[17][18]。ヒト上科(テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒト)の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定される[19]。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が直鼻猿亜目で合成能が失われたビタミンCの抗酸化物質としての部分的な代用となるためである[20]。しかし、ヒトを含むヒト上科では、尿酸オキシダーゼ活性の消失により難溶性物質である尿酸をより無害なアラントインに分解できなくなり、尿酸が体内に蓄積すると結晶化して関節に析出すると痛風発作を誘発することとなる[21]。
ヒト上科からヒト亜族までの分類を以下に示す。
ヒト上科(ホミノイド) テナガザル科
ヒト科 Hominidae オランウータン亜科
ヒト亜科 Homininae ギガントピテクス Gigantopithecus (更新世、中国/絶滅)
ゴリラ族 Gorilla ゴリラ Gorilla gorilla
ヒト族Hominini チンパンジー亜族 Panina チンパンジー(ナミチンパンジー)Pan troglodytes
ボノボ(ピグミーチンパンジー) Pan paniscus
ヒト亜族Hominina (詳細は後述)
既知のもっとも初期の狭鼻猿類は北ケニヤ地溝帯のEragaleitから見つかっているカモヤピテクスで、2400万年前頃生きていたと見られている。その祖先は恐らく、エジプトピテクスかプロピリオピテクスかパラピテクスの近縁種と見られ、それらは3500万年前のファイユームの地層から見つかっている。その間の1100万年を繋ぐ化石は見つかっていない。
中新世初期、2200万年前、東アフリカの樹上棲に適応した初期の多種の狭鼻猿類は、それ以降の多様化のきっかけとなった。2000万年前の化石は初期の旧世界ザルに属するビクトリアピテクスと思われる断片も含む。そのほかの形態は現生類人猿に近縁だという明白な証拠はないが、類人猿に分類されている。現在認められているこのグループの属にはプロコンスル、ラングワピテクス、デンドロピテクス、リムノピテクス、ナコラピテクス、エクアトリウス、ニャンザピテクス、アフロピテクス、ヘリオピテクス、ケニヤピテクスがおり、全て東アフリカから1300万年以前に見つかっている。
分子的な証拠はヒト科とテナガザル科が2000万年から1600万年前[22]に分岐し、ヒト亜科とオランウータン亜科が1300万年前[15]に分岐したことを示している。テナガザルの祖先を明らかにする化石史料は見つかっていない。彼らは東南アジアの未知のヒト科の集団から分かれたかも知れない。初期のオランウータンは1000万年前のインドのラマピテクス、あるいはトルコのグリフォピテクスかもしれない。
1980年代にドイツで見つかった化石はおよそ1650万年前のもので、東アフリカから発見された類似した化石よりも150万年古いと考えられた[23]。それは最初に大型類人猿の系統が現れたのがアフリカでなくユーラシアであったかも知れないと示唆する。1700万年前にこの二つの大陸が地中海の拡大によって切り離される直前に、ヒト科の初期の祖先がアフリカからユーラシアへ渡ったのかも知れない。これらの霊長類がユーラシアで繁栄し、アフリカ類人猿と人類を産むことになる系統(ドリオピテクス)がヨーロッパまたは西アジアからアフリカに南下した[23]。
遥かに離れた発掘地から中期中新世の旧世界ザルではない骨格が見つかっている。ナミビアの洞窟からオタビピテクス、フランス、スペイン、オーストリアからピエロラピテクス (Pierolapithecus)とドリオピテクス (Dryopithecus)などである。それらは中新世初期から中期のアフリカと地中海沿岸が比較的暖かく穏やかな気候で、霊長類の多様化を促した証拠である。
中新世のヒト上科の証拠でもっとも新しいものはイタリアのオレオピテクスで、900万年前の石炭層から見つかっている。
ゴリラ、チンパンジー、ヒトを結び付ける最後の祖先はケニヤで見つかったナカリピテクス、あるいはギリシャで見つかったオウラノピテクスの可能性が示唆されている。分子的な証拠は656万年前±26万年[15]にヒト族とゴリラ族が分岐し、そのあと487万年前±23万年[15]にヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐したことを示している。ヒトのDNAはチンパンジーのDNAと98.4%同一である[24]。ゴリラとチンパンジーの系統の化石は非常に限定的である[25]。保存に厳しい環境(熱帯雨林土は酸性で、骨を分解しやすい)とサンプルの偏りがこの問題の原因である。彼ら以外のヒト科は赤道の外縁あたりで、アンテロープ、ハイエナ、ウマ、ゾウたちと共に、より乾燥した環境に適応した可能性がある。彼らの化石は比較的有名である。チンパンジー亜族と分岐し直立二足歩行をしていたヒト亜族のうち、もっとも初期のものはサヘラントロプス・チャデンシス(700万年前)である。これは前述のヒト亜族とチンパンジー亜族が約500万年前に分岐したとする説と矛盾するため、DNAの変異にかかる時間に基づき推定すると800-700万年前に分岐した可能性が高いとの論文が発表されている[26]。 ヒト亜族には次のような族種が含まれる。
サヘラントロプス属 Sahelanthropus :トゥーマイ猿人。約700万年前。 サヘラントロプス・チャデンシス S. tchadensis
オロリン属 Orrorin :約610万- 約580万年前。 オロリン・トゥゲネンシス O. tugenensis
アルディピテクス属 Ardipithecus :ラミドゥス猿人とカダッバ猿人。約580万- 約440万年前。
アウストラロピテクス属 Australopithecus :旧称「華奢型アウストラロピテクス」。約540万- 約150万年前。 アウストラロピテクス・アファレンシス A. afarensis :アファール猿人。
アウストラロピテクス・アフリカヌス A. africanus :アフリカヌス猿人。
アウストラロピテクス・アナメンシス A. anamensis :アナム猿人。
アウストラロピテクス・バーレルガザリ A. bahrelghazali
アウストラロピテクス・ガルヒ A. garhi :ガルヒ猿人。
ケニアントロプス属 Kenyanthropus 約300万 - 270万年前。 ケニアントロプス・プラティオプス K. platyops
パラントロプス属 Paranthropus :旧称「頑丈型アウストラロピテクス」。約270万- 約120万年。 パラントロプス・エチオピクス Paranthropus aethiopicus :エチオピクス猿人。
パラントロプス・ロブストス P. robustus :ロブストゥス猿人。
パラントロプス・ボイセイ P. boisei :ボイセイ猿人。
ヒト属(ホモ属) Homo :約250万年前- 現世。
アウストラロピテクスの復元像
パラントロプスの復元像
アウストラロピテクスは、アフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 約200万年前に生存していた、いわゆる華奢型の猿人である。身長は120cm台 - 140cm台くらいで、脳容積は現生人類の約35%の500cc程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立して歩く能力を持つと考えられている。アウストラロピテクス・アフリカヌスの頭蓋骨には人類と同じ直立二足歩行の姿勢であったことを示す位置に脊柱とつながる穴(大後頭孔)があったことからである。姿形は直立したチンパンジーというイメージである。以前は最も古い人類の祖先とされていたがアルディピテクス属の発見により、その次に続く属となった。約440万 - 約390万年前にA・アナメンシスが、約390万 - 約300万年前にアファレンシスが現れ、約330万 - 約240万年前にアウストラロピテクス・アフリカヌスに進化した。この属からパラントロプスと、ホモ(ヒト属)最初の種ホモ・ハビリスに進化したと考えられている。
パラントロプスの体長は1.3から1.4mで、華奢型アウストラロピテクスよりひと回り大きい。脳もいくらか大きめである。 形態的には、アウストラロピテクスよりヒト的な特徴は減少しており、堅い食物を咀嚼するため、高く厚い下顎と太い側頭筋、それを通すために張り出した頬骨弓および大型の臼歯など頑丈な咀嚼器を有している。硬い植物性の食物、根などを常食としていたと考えられる。
ヒト属[編集]
ヒト属は、直立二足歩行していたヒト亜族のうち脳が発達した種を意味する。属名 Homo はラテン語で「人」「男」を意味(英 man に相当)する語であり、カール・リンネが動植物を最初に分類したときに選んだものである。ちなみに、英語の「ヒューマン」はその形容詞形 humanus に由来している。
現代の分類学ではホモ・サピエンスはヒト属で唯一現存している種である。ホモ・サピエンスの起源の研究に伴い他にもヒト属の種がいたが、全て絶滅していることが判明している。これらの絶滅種の中にヒトの直接の祖先がいたのかもしれないが、そのほとんどがホモ・サピエンスの「いとこ」であって、彼らのどれを種としどれを亜種とすべきなのかは統一された見解がない。これは化石人類の分類に用いられる種の概念が解剖学的特徴に基づいた形態的種であるためで、二つの種の中間的な特徴を持ち分類が困難な化石も多く発見されている。(種 (分類学)も参照のこと)。
サハラ砂漠の拡張が初期のヒト属の進化の原因となったとも言われているが、ヒト属の進化の要因についていくつかの説がある。一つの説はサバンナ説で、レイモンド・ダートによって提示された。樹上性だった(かもしれない)人類の祖先が狩猟のため、あるいは樹林の減少によってサバンナへ進出したというものである。もう一つは水生類人猿説と呼ばれており、こちらには多くの研究者が異論を唱えている。これは食糧を集めるために水中を歩き、泳ぎ、潜ることが人類の祖先と他の類人猿の祖先に異なる選択圧を与えたと主張している。フランスの古人類学者イヴ・コパンは東アフリカの大地溝帯がチンパンジーとヒトの祖先の集団を二つにわけ、それぞれが地理的種分化によって別種となったと仮説(イーストサイドストーリーと呼ばれる)を提唱したが、大地溝帯の西側からも祖先種と見られる化石が発見されたことで、現在のところあまり支持されていない。
考古学と古生物学の証拠に基づいて、さまざまなヒト属の食性を推論することが可能で、食性がヒト属の身体と行動に与えた進化的影響は研究の中途にある[27][28][29][30][31]。
ヒト属集団の地理的分布の概観。ただしヒト属の分散と類縁関係については様々な見解があり統一されていない。
ヒト属には次のような種が含まれる。
ホモ・ハビリス H. habilis
ホモ・ルドルフエンシス H. rudolfensis
ホモ・エルガステル H. ergaster
ホモ・エレクトス H. erectus ホモ・エレクトス・エレクトス(ジャワ原人) H. e. erectus
ホモ・エレクトス・ペキネンシス(北京原人)H. e. pekinensis
ホモ・マウリタニクス(ホモ・エレクトス・マウリタニクス)H. mauritanicus
ホモ・エレクトス・ユァンモウエンシス (元謀原人) H. e. yuanmouensis
ホモ・アンテセッサー H. antecessor
ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルグ人)H. heidelbergensis
ホモ・ローデシエンシス H. rhodesiensis
ホモ・ケプラネンシス H. cepranensis
ホモ・ゲオルギクス(ドマニシ原人)H. georgicus
ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)H. neanderthalensis
ホモ・フローレシエンシス(フローレス人)H. floresiensis
ホモ・サピエンス(ヒト)H. sapiens ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)H. s. idaltu
ホモ・サピエンス・サピエンス(現代人、現生人類)H. s. sapiens
原人[編集]
ホモ・ハビリス[編集]
ホモ・ハビリスの復元像
ホモ・ハビリスはおよそ240万から140万年前に生きていた。ヒト属の最初の種であるハビリスは鮮新世後期か更新世初期に南アフリカと東アフリカで出現した。おそらく250万から200万年前にアウストラロピテクスの一つから種分化したと考えられている。ハビリスはアウストラロピテクスよりも小さな臼歯と大きな脳を持っており、石と、おそらく動物の骨から道具を製造した。彼らは初めて知られたヒト科の一種で、発見者ルイス・リーキーによって彼らの石器に結び付けて「器用な人」とあだ名を付けられた。一部の科学者は頭蓋後部の形態からホモ・サピエンスのような二足歩行よりも樹上に適応していたと考え、ヒト属からアウストラロピテクス属へ移すよう提案している[32]。ただし、現在ではアウストラロピテクス属自体がヒト属との差異はそれほど大きくないとされ、ヒト属の一種として統合する場合もある[要出典]。
ホモ・ゲオルギクスの模型
ホモ・ルドルフエンシスとホモ・ゲオルギクス[編集]
これらは190万から160万年前の化石に名付けられた種である。ホモ・ハビリスとの類縁関係は明白ではない。
ホモ・ルドルフエンシスはケニヤから発見された一つの不完全な頭骨である。研究者はハビリスの一種であると主張したが、まだ確かめることができない[33]。
ホモ・ゲオルギクスはグルジアから発見された。ホモ・ハビリスとホモ・エレクトゥスの中間か[34]、あるいはホモ・エレクトゥスの亜種であるかも知れない[35]。
ホモ・エレクトスの模型
ホモ・エレクトゥス
ホモ・エルガスターとホモ・エレクトゥス[編集]
ホモ・エレクトゥスの最初の化石は1891年にインドネシアのジャワ島でオランダ人軍医ウジェーヌ・デュボワによって発見された。彼は当初、その化石が人類と類人猿の中間であると考え、ピテカントロプス・エレクトゥスの名を与えた[36]。ホモ・エレクトゥスはおよそ180万から7万年前まで生きていた。150-100万年前、更新世初期に脳がより大きくなり精巧な道具を作ったホモ・ハビリスの子孫がアフリカ、アジア、ヨーロッパの各地に分散した。これらの特徴は古人類学者にとって彼らをホモ・ハビリスとは異なる種に分類するのに十分な理由となる。しばしば初期の段階、180万から125万年前までは別の種ホモ・エルガスター、あるいはエレクトゥスの亜種ホモ・エレクトゥス・エルガスターと扱われることがある。
エレクトゥスは間違いなく直立二足歩行していた事が明らかな最初の人類の祖先で、それはしっかりはまる膝蓋骨と大後頭孔(脊椎が入る頭骨の孔)の位置の変化によって可能になった[37] 。加えて彼らは肉を調理するために火を使った可能性がある。ホモ・エレクトゥスの有名な例は北京原人である。多くの古人類学者はホモ・エルガスターという呼称をこのグループの非アジア種に用いていて、エレクトゥスと言う呼称はアジア地域で見つかりエルガスターとわずかに異なる骨格、歯の特徴を満たしている化石だけに用いているが、本項ではその用法に従っていない。
ホモ・アンテセッサー(女性)の模型
ホモ・セプラネンシスとホモ・アンテセッサー[編集]
これらはホモ・エレクトゥスとホモ・ハイデルベルゲンシスの間をつなぐかも知れないと主張されている[要出典]。
ホモ・アンテセッサーは120-50万年前に生きていた。スペインとイングランドから化石が発見されている[38] [39]。
ホモ・セプラネンシスはイタリアから一つの頭骨片として発見されている。およそ80万年前のものと推測されている[40]。
ホモ・フローレシエンシスの復元模型。国立科学博物館の展示。
ホモ・フローレシエンシス[編集]
ホモ・フローレシエンシスはおよそ10万から1.2万年前に生きていた。彼らはその小ささ(おそらく島嶼化による)から「ホビット」とあだ名を付けられている[41]。ホモ・フローレシエンシスはその大きさと年齢から、実際に最近まで生きていた現生人類と共通しない特徴を持つホモ属の興味深い例と考えられている。すなわち、いつの時点かで現代人と祖先を共有するが、現代人の系統とは分かれて独自の進化の過程をたどった。主要な発見は、30歳程度の女性と思われる骨格である。2003年に発見され、1.8万年前のものと見積もられた。ホモ・フローレシエンシスの生きている女性は身長1メートル、脳容量は380cm3でチンパンジー並みに小さく、現代人女性の1400cm3の三分の一程度であると推測されている。
しかしホモ・フローレシエンシスが本当に別の種であるかは未だ議論が続いている[42]。一部の科学者は小人症を患ったホモ・サピエンスであると考えている[43]。この仮説はフローレス島に住む現代人が小柄であるために、ある程度説得力がある。小柄さと小人症によって本当にホビットのような人が生まれた可能性はある。別種説への他の主要な反論は、現生人類と関連した道具類とともに発見されたという点である[43]。
ホモ・ハイデルベルゲンシスの復元像
ホモ・ハイデルベルゲンシス[編集]
ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)は80万から30万年前に生きていた。ホモ・サピエンス・ハイデルベルゲンシス、またはホモ・サピエンス・パレオハンガリクスという呼称が提案されている[44]。
旧人[編集]
ホモ・ヘルメイ[編集]
ホモ・ヘルメイはホモ・ハイデルベルゲンシスから進化した人類。ホモ・ハイデルベルゲンシスに含むという説もあるが、進化段階が原人であるホモ・ハイデルベルゲンシスから旧人に進化したホモ・サピエンスまたは原サピエンスへの移行型人類として別種に扱うこともある。
ホモ・ローデシエンシスの頭蓋骨のレプリカ
ホモ・ローデシエンシスの復元想像図
ホモ・ローデシエンシス[編集]
ホモ・ローデシエンシスは30万から12.5万年前に生きていた。アルカイック・ホモ・サピエンスやホモ・サピエンス・ローデシエンシスのような呼称も提案されたが、多くの研究者はローデシア人がホモ・ハイデルベルゲンシスの仲間に含まれると考えている。原人よりは進化し、現生人類よりは原始的であるため旧人段階にあるという見解もある。一時期はホモ・ネアンデルターレンシスに含められることもあったが、現在ではそれとは別種の旧人であるとされる。
2006年2月におそらくホモ・エレクトゥスとホモ・サピエンスの中間か、その近くの行き止まりにいた種のものと思われる頭骨の上部がエチオピアのGawisから発見された。このGawis頭骨は50万から25万年前のものと推測されている。大まかな概要だけは知られているが、発掘チームは査読付き論文として発表していない。頭骨の特徴は彼らが中間種であるか、ボド・マンの女性のものであるかを示している[45]。
ネアンデルタール人の模型
ホモ・ネアンデルターレンシス[編集]
ネアンデルタール人は25万から3万年程前まで生きていた。ネアンデルタール人が独立した種ホモ・ネアンデルターレンシスか、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスとしてホモ・サピエンスの中に含まれるべきかは議論が継続中であり結論は出ていない[46]。ミトコンドリアDNAの配列の証拠は大規模な遺伝子流動がネアンデルタール人と人類の間で起こらなかったことを示す。従って、それに基づけば二つの種は66万年ほど前に祖先を共有した異なる種である[47][48]。
1997年にペンシルベニア州立大学人類学の准教授マーク・ストーンキングはこう述べた:「これらの(ネアンデルタール人の骨から抽出されたミトコンドリアDNAに基づく)結果はネアンデルタール人がミトコンドリアDNAを現代人に与えなかったことを示している。......ネアンデルタール人は我々の祖先ではない」。ネアンデルタール人のDNAの配列研究もこの結果を支持した[49]。多地域進化説の支持者は最近の非アフリカ人の核DNAが100万年前まで遡る可能性を示す事を研究した[50]が、現在この研究の信頼性は疑われている[51]。
しかし2010年に、ホモ・サピエンス現生人類とネアンデルタール人との間に混血の痕跡があるとする研究結果がサイエンス誌に発表された(ネアンデルタール人の項を参照のこと)。
テキサス大学アーリントン校の人類学者ナオミ・クレッグホーンは、約4万年前の、現在のイタリアやコーカサス山脈に相当する地域で火山が相次いで噴火したことを絶滅の理由として説明している[52]。このような環境的要因を指摘する説は以前にも発表されていたが、約4万年前の噴火はその種の災害とは規模が違っており、例えば、複数の火山がほぼ同時期に噴火していたという。中でもカンパニアン・イグニンブライト噴火はヨーロッパでは過去20万年間で最も大規模だった。「当時のヨーロッパには現生人類の小集団も住んでいたので、噴火の影響を同様に受けたと考えられる。だが、ネアンデルタール人のほとんどがヨーロッパに居住していたのに対し、現生人類はアフリカやアジアにより大きな人口を抱えていたため絶滅を避けられたようだ。 」と同氏はいう[53]。
ネアンデルタール人は約3万年前に滅亡したと考えられていたが、2005年にイベリア半島南端のジブラルタルの沿岸の洞窟から、ネアンデルタール人が使っていた特徴のある石器類や、洞窟内で火を利用していた痕跡が見つかった。この遺跡は、放射性炭素による年代分析で2万8000-2万4000年前のものと推定された[54]。ネアンデルタール人は、最後はヨーロッパの南端まで移動してから絶滅したこととなる。
新人[編集]
ホモ・サピエンス・イダルトゥ[編集]
ホモ・サピエンス・イダルトゥはエチオピアから発見されており、16万年前頃生きていたと考えられる。それは亜種として扱われてはいるが(ただしホモ・サピエンスの亜種分類法については学説上統一した合意はない)、解剖学的には現代人であり、知られているなかでもっとも古い新人段階の現代人である。彼らの直接の子孫がネグロイドであり、モンゴロイド・コーカソイドはネアンデルターレンシスとの混血種であるらしいという最近の研究結果がある。これによると、イダルトゥは系統的にネグロイドに属することになる。 さらに古いサピエンスの直接の祖先としては約26万年前のフロリスバッド人や金牛山人の人骨が発見されているが、これらは進化段階としては旧人とみられる。ただしイスラエルで40万年前の最古のホモ・サピエンスである可能性がある人骨が発見されている。ネアンデルタール人との共通祖先との分岐年代が40万年以上前であることから、分岐直後の時期にはホモ・サピエンスが存在していたという解釈も可能であり、その場合上記人骨化石はイダルトゥよりさらに古いホモ・サピエンスの発見ということになる。
ホモ・サピエンス[編集]
現生人類のホモ・サピエンス(サピエンスは賢い、知的を意味する)は25万年前に現れ現在に至っている。 現代人と上記イダルトゥには亜種レベルの相違があるとみなして、亜種「ホモ・サピエンス・サピエンス」として扱うこともあるが、ホモ・サピエンスの亜種については統一した合意はないため、本項目は「ホモ・サピエンス」とする。 47万年〜66万年前に上記ネアンデルタール人との共通祖先から古代型サピエンスが分岐した。ここでは旧人時代の古代型サピエンスについても記述する。40万年前から25万年前の中期更新世の第二間氷期までの間に、旧人段階であった彼らが頭骨の拡張と石器技術が発達したようで、この事がホモ・エレクトゥスからホモ・サピエンスへ移行の証拠と見られている。
移行を示す直接の証拠は、ホモ・エレクトゥスがアフリカから他の地域へ移住した間にアフリカで種分化が起きたことで(アフリカのどこで起きたかについてはわかっていない)エレクトゥスからホモ・サピエンスが分かれたことを示唆している。その後アフリカとアジア、ヨーロッパでエレクトゥスがホモ・サピエンスに入れ替わった。このホモ・サピエンスの移動と誕生のシナリオは単一起源説(アフリカ単一起源説)と呼ばれていて、現在古人類学において多地域進化説と単一説で激しい議論がされている。また、人類の遺伝的多様性が他の種に比べると非常に小さいことを確認されているが、これは比較的最近に各地に分散したか、トバ山噴火の影響の可能性がある。
7万年前から7万5千年前に、インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山が大噴火を起こして気候の寒冷化を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えた。トバ・カタストロフ理論によれば、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下したという。劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされる。その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期へと突入する。この時期まで生存していたホモ属の傍系の種(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトゥスなど)は絶滅した。トバ事変の後まで生き残ったホモ属はネアンデルタール人と現世人類のみである。現世人類も、トバ事変の気候変動によって総人口が1万人までに激減したという。かろうじて生き残った現世人類も人口減少によってボトルネック効果が生じ、その遺伝的多様性は失われた。現在、人類の総人口は70億人にも達するが、遺伝学的に見て、現世人類の個体数のわりに遺伝的特徴が均質であるのはトバ事変のボトルネック効果による影響であるという。遺伝子の解析によれば、現世人類は極めて少ない人口(1000組-1万組ほどの夫婦)から進化したことが想定されている。遺伝子変化の平均速度から推定された人口の極小時期はトバ事変の時期と一致する。
この学説は6万年前に生きていた“Y染色体アダム”や14万年前に生きていた“ミトコンドリア・イヴ”を想定した学説とは矛盾しない。また、現世人類の各系統が200万年〜6万年の時期に分岐したことを示している現世人類の遺伝子の解析の結果もトバ・カタストロフ理論とは矛盾しない。なぜならば、トバ・カタスロトフ理論は総人口が数組の夫婦まで減少したという学説ではなく、そこまで凄まじいボトル・ネック現象を想定している訳ではないからである。現世人類の遺伝的多様性はトバ事変によって、現世人類の人口が一度減少したことを示唆する[55]。
また、衣服の起源をトバ事変に関連づける向きもある。ヒトに寄生するヒトジラミは2つの亜種、主に毛髪に寄宿するアタマジラミ(Pediculus humanus capitis)と主に衣服に寄宿するコロモジラミ(Pediculus humanus corporis)に分けられる。近年の遺伝子の研究からこの2亜種が分化したのはおよそ7万年前であることが分かっている[56]。つまり、およそ7万年前にヒトが衣服を着るようになり、新しい寄宿環境に応じてコロモジラミが分化したと解釈される。そこで研究者らは、時期的に一致することから、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くために、ヒトが衣服を着るようになったのではないかと推定している[57]。
ヨーロッパ人と日本人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定されている[15]。
「ジェノグラフィック・プロジェクト」も参照
印象的な遺伝的特徴(例えば皮膚の色)は主に、小集団が新たな環境へ移住した結果として起きた。これらの適応形質はホモ・サピエンスのゲノムの非常にわずかな部分によって引き起こされるが、皮膚の色の他に鼻の形態や高高度地域で効率的に呼吸する能力などを様々な形質を含む。
ヒト科の脳容積
種類 分類 脳容積(ml)
オランウータン ヒト科 411[58]
ゴリラ ヒト亜科 約500[59]
チンパンジー ヒト族 394[58]
アウストラロピテクス・アフリカヌス ヒト亜族 441[58]
ホモ・ハビリス ヒト属 640[58]
ホモ・エルガスター ヒト属 700-1100[59]
ホモ・エレクトス ヒト属 1040[58]
ホモ・ハイデルベルゲンシス ヒト属 1100-1400[59]
ホモ・ネアンデルターレンシス ヒト属 1450[58]
ホモ・サピエンス・サピエンス ヒト属 1350[58]
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較写真
心と行動の進化[編集]
人類の心と行動を進化させた要因については異なるいくつかの説がある。かつては脳の巨大化が二足歩行といった「知的な」行動の原因となったと考えられていた。しかし進化は目的論的には働かないと言う認識が深まりこの説は放棄された。何故ならヒトの祖先であるアウストラロピテクスはチンパンジー並みの440mlという非常に原始的な形態を示す脳を持つと同時に、完全に直立した下肢を持ち、大頭骨孔も頭の真下に位置し、二足歩行をしていた。脳の発達が人類進化の原点であるという20世紀初頭の考えは、アウストラロピテクスの発見により完全に否定されたのである[60][要高次出典]。
知能の発達に関する説の一つはレイモンド・ダートの狩猟仮説である。動物を追い、効率よく狩りをするために予測や想像と言った知性の発達が必要である。肉食による摂取エネルギーの増加は脳の増大を許容したかもしれない。狩猟仮説は戦争や暴力も狩猟活動の名残ではないかと予測する。しかし多くの生物で攻撃行動は捕食行動とは異なる部位の脳を活性化させる。また種内と種間の攻撃性は区別する必要がある。
一方ドナ・ハートとロバート・サスマンは『ヒトは食べられて進化した』でヒトは長い間、捕食者ではなくてむしろ被食者であり、捕食を回避することが知能発達の選択圧になったと主張している。人類学者パスカル・ボイヤーは暗闇に対する恐怖、幽霊の錯覚のような認知的錯誤の一部が捕食者回避によって発達したのではないかと考えている。
米国・ユタ大学のデニス・ブランブル(Dennis Bramble)とハーバード大学のダニエル・リーバーマン(Daniel Lieberman)は2004年、初期人類は、動物遺体から屍肉を集め、石を使って骨を割り、栄養価の高い骨髄を得ることを生息手段とする、一種の腐肉食動物であったとの仮説を提唱した[61]。 人類は競合者に先駆けて動物遺体を手に入れるため、発汗による高い体温調整能力を始めとし、弾性のあるアキレス腱や頑丈な脚関節といった「速いピッチでの長距離移動の能力」を進化させ、広い地域を精力的に探し回る者として特化したとするものである。 このような適応の傾向と栄養価の高い食物が大きな脳の発達を可能にしたのではないかと説いた。
心理学者ニコラス・ハンフリーは複雑化する社会活動が重要な選択圧だと考えて社会脳仮説を提唱した。協力行動や騙し、騙しの発見などを行うには相手の心を読み、複雑な人間関係を理解する必要がある。心の理論の発達はこの一部であったかもしれない。霊長類学者ロビン・ダンバーは霊長類の大脳新皮質の大きさと様々な生活上の変数(食性、配偶システムなど)を比較し、群れの大きさとのみ相関があると指摘した。群れの巨大化は個人関係の複雑さに繋がる。社会脳仮説の支持者はダンバーの発見を証拠の一つと考えている。
認知考古学者スティーブン・ミズンは心のモジュール説を受け入れ、異なる神経構造を基盤に持ついくつかのモジュール化された心的機能(例えば言語能力、心の理論、直観的な物理の理解など)が個別に発達し、一般的知能が異なるモジュールの相互作用で完成したのではないかと考えている。
道具の使用[編集]
道具の使用は知性の存在の象徴と解釈され、また道具の使用は人類の進化の特定の面(特に脳の継続的な増大)を刺激したかも知れないと推測されている。研究者は何百万年も続くこの負担の大きな器官の増大をまだ説明できていない。現代人の脳は20ワット(一日400キロカロリー)を消費し、人体の全消費量の20%にも達する。さらなる道具の使用は狩りと、植物よりエネルギーが豊富な肉の消費を可能にした。研究者は初期のヒト科が道具の作成と使用能力の増大を促すような選択圧のもとに置かれたと主張している[62]。
初期の人類が道具を使い始めた正確な時期を特定するのは難しい。というのも原始的な道具(例えば鋭利な石)は人工物なのか自然にあるものか判別できないからである。アウストラロピテクスが400万年前に骨を道具として用いていた可能性を示す証拠があるが、これは議論の的である。
石器[編集]
詳細は「石器」を参照
石器は260万年前に初めてその証拠が現れる。東アフリカのホモ・ハビリスはいわゆる礫器、単純に打ち付けて割った丸い小石を用いていた[63]。これは旧石器時代の始まりを意味する。旧石器時代は最後の氷河時代末(およそ1万年前)に終わる。旧石器時代は前期(35-30万年前頃まで)、中期(5-3万年前頃まで)、後期に分けられる。70万から30万年前の時代はアシュール文化としても知られている。ホモ・エルガスター(またはホモ・エレクトゥス)は火打ち石と珪岩から大きな石斧を使っていた。最初(初期アシュール時代)には全く粗雑な作りだが、のちには破片の縁で微妙に打ち付けることでより「加工された」道具を作った。
35万年前にはより洗練されたルヴァロア技法による石器作りが行われた。ルヴァロア技法による石器の作成は完成予定の石器の形を正確に思い描かなくてはならず、抽象思考の証拠と考えられている。打ち付ける技術が洗練されると、こて、スライサー、針なども作られるようになった。5万年前にはネアンデルタール人と移住してきたクロマニヨン人によってより洗練され、特化された火打ち石やナイフ、刃物、毛皮などを剥くスキマーなどが作られた。この時期には骨からも道具が作られた。
火の利用[編集]
詳細は「初期のヒト属による火の利用」を参照
ヒトは火を調理に使い、暖を取り、獣から身を守るのに使い、それにより個体数を増やしていった。火を使った調理は、ヒトがタンパク質や炭水化物を摂取するのを容易にした。火により寒い夜間にも行動ができるようになり、あるいは寒冷地にも住めるようになり、ヒトを襲う獣から身を守れるようになった[64]。
ヒト属による単発的な火の使用の開始は、170万年から20万年前までの広い範囲で説が唱えられている[65]。最初期は、火を起こすことができず、野火などを利用していたものと見られる[66]が、日常的に広範囲にわたって使われるようになったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つかっている[67]。
周口店の北京原人遺跡。北京原人はホモ・エレクトスの一種であり、火を使っていたと考えられている。
ヒトの生活は、火とその明るさで大きな影響を受けた。夜間の活動も可能となり[68]、獣や虫除けにもなった[64][65]。また、当初は火を起こすのが難しかったため、火は集団生活で共用されるべきものとなり、それにより集団生活の必要性が増した[69]。
火の使用は栄養価の向上にも繋がった。タンパク質は加熱することで、栄養を摂取しやすくなる[64][70][71]。黒化した獣の骨から分かるように、肉も火の使用の初期から加熱調理されており、動物性タンパク質からの栄養摂取をより容易にした[72][73]。加熱調理された肉の消化に必要なエネルギーは生肉の時よりも少なく、加熱調理はコラーゲンのゼラチン化を助け、炭水化物の結合を緩めて吸収しやすくする[73]。また、病原となる寄生虫や細菌も減少する。
また、多くの植物には灰汁が含まれ、マメ科の植物や根菜にはトリプシンやシアングリコーゲンなどの有毒成分が含まれる場合がある[69]。また、アマ、キャッサバのような植物に有害な配糖体が含まれる場合もある[74]。そのため、火を使用する前には植物の大部分が食用にならなかった。食用にされたのは種や花、果肉など単糖や炭水化物を含む部分のみだった[74]。ハーバード大学のリチャード・ランガム(英語版)は、植物食の加熱調理でデンプンの糖化が進み、ヒトの摂取カロリーが上がったことで、脳の拡大が誘発された可能性があると主張している[75][76][77]。
実際、ホモ・エレクトスの歯や歯の付着物から、加熱調理無しには食べるのが難しい硬い肉や根菜などが見つかっている[78][79]。
現代人と「偉大な飛躍」論争[編集]
5万から4万年前まで、石器の使用は徐々に進歩したと思われる。おのおのの段階(ハビリス、エルガスター、ネアンデルタール)は前の段階よりも高いレベルで始まり、後退したことはなかった。しかし一つの段階の中の技術の進歩は遅かった。言い換えると、これらの種は文化的に保守的だった。しかし、5万年前以降、現生人類の文化は明らかに大きな速度で変わり始めた。『人間はどこまでチンパンジーか?』の著者ジャレド・ダイアモンドや他の人類学者はこれを「大躍進」と描写する。
現代の人間は丁寧に死者を埋葬し、隠れ家で衣類を作り、高度な狩猟技術をあみだし(穴を罠として使う、崖に動物を追い詰めるなど)、洞窟壁画を描き出した[80]。この文化の変化のスピードアップは、現生人類、つまりホモ・サピエンスの誕生とその習性に関係しているようにみえる。集団の文化が進むと、異なる集団は既存の技術に新しい知識を取り入れる。釣り針、ボタンと骨製の針のような5万年以前は存在しなかった人工物は異なる人類の集団間の差異を示唆する。一般的にネアンデルターレンシスの集団は同時代の他のネアンデルターレンシス集団と同じような技術を用いていた。
理論的には現代の人間行動は次の4つの能力を含む:
抽象思考(具体的な例に依存しない概念)
計画(さらなるゴールを目指すためのステップを考える)
発想力(新たな解決法を見つける)
記号的な行動(儀式や偶像)
人類学者は現代的行動の具体例に以下を含める:
道具の専門化
宝石の使用や洞窟壁画のようなイメージの使用
居住空間の整備
副葬品を伴う埋葬のような儀式
専門的な狩猟技術
厳しい環境への進出
貿易ネットワークの構築
など。
しかしこれらの急激な出現が生物学的な革命的変化、「人間の意識のビッグバン」を意味するのか、より段階的な変化であったかの議論は続いている。コネチカット大学のサリー・マクブレアティとジョージ・ワシントン大学のアリソン・ブルックスは5万年以前の現代的行動の遺物を示し、革命説がアフリカの一部しかサンプルとしていないと主張して革命的進化はなかったと指摘した[81]。
人類進化のモデル[編集]
今日、全ての人類はホモ・サピエンス・サピエンスに分類される。しかしこれはヒト属の最初の種ではない。ヒト属の最初の種、ハビリスは少なくとも200万年前に東アフリカで進化した。そして彼らは比較的短い時間でアフリカ各地に生息するようになった。ホモ・エレクトゥスは180万年以上前に進化し150万年にはユーラシア大陸各地に広がった。実質的に全ての形質人類学者はホモ・サピエンスがホモ・エレクトゥスの子孫であることに同意する。人類学者はホモ・サピエンスが大陸各地で相互に関係しながら同時進行的にホモ・サピエンスになったのか(多地域進化説と呼ばれる)、東アフリカで現れた一派がユーラシア大陸各地のエレクトゥスと置き換わったのか(出アフリカ説、またはアフリカ単一起源説)で議論を行った。議論は未だ続いているが、大部分の人類学者は出アフリカ説を支持している。
多地域進化説[編集]
多地域進化説の支持者(主にミルフォード・ウォルポフと彼の同僚)は、ある程度の遺伝子流動があればヨーロッパとアジアの異なる地域で並行的に現生人類の進化が可能であったろうと主張した[82]。古代ヨーロッパと中国のホモ・サピエンスの形態的な類似性と、それぞれの地域の古代と現代のホモ・サピエンスの類似性は地域的な進化を支持しているとウォルポフは主張する[83]。彼らはさらにこの説が表現型多型のクラインパターンと一致しているとも主張する。
出アフリカ説[編集]
ミトコンドリアDNAのハプログループの分布から推定した人類伝播のルートおよび年代
ミトコンドリアのハプロタイプL0からL3がアフリカにのみ存在する一方その他の地域はMかNどちらかしか存在しない
現生人類のミトコンドリアDNAハプログループの分岐と移動
母系(ミトコンドリアDNA)に基づく現生人類の移動
父系(Y染色体ハプログループ)に基づく現生人類の移動
南方出アフリカ説
詳細は「アフリカ単一起源説」を参照
クリス・ストリンガーとピーター・アンドリューズによって発展した出アフリカ説によれば、分子系統解析の進展(いわゆるミトコンドリア・イブやY染色体アダムなど)によって、現代のホモ・サピエンスは14 - 20万年前に共通の祖先を持つことがわかり、ホモ・サピエンスは7万から5万年前にアフリカから外へ移住し始め、結局ヨーロッパとアジアで既存のヒト属と置き換わった[84][85]。出アフリカ説はミトコンドリアDNAを用いた最近の研究によっても支持された。133種類のミトコンドリアDNAを用いた系統樹の分析の結果、彼らは人類が(のちにミトコンドリア・イブと呼ばれる)アフリカ女性の子孫であると結論した[86] 。ただしミトコンドリア・イブは全人類の「ミトコンドリアDNAの」祖先であり、人類がただ一人の女性あるいは夫婦のみに由来するという意味でも、この女性が最初のホモ・サピエンスという意味でもない。
出アフリカの回数が一度であったか、複数回であったかには議論がある。複数回出アフリカ説には南方出アフリカ説も含まれる[87]。それは近年、遺伝学的、言語学的、考古学的な証拠の支持を得ている。この理論によれば、ホモ・サピエンスは沿岸を伝っておよそ7万年前にアフリカ東部の突端であるいわゆるアフリカの角からアラビア半島に渡った。
「ジェノグラフィック・プロジェクト」も参照
このグループは東南アジアとオセアニアから発見されている初期の人類の遺跡(それは中東のレバント遺跡よりも非常に古い)をうまく説明する。第二波はシナイ半島を経てアジアにたどり着き、結果的にユーラシア大陸の人口の大半の祖先となった。この第二のグループはより高度な道具技術を持っており、最初のグループよりも沿岸の食物源に依存していなかった。最初のグループが残した考古学的な証拠は完新世の海面上昇によってほとんど失われたと考えられている[87]。
しかしながら、ユーラシアと東南アジアとオセアニアの住民はみな共通したミトコンドリアDNAの系統に属している。これは複数回出アフリカ説に対する重要な反証である。他の研究は一度だけの出アフリカがアフリカ以外の全人類の起源となった可能性を示唆する[88]。
ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、ヨーロッパ人と日本人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された[15]。
二つのモデルの比較[編集]
二つのモデルは非常に異なる。リチャード・リーキーは次のようにこの違いをまとめている。
多地域進化モデルは集団の置換が起きず、移住もわずかで、旧世界各地でホモ・サピエンスの進化的傾向があったと述べている。一方、出アフリカモデルでは一カ所でのホモ・サピエンスが進化し、そして旧世界全域への広範な人口移動と既存の前現代的な集団との置換が起きると述べる[2]。
多地域モデルは化石記録が現在見えるような地域ごとの解剖学的特徴を示さなければならないと提案する。そして人種的な違いは根深く、200万年遡ると主張する。アフリカ単一モデルでは化石記録は時間に従った連続性を示すとは主張しない。そうではなくて、以前の地域ごとの化石記録の特徴は現代アフリカ人的な特徴を持つ化石史料によって置き換えられる。人種的な違いは浅く、比較的短い期間で人種的差異は進化したと主張する[2]。
特筆すべき人類進化の研究者[編集]
ロバート・ブルーム - スコットランドの医者、古生物学者。南アフリカで「プレス夫人」の発見を導いた。
モンドボー公ジェームズ・バーネット - イギリスの裁判官で、今日では比較歴史言語学の創始者としてもっともよく知られている。
レイモンド・ダート - オーストラリアの解剖学者、古人類学者。南アフリカのタウングでアウストラロピテクスを発見した。
チャールズ・ダーウィン - 進化的変化を通して種が誕生することの重要な証拠を提示したイギリスの博物学者。
アリスター・ハーディ - イギリスの海洋生物学者。水棲人類仮説を提唱した初期の一人。
ヘンリー・マクヘンリー - 人類の進化、特に二足歩行の起源を専門とするアメリカの人類学者、古人類学者。
ルイス・リーキー - アフリカの考古学者、古人類学者。アフリカにおける人類の進化的発達を立証するのに重要な役割を果たした。
メアリ・リーキー - イギリスの考古学者、人類学者。アフリカで発掘を行い、ラエトリ遺跡などを発見した。
w:Svante Pääbo - スウェーデンの進化遺伝学者。ネアンデルタール人のDNAの分析などを行っている。
ジェフリー・シュワルツ - アメリカの形質人類学と生物人類学教授。
クリス・ストリンガー - 人類学者。アフリカ単一起源説の主要な支持者。
アラン・テンプルトン - 遺伝学者、統計学者。多地域進化説の支持者。
フィリップ・トバイアス - 南アフリカの古人類学者で人類の進化研究の世界的権威の一人。
エリク・トリンカウス - アメリカの古人類学者。専門はネアンデルタール人とホモ・サピエンスの進化。
ミルフォード・ウォルポフ - アメリカの古人類学者。多地域進化説の主要な支持者。
ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァ - イタリア人の言語・生物学者。ヒトの拡散を生物学的側面だけではなく、文明・文化的側面からもアプローチし、その整合性を指摘した。
スペンサー・ウェルズ博士 - アメリカの分子生物学者・人類遺伝学者。全世界のあらゆる地域、あらゆる民族の遺伝子データを集め、人類の進化と拡散の過程を明らかにしていくことを目標としたジェノグラフィック・プロジェクトの総指揮者。
種リスト[編集]
ヒト属に属する種はヒト属#分類を参照のこと。