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2014年02月11日

ハム (聖書)

ハムは、旧約聖書創世記に出てくる物語ノアの方舟のノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテの一人。この三人から世界中の人々が生まれたとされ、アフリカを中心とする人類の先祖の一人と言われる。

ハムの息子にクシュ、ミツライム、プシュ、カナンがいる。
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アムル人

アムル人(英: Amorite)とは、主に紀元前2000年期前半に中東各地で権力を握った諸部族の名称。アッカド語ではアムル(Amurrū)、シュメール語ではマルトゥ(mar.tu)と呼ばれる[1]。旧約聖書にはアモリ人もしくはエモリ人の名で登場し、彼らはハムの子であるカナンの子でありカナンの諸部族の一つとされる[2]。なお、アラム人と混同されることが多いが、全く別ものである。



目次 [非表示]
1 言語
2 歴史 2.1 起源
2.2 アムル系王朝の時代
2.3 アムル王国

3 アムルの父
4 アムル人の部族 4.1 ディドニム族
4.2 ハナ族
4.3 ヤミナ族
4.4 ラバユー族

5 出典
6 参考文献


言語[編集]

アムル語(英語版)はアフロ・アジア語族の北西セム語に分類される[3]。

彼らはウル第3王朝の後継者という意識を強く持ち、シュメール的な宗教観・王権観を強く受け継いだ。そのためアムル人によって建てられたイシン第1王朝などでは碑文や法典などほぼ全てがシュメール語によって書かれた。その後も彼らは行政語その他にほぼシュメール語やアッカド語を用いたため、アムル語の記録はあまり残されていない。

歴史[編集]

起源[編集]

アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名であり、そこから二次的に西の方角をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになった[1]。それが転じ、メソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになったとされる[4]。

アムル系と見られる人名はウル第3王朝時代から記録に登場し、傭兵等様々な形でメソポタミア社会に入り込んでいた。ウル第3王朝の後半には多数のアムル人が都市部を含むメソポタミア周辺地域へと定住していき、同王朝は度重なるアムル系部族の侵入に対して城壁の建造や撃退のための遠征を行っている[5][6]。シュメール人達の記録にはしばしば野蛮人として記録される。あるシュメール語の碑文には以下のように記述される。
マルトゥの手は破壊的であり、その特徴は猿のものである。…敬意を表す事を知らず、神殿を憎悪する…麦を知らず、家も町も知らぬ山の住人であり、神域の丘でキノコを掘り起こし、膝を曲げること(耕作)を知らず、生涯家に住むこともなく、死者を埋葬する事も知らない。…
彼らとの戦いはウル第3王朝衰退の一因ともなったが[7]、一方で傭兵や労働者、更には役人としてメソポタミア全域に浸透していった。ウル第3王朝の末期にはウルの上級の役人にもアムル人が採用されていた。紀元前2千年紀に入ると、メソポタミア各地でアムル系の王朝が成立した。

アムル系王朝の時代[編集]

ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝はいずれもアムル系の人々によって成立した。ただし、アムル人が統一した政治集団として活動を起こしたわけではない。彼らは互いに覇権を争う競合関係にあった[8]。

アムル人が具体的にどのような経過を辿って権力を握ったのかについて正確にわかる事は少ない。確実にいえる事は、ウル第3王朝の滅亡以後、メソポタミアで権力を握ったほとんど全ての王達がアムル系であった事である[9]。アムル人の中でも有名な人物にはアッシリアのシャムシ・アダド1世[5]やバビロンのハンムラビがおり、ハンムラビは自らを「アムルの王」と称した[9]。ハンムラビ法典で知られる「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理はアムル人の習俗から導入されたという説が有力である。

これらの王がアムル人より輩出されて以降もアムル人のメソポタミアへの流入は続きメソポタミアにおけるアムル人の割合は増加した。しかしながら、総じてアムル人の浸透はシュメール・アッカド以来の王権、宗教観に決定的な影響は与えず、むしろアムル人達はシュメール・アッカドの文明を受け入れ同化していく事になる[10]。バビロニアやアッシリアに移住したグループは紀元前17世紀頃までに現地人と同化してアムル系である事は意味を持たなくなった。しかし、シリア地方に残ったグループは紀元前12世紀頃まで記録に残っている。

アムル王国[編集]

紀元前15世紀末、レバノン北部に位置する歴史的シリア内部の山岳地域においてアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国された。遊牧民を主体とするアムル王国は海岸に位置する近隣諸都市からの逃亡者を受け入れることで軍を強化し、内陸部に位置する諸都市へと拡張した。アブディ・アシルタ死後の混乱期を越えて王国を取りまとめたアジル(英語版)の時代になると、アムル王国は当時超大国であったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となった。その後、紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたが、前1200年のカタストロフによるによる社会の混乱によってアムル人の独立国家は消滅した[11]。

アムルの父[編集]

各地で支配権を獲得したアムル人の族長達は「アムルの父」と言う称号を用いた。これはアムル人が元来、家父長権的な王権概念を持っていた事によって成立した称号と思われ、シュメール・アッカド式の王権概念を受け入れた後も長く称号の一つとして使用された。

アムル人の部族[編集]

ディドニム族[編集]

ウル第3王朝時代にたびたびアッカド地方に侵入した部族。同王朝が作った城壁にはこの部族の名前がつけられており、同王朝にとって当時の主要な外敵であったと考えられる。

ハナ族[編集]

マリ北西部を拠点としたこの部族は、メソポタミア各地でその勢力を振るった有力部族であり、ハンムラビやシャムシ・アダド1世の出身部族であった。シャムシ・アダド1世が編纂させたアッシリア王名表のうちアムル名を持つ王は、バビロン第1王朝の系譜と重複が著しいことが知られている。また、同じくハナ族出身のヤギド・リムとその子ヤフドゥン・リムはマリの支配権を確保し、その王位を得ていた。ヤフドゥン・リムはその称号の中に「ハナの地の王」を入れている。またアッシリアやマリでは彼らは宮廷の使用人や傭兵として動員されている。

ヤミナ族[編集]

ビヌ・ヤミナと呼ばれていたこの部族は複数部族の連合として成立した。ウル第3王朝の末期以降、メソポタミア全域やパレスチナ近辺など各地に移住して勢力を振るった。

ラバユー族[編集]

ヤミナ族と密接な関係を持っていたこの部族はシャムシ・アダド1世の時代、アッシリアの同盟者としてその遠征に参加した。

エブラ

エブラ(Ebla、アラビア語:إبلا) はシリア北部にある古代の都市国家の遺跡。アレッポの南西55kmに位置する。エブラは紀元前3千年紀後半、および紀元前2千年紀前半(紀元前1800年 - 紀元前1650年)の二つの時期の重要な都市国家だった。

遺跡のある場所は、現在テル・マルディーフ(Tell Mardikh)と呼ばれる遺丘(テル)で、紀元前2250年頃に遡る楔形文字の書かれた粘土板(Ebla tablets)が大量(15,000枚)に発見されたことで有名である。これらはシュメール語、およびここで初めて発見されたセム語派の言語・エブラ語(英語版)で書かれている。



目次 [非表示]
1 遺跡の概要
2 紀元前3千年紀のエブラ 2.1 経済
2.2 政治
2.3 宗教
2.4 アッカドによるエブラ破壊

3 紀元前2千年紀のエブラ
4 脚注
5 外部リンク


遺跡の概要[編集]





古代オリエントの地図




テル・マルディーフ(エブラ)遺跡の空中写真。城壁や門や中央のアクロポリスなどの発掘が進んでいる
1964年、パウロ・マッティエ(Paolo Matthiae)率いるイタリアのローマ・ラ・サピエンツァ大学の考古学調査チームがテル・マルディーフの発掘を開始した。1968年、調査チームは、エブラの王イビット・リム(Ibbit-Lim)の名が書かれた女神イシュタルの像を発見した。この発見により、この遺跡が古代エジプトの碑文やアッカド語文書で名前だけは知られていたが所在は不明だった都市エブラであることが分かった。その後の10年で、調査チームは紀元前2500年から紀元前2000年ごろの宮殿を発見した。

宮殿廃墟からは楔形文字の書かれた保存状態のよい粘土板15,000枚が見つかった[1]。80%はシュメール語だったが[2]、残りはかつて見つかったことのないセム語派の言語で書かれており、「エブラ語」と呼ばれることになった[3]。Pettinato と Dahood はこれを西セム語派の言語としているが、Gelb ほかはアッカド語に近い東セム語派と考えている[4]。

楔形文字の発達した地である南メソポタミアとエブラとの深い関係は、シュメール文化と、シュメールの文書に登場する紀元前3000年頃より前に既に存在したであろうセム系文化との関係にもつながっている。エブラ語の語彙のリストが粘土板とともに見つかっており、これにより翻訳することも可能となった。

粘土板が発見された建物は、今では宮殿付属の図書館(ライブラリ)ではなく(これはまだ発掘されていない)、食糧備蓄・捧げもの・裁判・外交・交易契約など記録を残すための文書庫(アーカイブ)、および徒弟たちが文書の写しを作る写字室とみられている。大きな粘土板がもともと木の棚に並べられていたが、宮殿が破壊されたときに粘土板文書も床に落ち、火災で焼き固まり、結果的に良い状態で保存された。粘土板が見つかった場所は粘土板が床に落とされた場所であり、これを手掛かりにもともと棚のどの位置にどの文書がしまわれていたかを再構成することが可能になった。そこから、粘土板はかつて主題ごとに分類されて保管されていたことが明らかになった。

エブラの文書庫では文書を木製棚に並べて保管していた。発見された文書の中には、書記の学習のためと思われるシュメール語の語彙を列記したリストの語彙文書がある。エブラ語の語彙と対応するシュメール語の語彙を併記した文書である。その他に、天地創造讃歌を記した文書も見つかっている。



天と地の主よ、大地はまだ存在しませんでした。

主がそれをもたらされたのです。

日光はまだ存在しませんでした。

主がそれをお創りになったのです。

曙はまだ存在しませんでした。

主がそれを創造されたのです。[5]

紀元前3千年紀のエブラ[編集]

「エブラ」は「白い岩」、すなわち町が建っている石灰岩の露頭を意味する。エブラは紀元前3000年から絶えず人の居住があると見られるが、国力は次第に増し、その絶頂を紀元前3千年紀後半、およそ紀元前2400年から紀元前2240年の間に迎えている。エブラの名は紀元前2300年ごろのアッカドの文書にも見られる。

エブラから見つかった粘土板のほとんどはこの時期のものであり、経済に関係するものが中心である。これら粘土板はエブラの住民の日常生活や、紀元前3千年紀半ばのシリア北部および中東の文化・経済・政治状況をよく伝えている。文章は国家の歳入に関するものが多いが、王の手紙、シュメール語・エブラ語辞書、学校の教科書、エブラと周辺他都市との間の条約などの外交文書もある。

エブラのもっとも強力だった王は紀元前2300年ごろのエブリウム(Ebrium)またはイブリウム(Ibrium)と呼ばれる人物で、周囲の諸都市を従え、アッシュールの王トゥディア(Tudia)との間で、エブラの管理していた貿易拠点をアッシュール商人にも使わせる条約を結んでいる。

この最盛期の5番目で最後の王がエブリウムの息子イッビ・スィピシュ(Ibbi-Sipish)で、エブラ最初の世襲君主であり、それまでの選挙王政(選挙で王を選びその任期は7年とする)というエブラの慣習を破るものだった。その専制政治は内乱につながり、最終的に衰退に至った可能性がある(またアッカドの帝王サルゴンやその孫ナラム・シンがエブラを征服していることから、彼らがエブラを破壊した可能性もある)。一方ではイッビ・スィピシュの治世は、王が何度も国外へ旅行をしていることからも、過度の繁栄の時期だったと考えられる。エブラとアレッポ双方の文書に、エブラが隣国アルミ(Armi、当時のアレッポの呼び名)と条約を結んだことが記されている。

経済[編集]





エブラのジッグラト




遺跡南部から発掘された遺構。後方は城壁跡と、「ダマスカス門」と仮称される門の遺構
当時、エブラは商業の重要な中心地であった。商売上の大きなライバルはマリで、エブラはマリの1回目の破壊に関与した疑いもある。エブラの貿易はメソポタミア(主にキシュ)向けのものとみられ、またエジプトとの交易があったこともカフラー王やペピ1世(英語版)(メリラー・ペピ)からの贈り物があったことから確認されている。

粘土板には、民が様々な家畜(ヒツジ、ヤギ、ウシ)を合計20万頭所有していたと記録されている。エブラの主な商品はおそらく周囲の山地(レバノンなど)から伐採した材木、および織物(ラガシュから発掘されたシュメール語の記録にも言及されている)であった。手工芸品もおもな輸出品だったとみられ、真珠貝を象眼した木製家具や色の異なる石を組み合わせて作った石像など、優美な加工品が遺跡から多く出土している。エブラの工芸技術は、後のアッカド帝国(紀元前2350年 - 紀元前2150年)に影響を与えた可能性もある。

政治[編集]

エブラの政治体制の詳細は不明だが、政府は商業エリートによって統治される寡頭制だったらしく、これら支配層が王を選挙で選び、防衛は傭兵に任せていた。粘土板を通じ、イグリシュ・ハラム(Igrish-Halam)、イルカブ・ダム(Irkab-Damu)、アル・エンヌム(Ar-Ennum)、イブリウム(Ibrium)、イッビ・スィピシュ(Ibbi-Sipish)といった王の名が判明した。イブリウムは伝統を破り絶対王政と世襲制を取り入れ息子イッビ・スィピシュを王とした。

宗教[編集]

セム系神話の神々がエブラの遺跡にも見られるが(ダゴン、イシュタル、レセフ、ハダド)、クラ(Kura)やニダクル(Nidakul)など未知の神や、エンキやニンキ(Ninki)などシュメール神話の神々、アシュタピ(Ashtapi)、ヘバト(Hebat)、イシャラ(Ishara)などフルリ人の神話の神々の名も見られる。

論争を呼んでいるペッティナート(Pettinato)の主張によれば、粘土板に書かれた神の名が「〜エル(*El)」から「〜ヤー(*Yah)」に変わっている部分が多くあるとされる(ミカエル Mika’el からミカヤ Mikaya への変化など)。これが神の名にヤー(Yah)を用いた最初の証拠で、これがヤハウェ(YHWH)に変わっていったと主張する者もある。ボテロ(Bottero)の主張のように、これがメソポタミアのエア神(EA)を受け入れる過程でエブラ語ではヤハ(YH)に変わったという説もある。一方で、問題の表記は正しくは「イア」(IA)と読まれるべきだという主張もある[6]。

旧約聖書の創世記に登場する名のうち、他の中東の遺跡からは見つかっていないがエブラ語ではほとんど同じ表記で登場するものもある。例えばアダム(a-da-mu、アダム)、ハワ(h’à-wa、イブ)、アバラマ(Abarama、アブラハム)、ビルハ、イシュマエル、イスラエル、エサウ、ミカエル、サウル、ダビデなどである。また聖書と同じ地名、例えばシナイ、イェルサルウム(Ye-ru-sa-lu-um、エルサレム)、ハツォール、ゲゼル、ドル、メギド、ヨッパなどである。ペッティナート(Pettinato)は、ソドムとゴモラに関する言及が見つかったとも主張している[7]。

アッカドによるエブラ破壊[編集]

アッカドの王サルゴンとその孫ナラム・シンはメソポタミアのほとんどを征服したが、二人とも自分がエブラを破壊したと書き記している。破壊された正確な時期についてはなお論争のさなかであるが、紀元前2240年は説の中でも可能性の高いものである。これ以後の3世紀の間、エブラは経済的な重要性を若干回復したが、以前の繁栄には及ばなかった。この時期、ニップルの近郊のドレヘム(Drehem)からの文書やヒッタイトのカネシュ(英語版)(Kanesh)からの文書にあるように、エブラは近隣の都市国家ウルシュ(Urshu)と結びつきを持っていた可能性もある。

紀元前2千年紀のエブラ[編集]

アッカド人による破壊から3世紀後の2000年ごろ、イビット・リム(英語版)(Ibbit-Lim)が最初の王に即位してエブラはかつての重要性の一部を取り戻した。この頃のエブラの住民はアムル人であり、紀元前1850年から第二の繁栄期を迎え、紀元前1750年ごろのアララハの文献にも言及がある。

紀元前1650年から1600年にかけての時期にヒッタイトの王(ムルシリ1世またはハットゥシリ1世)により再度破壊された。2度目の破壊からはエブラは立ち直れず、7世紀までは小さな村として存続したが、以後は考古学調査がなされるまで忘却された。

シリアの歴史

シリアの歴史を記す。この地域は世界的にも歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と支配者は変わった。近代には列強の争いの舞台となるなど、人類史の縮図といっていい。



目次 [非表示]
1 概史 1.1 先史
1.2 「肥沃な三日月地帯」
1.3 ギリシアとローマの支配
1.4 イスラム圏へ
1.5 トルコ系王朝
1.6 クルド系王朝
1.7 モンゴル帝国
1.8 マムルーク朝
1.9 オスマン帝国
1.10 OETA
1.11 フランス占領期
1.12 独立

2 関連項目


概史[編集]

先史[編集]





エブラ遺跡
詳細は「:en:Prehistory of the Southern Levant」および「エブラ」を参照

この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に氷河期が終わり、地球が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では麦による農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽があった。

「肥沃な三日月地帯」[編集]





古代中東地域の都市と諸勢力
紀元前3千年紀にはエブラ、キシュ、アブツァラリク、マリなど血縁によって結ばれたセム語都市文明圏が成立し、そのうちエブラは大麦、オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナ、エジプトまで交易が営まれていた。紀元前23世紀頃には王の道やウィア・マリスという通商交易路が使われていた。エブラは紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされる。

マリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850年アッシリア王のシャムシ・アダド1世がヤスマフ・アダドをマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年にはバビロニアのハンムラビに滅ぼされた。紀元前15世紀にミタンニ王国が成立。紀元前13世紀にはアッシリアがミタンニ王国を滅ぼした。

一方、海岸部ではフェニキア人の植民が展開された。海の民によりヒッタイトが滅亡するとアラム人の小国が乱立。その後はアッシリアがティグラト・ピレセル3世などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年アッシリアが統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族スキタイに押されて南下したキンメリア人の侵攻を受けた。その後、アッシリア最後の偉大な王とされるアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、ニネヴェ図書館と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管した。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つ。 だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは紀元前612年に新バビロニアとメディアの攻撃を受けて滅亡。そして新バビロニア、メディア、リディア、エジプトなどの強国が乱立するが、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がメソポタミア地域の統一、続くカンビュセス2世が古代エジプトを制圧し、ついに古代オリエント世界全域の支配に成功した。


ギリシアとローマの支配[編集]





ローマ帝国のシリア属州
アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国の征服を受けると、急速にギリシア化が進んだ。紀元前322年のディアドコイ戦争でアレクサンドロス帝国は分裂し、紀元前301年にセレウコス朝シリアが建国された。セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていたが、紀元前200年ころからアルサケス朝パルティア、グレコ・バクトリア王国の侵食を受け縮小。さらにポエニ戦争にかかわったことから古代ローマ(共和政ローマ)とローマ・シリア戦争などで交戦状態となって衰退してゆき、紀元前64年にローマ帝国に併合された。

詳細は「シリア属州」を参照

ローマ帝国の支配下ではパルミラなど諸都市が大いに栄えた。ローマ帝国が東西に分裂するとシリアは東ローマ帝国の版図に入る。

イスラム圏へ[編集]





ダマスカスのウマイヤド・モスク(7世紀)
詳細は「ウマイヤ朝」を参照

7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。ウマイヤ朝のもとではダマスカスが首都とされた。その後754年に樹立されたアッバース朝はバグダードを首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダードからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。その後10世紀にはファーティマ朝が支配するが、10世紀末の反抗運動により撤退した。

トルコ系王朝[編集]

その後中央アジアからトルコ系遊牧民が渡来し、セルジューク朝を樹立すると、シリアにはシリア・セルジューク朝が成立した。その頃ヨーロッパから十字軍が侵攻し激戦が展開され、アンティオキアを都に置くアンティオキア公国が建国された。1117年にシリア・セルジューク朝が滅亡すると、代わってアルトゥク朝が支配した。

クルド系王朝[編集]

1194年にはアイユーブ朝が取って代わった。

モンゴル帝国[編集]

1260年にフレグ率いるモンゴル人がこの地の征服を開始(モンゴルのシリア侵攻(英語版))。2月25日、アレッポ攻囲戦(英語版)。4月、ダマスカスを占領。9月3日、アイン・ジャールートの戦い。秋、イル汗国を建国。12月10日、en:First Battle of Homs。

1262年、ベルケ・フレグ戦争(英語版)

1277年、en:Battle of Elbistan。1281年、en:Second Battle of Homs。1299年、en:Battle of Wadi al-Khazandar。1303年、en:Battle of Marj al-Saffar (1303)。

マムルーク朝[編集]

その後シリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受けることになった。

オスマン帝国[編集]

北方でオスマン帝国が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった(ダマスカス・エヤレト(英語版)、1517–1865)。

ダマスカス・エヤレトは、アレッポ・エヤレト(英語版)(1534–1864)、トリポリ・エヤレト(英語版)(1579–1864)、シドン・エヤレト(英語版)(1660–1864)、シリア・エヤレト(英語版)(1865–1918)の4つに分割された。

OETA[編集]

詳細は「:en:Occupied Enemy Territory Administration」を参照

1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。

[icon] この節の加筆が望まれています。

フランス占領期[編集]

詳細は「フランス委任統治領シリア」を参照





フランス委任統治領シリア
1920年3月8日、シリア・アラブ王国(英語版)の独立はハーシム家のファイサル1世が国王に即位することで達成された。 しかし、フランス・シリア戦争(英語版)(en:Battle of Tel Hai、マイサラムの戦い(英語版)、en:Siege of Damascus (1920))におけるシリア・アラブ軍(英語版)とフランス軍との間の衝突すると、7月24日にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後にイラク王国の王になる。 国際連盟がシリアをフランスの委任統治下においたのち、フランス軍はシリアを占領した(フランス委任統治領シリア、1920年-1946年)。その後、フランス委任統治領シリアは、en:State of Damascus、en:State of Aleppo、en:Alawite State、en:Jabal Druze State、en:Sanjak of Alexandretta、大レバノンに分割・統治された。

フランスとシリアはフランス・シリア独立条約(英語版)を1936年9月に交渉した、ファイサル王政下のシリア首相、ハーシム・アル=アタースィー(英語版)は新政権下での新しい大統領に選ばれ、その結果、近代最初のシリア共和国(英語版)が樹立された。 しかし。フランスは条約を reneged し、それを ratify するために拒否した。第2次世界大戦時、1940年のフランス陥落により、シリアは、1941年7月にイギリス軍と自由フランス軍に占領されるまでヴィシー政権の統治下におかれた。 シリアは1941年にその独立を宣言した。しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは1944年の7月のことであった。1945年2月、シリアはドイツと日本に宣戦布告をした。シリアの民族主義者グループからのプレッシャーの継続および英国からの圧力は、1946年4月にフランスをして同国軍を撤退せしめ、委任統治時、結成された共和国政府が掌握した国家が遺された。

歴史的シリア

歴史的シリア(れきしてきシリア)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。

考古学によれば歴史的シリアは人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はアナトリア、東はイラクに及ぶアッカドが広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。

時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって支配された。歴史的シリアはまた宗教にとって重要な役割を果たした。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の拠点として繁栄した。

第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体され、1922年国際連盟において、シリアをイギリスとフランスの二国が分割、支配することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を奪い、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを奪った。

フランスが植民地に組み込んだ地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。フランス植民地時代にアンティオキア(現・アンタキヤ)周辺の北西地域はトルコに割譲され、現在ではトルコのハタイ県となっているが、この地域も歴史的シリアの一部である。

肥沃な三日月地帯

肥沃な三日月地帯(ひよくなみかづきちたい、Fertile Crescent)とは、古代オリエント史の文脈において多用される歴史地理的な概念である、その範囲はペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへと到る半円形の地域である。

肥沃な三日月地帯という用語が初めて用いられたのは1916年のことである。当時シカゴ大学のエジプト学者であったジェームズ・ヘンリー・ブレステッド(James Henry Breasted)が、著作『古代』の中で初めて使用した。以後多くの学者によって古代オリエントの中心地を指す用語として用いられるようになった。

現代においても古代オリエントの地理を説明する文脈では多用される用語であるが、その範囲に厳密な定義があるわけではなく、また範囲内の気候やそれに合わせた農業体系、文化も必ずしも同質ではない。むしろ周辺の砂漠地帯に対する大河地帯の特性を強調した用語といえる。

この地域は、メソポタミア、古代エジプトといった多くの古代文明が栄え、後々まで中東の中心であった。

今日、肥沃な三日月地帯に含まれる主要な国は、イラク、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナであり、それにエジプトを含むこともある。また、東南トルコ、西北ヨルダン、西南イランも含まれる。

アドーニス

アドーニス (古希: Ἄδωνις, ラテン文字表記:Adōnis) は、ギリシア神話に登場する、美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年。フェニキアの王キニュラースとその王女のミュラーの息子。長母音を省略してアドニスとも表記される。

キニュラースの家系は代々、アプロディーテーを信仰していた。しかし、王女ミュラーはとても美しく、一族の誰かが「ミュラーは女神アプロディーテーよりも美しい」と言ってしまった。これを聞いたアプロディーテーは激怒し、ミュラーが実の父であるキニュラースに恋するように仕向けた。父親を愛してしまい、思い悩んだミュラーは、自分の乳母に気持ちを打ち明けた。 彼女を哀れんだ乳母は、祭りの夜に二人を引き合わせた。顔を隠した女性が、まさか自分の娘だとは知らないキニュラースは、彼女と一夜を共にした。しかし、その後、明かりの下で彼女の顔を見たキニュラースは、それが自分の娘のミュラーだと知ってしまった。怒った彼は、ミュラーを殺そうとした。しかし、彼女は逃げのび、アラビアまで逃げていった。 彼女を哀れに思った神々は、ミュラーをミルラ(没薬)の木に変えた。やがて、その木に猪がぶつかり、木は裂け、その中からアドーニスが生まれた。そのアドーニスにアプロディーテーが恋をした。やがてアプロディーテーは赤ん坊のアドーニスを箱の中に入れると、冥府の王ハーデースの妻で、冥府の女王のペルセポネーの所に預けた。彼女はペルセポネーに、けっして箱の中を見るなと注意しておいた。しかし、ペルセポネーは好奇心に負け、箱を開けてしまった。すると、その中には美しい男の赤ん坊のアドーニスが入れられていて、彼を見たペルセポネーもアドーニスに恋してしまった。こうしてアドーニスはしばらくペルセポネーが養育することになった。





ティツィアーノ・ヴェチェッリオによるヴィーナスとアドーニス
アドーニスが少年に成長し、アプロディーテーが迎えにやって来た。しかし、ペルセポネーはアドーニスを渡したくなくなっていた。2人の女神は争いになり、ついに天界の裁判所に審判を委ねることにした。その結果、1年の3分の1はアドーニスはアプロディーテーと過ごし、3分の1はペルセポネーと過ごし、残りの3分の1はアドーニス自身の自由にさせるということとなった。 しかし、アドーニスは自分の自由になる期間も、アプロディーテーと共に過ごすことを望んだ。ペルセポネーは、アドニースのこの態度に、大いに不満だった。 アドーニスは狩りが好きで、毎日狩りに熱中していた。アプロディーテはー狩りは危険だから止めるようにといつも言っていたが、アドーニスはこれを聞き入れなかった。アドーニスが自分よりもアプロディーテーを選んだことが気に入らなかったペルセポネーは、アプロディーテーの恋人である軍神アレースに、「あなたの恋人は、あなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている」と告げ口をした。これに腹を立てたアレースは、アドーニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼を殺してしまった。 アプロディーテーはアドーニスの死を、大変に悲しんだ。やがてアドーニスの流した血から、アネモネの花が咲いた。

アドーニスという名はセム語起源で、元はビュブロスにおいて信仰されていたフェニキア神話の植物の神だった。また、旧約聖書のアドナイ(ヤハウェの呼び名「主」)と関係があるとされる。また「アドーニス」の語は「美少年」の代名詞としても使われる。

イサク

イサク(英語: Isaac アイザック、ヘブライ語: יִצְחָק‎ (yits-khawk' イツハク)、古典ギリシア語: Ισαάκ (Isaak)、アラビア語: اسحاق‎ (ʾIsḥāq イスハーク)、「彼は笑う」の意)は、旧約聖書の『創世記』に登場する太祖の一人。父アブラハム、母サラ。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 出生・幼少期
1.2 子孫・死去

2 イサクとイシュマエル


概要[編集]

出生・幼少期[編集]

アブラハムの妻サラは不妊の女であり、子を産まぬまま年老いていたが、神はサラに子供が出来ると知らせた。アブラハムはひれ伏したものの、九十歳のサラに子供は出来ないだろうと笑う。だが神は出来ると断言し、イサク(彼は笑う)と名づけよと言った。その言葉のとおりサラから子供が生まれ、アブラハムは神が言われたとおりイサクと名づける。それからしばらく後、神はアブラハムの信仰を試そうとしてイサクを焼き尽くすささげものとして供えるよう求めた。アブラハムはこれに従った。イサクも直前になって自分が犠牲であることを悟ったが抗わなかった。アブラハムがまさに息子を屠ろうとした時、神はアブラハムの信仰の確かさを知ってこれを止めた(イサクの燔祭)。

神はアブラハムを祝福して言った。



あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。(中略)地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

− 『創世記』22:17〜18

子孫・死去[編集]

イサクはカナンの女性リベカと結婚し、エサウとヤコブという双子の兄弟をもうけた。ヤコブは弟ながらエサウの受けるはずだった長子の祝福を横取りし、兄の怒りを恐れて伯父のラバンの元に身を寄せる。

やがて、ヤコブはエサウと和解して父イサクと再会した。ヘブロンにいたイサクは180歳でこの世を去った。

イサクとイシュマエル[編集]

イサクが生まれる前、出産をあきらめていたサラは、エジプト人奴隷のハガルによってアブラハムにイシュマエルをもうけさせていた。ところが、ハガルは増長して主人のサラを軽視するようになり、サラの腹から生まれたイサクをイシュマエルがからかっている光景をサラが目にしたことから、サラはアブラハムに母子を追い出すよう迫る。アブラハムは神の「心配せず妻の言う通りにせよ(取意)」とのお告げを受けてこの母子を追い出す。母子は放浪のあげく、泉を見つけて安堵する。この系列はイシュマエル人としてヘブライ人(ユダヤ人)とは別の民族になったとして、旧約にも登場する(ヨセフをエジプトへ連行したのもイシュマエル人の隊商である)。のちに、アラブ人はこのイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、アラブ人が開いたイスラム教ではイサクよりもイシュマエルが重視される。

ヘブライズムを前面に押し出す作曲家の一人であるスティーブ・ライヒはこの物語の神学的問題をパレスチナ問題と絡ませて「ザ・ケイヴ」というビデオ・オペラにしている。この物語はしばしば「ユダヤとアラブの宿命の対決」の起点として持ち出されるが、あくまで神話的な伝承に過ぎず、ユダヤ人・ユダヤ教徒とアラブ人・イスラム教徒が常に対立していたわけではないことにも注意すべきである。

王の道 (パレスチナ)

王の道(おうのみち)はヨルダン川の谷と死海の東を南北に走り、エジプトとメソポタミアを結ぶ幹線道路で、アカバ湾岸のエラテからディボン、ヘシュボン、ラバテ・アンモン、ラモテ・ギルアデ、アシュタロテなどの町をへてダマスコに至る道。旧約聖書にも登場する。

王の道の周辺には、青銅器時代からすでに住居や要塞が発見されているので、この道路は前23世紀から20世紀の間には使用されていたと考えられる。

創世記14章でケドルラオメルと彼にくみした5人の王と戦った時に、王の道を通ってきたと考えられる。モーセを指導者としてエジプトを出たイスラエル民族は、エドムの王とエモリ人の王シホンに彼らの領土を通ることを申請して拒絶された。この時、イスラエル民族はシホンと戦い、その地を占領した。

ソロモン王の治世においては、アカバ湾岸のエツヨン・ゲベル(エラテ)とユダとアラム(シリヤ)を結ぶ重要な交易道路であった。

参考文献[編集]
『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年

エドム

エドムはパレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域で、一般に「エドムの地」と言われる。エドムの範囲は、北は死海、南は葦の海(紅海)に至る山地で、北はセレデ川の境界にモアブと接していた。エドム人は後にヘレニズム文化でギリシア語化し、イドマヤ人と呼ばれるようになった。

「エドムの地」とは、イサクの子エサウが住んだ地を意味する。「セイルの地」「セイル山」とも呼ばれているが、「セイル」は「毛皮のよう」つまりエサウの身体の状態を表す言葉から来ているという説がある。

出エジプトの後に、エドムの西の境界の町としてカデシュ (en) をあげている。ホル山もエドムにある。

ヨシュアの領土分割相続の時にユダ族の南の境界は、ツィンの荒野で、エドムとの国境であった。

エドムの地には、アカバ湾からシリヤ・メソポタミヤに通じる王の道があり、エジプトとアラビアを結び交通の要路があったので、農耕、通商、貿易による巨額の収益があった。
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