2014年02月11日
ナイル川
ナイル川(アラビア語: النيل (an-nīl)、英語: the Nile、フランス語: le Nil)は、アフリカ大陸東北部を流れ地中海に注ぐ世界最長級の河川である。長さは6,650km、流域面積は2,870,000km2にのぼる。
目次 [非表示]
1 概要
2 水文
3 地史
4 歴史 4.1 ナイル川源流の探索
4.2 植民地化
5 開発
6 河川交通
7 支流
8 脚注
9 関連項目
概要[編集]
ナイル川
ナイル川上流部
ハルツーム郊外での白ナイル川と青ナイル川の合流
ナイル川流域図
一般にはヴィクトリア湖が源流だと思われているが、ヴィクトリア湖には多数の流入河川が存在し、一方でヴィクトリア湖からの流出河川はナイル川しか存在しないため、ヴィクトリア湖をナイル川水系に含み、そこに流れ込む河川の長さもナイル川の長さに加算するのが普通である。ヴィクトリア湖に流れ込む河川のうちで最大最長のものは、ルワンダに源を持ち、ルワンダとブルンジやタンザニアの国境をなし、さらにタンザニアとウガンダの国境をなした後タンザニアのブコバ市北方でヴィクトリア湖に流れ込むカゲラ川である。そのカゲラ川の支流のうちでもっとも長いものは、ブルンジ南部のブルリ県を水源とするルヴィロンザ川(Ruvyironza)であり、これがナイル川の最上流であるとされる。
ヴィクトリア湖(標高1134m)は赤道直下のサバナ気候であり、降水量も多い。ヴィクトリア湖から下流はヴィクトリアナイルとも呼ばれる。ヴィクトリア湖からのナイル川の流出口は湖北部のジンジャであり、流出口には記念碑が建てられているほか、オーエン・フォールズ・ダムが建設され、発電をおこなっている。ヴィクトリア湖から約500km下流に行くとキオガ湖を経て、120mの高さのあるマーチソン・フォールズをとおり、アルバート湖(標高619m)に着く[1]。アルバート湖には、ほかにもウガンダ南西部のジョージ湖からカジンガ水路、エドワード湖を通って流れてきたセムリキ川が注いでいる。アルバート湖からはアルバートナイルとも呼ばれる。南スーダンに入り、急流を一つ越えると首都ジュバである。ジュバからは勾配が非常に緩やかとなり、少し北のモンガラ市周辺からはスッドの影響を受けるようになる。支流のバハル・エル=ガザル川(Bahr el Ghazal)とノ湖で合流し、そこからは白ナイル川とよばれる。このあたりはスッドと呼ばれる大湿原となっており、ここで蒸発して流量が激減する。帆船時代はここは複雑な流路と生い茂る水草によって南北の交通を阻む障壁となってきたが、蒸気船の登場以後は航路が設定されるようになった。さらに、スッドの出口であるマラカル市の南でソバト川を合わせる。マラカルからハルツームまでの800kmの標高差は12mにすぎず、非常に緩やかな流れとなる[2]。
白ナイル川はスーダンのハルツームで、エチオピアのタナ湖から流れてくる青ナイル川と合流する。ハルツームを過ぎて80kmほどで、ナイル川には再び急流が出現する。これは北から数えて6番目の急流のため、第6急流と呼ばれる。ここからエジプトのアスワンまでの間にある6つの急流は、エジプトとスーダンの間の舟運を拒み、交通の障害となってきた。しかし、この急流の区間は古くからエジプトの影響を受け、ヌビアと呼ばれて独自の古代王国を築いていた。第6急流の北、200kmほどのところには古代のクシュ王国の都であったメロエ(Meroë)がある。さらにその北、ハルツームから約300km下流のアトバラで支流のアトバラ川と合流する。これ以北は完全な砂漠気候であり、ナイル河谷を除いてほとんど人は住まなくなる。また、これ以北ではナイルに注ぎ込む常時水流のある支流は存在せず、わずかに降水時に水の流れるワジが点在するのみとなる。第4急流付近には、メロエ以前にクシュの首都であったナパタ(ゲベル・バルカル)がある。この付近に2009年メロウェダム(Merowe Dam)が完成し、大規模な発電を開始した。エジプトに入ると、アスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖がある。ナセル湖の長さは550kmに及び、その南端はスーダン最北の町ワジハルファを越えさらに南まで延びている。アスワン以北は古くからの「エジプト」であり、幅5kmほどのナイル河谷に人が集住するようになる。アスワンからカイロまでは上エジプトと呼ばれる。この区間ではナイル川はほぼ一本の河川であるが、北西へと流れる支流があり、カイロ南西にファイユーム・オアシスを作ってカルーン湖に注ぎ込む。それからさらに北へ流れ、カイロから北は三角州が発達している。ナイル川三角州は下エジプトとも呼ばれる。三角州はアレクサンドリアからポートサイドまで約240kmの幅を持ち、東のロゼッタ支流と西のダミエッタ支流という二つの主流と多くの分流に別れ、地中海に注いでいる。
水文[編集]
最上流のルスモ滝付近で合流するルブブ川とカゲラ川
タナ湖より流れ出す青ナイル川
世界主要河川の比較
アマゾン川
ナイル川
ミシシッピ川
長江
ヴォルガ川
コンゴ川
長さ(km) 7,025 6,671 3,779 6,300 3,700 4,700
流域面積
(100万km2) 7,0 2,9 3,2 1,8 1,3 3,7
平均流量
(1000m3/s.) 209 2-3 18 32 8 41
上流のアルバート湖付近のアルバート・ナイル川の流量は約1,048立方メートル/秒であり、一年を通じて大きな変化は無い。南スーダンのサッド湿地においては蒸発散により、流量が大きく減少し約510立方メートル/秒となる。サッド湿地を下り、ソバト川と合流する。ソバト川はエチオピア高原に源流を持つため流量の変化が大きく、増水期の3月には約680立方メートル/秒であり、渇水期の8月には約99立方メートル/秒となる。増水期には浮遊物が多く、これがナイル川に流れ込み、白ナイルの語源となっている。ソバト川の影響により、合流点付近の白ナイル川の流量も約609立方メートル/秒から約1,218立方メートル/秒の範囲で変化している。
その後、ハルツームで青ナイル川を、アトバラでアトバラ川と合流する。アトバラより下流では、砂漠気候の中を流れ、大規模な河川の合流は無い。この地方のナイル川は、乾燥地帯を流下するために蒸発散による影響を大きく受ける。1月から6月にかけての乾季の間、青ナイル川の流量は約113立方メートル/秒であり、ナイル川の流量のうち、白ナイル川からのものが7割から9割をしめる。アトバラ川は雨季以外ほとんど流量は無い。
アトバラ川も青ナイル川もエチオピア高原に源流を持つため、高原の雨季には両河川の流量は大きく増大する。特に青ナイル川の流量増大は非常に大きなもので、8月の青ナイル川流量は約5,600立方メートル/秒以上となり、ナイル川の流量のうち8割から9割をしめる。また、特に青ナイルは標高1800mのタナ湖から短い距離の間に急激に高度を下げるため、河床を侵食し大量の堆積物を下流にもたらす。この土は肥沃であり、洪水時に堆積するエジプトにおいて長い間富をもたらしてきた。アスワン・ハイ・ダム建設以前のエジプト・アスワンにおける流量比は渇水期と増水期で15倍に達した。1971年のダム建設後は、ダム下流のエジプトにおいて一年間の流量変化はほとんどなく、年間通じて同じ水量が流れている。
地史[編集]
ナイル川は、エチオピア高原が隆起してきた白亜紀以降に形成されたと考えられている。中新世以降、その状況は5つの時期に分類される。中新世の頃のものは古ナイル(Eonile)と呼ばれ、侵食系であった。その頃は地中海海盆は干上がっており、この盆地に向けて峡谷が形成されたものと思われている。古ナイルによって形成された峡谷は埋積され、現在ではそれらの領域の一部にガス田が見られる。現在のナイル川となったのは更新世末期のことである。[3]12500年前には最終氷期の終わった影響によってヴィクトリア湖の水位が急激に上昇し、それまで閉鎖湖だったものが北のナイル川水系へとあふれ出した[4]。このときに、ヴィクトリア湖は現在のナイル川水系に接続された。
歴史[編集]
ナイル川を指すヒエログリフ。発音はIteruである
メロエのピラミッド上空写真
紀元前6世紀ごろアナクシマンドロスの世界地図の再現
紀元前450年ごろ、ヘロドトスの世界地図の再現
1500年ごろのピーリー・レイースの地図におけるナイル川
ナイル川流域、特に下流のエジプトは、世界で最も古い文明の興った土地として知られている。エジプト語では大きな川という意味のIteruと呼ばれた。紀元前3800年ごろにはすでに古代エジプト文明が成立しており、紀元前3150年ごろには統一国家を形成してエジプト古王国となり、以後も肥沃なナイル川流域を基盤として独自の文明を築いた。その南にひろがるヌビアにおいても、エジプト文明の影響を受ける形で王国が形成され、紀元前2200年頃にはクシュ王国が建国された。クシュはエジプト新王国のトトメス1世によって滅ぼされるものの、紀元前900年ごろ、ナイル第4急流のそばにあるナパタ(ゲベル・バルカル)において再興し、紀元前747年には逆に第3中間期のエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を建設した。50年後にアッシリアのアッシュールバニパルに敗れ第25王朝はエジプト支配を失うが、ナパタの王朝はそのまま存続し、紀元前6世紀頃に南のメロエへ遷都したのちも長く栄えた。メロエは鉄鉱石と樹木が豊富であり、さかんに製鉄が行われた。
やがて下流のエジプトはペルシア帝国に支配され、アレクサンドロス帝国に支配された後、ギリシア系のプトレマイオス朝のもとで独立を回復したが、紀元前30年、クレオパトラ7世の時代にアクティウムの海戦によってローマ帝国に支配され独立を失い、皇帝直轄地アエギュプトゥスとなった。しかしヌビアの独立はこの時代も保たれた。メロエの王国が滅ぼされたのは350年ごろ、エチオピア北部を本拠とするアクスム王国によってとされているが、異説もある。メロエ滅亡後、ヌビアは北のノバティア、ドンゴラを首都とする中部のマクリア、ハルツーム周辺を本拠とする南のアロディアの3王国に分かれた。このころ、395年にはローマ帝国は東西に分裂し、エジプトは東ローマ帝国領となった。4世紀から5世紀にかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教が受け入れられるが、639年のイスラム帝国の侵攻によってエジプトは征服され、以後イスラム化した。ヌビアではキリスト教王国がその後も長く命脈を保ったものの、北のイスラム勢力からの圧力によって徐々に弱体化し、最後まで残ったアロディアも14世紀ごろには滅亡して、イスラム教徒によるフンジ王国などが立てられた。19世紀に入るとエジプトでオスマン帝国から半独立の王朝を作り上げたムハンマド・アリーがヌビアへと侵攻し、フンジ王国を滅ぼし、さらにその南に居住するヌエル人やディンカ人、シルック人を征服して、現在のスーダンの版図にいたる中流域をエジプトの支配下に組み入れた。イスマーイール・パシャの時代にはさらに南下し、1869年にはスーダン南端のゴンドコロ(現在のジュバ)まで進出して赤道州を設置し、1874年にはチャールズ・ゴードンを初代総督に任命してウガンダ方面への進出を図った。
いっぽう、上流域においては難所や急流によって中下流域とは断絶され、ほとんど関係のない歴史を歩んだ。15世紀ごろにはヴィクトリア湖畔に領域国家が出現し、19世紀にはいるとモンバサなどのインド洋沿岸のスワヒリ文化圏からのキャラバン・ルートが上流域に到達して、ブニョロ王国やブガンダ王国などがインド洋のアラブ人交易圏と遠距離交易を行いながら繁栄した。
ナイル川源流の探索[編集]
ナイル川源流を探ることは古代より行われていた。しかし、サッド湿地などの航路の難所を越えることができず、源流は不明のままであった。古代の地理学者もナイルの源については知らず、さまざまな推測によって地図を描くよりほかはなかった。紀元前5世紀のヘロドトスはナイル川は西アフリカから東進した後北上してエジプトに流れ込むと考えていた。1世紀にはギリシアのディオゲネスという船乗りがインド洋交易の帰途に東アフリカの海岸から内陸部に入り込み、25日間ナイルの源流を求めて奥地へ旅をしたとされる。彼の報告に基づき、2世紀の地理学者クラウディオス・プトレマイオスは、「月の山」とそのふもとの2つの湖がナイル川の水源であると考えた。アラブ人もナイルの源流については知らず、1355年に出版されたイブン・バットゥータの著書『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』でもニジェール川をナイルと記し、ニジェール川はナイル川の支流であると考えていた記載がある[5]。16世紀ごろからエチオピアとヨーロッパとの交流が始まるにしたがって青ナイル周辺の地理は判明し始め、1615年にはポルトガルのイエズス会の修道士であるペドロ・パエスがタナ湖を発見している。1770年にはスコットランド人の探検家ジェームズ・ブルースが探検を行い、彼によって青ナイル川の源流がタナ湖であることがヨーロッパ人にも知られるようになったが、白ナイル川については不明のままであった。
19世紀初頭には北のエジプトの総督がスーダン進出と同時にナイル川の源流探査を行い、1842年にはゴンドコロまで達したものの、その南までは進めなかった。19世紀中盤に入るとヨーロッパ人のアフリカ探検が盛んになり、ナイル源流の探索もその主要なテーマの一つとなった。1858年にイギリス人の探検家ジョン・ハニング・スピークがヴィクトリア湖を発見した。彼は、リチャード・フランシス・バートンとともにナイル川の水源を探す探検を行い、まず二人でタンガニーカ湖を発見した。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、1858年8月3日、ムワンザでヴィクトリア湖を「発見」した。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、スピークの探検では、湖がナイル川の水源である事は確認できななかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した[6]。この論争に決着をつけるべくスピークは1860年9月よりジェームズ・オーガスタス・グラントとともにザンジバルを出発して再び探検を行い、1862年7月28日、ヴィクトリア湖北岸のジンジャから大きな川が北へと流れ出していることを確認した[7]。スピークはこの流出地点にある滝をリポン滝と名づけ、これで謎は解明されたと考えて帰路に着いたが、しかし、この探検でも謎は残ったままで、論争はさらに続いた。1864年9月には両者の討論会が予定されていたが、その前日にスピークは銃の暴発事故で死亡してしまう。この死には不明な部分が多く、さらに論争の一方の当事者が死去してしまったことからナイル源流論争はさらに混乱した。その上、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻が1864年3月14日にアルバート湖を発見し、1866年にその結果を発表したため、混乱は頂点に達した。
この論争を受けて、デイヴィッド・リヴィングストンがこの地域を探検したが、彼はベーカーよりもさらに南、ルアラバ川とその源流のザンビアにあるバングウェウル湖がナイルの源流であると考え、探査を行った。この探検の途中でリヴィングストンはヨーロッパとの連絡が一時途絶え、アメリカの新聞が派遣したヘンリー・モートン・スタンリーとウジジの村で邂逅するなど困難を重ねたが、源流の確定には至らず客死した。その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーは1875年、リポン滝を確認した後で湖を周遊し、これによってヴィクトリア湖がナイル川の源流であると確定された[8]。その後も、ヴィクトリア湖に流れ込む川の探検が続けられており、カゲラ川やその支流のルヴィロンザ川やなどが源流とされるようになってきている。真の源流の探索は21世紀に入っても続けられており、2006年にもブラジルとニュージーランドの探検家が新しい源流を発見している。
植民地化[編集]
ナイル川の源流がほぼ確定されると、イギリスをはじめとするヨーロッパ列強がこの地域に食指を伸ばし始めた。とくに最下流のエジプトに強力な利害を持つイギリスが熱心であった。もしナイル上流がほかの列強によって支配された場合、ナイルの水に頼っているエジプトが甚大な被害をこうむる可能性があったからである。こうした中、エジプトの圧政に耐えかねた人々の中からモスリムのシャイフであるムハンマド・アフマドが立ち上がり、1881年にマフディー戦争を起こす。1882年にエジプトを保護国化したイギリスはチャールズ・ゴードンを派遣したが1885年にハルツームが陥落し、ゴードンも殺害されて、マフディー国家はほぼ現在のスーダンの領域まで領土を拡大させ、イギリスは一時スーダンからの撤退を余儀なくされた。しかし、その南方にあるエジプト最南端の赤道州には総督エミン・パシャが残留しており、孤立しながら何とか独立を保っていた。このエミン・パシャの扱いが、のちにイギリスとドイツの間の争点となることとなった。エミン・パシャは本名をシュニッツァーというドイツ人であり、彼を救出すると称してイギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣したのである。この救出作戦はヘンリー・モートン・スタンリー率いるイギリス隊に軍配が上がり、1889年にエミン・パシャは「救出」されて赤道州政府は滅亡した。これに対して出遅れたドイツ隊はブガンダ王国と友好条約を締結するなどしてこの地域に進出を図ったが、結局1890年8月10日、ヘルゴランド=ザンジバル条約により南緯1度の線に両国の境界線が引かれ、ナイル上流域はすべてイギリスの勢力範囲となった。これに基づいて、ナイル最上流にあたるヴィクトリア湖周辺にもイギリスの触手が伸びた。ブガンダ王国やブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といった国々と条約を締結し、1894年にはウガンダ保護領が成立した[9]。
このころ、アフリカ最南端のケープ植民地首相に就任したセシル・ローズはカイロからケープタウンまでの鉄道(ケープ・カイロ鉄道)と電信を敷設する政策を提唱し、アフリカをイギリス植民地で南北に縦断させるアフリカ縦断政策が3C政策の一環としてイギリス政府によって採られるようになった。これに伴い、再びナイル川流域にイギリスの目が向けられるようになった。1898年にイギリスは再びスーダンに侵攻し、同年のオムドゥルマンの戦いによってホレイショ・キッチナーの指揮の元マフディー国家をほぼ滅亡させた。しかしこのころ、フランスはアフリカ大陸最西端のダカールからサヘル地帯を次々と植民地化し、フランス植民地によるアフリカ横断(アフリカ横断政策)を狙っていた。この二つの政策は、オムドゥルマンの戦いから一週間後に、スーダン中央部(現在の南スーダン北部)のナイル沿いの都市、ファショダ(コドク)にて衝突する。フランス領赤道アフリカ首府のブラザヴィルから出発したジャン・バティスト・マルシャン将軍の軍が2年間かけてファショダに到達し、マフディー国家消滅の混乱をついてファショダを占領したのである。これはファショダ事件と呼ばれる。キッチナーの軍はファショダに急行して両軍はにらみあったが、フランスが譲歩して撤退し、ナイル川流域のイギリスの覇権はこれで確立された。この年、イギリスとエジプトの共同統治領英埃領スーダンが成立し、こうして、マフディー国家の滅亡とともにナイル川の流域のほとんどはイギリスによって一体的に統治されることとなった。
その後、1922年にエジプトが、1956年にスーダンが、1962年にウガンダがイギリスから独立し、この地域はすべて植民地支配から脱却した。しかし、上流域のウガンダやスーダンにおいては内乱や紛争が絶えず、とくにスーダンにおいては北部のアラブ人イスラム教徒と南部の黒人系キリスト教徒との紛争が激化して、1955年から1972年の第一次スーダン内戦、1983年から2005年にかけての第二次スーダン内戦が起きた。これにより、この地域の開発は遅れ、多くの死者が出た。結局、2005年の和平合意に基づいて2011年に2011年南部スーダン独立住民投票が行われ、圧倒的多数の支持を受けて同年南スーダン共和国が独立した。
開発[編集]
ローダ島のナイロメーター
ナイル川の肥沃な流域は世界四大文明のひとつであるエジプト文明を育んだ。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記している。ナイル川は7月中旬、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。この洪水は上流より肥沃な土壌をエジプトをはじめとするナイル河畔にもたらしていた。しかも、水位の上下はあれど氾濫が起きないことはなく、鉄砲水のような急激な水位上昇もなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。砂漠気候でほとんど雨の降らないエジプトにおいて、この氾濫は文明の屋台骨とも言えるものであった。この氾濫の時期を知るために世界最古の暦のひとつであるシリウス暦が作られ、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するために測量と幾何学が発達した。古代エジプト崩壊後も歴代の統治者はナイルを重視し続けた。ナイルの水位を知るための水位計(ナイロメーター)が各地に設置され、716年に建設されたカイロのローダ島のもの[10]をはじめ、アスワンのエレファンティネ島などに現在でも数基が残存している[11]。
アスワン・ハイ・ダム
この古来よりの農法が変化するのは19世紀に入ってからである。産業革命によって綿布の生産力が飛躍的に向上し、原料としての綿花栽培がさかんになると、それまでの浅い水路を掘って洪水時の水をためていたベイスン灌漑方式に変わり、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の深い水路が掘られ、通年耕作が可能となった[12]。夏運河からは水車などで水がくみ上げられ農地へと供給された。これによってエジプトにおいて洪水は農耕に必要なものではなくなり、逆に洪水を起こさないようコントロールする必要に迫られることとなった。そこで1901年には水害を防ぐためアスワン・ダムが建設されたが、治水能力は大幅に向上したものの完全に洪水を止めるところまでは行っていなかった。そこで1952年にエジプト革命によって政権を握ったガマール・アブドゥル=ナーセル政権はアスワン・ハイ・ダム計画を推進し、1970年に完成させた。アスワン・ハイ・ダムが建設されることで、ナイルの洪水を完全に防ぐことができるようになり、これまで洪水期には使用できなかった広大な農地を使用することが可能となった。さらに、ナセル湖からワーディー・ゲディード県などへの送水によって2250km3の農地開発を目的としたトシュカ・プロジェクトが1998年に着工され、2003年に完成する[13]など、大規模な開発が進められた。アスワン両ダムの発電量は当時のエジプトの半分近くにも及んだ。湖の出現によってこの地域では漁業も盛んとなった。一方でアスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、アブ・シンベル神殿やヌビア遺跡などの貴重な古代エジプトの文化遺産がダム湖に沈む為、遺跡の高台への移動を余儀なくさせられている。また、ナイル川が運んで来る肥沃な土壌が農地に届かなくなったため、肥料の大量投入によって地力を維持せざるを得ない状況となっている。現在、ナイル川下流地域では灌漑による塩害の発生や土砂の流出などに悩まされており、エジプト政府はこの対策をせまられている。
アスワン付近
また、その南にあるスーダンにおいても、1920年代からはじめられたゲジラ計画や1966年のロセイレス・ダムなどの建設によって、水利用と開発が進んだ[14]。とくにゲジラ計画は、青ナイル川のセンナールダムから大規模な幹線水路を引き、肥沃なハルツーム南のジャジーラ州をかんがいするもので、のちに白ナイル水系にも1937年にジェベルアリダムを建設して水を引き、最終的には灌漑水路の総延長は4300km、灌漑エリアは8,800 km2にもおよぶ大規模なものであり、この完成によってスーダンははやくも1930年代には世界有数の綿花生産国になる[15]と同時に、小麦などの生産も向上して「アフリカのパン籠」と呼ばれるまでになった。その後もナイル川の開発は進められ、1970年代後半にはスッドにてナイル川の水量を増すためのジョングレイ運河の建設が進められたが、環境への影響と政情不安によって計画は放棄された。2009年にはハルツームの北にメロウェダムが建設された。
ナイル川の水は周辺諸国にとって貴重なものであり、激しい争奪戦の的となってきた。とくにエジプトは国土全域でほとんど降雨がなく、外国からの流入地表水への依存率は97%(1996年)にも達する[16]。エジプトに流入する河川はナイル川しか存在しないため、この依存率はそのままナイル川への依存率であり、ナイルの水なしではエジプトが存立し得ないことが示されている。このことから、1929年にはエジプトとイギリス(スーダンをエジプトと共同統治していた)の間で水利協定が結ばれた。この協定において、両国間の水配分が決定され、エジプトは自らの水の利用に影響する上流での河川開発事業において拒否権を保持することが定められた。さらに1959年にはスーダンとエジプトの間に新たな水利協定が結ばれ、ナイルの年間水量840億m3のうち蒸発分100億m3を除いた555億m3がエジプト利用分、185億m3がスーダン利用分と決定された[17]。この配分や既得権はエジプトにとって非常に有利なものであるため、特に上流域諸国において不満が高まっていた。そこで1999年2月にナイル川流域イニシアチブ(Nile Basin Initiative、NBI)が流域9カ国によって結成され、ナイル川の総合開発や水資源の配分について総合的に話し合う場となった。しかし上流域の不満は大きく、2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定が提案された。これは他国に影響を与えない範囲で自国内の水資源を自由に使えるようにするもので、上流域諸国の広い支持を得たものの、下流に当たるエジプトとスーダンは水の割当量減につながるとしてこれを拒否。一方上流域にあたるエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアはこれに署名を行い、両陣営間の対立が表面化した[18]。
河川交通[編集]
カイロ市内
ナイル川
ナイル川、特に白ナイル川は全般的に勾配は緩やかであるが、何ヶ所か急流や滝が存在するため、河川全域を通じての通航はできない。しかしその部分を除けば航行は可能であり、河口からアスワンの第一急流までの間は古来より交通路として非常に重要な地位を占めてきた。古代エジプト文明の時代より、エジプト人はナイル河畔に居住していた。特に第一急流までの間は河川交通によって密接に結ばれており、河口からここまでが「エジプト」として認識される部分であった。エジプト文明が強力になるにつれて、その影響力は徐々に次の急流にまで伸びていった。エジプト中王国期のエジプト第12王朝時代には第二急流のすぐ下流にまで南限が達した[19]。急流部分には町が作られ、交通の結節点となった。こうしてナイル川を河川交通路として利用することにより、エジプト文明の影響力は最盛期には現在のエチオピアなど上流部にまで及んでいた。冬季においては季節風を利用し、帆掛舟により、川を遡行することができた。現在でも、ファルーカと呼ばれる帆船が、交通手段として利用されており、観光船の運航も行われている。
アスワンの南の第一急流には現在アスワンハイダムが建設され、できたナセル湖にはアスワンとスーダン最北の街ワジハルファの間に定期船が就航している。ナセル湖にはアブ・シンベル神殿などの観光遊覧船も就航し、多くの観光客を集めている。
スーダンにおいても、ナイル川の河川交通は重要である。白ナイル州の南部にあるコスティ市から南スーダンの首都ジュバにいたる1436kmの水路は、道路交通の発達していないこの地域においては生命線となっている[20]。この間には、ナイル川の河川交通の難所として知られていた南スーダンのスッド湿地がある。この区間には多目的利用のジョン・グレイ運河建設計画があったが、生態系への影響や、スッドを通り抜ける風が湿度を失うことによってスーダン北部の砂漠化がより進行することへの懸念、流域の政情不安などから、計画は1985年以来凍結されたままとなっている。
ウガンダにおいては過去に蒸気船航路が開設されたことがあるものの、現在では定期航路は開設されていない。
支流[編集]
括弧内は最長流路上の河川。下流より記載。
アトバラ川
青ナイル川
(白ナイル川) ソバト川
バハル・エル=ガザル
セムリキ川 カジンガ水路
(カゲラ川) (ルルブ川) (ルヴィロンザ川)
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1 概要
2 水文
3 地史
4 歴史 4.1 ナイル川源流の探索
4.2 植民地化
5 開発
6 河川交通
7 支流
8 脚注
9 関連項目
概要[編集]
ナイル川
ナイル川上流部
ハルツーム郊外での白ナイル川と青ナイル川の合流
ナイル川流域図
一般にはヴィクトリア湖が源流だと思われているが、ヴィクトリア湖には多数の流入河川が存在し、一方でヴィクトリア湖からの流出河川はナイル川しか存在しないため、ヴィクトリア湖をナイル川水系に含み、そこに流れ込む河川の長さもナイル川の長さに加算するのが普通である。ヴィクトリア湖に流れ込む河川のうちで最大最長のものは、ルワンダに源を持ち、ルワンダとブルンジやタンザニアの国境をなし、さらにタンザニアとウガンダの国境をなした後タンザニアのブコバ市北方でヴィクトリア湖に流れ込むカゲラ川である。そのカゲラ川の支流のうちでもっとも長いものは、ブルンジ南部のブルリ県を水源とするルヴィロンザ川(Ruvyironza)であり、これがナイル川の最上流であるとされる。
ヴィクトリア湖(標高1134m)は赤道直下のサバナ気候であり、降水量も多い。ヴィクトリア湖から下流はヴィクトリアナイルとも呼ばれる。ヴィクトリア湖からのナイル川の流出口は湖北部のジンジャであり、流出口には記念碑が建てられているほか、オーエン・フォールズ・ダムが建設され、発電をおこなっている。ヴィクトリア湖から約500km下流に行くとキオガ湖を経て、120mの高さのあるマーチソン・フォールズをとおり、アルバート湖(標高619m)に着く[1]。アルバート湖には、ほかにもウガンダ南西部のジョージ湖からカジンガ水路、エドワード湖を通って流れてきたセムリキ川が注いでいる。アルバート湖からはアルバートナイルとも呼ばれる。南スーダンに入り、急流を一つ越えると首都ジュバである。ジュバからは勾配が非常に緩やかとなり、少し北のモンガラ市周辺からはスッドの影響を受けるようになる。支流のバハル・エル=ガザル川(Bahr el Ghazal)とノ湖で合流し、そこからは白ナイル川とよばれる。このあたりはスッドと呼ばれる大湿原となっており、ここで蒸発して流量が激減する。帆船時代はここは複雑な流路と生い茂る水草によって南北の交通を阻む障壁となってきたが、蒸気船の登場以後は航路が設定されるようになった。さらに、スッドの出口であるマラカル市の南でソバト川を合わせる。マラカルからハルツームまでの800kmの標高差は12mにすぎず、非常に緩やかな流れとなる[2]。
白ナイル川はスーダンのハルツームで、エチオピアのタナ湖から流れてくる青ナイル川と合流する。ハルツームを過ぎて80kmほどで、ナイル川には再び急流が出現する。これは北から数えて6番目の急流のため、第6急流と呼ばれる。ここからエジプトのアスワンまでの間にある6つの急流は、エジプトとスーダンの間の舟運を拒み、交通の障害となってきた。しかし、この急流の区間は古くからエジプトの影響を受け、ヌビアと呼ばれて独自の古代王国を築いていた。第6急流の北、200kmほどのところには古代のクシュ王国の都であったメロエ(Meroë)がある。さらにその北、ハルツームから約300km下流のアトバラで支流のアトバラ川と合流する。これ以北は完全な砂漠気候であり、ナイル河谷を除いてほとんど人は住まなくなる。また、これ以北ではナイルに注ぎ込む常時水流のある支流は存在せず、わずかに降水時に水の流れるワジが点在するのみとなる。第4急流付近には、メロエ以前にクシュの首都であったナパタ(ゲベル・バルカル)がある。この付近に2009年メロウェダム(Merowe Dam)が完成し、大規模な発電を開始した。エジプトに入ると、アスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖がある。ナセル湖の長さは550kmに及び、その南端はスーダン最北の町ワジハルファを越えさらに南まで延びている。アスワン以北は古くからの「エジプト」であり、幅5kmほどのナイル河谷に人が集住するようになる。アスワンからカイロまでは上エジプトと呼ばれる。この区間ではナイル川はほぼ一本の河川であるが、北西へと流れる支流があり、カイロ南西にファイユーム・オアシスを作ってカルーン湖に注ぎ込む。それからさらに北へ流れ、カイロから北は三角州が発達している。ナイル川三角州は下エジプトとも呼ばれる。三角州はアレクサンドリアからポートサイドまで約240kmの幅を持ち、東のロゼッタ支流と西のダミエッタ支流という二つの主流と多くの分流に別れ、地中海に注いでいる。
水文[編集]
最上流のルスモ滝付近で合流するルブブ川とカゲラ川
タナ湖より流れ出す青ナイル川
世界主要河川の比較
アマゾン川
ナイル川
ミシシッピ川
長江
ヴォルガ川
コンゴ川
長さ(km) 7,025 6,671 3,779 6,300 3,700 4,700
流域面積
(100万km2) 7,0 2,9 3,2 1,8 1,3 3,7
平均流量
(1000m3/s.) 209 2-3 18 32 8 41
上流のアルバート湖付近のアルバート・ナイル川の流量は約1,048立方メートル/秒であり、一年を通じて大きな変化は無い。南スーダンのサッド湿地においては蒸発散により、流量が大きく減少し約510立方メートル/秒となる。サッド湿地を下り、ソバト川と合流する。ソバト川はエチオピア高原に源流を持つため流量の変化が大きく、増水期の3月には約680立方メートル/秒であり、渇水期の8月には約99立方メートル/秒となる。増水期には浮遊物が多く、これがナイル川に流れ込み、白ナイルの語源となっている。ソバト川の影響により、合流点付近の白ナイル川の流量も約609立方メートル/秒から約1,218立方メートル/秒の範囲で変化している。
その後、ハルツームで青ナイル川を、アトバラでアトバラ川と合流する。アトバラより下流では、砂漠気候の中を流れ、大規模な河川の合流は無い。この地方のナイル川は、乾燥地帯を流下するために蒸発散による影響を大きく受ける。1月から6月にかけての乾季の間、青ナイル川の流量は約113立方メートル/秒であり、ナイル川の流量のうち、白ナイル川からのものが7割から9割をしめる。アトバラ川は雨季以外ほとんど流量は無い。
アトバラ川も青ナイル川もエチオピア高原に源流を持つため、高原の雨季には両河川の流量は大きく増大する。特に青ナイル川の流量増大は非常に大きなもので、8月の青ナイル川流量は約5,600立方メートル/秒以上となり、ナイル川の流量のうち8割から9割をしめる。また、特に青ナイルは標高1800mのタナ湖から短い距離の間に急激に高度を下げるため、河床を侵食し大量の堆積物を下流にもたらす。この土は肥沃であり、洪水時に堆積するエジプトにおいて長い間富をもたらしてきた。アスワン・ハイ・ダム建設以前のエジプト・アスワンにおける流量比は渇水期と増水期で15倍に達した。1971年のダム建設後は、ダム下流のエジプトにおいて一年間の流量変化はほとんどなく、年間通じて同じ水量が流れている。
地史[編集]
ナイル川は、エチオピア高原が隆起してきた白亜紀以降に形成されたと考えられている。中新世以降、その状況は5つの時期に分類される。中新世の頃のものは古ナイル(Eonile)と呼ばれ、侵食系であった。その頃は地中海海盆は干上がっており、この盆地に向けて峡谷が形成されたものと思われている。古ナイルによって形成された峡谷は埋積され、現在ではそれらの領域の一部にガス田が見られる。現在のナイル川となったのは更新世末期のことである。[3]12500年前には最終氷期の終わった影響によってヴィクトリア湖の水位が急激に上昇し、それまで閉鎖湖だったものが北のナイル川水系へとあふれ出した[4]。このときに、ヴィクトリア湖は現在のナイル川水系に接続された。
歴史[編集]
ナイル川を指すヒエログリフ。発音はIteruである
メロエのピラミッド上空写真
紀元前6世紀ごろアナクシマンドロスの世界地図の再現
紀元前450年ごろ、ヘロドトスの世界地図の再現
1500年ごろのピーリー・レイースの地図におけるナイル川
ナイル川流域、特に下流のエジプトは、世界で最も古い文明の興った土地として知られている。エジプト語では大きな川という意味のIteruと呼ばれた。紀元前3800年ごろにはすでに古代エジプト文明が成立しており、紀元前3150年ごろには統一国家を形成してエジプト古王国となり、以後も肥沃なナイル川流域を基盤として独自の文明を築いた。その南にひろがるヌビアにおいても、エジプト文明の影響を受ける形で王国が形成され、紀元前2200年頃にはクシュ王国が建国された。クシュはエジプト新王国のトトメス1世によって滅ぼされるものの、紀元前900年ごろ、ナイル第4急流のそばにあるナパタ(ゲベル・バルカル)において再興し、紀元前747年には逆に第3中間期のエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を建設した。50年後にアッシリアのアッシュールバニパルに敗れ第25王朝はエジプト支配を失うが、ナパタの王朝はそのまま存続し、紀元前6世紀頃に南のメロエへ遷都したのちも長く栄えた。メロエは鉄鉱石と樹木が豊富であり、さかんに製鉄が行われた。
やがて下流のエジプトはペルシア帝国に支配され、アレクサンドロス帝国に支配された後、ギリシア系のプトレマイオス朝のもとで独立を回復したが、紀元前30年、クレオパトラ7世の時代にアクティウムの海戦によってローマ帝国に支配され独立を失い、皇帝直轄地アエギュプトゥスとなった。しかしヌビアの独立はこの時代も保たれた。メロエの王国が滅ぼされたのは350年ごろ、エチオピア北部を本拠とするアクスム王国によってとされているが、異説もある。メロエ滅亡後、ヌビアは北のノバティア、ドンゴラを首都とする中部のマクリア、ハルツーム周辺を本拠とする南のアロディアの3王国に分かれた。このころ、395年にはローマ帝国は東西に分裂し、エジプトは東ローマ帝国領となった。4世紀から5世紀にかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教が受け入れられるが、639年のイスラム帝国の侵攻によってエジプトは征服され、以後イスラム化した。ヌビアではキリスト教王国がその後も長く命脈を保ったものの、北のイスラム勢力からの圧力によって徐々に弱体化し、最後まで残ったアロディアも14世紀ごろには滅亡して、イスラム教徒によるフンジ王国などが立てられた。19世紀に入るとエジプトでオスマン帝国から半独立の王朝を作り上げたムハンマド・アリーがヌビアへと侵攻し、フンジ王国を滅ぼし、さらにその南に居住するヌエル人やディンカ人、シルック人を征服して、現在のスーダンの版図にいたる中流域をエジプトの支配下に組み入れた。イスマーイール・パシャの時代にはさらに南下し、1869年にはスーダン南端のゴンドコロ(現在のジュバ)まで進出して赤道州を設置し、1874年にはチャールズ・ゴードンを初代総督に任命してウガンダ方面への進出を図った。
いっぽう、上流域においては難所や急流によって中下流域とは断絶され、ほとんど関係のない歴史を歩んだ。15世紀ごろにはヴィクトリア湖畔に領域国家が出現し、19世紀にはいるとモンバサなどのインド洋沿岸のスワヒリ文化圏からのキャラバン・ルートが上流域に到達して、ブニョロ王国やブガンダ王国などがインド洋のアラブ人交易圏と遠距離交易を行いながら繁栄した。
ナイル川源流の探索[編集]
ナイル川源流を探ることは古代より行われていた。しかし、サッド湿地などの航路の難所を越えることができず、源流は不明のままであった。古代の地理学者もナイルの源については知らず、さまざまな推測によって地図を描くよりほかはなかった。紀元前5世紀のヘロドトスはナイル川は西アフリカから東進した後北上してエジプトに流れ込むと考えていた。1世紀にはギリシアのディオゲネスという船乗りがインド洋交易の帰途に東アフリカの海岸から内陸部に入り込み、25日間ナイルの源流を求めて奥地へ旅をしたとされる。彼の報告に基づき、2世紀の地理学者クラウディオス・プトレマイオスは、「月の山」とそのふもとの2つの湖がナイル川の水源であると考えた。アラブ人もナイルの源流については知らず、1355年に出版されたイブン・バットゥータの著書『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』でもニジェール川をナイルと記し、ニジェール川はナイル川の支流であると考えていた記載がある[5]。16世紀ごろからエチオピアとヨーロッパとの交流が始まるにしたがって青ナイル周辺の地理は判明し始め、1615年にはポルトガルのイエズス会の修道士であるペドロ・パエスがタナ湖を発見している。1770年にはスコットランド人の探検家ジェームズ・ブルースが探検を行い、彼によって青ナイル川の源流がタナ湖であることがヨーロッパ人にも知られるようになったが、白ナイル川については不明のままであった。
19世紀初頭には北のエジプトの総督がスーダン進出と同時にナイル川の源流探査を行い、1842年にはゴンドコロまで達したものの、その南までは進めなかった。19世紀中盤に入るとヨーロッパ人のアフリカ探検が盛んになり、ナイル源流の探索もその主要なテーマの一つとなった。1858年にイギリス人の探検家ジョン・ハニング・スピークがヴィクトリア湖を発見した。彼は、リチャード・フランシス・バートンとともにナイル川の水源を探す探検を行い、まず二人でタンガニーカ湖を発見した。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、1858年8月3日、ムワンザでヴィクトリア湖を「発見」した。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、スピークの探検では、湖がナイル川の水源である事は確認できななかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した[6]。この論争に決着をつけるべくスピークは1860年9月よりジェームズ・オーガスタス・グラントとともにザンジバルを出発して再び探検を行い、1862年7月28日、ヴィクトリア湖北岸のジンジャから大きな川が北へと流れ出していることを確認した[7]。スピークはこの流出地点にある滝をリポン滝と名づけ、これで謎は解明されたと考えて帰路に着いたが、しかし、この探検でも謎は残ったままで、論争はさらに続いた。1864年9月には両者の討論会が予定されていたが、その前日にスピークは銃の暴発事故で死亡してしまう。この死には不明な部分が多く、さらに論争の一方の当事者が死去してしまったことからナイル源流論争はさらに混乱した。その上、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻が1864年3月14日にアルバート湖を発見し、1866年にその結果を発表したため、混乱は頂点に達した。
この論争を受けて、デイヴィッド・リヴィングストンがこの地域を探検したが、彼はベーカーよりもさらに南、ルアラバ川とその源流のザンビアにあるバングウェウル湖がナイルの源流であると考え、探査を行った。この探検の途中でリヴィングストンはヨーロッパとの連絡が一時途絶え、アメリカの新聞が派遣したヘンリー・モートン・スタンリーとウジジの村で邂逅するなど困難を重ねたが、源流の確定には至らず客死した。その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーは1875年、リポン滝を確認した後で湖を周遊し、これによってヴィクトリア湖がナイル川の源流であると確定された[8]。その後も、ヴィクトリア湖に流れ込む川の探検が続けられており、カゲラ川やその支流のルヴィロンザ川やなどが源流とされるようになってきている。真の源流の探索は21世紀に入っても続けられており、2006年にもブラジルとニュージーランドの探検家が新しい源流を発見している。
植民地化[編集]
ナイル川の源流がほぼ確定されると、イギリスをはじめとするヨーロッパ列強がこの地域に食指を伸ばし始めた。とくに最下流のエジプトに強力な利害を持つイギリスが熱心であった。もしナイル上流がほかの列強によって支配された場合、ナイルの水に頼っているエジプトが甚大な被害をこうむる可能性があったからである。こうした中、エジプトの圧政に耐えかねた人々の中からモスリムのシャイフであるムハンマド・アフマドが立ち上がり、1881年にマフディー戦争を起こす。1882年にエジプトを保護国化したイギリスはチャールズ・ゴードンを派遣したが1885年にハルツームが陥落し、ゴードンも殺害されて、マフディー国家はほぼ現在のスーダンの領域まで領土を拡大させ、イギリスは一時スーダンからの撤退を余儀なくされた。しかし、その南方にあるエジプト最南端の赤道州には総督エミン・パシャが残留しており、孤立しながら何とか独立を保っていた。このエミン・パシャの扱いが、のちにイギリスとドイツの間の争点となることとなった。エミン・パシャは本名をシュニッツァーというドイツ人であり、彼を救出すると称してイギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣したのである。この救出作戦はヘンリー・モートン・スタンリー率いるイギリス隊に軍配が上がり、1889年にエミン・パシャは「救出」されて赤道州政府は滅亡した。これに対して出遅れたドイツ隊はブガンダ王国と友好条約を締結するなどしてこの地域に進出を図ったが、結局1890年8月10日、ヘルゴランド=ザンジバル条約により南緯1度の線に両国の境界線が引かれ、ナイル上流域はすべてイギリスの勢力範囲となった。これに基づいて、ナイル最上流にあたるヴィクトリア湖周辺にもイギリスの触手が伸びた。ブガンダ王国やブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といった国々と条約を締結し、1894年にはウガンダ保護領が成立した[9]。
このころ、アフリカ最南端のケープ植民地首相に就任したセシル・ローズはカイロからケープタウンまでの鉄道(ケープ・カイロ鉄道)と電信を敷設する政策を提唱し、アフリカをイギリス植民地で南北に縦断させるアフリカ縦断政策が3C政策の一環としてイギリス政府によって採られるようになった。これに伴い、再びナイル川流域にイギリスの目が向けられるようになった。1898年にイギリスは再びスーダンに侵攻し、同年のオムドゥルマンの戦いによってホレイショ・キッチナーの指揮の元マフディー国家をほぼ滅亡させた。しかしこのころ、フランスはアフリカ大陸最西端のダカールからサヘル地帯を次々と植民地化し、フランス植民地によるアフリカ横断(アフリカ横断政策)を狙っていた。この二つの政策は、オムドゥルマンの戦いから一週間後に、スーダン中央部(現在の南スーダン北部)のナイル沿いの都市、ファショダ(コドク)にて衝突する。フランス領赤道アフリカ首府のブラザヴィルから出発したジャン・バティスト・マルシャン将軍の軍が2年間かけてファショダに到達し、マフディー国家消滅の混乱をついてファショダを占領したのである。これはファショダ事件と呼ばれる。キッチナーの軍はファショダに急行して両軍はにらみあったが、フランスが譲歩して撤退し、ナイル川流域のイギリスの覇権はこれで確立された。この年、イギリスとエジプトの共同統治領英埃領スーダンが成立し、こうして、マフディー国家の滅亡とともにナイル川の流域のほとんどはイギリスによって一体的に統治されることとなった。
その後、1922年にエジプトが、1956年にスーダンが、1962年にウガンダがイギリスから独立し、この地域はすべて植民地支配から脱却した。しかし、上流域のウガンダやスーダンにおいては内乱や紛争が絶えず、とくにスーダンにおいては北部のアラブ人イスラム教徒と南部の黒人系キリスト教徒との紛争が激化して、1955年から1972年の第一次スーダン内戦、1983年から2005年にかけての第二次スーダン内戦が起きた。これにより、この地域の開発は遅れ、多くの死者が出た。結局、2005年の和平合意に基づいて2011年に2011年南部スーダン独立住民投票が行われ、圧倒的多数の支持を受けて同年南スーダン共和国が独立した。
開発[編集]
ローダ島のナイロメーター
ナイル川の肥沃な流域は世界四大文明のひとつであるエジプト文明を育んだ。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記している。ナイル川は7月中旬、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。この洪水は上流より肥沃な土壌をエジプトをはじめとするナイル河畔にもたらしていた。しかも、水位の上下はあれど氾濫が起きないことはなく、鉄砲水のような急激な水位上昇もなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。砂漠気候でほとんど雨の降らないエジプトにおいて、この氾濫は文明の屋台骨とも言えるものであった。この氾濫の時期を知るために世界最古の暦のひとつであるシリウス暦が作られ、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するために測量と幾何学が発達した。古代エジプト崩壊後も歴代の統治者はナイルを重視し続けた。ナイルの水位を知るための水位計(ナイロメーター)が各地に設置され、716年に建設されたカイロのローダ島のもの[10]をはじめ、アスワンのエレファンティネ島などに現在でも数基が残存している[11]。
アスワン・ハイ・ダム
この古来よりの農法が変化するのは19世紀に入ってからである。産業革命によって綿布の生産力が飛躍的に向上し、原料としての綿花栽培がさかんになると、それまでの浅い水路を掘って洪水時の水をためていたベイスン灌漑方式に変わり、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の深い水路が掘られ、通年耕作が可能となった[12]。夏運河からは水車などで水がくみ上げられ農地へと供給された。これによってエジプトにおいて洪水は農耕に必要なものではなくなり、逆に洪水を起こさないようコントロールする必要に迫られることとなった。そこで1901年には水害を防ぐためアスワン・ダムが建設されたが、治水能力は大幅に向上したものの完全に洪水を止めるところまでは行っていなかった。そこで1952年にエジプト革命によって政権を握ったガマール・アブドゥル=ナーセル政権はアスワン・ハイ・ダム計画を推進し、1970年に完成させた。アスワン・ハイ・ダムが建設されることで、ナイルの洪水を完全に防ぐことができるようになり、これまで洪水期には使用できなかった広大な農地を使用することが可能となった。さらに、ナセル湖からワーディー・ゲディード県などへの送水によって2250km3の農地開発を目的としたトシュカ・プロジェクトが1998年に着工され、2003年に完成する[13]など、大規模な開発が進められた。アスワン両ダムの発電量は当時のエジプトの半分近くにも及んだ。湖の出現によってこの地域では漁業も盛んとなった。一方でアスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、アブ・シンベル神殿やヌビア遺跡などの貴重な古代エジプトの文化遺産がダム湖に沈む為、遺跡の高台への移動を余儀なくさせられている。また、ナイル川が運んで来る肥沃な土壌が農地に届かなくなったため、肥料の大量投入によって地力を維持せざるを得ない状況となっている。現在、ナイル川下流地域では灌漑による塩害の発生や土砂の流出などに悩まされており、エジプト政府はこの対策をせまられている。
アスワン付近
また、その南にあるスーダンにおいても、1920年代からはじめられたゲジラ計画や1966年のロセイレス・ダムなどの建設によって、水利用と開発が進んだ[14]。とくにゲジラ計画は、青ナイル川のセンナールダムから大規模な幹線水路を引き、肥沃なハルツーム南のジャジーラ州をかんがいするもので、のちに白ナイル水系にも1937年にジェベルアリダムを建設して水を引き、最終的には灌漑水路の総延長は4300km、灌漑エリアは8,800 km2にもおよぶ大規模なものであり、この完成によってスーダンははやくも1930年代には世界有数の綿花生産国になる[15]と同時に、小麦などの生産も向上して「アフリカのパン籠」と呼ばれるまでになった。その後もナイル川の開発は進められ、1970年代後半にはスッドにてナイル川の水量を増すためのジョングレイ運河の建設が進められたが、環境への影響と政情不安によって計画は放棄された。2009年にはハルツームの北にメロウェダムが建設された。
ナイル川の水は周辺諸国にとって貴重なものであり、激しい争奪戦の的となってきた。とくにエジプトは国土全域でほとんど降雨がなく、外国からの流入地表水への依存率は97%(1996年)にも達する[16]。エジプトに流入する河川はナイル川しか存在しないため、この依存率はそのままナイル川への依存率であり、ナイルの水なしではエジプトが存立し得ないことが示されている。このことから、1929年にはエジプトとイギリス(スーダンをエジプトと共同統治していた)の間で水利協定が結ばれた。この協定において、両国間の水配分が決定され、エジプトは自らの水の利用に影響する上流での河川開発事業において拒否権を保持することが定められた。さらに1959年にはスーダンとエジプトの間に新たな水利協定が結ばれ、ナイルの年間水量840億m3のうち蒸発分100億m3を除いた555億m3がエジプト利用分、185億m3がスーダン利用分と決定された[17]。この配分や既得権はエジプトにとって非常に有利なものであるため、特に上流域諸国において不満が高まっていた。そこで1999年2月にナイル川流域イニシアチブ(Nile Basin Initiative、NBI)が流域9カ国によって結成され、ナイル川の総合開発や水資源の配分について総合的に話し合う場となった。しかし上流域の不満は大きく、2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定が提案された。これは他国に影響を与えない範囲で自国内の水資源を自由に使えるようにするもので、上流域諸国の広い支持を得たものの、下流に当たるエジプトとスーダンは水の割当量減につながるとしてこれを拒否。一方上流域にあたるエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアはこれに署名を行い、両陣営間の対立が表面化した[18]。
河川交通[編集]
カイロ市内
ナイル川
ナイル川、特に白ナイル川は全般的に勾配は緩やかであるが、何ヶ所か急流や滝が存在するため、河川全域を通じての通航はできない。しかしその部分を除けば航行は可能であり、河口からアスワンの第一急流までの間は古来より交通路として非常に重要な地位を占めてきた。古代エジプト文明の時代より、エジプト人はナイル河畔に居住していた。特に第一急流までの間は河川交通によって密接に結ばれており、河口からここまでが「エジプト」として認識される部分であった。エジプト文明が強力になるにつれて、その影響力は徐々に次の急流にまで伸びていった。エジプト中王国期のエジプト第12王朝時代には第二急流のすぐ下流にまで南限が達した[19]。急流部分には町が作られ、交通の結節点となった。こうしてナイル川を河川交通路として利用することにより、エジプト文明の影響力は最盛期には現在のエチオピアなど上流部にまで及んでいた。冬季においては季節風を利用し、帆掛舟により、川を遡行することができた。現在でも、ファルーカと呼ばれる帆船が、交通手段として利用されており、観光船の運航も行われている。
アスワンの南の第一急流には現在アスワンハイダムが建設され、できたナセル湖にはアスワンとスーダン最北の街ワジハルファの間に定期船が就航している。ナセル湖にはアブ・シンベル神殿などの観光遊覧船も就航し、多くの観光客を集めている。
スーダンにおいても、ナイル川の河川交通は重要である。白ナイル州の南部にあるコスティ市から南スーダンの首都ジュバにいたる1436kmの水路は、道路交通の発達していないこの地域においては生命線となっている[20]。この間には、ナイル川の河川交通の難所として知られていた南スーダンのスッド湿地がある。この区間には多目的利用のジョン・グレイ運河建設計画があったが、生態系への影響や、スッドを通り抜ける風が湿度を失うことによってスーダン北部の砂漠化がより進行することへの懸念、流域の政情不安などから、計画は1985年以来凍結されたままとなっている。
ウガンダにおいては過去に蒸気船航路が開設されたことがあるものの、現在では定期航路は開設されていない。
支流[編集]
括弧内は最長流路上の河川。下流より記載。
アトバラ川
青ナイル川
(白ナイル川) ソバト川
バハル・エル=ガザル
セムリキ川 カジンガ水路
(カゲラ川) (ルルブ川) (ルヴィロンザ川)
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