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2014年02月11日

ショカツ人

ショカツ人(クロアチア語・セルビア語・ショカツ語:Šokci / Шокци ショクツィ、ハンガリー語:Sokácok)は、主にクロアチア東部およびセルビア北部、ハンガリー南東部に住む南スラヴ人の民族集団のひとつであり、大部分は自身をクロアチア人と規定している。ショカツ人はセルビアでは独立した民族として認定されているが、その他の国ではクロアチア人の一部とみなされている[1]。彼らは他のクロアチア人の多くとは異なる、独自の民族文化を持つ。ドナウ川やサヴァ川沿いの町に散在しており、その範囲はスラヴォニア、バラニャ(英語版)、スレム / スリイェム、バチュカ西部にまたがる。これらの地域は今日ではクロアチア東部、セルビア北部(ヴォイヴォディナ)、およびハンガリー南東部に属している。

ショカツ人の故地はクロアチアのスラヴォニアおよびスリイェム地方と考えられている[2]。



目次 [非表示]
1 民族性と歴史
2 宗教と言語
3 文化と風習
4 ギャラリー
5 脚注
6 参考文献


民族性と歴史[編集]

ショカツ人の起源は完全には分かっていない。

中世初期に「Succi」や「Succus」と呼ばれる集団があり、彼らはパンノニアのイリュリア人とトラキア人を隔てていたとされる[要出典]。マティヤ・ペタル・カタンチッチ(英語版)は、ショカツ人がトラキア人の一部族に起源を有すると考えたが、語源学に基づく現代の学説ではショカツ人はオスマン帝国がヨーロッパ領土を失いつつある時代にボスニアからサヴァ川を超えて移住してきたと考えられている[3]。 バラニャのショカツ人は、オスマン帝国がヨーロッパの領土を失いゆく18世紀にボスニアのスレブレニツァから集団移住したクロアチア人であると考えられている[4]。ショカツ人が現在の居住地に移住した正確な年代は不明であるが、スラヴォニアおよびヴォイヴォディナのショカツ人は、これらの地域に住むようになった最古のクロアチア人で、同じ地域に住むその他のクロアチア人はそれよりも新しい居住者と考えられている[3][5][6]。ショカツ人が外来の居住者ではなく古くからの土着の住民であるとする民族感情は、ショカツ人の間で根強い[3]。

オスマン帝国時代初期の税務記録(デフテル(英語版))では、1615年にショカツ人に関する記録が現れる。ヒジュラ暦の1024年サファル月9日の記録によると、ショカツ人は「ラテンの信仰」を持っており、「宗教的にセルビア人やギリシャ人、ヴラフ人とは完全に異なる」とされている[要出典]。カトリック教会の記録にも登場し、それによると彼らは1935年にイェロニム・ルチッチ(Jeronim Lučić)をボスニアおよびスラヴォニアの司教とするよう求めたとされる[要出典]。

カルロヴィッツ条約によってオスマン帝国領ではなくなったジャコヴォでの1702年の国勢調査によると、400人から600人程度がカトリック教徒のスラヴ人・スラヴォニア人(ラテン語: Slavi catholicae fidae)と答えている。後にタディヤ・スミチクラス(英語版)はこの国勢調査を調査し、「スラヴォニア人」および「ショカツ人」("Slovinci" / "Šokci")という用語を使用した。アントゥン・カニジュリッチ(英語版)(1699年 - 1766年)によると「ショカツ人」の語は、正教徒がカトリック教徒のスラヴォニア人を指して用いるスラングであるとされた[7][8]。

オーストリア帝国の国勢調査でも多数のショカツ人が、スラヴォニアおよびヴォイヴォディナに居住していることが記されている。1840年の調査によると、クロアチアおよびスラヴォニアの人口は1,605,730人であり、うち777,880人(48%)はクロアチア人、504,179人(32%)はセルビア人、297,747(19%)はショカツ人とされている。ショカツ人はポジェガ、ヴィロヴィティツァ、スレム / スリイェム、スラヴォニア・クライナ(Slavonian Krajina、軍政国境地帯の一部)に多くみられた。1910年の国勢調査によると、68,725人のブニェヴァツ人およびショカツ人がバチュカに、13,012人のショカツ人がバラニャに住んでいた[要出典]。





2002年のセルビア国勢調査で、ブニェヴァツ人、モンテネグロ人、並びにクロアチア人を名乗る人々(多くがショカツ人あるいはブニェヴァツ人)が多数・比較多数を占めた町村。クロアチアとの国境に近い北西の村でショカツ人が多く見られる
ショカツ人はクロアチア、ハンガリーおよびセルビアに多く住んでおり、こんにちでは一般に彼らは自身をクロアチア人の一部とみなしている。1991年以降のセルビアの国勢調査では、ショカツ人はブニェヴァツ人とともに独自の民族として認められている[9]。同じ地域に住むブニェヴァツ人とは異なり、ショカツ人の大部分は自身をクロアチア人とみなしているが、一部は国勢調査においてユーゴスラビア人と回答している。1991年のセルビア(ユーゴスラビア連邦共和国)の国勢調査では、1922人が自身をショカツ人と回答しており、クロアチア人との回答の数はこれを大きく上回った。同じく2002年の国勢調査では自身をショカツ人と回答した者は少数にとどまり、「その他」として一括されている一方、クロアチア人との回答は7万人を超えた[10]。「ショカツ人」を「クロアチア人」と並べて独立した民族として扱うセルビアの国勢調査について、クロアチアではこれを不自然かつ有害とする意見がある。彼らはこれについて、ショカツ人がクロアチア人とは異なる古くからの民族であるとする「神話」を強化し、ショカツ人を政治的神話の渦中に放り込み、19世紀に多くみられたようなセルビア人とクロアチア人の対立を煽るものであるとしている[11]

一般に、ショカツ人の人口およびその比率は減少しており、これは世代交代に伴って財産を分割するのを嫌って子どもを1人しか持たないようにしてきたショカツ人の伝統によると考えられる。こうした慣習は19世紀や20世紀でも残っており、ショカツ人は次第に、より多くの子どもを持つ周辺の他の人々に人口比率で圧倒されていった[要出典]。

バチュカにおいてショカツ人が多く住むのは、ソンタ(英語版)(アパティン市(英語版))、バチュキ・ブレグ(英語版)およびバチュキ・モノシュトル(英語版)(ソンボル市)といった村々である。2002年のセルビアの国勢調査では、これらの村の人々の大部分は自身をクロアチア人と回答した。

ハンガリー領においては、ショカツ人の大部分はバラニャに住み、特にモハーチに多い。

クロアチア領のスラヴォニア東部およびスリイェム地方は、「ショカツ人の地」を意味する「ショカディヤ(Šokadija)」の名で呼ばれる[2]。ショカディヤという呼称は1633年(ナシツェ(英語版)周辺地域)、18世紀初頭(ジャコヴォ周辺地域)の文献や、1757年のアントゥン・カニジュリッチ(英語版)の著書でも見られる。ショカディヤの厳密な範囲は定まっておらず、「ショカツ人の故地」を漠然と指し示すものである[3]。

宗教と言語[編集]





セルビア・ヴォイヴォディナにあるショカツ人の村・ソンタのカトリック教会聖堂
ショカツ人はラテン典礼(英語版)によるカトリック教会の信徒である。ショカツ人の言語は古シュト方言のスラヴォニア方言に属する、もっぱらショカツ人のみが使う独自の方言であり、ブニェヴァツ語との関連が強い。スラヴォニア方言にはイ方言とエ方言が混在しており、イ方言はポザヴィナ、バラニャ、バチュカ、ならびにスラヴォニア方言の飛び地となっているデルヴェンタで多く見られ、他方でエ方言はポドラヴィナに多い。しかし、一方の方言が多い地域の中にも他方の方言の飛び地があったり、エ方言とイ方言、あるいはイェ方言とイ方言の混合などもみられる。

文化と風習[編集]





ハンガリー南部のモハーチにて、冬の終わりに行われるショカツ人の祭り・ブショーヤーラーシュ(2006年2月)




ショカツ人の民族衣装
ショカツ人の伝統の多くはその環境に根ざしたものであり、肥沃なパンノニア平原に住み、村を取り巻く広大な畑で麦やトウモロコシを栽培するショカツ人の生活様式と関連している。典型的には、村には1本のメインストリート(ショル šor)が通り、それに沿って住居や庭が並び、井戸が設けられている。メインストリートの両側には水路があり、水路から各家庭に水が供給される。

各家庭ではカモやガチョウなどの家禽も飼われているが、食肉の最大の供給源はブタであり、ショカツ人の伝統的な家屋ではほぼ必ず飼育されている。秋には伝統的な屠殺の祭りが行われ、ハムやソーセージ(特にクレン(英語版))、ベーコンなどの豚肉製品が作られる。果物ではプラムが多用され、ラキヤの原料として用いられる。

ショカツ人は伝統的に豊かな生活を送ってきており、民俗習慣への関心が高い。ショカツ人の住むどの村にも文化団体が組織され、民俗歌謡・舞踊が守られている。よく知られたショカツ人の民俗歌謡にはベチャラツ(英語版)などがある。またショカチュコ・シイェロ(英語版)と呼ばれる祭りが毎年催される。ショカツ人の音楽は大部分がタンブラで演奏され、ショカツ文化を特徴づけるものとなっている。多数のショカツ人のタンブラ演奏団が、クロアチアで全国的な評価を得ている。タンブラの筐体は、伝統的にはカエデ、ポプラ、あるいはプラムの木で作られるが、こんにちのものはトウヒやモミの木が主に用いられる。この他の楽器としてはバグパイプが多く使われる。ショカツ人の伝統的な結婚式では多くの来客が訪れ、時に村じゅうが加わることもある。

ショカツ人の衣装はレースの装飾が施された麻地のもので、その主部を占めるのはオプレチャクとクリラ(oplećak i krila)と呼ばれるブラウスである。女性が一式の衣装をそろえて着るのは夏期の間だけで、冬季には代わりにウールのスカートが用いられる。ショカツ人の民族衣装の重要な装飾として、ドゥカティ(dukati)と呼ばれる黄金色のコインがある。豊かな家の娘は多くのコインが縫い付けられた衣装をまとい、富の象徴となっていた。
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Chakavian dialect

Chakavian or Čakavian /tʃɑːˈkɑːviən/ (Serbo-Croatian: čakavski, proper name: čakavica or čakavština, own name: čokovski, čakavski, čekavski is a dialect of the Serbo-Croatian language spoken by a minority of Croats. It has low mutual intelligibility with the other two dialects, Shtokavian and Kajkavian. All three are named after their word for "what?", which in Čakavian is ča or ca. Chakavian is spoken mainly in the northeastern Adriatic: in Istria, Kvarner Gulf, in most Adriatic islands, and in the interior valley of Gacka, more sporadically in the Dalmatian littoral and central Croatia.

Chakavian was the basis for the first literary standard of the Croats. Today, it is spoken almost entirely within Croatia's borders, apart from the Burgenland Croats in Austria and Hungary and few villages in Slovenia.



Contents [hide]
1 History
2 Area of use
3 Phonology
4 Dialects
5 Non-palatal tsakavism
6 Chakavian literary language
7 Recent studies
8 Chakavian media
9 Examples
10 Notes
11 References
12 External links


History[edit]

Chakavian is the oldest written Serbo-Croatian dialect that had made a visible appearance in legal documents−as early as 1275 (Istrian land survey) and 1288 (Vinodol codex), the predominantly vernacular Chakavian is recorded, mixed with elements of Church Slavic. Many of these and other early Chakavian texts up to 17th century are mostly written in Glagolitic alphabet.

Initially, the Chakavian dialect covered a much wider area than today, about two thirds of medieval Croatia: the major part of central and southern Croatia southwards of Kupa and westwards of Una river, as well as western and southwestern Bosnia and Herzegovina. During and after the Ottoman invasion and subsequent warfare (15th–19th centuries), the Chakavian area became significantly reduced. On the Croatian mainland it has recently been almost completely replaced by Shtokavian. It is therefore now spoken in a much smaller coastal area than indicated above.

As expected, in over nine centuries Chakavian has undergone many phonetic, morphological and syntactical changes chiefly in the turbulent mainlands, but less in isolated islands. Yet, contemporary dialectologists are particularly interested in it since it has retained the old accentuation system characterized by a Proto-Slavic new rising accent (neoacute) and the old position of stress, and also numerous Proto-Slavic and some Proto-Indo-European archaisms in its vocabulary.

Area of use[edit]

Chakavian in its actual use is the least spoken Serbo-Croatian dialect, being spoken only by 12% Croats.[citation needed] It is now mostly reduced in southwestern Croatia along the eastern Adriatic: Adriatic islands, and sporadically in the mainland coast, with rare inland enclaves up to central Croatia, and minor enclaves in Austria and Montenegro.
The majority of Adriatic islands are Chakavian, except the easternmost ones (Mljet and Elafiti); and easternmost areas of Hvar and Brač, as well as the area around the city of Korčula on the island of Korčula.
Its largest mainland area is the subentire Istria peninsula, and Kvarner littoral and islands; minor coastal enclaves occur sporadically in the Dalmatian mainland around Zadar, Biograd, Split, and in Pelješac peninsula.
Within the Croatian inland, its major area is the Gacka valley, and minor enclaves occur in Pokupje valley and Žumberak hills, northwards around Karlovac.
Chakavians outside of Croatia: minor enclave of Bigova (Trašte) at Boka Kotorska in Montenegro, the mixed Čičarija dialect in Slovenia, refugees from the Turks in Burgenland (eastern Austria) and SW Slovakia, and recent emigrants in North America (chiefly in New Orleans, Los Angeles, and Vancouver).

Phonology[edit]

The basic phonology of Chakavian, with representation in Gaj's Latin alphabet and IPA, is as follows:



Labial

Alveolar

Post-
alveolar

Palatal

Velar


Nasal
m
m n
n ɲ
nj

Plosive
p b
p b t d
t d c
ć k ɡ
k g

Affricate
ts
c tʃ
č

Fricative
f
f s z
s z ʃ ʒ
š ž x
h

Approximant
ʋ
v l
l j
j

Trill
r
r

Dialects[edit]

The Chakavian dialect is divided along several criteria. According to the reflex of the Common Slavic phoneme yat */ě/, there are four accents:
1.Ekavian accent (northeastern Istria, Rijeka and Bakar, Cres island): */ě/ > /e/
2.Ikavian–Ekavian accent (islands Lošinj, Krk, Rab, Pag, Dugi, mainland Vinodol and Pokupje): */ě/ > /i/ or /e/, according to Jakubinskij's law
3.Ikavian accent (southwestern Istria, islands Brač, Hvar, Vis, Korčula, Pelješac, Dalmatian coast at Zadar and Split, inland Gacka): */ě/ > /i/
4.Ijekavian accent (Lastovo island, Janjina in Pelješac): */ě/ > /je/ or /ije/

Obsolete literature commonly refers to Ikavian–Ekavian dialects as "mixed", which is a misleading term because the yat reflexes were governed by Meyer-Jakubinskij's law.

According to their tonal (accentual) features, Chakavian dialects are divided into the following groups:
1.dialects with the "classical" Chakavian three-tone system
2.dialects with two tonic accents
3.dialects with four tonic accents similar to that of Shtokavian dialects
4.dialects with four-tonic Shtokavian system
5.dialects mixing traits of the first and the second group

Using a combination of accentual and phonological criteria, Croatian dialectologist Dalibor Brozović divided Chakavian into six (sub)dialects:


Name

Reflex of Common Slavic yat

Distribution

Buzet dialect Ekavian (closed e) Northern Istria
Southwestern Istrian Ikavian Western Istria
Northern Chakavian Ekavian Northeast Istria, Istra, Kastav, Rijeka, Cres
Middle Chakavian Ikavian–Ekavian Dugi otok, Kornati, Lošinj, Krk, Rab, Pag, Vinodol, Ogulin, Brinje, Otočac, Duga Resa
Southern Chakavian Ikavian Korčula, Pelješac, Brač, Hvar, Vis, Šolta, outskirts of Split and Zadar
Southeastern Chakavian Ijekavian Lastovo, Janjina on Pelješac, Bigova on the south of Montenegro





Chakavian dialect in Istria, by D. Brozović
sjevernočakavski

buzetski ili gornjomiranski

srednječakavski

južnočakavski

jugozapadni istarski

There is no unanimous opinion on the set of traits a dialect has to possess to be classified as Chakavian (rather than its admixture with Shtokavian or Kajkavian); the following traits were mostly proposed:
interrogatory pronoun is "ča" or "zač" (in some islands also "ca" or "zace");
old accentuation and 3 accents (mostly in ultima or penultima);
phonological features that yield /a/ for Old Slavic phonemes in characteristic positions: "language" is jazik (or zajik) in Chakavian and jezik in Shtokavian;
"j" replacing the Shtokavian "đ" (dj): for "between", Chakavian meju, Shtokavian među;
"m" shifts to "n" at the end of words: standard Croatian volim ("I love"), sam ("I am"), selom ("village" - Instrumental case) become Chakavian volin, san, selon.
in conditional occur specific prefixes: bin-, biš-, bimo-, bite-, bis
contracted or lacking aorist tense;
some subdialects on island of Pag have kept the archaic form of imperfect

Non-palatal tsakavism[edit]

Besides the usual Chakavian (with typical pronoun "ča"), in some Adriatic islands and in eastern Istra another special variant is also spoken which lacks most palatals, with other parallel deviations called "tsakavism" (cakavizam):
palatal "č" is replaced by the sibilant "ts" (c): pronouns ca and zac (or ce and zace).
palatals š (sh) and ž (zh) are replaced by sibilants s and z (or transitive sj and zj).
đ (dj), lj and nj are replaced by the simple d, l and n (without iotation).
Frequent diphthongs instead of simple vowels: o > uo, a > oa, e > ie, etc.
Yat (jat): longer y (= ue) exists in addition to the usual short i (or e).
Appurtenance is often noted by possessive dative (rarely adjective nor genitive)
Vocative is mostly lacking and replaced by a nominative in appellating construction.
Auxiliary particles are always before the main verb: se- (self), bi- (if), će- (be).

The largest area of tsakavism is in eastern Istra at Labin, Rabac and a dozen nearby villages; minor mainland enclaves are the towns Bakar and Trogir. Tsakavism is also frequent in Adriatic islands: part of Lošinj and nearby islets, Baška in Krk, Pag town, the western parts of Brač (Milna), Hvar town, and subentire Vis with adjacent islets.

The first two features are similar to Mazurzenie, occurring in a few dialects of Polish, and Tsokanye, occurring in the Old Novgorod dialect of Old East Slavic.

Chakavian literary language[edit]

Since Chakavian was the first Serbo-Croatian dialect to emerge from the Church Slavic matrix, both literacy and literature in this dialect abound with numerous texts - from legal and liturgical to literary: lyric and epic poetry, drama, novel in verses, as well as philological works that contain Chakavian vocabulary. Chakavian was the main public and official language in medieval Croatia from 13th to 16th century.

Monuments of literacy began to appear in the 11th and 12th centuries, and artistic literature in the 15th. While there were two zones of Čakavian, northern and southern (both mainly along the Adriatic coast and islands, with centres like Senj, Zadar, Split, Hvar, Korčula), there is enough unity in the idiom to allow us to speak of one Chakavian literary language with minor regional variants. This language by far surpassed the position of a simple vernacular dialect and strongly influenced other Serbo-Croatian literary dialects, particularly Shtokavian: the first Shtokavian texts such as the Vatican Croatian Prayer Book, dated to 1400, exhibit numerous literary Chakavianisms. The early Shtokavian literary and philological output, mainly from Dubrovnik (1500–1600) up to Džore Držić, was essentially a mixed Shtokavian–Chakavian idiom, mostly similar to the Jekavian Chakavian of Lastovo and Janjina. Chakavian literature uses many words of Latin, Dalmatian, and Italian origin due to the numerous contacts with these languages.

The most famous early Chakavian author is Marko Marulić in 15th/16th century. Also, the first Croatian dictionary, authored by Faust Vrančić, is mostly Chakavian in its form. The tradition of the Chakavian literary language had declined in the 18th century, but it has helped shape the standard Croatian language in many ways (chiefly in morphology and phonetics), and Chakavian dialectal poetry is still a vital part of Croatian literature.

The most prominent representatives of Chakavian poetry in the 20th century are Vladimir Nazor and Drago Gervais. At the end of the 1980s in Istria there began a special subgenre of pop-rock music "Ča-val" (Cha wave); artists that were part of this scene used the Chakavian dialect in their lyrics, and often fused rock music with traditional Istra-Kvarner music.

Recent studies[edit]

Due to its archaic nature, early medieval development, and impressive corpus of vernacular literacy, the typical Chakavian dialect has attracted numerous dialectologists who have meticulously documented its nuances, so that Chakavian was among the best described Slavic dialects, but its atypical tsakavism was partly neglected and less studied. The representative modern work in the field is Čakavisch-deutsches Lexikon, vol. 1.-3, Koeln-Vienna, 1979–1983, by Croatian linguists Hraste and Šimunović and German Olesch.

The Croatian Academy of Sciences and Arts is currently engaged in editing a multivolume dictionary of the Chakavian literary language, based on the wealth of literature written in Chakavian. So far one published more than forty dictionaries of local Chakavian varieties, the largest among them including more than 20,000 words are from locations such as Split town, Gacka valley, Brač and Vis islands, Baška in Krk, and Beli in Cres.

Other recent titles include Janne Kalsbeek's work on The Cakavian Dialect of Orbanici near Zminj in Istria, as well as Keith Langston's Cakavian Prosody: The Accentual Patterns of the Cakavian Dialects of Croatian.

チャ方言

チャ方言(クロアチア語:čakavski)は、クロアチア語の3つの主要な方言の1つ。主にクロアチアの西部の地域で話される。

シュト方言

シュト方言(シュトほうげん、セルビア・クロアチア語:Štokavski)は、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語などのセルビア・クロアチア語の主要な方言のひとつである。

シュト方言はセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナのほぼ全域、およびオーストリアのブルゲンラント州南部、クロアチアの一部で話されている。セルビア語、クロアチア語、ボスニア語の標準形は新シュト方言を土台としている。その呼称は、シュト方言では疑問代名詞の「何」を「što」ないし「šta」とすることに由来する。これに対して、クロアチア語のカイ方言やチャ方言では、同じ疑問代名詞はそれぞれ「kaj」、「ča」となる。

シュト方言の主要な下位区分は、2つの要素の基づいて分類される。ひとつには古シュト方言と新シュト方言にわける区分であり、もうひとつにはスラヴ祖語のヤト(Ѣ)の変化による。スラヴ祖語におけるヤトが、「e」となるものをエ方言、「ije」となるものをイェ方言、「i」となるものをイ方言と呼ぶ。一般的に、現代の方言区分では、シュト方言は7つの下位方言に分類される。このほかに更に1つないし2つの下位方言があるとする意見もある。



目次 [非表示]
1 シュト方言の前史
2 シュト方言の下位方言 2.1 古シュト方言 2.1.1 ティモク=プリズレン(トルラク方言)
2.1.2 スラヴォニア方言
2.1.3 東部ボスニア方言
2.1.4 ゼタ=南サンジャク方言
2.1.5 コソボ=レサヴァ方言

2.2 新シュト方言 2.2.1 西イ方言
2.2.2 シュマディヤ=ヴォイヴォディナ方言
2.2.3 東ヘルツェゴビナ方言


3 ヤトの変化
4 シュト方言の下位方言と民族的差異
5 シュト方言で書かれた初期の文書
6 標準形
7 参考文献
8 関連文献
9 外部リンク


シュト方言の前史[編集]

原始シュト方言は12世紀に現れた。その後2世紀の間に、シュト方言は2つの地域に分かれる。西部の方言は、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分、およびクロアチアのスラヴォニア地方にみられ、他方で東部の方言はボスニア・ヘルツェゴビナの東端、およびセルビアとモンテネグロの大部分を含む。西部シュト方言は更に3つに分かれ、東部シュト方言は2つに分かれる。歴史的な文献調査より、古シュト方言は15世紀中ごろに確立されたことが知られている。この時代でも、古シュト方言は教会スラヴ語とさまざまな面で混合していた。、クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナの多くの部分ではチャ方言との混合もあった。

シュト方言の下位方言[編集]

シュト方言は古シュト方言と新シュト方言に分けられる。





シュト方言の下位方言分布図。この図ではティモク=プリズレン方言が、トルラク方言とプリズレン=南モラヴァ方言に分けられている。また、コソボ=レサヴァ方言からスメデレヴォ=ヴルシャツ方言が分離されている。
古シュト方言[編集]

ティモク=プリズレン(トルラク方言)[編集]

詳細は「トルラク方言」を参照

トルラク方言は最も古い方言はブルガリアとの国境に近いティモク(Timok)からプリズレンにかけて広がる。言語学者の間で、この方言がシュト方言の下位に属するのかについては合意が得られていない。トルラク方言の形態論的な特徴は、一般的なシュト方言とは大きく異なり、むしろシュト方言と東南スラヴ語(ブルガリア語、マケドニア語など)との中間的な特徴を持つ遷移方言の特徴を示している。この地方の方言は、オスマン帝国がこの地方を14世紀に征服したことにより、シュト方言の主流から分断されたものと考えられる。ティモク=プリズレン方言はバルカン言語連合の特徴を持つようになる。格変化は消滅したも同然となり、不定詞はda構文の接続法に融合し、冠詞は語尾変化へと移行した。方言のアクセントは強弱アクセントとなり、強アクセントはどの音節にもつき得る。古い半母音はあらゆるところで失われた。音節主音の「l」は保存されており(vlk = 標準ではvuk)、幾らかの方言では「ć」と「č」、「đ」と「dž」の区別をせず、それぞれ後部歯茎音である後者に融合した。この方言に属する幾らかの下位方言では、語末の「l」は残されている(došl、znalなど。 cf. カイ方言、ブルガリア語)が、その他ではこの語末の「l」は音節「ja」に置き換わっている。

これらの方言の話者はメトヒヤ地方のプリズレン、ジラン(グニラネ、Gnjilane)、シュテルプツァ(シュトルプツェ、Štrpce) や、セルビア南部のブヤノヴァツ(Bujanovac)、ヴラニェ(Vranje)、レスコヴァツ(Leskovac)、ニシュ、アレクシナツ(Aleksinac)、トプリツァ渓谷(Toplica Valley)の一部プロクプリェ(Prokuplje)、セルビア東部のピロト(Pirot)、スヴルリグ(Svrljig)、ソコ・バニャ(Soko Banja)、ボリェヴァツ(Boljevac)、クニャジェヴァツ(Knjaževac)から、コソボ=レセヴァ方言が主流となるザイェチャル(Zaječar)あたりまで広がっている。

スラヴォニア方言[編集]

詳細は「ショカツ語」を参照

スラヴォニア方言はショカツ語(Šokački)、あるいは古シュチャ方言とも呼ばれ、スラヴォニア地方の一部、クロアチアおよびヴォイヴォディナのバチュカ(Bačka)、バラニャ(Baranja)、スリイェム(Srijem)、北部ボスニアなどに住むショカツ人によって話されている。スラヴォニア方言はイ方言とエ方言を混交した発音である。イ方言はポサヴィナ、バラニャ、バチュカ、およびスラヴォニア方言の下位方言の飛び地であるデルヴェンタ(Derventa)で優勢であり、エ方言はポドラヴィナ(Podravina)地方で優勢である。エ方言が優勢な地域の中にイ方言の飛び地があったり、その逆のパターンも多くみられる。同様にエ方言=イ方言混交とエ方言=イェ方言混交が飛び地状に入り混じるパターンもある。ハンガリーの複数の村では、スラヴ祖語のヤトがそのまま保存されている。局地的な変種は、新シュト方言の影響の受容度に応じて数多く存在する。ポサヴィナ地方の2つの村、シチェ(Siče)およびマギチャ・マレ(Magića Male)では、動詞「nosil」等で古い「l」が残されており、現代の標準的な「nosio」とは異なる。ポドラヴィナ地方の複数の村では、「cr」に代わって「čr」が用いられており、たとえば「crn」ではなく「črn」となる。こうした特徴はカイ方言では一般的であるが、シュト方言では極めて珍しい。

東部ボスニア方言[編集]

東部ボスニア方言はシュチャ・イェ方言(jekavian šćakavian)とも呼ばれ、ほとんどの地域でイェ方言の発音がなされる。この地域に住むボシュニャク人(ボスニア・ムスリム人)、セルビア人、クロアチア人の多くはこの方言を話し、ボスニア・ヘルツェゴビナの大都市サラエヴォやトゥズラ、ゼニツァ(Zenica)などで話されている。一般的なイェ方言の特徴に加えて、テシャニ(Tešanj)やマグライ(Maglaj)ではエ方言=イェ方言混交(dete-djeteta)、ジャプチェ(Žepče)やヤブラニツァ(Jablanica)ではイェ方言=イ方言混交(djete-diteta)が見られる。この地方の中央地域の下位方言では、古語の「l」やより一般的な「u」(vuk、stup)に代わって、二重母音「uo」(vuok、stuop)が幾らかの単語においてみられる。

ゼタ=南サンジャク方言[編集]

ゼタ=南サンジャク方言は古イェ方言とも呼ばれる。この方言はモンテネグロ東部、ポドゴリツァやツェティニェ、セルビア領サンジャク地方東部のノヴィ・パザル(Novi Pazar)、イストリア半島のペロイ(Peroj)にも見られる。主流のイェ方言の発音に加えて、イェ方言=エ方言混交(djete-deteta)がノヴィ・パザルやビイェロ・ポリェ(Bijelo Polje)で、イ方言=イェ方言混交(dite-đeteta)がポドゴリツァで、エ方言=イェ方言混交(dete-đeteta)がモンテネグロ南部の村ムルコイェヴィチ(Mrkojevići)で見られる。ムルコイェヴィチではまた、ポドラヴィナの村々と同様に「cr」に代わって「čr」が維持されている特徴も見られる。

幾らかの方言では古語の「ь/ъ」が特殊な変形を遂げているケースも見られ、これらはシュト方言およびチャ方言では非常に珍しい。(aとeの中間的な母音を持ち、san や danに代わってsän や dän)が見られる。その他の特殊な音韻的特長としては、[ʝ]の音(ここではʝで表記。「izjesti」に代わって「iʝesti」)や、[ç]の音(ここではśで表記。sjekiraに代わってśjekira)の存在がある。しかし、これらの音素はまた東ヘルツェゴビナのコナヴレ(Konavle)にも見られ[1]、モンテネグロだけに特徴的なものではない。/lj/と/l/の区別が幾らかの方言では失われており、これはアルバニア語の影響である。「pjesma」を「pļesma」(pljesma)とするのは、標準形のljがこの方言でのjに対応していることを知っていることによる過剰修正(Hypercorrection)である。

全ての動詞は不定形が「t」で終わる(pjevatなど)。この特徴はほぼ全ての東ヘルツェゴビナ方言にもあてはまる。そしてほとんどのセルビア語およびクロアチア語の方言にも共通している。

「a + o」の組は「a」となる(「kao」に代わって「ka」が、「rekao」に代わって「reka」となる)。これは他のセルビア語およびクロアチア語の沿岸部の方言と共通である。その他の地方では、「ao」が「o」になるほうが一般的である。

モンテネグロの民族主義者の間では、セルビア語から切り離して、ゼタ方言を基盤とした「モンテネグロ語」の地位を確立しようとする運動がある。モンテネグロでは2007年より憲法でモンテネグロ語が第一公用語とされた。

コソボ=レサヴァ方言[編集]

コソボ=レサヴァ方言は古いイェ方言とも呼ばれ、コソボの西部および北東部のコソボ渓谷。コソヴスカ・ミトロヴィツァ(ミトロヴィツァ)やペーチ(ペヤ)周辺、イバル渓谷のクラリェヴォ(Kraljevo)、クルシェヴァツ(Kruševac)、トルステニク(Trstenik)、トプリツァ渓谷(Toplica)のクルシュムリヤ(Kuršumlija)のジュパ(Župa)、モラヴァ渓谷(Morava)のヤゴディナ(Jagodina)、チュプリヤ(Ćuprija)、パラチン(Paraćin)、ラポヴォ(Lapovo)、レサヴァ渓谷(Resava)のスヴィライナツ(Svilajnac)、デスポトヴァツ(Despotovac)、セルビア北東部のスメデレヴォ(Smederevo)、ポジャレヴァツ、ボル(Bor)、マイダンペク(Majdanpek)、ネゴティン(Negotin)、ヴェリカ・プラナ(Velika Plana)、バナト地方のコヴィン(Kovin)、ベラ・ツルクヴァ(Bela Crkva)、ヴルシャツ(Vršac)などの周辺で話されている。

ヤトはほとんどの地域でエ方言として発音され、与格の語尾も(「ženi」に代わって「žene」)、主格も(「tih」に代わって「teh」)、比較級も(「dobriji」に代わって「dobrej」)、bitiの否定形も(「nisam」に代わって「nesam」)、「e」となる。スメデレヴォ=ヴルシャツ弁の話者の間ではイ方言もみられる(「gde si?」に代わって「di si?」)。しかしながら、スメレデヴォ=ヴルシャツ弁(セルビア北東部およびバナトで話される)は、この方言からは独立した方言であるとする見方もある。スメデレヴォ=ヴルシャツ弁はシュマディヤ=ヴォイヴォディナ方言とコソボ=レセヴァ方言の特徴の混交が見られる。

新シュト方言[編集]

西イ方言[編集]

西イ方言はボスニア=ダルマチア方言、あるいは若いイ方言とも呼ばれ、リカ(Lika)、クヴァルネル(Kvarner)、ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、バチュカに住むほとんどのクロアチア人によって話される。ボスニア西部のビハチ周辺(Bihać、Turkish Croatia地方)および中央ボスニア(トラヴニク Travnik、ヤイツェ Jajce、ブゴイノ Bugojnoなど)に住むボシュニャク人もこの方言を話していた。イ方言の特徴の他には、ボスニア・ヘルツェゴビナでは動詞の分詞に「-o」を用い、ダルマチアやリカでは「-ija」や「-ia」を用いる(例:vidija/vidia)。バチュカの方言はヴォイヴォディナのブニェヴァツ人の間で、新しくブニェヴァツ語(Bunjevac language)を樹立する基盤として提案されたことがあった。

シュマディヤ=ヴォイヴォディナ方言[編集]

シュマディヤ=ヴォイヴォディナ方言は若いエ方言とも呼ばれ、セルビアの北部から西部にかけての、シュマディヤ地方(Šumadija)のクラグイェヴァツやヴァリェヴォ(Valjevo)、そしてマチュヴァ(Mačva)ではシャバツ(Šabac)やボガティチ(Bogatić)周辺のみに限り、ロズニツァ(Loznica)やポドリニェ(Podrinje)を除いて話され、またベオグラードからクロアチア東部のヴコヴァル周辺までで話されている。その主流はエ方言である(形態論的には、元来はイ方言であった)。ヴォイヴォディナの幾らかの地域では、失われた古い形態が残っている。多くのヴォイヴォディナの方言や、一部のシュマディヤの方言は開いた「e」や「o」がある。しかしながら、セルビア西部や、ベオグラードおよびバチュカ南西部(ボルチャ Borča、パンチェヴォ Pančevo、バヴァニシュテ Bavanište)の古い方言と関連のある方言では、より標準に近いものが多い。この方言は、セルビア語のエ方言による標準形の基盤となっている。

東ヘルツェゴビナ方言[編集]

東ヘルツェゴビナ方言は、東ヘルツェゴビナ=ボスニア・クライナ方言、あるいは若いイェ方言とも呼ばれる。この方言は、シュト方言の、そしてセルビア・クロアチア語のなかで最大の方言である。この方言はモンテネグロの西部(古ヘルツェゴビナ地方)、およびボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人、クロアチアのセルビア人の大半、および西部セルビア、スラヴォニア、バラニャ、コルドゥン(Kordun)などのかつてセルビア人が多数派であった地方に住む一部のクロアチア人、そしてネレトヴァ川以南のドゥブロヴニク周辺でも話される。この方言はセルビア語標準形の基礎となった方言のひとつである。他方、クロアチア語標準形は複数の地方の方言の混交であり、シュト方言以外の方言の要素も含む。東ヘルツェゴビナ方言の南東部の形は、音素 /x/ の完全な欠落が大きな特徴である。この音素は完全に抜け落ちるか、場合によって音素 /k/ や音素 /g/ に置き換わっている。この方言が話される袋地であるジュンベラク(Žumberak)や、ドゥブロヴニク周辺では一部に特殊な特徴を持っており、チャ方言や西イ方言の影響が見られる。

ヤトの変化[編集]

スラヴ祖語の母音であるヤトは、歴史の経過と共にその発音が変化し、シュト方言では3つの異なる形となった。
エ方言(ekavski): ヤトは母音「e」へと合流した
イ方言(ikavian): ヤトは母音「i」となった
イェ方言(ijekavskiあるいはjekavski): 母音は長さに応じて「ije」あるいは「je」と書かれる

歴史的には、ヤトの変遷はシュト方言の発展の以前から、教会スラヴ語での記述に見られる。これが各方言の形成期の始まりに影響している。初期の文書は、ほぼ全て、ないし大半が教会スラヴ語のセルビア、クロアチア変種である。確実にヤトが「エ」となった変化を反映している、知られる限り最古の文書はセルビアで書かれたものであり("beše"、「…であった」)、1289年と記録されている。「イ」はボスニアで1331年に書かれたもの("svidoci"、「証言」)であり、また「イェ」はクロアチアで1399年に書かれたもの("želijemo"、「我らは希求する」)であった。部分的な変化を伺い知ることのできるものはより古い文書からも見つかっており、たとえばイ方言はボスニアで13世紀後半に書かれたものがある。しかし、遅くとも前述の時代までにはヤトの変化があったことは広く認められている。20世紀後半、ヤトの現出が一定でない局所的な方言が多く発見された[2]。教会スラヴ語に入り込んだ各地の訛りの影響は次第に増えていき、やがては完全に各地の方言に取って代わられていった。この過程は19世紀中ごろまで、相互の影響なしにクロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人の間でそれぞれ独立に進行していった。たとえば、ボシュニャク人の間では、失われた音素 /h/ が複数の語に再導入された。これは、主にクルアーンに基づく宗教教育の影響である。

エ方言は主にセルビアで、そしてクロアチア西部でも限定的に使用されている。イ方言は西部および中央ボスニア、西部ヘルツェゴビナ、スラヴォニア、そしてクロアチアのダルマチア地方で広く話されている。イェ方言は、クロアチアの主要部、ダルマチア南部、ボスニアおよびヘルツェゴビナの大半、モンテネグロの大半で話されている。以下に例を示す。


日本語

基本

エ方言

イ方言

イェ方言

時間 vrěme vreme vrime vrijeme
美しい lěp lep lip lijep
女の子 děvojka devojka divojka djevojka
真実の věran veran viran vjeran
座る sědĕti sedeti (sèdeti) siditi (sìdeti) sjediti
白髪が伸びる sědeti sedeti (sédeti) siditi (sídeti) sijediti
熱する grějati grejati grijati grijati

長い「ije」は、多くのイェ方言の話者の間で二重母音的である。ゼタ方言や多くの東ヘルツェゴビナ方言では、「ije」は2つの音節となっている。セルビアの音声学者は、「ije」を独立した音素とは見なしていない。この差異は、クロアチアの国歌「私たちの美しい故国」とモンテネグロの国歌「五月の夜明け」の1番の歌詞に顕著に見ることができる。それぞれ、前者では「Lije-pa na-ša do-mo-vi-no」、後者では「Oj svi-je-tla maj-ska zo-ro」と歌われている。

シュト方言の下位方言と民族的差異[編集]

19世紀前半において、初期のスラヴ学の提唱者たちは、南スラヴ諸方言について考察し、各方言の話者の民族性との関連に関する複雑な論争に発展していった。これは、歴史的な視点からは、これらの「奇怪な」議論は、むしろ政治的・民族主義的な立場に基づいたものであり、それぞれが自身のイデオロギーを動機としていたと見られている。この論争で活躍したのは、チェコ人の言語学者ヨセフ・ドブロフスキー(Josef Dobrovský)、スロヴァキア人のパヴェル・シャファーリク(Pavel Šafárik)、スロヴェニア人のイェルネイ・コピタル(Jernej Kopitar)およびフランツ・ミクロシッチ、セルビア人のヴーク・カラジッチ、クロアチア人のボゴスラヴ・シュレク(Bogoslav Šulek)、ヴァトロスラヴ・ヤギッチ(Vatroslav Jagić)などであった。

基本的には、「言語学的には」誰がクロアチア人、スロベニア人、あるいはセルビア人なのかという定義について、それぞれ自民族の領域や影響範囲を大きくすることを目的に議論は繰り返された。ロマンス主義や民族勃興の中から生まれたこれらの複雑怪奇な議論は、結局これらの民族の位置づけを定義することのみに留まった。これは主に、シュト方言の下位方言区分はそれぞれ民族をまたいで広がり、民族ごとに分離することができなかったことによる。他の方言と同様に、シュト方言も「多民族的な」方言であった。

しかしながら、これらのシュト方言の下位方言話者たちは、民族性の確立と固定化の過程を経て、シュト方言のうちいくつかの有力な方言の話者へと代わっていった。メディアによる言語標準化の運動は19世紀に起こり、多くの話者たちに影響を与えた。以下の分布の記述に関しては、前述のことに注意されたい。

古シュト方言は、現代の民族境界線に対して、次の位置づけにある。
コソボ=レサヴァ方言(エ方言): セルビア人が大半
ゼタ=南サンジャク方言(イェ方言): モンテネグロ人、ボシュニャク人、セルビア人
スラヴォニア方言(ヤトの現出方式は多様であり、イ方言が多いものの、イェ方言やエ方言もある): ほとんどがクロアチア人
東ボスニア方言(イェ方言): ほとんどがボシュニャク人とクロアチア人

一般に、新シュト方言は、現在の民族境界線に対して、次の位置づけにある。
シュマディヤ=ヴォイヴォディナ方言(エ方言): ほとんどがセルビア人
ダルマチア=ボスニア方言(イ方言): ほとんどがクロアチア人とボシュニャク人
東ヘルツェゴビナ方言(イェ方言): セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、ボシュニャク人


区分

下位方言

セルビア語

クロアチア語

ボスニア語

モンテネグロ語

古シュト方言 コソボ=レサヴァ方言 ○
ゼタ=南サンジャク方言 ○ ○ ○
スラヴォニア方言 ○
東ボスニア方言 ○ ○
新シュト方言 シュマディヤ=ヴォイヴォディナ方言 ○
ダルマチア=ボスニア方言 ○ ○
東ヘルツェゴビナ方言 ○ ○ ○ ○

シュト方言で書かれた初期の文書[編集]

初期シュト方言、あるいはシュト方言へと変容した教会スラヴ語は、クリン大公(ban Kulin)の勅許などの公的な書類にも見られる。この勅許は、ボスニアとドゥブロヴニクの交易に関する取り決めであり、1189年のものである。また、グルシュコヴィッチ(Gršković)とミハイロヴィッチ(Mihanović)の未完原稿(1150年)などの、南ボスニアやヘルツェゴビナの宗教的な文書にもみられる。専門家の意見は2つに分かれており、これらの文書、とくにクリン大公の勅許について、現在にもみられるシュト方言の局所方言と見なしうるか否か、統一した見解は得られていない。主に、教会スラヴ語の影響を受けたシュト方言は、オスマン帝国以前の時代のボスニアやザフムリェ、セルビア、ゼタ公国、南ダルマチア特にドゥブロヴニクなどで、多くの法的、商業的文書に使われている。最初の広範なシュト方言の文書はバチカン・クロアチア語祈祷書(en)であり、1400年より10年ないし20年ほど前にドゥブロヴニクにて書かれたものである。その後2世紀にわたって、シュト方言の文書は主にドゥブロヴニクやその他のドゥブロヴニクの影響下にあったアドリア海沿岸地域や島嶼部、ならびにボスニアで書かれていた。

標準形[編集]

ボスニア語、クロアチア語、セルビア語の標準形はすべて、新シュト方言を基盤にしている。

しかしながら、これらの標準形は、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の相互の差異とは関係がなく、新シュト方言の幾らかの特徴(たとえば、ディクレンション)はそのまま維持されたものの、別の特徴は取り除かれたり、新たに付け加えられたりした。たとえば、音素 /h/ は、これらの標準形に再導入されたものである。

クロアチア語は、シュト方言の下位方言による読み書きと文学の長い伝統を持っている。ほぼ4世紀半にわたって、シュト方言はクロアチア語標準形の基盤として優位な立場に立ち続けていた。その他の時代では、チャ方言やカイ方言、チャ方言とカイ方言、シュト方言の混交言語をクロアチア語の標準に推す動きがあったものの、この試みは成功しなかった。この試みの失敗は、主に歴史的、政治的な理由によると思われる。1650年代、既にシュト方言がクロアチア語の標準形の基盤をなしていることは間違いなかったものの、最終的にその地位を固めたのは1850年代のことであった。このとき、新シュト方言のイェ方言で、主にドゥブロヴニク、ダルマチア、スラヴォニアの歴史的な書法が、国家的な標準として定められた。

セルビア語はこれよりもずっと早くから標準化が進んでいた。文語体は18世紀に現れたものの、ヴーク・カラジッチによって1818年から1851年にかけての急進的な過去からの脱却と、新シュト方言の伝統文化を基盤とした新しいセルビア語標準形が制定された。カラジッチはイェ方言を用いたものの、多くのセルビア人はエ方言を用いた。エ方言はセルビアで多数派を占める形態である。クロアチアやボスニアに住むセルビア人や、モンテネグロ人はイェ方言によるセルビア語標準形を用いた。

ボスニア語は、20世紀末から21世紀初頭にかけて、標準化が進められている段階にある。ボシュニャク人の言語はセルビア語イェ方言とクロアチア語の中間的なものであり、そこに幾らかの特色が加わったものである。ユーゴスラビア崩壊後、ボシュニャク人は彼ら自身による標準形への願いを具現化させ、新シュト方言に基づくものの、彼らの特徴を(音素から文法まで)反映したボスニア語を制定した。

アクセントに関して現代の状況は流動的である。音声学者によれば、4種類のアクセントがあり、これらはいずれも流動化している。これによって、従来の4種類に代わって3種類のアクセントを規定する提案がなされている。これは特にクロアチア語で現実的であり、それは従来とは逆にカイ方言やチャ方言からクロアチア語標準形に流入した影響とみられる。

クロアチア語、セルビア語、ボスニア語の標準形は、いずれも新シュト方言を基盤としており(より厳密には、新シュト方言の幾らかの下位方言を基盤としている)、互いに理解可能であり、規定の文語体あるいは標準形の上では違いが認識できる。これら3つの標準形は文法においてほぼ同一であるものの、その他の点(音声、音韻論、形態論など)において異なっている。

「:en:Differences in official languages in Serbia, Croatia and Bosnia」も参照
例: 「Što jest, jest; tako je (uvijek / uvek) bilo, što će biti, ( biće / bit će ), a nekako već će biti!」
上記の例では、第1文の中ほどにある最初の選択(uvijek / uvek)は標準形によらずエ方言とイェ方言による差異である。2番目の文の中ほどにある2番目の選択はセルビア語とクロアチア語の標準形による差異である。

別の典型的な例として、次のようなものがある。

トルラク方言

トルラク方言(セルビア語:Торлачки дијалект / Torlački dijalekt セルビア語発音: [tɔ̌rlaːk]、ブルガリア語:Торлашки диалект / Torlashki dialekt)は、セルビア南東部(クニャジェヴァツ - ニシュ - プレシェヴォ)、コソボ(グニラネ - プリズレン)、マケドニア共和国北東部(クラトヴォ - クマノヴォ)、ブルガリア西部(ベログラトチク - ゴデチ - トルン - ブレズニク)といった地方で話される方言であり、セルビア・クロアチア語とブルガリア・マケドニア語の中間に位置する遷移方言である。

言語学者によってはこの言語(方言)を、シュト方言、カイ方言、チャ方言と並ぶセルビア・クロアチア語の4つめの主要方言群とする。一方でこの言語をブルガリア語西部方言の一部とみなす言語学者もいる。トルラク方言には標準形はなく、またトルラク方言に属する諸方言にも多くの多様性がある。

この言語を話すのは、民族的にはセルビア人、ブルガリア人、マケドニア人にまたがっている。また、ルーマニアに住む少数のクロアチア人(クラショヴァ人や、コソボ南部に住むブルガリア人・マケドニア人と近縁のゴーラ人もトルラク方言の話者である。



目次 [非表示]
1 分類
2 特徴 2.1 語彙
2.2 格の消失
2.3 音素 /x/ の消失
2.4 音節主音の /l/
2.5 東部南スラブ語との共通点
2.6 西部南スラブ語との共通点

3 書物
4 民族誌
5 脚注 5.1 参考文献



分類[編集]

19世紀の間、トルラク方言やマケドニア語はブルガリア語の一部とみなされることも多かった。19世紀から20世紀初頭にかけて、ブルガリア人、セルビア人それぞれの言語学者は、それぞれの軍隊と同様にセルビア語とブルガリア語の境界を策定するために闘争を繰り広げた[1]。

パヴレ・イヴィッチ(Pavle Ivić)やアシム・パツォ(Asim Peco)などのセルビア人の言語学者たちは、トルラク方言をセルビア語のシュト方言の一部とみなし、プリズレン=ティモク方言と呼んだ[2][3]。パヴレ・イヴィッチは、ブルガリア語の方言の一部はブルガリア語よりもむしろセルビア語に近いとして、プリズレン=ティモク方言は完全にセルビア語に属するものと主張し、ブルガリア語遷移方言(英語版)やショプ人(英語版)といったものは東部南スラヴ語群(ブルガリア語など)よりも西部南スラヴ諸語(セルビア語など)に近いとした[2][3]

他方で、クルステ・ミシルコフ(英語版)やベニョ・ツォネフ(Benyo Tsonev)、ガヴリル・ザネトフ(Gavril Zanetov)といったブルガリアの言語学者らはトルラク方言をブルガリア語の方言に分類している。彼らは、格の消失などの文法的な特徴をもとに、トルラク方言をブルガリア語に属するものとしている。ストイコ・ストイコフ(英語版)、ランゲル・ボジコフ(Rangel Bozhkov)などは、この言語をブルガリア語のベログラトチク=トルン方言に分類し、シュト方言の範疇に含めるべきではないとしている。ストイコフはトルラク方言の文法はブルガリア語のものに近く、その起源がブルガリア語にあることを示しているとしている[4]。

クロアチアの言語学者ミラン・レシェタル(英語版)は、トルラク方言(レシェタルによれば「スヴルリグ方言 (Svrlijg)」はシュト方言とは異なる方言群であるとしている[5]。別のクロアチアの言語学者ダリボル・ブロゾヴィッチ(英語版)もまた、トルラク方言はシュト方言とは異なるとしている[6]。

トルラク方言は、ブルガリア語・マケドニア語とセルビア語が入り交じる地域で見られる。

特徴[編集]

語彙[編集]

トルラク方言の基礎語彙はほとんどがセルビア語、ブルガリア語およびマケドニア語同様にスラヴ祖語に起源を持つものであるが、シャル山脈のゴーラ地方ではアルーマニア語、ギリシャ語、トルコ語、アルバニア語などからの借用語も多く見られる。また、多くの主要言語では使われなくなったり意味が変わってしまった古い語が残されている。なお、トルラク方言に属する諸方言の間でも差異は大きく、例えばルーマニアのクラショヴァ人はゴーラ人の言語を理解できるとは限らない。

スラヴ系の各国で話されるトルラク方言は、特に新しく導入された単語や概念において、それぞれその国の標準形の言語の影響を受けている。この例外はルーマニアであり、オスマン帝国の衰退後に誕生したスラヴ各国の標準語の影響を免れている。この地方に古来より住むスラヴ人はクラショヴァ人(英語版)(カラショヴァ人)と呼ばれており、彼らはセルビア東部のティモチュカ・クライナ(英語版)から移住した人々と移住先のルーマニアに住むスラヴ人とが混合した民族集団である。

格の消失[編集]

マケドニア語およびブルガリア語は現代のスラヴ諸語において数少ない、ほぼすべての格が失われた言語であり、名詞の多くは主格の形のみのこされている。トルラク方言もこの特徴を持っている。北西においては具格が属格と統合され、さらに処格と属格が統合される。更に南ではあらゆる屈折が消失し、意味的関係は前置詞のみによって決まるようになる。

音素 /x/ の消失[編集]

マケドニア語、トルラク方言、ならびにブルガリア語やセルビア語の一部の方言では、他のスラヴ諸語と異なり、[x]、[ɦ]、[h]といった音価は存在しない。この他のスラヴ諸語では、スラヴ祖語の「*g」に由来する[x]や[ɦ]といった音価は広く一般的である。マケドニア語における「h」の大部分は、借用語や、ペフチェヴォ(Пехчево / Pehčevo)などの一部の方言が話される地方の地名にみられるものである。これに対してマケドニア語標準形はプリレプの方言を土台としている。「千」や「強要」はマケドニア語標準形ではそれぞれ「iljada」、「itno」であるのに対してセルビア語標準形では「hiljada」、「hitno」となっている。また、「ホラ」や「美しい」はマケドニア語標準形の「oro」、「ubav」に対してブルガリア語標準形では「horo」、「hubav」となっている。この違いを分け隔てる等語線は、マケドニア共和国南端でプリレプとペフチェヴォの間を通り、中央セルビアのシュマディヤ(英語版)に達する。シュマディヤの土着の民謡では、「私は欲する」を意味する語として「оћу / oću」が使われており、これはセルビア語標準形では「хоћу / hoću」となる。

音節主音の /l/[編集]

トルラク方言では、古語に見られる音節主音の/l/が残されており、/r/と同様に音節の主音として機能している。/l/は西スラヴ語群の一部では現代でも音節主音として残っている。シュト方言では、音節主音の/l/は/u/や/o/へと変化した。ブルガリア語では、/l/の前に「ъ」の文字で表される母音/ɤ/が挿入されることで、子音クラスタが切り分けられた。トルラク方言に属する全ての方言で/l/が完全に保存されているわけではなく、完全に音節主音となっているものから[ə]、[u]、[ɔ]、[a]といった母音を伴うようになったものまで様々である。音節主音の/l/は多くが軟口蓋化して[ɫ]へと変化している[7]。


トルラク方言

クラショヴァ方言(カラシュ)
влк
vlk
/vɫk/ пекъл
pekăl
/pɛkəl/ сълза
sălza
/səɫza/ жлт
žlt
/ʒɫt/

北部方言(スヴルリグ)
вук
vuk
/vuk/ пекал
pekal
/pɛkəɫ/ суза
suza
/suza/ жлът
žlăt
/ʒlət/

中部方言(ルジュニツァ)
вук
vuk
/vuk/ пекъл
pekăl
/pɛkəɫ/ слъза
slăza
/sləza/ жлът
žlăt
/ʒlət/

南部方言(ヴラニェ)
вълк
vălk
/vəlk/ пекал
pekal
/pɛkal/ солза
solza
/sɔɫza/ жълт
žălt
/ʒəɫt/

西部方言(プリズレン)
вук
vuk
/vuk/ пекл
pekl
/pɛkɫ/ слуза
sluza
/sluza/ жлт
žlt
/ʒlt/

東部方言(トルン)
вук
vuk
/vuk/ пекл
pekl
/pɛkɫ/ слза
slza
/slza/ жлт
žlt
/ʒlt/

北東部方言(ベログラトチク)
влк
vlk
/vlk/ пекл
pekl
/pɛkɫ/ слза
slza
/slza/ жлт
žlt
/ʒlt/

南東部方言(クマノヴォ)
влк
vlk
/vlk/ пекъл
pekăl
/pɛkəɫ/ слъза
slăza
/sləza/ жут
žut
/ʒut/

セルビア語標準形
вук
vuk
/vuk/ пекао
pekao
/pɛkaɔ/ суза
suza
/suza/ жут
žut
/ʒut/

ブルガリア語標準形
вълк
vălk
/vɤɫk/ пекъл
pekăl
/pɛkɐɫ/ сълза
sălza
/sɐɫza/ жълт
žălt
/ʒɤɫt/

マケドニア語標準形
волк
volk
/vɔlk/ пекол
pekol
/pɛkol/ солза
solza
/sɔlza/ жолт
žolt
/ʒɔlt/

日本語
オオカミ 焼いた 涙 黄色

東部南スラブ語との共通点[編集]
一般名詞の格がない(ブルガリア語・マケドニア語同様)
不定詞がない(ブルガリア語・マケドニア語同様。セルビア語では保持されている)
アオリストと未完了相の保持(ブルガリア語同様)
古代スラヴ語のьおよびъは[ə]となり、あらゆる位置に現れる(ブルガリア語ではsən、セルビア語ではsan)
母音の長短および高低がない(ブルガリア語同様、セルビア語には存在)
多音節の単語で語末に強勢が置かれる(セルビア語には見られない特徴で、例えばブルガリア語ではže'na、セルビア語では'žena)
語末のlが保持されている(ブルガリア語ではbil、セルビア語ではbio)
接頭語の「po」を加えることで形容詞の比較級を作る(マケドニア語ではubav→po-ubav、セルビア語ではlep→lepše)
語中音のlの消失(ブルガリア語・マケドニア語ではzdrave/zdravje、セルビア語ではzdravlje)

西部南スラブ語との共通点[編集]

すべてのトルラク方言において:
ǫ は円唇母音のuとなる(セルビア語シュト方言と同様。ブルガリア語標準形・マケドニア語標準形はそれぞれ非円唇母音の ъ、a)
古代スラヴ語のvьはu(東部南スラブ語ではv)
古代スラヴ語の*črはcr(東部南スラブ語では保存されている)
古代スラヴ語の/ɲ/および/n/は保存されている(セルビア語ではnjega、ブルガリア語ではnego)
語末の有声子音は無声化されない(gradはセルビア語では表記どおりに発音、ブルガリア語・マケドニア語ではgratと発音)
*vsは音位転換されずに保存されている(セルビア語ではsve、ブルガリア語ではvse)
属格はセルビア語同様(セルビア語ではnjega、ブルガリア語ではnego)
主格単数形が-aで終わる名詞の主格複数形は-e(東部南スラブ語では-i)
1人称単数の主格代名詞はJa(ブルガリア語ではas)
1人称複数の主格代名詞はMi(ブルガリア語ではnie)
1人称単数の動詞の語尾は-m(東部南スラブ語では、古代スラヴ語の*ǫに対応する音)
接尾辞の*-itjь(-ić)や-atja(-ača)は一般的(東部南スラブ語ではみられない)

一部のトルラク方言において:
形容詞の複数形の男性型・中性型・女性型は西部トルラク方言でのみ保持(beli/bele/bela)されており、東部トルラク方言では失われている(複数形の男性型・中性型・女性型がいずれもbeli)。東部の一部では男性型と女性型のみが存在する。
古代スラヴ語の*tj/*djはセルビア語ではć/đ、ブルガリア語ではšt/žd、マケドニア語ではḱ/ǵとなっているが、西部・北西部地方ではセルビア語同様のć/đ、ベログラトチクやトラン、ピロト、ゴーラ地方、マケドニア北部といった東部地方ではč/džも現れる。クマノヴォ周辺ではマケドニア語と同様になっている。

書物[編集]

トルラク方言は歴史上、国の公用語として整備されたことがないため、トルラク方言で書かれた書物は少なく、古代教会スラヴ語を第一に用いる正教会の神品による文献がある程度である。トルラク方言の影響を受けた文体の書物として知られる限り最古のものとしては[8]、テムスカ修道院の手稿(英語版)がある。これは、1762年にピロト出身のキリル・ジヴコヴィッチ(英語版)によって著されたものであり、自身はこの言語を「簡易なブルガリア語」とみなしていた[9]。

民族誌[編集]

「トルラク」とは南スラブ語で羊の囲いを意味する「tor」に由来し、トルラクはかつて羊飼いを意味するとの説がある。また、トルラク方言の話者、すなわちトルラク人を独自の民族グループとみなす説もある[10][11]。トルラク人はショプ人の一部とされたり、逆にショプ人がトルラク人の一部とされることもあり、19世紀にはトルラク人とショプ人の明確な区別はなかった。オスマン帝国統治時代、この地方の人々はブルガリア人あるいはセルビア人といった民族意識を持っていなかった。このため、セルビア人やブルガリア人はいずれもトルラク人を自民族の一部であると主張しており、トルラク人の中にもセルビア人に同調する者もブルガリア人に同調する者もある。19世紀の文献で、トルラク人がブルガリア人としての民族意識を持っていると記しているものがある[12][13]。オスマン帝国の影響力が弱まった結果、19世紀後期から20世紀初頭にかけてバルカン半島では民族主義的感情が高まる。トルラク地域におけるブルガリアとセルビアの国境はベルリン条約、バルカン戦争、第一次世界大戦によって変動し、後にマケドニア共和国の成立によって更に国境が生じた。

マケドニア人

マケドニア人(マケドニアじん, マケドニア語: Македонци, ギリシア語: Μακεδόνες)は、マケドニアに住む人々のことをさす。時代によって定義は異なる。
1.古代から中世にかけ、マケドニア地方に在住したギリシャ人の一派。
2.ギリシャ北部に住むギリシャ人。下記のスラブ系民族とは異なる概念。
3.南スラヴ語群に属するマケドニア語を母語とする現代の民族。

ここでは3.について述べる。





民族衣装の少女たち
マケドニア人はマケドニア語を母語とする集団に帰属意識をもつ者と定義することができるが、マケドニア語とブルガリア語はひとつながりの方言分布を構成しており、その区別は近代史上の経緯によるところが大きい。19世紀後半の時点では、ブルガリア人とマケドニア人との違いは曖昧なものであった。実際、その時代の人物のなかには、マケドニア共和国の歴史ではマケドニア人、ブルガリア共和国の歴史ではブルガリア人とみなされる者も存在する。

マケドニア民族の概念の祖形は19世紀末、内部マケドニア革命組織などにおいて現れる。ただしこの時点では、ブルガリアとの統一(大ブルガリア主義)を指向する向きが強かった。1912年にギリシャ・セルビア・モンテネグロ・ブルガリアはオスマン帝国に宣戦し、ギリシャその他四国(バルカン同盟)が勝利した。戦後のロンドン条約でバルカン同盟はマケドニア地方を獲得し、モンテネグロ以外の三国がこれを分割した。このときセルビアが取得した部分が、現在のマケドニア共和国の前身である。ブルガリアは国内のブルガリア人・マケドニア人を全てブルガリア人とみなし、公式にはマケドニア人を国内少数民族として認めてこなかった。またギリシア領内にも一定数のマケドニア人が居住しつづけているが、国内少数民族としては認められていない。

マケドニア人による民族自治は1944年の対独レジスタンス政権とそれを継承するユーゴスラビア連邦人民共和国内のマケドニア人民共和国(後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のマケドニア社会主義共和国)からである。同共和国はマケドニア共和国への改組を経て1991年に独立する。

ロマ

ロマ(Roma, 次節も参照。単数はロム)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり[1]、ロマでない集団との関係は不明である。



目次 [非表示]
1 名称とアイデンティティ 1.1 各国語における外名
1.2 「ロマ」という自称

2 ロマの系統上の分類 2.1 人種
2.2 言語
2.3 宗教

3 歴史 3.1 ロマの起源
3.2 ヨーロッパ全土への拡散
3.3 皇帝ジギスムントの特許状
3.4 領邦権力による定住化政策
3.5 ドイツによる絶滅政策
3.6 戦後のロマ
3.7 コソボ紛争

4 各国のロマ 4.1 ルーマニア
4.2 スペイン

5 文化 5.1 ロマの音楽
5.2 砂漠祭り

6 ロマの有名人(異説や遠祖を含む) 6.1 西欧
6.2 ドイツ・チェコ・オーストリア
6.3 オランダ
6.4 ハンガリー・ルーマニア
6.5 バルカン
6.6 アメリカ
6.7 その他

7 ロマが登場する主要な芸術作品 7.1 歌謡、民謡
7.2 ヴァイオリン曲
7.3 管弦楽曲
7.4 吹奏楽曲
7.5 演劇、歌劇
7.6 映画
7.7 TVドラマ
7.8 小説
7.9 漫画
7.10 日本の歌謡曲
7.11 アニメ

8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
11 脚注


名称とアイデンティティ[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。





ヨーロッパ各地域における自称名の概略。




ロマの荷馬車(1935年、ドイツ)




最近のロマの荷車(イギリス)
各国語における外名[編集]

世界各地で流浪の民族史を重ねてきた経緯から、彼らはそれぞれの国で様々な外名 (exonym) で呼ばれてきた。

大きく分けて2つの系統があり、ひとつは「ヒターノ」「ジプシー」など「エジプト人」に由来する呼称。もうひとつは「ツィンガニ」「ツィガーニ」などの系統の言葉であり、ドイツのカスパー・ポイサーによりビザンチン時代のギリシア語 Ατσίγγανοι (Atsinganoi) から Αθίγγανοι (Athinganoi)「不可触民、アンタッチャブル」へと遡れる言葉であるとされた[2]。

以下に各国語における外名の例を挙げる。各語は一様ではなく、文化により蔑意のつよいもの、そうでないものなど多様なニュアンスのものを含むことに留意されたい。語形については単数・複数など各種の変化があり得る。
現代ギリシア語: Τσιγγάνοι(ツィンガニ)
ブルガリア語: Цигани(cigani; ツィガニ)
ルーマニア語: Țigani(ツィガニ)
ロシア語: Цыган(cygan; ツィガーン)
ハンガリー語: Cigány(ツィガーニ)
チェコ語: Cikáni(ツィカーニ)
ドイツ語: Zigeuner(ツィゴイナー)
イタリア語: Zingaro, Gitano(ズィンガロ、ジターノ)
スペイン語: Gitano(ヒターノ)
ポルトガル語: Cigano, Zíngaro(スィガーノ、ズィンガロ)
フランス語: Gitan, Tzigane, Bohémien(ジタン、ボエミアン)
英語: Gypsy(ジプシー)
スウェーデン語: Zigenare(シイェーナレ)
トルコ語: Çingene(チンゲネ)
ヘブライ語: צוענים‎ (Tzo'anim)
アラビア語: غجر، صلب، نور‎ (Ghajal, Salab, Nawar)
ペルシア語: کولی‎ (Kowli)
アルメニア語: Բոշա(ボシャ)
ヒンディー語など: Lambani, Rabari, Banjara

現在でもこうした言葉が物乞い、盗人、麻薬の売人などの代名詞のように使われる場合がままあり、これらの呼称が「差別用語」として忌避される傾向もあるが、差別の隠蔽にとどまり必ずしも差別の解消とは繋がっていない[1][3]。

「ロマ」という自称[編集]

ロマの祖であるロマニ系の人々は複数の経路で度々インド方面からヨーロッパへ移動してきたと考えられる。14世紀から19世紀に現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた集団がルーマニア語の影響を受けたヴラハ系方言を話し言語学的にロマに近いと考えられている[2]。一方で東欧を迂回し中欧にたどり着いた集団はルーマニア語の影響のない非ヴラハ系方言を話していると考えられている[2]。

1971年の第1回世界ロマ会議以降[1]は、よりポリティカリー・コレクトな名称として、多くの集団の自称である roma[4] 「ロマ」を呼称とすることが提唱された。EU はじめ各国の行政などもこの名称を採用している。ただし、この名は本来彼ら全体を代表するものではなく、この名を使わないグループも多数存在し、彼らの中には「ロマ」とは異なるアイデンティティをもち、「自分たちはロマではない」と主張する者もいる。以下に例を挙げる。
アッシュカリィ(Ashkali, セルビア語: Ашкалије, Aškalije)コソボ紛争で有名になった。エジプシャンアレキサンダー大王に従って移民したエジプト人の末裔であると自称する人々。1990年にはマケドニアで「ユーゴスラビア・エジプト人協会」を名乗る団体(会員数は公称1万5000人)が生まれたが、公的にはエジプト人の子孫と認定されていない[5]。ロムと呼ばれるのを嫌う人々がユーゴスラビアの崩壊に乗じてエジプトにアイデンティティを求めたものとされ、世界ロム会議からは「彼らは本当はロムなのに差別から逃げようとしているだけ」と批判されている[6]。
ロマと同根のロマニ系の集団としてはヨーロッパでは中欧のドイツ語圏を中心にシンティ、イギリスにロマニチャル (romanichal) , 仏語圏にマヌーシュ (manouche) , 北欧やイベリアなどのカーレ (kale) などが知られている。シンティの祖先はパキスタン南東部のシンド地方に起源を持つともいわれる[7]。

中近東のロマはゾットと自称するが、これはパンジャブ地方の一種族ヤットのアラビア語名である[8]。また中央アジアのロマはムルタニ(英語版)と自称するが、これはムルターンとの関連が疑われている[9]。

また、ロマニー語と密接な関係にあると考えられているドマリ語(英語版)を話す、ドム(英語版) (Dom) と自称する集団が、中央アジア〜北アフリカにかけて分布している。古代インドのサンスクリット語では、歌舞音曲をなりわいとする下層カースト民をドンバ(英語版)(別名チャンダーラ(英語版))と呼んでいた他、現代インドではヒンディー語が「さすらいの音楽家のカースト」を、パンジャブ語では流浪音楽家をそれぞれドムと呼んでおり、これらがロム(ロマ)という名称の起源と考えられている[10]。

ロマの間ではロマ以外の人間をガージョと呼ぶ[11]。

ロマの系統上の分類[編集]

人種[編集]


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ロマの人種的分類については、現在でも定説が存在しないため、厳密にどの人種に分類できるかは、いまだに判明されていない。

歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いたとされる。旅に出た理由は定かではないが、西方に理想郷を求めた、などの説がある。彼らがヨーロッパにおいて史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなる。ただしユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。

最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との類似性が示唆されてきている[12]。

ロマの中にも12の種族があり、エリー、カルデラーシュ、ジャンバジ、ロワリ、アラバジ、コバチ、トパナなどの名称があり、種族により異なったロマ語を話している[13]。これらの種族の起源は職業集団に始まっている[14]。すなわち、トパナはトルコ語のトップ(大砲)に由来し、14世紀にトルコの兵士としてバルカン半島に移住し軍隊で大砲を造っていたロマの末裔[14]。ジャンバジはギリシアから来た商人[14]。アラバジはルーマニアの馬商人[14]。エリーはアーリア人に由来するという[14]。

言語[編集]

詳細は「ロマ語」を参照

インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派中央語群のロマ語を主に使う。ロマ語の特色として、即物的な語彙が多く、精神的・抽象的な語彙が少ないことが挙げられる[15]。

ロマ語には東欧の「ロム」、ポーランド経由でドイツに入った「シンティ」、フランスの「マヌーシュ」など3つの大きな流れと13の言語グループがあり、系統が違うと同じロマ語でも意思疎通が難しいとされる[16]。また、定住した各土地の言葉や、各地の言語を多く取り入れたクレオール言語を使っているグループもある[17]。

このため1990年4月にワルシャワで開かれた第4回世界ロマ会議で標準ロマ語が制定され、マケドニアのスコピエで話されるエリー語が標準語となった[17]。

宗教[編集]

かつてはヒンドゥー教だったと考えられているが、定住した土地での主流の宗教に改宗していることが多い。すなわち、東ヨーロッパでは正教またはイスラム教、西ヨーロッパではカトリックかプロテスタントである。独特の神秘主義的な風習はあるが、それは宗教とは別と考えられている。

歴史[編集]

ロマの起源[編集]

ロマ出身のロマ研究家で人権活動家のグラタン・パクソンによると、ロマの起源は5世紀に遡る[18]。ササン朝ペルシアのバフラム5世(別名ベラム・グール、在位420年-438年)がムルタン(当時はインド、現在のパキスタン)からロマの祖先1万人をペルシアに連れて行った[18]。ロマは当時、ルリーと呼ばれていた[18]。

8世紀には、ムルタンの近くのシルマン山にヤットという名称のロマの集団が住んでいた[18]。彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組んだ[18]。ところがアラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動した[18]。これがロマの起源であるとパクソンはいう[18]。このパクソンの説を裏付ける記述が、フェルドウスィーの詩書『シャーナーメ』や、イスパハンのハンザという歴史家の950年の著作に登場する[19]。それによると、バフラム5世はインドのシャンガル王に使いを送り、リュートの演奏に巧みな男女1万人(あるいは1万2000人)をペルシアに呼び寄せた[19]。その子孫がロマではないかといわれている[19]。

また、ロマ出身のロマ語学者シャイプ・ユスフォフスキーによると、ロマの祖先はインドのラージャスターン州に住んでいたが、タタール人に追われたのと食料不足とで5世紀に1万2000人が故郷を捨てて旅に出た[20]。さらに10世紀にも西に集団移動し、バルカン半島に入ったという[20]。伊藤千尋はユスフォフスキーの説を「より真実味が深い」と評し、この説におけるタタール人を、中央アジアのイラン系遊牧民エフタル族(別名「白フン族」。5世紀半ばにインド北西部に侵入)と同定している[20]。

さらに、言語学の観点からロマの祖先は紀元前300年以前にイラン語地域に入ったと分析する説もある[21]。紀元前327年のアレクサンダー大王の北西インド侵入に伴ってロマの移動が始まったとする説もある[21]。

一方、現代のヨーロッパのロマはインドを10世紀以降に出発したと述べる言語学者もいる[21]。このため、ロマの起源は一様ではなく、長期間にわたり複数の集団が何度もインドを出発したとも考えられている[21]。

ヨーロッパ全土への拡散[編集]

11世紀にセルジュクトルコが勢いを伸ばすと小アジアのロマがバルカン半島に移り住み、ビザンチン帝国の支配下に入ってアツィンガノイと呼ばれた(ドイツ語でロマを指すツィゴイナーの語源)[22]。14世紀にはクレタ島などギリシアの島々でロマの集落が確認されている[22]。

1416年にはハンガリーに到達[22]。1418年にはスイスに到達[22]。

1422年にイタリアのボローニャに到達したロマの集団は100名ばかりで、アンドレア公爵を詐称する首領が「我々はキリスト教を捨てたため、所有地をハンガリー王に没収されたが、キリスト教徒に復帰するため4000人の仲間とともに洗礼を受けた。そして今はハンガリー王からの命令でローマ法王のもとへ懺悔に行くところである。今はこのために巡礼の旅をしているが、この旅の期間は盗みをしても罪に問わないとハンガリー王からお許しが出た」と虚偽の申し立てをした[23]。

1427年8月17日にフランスのパリに到達したロマの集団は12名だったが100人以上の仲間を郊外に待たせ、やはり貴族を自称し「我々は低地エジプト出身の善良なキリスト教徒だが、サラセン人の侵攻で一度キリスト教を捨て、懺悔してローマ法王の許しを得た。しかし法王のご命令で7年間の巡礼の旅をしている。我々に食事を世話し、巡礼の資金を恵むことはキリスト教徒の義務であるとの法王のお達しだ」との虚偽の申し立てをした[22]。

1447年にはスペインのバルセロナに到達[22]。1505年にはイギリスへのロマの到達が記録されている[22]。

皇帝ジギスムントの特許状[編集]





神聖ローマ帝国に現れたロマ
15世紀になって今日のドイツ地域にロマが初めて姿を現した。彼らは当初低地エジプト出身の巡礼者であると名乗っており、それから80年ほどは、彼らは各地で「聖なる人」として親切に受け入れられた。しかし、一向にヨーロッパを去ろうとしない彼らに対して、徐々に不信の目が向けられ、トルコやタタールのスパイであるというような風説が飛び交うようになった
初期のロマは、神聖ローマ皇帝ジギスムントにより巡礼者として帝国全土の自由な通行を許可されたと称し、いわゆる『皇帝ジギスムントの特許状』[24]を保証として各地を放浪した。しかし15世紀中頃には彼らに対する蔑視が始まり、特にユダヤ人と彼らを同類とする風説が現れ、18世紀に至るまで広く流布した。1500年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によって『皇帝ジギスムントの特許状』は無効であるとされ、ロマを殺しても基本的には罪に問われないこととなった。ロマが放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市では彼らが現れたら教会の鐘を鳴らして合図し排撃した。

1499年にはスペインがロマの入国を禁止し、国内のロマは4日以内に退去するか、60日以内に定住して主人に仕えなければ鞭打の刑にして追放するとの勅令が出た[25]。

16世紀半ばにはイギリスの各地の地方自治体もロマに退去命令を出した[25]。

1561年にはフランスのシャルル6世がロマを2ヶ月以内に領土から追放するよう命令を出した[25]。この命令に従わないロマは頭髪を剃り落とされ、罪人として晒し者にされ、ガレー船の漕手として3年間の重労働に服さなければならなかった[25]。

1596年にはイギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、うち106人が死刑の宣告を受けた[26]。このうち9人が実際に死刑となり、残りは出身地に連れ戻された[26]。

1714年にはドイツでマインツの大司教がロマに対して裁判抜きの処刑・鞭打・追放・重労働を命じた[26]。

領邦権力による定住化政策[編集]

1761年、オーストリアではマリア・テレジアとヨーゼフ2世の近代化政策の一環として、ロマの定住化が図られた[27]。ロマの青年に対して徴兵や職業訓練をおこなうとともに、領主への従属や納税の義務を課し、ロマ同士の結婚を禁じ、ロマの子はロマではない家庭に入れて育てることとした[28]。これらは啓蒙主義に影響された、ある意味でロマへの差別をなくすことを目的とした人道的な同化策だった[29]が、定住や(ヨーロッパ人の考える)文化的な生活の押し付けとなり、ロマたちの拒否するところとなった。1773年にプロイセンのフリードリヒ大王がロマを隔離して定住させようとしたが、結局失敗している。

一方、ポルトガルは1647年にはアフリカの植民地に、1686年には南米の植民地ブラジルにロマの開拓団を送った[30]。イギリスも植民地のアメリカやジャマイカにロマの開拓団を送っている[31]。

ドイツによる絶滅政策[編集]

詳細は「ポライモス」を参照

ドイツにおいては、ナチス党が自由選挙で国民の支持を受けて政権を獲得した後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。当時のドイツ政府は、ロマがアーリア系であることは知っていた。「アーリア主義」を掲げるナチス党政権がロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」と考えたためである。

第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ドイツは再び多数のロマを抱えこむことになった。当時のドイツ政府が「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスと呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ドイツ政府による被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。

戦後のロマ[編集]

第二次世界大戦までの多くのヨーロッパ諸国では、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていた。このため、伝統的に鍛冶屋、金属加工、工芸品、旅芸人、占い師、薬草販売等に従事していた。現在も基本的に移動生活を続けているロマは多く、移動手段として自動車を用い、これに伴って職業も以前の馬の売買から、自動車の解体・中古車のあっせんなどに変化してきている。

第二次世界大戦前から1945年までのドイツ政府による迫害によって、ロマの人口は減少した。社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定された(ソ連1956年〜ポーランド1964年)。これらはロマに定住を求める同化政策であり、その後議員となったロマも存在した。西欧諸国ではロマへの同化政策は採用されなかったが、国内のロマを少数民族とみとめて権利を与えることはなかった。例外的に社会主義国のユーゴスラヴィア(1974年)とハンガリー(1979年)が、ロマを少数民族と認定した。

スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした[32]。ドイツでは1995年に、ドイツ国籍をもつロマを少数民族と認定している。戦後の経済変動のなかでロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮は一段と進んだ。伝統的な生活を放棄する者も多い。

コソボ紛争[編集]

1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくなかった。1999年のコソボ紛争では、彼らはセルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受けている。コソボでは多数派のアルバニア人による支配を恐れたロマやアッシュカリィなどの他、ゴーラ人などの少数民族の中には、ユーゴスラビアの体制を支持する者も少なくなかった。紛争終結により連邦軍がコソボから撤退し、難民・避難民として域外に逃れていたアルバニア人が帰還すると、セルビア人のみならず、彼らに加担したとしてロマやアッシュカリィもアルバニア人による報復の対象となった。形式的には解体されたコソボ解放軍の元構成員や、その他のアルバニア人住民による少数民族への襲撃が相次ぎ、迫害を恐れたロマ、アッシュカリィ等はセルビア本土やモンテネグロなどへと脱出した。コソボ紛争が終結して以来、セルビア人やロマ、アッシュカリィ等のコソボからの脱出は続いており、一方彼らの故郷への帰還は進んでいない。

各国のロマ[編集]

欧州連合の行政府・欧州委員会によると、欧州に暮らすロマの人口は推定1000万〜1200万人。 欧州評議会の各国別推計によると、ルーマニア185万人、ブルガリア75万人、スペイン72万5000人、ハンガリー70万人、スロバキア49万人、フランス40万人、ギリシャ26万5000人、チェコ22万5000人、イタリア14万人など[33]。

マケドニアのシュトオリザリ(英語版)には2万6000人のロマが定住し、マケドニア人の家は10戸しかなく、他にトルコ人などもいるものの、全人口の95パーセントはロマである[34]。旧ユーゴスラビアには100万人、マケドニアだけで20万人のロマがいるが[35]、ロマには乞食が多いため、みずからの出自を恥じてトルコ人やセルビア人、マケドニア人などと詐称するロマが多く[36]、統計上は旧ユーゴスラビアのロマの数は10万人にとどまっている[35]。なおマケドニアからはロマ出身の国会議員(ファイク・アブディ(マケドニア語版))が出ており[37]、ロマ語を公用語にする運動を進めていた[35]。

ルーマニア[編集]

ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われている。しかしその起源はいずれの説も根拠を欠いたものが多く、現在でも定説は無い。ルーマニア国内のロマ支援組織の多くは19世紀半ばまで約600年間続いた奴隷時代にその根源があると主張している。それによると『1800年代の法典はロマを「生まれながらの奴隷」と規定し、ルーマニアの一般市民との結婚を認めなかった。そして、奴隷解放後も根深い差別の下でロマの土地所有や教育は進まなかった。都市周辺部に追いやられたロマは独自の文化や慣習を固守する閉鎖的な社会を築き、差別を増幅させる悪循環につながった』とされている。その一方で、当時そのような法典が公布及び施行された記録が残されておらず、法典自体も見つかっていないため、この説は根拠に乏しいとする見解も存在する。ロマを「生まれながらの奴隷」と規定した法典はロマ支援組織が差別の根拠として捏造したもので、奴隷時代の始まりとされる13世紀以前から、既に習慣という形でルーマニアでのロマ差別は存在していた、という見解を支持しているルーマニア国外のロマ支援組織やロマ研究者は多い。

21世紀に入った現在、ルーマニアでのロマ問題は拡大の一途をたどっている。EU諸国からのロマの強制送還により、ロマ人口が増加しているのである。ルーマニアにおいて、ロマは自己申告に基づく国勢調査では50万人だが、出自を隠している人も含めると150万人に達すると言われる。ルーマニアの身分証明書には民族記入欄が無いため、ロマであることを隠し社会に同化する人も少なくない。2002年の調査では、ロマの進学率が極度に低いことが明らかになっており、高卒以上は全体の46.8%に対し、ロマは6.3%、全く教育を受けていない無就学者の割合は、ロマだけで34.3%にも上るのに対し、少数民族を含むルーマニア全体では5.6%にとどまっている。

これらの問題に対してルーマニア政府は、「国内にロマはいないため、ロマに対する差別問題は存在しない」としてロマの存在自体を否定している。つまり、ルーマニア国内にロマが存在しない以上、ロマに対しての差別は存在しえず、ロマ差別はあくまでもルーマニアでは架空の存在でしかない、というのが政府の見解となっている。このため、国内におけるロマ問題への対策をルーマニア政府は何一つ行っていない。さらに、国内外からのロマ対策を要求する声に対しても何の反応も示していない。この結果、ルーマニアでのロマ問題は解決のめどは立っておらず、逆にロマ差別自体がルーマニア人ならびに国家ルーマニアとしてのアイデンティティになっていることは否定できなくなっている。

1991年にはブカレスト近郊のボランタン村でロマの家100軒が数百名の暴徒に襲われ、焼き討ちに遭う事件が起きている[38]。

スペイン[編集]

スペインではマドリードの郊外ロスフォスコスがロマの集住地域となっており、38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいる[39]。このロスフォスコスは麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されている[39]。このバラックは、別の地区への移転が計画されたこともあるが、移転先からの猛反対で計画は頓挫した[39]。

政府の発表によると、麻薬密売の70パーセントはロマによるものである[39]。スペイン国民の26パーセントがロマに悪感情を持っているとの統計もある[39]。

1991年にはアンダルシア地方のマンチャレアルでロマによる殺人事件をきっかけにロマ追放運動が発生[39]。暴徒化したデモ隊がロマの家7軒を襲撃し、家財道具を通りに投げ出して家を破壊する事件が起きた[39]。このとき、マンチャレアルでは「自分の子をロマの子と一緒に勉強させない運動」「ロマの子を登校させない運動」が起きている[39]。

文化[編集]





若いハンガリーのロマが伝統的なダンスを踊る様子タロット(タロー)と呼ばれるカードを使った占い。但しタロットのロマ起源説は一部の神秘主義者が主張するだけであり、裏付けに乏しい。なお神秘主義者の間ではタロットの起源についてエジプト、ヘブライ、ケルトなどさまざまな説があるが、現在ではイタリアで玩具として考案されたのが始まりとする見方が有力である。
フラメンコの原型とも言われる、独自の音楽、踊り。
鋳掛屋、旅芸人として重宝された。
ブルガリアやセルビアなどでは、出生・洗礼・誕生日・聖名祝日 (Именден)・結婚式などに際して、ロマが呼ばれて演奏する。 チョチェク - バルカン半島で、ロマが結婚式などに演奏する音楽
ポップフォーク - セルビアをはじめとするバルカン半島で、チョチェクなどロマの音楽の影響を強く受けて発達した流行音楽のジャンル。

ボスニア・ヘルツェゴビナなど、一部のロマ人社会では一夫多妻制の風習が残っていることがある[40]。
全ての財産は共用物である、という考えが根強く、財産の個人所有という考えが乏しい者が多い、とされる。

ロマの音楽[編集]

ロマの文化(芸能・生活)の一部であるロマ音楽は、現地の文化と相関関係にあり、歴史的に大きな貢献をしている。ルーマニア・ハンガリー文化圏、スペインなどの文化が際立って有名。ロマン派の作曲家の中にはロマ音楽に触発されて曲を書いたものもいた。リストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」(発表当時は編曲とされ、またハンガリー古来の音楽と混同された)、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」などである。

砂漠祭り[編集]

毎年2月の満月の3日間、ロマ人の出身地とされるインドのジャイサルメールで行われるロマの祭典である。色々な旅芸人などが集まる。

ロマの有名人(異説や遠祖を含む)[編集]

西欧[編集]
カルメン・アマヤ(Carmen Amaya, 1913年11月2日 - 1963年11月19日)- フラメンコダンサー、歌手
ジャンゴ・ラインハルト(1910年1月23日-1953年5月16日)- ベルギー出身のジャズギター奏者。
チャールズ・チャップリン - 俳優。自伝My Autobiographyによると、母方の祖母がロマの血を半分引いている。「浮浪者」のキャラクターは、ロマを観察して創り出したとの説もある[41]。
ボブ・ホスキンス - 俳優。母方はドイツのシンティ[42]。
マイケル・ケイン - 俳優。父方の祖先は南ロンドンのロマの馬喰である[43]。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) - 作家。母方がキプロスのロマ。父方は英国のロマのハーン(ヘロン)一族[44]。ただしElizabeth StevensonはThe Grass Lark: A Study of Lafcadio Hearn(Transaction Publishers, 1999)p.7で「彼ら(ハーン一族)は、自分たちにジプシーの血が流れているという無邪気かつ検証できない信念を愛していた」と述べており、ロマの子孫というのが単なる言い伝えに過ぎないことを暗示している。
ラモン・モントヤ Ramón Montoya - ギタリスト。
リカルド・クアレスマ(1983年9月26日 - )- ポルトガル出身のサッカー選手。父方の家系がロマ。

ドイツ・チェコ・オーストリア[編集]
ヨハン・シュトラウス二世 - 父方がカトリックに改宗したハンガリー系ユダヤ人の家系、母方がロマといわれる。

オランダ[編集]
マリスカ・ヴェレス - 歌手(ショッキング・ブルー)。父がハンガリー出身のロマ。

ハンガリー・ルーマニア[編集]
ピシュタ・ダンコー
ジョルジュ・シフラ(ツィッフラ・ジェルジ、Georges Cziffra, Cziffra György)
ツィンカ・パンナ(パンナ・ツィンカ(姓); Cinka (Czinka) Panna, Panna Cinková, 1711年-1772年)- 女流ヴァイオリニスト。 [2]
ビハリ・ヤーノシュ (János Bihari, Bihari János)
ベルキ・ラースロー (Berki László)
ボロシュ・ラヨシュ
ラカトシュ・ローベルト(ロビー・ラカトシュ; Roby Lakatos, Lakatos Róbert) [3]
カイ・ヤグ Kalyi Jag(黒い炎) - ハンガリーのバンド。[4]
ライコー Rajkó Zenekar(ジプシーの子供たち) - ハンガリーのオーケストラ。[5]
タラフ・ドゥ・ハイドゥークス Taraful Haiducilor, Taraf De Haïdouks - ルーマニアのバンド。
ヨン・ヴォイク Ion Voicu - ルーマニアのヴァイオリニスト。
ファンファーレ・チョカルリア - ルーマニア北東出身の世界最速を誇るジプシー・ブラスバンド。

バルカン[編集]
イヴォ・パパゾフ(1945年 - )- ブルガリアのクラリネット奏者。トルコ語を話すジプシーの出。
アジス (Azis) ブルガリアのポップフォーク歌手。
レイハン (Reyhan) ブルガリアのポップフォーク歌手。

アメリカ[編集]
ビル・クリントン - 政治家。ロマの指導者チャールズ・ブライズ(1847年に英国のカークイェットホルムで「スコットランドのジプシーの王」として戴冠した)の兄弟アンドリュー・ブライズの子孫。アンドリューの息子アンドリュー・ジェファーソン・ブライズ(1860年死去)がクリントンの高祖父にあたる[45]。
フレディ・プリンゼ・ジュニア - 俳優。父がハンガリーのロマの子孫[46]。
リタ・ヘイワース - 俳優。父方の祖父アントニオ・カンシーノはロマのフラメンコダンサーであった[47]。

その他[編集]
ミラン・バロシュ - チェコのサッカー選手。
ユル・ブリンナー - 俳優。母方ロマと自称するも彼自身が申し立てた伝記的事実には偽りが多く、1989年に彼の息子が出版した伝記によると、ブリンナーは父方がモンゴルとスイスの混血で母方がユダヤ系ロシア人の医者の娘だという。
アンディ・マッコイ - フィンランドのロックバンド、ハノイ・ロックスのギタリスト。
ジプシー・キングス - 1980年代後半に一世を風靡したワールドミュージックの第一人者。日本では発泡酒のCMに使われた「ボラーレ」や時代劇「鬼平犯科帳」のEDテーマに使われた「インスピレイション」が有名。
フェアルザ・バルク - 米国出身の女優。父方ペルシア人、母方ロマ。
ソフィア・サンティ - カナダ出身のポルノ女優。父親の祖先がトランシルバニア山脈出身のロマであるという。

ロマが登場する主要な芸術作品[編集]

古典に類する作品には古い固定観念・偏見が含まれている可能性もある。

歌謡、民謡[編集]
『ジプシーがチーズを食べる』(コダーイ・ゾルターンによる民謡編曲)
『流浪の民』(ロベルト・シューマン作曲)
歌曲集『ジプシーの歌』(ドヴォルザーク作曲)
『黒い瞳』(ロシアの流行歌)

ヴァイオリン曲[編集]
『ツィゴイネルワイゼン』(サラサーテ作曲)
『ツィガーヌ』(ラヴェル作曲)
『ラプソディー第1番』、『ラプソディー第2番』(バルトーク作曲)

管弦楽曲[編集]
『ガラーンタ舞曲』(コダーイ・ゾルターンによる編曲)

吹奏楽曲[編集]
『プスタ〜4つのジプシー・ダンス』(ヤン・ヴァン・デル・ロースト作曲)

演劇、歌劇[編集]
『ジプシー男爵』(ヨーカイ・モール原作、ヨハン・シュトラウス2世作曲)
『カルメン』(後述のメリメの小説によりビゼー作曲)
『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ作曲)

映画[編集]
『狼男』監督:ジョージ・ワグナー
『007 ロシアより愛をこめて』 監督:テレンス・ヤング(ジプシーキャンプが登場。主人公の007に協力する)
『スナッチ』 監督:ガイ・リッチー(作中の「パイキー」はロマの別称)
『ガッジョ・ディーロ』 監督:トニー・ガトリフ
『ベンゴ』 監督:トニー・ガトリフ
『ラッチョ・ドローム』 監督:トニー・ガトリフ
『ル・ジタン』 フランス映画、監督:ジョゼ・ジョヴァンニ
『ジプシーのとき』 ユーゴスラビア映画、監督:エミール・クストリッツァ
『黒猫・白猫』 監督:エミール・クストリッツァ
『鋼の錬金術師シャンバラを征く者』 アニメ 監督:水島精二
『ノートルダムのせむし男』(ビクトル・ユゴー原作)
『僕のスウィング』監督:トニー・ガトリフ
『恐竜グワンジ』監督:ジェームズ・オコノリー
『ジプシー・キャラバン』監督:ジャスミン・デラル
『耳に残るは君の歌声』監督:サリー・ポッター
『炎のジプシー・ブラス 地図にない村から』監督:ラルフ・マルシャレック
『痩せゆく男』監督:トム・ホランド(スティーヴン・キング原作)
『ショコラ』監督:ラッセ・ハルストレム(ジョアンヌ・ハリス原作)
『スペル』監督:サム・ライミ
『熱い血』監督:ニコラス・レイ
『見えない恐怖』監督:リチャード・フライシャー

TVドラマ[編集]
シャーロック・ホームズの冒険
Dr.HOUSE シーズン3 #13
ザ・ファインダー 千里眼を持つ男

小説[編集]
『カルメン』(プロスペル・メリメ)
『まだらの紐』(アーサー・コナン・ドイル)
『ノートルダム・ド・パリ』(ヴィクトル・ユーゴー)
『痩せゆく男』(スティーブン・キング)
『ドリトル先生と月からの使い』(ヒュー・ロフティング)
『終わりなき夜に生まれつく』(アガサ・クリスティ)

漫画[編集]
『タンタンの冒険旅行』(エルジェ)
『マスター・キートン』(勝鹿北星・浦沢直樹) 「笛吹き男」のエピソード

日本の歌謡曲[編集]
『ボヘミアン』(歌:葛城ユキ、作詞:飛鳥涼、作曲:井上大輔)
『謝肉祭』(歌:山口百恵、作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童 )
『ジプシー』(歌:児島未散、作詞:魚住勉、作曲:馬飼野康二)
『ジプシー』(歌:西城秀樹、作詞:森雪之丞、作曲:鈴木キサブロー)
『ジプシー・クイーン』(歌:中森明菜、作詞:松本一起、作曲: 国安わたる)
『ロマの娘』(歌:志方あきこ、作詞:篠田朋子、作曲: 志方あきこ)

アニメ[編集]
『ビートルズ・カートゥーン』
『Blood+』
『ポルフィの長い旅』

参考文献[編集]
阿部謹也「中世を旅する人びと」(『阿部謹也著作集3』所収)筑摩書房、2000年(初出1975年平凡社)
関口義人『ジプシーを訪ねて』 岩波新書、2011年
木内信敬『青空と草原の民族 変貌するジプシー』 白水社、1980.11. 白水叢書
木内信敬『ジプシー』白水社
木内信敬『ジプシーの謎を追って』 筑摩書房、1989.9. ちくまプリマーブックス
相沢久『ジプシー』講談社
伊藤千尋『「ジプシー」の幌馬車を追った』大村書店
ヨアーズ『ジプシー』ハヤカワ文庫
オークリー『旅するジプシーの人類学』晶文社
パックソン『ナチス時代の「ジプシー」』明石書店

ポマク

ポマク人(ブルガリア語:Помаци / Pomatsi、英語:Pomaks)は、主に、ブルガリア人のムスリムの人々を指す。また、ユーゴスラビア時代のマケドニア共和国におけるスラヴ系ムスリムのことを指す場合もある。



目次 [非表示]
1 ブルガリアのムスリム
2 ブルガリア国外のブルガリア系ムスリム 2.1 ギリシア
2.2 トルコ
2.3 マケドニア共和国

3 関連項目
4 外部リンク


ブルガリアのムスリム[編集]





民族衣装を身に着けたポマク人(1934年)
「ムスリム・ブルガリア人」も参照

ブルガリアにおけるポマク人は、オスマン帝国支配下で、キリスト教からイスラム教に改宗したブルガリア人の子孫である。その名前はポムチェーン помъчен(拷問された) あるいは ポマガーチ помагач(占領者への協力者)に由来する。 ブルガリア語を母語とし、同国のトルコ系住民やその他のムスリムと交じり合わないし、ブルガリア正教徒たちとも異なるアイデンティティを持つ。ブルガリア政府はポマク人を「少数民族」というより「宗教的少数派」と見なしている。

ブルガリア国外のブルガリア系ムスリム[編集]

ギリシア[編集]

ギリシア政府は、ギリシア領に住むムスリムが話すのはトルコ語のみだとみなして、ムスリムたちを教育する上でトルコ語のみを使用するようにしてきたので、彼の地のポマクはほとんどがブルガリア語とトルコ語とバイリンガルであり、トルコ語しか話せないものもいる。また、ブルガリア語を話すといってもそれはトルコ語とギリシア語に相当な程度影響されたものであり、本国のブルガリア語標準語とは大きな隔たりがある。

トルコ[編集]

トルコにおいてもポマクのコミュニティーは存在し、人数の規模は12万人程度だと概算されている。しかし、トルコ政府はポマクのことも少数民族として承認しておらず、トルコに住むポマクは多分にトルコ化されている。そのため彼らのうちには自らをトルコ人と自認するものもいる。

マケドニア共和国[編集]

ブルガリア人の間では、マケドニア語はブルガリア語の一部であるとみなされており、マケドニア語を母語とするムスリムはポマク(ムスリム・ブルガリア人)であると見られている。これらの人々は、自らを「ポマク」、「トルベシュ」、あるいは「マケドニア人」とする民族自認を持っている。ユーゴスラビア時代は、彼らは民族自認として「ムスリム人」を名乗っていた。

ユーゴスラビア

ユーゴスラビアは、1929年から2003年の間に存在した東ヨーロッパの国家。正式な国名は何度か変更している(詳細は国名の項目を参照)。



目次 [非表示]
1 概要
2 国名 2.1 国名の変遷

3 歴史 3.1 第一のユーゴスラビア
3.2 第二次世界大戦
3.3 第二のユーゴスラビア
3.4 ユーゴスラビアの崩壊
3.5 第三のユーゴスラビア

4 指導者 4.1 ユーゴスラビア王国の君主
4.2 ユーゴスラビア共産主義者同盟の書記長
4.3 ユーゴスラビア連邦人民共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領
4.4 ユーゴスラビア連邦共和国大統領
4.5 セルビア・モンテネグロ大統領

5 政治
6 地方行政区分 6.1 1918年-1941年
6.2 1945年-1990年
6.3 1990年以降

7 地理 7.1 河川
7.2 山脈

8 経済
9 国民
10 文化 10.1 スポーツ 10.1.1 サッカー
10.1.2 オリンピック


11 関連項目
12 参考文献
13 外部リンク


概要[編集]

首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年ユーゴスラビア王国に改名された。1945年からは社会主義体勢が確立され、ユーゴスラビア連邦人民共和国と改称された。1991年からのユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。2006年にモンテネグロが独立して国家連合も解消され、完全消滅となった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなっている。また、セルビアの自治州であったコソボは2008年に独立を宣言した。コソボを承認している国は少数に留まっており、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは、依然、コソボはセルビアの自治州とみなされている。

バルカン半島に位置し、北西にイタリア、オーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニア、ブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。

国名[編集]

ユーゴスラビアはセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でJугославиjа。

日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。

ユーゴスラビアは「南スラブ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。

国名の変遷[編集]
1918年 - セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
1929年 - ユーゴスラビア王国
1943年 - ユーゴスラビア民主連邦
1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国
1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国
2003年2月5日 - 「セルビア・モンテネグロ」となり、ユーゴスラビアの国名が消滅。

歴史[編集]

第一のユーゴスラビア[編集]

詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照





ユーゴスラビア王国の国旗
第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラブ人王国の設立を目指すことを表明した。

1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)」が成立した。

憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。





国王アレクサンダル1世
国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などよって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。

1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まる事になった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。

アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。

第二次世界大戦[編集]


Axis occupation of Yugoslavia, 1941-43.png




Axis occupation of Yugoslavia, 1943-44.png



ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。4月6日未明にはソ連との不可侵条約に調印したが、条約調印から6時間後にはドイツ軍がイタリア、ハンガリー、ブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始し、4月17日にユーゴスラビアは降伏した。ナチス・ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。

ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。

ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対しての抵抗運動をリードしたのはヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(後の大統領)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。

第二のユーゴスラビア[編集]

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照





ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗
大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。

社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。

第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照

このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。

1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。

東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。

ユーゴスラビアの崩壊[編集]

詳細は「ユーゴスラビア紛争」を参照





1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷
1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、第二次世界大戦中のウスタシャとチェトニックの関係を思わせるような相互による略奪、虐殺、強姦を繰り返す状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化した。

第三のユーゴスラビア[編集]

詳細は「ユーゴスラビア連邦共和国」を参照

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、アルバニア人が多く住んでいるコソボ自治州に関する問題に対して国際社会は無関心であり、セルビアからの分離を求め続けていたアルバニア人の間では、それまでの非暴力・不服従の姿勢ではなく、武力闘争による独立を求める動きが強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、独立強硬派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に引き渡された。

一方、その人口規模の小ささから独立を選択しないで、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設ける事を提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結する事を条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これによってユーゴスラビアを構成していた6共和国はそれぞれ完全に独立する事になった。


ユーゴスラビアの変遷[表示]
















































































































































































































































































































































指導者[編集]

ユーゴスラビア王国の君主[編集]

すべてカラジョルジェヴィチ家。
1.ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)
2.アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)
3.ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)

ユーゴスラビア共産主義者同盟の書記長[編集]
1.ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(1939年3月-1980年5月4日) ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理
ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理

2.ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)
3.ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)
4.ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)
5.ミティア・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)
6.ドラゴスラヴ・マルコヴィッチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)
7.アリ・シュクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)
8.ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)
9.ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)
10.ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)
11.スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)
12.ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)

ユーゴスラビア連邦人民共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領[編集]
1.イヴァン・リヴァル(1945年12月29日 - 1953年1月14日)
2.ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領
3.ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)
4.ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)
5.セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)
6.ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)
7.ミカ・シュピリャク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)
8.ヴェセリン・ジュラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)
9.ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)
10.シナン・ハサニ(1986年5月15日 - 1987年5月15日)
11.ラザル・モイソフ(1987年5月15日 - 1988年5月15日)
12.ライフ・ディスダレヴィッチ(1988年5月15日 - 1989年5月15日)
13.ヤネス・ドルノウシェク(1989年5月15日 - 1990年5月15日)
14.ボリサヴ・ヨヴィッチ(1990年5月15日 - 1991年5月15日)
15.スティエパン・メシッチ(1991年6月30日 - 1991年10月3日) ブランコ・コスティッチ(1991年10月3日 - 1992年6月15日)代理


ユーゴスラビア連邦共和国大統領[編集]
1.ドブリツァ・チョシッチ(1992年6月15日 - 1993年6月1日) ミロシュ・ラドゥロヴィッチ(1993年6月1日 - 1993年6月25日)代理

2.ゾラン・リリッチ(1993年6月25日 - 1997年6月25日) スルジャ・ボジョヴィッチ(1997年6月25日 - 1997年7月23日)代理

3.スロボダン・ミロシェヴィッチ(1997年7月23日 - 2000年10月7日)
4.ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(2000年10月7日 - 2003年3月7日)

セルビア・モンテネグロ大統領[編集]
1.スヴェトザル・マロヴィッチ(2003年3月7日 - 2006年6月3日)

政治[編集]

1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。

1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があった事から、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。

1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。

地方行政区分[編集]

「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照

1918年-1941年[編集]

詳細は「ユーゴスラビア王国の地方行政区分」を参照

1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。
ドラヴァ州(Dravska banovina)
サヴァ州(Savska banovina)
プリモリェ州(Primorska banovina)
ヴルバス州(Vrbaska banovina)
ドナウ州(Dunavska banovina)
ドリナ州(Drinska banovina)
モラヴァ州(Moravska banovina)
ゼタ州(Zetska banovina)
ヴァルダル州(Vardarska banovina)
ベオグラード市(Grad Beograd、パンチェヴォおよびゼムンを含む)

1945年-1990年[編集]






スロベニア
社会主義共和国



クロアチア
社会主義共和国



ボスニア・ヘルツェゴビナ
社会主義共和国



モンテネグロ
社会主義
共和国



マケドニア
社会主義
共和国



セルビア
社会主義共和国



ヴォイヴォディナ
社会主義
自治州



コソボ
社会主義
自治州

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分」を参照

1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。
スロベニア社会主義共和国
クロアチア社会主義共和国
マケドニア社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国
セルビア社会主義共和国 ヴォイヴォディナ社会主義自治州
コソボ社会主義自治州

モンテネグロ社会主義共和国

1990年以降[編集]

1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。
スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言し、スロベニア共和国となった)
クロアチア共和国(1991年6月に独立を宣言し、クロアチア共和国となった)
マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立し、マケドニア共和国となった)
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(1992年3月に独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国となった。その後内戦に突入し、1995年12月和平に調印)
セルビア共和国(2003年に「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の独立に伴って独立し、セルビア共和国となった) ヴォイヴォディナ自治州(セルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州となっている)
コソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日に独立を宣言し、コソボ共和国となった)

モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立しモンテネグロとなった)

地理[編集]

河川[編集]
ドナウ川
サヴァ川
モラヴァ川
ヴァルダル川
ドリナ川
ウナ川
ネレトヴァ川

山脈[編集]
ディナル・アルプス

経済[編集]

1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。

また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。

通貨はユーゴスラビア・ディナール

国民[編集]

セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、アルバニア人のために南部にコソボ自治州が、ハンガリー人のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。

宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人は主にイスラームである。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えてムスリム人という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。

言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解する事ができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。

文化[編集]

スポーツ[編集]

詳細は「ユーゴスラビアのスポーツ」を参照

サッカー[編集]

サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第一回大会から出場している。ワールドカップでは1930年大会のベスト4(3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等がある。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。

1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。しかし1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990年イタリア大会では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。

しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して国際サッカー連盟、欧州サッカー連盟はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体と共にユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。

旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承され、1998年フランスワールドカップでは、クロアチアが3位に入り大きな驚きを呼んだ。更にサッカーが盛んとは言えないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002年日韓ワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに驚かされた。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われた事が上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。

オリンピック[編集]

サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。

第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。

有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。

しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦う事を認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年のリレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。

ユーゴスラビアは1996年のアトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年のシドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。

ユーゴスラビア人

ユーゴスラビア人(Југословени)は、ユーゴスラビアにおいて想定された民族の概念。

概要[編集]

1961年共産主義体制下のユーゴスラビアで行われた初めての国勢調査から導入された。ユーゴスラビアの国勢調査による民族の調査は自己申告であり、本来の民族と異なるものを申請してもさほど問題にならなかった土壌がユーゴスラビアには存在した。ユーゴスラビア崩壊後もユーゴスラビア人であると申告する人がいる。

実際に文化人類学的見地から見た場合、ユーゴスラビア人という民族は存在しない。同様に多民族国家において想像された民族としてチェコスロバキア人、ソ連人、中華民族がある。一方で70年以上存在したユーゴスラビアにおいてさまざまな民族間の混血が進んだ結果、両親の民族が異なるなどして自らの民族をユーゴスラビア人としか規定しようがない人々がかなりの数存在したのも確かである。

地域的には、民族間の混血が進んだ地域にユーゴスラビア人が多かった。具体的にはボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアのヴォイヴォディナ自治州等が該当する。また、地方からの流入者が多かったベオグラードをはじめとする都市部もこれに該当した。また、ある民族がマジョリティである地域において、マイノリティの民族である者が摩擦を避けるためにユーゴスラビア人とした場合も存在する。

自らの民族をユーゴスラビア人として申告した人の数は、1971年の国勢調査では273,077人(全人口の1.3%)、1981年の国勢調査では1,216,463人(全人口の5.4%)に昇った。ユーゴスラビア人が最も多かったのはこの時で、以降ユーゴスラビア解体の動きが進んでいく中で、自らの民族をユーゴスラビア人として申請する人の数は少なくなっていった。それでも1991年に行われたユーゴスラビア最後の国勢調査ではボスニア・ヘルツェゴビナで239,777人が、自らの民族をユーゴスラビア人として申告している。

ユーゴスラビア解体後、旧ユーゴスラビア構成諸国家では2001年から2003年にかけて国勢調査を実施しているが、2002年に実施されたセルビアの国勢調査では80,721人が自らの民族をユーゴスラビア人として申告している。

現在でも自らの民族をユーゴスラビア人として申告する者の思想的背景としては、当然これを導入した共産主義体制を支持する者も存在するが、単にユーゴスラビアを懐古する者、旧ユーゴスラビアにおけるユーゴスラビア紛争の反省から、民族間の融和に努めるべきであるという思想によりユーゴスラビア人を名乗るものまで幅広く存在する。また、思想とは別に単に自らの両親の民族が異なるからという理由でユーゴスラビア人として申告する者も存在する。
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