産経新聞平成20年8月25日(月)より記事を紹介。
明治23年に和歌山県串本町沖でトルコ軍艦が遭難、乗組員役70人を救った「エルトゥールル号」事件について考えるシンポジウム「トルコ軍艦”エルトゥールル号”遭難事件と日本人」(新しい歴史教科書を作る会主催)が24日、大阪市中央区で開かれた。
***中略***
串本町の田島勝正元町長は、乗組員たちを治療した医師たちが、政府の治療費料精算の通達に対して「治療費は遭難者への”義捐”にあててほしい」と申し出た書面を町内の寺の金庫から見つけ、祖先たちの無償の精神に感動したと言うエピソーゾを披露。
***後略***
エルトゥールル号事件の概要
以前にもこのブログに綴った事がありますが、再度、「エルトゥールル号事件」の概要を以下に示します。
今から118年前、1890年(明治23年)のことです。
親善のために日本を訪れたオスマン帝国(現在のトルコ)海軍のエルトゥールル号は、帰国の途、1890年(明治23年)9月16日夜半、折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突。座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、沈没しました。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となりました。
そして、樫野崎灯台の下に流れ着いた生存者は、数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせました。灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たりました。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めました。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することができたのです。
地元大島村(現串本町)の人々がトルコ人の遭難者に温かい対応を行ったこと、これが日本とトルコの友好の始まりとして有名なエピソードになっています。
トルコ記念館はこの出来事を記念し、1974年に遭難現場の側の串本町の大島に建設されました。2階展望台からはエルトゥールル号が座礁した地点を見ることができます。
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紀伊半島の最南端に位地する串本町大島。私は幾度もこの地を訪れますが、その都度新たな発見や感動があります。
串本町大島の樫野崎灯台などに関しては
http://www.geocities.jp/seoto_kisyuu/index03_ad31.html
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