何時もの様な早朝からの学生たちのテニスの練習音や声が響いて来ません。今日は練習は休みなのでしょうか。テニスコートには人影がありません。曇り空の下で、テニスコート周辺の樹木がしっとりとした緑の輝きを放っています。
久々に近くのコーヒーショップに行きました。ゆっくりとコーヒーを味わい、タバコをくゆらしながら新聞を読みました。
悲しいニュースが紙面を飾っています。
「JR大阪駅で通り魔 カメラに不審女性 3人切られる 秋葉原の連鎖反応か?」
「橋下知事暗殺書き込み男逮捕」
週刊誌に目を通しました。何の週刊誌も秋葉原事件の容疑者の特集です。
このような短絡的で悲しい事件が、豊かである筈の日本でなぜ起きるのでしょうか。何かが狂っています。何処かが狂っています
秋葉原事件の容疑者は、高校生の頃まで成績が優秀だったのですが、次第に低下したとの事です。何の取り得も無い自分だとの想いから、次第にコンプレックスが強くなると共に、この様な自分でもその存在を認めて欲しいと言う自己顕示欲が増大し、それが今回の事件の引き金になったと言われています。JR大阪駅の通り魔の容疑者にも共通点があるのでしょう。
コンプレックスと自己顕示欲のエネルギーのベクトル、放出方法が誤っています。これらの容疑者には、「甘ったれるんじゃないよ!」と声を大にして言いたい。秋葉原事件の容疑者の最も身近な親御さんは、なぜこれを見抜けなかったのか?学力で優秀な点を取る事に第一義的な価値を見出していたのでしょうか?
私も何の取り得も無い男です。コンプレックスと自己顕示欲の塊です。ですから面白くも無いブログを毎日綴っています。
コンプレックスと自己顕示欲は、人間なら誰でも持っているもの。勉強が苦手な若い頃の私はコンプレックスの強い人間でしたから、悩みましたし、失恋もしました。とに角、精神的な飢餓状況でした。ですから空腹ながらも貪る様に本を読みました。多くの芸術作品に接する事を心がけ、特に演劇と映画には傾倒しました。田舎出の貧乏学生の私には、コンプレックスから脱却する術はそれらしか無かったのです。
今はこの歳になって、私に宗教心が欠落していた事を初めて気づき、反省しています。
「私は無宗教者だ、と言う人は私は犬や猫などの動物と同じだ、と言っている様なものである」と何かの本に書いてありました。
このような事件が起きると、「今の若者は何を考えているのか」と言った論議が必ずや展開されます。しかし、目立たないながらも確りとした自己探求を伴って学び働く若者は大勢います。事実です。これに大人はもっと光を与えて欲しいと思うのです。
私は何の取り得も無い男ですが、専門学校で15年間デザイン教育に携わっていました。デザイン教育よりもデザイナー教育と言った方が適切かも知れません。専門学校は目的意識を持って真摯な態度で学ぶ学生が圧倒的大部分を占めています。若い人を指導する事を通して、私自身が勉強させて頂いたのだと思っています。
少しバラついていた雨があがりました。雲の間から光が射し始めました。ポン、ポンと言うテニスの打音が響き始めました。学生たちの練習が始まった様です。
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