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2014年11月30日

方便品と寿量品

「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り」(月水御書 1201頁)

法華経には、28の品がありますが、その中でも特に優れているのが方便品と寿量品とであるとの御文ですね。

迹門を代表して方便品、本門を代表して寿量品ということですね。

勤行においては、この方便品と寿量品とを読誦しています。重要であるからこそ、勤行の中に組み込まれているのですね。

もし、法華経28品全部を読誦しなければならないと一日中勤行になってしまいます。

やはり、法華経の中でも重要なところに焦点を定めた方が価値的ですね。

また、方便品と寿量品とは、他の品とは質が違う、格が違うといえます。

釈尊の一代聖教の中で法華経を選び出し、その法華経から方便品と寿量品とを選び出しているわけですから、この方便品と寿量品とは、仏教の精髄であると認識したうえで、勤行にいそしみたいですね。
posted by lawful at 22:40| 御書

血肉化された知識、自分自身からにじみ出る知識

「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある」(ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳 光文社古典新訳文庫 8頁)

以前は、たくさんの本棚とたくさんの本があり、背表紙を眺めて悦に入っておりました。その割には、さほど本を読んでおらず、形だけであったと思いますね。

本が増えていくにしたがって、圧迫感だけが増えていき、また、蔵書の内、読んでいない本が多く、本を置いているだけではないかと思うようになりました。

いずれは読むという気持であったのでしょうが、実際はいつまでたっても読まないのですね。

断捨離が流行っているということもあり、本の断捨離をはじめたところ、ほとんどの本は、ブックオフに売却し、資源ごみに出されることになりました。

本を処分して困ったことはありません。必要な本だけ残していますから、問題がないわけです。

このことを考えるとたくさんの蔵書があったにしても、それは、「整理されていない蔵書」でしかなかったということなのですね。現在の蔵書は、少ないながらも「きちんと整理されている蔵書」となっています。

蔵書として持っておくべき書は、まずは、聖典類でしょうね。私の場合、御書と法華経ということになります。あとは、電子辞書があるとはいえ、一応、紙媒体の辞書類が必要でしょうね。その他では、多少の古典及び気に入った数冊の本で十分でしょう。

本は蔵書として持っていることに価値があるのではなく、読んで自身の血肉にしてこそ価値があるものです。まずは、読まなければなりません。蔵書にしているだけで読んでいなかった本が多かったころを反省しますね。

現在、蔵書にない本は、ほとんど、図書館にて借りています。読んだら返却というサイクルですね。読み始めて、つまらないと思えば、そこで読むのをやめればよく、返却すれば、蔵書にもならず、部屋は快適です。

蔵書を抱えていた時より、図書館で借りるようになってからの方が本を読むようになりました。おもしろい現象ですね。蔵書というのは、読書にとって、さほど重要ではないのかもしれませんね。

読むのが大切なのであり、所有することに意味はありません。また読みたければ、また借りればよいだけです。別にむずかしいことではありません。

ショーペンハウアーが言うように、知識に関しても同じことがいえますね。量が多くとも自分の中で血肉化されていない知識は、正直なところ、使えません。活用できないわけですね。まさに、意味がないわけですが、若いころは知識が多いことがいいことだと勘違いしていますので、やたらと知識を増やしていたものです。

しかし、今から思うと、ほとんどの知識はどうでもいい知識ですね。単なる知識であり、自分の中からにじみ出る知識ではないのですね。「自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識」とは、言い得ています。

必要なのは、「じっくり考え抜いた知識」であり、血肉化された知識、自分自身からにじみ出る知識ですね。このような知識になると、量は少なくなりますが、別に困りません。使える知識、活用できる知識なのですから、少しであっても効果莫大ですね。そもそも、多量の知識を「じっくり考え抜いた知識」で用立てることなどできません。人間の一生の時間では、足りませんね。

所詮、人間は有限な存在なのですから、あれもこれもと言っていては、その間に寿命が来てしまいます。

価値的に、賢明に生きていくべきでしょうね。

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posted by lawful at 22:14| 読書

2014年11月02日

どのような英語をマスターしたいのかを確認する

「筆者が言いたいのは、国際共通語としての英語の価値なのであって、英語という言語そのものの価値ではないのである」(唐須教光 『なぜ子どもに英語なのか』 日本放送出版協会 211頁)

現在、英語を勉強しておりますが、ネイティブレベルの英語が身に付くとは、到底、思えません。

ネイティブレベルの英語をマスターした人の勉強量、環境等々を垣間見た時、私は、その足元にも及びません。

ネイティブレベルの英語というは、英語という言語そのものの価値を見出すほどのモチベーションがないと身に付かないでしょう。

英語どっぷりという生活をする人には、ネイティブレベルの英語が必要でしょうし、身に付くものでしょう。

しかし、私の場合、英語どっぷりの生活が訪れることもなく、また、そのような生活を志向していない以上、ネイティブレベルの英語は身に付かないでしょうね。

しかし、私が英語を勉強し続けようと思うのは、国際共通語としての英語の価値を見出しているからです。

ネイティブレベルになることが、そもそも目的になっていないのですね。

あくまでも国際共通語としての英語、つまり、ネイティブだけでなく、ネイティブでない人とのコミュニケーションを取れるようにしたいというのが目的なのですね。

日本語だけの情報でなく、英語での情報をも収集したいと思っているわけです。

「日本人が英語を学ぶのは、それが国際共通語であって、それを学ぶことによって、より有利な立場に立ちうるからである」(同書 212頁)というところが目指すところですね。

ネイティブレベルでなくとも、少なくとも、コミュニケーションが取れるほどの英語力を身に付けたいと考えています。

ある程度の英語力ということになりましょう。それでは、そのある程度とは、どの程度なのかといっても、明確な線引きはできませんが、意思疎通が取れる程度と考えるほかはなさそうです。

なぜ、このようなことを考えるかといいますと、到底、ネイティブレベルの英語が身に付かず、また、身に付けるモチベーションがない中で、英語を勉強し続けるためには、ネイティブレベルとは違う基準を明確にしておく必要があると感じたからです。

どうしても、勉強をし始めると頂点を目指そうとするのですが、頂点に至る人はごく少数です。このような当たり前のことを分からずに、やみくもに頂点を目指し、そして、頂点に辿り着けそうにないと嘆き、勉強そのものをやめてしまうという愚を防ぎたいのですね。

そもそも、頂点を目指す必要があるのかといいますと、私の場合、ないわけです。

ある意味、それなりの英語で十分なわけですね。楽しみながらの英語でいいわけです。別に、英語のプロになるわけでもなく、私は私なりの英語をマスターすればよいのですね。

とにかく、勉強を続けることが大切であり、そうすることによって、少しずつであっても英語力をアップさせることが肝要なのですね。
posted by lawful at 02:27| 英語学習

2014年11月01日

海外の創価学会

「創価学会(SGI)の海外の会員数は約170万人といわれているが、そのなかで韓国SGI(以下、KSGI)の登録会員数は、KSGI広報局の公式資料によれば、約150万人で、そのうち、座談会の参加者は約73万世帯(2012年12月27日現在)に至っているという」(朴承吉「創価学会の海外組織―韓国SGIの急伸要因」南椿模訳 西山茂責任編集『近現代の法華運動と在家教団』 春秋社 365頁)

約170万人の海外の創価学会員のうち、約150万人が韓国ということは、日本及び韓国を除く地域の創価学会員数は、約20万人ということになります。

こういっては何ですが、世界(日本と韓国とを除く)での信仰者数が20万人とは、あまりにも少ないですね。

日本と韓国との人口を除いた世界人口が約70億人と考えますと、日本と韓国以外での創価学会員数が20万人ということですから、割合としては、約0.002857パーセントです。

ほとんど存在しないに等しい数字ですね。

創価学会は日本の新宗教であり、日本においては、それなりの勢力と影響力とを持っており、韓国においても「韓国社会に及ぼす影響力は少なくないと考えられる」(同書 369頁)わけですが、世界的に見ると、存在を確認することそのものが困難です。

以下のように巨大宗教と比べますと、その差に驚きます。
キリスト教徒(全体) 約20億人
   ローマカトリック 約10億5000万人
   独立主義教会 約3億8000万人
   プロテスタント 約3億4000万人
ムスリム(イスラム教徒)約11億8000万人
ヒンドゥー教徒 約8億1000万人
仏教徒 約3億5000万人
新宗教信者 約1億人

上記のうち、創価学会は、仏教徒、若しくは、新宗教信者に含まれると思いますが、いずれにしても、巨大宗教たるキリスト教、イスラム教に比べますと、極小宗教団体です。

日本にいますと、それなりに宗教や政治に関心を持っている人であるならば、創価学会は影響力のある巨大な団体という感覚があります。

しかし、目を世界に転じると、全く違う現状が見えてきます。つまり、存在を確認することができないぐらいの極めて小さな存在なのですね。

創価学会の機関紙の聖教新聞やテレビCMを見ると、いかにも世界に広がっているというイメージですが、所詮、それはイメージであって、現実には広がっていません。

もちろん、世界的に見れば少ないとはいえ、約20万人いるわけですから、全く広がっていないとは言えないでしょうが、やはり、大きく捉えると、広がっていないと解釈するのが妥当でしょう。

世界に広げたいと考えるならば、創価学会としては、まだまだ、為すべきことが多いということになりましょう。創価学会的な言い方をすれば、まだまだ草創期も草創期ということでしょう。

ただ、日本において、それなりの財源を確保してしまうと、それで安心してしまい、困難な世界進出などやりたくないというのが本音なのかもしれませんね。相手にしなければならないのは、キリスト教、イスラム教などの巨大で歴史のある宗教なわけですから、普通に考えますと、それらの宗教を凌駕するのは困難ですから、二の足を踏むのも分からないではありません。

創価学会の勢力がどうなろうと、別にどうでもいいわけですが、キリスト教、イスラム教と発想が違う仏教、就中、法華経や日蓮仏法の考え方は、今後の世界をリードしていく上で、重要と思いますね。

一神教に基づくキリスト教やイスラム教であれば、神を中心とするものの考え方により、恣意的に世界を解釈し、それなりに秩序を構築しやすいという利点があるでしょうが、所詮、それは人間の頭の中で作り上げた秩序です。

この世界は、人間だけでなく自然もあるわけですから、人智を超えたものを神として定立し、それで事足れりとするのではなく、難しくとも、人智を超えた自然をそのまま感じ取りながら自らの立ち位置を見出すべきと思われます。

この点、仏教は、自然と共に人間があるという考え方に貫かれており、環境破壊が甚だしい現在の世界に必要な視点を提供してくれます。

「「東大門派」の韓国語の読経問題は、後刻、日本の創価学会本部の仲裁によって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」は末法保存の宝号で本尊を呼ぶ一種の「化法」(教えの根幹)であるのでそのまま使わなければならないが、経典(経文)は「化儀」の問題なので韓国語に換えて使ってもよいという許可を、1969(昭和44)年1月14日に、日本本部が日蓮正宗の法主から貰うことによって、一応解決された」(同書 373頁)

はじめて知りましたが、いろいろあったのですね。

経典に関していえば、創価学会、日蓮正宗では、法華経方便品寿量品を読誦する場合、真読しますが、霊友会、立正佼成会では、訓読していますね。

日本においても、真読と訓読との違いがありますね。

韓国においては、真読ではなく、訓読するにしても、やはり、日本語ですから、韓国語に翻訳して読誦したいと思うのは当然でしょう。

これはこれで問題がないと思うのですが、当時は、これでいいのだろうかと議論があったようですね。

結局、日蓮正宗の法主の許可で解決したようですが、日本以外で宗教を広げるのは大変な作業ですね。

「KSGIは、1995(平成7)年に財団法人化の過程で分派した「善の連帯」と現在でも葛藤と対立を続けているが、それにもかかわらず、両者とも、師弟不二の理念によって池田SGI会長との一体化を志向しているということには変わりはない」(同書 380頁)

これもはじめて知りましたが、韓国の創価学会は分派しているのですね。

今後、日本の創価学会にも同じようなことが起きるかもしれません。

少なくとも、韓国では、約20年前に起こっていることですから、分派は起きないとは言い切れませんね。

日本においては、池田大作さんが存命の間は、何も起こらないでしょう。ただ、「当然ながら、いつかは迎えるしかない池田会長の不在という状況になると、それは、「KSGI」にとっては、直ちに新たな「挑戦」の始まりになると思われる」(同書 382頁)のと同様に日本の創価学会にとっても、大きな「転機」にはなるでしょうね。

ある意味、日蓮正宗と創価学会とが別々の団体として、それぞれの特色、特徴を持つに至り、袂を分かつにしても、所詮、根本的なところは同一であり、どこまで行っても「日蓮正宗創価学会」です。

日蓮正宗としては、創価学会とは違うと言いたいところでしょうが、信徒の大多数は元創価学会員であり、ただ単に「元」が付いているだけで、中身は正真正銘の創価学会員です。

日蓮正宗の活動を見てみますと、いつの間にか創価学会のようになっています。やはり、創価学会で薫陶を受けた元創価学会員の力量が遺憾なく発揮されているということでしょうね。人間はすぐに変われるわけではなく、いままでの習慣が滲み出てくるものです。

創価学会としても、日蓮正宗とは違うと言いたいにしても、題目、本尊、御書という根本的なところは、日蓮正宗から持ってこなければならず、日蓮正宗を外して創価学会は存在できません。やはり、創価学会の中に日蓮正宗が厳然と鎮座しているのですね。

韓国の創価学会も、「KSGI」と「善の連帯」とで別々の団体になっても、根本的なところは同一であり、所詮、「韓国の創価学会」ということですね。

今後の日本の創価学会が分派することがあっても、結局、上記のように、教団が分派するだけであって、中身は同じと考えておけばよいでしょう。

信仰するという観点からすれば、教団が分派しようがどうしようが、本質的には、あまり関係がないのですね。

利用価値、使用価値がある教団があればよく、なければないで問題はありません。

自立した信仰者であれば、何ら困ることはありません。教団分派の過程を観察することによって、人間とはいかなる存在であるかが分かり、勉強になるという利点はあるでしょう。

教団としては、自立していない信仰者が、お得意さんですから、教団がなければ信仰が出来ませんよという大きな嘘を言いながら、また、脅しをかけながら人の信仰の自立を阻みながら、集金に余念がないのでしょうね。

信仰者としては、教団を厳しく監視しながら、利用できるときは利用し、利用されそうになった場合は、素早く退避することですね。

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