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2017年01月28日
越前(重富)島津家墓地と紹隆寺跡
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越前島津家は、越前の国(現在の福井県)の守護代であった忠綱(ただつな)(島津家初代・忠久の次男)を祖とする鎌倉時代以来の名家でした。
しかし、戦国時代(16世紀中頃)に第15代忠長が播磨(はりま)の国(現在の兵庫県・姫路市)朝日山の戦いにおいて戦死したため、絶えてしまいました。それから、約200年後の元文2(1737年)に、島津本家22代当主・継豊(つぐとよ)の弟・忠紀によって再興され、忠紀が越前島津家第16代となりました。
元文3年、忠紀には当時帖佐郷であった、脇元村・平松村・船津村・春花村・吉田郷、触田村(東佐多浦村の一部)の5ヶ村が領地として与えられ、翌年、郷名は「重富」と名づけられました。
ここには、越前島津家の菩提寺であった、紹隆寺が建立されていましたが、明治初年の廃仏毀釈令によって壊され、今では墓地のみが残っています。
この墓地は、越前島津家16代から第23代までの当主とその家族(33基)が祀られていて、大名墓に相応しい格式を持った立派なものですが、なかなか分かりづらい場所にあるので、いつ行っても誰もいない事が多いです。
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重富氏・島津久光も住んだ平松城跡
天文23年(1554年)、後に岩剣(いわつるぎ)合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちました。
この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変に険しく、日常生活する上で不便でしたので、麓のこの地に居住用の館を築きました。これが、平松城です。
義弘は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長10年から翌年にかけても帖佐からこの城に帰り、加治木へ移るまでの居館としました。
その後当城では、島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代中頃の元文2年(1737年)、藩主・島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家でありながら絶えて久しかった越前島津氏を再興させました。
翌年には、帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一世には麓と呼ばれる家臣団の屋敷跡が計画的に整備されています。
天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館(しんぎょうかん)が建てられ、幕末維新に活躍する島津久光(斉彬の弟)も、若い頃は越前家20代当主としてこの平松城に住んでいました。
明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれ、現在は小学校になっています。
正面の石垣は、野面積み(のづらづみ)と呼ばれる古い積み方で造られていて、また、正面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11メートル、長さ約275メートルもあります。
鎌倉時代〜戦国時代を通じて、各地を転戦してきた島津氏にとっては、一番永く使われた城ではないでしょうか。