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2018年02月23日
審判員の心理
あー長いような短いような
冬季オリンピックが終わろうとしています。
なんとなく切ないような
これで良かったというか…
オリンピックを通して色々なことを感じましたが
特に強く感じたことは三つあります。
その1 選手すげー
その2 解説者とアナウンサーすげー
その3 審判員おいおい
という感じです。
選手が素晴らしいのはあらためて書くこともないでしょう。
ボードのぐるぐるに歓喜し
スピードスケートに泣き
フィギュアスケートに泣き
メダルを取った選手もそうでない選手も
とても素晴らしかったです。
また解説者の感覚的でわかりやすい解説にしびれ
アナウンサーもまた解説者を引き立て
とても勉強熱心で
感動の演出をしてくれました。
そして最後に審査員についてひとつもの申したく
ここで筆を取りました。
正確にはキーボードですか。
特にフィギュアスケートの審査員について
感じたのは審査員たちの心は
審査する評価がすでに出来上がっていそうだと
いうことです。
これお笑いを例にたとえるとわかりやすいです。
私たちはお笑いを見るときに
「笑う準備」をしてみます。
たとえばダウンタウンを好きな人が彼らを見ると
きっと面白いことをやってくれるに違いないと
心の準備をして見ます。
すると何か言うだけで笑ってしまうのです。
テレビでお笑いを見ても面白くないと感じても
劇場にお笑いに行くと面白い面白い。
それをお笑いを見る準備ができているためであり
お金を払っているので
楽しまないと損という心理です。
これに近いことがフィギュアの審判にも見られます。
「この選手はすごい選手だ」
「この選手はあまり見ない選手だ」
と事前に固定観念を持って審査にあたっている
心理が垣間見えます。
すごいと思っている選手がジャンプをするとそれだけで
加点が入り
そうでない選手は最初から回転不足を想定して
評価しているように見えます。
エコヒイキという感じではなく
偏見やステレオタイプというほうが
近いかもですね。
(ここで言っていることは中国審査員の
えこひいき問題とは直接関係ありません)
フィギュアは細かく細かく点数が決められていて
その達成度で成り立つものでありながら
そこに個々の「評価」という
固定観念が加わったとても曖昧な
さじ加減が影響を与えるという
なんとも摩訶不思議な競技
と見ました。
いっそのこと競技として
人の感覚を排除するか
もう芸術として感覚で評価するか
腹をくくればいいのに
と思った次第です。
まあとても人間らしい評価であり
競技と芸術の間を彷徨う
人間そのものの競技であるとも言えます。
とにもかくにも私はとても感動しました。
なにしろ素晴らしかった。
選手は微塵も悪くありません。
むしろこれからは印象操作が
重要になってくるのかなとも感じます。
選手の皆さん
関係者のみなさん
お疲れさまです。
ありがとうございました。
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