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2017年05月14日

クジラの祖先ってどんな姿?


ご無沙汰しております。
ここ最近仕事が忙しく、久々の投稿になってしまいました。

この前新聞で、クジラに関する面白い話が載っていたので、ここでもクジラの雑談をひとつ。

皆さんはクジラって「何類」か知っていますか?

「魚」?
いいえ、もちろん「哺乳類」です。

クジラは海に暮らしていますが、魚ではありません。私たちと同じく肺呼吸をするので、時々水面に上がって外気を吸いにきますよね。

ところで、哺乳類の祖先はすべて、ネズミのような小さな生き物だったと言われています。ということは、クジラのように大きな種も、信じがたいことにネズミのような小さな種から進化した、ということです。

さらに進化の長〜〜〜い道のりを遡っていくと、ネズミの祖先が大昔、海の中をスイスイ泳ぎ回っていた時代にいきつきます。哺乳類の四肢は、魚のヒレが長い時間をかけて変化したものなのです。

ちなみに、陸上で暮らしていた頃のクジラの祖先は、カバのような偶蹄類だったと考えられているそうです。
というわけで、クジラの歩んだ道のりはざっくりと以下のようになります。

魚→…→ネズミのなかま→…→カバのなかま→…→クジラ

つまり以前は海で暮らしていた祖先が一旦は陸に上がり、もう一度海へと戻った、ということになるのです。

まったく、進化の歴史の圧倒的なスケール感に言葉を失ってしまいますよね…

さて、海での生活に適応するうえで、クジラは陸上時代に獲得した脚や歯を失っていきました。もったいない!と思われるかもしれませんが、泳ぐ上で水の抵抗となってしまう脚は邪魔になるし、歯を失う代わりに「ヒゲ板」と呼ばれる器官を持っているため、大量のオキアミを食べる事ができるのです。

この「ヒゲ板」こそがいわゆる「ヒゲクジラ」の特徴で、対象的に歯を失わなかったクジラは「ハクジラ」と呼ばれていますが、これは主にイルカのことです。

このたび南米で、化石が発見された「ミスタコドン」は、初期のヒゲクジラ類と考えられていますが、まだ歯を持っており、退化した後ろ脚もまだ小さく残っていたというのです。ということは、(ヒゲ)クジラとイルカの祖先は、分岐した後にそれぞれ別々に脚を失っていったと考えられるわけですね。

やっぱり生物進化は奥が深くて面白い!

posted by グサオ at 12:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 生物学

2017年04月22日

理系と文系についての雑感


学問はよく理系と文系とに分けて語られます。

しかしどんな人であっても、どちらか一方のみで十分だと考えるのは良くないでしょう。私は理系の出身ですが、理系科目だけやっていれば良いとは全く考えていません。

理系は非常にロジカルな分野です。数学や論理学を根底にし、さまざまな問題の原因をパズルのように解いてゆくのが専らその役割です。その「パズル解き」のプロセスにおいて、あっと驚くようなひらめきやアイデアが発揮されることもあります。そのような発見に関わることはとても楽しいことです。

しかしいくら問題の解き方がトリッキーであっても、それは結局何らかの法則やら公理やらの前提と、ある一定のルールに基づいた推論の結果にすぎません。理系の考え方に入り浸っていると、その前提やルールが自明のものであると信じて疑わない傾向が強くなっていくように感じます。つまり知らず知らずのうちに、思考の枠組みが形成されていってしまうのです。

一方文系は、答えのない問題を扱っています。

最もイメージしやすいのは政治学でしょう。現代人は、未だ誰も直面したことのない新しい問題を抱えながら生きています。そんな前代未聞の状況に直面しながら、何とか答えを出さなくてはいけないのが政治です。

そして極めつけは、哲学。

私とはなにか?
人間とはなにか?
言葉とはなにか?
考えるとはなにか?

ほとんどの学問が「前提」として素通りしてしまうような根本的な問題に、哲学は真正面から挑んでいます。問題が問題ゆえに、別々の哲学者が真逆の意見を言っていたりもしますが、だからといってその努力を敬遠すべきではないはずです。

少なくとも理系は、自らのロジックが通用しないという理由で、文系を軽んじてはならない、というのが私の主張です。

もちろん、扱う問題の種類にしたがって、理系と文系はそれぞれ別々の手法を用いています。しかしどちらかの問題がより優れているということはなく、両方の問題を深く考えることが、誰にとっても必要なのではないでしょうか。

posted by グサオ at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 一般

2017年04月15日

マトゥラーナ&バレーラ『知恵の樹』


認識について知ること。

これは私たちにとって最も重要なことでありながら、最も困難なことでもあります。なぜなら私たちはいつも、当然のごとく何かを認識をしていますが、認識している自分自身を客観的な認識対象にすることはできないからです。ものを見る自分の眼それ自体を、見ることができないのと同じように…。

こんな困難な課題に勇猛果敢に挑んだのが、チリの神経生物学者、ウンベルト・マトゥラーナフランシスコ・ヴァレラです。

彼らは、オートポイエーシス理論という画期的なアイデアの生みの親です。本書『知恵の樹』は、分かり易い文体で書かれたオートポイエーシス理論の入門書でありながら、遺伝、発生、進化、行動、神経、社会、言語と多岐にわたって論を展開してゆき、最後に再び「認識」の問題に迫る壮大な知的冒険の書です。

「オートポイエーシス」とは、「自己創出」のこと。
簡単に言うと、自らの作動によって自らを維持するシステムのことです。

生命はこのようなオートポイエーシス・システムとして定義されます。彼らによるこの定義は、客観的・科学的に最も合理的なものであると私には思われます。

生命の本質であるDNAの驚異的な能力は、自己複製することです。DNAの構造に刻まれた暗号によって合成されるタンパク質の機能は、DNA自身の構造を維持します。同じように細胞も、細胞内のシステムの作動自体が、細胞の構造を維持しています。生物(個体)も同様です。外部からの助けがなくても、自律的にシステムを維持することができます。

生物はこのように、「閉じた円環」としてイメージできる、オートポイエース・システムだと、彼らは考えます。

私たち人間にとっても、生きるということはすなわち、自分自身というシステムを維持することなのです。したがって、「認識する」という行為自体も、自分というシステムの作動に他ならず、その行為を外部から認識することはできません。

それゆえ認識というのは必ず「誰かの認識」である他なく、あらゆる行為もまた同様です。この文章を書いているのも、私(グサオ)というシステム以外にあり得ません。

こうして、認識するという行為自体が、オートポイエースのような円環を辿って、認識する自分自身を認識します。そして認識とは行為であり、システムを維持すること、すなわち生きることと同じであるということが洞察されるのです。

なんだか頭の中をぐるぐると混乱させてしまったかもしれません。しかしこの理論の性質上それは仕方のないことで、この本を精読すれば著者らの主張が極めて革新的なものであることが分かるでしょう。

この本でなされるオートポイエーシス理論の展開はどれも非常に重要なので、今後も少しずつ掘り下げてゆきましょう。

2017年04月11日

スティーブン・ジェイ・グールド『ワンダブル・ライフ』


恐竜は確かにカッコイイですが、古生物の世界には他にもまだまだ魅力的なモンスターがたくさんいます。

たとえば、エビのような形の2本の触手で獲物を捕らえる「アノマロカリス」。5つの目と像の鼻のような触手を持った「オパビニア」。

これらは皆カンブリア紀の生き物たちです。カンブリア紀とは、約5億年前、目を持つなどの高度な進化を遂げた生物の痕跡が、初めて見られる地質年代です。

そんなカンブリア紀の生物たちのについて分かりやすく紹介し、一躍ブームの火付け役となったのが、この『ワンダフル・ライフ』です。

著者のグールドは、自身一流な古生物学者でありながら、エッセイストとしても非常に優秀で、たくさんの面白い本を遺しています。それらはグールド特有のユーモアで楽しみながら学べる、価値ある科学読み物と言えるでしょう。

さて、カンブリア紀のモンスターたちはあまりにも珍奇なので、数々の議論や謎を生むことになりました。

特筆すべきは、その多様性です。なんとカンブリア紀にはすでに、現在みられる動物体制の全ての「門」が、すでに出揃っていたというのです。

この現象は「カンブリア爆発の謎」として知られています。ダーウィンもこの謎については頭を悩ませました。

カンブリア紀に至るまでの生物進化において、一体何が起こったのか。喧喧諤諤の議論が続いていますが、それは結局、新たな化石がもっと見つからない限り、想像の域を超えることはできないでしょう。

「断続平衡説」を唱えたグールドと、『利己的な遺伝子』を著したドーキンスとの対立は良く知られています。還元するとこの対立は、進化に対して古生物学者のようなマクロ的視点をもつか、分子生物学者のようなミクロ的視点をもつか、という構造になっていると考えます。

この問題について語るには、一つの記事ではとても足りないので、ひとまず筆(正確に言うとスマホを動かす指)を置きます。とりあえず次のことだけは言っておこうとおもいます。

答えは「中庸」にあるかも知れない。

2017年04月09日

ラマルク『動物哲学』


さて、いよいよ進化論の考察に入っていきます。

進化論と言えば、ほとんどの人がチャールズ・ダーウィンを思い浮かべるでしょう。自然選択を骨子とするダーウィンの進化論はネオ・ダーウィニズムとして受け継がれ、現代の進化学説の主要潮流になっています。

しかし、進化を語るうえでどうしても忘れてはならない人物がいます。

それが、このジャン=バティスト・ラマルクです。

ラマルクはダーウィンの『種の起源』に先立つこと50年、『動物哲学』の中で、初めて進化の概念を打ち出しました。

当時、「それぞれの種はそれぞれ別々に創造された」と考えられていました。そんな常識がまかり通っている中、「生物は変遷する」ということを見出したラマルクの観察眼と思考力は、驚異的という他ありません。

さらにラマルクの慧眼は、人間をも含む哺乳類が海から誕生したということまでも、見抜いていたようです。今でさえ、「人間の祖先は大昔は魚だった」と言うと、びっくりする人が少なくないのに。

全ての生物は長い歴史の中で繋がっている。

この事実にこの世で初めて思い至ったという点だけでも、ラマルクの名前は世間からもっと尊敬されるべきでしょう。

ラマルクといえば、誤った進化論を提唱した人として、認知されています。しかしこの本を読むと、その点についても彼を擁護できることが分かります。

詳細については今回は割愛しますが、『動物哲学』は進化を考える上で外せないということを分かっていただければ、この記事の目的は達成されことになります。

posted by グサオ at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 進化論

2017年04月08日

トルストイ『アンナ・カレーニナ』


「おすすめの小説は何ですか?」

そう聞かれたら私は間違いなく、この『アンナ・カレーニナ』を推します。

今更詳しく説明するまでもないでしょう。世界最高峰と称される人類の一つの到達点です。

本当にこの小説は「完璧」という他ありません。まさに人生の全てを表現しています。主人公はその名の通り、裕福なカレーニンの夫人となる女性アンナ・カレーニナですが、トルストイ自身がモデルとされる、自然を愛する敬虔なリョービンも、もう一人の主人公と言えます。その他にもたくさんの人物が登場し、素晴らしい箇所が数えきれないほどある長大な小説なので、内容を詳しく紹介するのは差し控えます(本当は随分前に読んだので忘れている部分もあるので…すみません)。

私が最も感動したところを一つ選ぶとするなら、母親になったアンナが(自分の不倫のせいで)生き別れた息子と再開する次のシーンです。

彼女はその日の前日、幼い息子と会えるのを楽しみに、おもちゃ屋さんで長い時間いろいろ楽しく想像を膨らませながら、息子にあげるおもちゃを選んでいました。しかし短い再開の時が訪れると、我を忘れるほどに感情が溢れ出し、せっかく息子のために買ってきたたくさんのおもちゃを渡す事さえ忘れてしまったのです!

まったく、トルストイは男性なのに、どうしてこれほどまでに女性の気持ちが、母の気持ちが分かるのでしょう!

ともかく私は、テキトーな小説を100冊読むよりも、『アンナ・カレーニナ』を一回読む方がよっぽど得るところが大きいと、本気で考えています。

それほど完成度の高い作品です。

posted by グサオ at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学

2017年04月07日

ヴァリ『化石の博物誌』〜恐竜と化石の話〜


私は幼い頃、恐竜が大好きでした。

恐竜の図鑑を熱心に読みこみ、主要な恐竜の名前はほぼ全て暗記していたほどです。しかし、何も私が特別というわけではありません。いつの時代も少年たちの中には一定数「恐竜ヲタク」と呼べるほどの恐竜好きがいるはずです。

なんてったって、恐竜はデカいしカッコイイ!
そりゃあ子どもたちを魅了しないはずはありません。

しかし、恐竜に魅了されるのは子どもたちだけではありません。大人たちもまた、未知なる恐竜を追い求めて世界各地で化石採掘に没頭しています。こうした子どものような情熱が「古生物学」、「博物学」の分野を発展させてきました。そんな歴史をたくさんの図版を交えて、最も楽しく学ぶ事ができるのが、この『化石の博物誌』という本です。

昔の化石ハンターたちには、今とは圧倒的に違う点がありました。

それは、「恐竜」という概念がまだなかった、ということです!

人々は地面の中から、考えられないほど巨大な生物の骨のようなものを発掘し、「なんじゃこりゃ?!」と思ったわけです。そしてそれを「巨人の骨だ」とか「怪物の骨だ」とか言って騒ぎ立てました。一つ目怪人「サイクロプス」の伝説は、マンモスの頭骨の化石(鼻に血液を送る為の巨大な空洞が、一つ目を想像させました)に解釈を与えるために生み出されたといいます。

そして時代が経つにつれ少しずつ、幾人かが想像を飛躍させていくことになるのです。

「かつて巨大な生物が、実際にこの地球上に住んでいたのかもしれない…」、と。

なんというワクワク感、なんというロマンでしょう!

これこそがまさに純粋な科学研究の原動力であるはずです。

そうした力に突き動かされ、数々の化石ハンターたちはたくさんの生物化石を博物館に集めていったのです。そして彼らの奔走劇こそが、「進化論」という生物学の最も重要な概念を育む土壌となったのです。

2017年04月06日

岩波文庫について


真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。


これが誰による言か、分かる方はいらっしゃいますか?

きっとあなたの家の中のどこかにも、この麗しき文章が書かれているはずです。

これは、岩波文庫の末尾に書かれている、岩波茂雄「読者子に寄す」の第一文です。

岩波書店の創業者、岩波茂雄は幼い頃に父を亡くし、貧しい生活の中で母からの援助により勉学に励むことができたそうです。彼自身、真理を必死に追い求めた人であることは、彼が友人の自殺に際して、死について真剣に考えるために40日間山小屋に籠ったというエピゾードからも察せられます。その後、東京帝国大学哲学科で学を修めています。

そんな岩波茂雄の真理に対する情熱が、かの1ページに凝縮されています。その情熱はきっと、万人に届いているはずです。少なくとも私という一人の人間には十分に届いています。私の蔵書の圧倒的最多数は、他でもなく岩波文庫によって占められているのだから。

岩波文庫は極めてシンプルで、表紙に派手な絵柄などはありません。しかしそれは、できるだけ安く、真に価値のある本を私たちに提供するためなのだそうです。

私たちの懐具合まで考慮してくれていたとは!

本当に、岩波茂雄と岩波文庫には感謝しかありません。私は本屋の入り口付近に積まれている数々の華やかな本より、その片隅で静かに佇む岩波文庫のほうがよっぽどカッコイイと思います。

みなさんもぜひ一度「読者子に寄す」に目を通し、岩波茂雄のパッションを感じてみて下さい!

posted by グサオ at 18:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 一般

2017年04月05日

デカルト『方法序説』


「我思う、ゆえに我あり」
(Cogito ergo sum)


近代哲学の土台となった、非常に有名なこの命題。

デカルトはいかにしてこう考えるに至ったのでしょうか。

そのいきさつがデカルト自身の手によって、詳しく解説されているのが、この『方法序説』です。「我思う、ゆえに我あり」を初めて世に問うた記念碑的著作でありながら、彼の辿った思考の道筋が、自伝的に分かりやすく述べられているため、哲学書を読んだことが無い人にもオススメできます(ページ数も少ないです)。

また本書では、デカルト自身が思索を進める上で自らに課したいくつかの規則、いわば「自分ルール」が明かされているのですが、これがまた私たちの生活にも役立ちそうな実践的なものばかりなのです。

例えば、自分の行動において一度それと決めたことには、確固として迷わず、一貫して従うことをデカルトは実践しました。

森の中で道に迷った旅人は、その場にとどまっていても、方向を定めずにあっちに行ったりこっちに行ったりしていても、森から抜け出す事は難しいはずです。だから一度「これ」といった道を決め、それに従ってまっすぐに突き進むのが良いと、デカルトは言います。

これは、自分の将来を思い悩む現代人にとっても、勇気を与えてくれる格率ですね。

さて、デカルトはさまざまな「自分ルール」に従って、全てを疑うことから始めました。そしてデカルトの懐疑主義は、それまで自分の精神のなかに入っていたすべてを疑うまでに至ります。そこで彼は気づいたのです。

そのようにして全てを疑っている「我」の存在だけは、必然的に何ものかでなければならない、と。

これが、彼の見出した「我思う、ゆえに我あり」の概要です。

そしてこれをきっかけに、心身二元論や動物機械論、実在論vs観念論といった、多くの重要な哲学的問題が生み出されていったのです。

かくしてデカルトは「近代哲学の父」と呼ばれています。

posted by グサオ at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学

2017年04月04日

古典を読むことの重要性〜科学史を学ぶ意義〜


今日は「古典」を読む事の重要性について考えていきます。

文学における古典の価値は、ほとんどの人が認めるところだと思われます。誰も、現代の作家の方がゲーテやトルストイよりもあらゆる点で優れているなどと、本気で思ったりはしないでしょう。

ところが、科学における古典となると話は違ってきます。

一時代前の科学者たちは必然的に、今では当たり前となっている既成事実を知らずして本を書いています。ですので、「そんな古い考えなんて取り入れたって意味が無い!」と思われる方もいるかも知れません。

しかし私は、科学においても古典は大いに意味があるし、十分に注意を払うべきものだ、と考えています。その理由は大きく分けて2つあります。

⑴ 既成事実を無批判に受け入れない姿勢が身につく

私たちは教科書等でよく、「○○の説は間違っていた」というようなことを習い、その説を自分で詳しく検討することなく、「価値なし」と決めつけてしまいがちです。しかしそのような態度こそ、フッサールが批判したような、天下り的に既成事実を鵜呑みにする態度に他なりません。そうした態度は、「自分の頭で考える」ことを阻害してしまいます。科学の古典を読むことで、そこで述べられる説はなぜ否定されたか、どこがどう間違っているのか、自分の頭でしっかり考えて納得することができます。そうすることで現在の既成事実についても、より深い理解が得られるはずです。

⑵ 現在の視点から過去を見ることで、未来の視点から現在を見ることができる。

私たちは古典を読む時、過去の人物が知らなかったいくつかの新事実、いわば「答え」を知っていることになります。そして過去の人物はその「答え」が隠された状態で、思考を積み重ねていると言えます。ところが、偉大な人物の古典を読んでいると、その論理が極めて首尾一貫しており、全く付け入る隙がないように思えるのです。各時代の最高の頭脳は、その時代の枠組み(パラダイム)の中で考えうる最も完全な思索を遺しているのですから。
このことは裏を返すと、現在もまた、未来の視点からしか見えない「答え」が隠されていることになるので、今どれほど完璧に思える主張でさえも、未来の視点から見ると全く検討違いであるかもしれない、ということです。

私たちは既成事実を無批判に受け入れることなく、「自分の頭で」しっかりと考え、まだ見ぬ「答え」を探し続けるべきだと思います。

古典を読むことできっと、このような姿勢が身につくことでしょう。

posted by グサオ at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察
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グサオ
理学部生物科学科卒業。 大学の一般教養時代に哲学に目覚め、サラリーマンをしながら生物学と哲学の融合の道を日々模索しています。 特に進化論の考察を中心に進めています。 よろしくお願い致します。
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