なぜか昨日からの不安感が続いている.
何かに追い立てられるような思いがあって辛い.
日記を書いた. 文章を書くと気持ちが落ち着くことが多いのだ.
内容は苦しい感情や内面の吐露で, 人に見せるようなものではないがひとまず落ち着いた.
この不安の感情の源は, 自分はこんなことをしていていいのか, という思いである.
けれども現実の問題として, 今の自分は他に何もできないではないか.
人並の生活をしなければならないという考えから抜け出したほうがいい.
でもどうすればそれができるのだろうか.
午後に買い物に行く.
元気をつけようと思って肉を買った.
帰宅して牛肉と長葱を焼いて食べる.
早めに布団に入る.
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難しい問い掛けですが, 何とか答えを書いてみます.
> もし可能ならば、底彦さんは「どのようになりたい」ですか?
私はブログの本文で「こんなことをしていていいのか?」と書きました. また「人並の生活をしなければならないという考えから抜け出したほうがいい」とも.
「こんなこと」というのは, 日々, 食べて寝るだけの生活を指しています.
この生活を私は無為なもののように感じてしまうのです.
体調が少し良いときには絵を描いたり, 数学を考えたりしています. しかしそれを行う理由は, 慢性的な鬱の苦しさから逃れられるからであって, それ以上のものではありません.
たとえば, 人に見せるような, 個展を開けるような絵を描こうとか, 何か新しい数学の法則を発見しようとかいった, 行動への目的や野心といったものが無いのです.
絵も数学も, 私にとっては鬱の苦しみからの逃避という側面が大きいのです.
「人並の生活」というのは, あまりうまく伝わるかどうかわかりませんが, 食べて寝るだけではない, 確かに自分は生きているという感触が得られるような生活のことです. 何か生きる目的があるとか, あるいは自分を向上させたいという意思があるとか, そういうことです.
それができないから, それが現在の自分にとってはとんでもなく難しい, もっとはっきりと言えば無理なことだから, そのようなものを求めてしまう思いから「抜け出したほうがいい」と書いたのです.
一日を, 次の一日に繫げることに全ての気力や体力が奪われてしまい, 「生きているという実感」などを持つ力が残っていないのです.
働くということについてもそうです. 働きたいという思いが無いとは言いません. 可能なら, という思いは現在でもあります.
けれども無理です. 不安定な体調, 意欲や気力の不足, 思考力の衰え, 自分に何ができるのかが全く見えません.
また, 企業で働きたいかという問いに対する答えは No ですね. 私は以前, 組織の中で, その後フリーランスで働きました.
その中で学んだことも確かにありましたが, 同時に集団の陰湿さや暴力性というものも経験しました.
それが元で集団で, チームで一つの仕事を成し遂げるという仕事の形態にある種の恐怖感, 嫌悪感を抱くようになってしまったのです. これは実質的に自分が何かの仕事を行うというのがほとんど不可能であることを示しています.
2018 年に無理をしてバイトという形で小さな会社で半年ほど働きましたが, やはり鬱が酷くなり仕事は続かず, 翌年の半分以上ほぼ寝た切りで何もできなくなってしまった苦い経験もあります.
エリート意識というか, 人を下に見てしまう意識は私の中に確かにあります. それを私は嫌悪していますが, 生来の自分に備わっているものなのでどうしようもありません. 理性で抑えるしかありません.
もっとも, 現在のようになってしまった自分にとっては, もはや形骸化した腐臭を放つ意識です. 何の意味も無い醜い意識です.
それでも私はこれを生涯心の中に抱えていくのでしょう.
シモーヌ・ヴェイユの文章は, 現在の私の心の在り方に寄り添ってくれるような気がしています.
『奴隷的でない労働の第一条件』の中でヴェイユは, 労働は人間から自由な時間を奪い, 疲弊させ, 思考する精神の余裕を無くし, 賃金にのみ意識を向けさせ, つまり人間を「もの=奴隷」と化してしまう, といったことを書いています. この労働という言葉を鬱病に言い換えると, そのまま私の現在の状態を言い表わしているように思えるのです.
この文章の中でヴェイユは労働の中にあって, 今の自分に注意力を向けることの重要性を書いています.
あくまで私の解釈ですが, その注意力とは深い精神の集中であると思います.
<q>
直観する注意力はその純粋さにおいて、完全に美しい芸術の、真に光輝く新しい学問的発見の、真に叡智に至る哲学の、真に救いとなる隣人愛のただひとつの源泉である。この注意力こそが、直接神へと向かわせ、真の祈りを形作るものである。
</q>
上記引用におけるヴェイユの言葉に全面的に同意することはできませんが, 暗闇の中における深い精神の集中が, 美や真理への道筋を拓いてくれるという点で私の心に届きます.
今の自分にある示唆を与えてくれるのです.
一方で, 上記のヴェイユの主張に関して私の中で解決できないことは, 注意力によって労働が聖なる勤めのようになり, それに自身が隷属してしまうのではないかという疑問です. つまり, 自身の意識が変革したとしても, 労働者である限り搾取され続けるという根本的な構造は変わらないのではないかという疑問です.
そして私は文字通りの意味における神を信仰していません.
ひとまずこのようなところです. 現時点で書けることを書きました.
わたしにも「いつまでこんなことを続けているんだ」という切迫した焦燥があります。
それはいつまでこの腐臭にまみれた穢土に生き永らえているのか?という想いです。
このコメントを書くのに随分迷いましたが、覚束ないまま、感じたままの疑問を述べてみたいと思います。
書くことを躊躇ったというのは、ブログの最後に書いたように、わたしの言葉は誰にも伝わらないし、逆もまた同様であるから。そしてわたしは、期せずして、(底彦さんをも含む多くの)「心を病んだ人」と敵対関係にあるという自覚によるものです。
「敵対」という言葉が強すぎるなら、両者の考え方はあまりに隔たっている。ということでしょうか。
◇
上で、底彦さんはこうかかれています。
>この不安の感情の源は, 自分はこんなことをしていていいのか, という思いである.
けれども現実の問題として, 今の自分は他に何もできないではないか.
人並の生活をしなければならないという考えから抜け出したほうがいい.
でもどうすればそれができるのだろうか.
これはわたしの率直な疑問です。
「こんなことをしていていいのか?」という言葉にある。「こんなこと」とは、どんなことでしょうか?
また「人並みである」「人並みの生活」というのは、何を基準にしているのでしょう?
この箇所を読んだときに、わたしが思い出したのは、底彦さんが初めてデイケアのメンバーと顔をあわせたときに感じたといわれていた、「自分は、彼ら、彼女とは違う」という無意識のエリート意識にどこかで通じる心性でした。
逆に言えば、「このようではない生活」「人並みの生活」とはどのようなものでしょう?
11月14日の記述にシモーヌ・ヴェイユの文章に対する感想としてこのように書かれています。
>彼女の文章には, 弱い人間, 倒れてしまった人間への眼差しがあるように思う.
ここには「そのような彼女の眼差しに」共感するとも、自分とは考えを異にするとも、何も評価めいたことは書かれていません。
底彦さんの先ほどの文章を読むと、「弱いままでいいのか?」「倒れたままでいいのか?」という強い葛藤が垣間見えます。
もし可能ならば、底彦さんは「どのようになりたい」ですか?
可能ならば、そして、再びうつ病などで倒れることがないという保証があれば、
いわゆる企業で働きたいですか?
底彦さんの文章を読んでいて、時々立ち止まってしまうのは、ご自身では、ご自身で言われる、内向的で、一人静かに本を読んでいるような時間が一番自分に合っているようなことを言われていますが、一方で、どこかで、「向上心」「力への遺志」「上昇志向」のような、相矛盾する気持ちの相克がほの見えるのです。
◇
ホームレスは「こんなことを続けている人たち」であり「人並み以下」の存在ですか?
だって、何者かと対比することによって、「平均」「標準」或いは「以上」「以下」という「位置」が生まれるのだから。
繰り返します
「続けていていいのか?」と思い悩む「今現在の生活」とはなんですか?
「人並み」って何ですか?
何が底彦さんをそのような焦燥に駆り立てているのですか?