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2017年09月18日
矢作直樹さんのご著書「人は死なない」から、死んでもなんかあるらしいってことだけわかってきた
今回は、日本の医学の最高峰である
東京大学医学部付属病院救急部 集中治療部部長の医師である矢作氏が著した書籍の紹介です。
死後の世界というと、なんだか怪しい感じがしてきますね。
そもそも医学と宗教が入り混じることなんてなお気持ち悪い、と思われるかも知れませんよね。
安心してください。最後まで読めばきっとつながるはずです。
ざっくりまとめると、
矢作氏は、医師としての職務の中で
「いずれ人は死ぬけれども、死んだらそれでおしまい〜」
ということではないのではないか?という疑念を抱くようになります。
臨床医として毎日のように死にかけの人たちがばんばん運び込まれてくる中で、
医学の力でなんとか助けることのできた成功例もあれば、
力及ばずこの世を去って行く患者とで明暗が分かれゆく様子を、
もっとも近いところで立会い続けました。
この状態なら大筋助かるだろう、と見立てていてもその通りにはいかなかったり、
これはもう手遅れだろうと半ば諦めていても、どういうわけか生き返る人がいたり。
そこで、
ここには、死期というのがある程度定められていて、抗いようのない力として存在するのではないか?
また、死期の訪れていない患者には、たとえ身体が極限のレベルを超えていようとも生きつづける(生き続けなくてはならない)ような仕組みがあるのではないか?
そんなことを感じるようになっていったそうです。
死に際を生き返る人の中には、臨死体験や幽体離脱をありありと語る人も多く、
身体だけでない「魂」の存在が本当にあるのではないか、そう仮定するようになっていったのです。
特別な例では、マンションから転落して生死の狭間をさまよった患者が
「転落したのは、自分に他者の霊が取り憑いていたから」と言って、転落事故にいたるまでの不可思議な現象について語った事例もあり、目に見えるものがすべてではないのかもしれないという可能性が広がってゆきます。
*************************
後述しますが、臨死体験を論じる上で、この上ないほどに科学的なアプローチで述べられた書籍として、世界的な脳神経外科の権威であるエベン・アレキサンダー氏の「プルーフ・オブ・ヘブン」があります。
臨死体験は脳の記憶捏造であるという元来の著者の考えは、自ら臨死を体験したことによって完全に論破される(する)こととなりました。
自らの脳神経医学の専門知識でもって、危篤状態だった時の自身の脳の活動数値と臨死体験中に見た「夢」の情景が、科学的に説明がつかないのだそうです。(脳機能の低下状態では認識できるレベルも落ちて、色彩感や言語等の情景が曖昧になるようなのです。つまりはっきりとした映像を見るにはそれなりの脳機能が必要ということらしいのです。)
さらにその「夢」の中で生前には一度も出会うことのないまま他界したエベン氏の実の妹が登場し、「ここにはまだ来る時ではない」と言ってエベン氏を追い返したというのです。
幼いころにエベン氏は養子に出されています。臨死体験後に実の両親に連絡を取り、妹の生前の写真を郵送してもらいました。写真を確認してまさに臨死体験中に出会った女性であると驚嘆し、スリープ状態の脳では描くことの決してできない鮮明な映像を自ら体験したという脳医学では説明のつかない条件と、認識することの決してない親族と夢で出会う不思議体験から、「死後の世界の存在」を確信したのでした。
*************************
魂というものがあり、それは肉体が滅したところで変わらず在り続けるのだ、
とする輪廻思想は、科学からは遠のいて宗教色に色濃く染まった、とっつきにくいものだと思います。
文脈のない状態で
「あの世があるのだ!魂は死なないんだ!」
などと普通の人が声高々に言うと、怪しい宗教でもやっているのか?とか、
なにか企んでてツボとか売られるんじゃないのか?なんて穿った目で見られるでしょう。
僕自身も例外なくそちらの考えの人間でした。
「科学的なアプローチでは説明がつかない箇所がある=説得力に欠ける」とみなして一蹴していました。
ここでは完全に科学的なアプローチで、これまで非科学にカテゴライズされてきた世の中の事象を説明しようとする学問の探究の結果、非科学は科学的にあるという思いがけない答えを導いた例を紹介しました。
僕よりもはるか科学寄りの専門家達が、結果的に非科学に染まってゆく(科学的に非科学を立証する)様子は、探究心をそそるものがありました。
こんなことがゴロゴロ転がっているんです。
つづく
東京大学医学部付属病院救急部 集中治療部部長の医師である矢作氏が著した書籍の紹介です。
死後の世界というと、なんだか怪しい感じがしてきますね。
そもそも医学と宗教が入り混じることなんてなお気持ち悪い、と思われるかも知れませんよね。
安心してください。最後まで読めばきっとつながるはずです。
ざっくりまとめると、
矢作氏は、医師としての職務の中で
「いずれ人は死ぬけれども、死んだらそれでおしまい〜」
ということではないのではないか?という疑念を抱くようになります。
臨床医として毎日のように死にかけの人たちがばんばん運び込まれてくる中で、
医学の力でなんとか助けることのできた成功例もあれば、
力及ばずこの世を去って行く患者とで明暗が分かれゆく様子を、
もっとも近いところで立会い続けました。
この状態なら大筋助かるだろう、と見立てていてもその通りにはいかなかったり、
これはもう手遅れだろうと半ば諦めていても、どういうわけか生き返る人がいたり。
そこで、
ここには、死期というのがある程度定められていて、抗いようのない力として存在するのではないか?
また、死期の訪れていない患者には、たとえ身体が極限のレベルを超えていようとも生きつづける(生き続けなくてはならない)ような仕組みがあるのではないか?
そんなことを感じるようになっていったそうです。
死に際を生き返る人の中には、臨死体験や幽体離脱をありありと語る人も多く、
身体だけでない「魂」の存在が本当にあるのではないか、そう仮定するようになっていったのです。
特別な例では、マンションから転落して生死の狭間をさまよった患者が
「転落したのは、自分に他者の霊が取り憑いていたから」と言って、転落事故にいたるまでの不可思議な現象について語った事例もあり、目に見えるものがすべてではないのかもしれないという可能性が広がってゆきます。
*************************
後述しますが、臨死体験を論じる上で、この上ないほどに科学的なアプローチで述べられた書籍として、世界的な脳神経外科の権威であるエベン・アレキサンダー氏の「プルーフ・オブ・ヘブン」があります。
臨死体験は脳の記憶捏造であるという元来の著者の考えは、自ら臨死を体験したことによって完全に論破される(する)こととなりました。
自らの脳神経医学の専門知識でもって、危篤状態だった時の自身の脳の活動数値と臨死体験中に見た「夢」の情景が、科学的に説明がつかないのだそうです。(脳機能の低下状態では認識できるレベルも落ちて、色彩感や言語等の情景が曖昧になるようなのです。つまりはっきりとした映像を見るにはそれなりの脳機能が必要ということらしいのです。)
さらにその「夢」の中で生前には一度も出会うことのないまま他界したエベン氏の実の妹が登場し、「ここにはまだ来る時ではない」と言ってエベン氏を追い返したというのです。
幼いころにエベン氏は養子に出されています。臨死体験後に実の両親に連絡を取り、妹の生前の写真を郵送してもらいました。写真を確認してまさに臨死体験中に出会った女性であると驚嘆し、スリープ状態の脳では描くことの決してできない鮮明な映像を自ら体験したという脳医学では説明のつかない条件と、認識することの決してない親族と夢で出会う不思議体験から、「死後の世界の存在」を確信したのでした。
*************************
魂というものがあり、それは肉体が滅したところで変わらず在り続けるのだ、
とする輪廻思想は、科学からは遠のいて宗教色に色濃く染まった、とっつきにくいものだと思います。
文脈のない状態で
「あの世があるのだ!魂は死なないんだ!」
などと普通の人が声高々に言うと、怪しい宗教でもやっているのか?とか、
なにか企んでてツボとか売られるんじゃないのか?なんて穿った目で見られるでしょう。
僕自身も例外なくそちらの考えの人間でした。
「科学的なアプローチでは説明がつかない箇所がある=説得力に欠ける」とみなして一蹴していました。
ここでは完全に科学的なアプローチで、これまで非科学にカテゴライズされてきた世の中の事象を説明しようとする学問の探究の結果、非科学は科学的にあるという思いがけない答えを導いた例を紹介しました。
僕よりもはるか科学寄りの専門家達が、結果的に非科学に染まってゆく(科学的に非科学を立証する)様子は、探究心をそそるものがありました。
こんなことがゴロゴロ転がっているんです。
つづく
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「世界の3大医学!西洋医学・東洋医学・アーユルヴェーダ(インド医学)の不思議」
前回は、科学的であるとは一体何なのかを分析してみましたね。
説得力を高めるには「常に科学的であること」が必須条件でした。
現代のあらゆる学問のうち、今回は医学についてアプローチ方法を変えて案内します。
病気になった時、あるお医者さんはこう言います。
「検査の結果、不調の元となる原因菌はコレコレ菌でしょう。アレコレールという効果の高い抗生物質を投与するのと、不足のホルモンを補う錠剤を食後に服用するようにしてしばらく安静にしてくださいね。」
なかなかの科学ですね。
続けます。
「ふむ、ふむ、ふむふむ。心配はいらぬ、中国4000年の歴史の中で実証してきた結果ですからな。消化器系統のこの類の疾患については、あの薬草とこの薬草とあれとそれとこれを混ぜこぜしたアレコレコレールというものがある。」
「ついでにそこにうつぶせになって、そう。背中のここは消化機能の活性につながるツボじゃで、
灸を据えてあげるからな。あっつかったら遠慮せんと言うてください。」
すこし雲行きが怪しくなってきました。
続けます。
「ふむ、病はですね、ふ〜む心の乱れがあったんでしょうな。生気がやや落ちていますな。血液の循環があまりよろしくない。ふむむ、健康はですね、心と体と行動と、そうして環境の全体調和があってはじめて成り立つものですから。まま、生薬ですからこれを飲みましょう。そうしてこのオイルでこことそこをこうマッサージするとまま、よくなりますな。」
かなり怪しくなってきました。
始めは言うまでもなく西洋医学の先生です。
次は、東洋医学(中国医学)の先生。
そうして最後はアーユルウェーダ(インド)の先生。
実は、この3つは世界の3大医学と定義されているんです。
東洋医学について言えば、
今や日本を抜いて世界大2位の経済大国の中国では、国家資格で管理される重要な職務なのだそうです。
同時にこの鍼灸医学についてはかのWHO(世界保健機関)の認証を受けている分野なんですね。西洋医学が対症療法であるのに対して、こちらは予防医学という側面もあり、西洋医学でカバーできない分野を補う意味でも重宝されているようです。
要するに、《科学》にお墨付きを受けている医学なんです。
これって、科学的ですかね?
正解が分からなくなってきましたね。
さて、問題は3番目のアーユルヴェーダです。
実は、最古の医学として知られ、なんと5000年もの歴史があります。
薬草治療をメインに据えて、マッサージを施すなどして病気にならない体をつくることに重きを置きます。
さらに食事や睡眠を見直しながら時に精神面の健康を重視し、人間の根源的な「魂」の浄化が現実の体調に影響を及ぼすと言います。
とはいえ、、、という感じですね。
君は受けたいかい?と問われると、積極的には行きたくないですよね。得体の知れない怖さが漂っています。
しかし、現代の西洋医学にも謎の分野がありますね。
現代人の疾患の中で最も罹患者数の増えている謎の病、「精神疾患」です。
日本においては、平成11年には約204万人だった患者数は今や400万人とも言われる重大な疾患です。
精神疾患を西洋医学的として医療保険の対象とするならば、
アーユルヴェーダの言う
〜食事や睡眠を見直しながら時に精神面の健康を重視して〜という点は、西洋医学をかすっていると言えないでしょうか?
西洋医学の先生も、アーユルヴェーダの先生も、結論としては似たようなこと言うのです。
白衣を着て聴診器を首にかけ、国からの診療報酬で成り立つ病院で、
「睡眠は規則正くとれていますか?」
「食欲はどうですが?」
「ストレスはたまっていませんか?」
「診断書書きますね、さらさらさら(うつ病)」
うーむ、、、という感じがしませんか?
境がわからない、曖昧な領域があるのです。
単純な二元論では論じ得ない領域が隠れているようです。
とはいえ、僕が病気になったら間違いなく「気合い!!」とか言ってないで、かかりつけ医で診察してもらいますから。
この、医学における科学性の壁に向き合って、西洋医学の側からでは説明のできない領域に「学問」した方の著書をご紹介します。
日本の医学の頂点を走り続ける完全に科学の側の人物が、非科学の要素を受け入れざるを得なくなる様子が記されています。
現役医師 矢作直樹氏のご著書「人は死なない」
説明不可能な領域を覗き込むきっかけになるはずです。
次回につづく
説得力を高めるには「常に科学的であること」が必須条件でした。
現代のあらゆる学問のうち、今回は医学についてアプローチ方法を変えて案内します。
病気になった時、あるお医者さんはこう言います。
「検査の結果、不調の元となる原因菌はコレコレ菌でしょう。アレコレールという効果の高い抗生物質を投与するのと、不足のホルモンを補う錠剤を食後に服用するようにしてしばらく安静にしてくださいね。」
なかなかの科学ですね。
続けます。
「ふむ、ふむ、ふむふむ。心配はいらぬ、中国4000年の歴史の中で実証してきた結果ですからな。消化器系統のこの類の疾患については、あの薬草とこの薬草とあれとそれとこれを混ぜこぜしたアレコレコレールというものがある。」
「ついでにそこにうつぶせになって、そう。背中のここは消化機能の活性につながるツボじゃで、
灸を据えてあげるからな。あっつかったら遠慮せんと言うてください。」
すこし雲行きが怪しくなってきました。
続けます。
「ふむ、病はですね、ふ〜む心の乱れがあったんでしょうな。生気がやや落ちていますな。血液の循環があまりよろしくない。ふむむ、健康はですね、心と体と行動と、そうして環境の全体調和があってはじめて成り立つものですから。まま、生薬ですからこれを飲みましょう。そうしてこのオイルでこことそこをこうマッサージするとまま、よくなりますな。」
かなり怪しくなってきました。
始めは言うまでもなく西洋医学の先生です。
次は、東洋医学(中国医学)の先生。
そうして最後はアーユルウェーダ(インド)の先生。
実は、この3つは世界の3大医学と定義されているんです。
東洋医学について言えば、
今や日本を抜いて世界大2位の経済大国の中国では、国家資格で管理される重要な職務なのだそうです。
同時にこの鍼灸医学についてはかのWHO(世界保健機関)の認証を受けている分野なんですね。西洋医学が対症療法であるのに対して、こちらは予防医学という側面もあり、西洋医学でカバーできない分野を補う意味でも重宝されているようです。
要するに、《科学》にお墨付きを受けている医学なんです。
これって、科学的ですかね?
正解が分からなくなってきましたね。
さて、問題は3番目のアーユルヴェーダです。
実は、最古の医学として知られ、なんと5000年もの歴史があります。
薬草治療をメインに据えて、マッサージを施すなどして病気にならない体をつくることに重きを置きます。
さらに食事や睡眠を見直しながら時に精神面の健康を重視し、人間の根源的な「魂」の浄化が現実の体調に影響を及ぼすと言います。
とはいえ、、、という感じですね。
君は受けたいかい?と問われると、積極的には行きたくないですよね。得体の知れない怖さが漂っています。
しかし、現代の西洋医学にも謎の分野がありますね。
現代人の疾患の中で最も罹患者数の増えている謎の病、「精神疾患」です。
日本においては、平成11年には約204万人だった患者数は今や400万人とも言われる重大な疾患です。
精神疾患を西洋医学的として医療保険の対象とするならば、
アーユルヴェーダの言う
〜食事や睡眠を見直しながら時に精神面の健康を重視して〜という点は、西洋医学をかすっていると言えないでしょうか?
西洋医学の先生も、アーユルヴェーダの先生も、結論としては似たようなこと言うのです。
白衣を着て聴診器を首にかけ、国からの診療報酬で成り立つ病院で、
「睡眠は規則正くとれていますか?」
「食欲はどうですが?」
「ストレスはたまっていませんか?」
「診断書書きますね、さらさらさら(うつ病)」
うーむ、、、という感じがしませんか?
境がわからない、曖昧な領域があるのです。
単純な二元論では論じ得ない領域が隠れているようです。
とはいえ、僕が病気になったら間違いなく「気合い!!」とか言ってないで、かかりつけ医で診察してもらいますから。
この、医学における科学性の壁に向き合って、西洋医学の側からでは説明のできない領域に「学問」した方の著書をご紹介します。
日本の医学の頂点を走り続ける完全に科学の側の人物が、非科学の要素を受け入れざるを得なくなる様子が記されています。
現役医師 矢作直樹氏のご著書「人は死なない」
説明不可能な領域を覗き込むきっかけになるはずです。
次回につづく
科学的であることと、非科学的であることの境目ってどこにあるの?
世の中の仕組みを解明することが学問なんです。
正確に言えば、解明しなくったってよくて、読み解こうとする行動が学問なんです。
たとえばこんな感じで
世界の対象に名前をつけて世の中を認識し、秩序立てる学問が国語。
木にぶら下がってる赤いやつ〜あれ今日からりんごな!りんご!
てゆかりんごといちごの色って一緒だろ〜あれあかいな、今日から赤いな!
物に仮の名前をつけてその物が実際にここになくても虚して想像することで理屈こねこねする学問が算数。
りんごは1個でみかん5個と交換な。金も100歳〜銀も100歳〜
世界で起きる事象を分析して、法則性を読み取って標準化するのが物理学。
りんごを地面に落とした時の運動の様子って、あれ?数学のパターンと組み合わせて記号的に表現できるんじゃねえかな。それできるなら、これもいけるっしょ、、ふむふむ。
コミュニティの中で生きざるを得ない我々にとって物質的価値の決定原理や消費・生産行動をこねこねする学問が経済学。
うちはりんごは1個でみかん6個交換ね〜。なになに、お隣村はりんご不作かい?りんご1個でみかん10個になるのかい〜そりゃお隣村で店出そうかね〜
目に映るありのままを経験的に・時に意思をこめて表現するのが美(術)学で、
耳で聞こえる音を再現したり組み合わせたりするのが音楽で、、、
世の中を学問するアプローチって、ざっとあげるだけでもこんなにあるのです。
要するに、
学問とは勉強だけじゃない。
日常レベルに置き換えたなら、
人の気持ちを思いやることだって、相手の表情を読み取り、感情の背景を仮定し、過去の経験から次にすべき行動を統計的に決定する作業。
人の感情の変遷という社会の仕組みを立派に学問する作業です。
本題に戻すと、大小はあれ、
世の中の仕組みをどの角度から読み取ろうとするかという、手法の違いだけであって、
その基本中の基本こそが
《科学》なんです。
世の中を知るための手段として、最も重要視されているものが科学です。
そして科学的であることの度合いがすなわち説得力の強さとなって万人に共有されてきたわけです。
先進国はほとんどみんなそうですね。
だからこそ、合理的で目覚しい経済発展を遂げることができているわけなんです。
考えてみれば、時の首相が
「嫌な予感がするので、衆議院解散します。」とか
「天の知らせがあったので、我が国も核兵器を保有します。」なんてことになれば
世の中の秩序は崩壊してしまう。
そうして5代将軍 徳川綱吉による生類憐みの令に似たような事態になるやもしれません。
どうやら当時右腕的な立場にいた坊さん(隆光)が
「跡取りが欲しいならいきものを大切にせねばなりません。犬ポチは特に大切にせねばなりませんぞな。」
と入れ知恵したのがきっかけで、科学的根拠もないのにやっちまったというわけです。
それでは、どこからが科学的で、どこからが非科学的なのでしょうか。
今の感じでいくと、物理学や数学はもちろん科学的ですが、では医学はどうでしょう?
ほとんどの人は口を揃えて科学的だと言うでしょう。
、、、果たしてそうでしょうか??
考えれば、考えるほど少し前までくっきりとして見えた境目が徐々に曖昧になってゆくという不思議な世界をご案内します。
続きは次回
「世界の3大医学!西洋医学・東洋医学・アーユルヴェーダ(インド医学)の不思議」
正確に言えば、解明しなくったってよくて、読み解こうとする行動が学問なんです。
たとえばこんな感じで
世界の対象に名前をつけて世の中を認識し、秩序立てる学問が国語。
木にぶら下がってる赤いやつ〜あれ今日からりんごな!りんご!
てゆかりんごといちごの色って一緒だろ〜あれあかいな、今日から赤いな!
物に仮の名前をつけてその物が実際にここになくても虚して想像することで理屈こねこねする学問が算数。
りんごは1個でみかん5個と交換な。金も100歳〜銀も100歳〜
世界で起きる事象を分析して、法則性を読み取って標準化するのが物理学。
りんごを地面に落とした時の運動の様子って、あれ?数学のパターンと組み合わせて記号的に表現できるんじゃねえかな。それできるなら、これもいけるっしょ、、ふむふむ。
コミュニティの中で生きざるを得ない我々にとって物質的価値の決定原理や消費・生産行動をこねこねする学問が経済学。
うちはりんごは1個でみかん6個交換ね〜。なになに、お隣村はりんご不作かい?りんご1個でみかん10個になるのかい〜そりゃお隣村で店出そうかね〜
目に映るありのままを経験的に・時に意思をこめて表現するのが美(術)学で、
耳で聞こえる音を再現したり組み合わせたりするのが音楽で、、、
世の中を学問するアプローチって、ざっとあげるだけでもこんなにあるのです。
要するに、
学問とは勉強だけじゃない。
日常レベルに置き換えたなら、
人の気持ちを思いやることだって、相手の表情を読み取り、感情の背景を仮定し、過去の経験から次にすべき行動を統計的に決定する作業。
人の感情の変遷という社会の仕組みを立派に学問する作業です。
本題に戻すと、大小はあれ、
世の中の仕組みをどの角度から読み取ろうとするかという、手法の違いだけであって、
その基本中の基本こそが
《科学》なんです。
世の中を知るための手段として、最も重要視されているものが科学です。
そして科学的であることの度合いがすなわち説得力の強さとなって万人に共有されてきたわけです。
先進国はほとんどみんなそうですね。
だからこそ、合理的で目覚しい経済発展を遂げることができているわけなんです。
考えてみれば、時の首相が
「嫌な予感がするので、衆議院解散します。」とか
「天の知らせがあったので、我が国も核兵器を保有します。」なんてことになれば
世の中の秩序は崩壊してしまう。
そうして5代将軍 徳川綱吉による生類憐みの令に似たような事態になるやもしれません。
どうやら当時右腕的な立場にいた坊さん(隆光)が
「跡取りが欲しいならいきものを大切にせねばなりません。犬ポチは特に大切にせねばなりませんぞな。」
と入れ知恵したのがきっかけで、科学的根拠もないのにやっちまったというわけです。
それでは、どこからが科学的で、どこからが非科学的なのでしょうか。
今の感じでいくと、物理学や数学はもちろん科学的ですが、では医学はどうでしょう?
ほとんどの人は口を揃えて科学的だと言うでしょう。
、、、果たしてそうでしょうか??
考えれば、考えるほど少し前までくっきりとして見えた境目が徐々に曖昧になってゆくという不思議な世界をご案内します。
続きは次回
「世界の3大医学!西洋医学・東洋医学・アーユルヴェーダ(インド医学)の不思議」
美人はその美貌で、不美人はその愛くるしさで、それぞれ幸せになるんです。
「世の中、神も仏もあったもんじゃない?」
人生歩みを進めてると、いいこともあれば悪いこともあります。
これまでたくさんの人たちに出会った中で、
確かにこれは不幸としか表現のしようが無いという人がいる一方で、
何となくいつでもずっと幸せそうな人も同時にいたものでした。
この差って、いったい何?っていうのが、考えるきっかけになったろうと思うのです。
《与えられるものの話》
遡ること学生のころの話。
人気者がゆえに自然と人と群れてしまうAくんとは、彼のグループを離れた二人きりのときには仲良くしてくれたもので、何度も夜明けまで語り合ったものだった。
Aくんと街に買い物に出れば、信号待ちでホストの勧誘があった。
容姿は抜群で、運動神経も良く、頭も切れる。
思いやりのあるまめな性格だし、癖のないやつだった。
人気があるのに一途で女遊びもしないし、全体的に見て、バランスの良い人間だった。
彼を求める女の子たちは絶えず順番待ちをしていたような状態だった。
ある日、何かの折に、
目に涙を浮かべながら、彼自身のコンプレックスの話をし始めたことがあった。
くわしい内容はもう覚えていないけれど、
自分に自信がなくてつらいんだとか。
(モテるがゆえに)他者(女子たち)からのゆがんだ感情が身の回りをビュンビュン飛び回ってしまう中で
人間関係が崩れたり、もつれてしまってほどけないままになってるんだって話もあった。
極め付けはこういう相談をかつて本気でした時に、
「てゆかそれモテ自慢?いーよなイケメンは!グハハ笑」とネタにされたこともあったらしく、
気苦労多いんだって、そんな話だった。
モテるやつは苦労しなくっていいんだろうなぁと漠然と思っていた自分には、
彼の落胆の様子が強く印象に残ったものだった。
こいつなりに悩むことがあるのだなぁって。
それから数年経って、一冊の本が目に止まった。
美輪明宏さんのご著書「あぁ 正負の法則」
ぼくが勝手に要約するとこうだ
@《正》=良いこと と 《負》=嫌なこと は誰でもあまねく半々で帳尻合わせ。
→悪いことあってもいいことあるから気にしなさんな。逆もまた然りね。
A人間は天国的なところからうふふと来たひとと、地獄的なところからグハハと来たやつがいる。
→いいやつはいいやつ同士で関わりって、悪いやつは悪いやつ同士で居たらよろしい。
B人間関係でもなんでも腹八分目ならぬ腹六分目
→人間同士分かり合えるなんて思い上がりもほどほどにしなさい、基本無理だから。
という感じです。
美輪明宏さんの冷め方たるや衝撃的でした。
言葉を選ばず物事の本質を見定め、えぐりつづける本書から、
人々の人生は各々の主体的な選択によってだけでない
大いなるものによる導きを感じずにいられない内容でした。
与えられるものの大小は、幸せの大小では決してない。
与えられるものが美しかったとき、希少性を奪い合うというトラブルを招くことがあり、
そして、この美を失う怖れは、絶えず当人につきまとう。
与えられるものが醜悪であったとき、これを嘆く暇があるならば、
身の丈にあった幸せの追求にシフトする方がきっと良い。
あるもので幸せになることを目指すのが、幸せの道の第一歩目だ。
そのためには、自分に足りないものは数えない。
持って生まれた
この身体で、この腕力で、この頭脳で、この家庭環境で、この友達で、
今の今、自信はなくてもそのうち自信を持てるんだと信じて、
前を向いて生きていくんだってこと。
他者をうらやんだところで何一つ意味はない。
なぜなら他人の人生をどれだけ望んだところで、生き代わることなんてできないから。
あなたの人生は、誰にも何にも代えられない、この地球の70億分の1。
美人はその美貌で、ブスはその愛くるしさで、それぞれ幸せになるんです。
人生歩みを進めてると、いいこともあれば悪いこともあります。
これまでたくさんの人たちに出会った中で、
確かにこれは不幸としか表現のしようが無いという人がいる一方で、
何となくいつでもずっと幸せそうな人も同時にいたものでした。
この差って、いったい何?っていうのが、考えるきっかけになったろうと思うのです。
《与えられるものの話》
遡ること学生のころの話。
人気者がゆえに自然と人と群れてしまうAくんとは、彼のグループを離れた二人きりのときには仲良くしてくれたもので、何度も夜明けまで語り合ったものだった。
Aくんと街に買い物に出れば、信号待ちでホストの勧誘があった。
容姿は抜群で、運動神経も良く、頭も切れる。
思いやりのあるまめな性格だし、癖のないやつだった。
人気があるのに一途で女遊びもしないし、全体的に見て、バランスの良い人間だった。
彼を求める女の子たちは絶えず順番待ちをしていたような状態だった。
ある日、何かの折に、
目に涙を浮かべながら、彼自身のコンプレックスの話をし始めたことがあった。
くわしい内容はもう覚えていないけれど、
自分に自信がなくてつらいんだとか。
(モテるがゆえに)他者(女子たち)からのゆがんだ感情が身の回りをビュンビュン飛び回ってしまう中で
人間関係が崩れたり、もつれてしまってほどけないままになってるんだって話もあった。
極め付けはこういう相談をかつて本気でした時に、
「てゆかそれモテ自慢?いーよなイケメンは!グハハ笑」とネタにされたこともあったらしく、
気苦労多いんだって、そんな話だった。
モテるやつは苦労しなくっていいんだろうなぁと漠然と思っていた自分には、
彼の落胆の様子が強く印象に残ったものだった。
こいつなりに悩むことがあるのだなぁって。
それから数年経って、一冊の本が目に止まった。
美輪明宏さんのご著書「あぁ 正負の法則」
ぼくが勝手に要約するとこうだ
@《正》=良いこと と 《負》=嫌なこと は誰でもあまねく半々で帳尻合わせ。
→悪いことあってもいいことあるから気にしなさんな。逆もまた然りね。
A人間は天国的なところからうふふと来たひとと、地獄的なところからグハハと来たやつがいる。
→いいやつはいいやつ同士で関わりって、悪いやつは悪いやつ同士で居たらよろしい。
B人間関係でもなんでも腹八分目ならぬ腹六分目
→人間同士分かり合えるなんて思い上がりもほどほどにしなさい、基本無理だから。
という感じです。
美輪明宏さんの冷め方たるや衝撃的でした。
言葉を選ばず物事の本質を見定め、えぐりつづける本書から、
人々の人生は各々の主体的な選択によってだけでない
大いなるものによる導きを感じずにいられない内容でした。
与えられるものの大小は、幸せの大小では決してない。
与えられるものが美しかったとき、希少性を奪い合うというトラブルを招くことがあり、
そして、この美を失う怖れは、絶えず当人につきまとう。
与えられるものが醜悪であったとき、これを嘆く暇があるならば、
身の丈にあった幸せの追求にシフトする方がきっと良い。
あるもので幸せになることを目指すのが、幸せの道の第一歩目だ。
そのためには、自分に足りないものは数えない。
持って生まれた
この身体で、この腕力で、この頭脳で、この家庭環境で、この友達で、
今の今、自信はなくてもそのうち自信を持てるんだと信じて、
前を向いて生きていくんだってこと。
他者をうらやんだところで何一つ意味はない。
なぜなら他人の人生をどれだけ望んだところで、生き代わることなんてできないから。
あなたの人生は、誰にも何にも代えられない、この地球の70億分の1。
美人はその美貌で、ブスはその愛くるしさで、それぞれ幸せになるんです。
2017年09月17日
はじめまして
はじめまして。
とあるきっかけがあって、ブログをはじめることにしました。
「どうせなら誰かの役に立てたらいいかな」、そう思って。
だからといってボランティア活動に出るほどのこころ・身体・時間の余裕もないから、
ささやかにつぶやいてみることからはじめてみます。
堅苦しいことばかりでなく、
現役の営業マンとしてのビジネス関連の話、
好きな書籍やギターや音楽についての話、
単純に好きなものを好きなように語る中で少しでもお役立ちになれたら、
これほど嬉しいことはありません。
今日が記念すべき一歩目となりますように。
《はじめに》
誰でもそうですが、
誰かの何かに役立てた時には、気持ちがぽっと豊かになります。
とはいえどういうわけか、
踏み込み過ぎて自分を犠牲にし始めると、途端に先の温かい灯は、
ふっとかき消されてしまいます。
だから、あくまでも自分のために発信しながら、ついでに人様の役に立てればいいなって。
よく言ってそんなレベルです。
石でも革でも、すり合わせないと磨きがかからないように、目には見えない「考え」も
いろいろな意見の中で揉んで揉んで角がとれたくらいがちょうどいいんだと思うんです。
だからこれからも絶えずいろいろな人に出会ったり、本を読んだりして
新しい考えをぶつけて角をとり続けていきたいと思うんです。
たったの29年しか生きてはいないけれど、
この中での人との巡り合わせ、手に取った物、経験した出来事を振り返るためにも
「少しだけ足を止めて、世の中の仕組みを学問してみる」ことにしてみました。
とあるきっかけがあって、ブログをはじめることにしました。
「どうせなら誰かの役に立てたらいいかな」、そう思って。
だからといってボランティア活動に出るほどのこころ・身体・時間の余裕もないから、
ささやかにつぶやいてみることからはじめてみます。
堅苦しいことばかりでなく、
現役の営業マンとしてのビジネス関連の話、
好きな書籍やギターや音楽についての話、
単純に好きなものを好きなように語る中で少しでもお役立ちになれたら、
これほど嬉しいことはありません。
今日が記念すべき一歩目となりますように。
《はじめに》
誰でもそうですが、
誰かの何かに役立てた時には、気持ちがぽっと豊かになります。
とはいえどういうわけか、
踏み込み過ぎて自分を犠牲にし始めると、途端に先の温かい灯は、
ふっとかき消されてしまいます。
だから、あくまでも自分のために発信しながら、ついでに人様の役に立てればいいなって。
よく言ってそんなレベルです。
石でも革でも、すり合わせないと磨きがかからないように、目には見えない「考え」も
いろいろな意見の中で揉んで揉んで角がとれたくらいがちょうどいいんだと思うんです。
だからこれからも絶えずいろいろな人に出会ったり、本を読んだりして
新しい考えをぶつけて角をとり続けていきたいと思うんです。
たったの29年しか生きてはいないけれど、
この中での人との巡り合わせ、手に取った物、経験した出来事を振り返るためにも
「少しだけ足を止めて、世の中の仕組みを学問してみる」ことにしてみました。