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2017年09月05日

よしの220婦人矯風会


よしの220婦人矯風会
「われ弱ければ YAJIMA KAJIKO-矢嶋楫子伝-」より
そのまえに、文藝春秋のクロスワードパズルの記事が気になったので読み返してみると
モーガン・フリーマンさんのでした。↓ 八十歳の日々という題です。
終末はおいしいコーヒーと大好きなクロスワードパズルに没頭とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB
クロスワードパズル(単にクロスワードとも表記される)は、「カギ」と呼ばれる文章によるヒントを元に、タテヨコに交差したマスに言葉を当てはめてすべての白マスを埋めるパズル。通常、四角形であり、文字の入る白マスと入らない黒マスから成り、白マスにはカギを配置するための数字が振られている。日本語のクロスワードパズルの解にはカタカナを用いることが多い。

歴史[編集]
1913年12月21日、「ニューヨークワールド」紙にイギリス生まれの記者アーサー・ウィンが制作した物が掲載されたのが最初と言われる。当初は「word-cross puzzle」という名前だったが、のちに「crossword」に変えられた。「ボストン・グローブ」紙など他の新聞にも掲載されるようになり、1924年には最初の本が出版された。1930年には初めて辞書に「crossword」という単語が収録された。クロスワードの歴史については生活人新書「遠山顕のクロスワードの謎」ISBN 4140880481 が詳しい。
日本語のクロスワードパズルとしては、1925年3月から「サンデー毎日」誌に連載されたのが最初である。現在では専門雑誌から一般の雑誌・新聞などの懸賞問題に至るまで幅広く楽しまれている。
記録[編集]
イギリスのクロスワード作家であるRoger Squiresは、2つのギネス・ワールド・レコーズの記録を保持している。1つは出題数で、2007年5月14日に通算66666作目を発表している。この間に作成したカギの数は200万以上である。もう1つは最も長い単語を入れた作品である。58文字のLlanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogochという単語を含んだ作品を発表している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
モーガン・フリーマン(Morgan Freeman、本名: Morgan Porterfield Freeman, Jr.、1937年6月1日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州メンフィス出身の俳優、映画監督、ナレーター。
2004年『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞を受賞。その他『ショーシャンクの空に』『セブン』などのヒット作に出演歴があり、その安定感と味のある演技によってアメリカのみならず世界各国で賞賛を浴びる実力派国際俳優であり、最も名誉ある俳優の一人である。身長187cm。左利き。
生い立ち[ソースを編集]
1937年6月1日、テネシー州メンフィスに出生。父モーガン・ポーターフィールド・フリーマン(1961年肝硬変により死去)は床屋で、母メイミー・エドナは清掃婦だった。モーガンには3人の兄がいる。フリーマン家はミシシッピ州グリーンウッド、インディアナ州ゲーリーなど多くの地を転々とした後イリノイ州シカゴに居を据えた。モーガンは9歳の時小学校の演劇で主役を務めている。
12歳の時には州の演劇コンクールで優勝し、高校時代にはテネシー州ナッシュヴィルでラジオ演劇に出演していた。1955年、ジャクソン州立大学の演劇奨学金を断り合衆国空軍の機械工となった。
1960年代前半、モーガンはロサンゼルスへと移住。クリント・イーストウッドなどが通っていたロサンゼルス・シティー・カレッジに事務員として勤務した。一時期はニューヨークにも住んでいたことがあり、1964年に開かれたニューヨーク万国博覧会でダンサーを務めた。またサンフランシスコではオペラ歌劇団にも所属していた。
モーガンの実質的な役者デビューは、巡業劇団に所属していた時に出演した『The Royal Hunt of the Sun』という劇で、1965年公開のシドニー・ルメット監督の『The Pawnbroker』という映画にも出演している。1967年には『The Niggerlovers』でヴィヴィカ・リンドフォースの相手役としてオフ・ブロードウェイにデビュー。翌年の1968年には、役者全員が黒人バージョンの『ハロー! ドリー』でブロードウェイの舞台に立った。
出演作品[ソースを編集]
1984 りんご白書
Teachers
http://ejje.weblio.jp/content/Teachers
teacherの複数形。先生、 教師
-
Teachers are scarce
教員払底
↑これなんでしょうか?
-
では学校の先生、校長先生だった「われ弱ければ YAJIMA KAJIKO-矢嶋楫子伝-」より

婦人矯風会
明治十九年(一八八六)矢嶋楫子が五十三歳の年。
ミセス・ツルではなくてツルーさんが楫子を寄宿舎に訪ねてきた。
「アメリカからレビット女史が禁酒運動の公演に来る」
矢嶋楫子さんの最初の夫はお酒を飲んで白刃を振り回す林七郎さん
女性の禁酒の会 聴衆は女性だけを集めてほしい
演題
「過飲及び家内諸不徳に対する婦人の義務」
「私はウーマン・テンペランス・ユニオンから遣わされて参りました。テンペランスとは、節制、あるいは禁酒を意味する言葉」
「みなさん、アメリカの南北戦争をご存じでしょうか。
アメリカには、南と北に分かれて戦うという、悲しむべき戦争がありました。
それは奴隷を使ってはならない、いや、使ってもかまわぬ、ということから発した戦争。
この戦争が始まるまでアメリカはピューリタンの気が覆っておりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3
ピューリタン(英語: Puritan)は、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループ。市民革命の担い手となった。日本語では清教徒と訳される。

ビューリタンといえば思い出すのがグレングールド
https://www.youtube.com/watch?v=Ah392lnFHxM
Glenn Gould plays Bach - The Goldberg Variations, BMV 998 (Zenph re-performance)

http://asanagi987.blog27.fc2.com/blog-entry-5057.html

グールドは、最後のピューリタン(清教徒)と称していました。ピューリタンとはかつては馬鹿正直の別名でした。大衆が嫌いと公言して、晩餐会などに出席しませんでした。完璧な演奏を求めるあまり、ある時から一切のステージでの演奏をやめてしまいました。

以前書きました(「非人情のすすめ」)が、グールドの愛読書は夏目漱石の草枕でした。

<智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい>

馬鹿正直なグールドは、草枕に描かれた「非人情」に共感したのでしょう。

非人情とは、

不人情のように、人の気持ちがわかっているのに、あえてひどいことをするのではなく、人の気持ちは分っているものの、義理人情にとらわれない生き方をすることです。

確かに、これはアスペルガーの人にとって親和的な人生観なのかもしれません(アスペルガー障害の方は人の気持ちは必ずしも分からないかもしれませんが・・)。

数学者や物理学者にもアスペルガーは多いと言います。

ではまたもどりまして学校の先生、校長先生だった「矢嶋楫子伝」より
婦人矯風会
「みなさんご存じのように、アメリカという国は、信仰の自由と理想を求めて、イギリス本国から渡ってきて、造られた国であります。
人々はまず教会を建て、勤勉に働きました。
大酒飲みを町で見かけるなどということはありませんでした。それがどうでしょう・・・・・・」
渡瀬かめは考え考え言葉をつないでいく。(通訳の女性)
「それがどうでしょう、南北戦争の終るころには、飲酒の害がアメリカの国に浸透してきたのです。そのことに気づいた婦人たちが立ちあがりました。
オハイオ州の小さな町、ヒルスボローの教会の婦人たちでした。
酒のために男たちは乱れ、女を買い、喧嘩ざたが絶えず、このままではピューリタンの建国の精神が危機にさらされると、彼女たちは思ったのです。
そこで彼女たちは何をしたか。一団になって、市内の酒屋に酒の販売中止を申し出たのです」
「アメリカは亡びる、子供たちが亡びると、泣きながら彼女たちは訴えて歩きました」
聴衆の幾人かが笑った。日本でそんなことを始めたら、つまみ出されるのがおちなのだ。
だかアメリカには建国の精神があった。なんとヒルスボロー市の全部、十数件が閉店に踏み切らざるを得なかった。
「ヒロスボロー市の教会婦人たちが、なぜ立ちあがったか。
それは若き青年牧師の、禁酒運動を叫ぶ、いいえ憂国の熱情が、人びとの心を打ったからです。
さて、ヒルスボロー市の酒屋が全部閉店したことが、たちまち新聞と雑誌によって国中に伝えられました。どの町でも、婦人たちが禁酒運動に立ちあがりました。とどめようのない勢いで、禁酒運動は広がりました。その結果、わずか五十日間の禁酒運動によって、実に二千件を超える酒屋が閉店。信じられないことでした。でも事実。数多くの新聞社、雑誌社が連日競って禁酒運動の報道を繰り返した。
壇上のレビット夫人も渡瀬かめも、額の汗をぬぐいぬぐい、一応ウーマン・テンペランス・ユニオン(婦人禁酒会)の働きを、聴衆に訴えていた。人々はその熱烈な訴えに、みじろぎもしない。
https://www.union-law.jp/
近年、合同労組(「ユニオン」とも言われています。)と呼ばれる団体の活動が活発化しています。
典型的なケースは、中小企業の労働者が解雇問題などの個人的な労務問題解決のためにユニオン・合同労組に加入し、そのユニオン・合同労組が会社に団体交渉の申入れを行ってくる例です。
これらユニオン・合同労組から団体交渉の申入れがなされた場合、会社は組合を無視したり、正当な理由なく団体交渉を拒否したりすることはできません。
不適切な対応を行うと不当労働行為として労働委員会に申立てがなされる場合があります。また、ユニオン・合同労組によるビラ配りや街宣活動を含め、予想外の展開が進行する可能性もあります。
ところが、多くの企業は、労働組合法やユニオン・合同労組に対する知識が不足しているために、団体交渉に対して不誠実な対応を取るなどして、団体交渉の対立が激化したり、裁判等に発展したりすることがあります。
また、ユニオン・合同労組の中には、好戦的で違法な争議行為や不当な要求を行う労働組合も多く存在します。企業の中には、これらのユニオン・合同労組との闘争に疲れ果てて、屈してしまい、本来であれば応じる必要がない不当な要求に応じてしまうケースも見られます。
このような社会的問題がある状況において、労働組合法に精通した専門家はとても少ない状況です。

(こんな国もあるのだ!)
楫子は感動した。
レビット夫人は今やこの働きが禁酒の働きのみならず、アヘンの禁止、売春の禁止にまで広がりつつあることを告げた。
アメリカの禁酒会の会頭はフランシス・ウィラードという優れた女性であることを、すでに楫子はミセス・ツルーから聞いていた。
ノースウエスタン大学女子部の学部長。
ある日ある町で彼女は禁酒運動の女性たちの働きを目のあたり見ていっしょに行進。
彼女が初の学部長。その地位を捨ててこの運動に生涯を捧げるとになった。
フィアンセ、ノースウェスタン大学のフォーラー博士は彼女の社会的活動を認めなかったため大学総長婦人の道も捨てた。
ミセス・ツルーから聞いたこのフランシス・ウィラードの婚約解消の経緯は楫子の心を打った。

日本でも「禁酒会」と名づけるのが妥当だと見る見方があった。一方、反対意見もあった。
楫子の心のなかに、この会は家庭の平和を願っての運動でなければならない。そのためには、いまだに公然と行われている一夫多妻があらためられねばならないのだ。楫子の姉のつせ子は横井小楠に嫁いだが身分は妾。妾でありながら正妻扱いするという約束であった。
一方、貧しい家の娘が売られるいわゆる見売りがあった。その女性たちを買う男性側の問題があった。
楫子が小学校で教えた生徒のなかに、親に売られた娘が幾人かいた。これは禁酒とともにいや禁酒以上に重要な問題であった。
(確かに禁酒会という名では、会の運動を盛りきれない)
と楫子は思った。売春の話や、一夫多妻の問題がひとしきり話題となったあとに、だれかが言った。
「では、節制会ではどうでしょう」
「矯風会ではどうでしょう」
といいだした者があった。社会の悪風を矯正する会ということが、矯風会の三文字にわかりやすく主張されている。
「矯風会」という名を考えたのが一説によれば佐々城豊寿であ、、他の説によれば海老名弾正の妻みやであった。
「東京婦人矯風会」が誕生した。発表式明治十九年(一八八六)十二月六日。
場所は日本橋教会、集まる者五十六名、矢嶋楫子は初代会頭。
<本会は社会の弊風を矯め道徳を脩(おさ)め、飲酒喫煙を禁じ以て婦人の品位を開進するを目的とす>
この会の規則の第二条を読んでただちに楫子の長煙管を思い出した。
楫子はミッションスクールに勤めるのに煙草盆と長煙管を持ってきたことで語り草とされた。
(校長室でたばこスパスパやっていて、ぼやをおこし、それ以来やめられました。ミッションスクールはたばこは禁止であったため批判がありましたが、矢嶋楫子さんを校長に抜擢したミセス・ツルーさんは注意もせずかならず止めることになります。と言ってありました。ぼやを起こした時、楫子さんは学校を辞める覚悟であやまりに行くとミセス・ツルーさんは同じように頭を下げられたそうです)
-
当時日本では婦人の喫煙率はかなり高く、良家の子女でも主婦でも、煙管を放さぬものが少なくなかった。
幼い時から煙草をのんでいる者も多くあってかくべつに悪いこととする意識はなかったようである。人体に及ぼす弊害、失火の原因となる存在ということに気づきはじめたのは、ピューリタンの宣教師たちが、その害を述べるようになってからではなかったろうか。
楫子か゜初代会頭を務める矯風会の目的の一つに<飲酒喫煙を禁じ>とうたわれたことは、楫子にとって感無量なものであったにちがいない。
それにもまして感無量であったのは、それから三年後(一八八九年)一夫一婦の建白書を元老院に提出した時のことではなかろうか。
その時の書類
<姦通とは有妻男子若しくは有夫の女、他の男女に接し、または有妻無妻を問わず有夫無夫を問わず、他の有妻男子または有夫の女に接するを言う>
楫子は有妻の男子の鈴木要介との間に子をもうけた女。
この一条がどれほど楫子の胸を刺しつらぬいたことか。
この一夫一婦の建白書を元老院に提出することは、当時の社会において大きな危険を孕(はら)む行為であった。
政治家、実業家、高級官吏には妻妾同居のならわしがあり、皇室においても幾人かの側室が存在していたことは、天下に明らか。
この建白書を携えていって、無事に帰ってくることができるかどうか。
いわばこれは過激な直訴にも似ていた。
会頭の楫子は
「わたくしが懐剣をのんでお届けいたしましょう」
と静かに笑った。
楫子は白無垢をまとい、懐剣をふところに、元老院に向かったのである。
「臣下の身で、一夫一婦の建白書を奉ることは、お上に抗議申し上げることであるから、いつ切腹を申しつけられても、ただちにお受けできるように」
との覚悟の言葉は有名。
私はこの言葉のかげに、楫子の鈴木要介との過去への懺悔と償いを、ひしひしと感ずるのである。

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作家の三浦綾子さん
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