2017年09月03日
よしの206-1「われ弱ければ-矢嶋楫子伝-」三浦綾子 小学館
よしの206-1「われ弱ければ-矢嶋楫子伝-」三浦綾子 小学館
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E7%AF%89
京築(けいちく)は、北九州地方の南東側、福岡県東部に位置する行橋市、豊前市、京都郡、築上郡の2市5町が属する地域である。
概要[編集]
近年は行橋周辺を中心に北九州市のベッドタウン化が進み、全ての市町が北九州都市圏に属している。また、2006年に開港した北九州空港や東九州自動車道などの開発、苅田町には日産自動車九州、トヨタ自動車九州の工場が操業し、大分県中津市でもダイハツ九州が操業しており、自動車関連企業の進出も進んでいる。行橋市や上毛町(旧新吉富村域)では人口が増加傾向にあり、福岡県内で今後の発展が期待されている地域である。
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この行橋市で箸箱でお母さんから殴られた話を思い出しました。
(あれは確か十二歳の時のこと・・・・・・)
楫子の目にふるさと熊本の家が浮かんだ。
姉が子供を連れて遊びに来た。
暑い夏の日であった。母に言いつけられて、幼い甥の子守をした。
まだ一歳に満たない甥は、さして手もかからず、楫子の子守歌にすやすやと寝入ってしまった。楫子は布団のその幼子のそばで、読みかけの源平盛衰記を読み始めた。
読書好きの楫子は熱中して、母や部屋に入ってきたのを知らなかった。
母に声をかけられても気づかなかった。
母は激怒した。そしていきなり傍らの箸箱をふるって楫子を殴りつけた。
楫子はなにを叱られたのかわからなかった。
楫子は命ぜられたとおり、甥の子守をしているつもりだった。だが母は、かつて見たこともない形相で楫子を打ち叩き、
「子守とは、人の大事な命を預かるもの。それを呼ばれてもわからぬほどに本に熱中しているとは何事か。幼い子がむずがっても耳に入らず、何者かが子供を連れ去ってもわからぬではないか。預かった命をなんと心得る」
かつて誰に対してもこれほどに激怒した母を見たことはなかった。楫子は泣いて謝り、この母の教えを一生忘れてはならぬと、お守りの袋を作った。
楫子は自分の一張羅の紋付の袵(おくみ)先を切って、そのお守り袋を作った。空色の上等の越後縮みのきれだった。
このお守り袋の中に、楫子は母から習った歌を半紙に書き、八つ折にして入れた。
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さきだたぬ悔いの八千度かなしきはながるる水の帰り来ぬなり
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https://blogs.yahoo.co.jp/sakuramitih26/63569053.html?__ysp=5ZCN6ZGR6LOe5q2M44O7MzMyOSDlhYjnq4vjgZ%2Fjgawg5oKU44GE44Gu5YWr5Y2D5bqmIOaCsuOBl%2BOBjeOBryDmtYHjgovjgovmsLTjga4g44GL44G444KK5p2l44Gs44Gq44KK
名鑑賞歌・3329 先立たぬ 悔いの八千度 悲しきは 流るる水の かへり来ぬなり
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http://www.milord-club.com/Kokin/uta0837.htm
楫子は母の教えた「人間の命は大事にすること」という教えを、このお守り袋によって生涯守りぬこうと素直に思った。
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楫子は明治三十九年(一九0六)すでに女子学院の火災に遭ってその全財産を失っていた。
国内の関係者をはじめ、海外における矯風会、特にアメリカのゴルトン女史から、少なからぬ金品が矯風会に送られてきた。ゴルトン女史は万国矯風会会頭であった。この好意がのちに日本の矯風会本部建設の種火となった。
震災後の混乱のなかでも、矯風会は代議士たちを呼んで、公娼廃止案や、婦人の市町村公民権要求の運動を怠っていなかった。
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関東大震災から二年目 大正十四年(一九二五)四月二十四日)
楫子の九十三歳の誕生日 大久保町百人町の婦人ホームに、楫子の誕生日を祝して二百五十余名の人々が集まった。
この日楫子は誕生日の祝いとして、自分の住む婦人ホームの敷地に五十坪ほどの子どもの園を町内に寄付。
これが楫子の最後の誕生日。
この誕生日の日に、ここ二、三年そばから離れなかった娘の達子が突如半身不随の身となった。達子は五十八歳になっていた。
(楫子さんの不倫のお子さんの妙子さんは牧師さんと結婚されて7番目のお子さんを生むときに亡くなられています。)
このことも楫子の心を痛めた。
しかし二人はそれ以来ベットを並べて祈りともに聖書を読み少しの暗さもない生活をつづけ訪れる人々に力をあたえていた。
誕生日から二か月近く経って六月十四日日曜日 矯風会会員の村上正子が楫子を見舞った。
楫子は喜んで用意してある昼食を二人で分けて食べたいと言ってきかなかった。
食事は病人料理のりんご煮や豆腐料理や粥などであった。
楫子はこの時、正子の四人の子供たちについてなにかと尋ね、
「正子さん、四十歳までは家事に心をつくしなさいね。妻として、母として頑張りなさいね。でもね、四十歳になったら社会に目を向けなさい。
家の中に閉じこもっていては本当の教育はできませんよ。四十になったら矯風会のためにも働いていただきましょうか」
正子が帰ってどれほどもたたない時だった。看護婦が膳を下げに来、いつものように楫子の入れ歯をはずそうとした。が、楫子の口が開かない。
「先生!」
「先生!」
看護婦は悲鳴にも似た声を上げた。楫子はすでに昏睡に陥っていたのである。
つまり楫子は自分の使った箸を水から箸箱に納めて、まもなく意識を失ったのたである。
傍らの達子さえ気づかぬ急変であった。
主治医の藤井女医がただちに呼ばれ、翌朝、福岡博士、田原医師が駆けつけた。
「矢嶋先生のことですから、またまた三年前のように元気になられるかもわかりませんが、あるいは二三日かもしれません。三年前とはようすがちがいます」
あいにくと震災以来二年余、常に楫子の看病に力を注いでいた守屋東が矯風会の仕事で南洋に三か月の旅に出ており、娘とも秘書ともいえる久布白落実と、婦人ホームの山内舎監も、ともに会の仕事で三日の旅行に出かけていた。
偶然、来合わせていた徳富蘇峰夫妻の指図で矯風会の常置委員と親戚一同に電報が打たれた。
六月十五日の午後四時、宮内庁から皇后の見舞い品が届いた。鶏卵一箱とお菓子四箱であった。
やがて牛込教会の田崎牧師が訪ねてきて、人びとの気持ちが少し慰められた。
十五日夜十一時、雨が降り出した。
臨終はまことに静かであった。藤井女医が、
「ご臨終でございます。午前一時十分です」
この四時間後の午後四時、久布白落実が夜行列車で福島から駆けつけてきた。
人々が誰よりも楫子に会わせたかった守屋東も、ついに臨終にまにあわなかった。
https://fanblogs.jp/yoshinohikaruko/archive/1574/0?1504395967
よしの206矢嶋楫子伝で復活できるか?
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