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2019年06月25日

新シリーズ 部落問題を精査する その5 近代部落解放運動の歩み 



  新シリーズ 部落問題を精査する 

 その5 近代部落解放運動の歩み



 1877年(明治10)代の自由民権期に入ると、部落の中には板垣退助指導の自由党に加入したりして部落解放運動を始めたり、中江兆民の様な自由民権論者の中に部落解放を唱える人物も出て来た。
 明治中期に為って、福本日南(ふくもとひなみ)の『樊噌夢(まがきそゆめ)物語』(1886刊)や柳瀬勁介(やなせつよすけ)の『社会外の社会穢多非人』(1901刊)の様に、部落民を日本の海外発展の市場獲得の先兵にし様と云う論も出て来た。島崎藤村の『破戒』(1906刊)の主人公・瀬川丑松(せがわうしまつ)が部落差別に耐え切れずアメリカのテキサスに旅立つのも、こうした時代環境に在ったからであろう。

 政府の無策によって、部落の有力者は自主的な部落改善運動を起こした。1893年(明治26)の和歌山県の青年進徳会(せいねんしんとくかい)、翌々年の大阪での中野三憲等の勤倹貯蓄会(きんけんちょちくかい)、その翌年,岡山県での三好伊平次等の修身会・青年会等がそれであり、1902年(明治35)の岡山県の三好伊平次等の備作平民会(びさくへいみんかい)、又その翌年,全国的規模の大日本同胞融和会(だいにっぽんどうほうゆうわかい)、1912年(大正1)の奈良県を中心とした同志会(どうしかい)、その翌々年の帝国公道会等、部落改善運動(部落の自粛じしゅくを特に強調)が勃興し、融和運動(ゆうわうんどう)を主張して来た。

 大正期に為ると、折からの大正デモクラシーの高揚に伴い、1913年に民俗学者柳田国男の「所謂特殊部落の種類」(国家学会雑誌)1919年(大正8)喜田貞吉『民族と歴史』(特殊部落研究号)等に部落問題が学者等に注目される様に為った。
 1910年(明治43)、所謂大逆事件が起こったが、この頃から政府も部落対策を講じて来た。しかし治安維持と救貧策の見地からの慈善的恩恵的(じぜんてきおんけいてき)な行政施策であった。更に部落の自主的な改善運動が起こって来たが、政府は十分に改善施策を助成し促進する事をしなかった。

 1917(大正6)年、奈良県橿原市の畝傍(うねび)山の麓にあった洞(ほら)部落が神武天皇陵を見下ろして居るから恐れ多いと云う事で、強制的に移転させられて居る。戦前の軍国主義時代、解放運動の父・松本治一郎が叫んだ「貴族あれば賤族あり」と云う言葉は見事にこの事を示して居る。
 1918年(大正7)夏、米騒動が勃発して、部落民の蜂起が激しかった事が判って、政府は部落問題の重要性を認識した。次いで1920年(大正9)奈良県南葛城郡掖上村(ならけんみなみかつらぎぐんぬきかみむら)柏原(かしわばら)での燕会(つばめかい)の創設から、1922年3月京都岡崎公会堂で全国水平社が創立された。
 全国水平社は政府の融和事業を排撃(はいげき)し、人間の尊重を基礎とし、団結して自らの行動によって絶対の解放を期し、以て人の世に熱と光を与える事を目的とした。

 水平社運動の初期の段階は、差別した者に対する徹底した糾弾闘争(きゅうだんとうそう)で、1923年の奈良県都村に於ける水平社対国粋会との流血事件、群馬県世良田村の自警団との事件、26年の福岡連隊事件等と続いた。
 しかし運動の激化に伴い、闘争の在り方に内部分裂が起こり、折からの*アナ・ボルの対立が水平社運動にも波及し、政治的な労農闘争と連携して行く運動と為った。

 *アナ・ボルの対立  第1次世界大戦後,日本の社会運動内部に生まれたアナルコ・サンディカリスムとボリシェビズムの2潮流による思想上や運動上の対立。
 大戦後労働運動が高揚し,その中に1920年頃から大杉栄等のアナルコ・サンディカリスムの思想が強い影響力を持つ様に為った。一方1917年に起こったロシア革命の研究が山川均らによって進められ,ボリシェビキの影響も見られる様に為った。21年4月のロシア共産党第10回大会でアナーキスト排除が決定され,それを機に日本でもアナ派とボル派が対立した。以上

 これに対して1928年(昭和3)の三・一五事件、翌年の四・一六事件と言った共産党弾圧事件に水平社幹部も多く検挙され、折からの昭和恐慌の荒波にあって水平社運動も沈滞した。
 1933年(昭和8),水平社は勤労大衆の階級的連携を強化すると共に部落委員会活動を起こし、不況の中で部落大衆の経済的・文化的要求を組織を通して行政に要望して行こうと云う運動に転じた。これが折からの高松地方裁判所の差別判決閾争と重なり水平社運動を盛り上げた。
 水平社は政府が1936年(昭和11)から始めた「融和事業完成10カ年計画」に批判的であったが、太平洋戦争の勃発で、次第に国策順応(こくさくじゅんのう)に傾斜して行った。
 
 こうして、融和運動は水平社運動へ結実して行ったものの、その水平社運動もジグザグし、所謂「絶対主義的天皇制・寄生地主制・家父長制的家族制度」の中で、部落の差別的な実態や一般住民との断絶状態はそのままに温存された。大きな解決の条件は第二次世界大戦後を待た無ければ為ら無かった。

 その5 おわり 次は戦後部落解放運動の歩み・・・




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