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2019年06月25日

新シリーズ 部落問題を精査する その4 幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史

 
 新シリーズ 部落問題を精査する 

 その4 幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史


 「エタ」身分の人達は、こうした差別と貧困に泣き寝入りして居た訳では無い。1856(安政3)年の渋染一揆(しぶぞめいっき)に代表される様に、幕末に近付くに連れて「えた」身分の人々も、差別と貧困に抵抗して立ち上がり、身分差別撤廃の戦いを展開して行った。幕末期にはこうした闘いの火の手が次々と挙がって居り、次第に幕藩権力に抵抗する運動へと激化した。

 1749(寛延2)年の姫路藩の全藩一揆、1782年(天明2)年の和泉北部54カ村の千原騒動、1823(文政6)年の紀州北部280カ村7万人の百姓一揆等の時には部落民が一般百姓一揆に加わって幕藩権力を脅かして居る。
 1804(文化11)年から1855年(安政3)年に掛けて丹波篠山藩に於いて本村の隷属下にあった皮多村が、分村独立運動を50年間に渉って闘い願意を貫いた闘争もある。1806年(文化3)年豊後杵築藩での部落民に「浅黄半襟(あさぎはんえり)」を強要した事に対し、成功し無かったものの、領外に2カ月も立ち退いての闘争もある。1837(天保8)年の「大塩平八郎の乱」の時、この決起に部落民も参加して居る。

 渋染一揆はその貴重な史実である。時に、1855(安政2)12月、池田藩(現在の岡山)は財政改善の為29条に渉る倹約令を出したが、最後の5カ条の「別段御触書」の内容が「部落の者は無紋にして渋染(しぶぞめ)の衣服以外は着ては為ら無い」と云うものであり、被差別部落民はこの差別法令の撤回を要求して立ち上がった。
 1856(安政3)1月から6月中旬迄の間、53ヶ村の代表が何回も会合を開き相談をし、その過程では村によって考え方に微妙な相違が見られたにも関わらず最終的には約1500名の部落民が強訴(ごうそ)して居る。
 6.13日に集結し、15日に嘆願書を池田藩筆頭家老・伊木若狭(いぎわかさ)に渡し、再吟味するとの約束を勝ち取った。8月に、別段御触書は取り下げさせる事に成功して居るが、調印だけはする様にとの事に為った。
 この闘いの代償も又大きかった。1857(安政4)5月判決が出され、12名が投獄された。内6名が病死、2年後に残りの6名が釈放された。投獄中、厳しい拷問を受けて居る。全ての部落民に14日間の外出禁止が課せられても居る。

 1866年(慶応2)の長州再征の時等に、幕府・長州藩とも脱賤(だつせん)を切望する部落民に対し、平民にしようと云う条件で部落民に動員を掛け事実上協力を取り付けて居る。長州では、幕末に民衆による軍隊が作られ、その中に部落の人々からなる「維新団」「一新組」が組織され、幕府による2回目の「長州征伐」の時には、芸州口(げいしゅうぐち)の戦い等で奮闘して居る。こうした解放への胎動が「解放令」を生み出す原動力と為る。

 イヨイヨ幕末動乱期に為ると、幕藩体制否定の反封建思想が高揚すると共に、外国からの平等権的(びょうどうけんてき)啓蒙(けいもう)思想(天賦人権説・てんぷじんけんせつ)が広まった。又識者の中には社会政策の上からも、部落解放策を唱える者が出て来た。1868(慶応4・明治1)年、幕府は江戸浅草のエタ頭弾左衛門(だんさえもん)とその手下60人余を平民にして居る。


 明治維新による新秩序


 明治維新は、封建社会から資本主義社会へ移行する近代日本の出発点と為った。明治政府は近代的中央集権国家体制を目指し、政治・経済・教育のあらゆる分野の制度改革を進めた。これを俗に「文明開化政策」と云う。明治維新によって「四民平等」が唱えられ、近世身分制は廃止される事に為った。
 明治新政府は、徳川幕藩体制の桎梏的(しっこくてき)な諸制限を廃止して行った。1871(明治4)年に太政官布告で「賎民解放令(せんみんかいほうれい)」が出され「エタ・非人」制度を法的には廃止し、法律や制度の上での身分差別は無く為った。「解放令」は、四民平等の近代社会を建設して行く事を宣明して居り、差別的な呼称の廃止、職業の自由を認めたと云う点では画期的な意義を持って居た。

 「解放令」の発令によって、部落大衆は長年に渉る差別から解放されると期待して狂喜したが、一般国民は、自分等は部落民と同じ社会身分に落とされ、結婚を初め社会慣習・生活様式等全て同格にされると恐れて、解放政策反対の大規模な一揆を起こした。中国・四国・近畿・北九州地域に勃発し、政府はこの鎮圧に苦慮した。
 しかし、翌1872(明治5)年我が国で最初の近代的な戸籍と言われる「壬申戸籍(じんしんこせき)」が作られた。この戸籍には、旧身分(きゅうみぶん)や職業、壇那寺(だんなてら)に犯罪歴や病歴等の他、家柄を示す族称欄(ぞくしょうらん)が設けられて居た。部落の人々に付いて「旧えた」とか「新平民」とか付記されて居た。

 戸籍法では、従前戸籍(じゅうぜんこせき)の公開が原則とされて居たので、この「壬申戸籍」は1968年(昭和43年)包装封印される迄、他人の戸籍簿を閲覧したり戸籍謄(抄)本を取ったりする事が出来た。こうした事から判明する様に「賎民解放令」は宣言にのみ留まった。「エタ・非人」の生活環境諸条件は相変わらずそのママであったので何ら実効性を伴わ無かった。
 他方で、天皇を中心とする専制的な政治を強めて行き、天皇制国家秩序の中での新身分秩序として「皇族・
華族・士族・平民・新平民」制を定めたので、身分差別構造が形を変えて続いて行く事に為った。出目や家柄を尊重し、それによって人々を差別する前近代的な価値観や慣習も根強く残存し「エタ・非人」制は近代社会の仕組みの中で特殊部落として差別されて行く事に為った。

 明治政府のこの二面的政策により賎民身分に対する差別は無く為ら無かった。これを「半ば封建的な政治、経済、社会の遺制的(いせいてき)仕組み」と理解すべきか、明治維新後の「資本制社会の新たな差別の仕組み」と見為すかで議論が分かれて居る。
 分析すべきは、近代資本主義の発展の中で、部落差別が強化されたのか緩和されたのか、新たな差別構造として存続したのか漸次解消方向へ向かったのか等々であるが、左程精査されて居無い。「部落住民の困窮をより一層強める事に為った」と云う見方もある。

 何れにせよ、富国強兵政策遂行上、低賃金労働力の供給元として部落差別が再生産された事は疑い無い。その構造は、第一に、民衆に経済的・政治的・文化的な低さを我慢させ、低い生活を維持させる為に必要でした。これが部落差別の経済的存在意義である。
 第二に、民衆の不満の捌け口を部落民に向けさせ、民衆同士を分裂させる役割を果たした。これが部落差別の政治的存在意義である、と云われて居る。


 その4おわり 次は近代部落解放運動の歩み・・・



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