2019年06月25日
新シリーズ 部落問題を精査する その3 幕藩体制における部落差別の構造
新シリーズ 部落問題を精査する
その3 幕藩体制における部落差別の構造
江戸時代に入ると近世身分制が確立された。徳川幕藩体制は、武士階級が百姓を中心とする民衆から、苛酷な租税を絞り取る事によって成り立って居た。200万の武士が2800万人の民衆を支配する為に「士・農・工・商・えた・ひにん」と云う身分序列を設けた。
この時、夫々の身分が更に細かな身分に分けられ、且つ中世賎民の一部が把握され直され、賎民身分として近世身分制の最下層に置かれた。
農本経済を基調にして居た事もあり、農民は武士の次の身分に位置付けられて居た。その下に職人・商人を置き、更にその下に「えた」「ひにん」身分を作った。「えた」と「ひにん」の身分差も巧妙にされて居た。「えた」は、親子代々「えた」から抜けられず「ひにん」は或る一定の条件の下では「足洗い」をして、農・工・商の何れかの身分に戻れると云う仕組みにして居た。
その為「えた」は身分が上挌だと言って「ひにん」を蔑み「ひにん」は何時でも農・工・商に戻れるから自分達の方が上だと考えて「えた」を蔑んだ。互いに他人を蔑み合い「自分達の方が未だマシだ」と思わせると云う巧妙な制度であった。
尚、身分によって居住区が分けられ、武士は「城下町の武家地」町人は「町方(まちかた・城下町の町人屋敷地」百姓は「村・在方(ざいかた・農漁村の意味)」「穢多」は「村・在方の特殊部落」「非人」は「河原、その類(たぐい)」「その他の雑賎民」は無宿人として相応の所と云う風に制限される事に為った。
この封建的身分制の下では、社会的地位や職業・財産等は原則として父系親族体系に基づいて相続・世襲される事から、人々は生まれ乍らにして出自と家柄によって社会的身分が決定された。そればかりでは無く、居住区域・家屋様式・髪形・服装・職業・言語様式・教育等全ての生活様式や文化に渉っても、厳しい身分による差異が設けられた。
これ等の生活様式や文化の差異は、日常の社会関係に於いて身分の違いを目に見える形で表示し識別し得る標識として、身分制の維持の為に重要な意味を持って居た。又身分社会に於いては、親族体系が地位の相続や世襲に関して重要な意味を持つ為に、結婚に付いても異なる身分間の通婚は規制された。
近世の封建制度下の身分制の最底辺に置かれた「穢多(えた)」は集団的に閉じ込められ、賎民(せんみん)職業として主として畜産食肉業や皮革職業に従事した。ケモノを殺したり皮を剥ぎ、それを加工したりするので「皮多(かわた)」とも云われた。
領主に皮革を納める代わりに、死んだ牛や馬を引き取り処理する特権(斃牛馬へいぎゅうば処理権)を認められた他、皮革業を行なう為の作業場として屋敷地を与えられたり年貢を免除されたりする事も多かった。
しかしこれ等は何れも、賎民としての身分と結び着いた権利であり、日常生活の上では賎民身分として様々な厳しい差別を受けた。しかも特権を持って居た者は一部に限られて居り、多くの人は農業、皮革加工業、日雇い賃稼ぎ等雑多な仕事で生計を建てて居た。
領主によっては「エタ」身分の者を罪科人の処刑や牢番、役人の下で警備や犯罪者の逮捕等警察組織の手先として使い、分裂支配の手段として利用した処もあり「長吏(おさり)」とも呼ばれた。通説として、幕府の分断統治・反目政策と見做されて居る。
中世の社会は未だ流動的で、賎民でもその身分から逃れる事も不可能では無かったし、近世封建制の下で新たに「えた」身分に落とされた者も少無くは無かった。
徳川幕府時代の封建的身分秩序は「士農工商、エタ非人」制に貫かれて居た。徳川中期には賎民身分に対する差別は益々厳しく為り、風俗規制や「穢多狩り」と言って原住地を離れ都市に流れ込んだ者を捕らえる事さえも行なわれた。穢多・非人が領主の賎民支配の中核に為った。
その他にも雑多な賎民が存在して居た。加賀藩の藤内、山陰の「はちや」等は地域的な特色があるが、茶筅・さいく・夙の者・「はちたたき」等が広範に存在して居た。
その3おわり 次回は幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史・・・
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