2019年06月25日
新シリーズ 部落問題を精査する その2
新シリーズ 部落問題を精査する その2 部落差別問題の基本的理解
部落問題の歴史認識その一 古代から幕藩体制期迄の歩み
部落差別の由来を何処に求めるのか、ここから論を起こしたい。先ず歴史的に次の様に認識したい。洋の東西を問わず、階級社会の成立と共に賎視される人々が発生して居る。古代ローマの奴隷・中世ヨーロッパの農奴・インドのカースト等はその例である。
日本でも2・3世紀には奴碑(ぬひ)が存在して居た事が知れて居り、彼等は「奴隷」として社会の下層に置かれ、賎しめられつつ酷使労働力として利用されて居た。或は特殊技能労働により自存して居た部分もあるやに思われる。
古代国家が確立し、唐の律令制が取り入れられるに及んで、賎民制度が成立した
7世紀から8世紀に掛けて、天皇を頂点とする身分制度が作られ、所謂平民身分は「良民」と「賎民」とに分けられ、更にその内部に様々の身分が在った。賎民は「五賎」と言って、官戸・陵戸・家人・公奴碑・私奴碑に分けられて居た。
又良民でも、品部(ともべ・しなべ)や雑戸(ざっこ)は一段低く見られて居た。古代賎民制は既に8世紀から動揺を始め、9世紀頃から古代身分制が崩れ始め、10世紀初めには律令制に於ける奴碑身分も廃止された。
中世賎民の出現は、古代賎民制の解体の後に見られる。系譜的には古代賎民の跡を曳く者も居たが、天災や飢饉・戦に敗れる等の理由で新たに体制から流出した者、或は手工業者や物資の運搬・皮細工・染色・壁塗り・井戸掘り等の経済活動に従事して商工業の発展に尽す者の一部も含まれて居た。
或は猿楽能・曲舞等の庶民芸能や造園業者や宗教者も含まれて居り、この様な階層を総称して「非人」と呼んで居る。
この様な人々の中には、銀閣寺の庭園を造ったと言われる善阿弥や仏像彫刻で有名な運慶等、日本の優れた文化を作り出した人が多く居る。してみれば「非人」=賎民とは断定し難い面がある様に思われる。何れにせよ、この頃の身分は非常に流動的であった処に特徴が認められる。
これ等が平安期に特に厳しく為った「触穢思想(しょくえしそう)」等の影響を請け、死や血のケガレに触れる者に対して賎視が強く為った。清掃や死牛馬の処理・葬送・行刑執行等々の「清め(キヨメ)」の職種がこれに該当すると思われる。
鎌倉末期に為ると、賎民も分化し、職業や領主関係等によって名称も異為って来た。犬神人・河原者・散所民(さんしょみん)・穢多・きよめ・坂の者・夙(しゅく)の者・声聞師(せいもんし)等がそれである。中世賎民は厳しい差別を受けたが、身分間の移動が全く不可能であった訳では無い。
処が近世に為ると、検地や人別改めが行なわれ、身分によって居住地や職業迄もが区別される支配体制が整備される事に為った。豊臣秀吉の兵農分離・刀狩り令によって支配階級たる武士と被支配階級たる農工商との身分が分離された。更に、検地政策が、農民=百姓を土地持ちと持たざる者とに識別する事と為った。
「検地」とは、一筆(一枚の田)毎に土地の広さを調べて、そこから獲れる米の石高やその土地の耕作者を決めて年貢を納める義務を課すことにあったが、この時土地の耕作者=本百姓政策を基本とした事により、勢い本百姓為らざる百姓の階層分化を進めて行くことに為った。この過程で、一向一揆等々の体制反逆者達が最下層へ落とし込められた形跡がある。
(私論・私見) 賎民制度と江戸期身分制における「えた・ひにん」制との繋がりについて
問題は、こうした歴史的経緯における賎民制度と次に述べる江戸期身分制に於ける「えた・ひにん」制との繋がりであろう。同一階層が横滑りで「えた・ひにん」化されたものなのか、新たな編成替えが為されたのか。
その2おわり 次は部落問題の歴史認識その二 幕藩体制における部落差別の構造・・・
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