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2019年05月03日

アノ聖徳太子が教科書から消える訳 その2



 アノ聖徳太子が教科書から姿が消える訳 その2







 Q7. 冠位十二階は有ったのですか?

 有りました。只、中国、朝鮮半島でも同じ様な制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。又、制定の理由は「新しい人材登用が目的」と云うより「当時遣隋使の派遣等で積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージを作る為」と云う意味合いが強い様です。尚、制定に際しここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。


 遣隋使派遣、法隆寺建立も証拠は無し


 Q8. 遣隋使派遣は有ったのですか?

 有りました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にハッキリと600年に遣隋使が訪れた時の詳細な記録が残されて居ます。当時の遣隋使は、後の遣唐使程の重要性を持って無かったとも考えられます。遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかって居ません。


          5-3-3.jpg

                  法隆寺全景


 Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?

 判りません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代の様ですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされて居ますが、何分、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強して居ます。



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 Q10. では、何故「聖徳太子」が作り上げられたのですか?

 厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者と為った天武天皇(631?〜686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」を進めて行きます。
 その時天武天皇は「厩戸王」と云う一人の人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これ等の偉業全ての部分で関与したとする「聖徳太子」を作り上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であると云う正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられて居ます。


 




 こうしたことを背景にして戦前に作り上げられた「聖徳太子」像は、今大きく揺らいで居るのです。ここまでの話を整理してみましょう。

 聖徳太子の称号は「憲法十七条」を初め、数々の功績によるもの。
  処が、最近の研究から、推古王朝は彼一人で無く天皇と蘇我氏に厩戸王3者の共同体制による運営とされ、

 @ 冠位十二階等は「多くの人物」の手による合作
 A 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
 B 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されて居た

 等、彼自身の実績とは直接関係無いとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じて居ます。

  少なくともこの時代に、彼が天皇の摂政として存在したのは確かですが「聖徳太子」の称号に値する〈全てを独りで成し遂げた〉人物では無かった、詰まりは「聖徳太子」は居なかったとする見方が現実味を帯びて来ました。


 




 日本史は「進化」して居る


 後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、様々な歴史的事実が明らかに為りました。歴史は絶えず「進化」を続けて居ます。
 今回のリニューアル出版に当たっては、未だ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これ等は彼の成した功績として記述して居ますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王(聖徳太子)」としました。

 (旧)聖徳太子⇒(新)厩戸王(聖徳太子)

 現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B』山川出版社)でも、「厩戸王(聖徳太子)」と表記されて居ますが、次の教科書検定で改訂される時には、「聖徳太子」の語は本文からは削除されると思われます。(脚注では言及される見込みです)

 今回紹介した歴史の「進化」の一例も、現時点での「最新版」ですが、決して「最終版」ではありません。研究・発見が続く限り、歴史教科書はこれからも内容が書き換えられて行く事でしょう。


 




 Q.ありがとうございました。最後に、「10人の話を〜」は本当ですか?

 10人が一斉に言葉を浴びせ掛けた訳では無く「10人の話を1人ずつ順に聞いた上で、夫々に対し明快な回答を行った」と云うのがどうやら実態の様です。何れにせよ、こうした伝説が後世、より彼(聖徳太子)のイメージを肥大させることと為った一因でしょう。
 一方で、この「耳が良い(=賢い)」は、彼の名前にある称号「豊聡耳(とよとみみ)」に由来するもので、こうした表現がある以上、実際の「厩戸王」本人も非常に優秀な人物だったことは先ず間違いありません。

 歴史は知れば知る程、楽しいものです。数学や英語と違って「知識ゼロからでも直ぐに学び直しが出来る」のが、歴史の最大の特徴です。歴史をスッカリ忘れてしまったビジネスマンの方も、これを機会に、是非楽しみながら、学び直してみてください。


  以上


 





 【管理人のひとこと】


 私が、聖徳太子が歴史教科書から消える・・・と聞いて久しく為ります。今回、その内容を改めて解説するレポートでしたので取り挙げました。未だ天皇の権威が定かで無い時代の政治は、有力な貴族が実務を行い、天皇はそれを支持して居たのでしょう。
 又は、有力な貴族と皇室の中の優秀な人材とが、天皇を助けて政治を行った・・・実務を取り仕切る貴族の方に大きな権限も与えられて居たのかも知れません。

 厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し勝者と為った天武天皇(631?〜686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」を進めて行きます。
 彼は「厩戸王」と云う一人の人物に着目し、彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これ等の偉業全ての部分で関与したとする「聖徳太子」像を作り上げた。それは、ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であると云う正統性を再認識させようとしたのではと考えられて居ます。

 明治に為って、天皇の権威を新たに作り出そうとする政府は、これを殊更持ち出し「聖徳太子=大偉人」と持ち上げ、戦時下の政府もそれを否定せずに現在に至ったのです。
 歴史上の書物とは、後世に勝者の歴史を正当だと認めさせる為に作られるもの。その為には、他者を悪として葬(ほうむ)り自分達を善として立証する・・・その為に、色々な方便を使わざるを得ません。祀(まつ)らわぬ者を鬼・非道と罵(ののし)り未開人を蝦夷(えぞ・えにし)等と蔑称します。自分に従わぬ者を悪者とし、それを成敗する物語を作り上げる処から始まります。

 その後色々な研究が進むと、新たな歴史も生まれ訂正もされます。その解明が新たに歴史を楽しむ人達を生み出して行くとすれば、これからも新しい真実が幾つも掘り起こされることでしょう・・・



 



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