2019年05月02日
アノ「聖徳太子」が教科書から姿を消す訳 その1
【ネットニュースより】
アノ「聖徳太子」が教科書から姿を消す訳 その1
ここまで判った! 「日本史」の最新常識
山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師 2016/05/25 10:00より引用します
誰もが知っている「聖徳太子」ソロソロ学校教科書から消えるそうです
教科書に載る聖徳太子像
その真相とは・・・過つて「伝説の学習参考書」と呼ばれた名著をご存じだろうか。1973年に初版が発行され、多くの受験生のバイブルとして版を重ね続けて来た『大学への日本史』である。
作家の佐藤優氏も、外交官時代「座右の書」として肌身離さず持ち歩き何度も読み返して来た。その学習参考書が今回、装いも新たに『一気に学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『一気に学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わった。
特長は、リニューアル復刊に当たって、監修者が全編チェックして「古い学説」は改訂し、最新の研究成果によって以前の内容には無かった「新たな歴史の常識」も数多く盛り込まれ「今使える内容」に為って居る事。
本連載では、同書の監修を担当した東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏が、そんな「最新の日本史」を紹介して行く。
本当の聖徳太子は何をした人物?
佐藤優氏が30年間、絶えず読み返して来た「座右の書」であり「最高の基本書」「伝説の学習参考書」と呼ばれる『大学への日本史』が読み易く為ってしかも最新情報で新登場!
誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人「聖徳太子」過つて旧1万円札の代名詞でもあり「一度に10人の話を同時に聞き分ける」等、その生涯における超人的エピソードは、1400年の時を経て尚今日に語り継がれて居ます。
勿論、「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」等、彼の成し遂げた偉業の数々は誰もが教科書で習った覚えがある筈です。
処が近年「聖徳太子が、実は存在し無かった」と云う、俄かに信じられ無い学説が唱えられ、従来の教科書表記にも影響を及ぼす程に拡大して居ます。教科書を見ても、今までは「聖徳太子」と書かれて居たのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコ付きの表記に変わって来ています。一体「聖徳太子」は居たのか居なかったのか?好く聞かれる10の質問に答える形で解説しましょう。
Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子は居たのですか?
居ました。でも、その前に一つ確認して置きましょう。「聖徳太子」と私達が呼んで居るこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世に為り彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」この「厩戸王」は実在の人物です。よって「居た」と為ります。
Q2. 「聖徳太子は居なかった」はウソだったのですね。
処が、そうとも言え無い事情があります。「聖徳太子は居なかった?」はここからが本題です。確かに「厩戸王」は居ましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかと為ると、話は変わって来ます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と彼との関係を改めて調べて行くと「意外な結果」へと辿り着くのです。
Q3. 先ず「厩戸王」に付いて簡単にご説明ください。
厩戸王(うまやとおう、574〜622)は飛鳥時代の政治家です。本名は、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)で用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。
19歳で推古天皇の摂政と為り「憲法十七条の制定」等数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名が今に定着して居ます。
女帝推古天皇と摂政厩戸王
「聖徳太子が全てヤッタ」とは考え難い
Q4. 聖徳太子が否定される切っ掛けは何だったのですか?
彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」等、こうして書き連ねるだけで膨大です。冷静に考えて「これ等を一人の人物が全てヤッタとは考えられ無い」と云う訳です。
Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?
聖徳太子は上記の偉業を全て行った、それ故の「“聖徳”太子」ですから人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」に付いては、当時の史料を改めて検証する限り「憲法十七条」も「冠位十二階」も彼が主体として確実に関与して居たと云う証拠が無いのです。
勿論、だからと言って彼が政治の中枢に居た事は確かですから、全く無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。
Q6. 憲法十七条は有ったのですか?
有りました。只『日本書紀』にある604年と云う成立年に疑問が生じて居る様です。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏等大豪族と余り差が無く拮抗して居り、この状態で条文にある「天皇中心の国家」を謳(うた)い上げるには未だ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われて居なかったのではと云う疑問点から「実際の制定は モッと後の時代だった」と云う主張もあります。
次に続く 次ページ遣隋使派遣は?法隆寺建立は?
その2につづく
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