2018年09月28日
一緒に学ぼう世界史のポイント 101 《アロー戦争・洋務運動》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 101 《アロー戦争・洋務運動》
アロー戦争・洋務運動
【楽しいアクアリウムの世界】
アロー戦争
太平天国が中国南部を席捲して居る時、同時進行で清朝とイギリス・フランスとの戦争が起こって居ました。この戦争をアロー戦争、又は第二次アヘン戦争と言います。この戦争の経過と結果を見て置きます。
アヘン戦争後の南京条約で開港場を増やしたイギリスは、この後綿工業製品の中国への輸出が増えることを期待していました。そもそも、イギリスが一番売りたいのはインドの農産物(?)のアヘンでは無く、イギリスの工業製品なのですから。
処が、開港場が増えてもイギリスが期待した程に綿工業製品が売れ無い。これは中国産業の底力です。中国の綿工業製品は、機械制大工業のイギリス製品に対抗出来るだけの価格と品質を備えて居たと云う事です。
しかしイギリスとしては、開港場をもっと増やせば輸出は伸びると考えた。開港場を増やすには、新しい条約を清朝政府と結ば無ければならない。しかし、基本的には清朝は欧米諸国と貿易をしたく無い訳だから、開港場を増やす為にはアヘン戦争の責任を取らせる形で南京条約を結ばせた様に、もうひとつ戦争を仕掛けて清朝を負かして条約を結ぶのが一番手っ取り早い。と云う訳で、アヘン戦争後からイギリスは、次に清朝に戦争を仕掛けるチャンスを狙っていました。その戦争の切っ掛けと為ったのが、1856年のアロー号事件です。
アロー号を拿捕する清国兵
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事件が起きたのは広州の港です。アロー号と云う船が広州港に入港したのですが、この船が実は海賊船であると云う情報が治安当局に入りました。そこで広州の警察がアロー号に乗り込んで調べてみると、本当に海賊船だったのでその乗組員12名を逮捕しました。乗組員は全員中国人です。
警察が海賊を捕まえるのは当たり前の事ですし、容疑者は中国人なので何も問題は無い筈だったのですが、これにイギリスがイチャモンを着けた。
その理由が、この船がイギリス船籍だった事と、清朝の警察が船に乗り込んだ際に船のポールに掲げてあったイギリス国旗を引きずり降ろしたと云う事でした。国旗を引きずり降ろしたことが事実かどうかはどうもハッキリしないのですが、イギリス側は、イギリスに対する侮辱であるとねじ込みました。
もし、本当に国旗を降ろしたとしても戦争の理由に為る様な大事件ではありません。又、アロー号がイギリス船籍だとして、そこに中国の警察が乗り込んだことを主権侵害の様に非難したのですが、実はアロー号の船籍登録は期限切れに為って居たのです。車で言えば車検切れの様なものです。詰まり、イギリス船籍では無かった。しかし、イギリスは戦争をしたいので、この事件を盾に取って強引に清朝政府を責め立て、開戦に持ち込みました。イチャモンを着けて喧嘩を吹っ掛けるゴロツキと同じです。
大沽砲台へ攻撃したイギリス軍の67歩兵隊
この2年前の1856年、広西省でフランス人の宣教師が殺害される事件が起きて居り、フランスもイギリスと共同で清朝に宣戦しました。フランスはナポレオン3世の時代ですね。
1857年にインドで大反乱があった為、本格的な戦闘は1857年末から始まり、英仏連合軍が海路北上し天津に迫ると、清朝は降伏し58年天津条約が結ばれました。
この条約には、イギリスやフランスの他にロシアとアメリカも参加して居ます。条約が結ばれて英仏軍が去ると、清朝政府内で対外強硬派が力を持ち始めます。喉元過ぎれば熱さを忘れると云うやつで、この辺の清朝政府の対外政策の一貫性の無さはアヘン戦争以来全然変わっていません。
咸豊帝
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1859年に、英仏の使節団が条約の批准書を交換する為にやって来たのですが、天津の近くで清朝側がこの使節団を砲撃して追い払ってしまいます。1860年には再び英仏連合軍が北上し北京に向けて進撃しました。皇帝(咸豊帝(かんぽうてい))は、北方の熱河と云う町の離宮に逃亡し、北京に残された政府が連合軍と北京条約を結び清朝は再び降伏しました。
この時に、北京近郊にあった円明園(えんめいえん)は、英仏軍によって略奪破壊されてしまいました。宣教師カスティリオーネがヴェルサイユ宮殿を摸して設計した宮殿でしたね。現在でも、円明園の跡地は廃墟として残されています。私も、昔一度行ったことがありますが、草茫々(くさぼうぼう)の中に大理石の柱の残骸がゴロゴロ転がっていました。
清時代の離宮である円明園
北京条約の中身です。
・先ずは、開港場の増加 天津や南京など11港を新たに開港しました
・キリスト教の布教の自由
・外国人の中国国内の旅行が自由に為った これによって商人は何処にでも行けるように為りました。それまでは開港されて居た五港から出ることは出来なかったのです。
・北京に外国公使の駐在を認めさせた
・イギリスに九龍半島の一部を割譲 九龍半島は香港島の対岸にある半島です。現在では一般には香港の一部として知られていると思います。
・そして、アヘン貿易の公認 アヘン戦争後の南京条約では触れられていなかったアヘンに付いて、遂に正式に認めさせたのです。これに伴って、清朝は民間人に対してのアヘン吸飲を認める事に為りました。麻薬貿易も自由吸うのも自由と云う訳です。
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この北京条約によって中国の半植民地化は深まりました。1862年上海に密航した長州藩の高杉晋作が「上海は中国に属している土地なのに、イギリス・フランスに所属していると言っても好い」と述べる程に中国の半植民地化は一層進んで行きました。忘れては為らないのは、この時期には南京を中心として太平天国の反乱が起きていると云う事です。
内側に反乱外からは外国の侵略と大変な状態だった訳で、不平等な条約でも結ばざるを得なかったのです。英仏に取っては、自分達の要求を呑ませた訳ですから、清朝政府にこの条約をキッチリ守らせたい。その為には、清朝に確りして貰わなければならないから、これ以後太平天国平定に力を貸す様に為った訳です。
ロシアの東方進出
イギリスやフランスが南方から中国を窺(うかが)うだけで無く、北からはロシアが中国清朝に対して領土的な野心をもって接近して居ました。
ニコライ・ムラヴィヨフ
19世紀半ば、ロシアの初代東シベリア総督と為ったムラヴィヨフは、衰退した清朝からの領土割譲を図り、アムール川(黒竜江)を探検し占領し、1858年に清朝と愛琿(アイグン)条約を結び、アムール川以北の土地を獲得しました。
同時に沿海州(アムール川の支流ウスリー川以東)を清朝との共同管理地としました。アロー戦争の天津条約を結んだのと同じ年です。
又、アロー戦争終結の1860年には露清北京条約を結び、沿海州を獲得しました。この沿海州の南端にロシアが開いた軍港がウラジヴォストークです。この名前は「東方を支配せよ!」と云う意味。こうしてロシアは東方に不凍港を獲得することに成功しました。
この後1875年、ロシアは日本と結んだ千島・樺太交換条約で、樺太を獲得しています。ドンドン東へ向かっている感じですね。
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ロシアは東部だけで無く、中央アジアでも清朝の領土を窺(うかが)いました。1860年代に新彊地域(中央アジア)でイスラーム教徒の反乱が起きると、混乱に乗じてイリ地方を占領しました。この後の1881年、イリ条約でイリ地方は清朝に返還されました。その代償として清朝は、新彊地域の一部や賠償金と貿易特権をロシアに与えました。
因みに、ロシアは1868年には中央アジアのブハラ=ハン国を、1873年にはヒヴァ=ハン国を保護国化しています。両国は、それまでは清朝の朝貢国でした。
洋務運動
太平天国の乱が終息した後、清朝内部で改革が始まりました。中心と為ったのは、郷勇(義勇軍)を組織し太平天国鎮圧に活躍した官僚達です。彼等は、その活躍によって政権内で大きな発言力を持つ様に為りました。具体的には、曾国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)、張之洞(ちょうしどう)と言った人々で、太平天国で自分の地元の人々を組織して戦った訳ですから当然皆漢人です。
清朝は満州人の政権ですから、基本的には漢人官僚を警戒する処があるのですが、最早そんな事を意識している場合では無くなって来たと云う事ですね。
彼等は、共通して地方長官と為り西洋の科学技術の導入を図りました。太平天国との戦いを通じて、軍事技術を筆頭に中国の科学技術が西洋に比べて大きく遅れをとっていることを強く自覚したようです。
この西洋の科学技術導入運動を洋務運動と言い、洋務運動を進めた官僚を洋務官僚と呼びます。地方長官は大きな裁量権を持っているので、彼等は夫々に鉱山開発や工場建設、鉄道敷設などを行って行きました。
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洋務運動は、中国の文化が世界の最高峰であると云う中華意識を捨てて他の文明を取り入れ様としたと云う点では画期的ではあったのですが、清朝を強化すると云う点では効果は限定的でした。
その理由のひとつは、中華意識の捨て方が中途半端だったこと。洋務官僚の考え方は「中体西用(ちゅうたいせいよう)」と云うものでした。中は中国、西は西洋、詰まり中国の文明が本体であり正しいものであって、西洋の文明の便利な処だけを使うのだと云う事です。科学技術は進んでいるからそこだけは取り入れる、しかし文明そのものは中国の方が優れているのだから、科学技術以外の西洋文明に見習う点は無いと云う事です。
しかし、西洋の科学技術は西洋文明の中から生まれたものです。優れた技術は資本主義経済の競争の中で常に改良を加えられ発展して来たものです。又、西欧列強が戦争に強いのは、只単に武器が優れているからでは無く、国民国家が形成され兵士ひとりひとりが政府の為に戦う意味を自覚しているからです。
法の下に個人の権利が保障されており、国民全員では無いにしろ、国民の意思を繁栄した議会のもとで政治が運営されている。
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洋務官僚達は、こう云う文明全体を考察することは無かった。西欧の政治制度や社会制度については無関心で、清朝に議会を作ろうとか資本家を育成しようとか云う発想は全く無かった。根っこでは無く枝葉だけを真似ようとしたのです。
又、洋務官僚達は自分の管轄地で工場建設などを行いましたが、これ等の企業は国有では無く、地方長官の私物と云うべきものに為って行きます。清朝全体の強化では無く洋務官僚個人の権力強化の傾向が強いものでした。
洋務運動では、軍事工場の建設や西洋式軍隊の育成に重点が置かれたので、西洋式の軍隊を育成した官僚はそのまま軍閥化して行きました。特に李鴻章は北洋軍と云う軍隊を組織し政治的に強大な力を持ちました。後の話ですが、李鴻章の部下で北洋軍を継承した袁世凱(えんせいがい)は、その軍事力を背景に清朝を倒す事に為ります。
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