2018年09月28日
一緒に学ぼう世界史のポイント 100 《太平天国》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 100 《太平天国》
太平天国
【楽しいアクアリウムの世界】
アヘン戦争後の中国
アヘン戦争後、中国南部の民衆の生活が悪化します。原因は大きく二つあります。ひとつは、清朝政府による重税。清朝はアヘン戦争に関わる戦費の調達に賠償金の支払いの為に増税しました。ここが不思議な処ですが、清朝は増税を全国一律で行わない。アヘン戦争に関連した中国南部の地域でだけ増税を行いました。戦争で荒廃している所へ増税だから民衆の負担は更に大きく為りました。
二つめの原因が、通商交易路の変化です。南京条約で上海が開港されると、貿易の中心が広州から上海に移りました。上海は中国の真ん中を流れる長江の下流にあり、又長大な南北海岸線のほぼ中央、まさに広大な中国大陸おへそにあたる場所です。広州は中国最南部で不便な所だから、上海に交易の中心が移るのは当然です。
それまでは、各地の産物を広州に運ぶ為に中国南部の民衆の多くが陸上運送に関わる仕事をしていたのですが、広州の港が廃(すた)れた為に彼等は失業してしまった。そこに増税ですから、踏んだり蹴ったりな訳です。生活基盤が崩れて行くという状況が広がっていました。
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洪秀全
生活困窮し疲弊している中国南部に、新しい宗教が生まれました。この宗教を作った人物が洪秀全(こうしゅうぜん・1813〜64)広西省の客家(ハッカ)出身です。
客家と云うのは、中国南部に広く分布している人々で、普通の中国人とは文化風習や言葉が一寸違う。宋代位に戦乱から逃れて中国北部から移住して来た人々の子孫だと言われています。後から移住して来たので、その多くが人の住んでいない山間部の荒れた土地に住み着きました。その為客家の多くは貧しいです。又、廻りの人々と溶け合わず独自の文化を守り続けた為差別されていました。洪秀全はそう云う客家の人です。
中国では、幾ら貧しくても一発逆転で富と名誉を手に入れる方法があった。それが科挙です。科挙は男子であれば誰でも受ける事が出来る。客家でもOKです。只、超難関試験で誰でも受かる訳では無い。ずば抜けて頭が好くないとダメ。だから中国では、神童と呼ばれる様な賢い男の子が出ると、親戚中でお金を出し合って塾に行かせて科挙の準備をさせる。もし、その子が科挙に合格して官僚に為れば一族全員が間違いなく大金持ちに為れるからです。
洪秀全はまさしくそう云う神童で、親戚皆から期待されて一族の皆が朝から晩まで野良仕事をしている中で、小さい頃から一人勉強だけをさせられた。こう云う勉強は、皆の期待を背負っているから辛いと思う。物凄いプレッシャーだろうね。そう云う勉強を続けた。
幾ら優秀でも簡単に受から無いのが科挙。因みに、洪秀全の住んでいた地域の受験場所は広州でした。一回目の受験は当然失敗。二回目の挑戦が1834年。この時も不合格でしたが、受験会場の傍でキリスト教のパンフレットを貰った。唯一の貿易港広州には既に中国人のキリスト教信者が居て、未来の官僚に布教活動をしていたんだね。このパンフ『勧世良言』と云う題名ですが、家に帰った洪秀全はこれを書棚に放り込んだままで読まなかった。
1837年、三回目の受験をしますがこれも失敗。流石にこれは応えた様で、その後洪秀全は高熱を出して寝込んでしまいました。
高熱で苦しみながら洪秀全は夢を見た。夢の中で竜や虎や牡鶏や多くの人に導かれて光り輝く場所に着きます。そして、案内されるままに大きな宮殿のような建物の中にズンズンと入って行くと、豪華な大広間があって高い所に金色の髭を生やした老人が座っていた。その老人が洪秀全を見て涙を流しながら言う。
「世界中の人間はわしが作り、わしが養っているのに、人間たちは皆わしを忘れて悪霊を崇拝している。悪魔を絶滅し、兄弟姉妹を助けよ」そう言って、一振りの剣を洪秀全に授けた。
変な夢です。それ以外にも夢の中で洪秀全が兄と呼ぶ中年の男がしばしば現れて、一緒に悪霊退治をしたりした。洪秀全は何のことかサッパリ判らない。判らないままにやがて熱も下がり夢も見なくなります。彼は、再び受験勉強を始めた訳ですが、夢のことはズッと覚えて居た。
1843年の四回目の受験です。アヘン戦争直後の広州での受験だから、色々な事を感じたと思う。結果は又もや不合格。ガックリして家に帰った洪秀全は、過つて書棚に放り込んだままだった『勧世良言』を、ふと手にとって読み始めた。そうしたらビックリしました。過つて見た不思議な夢が今読んでいるキリスト教のパンフレットで解釈出来ると彼は思ったんだ。
詰まり、夢に出て来た老人は神。兄と云うのはイエス=キリスト。そして、自分は神の子でイエスの弟だったのだ。人々が信じている邪教と云うのは儒教のことだ。孔子廟とか様々な偶像を造って拝んでいる。この偶像こそが老人が言っていた妖魔に違いない。こんな具合に、キリスト教の教えをドンドン自分に引き着けて解釈して行きました。
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こうして、自分が神の子でイエスの弟の救世主と確信した洪秀全は、科挙の勉強を放棄し宗教結社「拝上帝会」を興しました。上帝とはヤハウェ神のことです。
布教活動を始めると、最初は幼馴染みの受験仲間などが信者に為り、1847年頃からは広西省の紫荊山区と云う山間の貧しい地域で、客家・貧民・少数民族中心に信者が増え始めました。拝上帝会はキリスト教の影響を強く受けているので、神の前の平等を説きます。これが、アヘン戦争後急速に生活が悪化した人々、その中でも差別に苦しむ人々の気持ちを掴んだのでした。
又、拝上帝会は偶像崇拝を否定しました。だけど中国は偶像崇拝の国です。儒教でも仏教でも偶像を造って拝むのは当たり前。でも、洪秀全たちはそれを悪だと教えるのですから、一般の中国人と馴染む筈がない。拝上帝会は実際に行動します。村の廟に祭られている孔子様の像や関帝廟やそう云う様々な信仰の対象と為って居る像を壊します。やがて、土地の有力者から睨まれ、政府の役人から迫害される様になりました。こうして、遂に洪秀全は地上に天国を打ち立てる為挙兵を決意しました。
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太平天国
1851年、洪秀全は広西省金田村で挙兵しました。反乱の名前は太平天国。挙兵した時の拝上帝会会員は1万から2万だったと言います。老若男女を含む大集団は、清軍と戦いながら北上を開始しました。
太平天国軍は信仰の下(もと)に団結し、規律がキッチリと守られ、腐敗した清の正規軍よりも強かった。拝上帝会に入会し反乱に参加した信者は全員全ての財産を拝上帝会に寄進します。だから、負けたら何も無くなるから勝つしか無いです。又、信仰心で自分達の正義を信じているから強い。
軍隊と言っても貧民の集まりですが、男女を分けて軍隊を組織して夫婦と言えども別々に行動しました。博奕(ばくち)やアヘンは絶対禁止。略奪も勿論ダメ。必要な食糧や物資は支給されました。
戦闘に勝って、何処かの町を占領すると、役所の倉庫や地主や商人等の金持ちから、食糧・物資・財産を没収し太平天国軍共同金庫で保管します。信者への配給品はそこから配られます。又没収した食糧などは、占領地の貧民にも配られたから貧民の多い一般民衆は太平天国軍が遣って来るのを待ちわびています。
占領地に対して3年間の租税免除も宣伝したから、太平天国への支持は急拡大しました。略奪暴行遣りたい放題の清朝正規軍は民衆の支持が全く無いから、清軍が負けるのは当然です。
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太平天国軍は清朝正規軍を破り、占領地を拡大しながら北上を続け、1853年に南京を占領しここを首都にして天京と改名しました。
拝上帝会の会員数は100万に達しました。この段階で中国南部の広大な地域を勢力下に置いており、清という国の中に太平天国と云う国が出来ているという状態です。とは言っても、マダマダ反乱勢力であって一人前の国では無い。洪秀全達太平天国の指導者は、清朝打倒を目指し北伐軍を北京に出撃させましたが、これは負けてしまって清朝を滅ぼすと云う目標は遠のきました。以後は、支配地域を維持しようとする太平天国側と、これを潰そうとする清朝との戦いが約10年間続きます。
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太平天国の政策
太平天国は、どんな政策を唱えていたか。先ずは清朝打倒です。「滅満興漢(満州人を滅ぼし漢人の国を興す)」が反乱のスローガンでした。太平天国軍の男達は、清朝が漢民族に強制していた弁髪を辞めて髪を伸ばしました。弁髪を辞めると云う事自体が清朝を否定する反逆行為だったのです。
だから、彼等のヘアースタイルを見ればその主張は誰にでも直ぐわかったのです。この為太平天国は「長髪賊の乱」とも呼ばれました。太平天国を満州族支配の清朝に対する漢民族の民族運動と捉えることも出来ます。
また、土地制度として「天朝田畝制度」を掲げました。地主の大土地所有を否定して土地を農民に均等に配分する政策です。但し、戦いに明け暮れた太平天国なので、実際に土地均分が実施されたかどうかは判って居ません。
後特徴的なのは、中国史上初めて男女平等を主張したことです。中国は男尊女卑の国だからこれは画期的なことです。
纏足(てんそく)
男女平等に関連して、太平天国は纏足を禁止しました。纏足(てんそく)は10世紀の宋の時代から始まった風習です。女の子が4・5歳に為る頃から足を布でガチガチに巻いてギブスの様に固めて、足が大きく為らない様にするのです。
成長期に固められている為、これを遣られた女の子は凄く痛い。しかし、小さい足が美人の基準だったので親は宥めすかして子供に我慢をさせたそうです。成長と共に、足の先が内側に折れ曲がって畸形になる。大地を確り踏みしめられ無いので、立ち上がると不安定で歩くとフラフラする。極端に小さな足の女性は、何かに捕まって伝い歩きをし無ければ為らない程だったらしい。
ヨチヨチ歩く女性の姿と小さい足が男性に取って魅力的だったのです。要するに、男が女性を愛玩物のように扱っていたと云う事です。或る意味、奇妙な姿に変形させる金魚並みです。この纏足を太平天国は禁止したのです。
洪秀全達太平天国の指導者の多くは客家出身でしたが、実は客家には纏足の風習はありませんでした。又、女の子に纏足をしてしまうと歩くことさえままなら無いのですから労働力に為らない。だから、貧しい農家などでは纏足をしていなかったと言います。
実際には、太平天国に参加していた女性には纏足の女性は少なかったかも知れません。これを、太平天国は正式に纏足じゃ無くて良いのだ、と宣言したと云う事でしょう。太平天国軍では、女性も武器の運搬などで戦場で男と同様に活躍しました。更に、これは触れましたが、アヘンと賭博は禁止でした。
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太平天国の経過
南京占領までは破竹の勢いの太平天国軍でしたが、南京を首都にして以来変に落ち着いてしまった。洪秀全は皇帝にあたる天王と云う地位に着き、その他の幹部も北王、南王、東王、西王、翼王と云う王号を唱え、夫々が南京に豪華な宮殿を造り始めました。
南京と言えば明の初期には首都にも為った中国屈指の大都会です。中国南方の辺境のしかも貧しい客家出身の洪秀全達は、大都会の魅力にあてられ膨大な富を手に入れ、反乱を始めた頃の切羽詰まった緊張感を失ってしまったようです。
一部の軍隊を北伐軍として北京攻略に派遣しましたが、これは失敗に終わっています。もし、南京に落ち着いたりせずに太平軍全軍で北京に攻め込んで居れば本当に清朝を滅ぼす事が出来たかも知れませんが、その機会を逃してしまったのです。
太平軍の幹部は、自分の富を増やし権力をより強くすることに集中し出して、互いに仲間割れをし出します。最高指導者の洪秀全は、宮殿の奥深くに美女達と籠ってしまってナカナカ皆の前に現れ無くなってしまいます。滅多に顔を見せないことによって、自分を神秘化すると云う作戦でもあったようです。
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諸王の中で最も力を持っていたのが東王楊秀清(ようしゅうせい)で、天京(南京)を首都としての国家体制造りの中心と為って居ました。東王は戦争指導も上手かったのですが、何と言っても面白いのが神が彼に取り付いてお告げをすると云う事です。
東王が自分でそう言っているだけなのですが、誰にも否定出来ないので、彼がお告げを始めると皆がその命令に従わ無ければ為らない。天王洪秀全も神の命令には逆らえ無いと云う事で、東王楊秀清は、洪秀全と並ぶ高い権威をもって太平天国を指導しました。
東王の勢力がドンドン大きく為るのに反感を持ったのが北王だった韋昌輝(いしょうき)で、彼は自分の部隊を率いて東王の宮殿を襲撃し東王を殺害してしまいました。東王の一族やその部隊も皆殺しです。
こうして北王が権力を握ったのですが、次には北王が翼王石達開(せきたつかい)に殺されました。これら一連の事件は1856年に起きました。この内紛で3万人以上が殺されています。
やがて、翼王石達開はこの様な権力闘争に嫌気が指して、自分の部隊を率いて四川省方面に移動し独自の行動を取る様に為りました。代わって、天京で洪秀全と太平天国政府を支えたのは、若い世代のリーダーで忠王と云う王号を持つ李秀成(りしゅうせい)等でした。太平天国の末期は、殆ど李秀成ひとりが支えている感じです。洪秀全は、宮殿に籠ったままで殆ど何もしなく為っていました。
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太平天国を追いつめた義勇軍
太平天国内部では抗争で弱体化が始まっているものの、清朝正規軍はそれよりも弱い。そこで、清朝政府は全国にいる引退した元官僚や服喪等で帰郷している現役官僚に対して、地元で義勇軍を結成して太平軍と戦う様に呼びかけました。
義勇軍のことを郷勇と言います。大体、官僚に為る人物は裕福な地主出身で、郷土に帰れば地元では名前が轟(とどろ)いている地域のリーダーです。彼等が中心に為れば義勇軍は直ぐに出来る。又、戦乱に巻きこまれれば郷土が荒廃するし自分達の財産も奪われてしまうのですから、義勇軍は必死に戦います。正規軍に替わってこの義勇軍が太平天国と戦いました。
曾国藩 画像
義勇軍の中で、取り分け強力だったのが、今で言えば文部大臣に当たる礼部侍郎(れいぶじろう)だった曾国藩(そうこくはん)が郷里の湖南省で結成した湘軍(しょうぐん)です。湘と云うのは湖南地方の雅名です。
曾国藩は、清朝軍が内部の腐敗で弱体化して居る事を知り尽くしていたので、自分が組織する義勇軍の将校は、腐敗や堕落と縁の無い信頼出来る人物だけで固めようとしました。その為にどうしたかというと、学問上の弟子や同学の友人ばかりを集めた。
科挙に合格して中央の大臣にまで為る様な人物は、学者としても一門の人物である場合が多く、曾国藩はまさしく大学者だったので、地元には同門の者や弟子が沢山いる訳です。学問上の信頼関係と云うのは結構強い絆です。将校になる連中も矢張り皆地主です。で、自分達の土地で働く信頼出来る素朴な農民を兵士にしました。
湘軍は、規律ある軍隊と為り、太平天国軍を圧迫して行きました。又、曾国藩の弟子である李鴻章(りこうしょう)も安徽省で同じ様に淮軍(わいぐん)を組織しました。
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欧米列強は、太平天国の反乱が始まった当初は、太平天国がキリスト教を標榜して居る事もあり割りと好意的に中立を守っていました。しかし、内乱を逃れて多くの難民が上海に集まるなどして、やがて内乱が対中国貿易にはマイナスと判断します。
1860年に貿易に有利な北京条約を清朝政府と結んだ後は、積極的に清朝支援を打ち出しました。米国人ウォードは、中国人を集めて義勇軍「常勝軍」を結成し、彼の死後はイギリス軍人ゴードンがこれを引き継ぎ太平天国軍と戦いました。
因みに、このゴードンは、太平天国で活躍した後、エジプトのスーダンで起きたマフディーの乱と呼ばれる現地住民の反英闘争の鎮圧におもむき戦死しています。
これらの義勇軍によって太平天国は徐々に支配地域を奪われ、1864年には南京が陥落し太平天国は滅亡しました。最後まで神の奇蹟による逆転勝利を信じていた洪秀全はその直前に病死して居ました。忠王李秀成は捕虜と為り処刑されました。翼王石達開はその後も暫く単独で戦い続けましたが、これもやがて鎮圧されました。
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太平天国の意義
太平天国の反乱は、清朝政府の弱体振りを明らかにしました。イギリス軍に弱いだけでは無かったと云う事です。又、太平天国が「滅満興漢」のスローガンを掲げ、民族運動的な性格を持ったことは中国革命の先駆けとして位置付けることが出来ます。
事実、後に辛亥革命のリーダーとして清朝を倒した孫文は、少年時代に洪秀全を知る太平天国軍の生き残りの老人の話を聞いて、スッカリ影響を受けて友人から洪秀全と云う仇名を着けられていたと云います。又、中国共産党の軍隊である紅軍の司令官と為った朱徳(しゅとく)も、少年時代に翼王石達開の部下だった機織り職人の話を聞き、革命に強い憧れを持ちました。脈々と革命の志が受け継がれているのが判ります。
幕末日本にも影響がありました。長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)は「英仏が未だ日本に武力を加え無いのは太平軍が英仏と戦っているからだ」と云う事を言っています。この認識が正しいかどうかは別にして、中国の次は日本が英仏の侵略の標的に為ると云う危機感が感じられます。
太平軍が時間を稼いで呉れている間に、日本を変え無ければならないと云う事ですね。この意識が、幕府を倒す強烈な原動力に為ります。一方、郷勇を組織し、太平天国を鎮圧するのに活躍した官僚達は、乱後の清朝の政界で大きな影響力を持ち清朝の改革が始まります。
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