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2018年09月25日

一緒に学ぼう世界史のポイント 97 《東南アジアの動向》


 世界史講義録より
  
 一緒に学ぼう世界史のポイント 97 《東南アジアの動向》



 東南アジアの動向

 
 楽しいアクアリウムの世界


 


 東南アジア地域の概観 

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 ヨーロッパ列強による東南アジアへの進出についての話です。時代は19世紀以降。東南アジアに付いては苦手の人が多いので、どんな地域なのかザッと見て置きましょう。

 東南アジアは島嶼(とうしょ)部(=大小様々な島からなる部分)と大陸部に分かれます。現在、島嶼部の大部分ははインドネシアに属しています。大陸部は、西からミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナム。マレー半島にはマレーシア、その先端の島がシンガポールですね。マレー半島を除く大陸部の国は川と結びつけて覚えて欲しい。
 ミャンマーはイラワディ川 タイはチャオプラヤ川 カンボジアとラオスはメコン川 ヴェトナムはホン川。夫々の国はこれ等の大河流域に生まれました。これ等の大河の多くは中国の雲南地方に源があります。

 そして大河に沿って、中国雲南地方から南下して来る民族移動の流れがあります。例えば、タイの主要民族はタイ人ですが中国雲南地方にもタイ族が居て、このタイ族の一部が長い時間を掛けて南下して出来た国がタイです。
 又、ヴェトナムは現在は南北に細長い国ですが、元々北部のホン川流域に居たヴェトナム人が徐々に南に領土を広げて現在の領域に為ったので、過つては南部にはチャム人の国がありました。

 東南アジアの歴史に最初に登場するのは「港市国家」と呼ばれる国々です。インド人等の貿易船が立ち寄る港を支配する現地の首長が、港湾施設や市場を整備してこれが発展して生まれた国家です。
 熱帯雨林の海岸線や河川流域に港市国家が点々とあって、その国の王様の権力が及ぶ範囲がその国の領土。その時々のよって国の勢力範囲は伸びたり縮んだりします。現在の地図を見ると、初めから大きな領土を持った国があった様に思い勝ちですがそうでは無い。港市国家と港市国家の間には、誰も住ま無いジャングルが拡がっていると云うのが17世紀位までの東南アジアのイメージです。以上の様なことを頭に置いて具体的に見て行きましょう。

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 ミャンマー

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 イラワディ川流域に最初に登場する国はピューと云う。建てた民族はピュー人で8世紀から11世紀位まで続きました。
 この国を滅ぼしたのがパガン朝 イラワディ川中流のパガンを都にして栄えます。ミャンマー最初の統一王朝とされます。民族はミャンマー人でスリランカから上座部仏教を導入しました。雲南地方とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄しましたが、元の侵入が原因で1287年に滅びました。

    9-28-1.jpg パガン

 13世紀から16世紀に掛けてイラワディ川下流地域にはモン人ペグー王国がありました。モン人はチャオプラヤ川下流でも7〜8世紀にドヴァーラヴァティーと云う国を作って居ます。
 ドヴァーラヴァティー港市国家連合だった。モン人はペグー王国を滅ぼして出来たのがトゥングー朝(1531〜1752)。ミャンマー人とモン人の連合国家でした。パガン朝に続くミャンマー二度目の統一王朝で、一時はタイのアユタヤを支配したこともあります。

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 トゥングー朝がモン人の反乱の為滅亡した後、ミャンマー人が建国したのがコンバウン朝(1752〜1885)。清朝支配下の雲南地方に侵入したり(1765)タイのアユタヤ朝を滅ぼしたり(1767)と軍事的には活発です。
 1822年にはインドのアッサム地方を征服しますが、これが切っ掛けとなりその2年後1824年にはイギリスとの第一次イギリス・ビルマ戦争が始まりました。イギリス・ビルマ戦争は、1852年の第二次・1885年の第三次と断続的に続き1885年にコウバウン朝は滅ぼされ、ミャンマーはインド帝国に編入されました。

 

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 ヴェトナム

 ヴェトナムの歴史は大きく北と南に分かれ、北には中国の影響を受けながらヴェトナム人国家が、南部にはチャム人の国家が形成されて来ました。
 先ず、南部にあったチャム人の国家チャンパー。2世紀頃に成立し、15世紀後半にヴェトナムの黎朝に滅ぼされました。南シナ海貿易で繁栄し、中国の歴史書には林邑(りんゆう)とか占城(せんじょう)と云う表記で登場します。文化的にはインド文化の影響を大きく受けています。東南アジア地域は、北部ヴェトナムを除いてインド文化の影響が強いですね。チャンパーは黎朝に滅ぼされましたが、チャム人は少数民族として現在もヴェトナム南部に住んでいます。

 北部は、東南アジアで唯一中国文明の影響を強く受けました。前214年、秦の始皇帝によって現在の広西省や広東省からヴェトナム北部に掛けて南海郡に象郡など3郡が設置されました。秦が衰えると、南海郡の漢人が自立して南越国が成立しましたが、漢の武帝はこれを滅ぼし、前111年にヴェトナム北部に交趾(こうし)郡や日南郡など3郡を設置しました。

    9-29-8.jpg チュンチャクとチュンニ姉妹のお祭り

 この後、唐が滅ぶ10世紀前半まで、中国の王朝が変わってもヴェトナム北部は中国の支配下でした。その中でA.D.40年のチュンチャクとチュンニ姉妹の反乱は、ヴェトナムの独立反乱として有名。独立は出来ませんでしたが、指導者のチュンシャクとチュンニの姉妹は、現在ヴェトナムでは民族的英雄です。

    9-29-9.jpg チュンチャクとチュンニ姉妹の反乱 

 10世紀になると中国から独立し11世紀にはヴェトナム北部を統一する王朝が成立しました。最初に成立したのが李朝(1010〜1225)。王朝名も人名も中国文化の影響を受けて漢字で表記します。李朝は治水によってホン川デルタを開発した。
 次が陳朝(1225〜1400)。この時代に、漢字をもとにヴェトナム独自の文字であるチュノムを作りました。又、北方からの元の侵入を撃退し、南ではチャンパーを圧迫し領土を南に伸ばしました。これには、南シナ海貿易に参入しようと云う意図があったようです。

 陳朝が衰えた後、1407年から1427年に掛けてヴェトナムは再び中国明朝の支配下に入りますが、1428年の黎(れい)朝(1428〜1789)が成立し独立を回復しました。
 黎朝は中国風の国家建設を行い、儒教を柱に律令を整備し科挙を実施しました。1471年には南にあったチャンパーを滅ぼしています。しかし、16世紀には内乱で衰え、黎朝の王は名目だけの存在と為り、北部は鄭氏南部は阮氏という武人が実権を握りました。阮氏政権は領土を更に南に拡大し、カンボジア領だったメコンデルタ地帯までを支配下に入れました。

 又、この頃にはオランダ・ポルトガル・フランス等の商人や宣教師がヴェトナムに遣って来る様に為って居ます。因みに日本は戦国時代で南蛮貿易が活発に行われていた時ですね。この鄭氏阮氏を倒し黎朝を滅ぼしてヴェトナムを再統一し、ほぼ現在と同じ領域を支配したのが西山(タイソン)朝(1778〜1802)です。
 西山(タイソン)党と云う山岳地帯から起こった反乱軍が建てた王朝です。反乱軍のリーダーが阮氏三兄弟。阮氏政権の阮氏とは全く関係無いからヤヤコシイです。

     9-29-10.jpg 阮氏三兄弟

 そして、1802年にこの西山朝を倒して成立したヴェトナム最後の王朝が阮朝。又ですヤヤコシイです。この阮朝を建てたのは、阮福映と云う人で、これは西山朝に倒された阮氏政権の関係者。

    9-29-11.jpg 阮福映

 阮福映は、阮氏政権崩壊後タイ王国に亡命しタイ国王やフランス人宣教師ピニョーと云う人物の援助を受けてヴェトナムで政権を奪還したのでした。ピニョーは亡命中の阮福映と出会い、彼を援助することで東南アジアにキリスト教王国を建設しようと考えました。

     9-29-12.jpg 阮福景


 ピニョーは、未だ4歳だった阮福映の息子を連れてフランスに帰国し国王ルイ16世と会って、ヴェトナムからの領土割譲と引き替えに軍事援助の約束を取り付けました。フランス革命の僅か2年前の1787年のことです。この後、ピニョーはヴェトナムに戻るのですが、フランスのインド総督と対立し実勢にはフランス軍の援助は得られませんでした。そこでピニョーは独力で義勇軍を編成し阮福映に協力しました。(但し、ピニョーは、阮朝成立直前に死んでいます)

     9-29-13.jpg ピニョー・ド・ベーヌ

 フランス人ピニョーの協力によって阮福映が阮朝を建てたと云うのは教科書には必ず出て来ます。処が、阮朝は、建国後直ぐに中国清朝を宗主国として西洋諸国に対しては事実上の鎖国体制を採った。中国を中心とする伝統的な東アジアの国際秩序に納まってしまう訳です。
 フランスの援助を得ていながらどうしてそう云う事が可能だったのか。高校時代この処を習った時に疑問に思ったのを覚えていますが、ピニョーの援助=フランス政府の援助では無かったのです。ピニョーも建国時には死んでしまっているし、阮福映としてはフランスに義理立てする必要は全然無かった訳です。
 因みに、阮朝に対して清朝は越南国と云う名前を与えました。この越南と云うのは中国の南にある国と云う意味で、ヴェトナムと云う国号はここから生まれました。それ以前は、矢張り中国王朝が付けた大越と云う名で呼ばれていました。

 この阮朝が成立して約60年後、フランスではナポレオン3世の時代に為り、彼は積極的に海外で軍事行動を行うのですが、その標的と為ったのがヴェトナムでした。阮朝ではキリスト教を禁じていたにも関わらず、密入国したフランス人宣教師の活動が途絶えることがありませんでした。阮朝政府は、しばしば宣教師を弾圧処刑していたのですが、これがナポレオン3世の出兵の口実と為りました。
 1858年にフランス軍が中部の港町ダナンに上陸して侵略は始まりました。阮朝は、成立当初から国内各地で反乱が絶えず軍事的には弱体でした。従って、フランス軍を撃退する事が出来ず、1862年にはサイゴン条約を結び、ヴェトナムの南東部をフランスに割譲しました。

 フランスは、次にメコン川をさかのぼり中国南部との通商路を開こうと考え、1863年にはメコン上流にあるカンボジアを保護国化します。只、メコン川探検の結果、途中に滝とかの障害が多く中国に到達することは不可能だと判ります。それ為らば、ホン川から為らば中国へ行けるのではないかと云うことに為り、次は北部ヴェトナムを得る為に阮朝への侵略戦争は続きました。

      9-29-14.jpg 劉永福

 この時、劉永福と云う人物が率いる中国人義勇軍「黒旗軍」が、ヴェトナム政府の為にフランス軍と闘っています。有名ですので覚えて置いてください。
 この少し前、中国では太平天国の乱と云う大反乱が起きます。劉永福達はこの反乱軍の一部隊で、反乱が鎮圧された後ヴェトナムに逃れて来ていたのです。劉永福は、更にこの後台湾に渡り日本軍とも闘っています。国境を越えて、帝国主義国の侵略に抵抗した象徴的な人物として取り上げられて居る様です。

 

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 結局、阮朝はフランス軍に破れ、1883年のユエ条約でヴェトナム全土がフランスの保護国と為ってしまいました。清朝は、ヴェトナムの宗主国でした。近代的な支配従属関係では無いけれど、清朝は阮朝の保護者的立場に立っている。
 宗主国とは、本家と分家で言えば本家、本社と支社で言えば本社みたいなものです。清朝はヴェトナムがフランスの保護国に為ったのを黙って見過ごす訳にはいかない。そこで起こったのが清仏戦争(1884〜85)。結局清朝が負けて1885年の天津条約で、ヴェトナムに対する宗主権を放棄しフランスの保護権を承認しました。
 1887年フランスは、ヴェトナムとカンボジアを併せてインドシナ連邦としました。1899年にはラオスもインドシナ連邦に編入されました。第二次大戦中の日本占領下の一時期を除き1945年までフランスはこの地域を植民地としたのでした。

 

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 カンボジア

 カンボジアの主要民族はクメール人と言います。クメール人の国家として最初に登場するのが扶南国(ふなんこく、1〜7世紀)。メコン川の下流にありました。この国にオケオと云う港があって、その遺跡からはローマの金貨が出土します。インド方面と活発な商業活動をして居たことが判ります。
 6世紀になるとメコン川中流域で、扶南国の属国だった真臘(しんろう)が独立し領土を拡大します。これも民族はクメール人。中国の歴史書に出て来る国名で表記しているので中国っポイ感じがしてしまいますが、文化はインド系でヒンドゥー教を取り入れていました。7世紀には扶南国を滅ぼし領土を拡大しますが8世紀には分裂します。

    9-29-16.png 仏教寺院遺跡アンコール=ワット

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 9世紀に再統一されますが、そこからは真臘とは呼ばずクメール王国とかアンコール朝と呼びます。有名な仏教寺院遺跡アンコール=ワットや首都アンコール=トムはこの時に建設されたものです。大規模灌漑工事による農業開発も行い12世紀前半に最盛期を迎えました。
 しかし、13世紀前半に西北のタイ人が独立しスコータイ朝を建国すると徐々に衰え、14世紀になるとタイのアユタヤ朝に何度か首都アンコールを占領されます。1432年にアユタヤ朝に侵略された時には、遂にアンコールを放棄し首都をプノンペンに移しました。
 それ以後は衰退の一途を辿り、タイやヴェトナムに圧迫され、両国に朝貢して二つの国の属国のようになってしまいました。やがて、ヴェトナムがフランスの勢力下に入ると、カンボジアにはタイの属国に為るかフランスの保護国に為るかと云う選択肢しか無くなり、1863年にはフランスの保護国に為ってしまったと云う訳です。

 

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 タイ

   9-29-22.gif スコータイ朝
  
 タイは、中国雲南地方から南下して来たタイ人が国家を形成します。最初の国がスコータイ朝(13〜15世紀)。真臘に従属していたタイ人達が自立した国です。
 スコータイ朝が衰えた後に成立したのがアユタヤ朝(14世紀〜1767)チャオプラヤ川中流に建国されました。国王が貿易を独占管理して、西欧諸国や中国とも積極的に外交・通商を行いました。外国人達は、アユタヤの王を商人王と呼んでいて、この国も港市国家と考える研究者もいます。アユタヤ朝はミャンマーのコウバウン朝に滅ぼされました。

 次に成立したのがバンコク朝(別名ラタナコーシン朝、チャクリ朝)(1782〜)。現在まで続く王朝です。首都がバンコクなので一般的にはバンコク朝と呼びます。
 バンコクは18世紀末で人口約40万。その半数は中国人で、タイ人は三割に過ぎなかったと云う記録があります。この時期の中国は人口が爆発的に増加していて溢れる様に中国人が華僑(華人)として、ドンドン東南アジアに移住して居る様子がわかって面白いです。彼ら華僑の多くは王の保護の下で貿易に従事していたと思われます。

      9-29-15.jpg ラーマ4世
 
 バンコク朝の貿易は国王に独占されて居り、西欧の商人の貿易は制限して居ましたが、1855年にイギリスとの間にボウリング条約を結んで開国をしました。これは、治外法権を認める不平等条約でした。この時の国王がラーマ4世(モンクット王ともいう)。
 タイは、元々米の輸出国でしたが、この条約を結んだ後、イギリスの要求に応えて米の輸出を増やす為、未開拓だったチャオプラヤ川のデルタ地帯の開発が始まりました。開国後の50年で50万ヘクタール近くが水田となり、輸出量は1857年の5万9千トンから1907年には89万トンに激増、更にこの後も増え続けました。
 何が言いたいかと云うと、西欧列強が中心と為る世界経済の中で、米の生産輸出国として位置づけられたと云う事です。タイから見れば、植民地にされ無い様世界情勢の変化に必死に対応して行ったと云う事です。
 
 ラーマ4世は、自分自身が英語を学ぶなど積極的に西欧の諸制度を研究し、王子の教育にはイギリス人女性を家庭教師に雇いました。この家庭教師の話が『王様とわたし』と云う有名なミュージカルのモデルに為っていて有名です。
 次の王ラーマ5世(チュラロンコン王)は、日本の明治時代と殆ど重なります。タイ政府の近代化を進めてタイの独立を守りました。中央集権化も進み、地方長官を派遣して辺境地域の領土を確定するのもこの時代です。

 

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 インドネシア

 東南アジアの島嶼部でオランダの植民地と為った部分が現在インドネシアと云う国として独立していますが、オランダに支配されるまでは様々な国がありました。ゴチャゴチャしていて流れが系統だってもいないので非常に覚え難い。
 好く出て来るのが、スマトラ島を中心とするシュリーヴィジャヤ(7〜14世紀)。マラッカ海峡を押さえる場所にあり貿易船のルートとなり繁栄しました。インドまで海路で旅した唐の僧義浄(ぎじょう)が書いた『南海寄帰内法伝』に登場して有名。

    9-29-17.jpg 世界最大級の仏教寺院ボロブドゥ−ル

 ジャワ島ではシャイレーンドラ朝(8世紀)。有名な石造りの仏教寺院の遺跡ボロブドゥールを残した国です。
 ジャワ島ではもうひとつシンガサリ朝(1222〜92)。この国は元の侵入を撃退したと云う事で教科書に登場します。
 ジャワ島の三つ目がマジャパヒト王国(1293〜1520?)。スマトラ島のシュリーヴィジャヤを圧倒し東南アジア交易を支配した。それから、島嶼部最後のヒンドゥー教の国と云う事でも大事です。マジャパヒト王国以後は島嶼部にはイスラーム国家が成立して行きます

 16世紀以降になると、この地域にポルトガルにやがてオランダが来航します。オランダは1623年のアンボイナ事件でイギリス勢力を追い払いインドネシアでの貿易を独占しました。
 しかし、17世紀以降は過剰供給でヨーロッパでのコショウ価格が暴落し香辛料貿易中心の商業活動だけでは儲から無くなって来た。そこでオランダはジャワ島を中心に、ヨーロッパで高く売れる商品作物の栽培を行う様になった。その為に行ったのが強制栽培制度です。
 1830年以降オランダは、コーヒーやサトウキビに藍などの商品作物の栽培をインドネシアの農民に強制したのです。耕地の5分の1に強制が行われ、その結果食糧生産が少なく為ります。オランダは莫大な利益を得ましたが、1845年からの凶作では多数の死者が出ました。1904年、オランダはインドネシア全域を占領し、植民地オランダ領東インドが成立しました。

 

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 マレー半島

   9-29-18.gif マラッカ王国/マラッカ

    9-29-19.jpg イスラム教を国教に採択

 マレー半島には14世紀にマラッカ王国が成立します。これが東南アジア最初のイスラーム国家です。これ以後小さなイスラーム国家が半島に多数成立して行きました。
 マレー半島は、マラッカ海峡に面する海上交通の要所なので、マラッカ王国は貿易港として繁栄しますが、1511年ポルトガルによって占領されました。その後、1641年にはオランダがポルトガルから奪い、1795年にはイギリスが更にオランダから奪いました。
 イギリスは1786年にペナン島1819年にはシンガポールを獲得し、マラッカと併せて1867年に海峡植民地としました。1895年には、更に領土を拡大してマレー連合州としました。現在のマレーシアに当たります。
 イギリスは、マレー半島で錫鉱山の開発を行い、労働力不足を補う為に中国人やインド人の移民が多数集められました。その為、原住民であるマレー人とインド系に中国系など様々な民族が混住する複合社会が形成されました。

 

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