2018年09月25日
一緒に学ぼう世界史のポイント 96 《イギリスのインド支配》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 96 《イギリスのインド支配》
楽しいアクアリウムの世界
今回はマウンテンバイク特集!!
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イギリスのインド支配
インドの政治状況
アウラングゼーブ
インドは16世紀以降、ムガル帝国が支配して居ましたが、第6代皇帝アウラングゼブ(位1658〜1707)の死後から衰退して行きました。各地で在地勢力が自立して行きます。代表的なものがインド中部のデカン高原を中心とするマラータ同盟、インド北部パンジャーブ地方のシク教国です。
マラータ同盟はマラータ族の諸侯連合でヒンドゥー教の国。シク教国は、その名の通りシク教と云う宗教によって建てられた国です。
グル・ナーナク
シク教は16世紀前半にナーナクと云う人物が始めた宗教でイスラム教とヒンドゥー教を融合したものです。シク教徒の男性は長く伸ばした頭髪をターバンで包んで居て名前の最後に必ずシング(シン)と着けるのが特徴で、現在でもそれは変わりません。
シク教徒は勇猛果敢で知られていて、昔、プロレスラーにタイガー・ジェット・シンと云う人が居ました。アントニオ猪木と死闘を繰り返したんですが。彼が本物のシク教徒かどうかは知りませんが、勇猛なシク教徒と云う事を売りにしていたんですね。マア、日本では、シク教徒のことを殆どの人が知らなかったと思いますけど。
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イギリス東インド会社によるインド征服
丁度ムガル帝国が衰退して行くのと入れ替わるようにして、イギリスがインドに登場します。イギリスは17世紀以降マドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を建設し、ここを拠点として貿易を本格化させます。商館と言っていますが実際には要塞の様なもので、商売をするだけで無く地元の権力者との交渉や戦いによって土地も獲得して行きました。
フランスも17世紀後半には同様に商館を建設しました。フランスが拠点にしたのはシャンデルナゴルとポンディシェリで、シャンデルナゴルはベンガル地方にあってカルカッタに近い。ポンディシェリも南インドでマドラスに比較的近い。当然、イギリスとフランスは競合することに為ります。
カーナティック戦争
一時はフランスがイギリスを圧倒した時期もあったのですが、18世紀の半ばに南インドでイギリスとフランスが戦ったカーナティック戦争で、イギリスが勝利してからは南インドでフランス勢力は衰退します。そして、ベンガル地方でイギリスとフランスが戦ったのが有名な1757年のプラッシーの戦いです。
プラッシーの戦い
イギリス軍の兵力は約3000。但し、この内イギリス兵は950名ほどです。後の2000名は何か?イギリスが現地で雇った傭兵のインド人の兵士です。対するフランス軍はと云うと、フランス兵は僅か50名。しかし、フランスは現地の支配者であるベンガル太守と同盟を結んでおり、このベンガル太守軍の兵力約6800です。
イギリス対フランスの戦争と言いながら、戦いの中心と為って居るのはインド人同士と云う処が特徴的です。又、イギリス兵とフランス兵の少なさは意外ですね。私達は英仏は物凄く強く何でも思うがままに出来たと云うイメージを持ち勝ちですが、ヨーロッパからインドまで兵士を派遣するのはイギリスもフランスも大変な負担だったのです。
ロバート・クライヴ
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話を戦いに戻すと、イギリス側3000対フランス側6800ですからフランス側が圧倒的に有利です。処が、この戦いでイギリスが勝利します。その立役者として活躍したのがイギリス東インド会社のクライブです。
説明が遅れましたが、イギリスの活動主体はイギリス政府では無くてイギリス東インド会社です。イギリス、イギリスと言って居ますがイギリス政府が指揮して居るのでは無い、実体はイギリス東インド会社ですから注意してください。
で、そのクライブはベンガル太守軍の将軍に買収工作をした。太守を裏切りイギリス側に寝返ったら、戦後ベンガル太守の地位に着けると約束をしたのです。将軍は買収に応じました。戦いが始まるとこの将軍、ベンガル太守の命令を無視し軍を動かさ無い。結局この裏切りの結果イギリスが勝利することに為ったのです。この買収工作でクライブはイギリス本国で一躍英雄と為りました。
この戦闘が結果としてインドの運命を変える事に為りました。イギリス東インド会社は、この後フランス勢力をインドから一掃しただけでは無く新しいベンガル太守を傀儡(かいらい)としました。
1765年にはイギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得しました。貿易会社が他国の一地方の税金を徴収するのです。もう貿易会社と言うより統治機関と言って好いでしょう。事実上ベンガル地方を支配する様に為ったと云う事です。ベンガル地方と云うのは現在のバングラデシュです。これ以後、インドはイギリス産業の原料供給地兼製品市場とされて行きました。
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イギリス東インド会社はインドから木綿を買い付けイギリス本国に輸出します。折からの産業革命で発展しつつある綿織物工業の原材料です。そして、イギリスの機械制大工場で生産された綿織物が今度はインドに輸出されます。
インドは世界有数の綿織物生産国でしたが、手工業だったのでイギリスから輸出される大量生産で安価な綿織物に対抗出来ません。この結果、インドの綿織物工業は大打撃を受けました。「世界に冠たる織物の町」と言われたダッカの人口は僅かの内に15万から3万に激減しました。
インド総督ベンティングは、1834年にイギリス本国に送った年次報告に「世界経済史上、この様な惨状に比すべきものは殆ど見い出せ無い。職工達の骨がインドの平原を白色に化している」と書いた程です。
お金とモノの流れを単純に考えてみると、イギリス東インド会社は徴税権を持ちインド人から税金を捕る。その税金でインド農民から原綿を買い付けると考えれば只で原料を手に入れて居る、若しくは奪って居るのと同じことです。
それを加工した製品をインド人に売ると云う事は、詰まり、奪った原料で作った製品を奪った相手に売り着けている訳で、富は一方的にイギリスに流れる事に為ります。イギリス側に取ってこれ程儲かる商売は無いし、インド側からみれば最大限搾り取られて居る訳です。
この後、イギリスはインド各地の地方政権を次々に支配下に置いて行きます。インド征服の為の大きな戦争としては、南インドのマイソール王国とのマイソール戦争(1767〜99)、マラータ同盟とのマラータ戦争(1775〜1818)、シク教国とのシク戦争(1845〜49)があります。シク戦争の勝利で、イギリスによるインド征服は事実上完了しました。
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イギリス東インド会社によるインド支配
イギリス東インド会社がインドを支配する様に為って、インドは重い負担に苦しむ様に為りました。先ず税負担があります。イギリス東インド会社の徴税額をみると 1765年ベンガル太守時代には82万ポンド1770年東インド会社時代に為ると234万ポンド 1790年には340万ポンドと増加し続けています。
別の資料によると、東インド会社による地租(土地税)収奪は、1771年から72年に掛けて234.2万ポンド。これを指数100とすると1821年から22年が1372.9万ポンドで指数589。1856年から57年が1531.8万ポンドで指数654。こちらでもドンドン税額が増えている。
税を増やすだけで無く東インド会社は、インド農民に高く売れる商品作物の栽培を強制します。綿布の染料に使う藍や麻薬アヘンの原料と為るケシ等です。小麦など食糧を作るべき畑で食糧を作れ無い。食糧生産量は落ちる。藍やケシを幾ら栽培しても腹の足しには為ら無い、この結果飢饉が激増します。インド大飢饉回数の表があります。
・18世紀 大飢饉3回 死者数不明
・1800〜25 大飢饉5回 死者100万人
・1826〜50 大飢饉2回 死者40万人
・1851〜75 大飢饉6回 死者500万人
・1876〜1900 大飢饉18回 死者1600万人
19世紀に2000万人以上が餓死しているのです。イギリスの支配によってインドは貧困に追い込まれたのです。
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インド大反乱
イギリス東インド会社はインドを支配する為の軍隊を持ちました。東インド会社軍と云います。全兵力23万8千人で兵力の内訳を詳しく見ると、その内イギリス兵、詰まりイギリス人の軍人の人数は3万8000人。残りの20万人がインド人傭兵です。このインド人傭兵のことをシパーヒー又はセポイと云います。
シパーヒーは上級カースト出身者が多く採用された様です。イギリス側はカースト制度を利用して効率好く支配する為に上級カースト出身者を採用したのでしょう。又、上級カーストの者に取って、例え支配者がイギリス人であっても自分達が支配者側の一員に為る事は抵抗感が少なかったのかも知れません。俺達は偉いのだからイギリス人が雇うのは当然、イギリス人と同じ支配者階級に為るのは当然と思って居たのかも知れません。
兎に角、この約20万のシパーヒーがイギリス東インド会社のインド支配の最終手段の暴力装置でした。シパーヒー達がイギリス東インド会社から離反すればイギリスの支配は不可能に為ります。イギリス東インド会社軍としては、シパーヒーを飼い慣らし手なずけて置かなければなら無いのですが、1857年シパーヒーの反乱が起こりました。
昔セポイの反乱 今はシパーヒーの反乱
原因は色々あるのですが、そのひとつがイギリス人のインドの伝統文化に対する無理解です。例えば、インドのバラモンなどの上級カーストにサティと云う風習がありました。インドでは人が死ぬと一般に火葬をするのですが、夫婦で夫が先に亡く為った場合に火葬をしている炎の中に未亡人が飛び込んで焼身自殺をすると云う慣行があった。これがサティです。
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夫の死を悲しんで自殺をするのは、貞淑な妻の鏡である素晴らしい行いであるとしてサティが奨励されていた。処が、この風習をイギリス人がみてビックリする訳です。自殺を奨励すると云うのは飛んでも無い訳です。しかも、夫が死んで妻が後を追うと云う時に皆さんは、お爺さんお婆さんの老夫婦を思い浮かべるかも知れませんが、イギリス人が見た夫婦は全然そんなのじゃ無かった。
50代60代のお金持ちのバラモン男性が年をとってから14歳15歳の花嫁を迎えると云う事が当時は普通にあった。だから60歳で死んだ夫を焼く炎の中に飛び込むのは未だ子供と言っても好い少女達なのです。これは酷いと思うよね、普通は。どう考えてもこんな少女が自ら死にたいと願っている訳が無い。「早く飛び込んで死なんかい」と云う親族一同の視線に晒されて死なざるを得無い様に精神的に追い込まれて行くと云うのが実際の在り様だったのでしょう。
そこで、イギリスは、野蛮極まり無いとしてサティ禁止令を出した。処が、サティはバラモン身分の者には自分達の身分にだけ許された美しい慣行です。(低位カーストではサティは行われていませんでした)それを一方的に野蛮と決め着けられてイギリスに反発する。
サティの風習を禁止すべきかどうかの判断は今は措きますが、こんな感じでイギリス人はインド人の様々な風俗習慣を野蛮と感じ見下す。インド人からすればイギリス人とは価値観は違うかも知れないがインドは3千年以上の歴史を持つ文明国です。一方的に野蛮人扱いされることに我慢出来ない。シパーヒー達も、様々な不満をイギリス人に対して持つ様に為るのです。
そういう中で、シク戦争が終了してインド征服が完了するとシパーヒーへの待遇が悪化しました。更に、ヒンドゥー教のタブーに係わる命令が出されシパーヒーの不満が高まりました。どんな命令かと云うと、ひとつはシパーヒーに対する海外派兵でもうひとつは新式銃の使用です。
バラモンなど上級カーストでは、インドの外に出ると身分が穢(けが)れると考えられて居たので、海外派兵に反発した。そして、新式銃と云うのが反乱の直接的な原因に為ります。この時代、銃は基本的に日本の戦国時代と同じで、鉄砲の先端から火薬と玉を入れて銃身底部に押し込める先込め銃でした。
東インド会社軍が採用しようとした新式銃はエンフィールド銃と云うのですが、これも先込め銃なんですが火薬と弾丸が一緒に筒状の油紙に包まれている。
それ迄は、弾を込める時に火薬は火薬入れから取り出し玉は玉で別の所から出して銃に込めて居た。エンフィールド銃は、この火薬と玉がセットに為って居るので一遍に取り出せる訳です。
弾薬包みを取り出して歯で噛み千切り包みから火薬を銃に流し込んだ後、油紙が着いたままで弾丸を落とし込むのです。で、この油紙の油に牛と豚の脂が使われて居ると云う噂が流れた。これがシパーヒー達の猛反発を呼びました。弾丸を込める時に油紙を噛み千切るから口に触れる。
牛はヒンドゥー教徒にとって神聖な動物で、その脂を口にすると云う事は絶対に出来なく身分が穢れてカーストから追放です。又、豚はイスラーム教では不浄の動物とされムスリムのシパーヒーもこれを口にする事を拒否しました。
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イギリス人の軍幹部は、牛と豚の脂は使っていないと否定しましたが、一旦広がった噂は消すことが出来なかった。それまでのイギリス側の姿勢に対する反感も手伝って、各地の部隊で不穏な雰囲気が高まって行きました。
シパーヒーへの家族からの手紙が急増したのを不審に思ったイギリス人の上官が手紙の中身をチェックすると「新式銃の火薬包みの使用を拒否せよ、拒否しなければカーストから追放する」と書かれてあったと云う。又ある基地で、シパーヒーが民間の作業員に水を分け与え様としたら、その作業員が「貴方は間も無く自分のカーストを失うから」と言って水を拒否したと伝えられて居ます。ヒンドゥー教のタブーを侵して所属カーストから追放されるとアウトカースト・不可触民にされてしまう。そんな最低の身分の者から水を貰えないと云う事ですね。
新式銃の導入に伴う噂が一般にも広がり、関心が持たれて居たことが窺われます。後、これはどう云う意味があるのか今も判ら無いのですが、反乱の直前インドの村から村へチャパティーがリレーされて行ったのをイギリス人が目撃して報告しています。
或る村から別の村へチャパティーが届けられる。するとその村では新たに数枚のチャパティーを焼いて、更に別の村に届けて行ったと云う。チャパティーは小麦粉を焼いたパンの様な食べ物です。このリレーにどんな意味があるのか、目撃したイギリス人には理解出来なかったが異様なものを感じて記録したのでしょう。
後から考えると何か反乱の合図だったのかも知れないと云う事です。同じ様に、東インド会社軍の部隊から部隊へと蓮の花がリレーされて居て、これも何かの合図だった可能性があります。
インド大反乱
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不穏な空気が広がる中で、1857年5月 シパーヒーが反乱を起こしました。切っ掛けは、メーラトと云う町にあった部隊での事件です。
この部隊で、新式銃を使った演習が行われたのですが、イギリス人上官の命令を拒否して、90名の兵士中85名が弾薬筒に触ろうとせず演習が不能に為った。軍隊に取って命令拒否は重い罪です。軍法会議の結果、問題の兵士達は、見せしめの為に他の兵士達が集合させられている前で、軍服を剥ぎ取られ足枷を嵌められて牢に入れられました。残りのシパーヒー達は、これに反発し翌日牢に入れられた仲間を救う為に蜂起し、反乱はメーラト以外の各地の基地に広がりました。
各地のシパーヒーが蜂起すると、東インド会社軍と関係の無い民衆も立ち上がり、インド全体が反乱状態と為りました。これをインド大反乱と言います。以前は、シパーヒーの反乱若しくはセポイの乱とも呼ばれて居ましたが、反乱に参加したのはシパーヒーだけでは無いので現在はインド大反乱と呼んでいます。
反乱にはイギリスに滅ぼされた地方政権、インドでは藩王国と呼びますが、この藩王国の旧支配者層など様々な勢力が加わりました。全インドの三分の二が反乱に参加したと言います。但し、各地の反乱軍は互いに連携する訳でも無く全体の指導部もありませんでした。
デリーを占領した反乱軍は、引退していたムガル帝国皇帝を反乱軍のトップとして擁立しました。彼はイギリス東インド会社から年金を受け取り名目だけのムガル皇帝として存在して居たのです。但し、彼は只の飾り物で何の指導力もありませんでした。
反乱勢力は統一した作戦や反乱成功後の共通目標も無かったのですが、不意を突かれたイギリス側は一時インドから撤退しました。しかし、やがて態勢を整えて反撃を開始しました。反乱に参加して居なかったシク教徒によるシク兵、イラン兵、ネパール人のグルカ兵を動員し9月にはデリーを反乱軍から奪還、以後は各地の反乱勢力を各個撃破して行きました。1859年までには完全に反乱を鎮圧しました。
徹底的な報復
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イギリスは、反乱を起こした者達に徹底的な報復を行いました。反乱側に着いた町や村の住民を虐殺したり、反乱軍の捕虜を大砲の砲身に括りつけて吹き飛ばしたり、牛や豚の血を無理矢理飲ませてから殺すなど、見せしめ的な処刑を行っています。プリントの挿絵の左側に描かれているのが大砲に括りつけられている捕虜です。右側で馬に乗っているのがイギリス人の指揮官ですね。
ラクシュミー・バーイー
結局、反乱は失敗した訳ですが、この反乱で活躍したインド人の武将達は、現在も民族のヒーローとして人気があります。一人だけ紹介して置くと、インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれているラクシュミー=バーイーと云う女性。彼女はジャーンシー藩王国と云う国の王妃でしたが、イギリスに国を奪われ、反乱が起きると女性ながらも兵士を率いてイギリス軍と戦いました。
養子にした幼い子供を背負って、馬に乗っている彼女の肖像画があります。最後には戦死するのですが、ゲリラ戦で粘り強く戦い続けた女性でした。
インドの大部分が参加した反乱だったのに、しかも、東インド会社軍の傭兵部隊シパーヒーまでが反乱側に足ったのに、何故、反乱は敗北したのでしょうか。
最大の理由は反乱側内部の不統一です。初めから反乱軍は烏合の衆で指導部もありませんでしたが、加えて地域間の対立やカースト間の対立によってインド人同士がひとつにまとまれませんでした。イギリス側は、この様なインド人同士の対立を巧妙に利用して行ったのです。同じインド人でありながら、シク教徒がイギリス側に着いているのがその好い例ですね。
大反乱
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その後のインド
反乱をほぼ鎮圧した1858年、イギリス本国政府は東インド会社を解散させ、インド全土を直接支配することにします。名目だけ続いていたムガル帝国も完全に滅亡させられます。
1877年には、インドにインド帝国を成立させました。一寸判り難いですが、イギリス政府がインドに新しい国を作ったと云う事です。その国の名前がインド帝国と云う。そして、インド帝国の皇帝に即位したのがイギリス国王のヴィクトリア。だから、この時点からヴィクトリアはイギリス国王兼インド皇帝と云う事ですね。但し、ヴィクトリア女王はインドに行ったりしません、ずっとイギリスです。
イギリスのエリート貴族達が、インド帝国の高級行政官としてインドに赴任してインド人の役人を指揮しながらインドを支配する訳です。インド帝国はイギリスの完全な植民地です。
イギリスのインド支配は巧妙で、インドが団結してイギリスに抵抗し無い様分割統治を行いました。インド帝国はイギリスの直轄領と550以上の藩王国から構成されていて、藩王国は外交権は無いし、イギリスの監視付きではありますがマハラジャと呼ばれる藩王の自治が認められていた。
マハラジャからすれば、無理してイギリスに抵抗せずこのままマハラジャの地位を認めて貰った方が安泰です。旧勢力を温存し旧支配者層の抵抗を薄めながら支配したのです。このインド帝国は第二次大戦後の1947年まで続きました。
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参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
インド大反乱一八五七年 (中公新書 606) (第100回関連)長崎暢子著。中公新書。講義で紹介したチャパティのリレーの話はこの本で読みました。インド大反乱に関する最も手頃な入門書だったのに、今は、絶版になって居る様でビックリしました。大抵の図書館にはあると思うので、インド大反乱を詳しく知りたい人には一読を勧めます。
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