2018年09月23日
一緒に学ぼう世界史のポイント 95 《オスマン・イラク・中央アジア》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 95 《オスマン・イラク・中央アジア》
今回はマウンテンバイク特集!!
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オスマン・イラク・中央アジア
オスマン帝国の改革
マフムト2世
前回述べたように、オスマン帝国は 世紀後半以降北西のオーストリアや北のロシアから徐々に領土を奪われ、各地で在地勢力が自立化しそれに対して有効な手だてが打てませんからジリ貧です。改革の必要性は統治者であるオスマン朝の上層部も判って居ました。
1826年には、皇帝マフムト2世によりイエニチェリが廃止されます。1839年には、アブデュル=メジト1世がギュルハネ勅令を発布しタンジマートの開始を発令しました。
アブデュルメジト1世
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タンジマートとは西欧化の為の改革のことで、皇帝による上からの改革なので「恩恵改革」と訳されています。行政、法制度、教育などあらゆる分野で西欧化が進められました。改革は「イスラム・非イスラムを問わず全臣民の法の前の平等」を唄って居たのですからその発想はかなり進歩的ですね。
但し、オスマン帝国の隅々まで改革が実現されていた訳では無く、又、独立を求めるバルカン半島の諸民族に取ってはタンジマートは満足出来るゴールではありませんでした。
西欧化を進めれば必然的に西欧の論理に従わざるを得無く為ります。クリミア戦争で英仏の援助を受けて勝利したオスマン帝国は、その英仏の要請で非ムスリムの政治的権利の尊重を約束します。又、外債受け入れ(英仏から借金をすること)て鉄道建設、イギリス資本によるオスマン銀行設立などの事業を進めることに為りました。
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1838年のトルコ=イギリス通商条約以来、ヨーロッパの工業製品の輸入が急増し国内の産業が衰退した結果オスマン帝国の財政は逼迫して居たのです。そこに、借金や鉄道建設を行った為、1875年に国家財政は破綻してしまいました。
結局、タンジマートは西欧諸国が経済進出し易い様に制度を整備し、その結果西欧諸国に食い物にされてしまったと云う結果を招いたのです。
ミドハト/ミドハト=パシャ
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経済的には植民地化して行ったオスマン帝国ですが、教育の西欧化などで新しい考え方を身に着けた改革派の官僚や軍人が育ち更なる制度改革が始まります。それが1876年に発布されたミドハト憲法です。
立憲君主制を定めたこの憲法は、改革派の宰相ミドハト=パシャが、新皇帝アブデュル=ハミト2世を擁立して発布したものでアジア初の憲法制定です。この憲法に乗っ取って国会も開設されました。
しかし、翌1877年に露土戦争が始まると、皇帝アブデュル=ハミト2世は戦争を理由に憲法を停止し、国会を解散しミドハト=パシャを国外追放します。こうして、アブデュル=ハミト2世は専制政治を復活させました。
新皇帝アブデュル=ハミト2世
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しかし、この後も官僚や軍人の中に専制政治に反対し立憲政治復活を目指す「青年トルコ」と呼ばれるグループが作られ立憲革命のチャンスを伺い続けて行きます。
先走って云うとオスマン帝国では、西欧化=立憲政治を目指す勢力と専制政治を維持しようとする勢力のせめぎ合いがこの後続き、第一次大戦後に西欧化勢力が政権を握り現在のトルコ共和国が成立します。
他のイスラム諸国と違い、オスマン帝国=トルコでこれだけ早い時期から西欧化の試みが続いたのは、ロシアやオーストリアと国境を接して居た事が大きいでしょう。特に、オスマン帝国はロシアに負け続け領土をドンドン削られ続けて居る。戦争に勝つ為には西欧化しか無いというのが軍人達の実感ではないでしょうか。
青年トルコ人革命
青年トルコでは、軍人たちがその中心メンバーに為って居ますし、第一次大戦後トルコ共和国を建国したケマル=パシャも軍人です。現在のトルコでも、イスラム政党が力を着けてくるとこれに対抗して政治の世俗主義(非イスラム)を守ろうとするのは軍部です。軍人は一般的に保守的・反動的と思われ勝ちですが、トルコでは必ずしも簡単に割り切れ無いです。
ケマル・パシャ
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イラン
オスマン帝国の東に接するイラン高原は、どう為って居たのでしょうか。一寸、復習がてら古代からイラン(ペルシア)について確認して置きましょう。
最初に登場するのがアケメネス朝ペルシア。BC550年からBC330年までオリエント地方を大統一しました。ギリシアに侵攻したペルシア戦争が有名でしたね。
アレクサンドロス大王に滅ぼされ一旦はギリシア人の支配下に入りますが、BC248年から226年までは、パルチアが成立 これはペルシア人の国でした。西のローマ帝国と対立していました。パルチアが滅ぶと今度はササン朝ペルシアが成立(226〜651)ゾロアスター教を国教にしました。この王朝で作られた美術工芸品がシルクロードを通って日本にもたらされ現在も正倉院に残されています。
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ササン朝は、イスラム教を奉じるアラブ人によって滅ぼされ、以後、この地域はイスラム化すると同時にペルシア人では無い異民族によって支配されます。ウマイヤ朝、アッバース朝⇒イル=ハン国⇒ティムール帝国などです。他民族の支配下に入るものの、高い文化と伝統を持つペルシア人からは有能な人材が多く出て、各王朝で官僚として活躍し宰相に為ったりしています。
1501年 サファヴィー朝が成立します。ササン朝以来のイラン民族王朝の復活です。サファヴィー朝はシーア派を国教にして、西のオスマン帝国と対抗します。サファヴィー朝の支配の下でイラン人の民族意識が芽生えたと言われています。
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サファヴィー朝が衰えた後、18世紀末にイランを支配したのがトルコ系の王朝カージャール朝です。イラン人の多くはシーア派ですが、カージャール朝の支配者はスンナ派です。
カージャール朝は南下政策を採るロシアに圧迫され1828年、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をロシアと結び、アルメニア地方をロシアに割譲し治外法権を認めました。1841年にはイギリスとも不平等条約を結び、以後、北のロシアや南のイギリスに徐々に従属して行きました。
植民地化に抵抗するイラン人の運動として、1848年から50年に掛けて起きたバーブ教徒の乱が有名です。バーブ教はイスラム・シーア派から派生した新興宗教で、ヨーロッパ人に従属する中で混乱を続ける社会を改革し理想社会を作る為反乱を起こしました。
創始者バーブは、政府に逮捕され1850年に処刑されました。その後も、バーブ教は反政府運動を続けますが、激しい弾圧でやがて勢力を失って行きました。
不平等条約で庶民生活が困窮する中で、民族主義や外国人排斥、政治改革を訴える新興宗教が勢力を拡大して反乱を起こすというパターンはバーブ教の反乱だけではありません。後で触れる中国の太平天国の乱や、朝鮮の東学党の乱(甲午農民戦争)と同一のパターンです。西欧諸国から圧迫を受けたアジア民族の典型的な反応です。
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イラン政府(カージャール朝)は、この後も様々な利権をイギリスなどに与えて行きます。1891年に起きたタバコ=ボイコット運動は、政府がイギリスにタバコの製造販売の利権を与えた事に抗議して起こった国民的大衆運動です。
ウラマーと呼ばれる宗教指導者達が先頭に立って民衆を組織し、反政府・反英運動を繰り広げ利権を無くさせることに成功しました。イランでは、宗教指導者が強い影響力を持っていて、今から約30年前にもホメイニ師と云う宗教指導者の下革命が成功して国王を追放したのが1978年のイラン革命です。
皆さんが生まれる前のことですが、私などには非常に印象的な事件でした。現在のイランも大統領が居ますが、宗教指導者の支持が無いと権力を維持出来ない様です。
1906年には専制政治に反対してイラン立憲革命が成功し、議会が開設されますが、ロシアの圧迫によって議会は閉鎖されました。ロシアやイギリスに取っては弱体化したカージャール朝による専制政治の方が、コントロールし易く都合が良かったのです。この後1925年までカージャール朝は続きました。
アフガニスタン・中央アジア
アフマド=シャー=ドゥッラニー
アフガニスタンには、パシュトゥーン人を初めとする多くの民族が住み、ひとつの国としてまとまるように為ったのは18世紀の半ばです。1747年 パシュトゥーン人のアフマド=シャー=ドゥッラニーと云う軍人がイランから独立してドゥッラニー朝を建てたのが現在のアフガニスタンの始まりです。
このアフガニスタンの北の中央アジアでは、ロシアが勢力を伸ばし領土を拡大して居ました。アフガニスタンの南東インドを支配したイギリスは、ロシア勢力の南下を阻止する為アフガニスタンを勢力範囲にしようと考え、19世紀以降インドからアフガニスタンに侵入し、イギリス・アフガニスタン戦争を起こしました。
イギリス・アフガニスタン戦争
処が、現在でも大国の支配をナカナカ受けつけ無いアフガニスタンです。イギリス軍は、地方に強い影響力を持つ部族勢力のゲリラ活動に悩まされアフガニスタンを完全に支配することは出来ませんでした。1879年にどうにかアフガニスタンの外交権を獲得し、間接的にロシアの南下を抑えることに為りました。
アフガニスタンの北からアラル海に掛けての中央アジアの地域には、トルコ系のウズベク人がブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を建てて居ました。これらは、1860年代から70年代に掛けてロシアの保護国になるか滅ぼされるかして行きました。
アフガーニー
ジャマールッディーン・アフガー二ー
今まで見て来た様に、北アフリカから西アジア、中央アジアのイスラム諸地域は、西欧諸国の植民地もしくは半植民地の地位に落ち込んで行くのですが、この様な状況に危機感を覚え反西欧の主張を掲げてイスラムの連帯と改革を訴えた人物がアフガーニー(1838〜97)です。
反イギリス、反帝国主義の運動をする為にイスラム世界の各地を旅してイスラムの連帯を訴えました。アフガニスタンからイラン各地、イスタンブール、カイロ、更にロンドン、パリ、モスクワ等世界各地を訪れ、出版物を出したり政治結社を作ったり西欧に抵抗する為のネットワーク造りを行いました。エジプトのウラービー=パシャの革命運動や、イランのタバコ=ボイコットに大きな影響を与えたと言われています。
以前は、教科書には載っていなかった人物ですが、現代、イスラム社会に焦点が当たり、研究が進む中で、最も早く西欧と対抗してパン=イスラム主義を唱えた人物として注目されて居ます。
参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
ヨーロッパ史や中国史のように、人物伝や小説などで物語的な馴染みがあると歴史書を読んでも理解しやすいのだが、いかんせんイスラム史は(特に近代)は取っ付き難い。この本もそうなのですが、それは、本の責任では無い。敬遠せずに、確り読み込んで行く事が勉強だし、そこから徐々に面白さが判って来るというものです。
オスマン・イラク・中央アジア おわり 次のページへ 《イギリスのインド支配》
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楽しいサイクリング動画
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